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 モグベエにさようなら−1  

 それはとても暑い夏でした。幼稚園が夏休みになったマーくんは、今日もおじいちゃん
と一緒に畑仕事です。もう三週闇以上も雨が降っていないので、畑の野菜たちは元気が無
く、今にも枯れてしまいそうでした。マーくんとおじいちゃんは、毎日野菜たちに水をあ
げているのです。
 おじいちゃんは大きなポリタンクに水を入れ、猫車に乗せて畑まで運んで行きます。猫
車と言うのは荷物を運ぶ一輪車のことですが、猫のようにどんな狭い道でも通れるため、
『猫車』と言う名前がついたようです。 
 畑に着くとおじいちゃんは猫車を止め、ポリタンクを降ろして水をじょうろに入れ替え
ます。ポリタンクのままでは重くて疲れるし、水の勢いがとても強いので、芽を出したば
かりの小さな野菜は流されてしまうこともあるのです。じょうろに入れ替えてから水をあ
げれば、その心配はありません。
 マーくんも小さなじょうろを持って行き、おじいちゃんのお手伝いです。それほど広く
はない畑ですが、全部の野菜に水をあげるのはなかなか大変な作業です。でもマーくんに
とってはつらいどころか、とっても楽しい仕事でした。だってマーくんが水をあげると、
野菜たちは見違えるように元気になるからです。
 猫車ではポリタンクを三個運ぶことが出来ますが、それだけでは畑の野菜全部に水をあ
げることは出来ません。ポリタンクが空っぼになると、おじいちゃんは家に戻ってまた水
を入れてきます。その時おじいちゃんは、最後に残った水をマーくんのじょうろに入れて
から帰ります。そうすればおじいちゃんがいない間にも、畑に残ったマーくんは野菜に水
をあげることが出来るからです。
 マーくんは野菜に水をあげるとき、自分の好きな野菜から始めます。最初は今年初めて
植えた一株だけの小玉スイカ、次はトマト、その次はキュウリです。キュウリの次はナス
ですが、ナスにあげたことはほとんどありません。たいていの場合、おじいちゃんが先に
済ませているからです。
 おじいちゃんは間もなく八十才になります。若い頃から野良仕事をしてきたえた体です
が、さすがに最近では疲れを隠せないようです。それでもマーくんと同じように、畑仕事
が楽しくて仕方無いのです。昔は沢山あった水田は、今では一つも残っていません。同じ
ように沢山あった畑も、残っているのはこの小さな畑だけです。でもおじいちゃんは、生
まれてからずっとこの畑を耕してきました。だからおじいちゃんにとっては友達のような
畑だし、生きがいにもなっているのです。
 真夏の太陽はじりじり照りつけるので、野菜に水をあげるのはタ方になってからです。
その日もいつものように、涼しくなってから畑に行きました。おじいちゃんは水汲みのた
めに家に戻り、マーくんはトマトが終わってキュウリに水をあげていました。やがてじょ
うろの水も無くなり、一休みしようと思って歩き始めたときのことです。キュウリの隣に
はネギを植えてあるのですが、そのうねの所で何やら動いているものがいました。
 マーくんは何だろうと思って、立ち止まってじっと見つめました。動物であることは間
違いないのですが、それはマーくんが今までに見たことのない動物でした。ネズミよりも
ずんぐりとした感じで、それほどすばしっこいようには見えません。
 マーくんはもっと良く見ようと思って、すぐそばまで近寄って行きました。その小さな
動物はマーくんには気が付かないのか、逃げ出す様子は全く見られません。盛んに手足を
動かしているのですが、歩くのはあまり得意ではないようです。そして不思議なことに、
いくら探してもその動物には目が見つかりませんでした。
 マーくんは不思議な動物を見つめたまま、どこから来たどんな動物なのか、じっと考え
込んでしまいました。
「どうしたんだね?」
 後ろの方でおじいちゃんの声がしました。新しい水を運んできたおじいちゃんは、畑の
中でしゃがみ込んでいるマーくんを見付け、心配して声をかけたのです。
「あのね、変なものがいるんだ」
 マーくんは夢中になって小さな動物を見ていましたが、おじいちゃんの声を聞くと、後
ろを振り向いて答えました。
『変なもの?はて何だろう・・・』
 おじいちゃんはちょっと首をひねって考えましたが、猫車をその場に止めると、急いで
マーくんの所へ歩いていきました。
「ほら、これだよこれっ」
 マーくんはおじいちゃんが来るのを待ち切れないように、目の前の不思議な動物を指さ
して言いました。
「なあんだ、モグラじゃないか」
 おじいちゃんは一目見ただけであっさりと言いましたが、マーくんはけげんそうな顔を
しています。
「これ、モグラなの?」
 マーくんだってモグラの名前は知っていました。でも、モグラたたきゲームや絵本で見
たモグラは、ちゃんと目があるか、サングラスをかけていました。サングラスをかけたモ
グラにしたって、その下には目があると思っていたのです。それなのにこの小さな動物に
は、いくら探しても目がありません。
「これ、モグラなの?」
「そうさ、マーくんはモグラを見るのは初めてだったかな?おじいちゃんだって、モグラ
を見るのは久し振りだからなあ」
 おじいちゃんはそう言ってマーくんの隣に腰を下ろし、モグラを持ち上げて手の平に乗
せました。モグラはおじいちゃんの手の上でもぞもぞと手足を動かしていますが、暴れる
様子は無いようです。
「本当にこれがモグラなの?」
 マーくんは真剣な顔をして、確かめるようにもう一度聞きました。
「はっはっは、どうやらマーくんの思っていたモグラとは違っていたようだね」
 おじいちゃんはマーくんの顔付きを見て笑いながら、モグラについて色々なことを話し
てくれました。
「モグラはね、いつも土の中に住んでいるから目が退化してしまったんだ。ほら、これが
目のあった名残さ」
 おじいちゃんが指さした所を良く見ると、なるほど目のようなものがありますが、目に
してはおかしな感じです。
「このモグラは目をつむっているの?」
「いや、いつもこのままさ。土の中では光が無いから、目があっても役に立たないのさ。
そのかわり、この鼻が大切なんだよ」
 おじいちゃんはそう言って、モグラの鼻をちょこんとたたきました。モグラは長い鼻を
ピクピクさせています。どうやらその長い鼻で、周囲の様子を探っているようです。
「土の中では目よりも鼻の方が大切なんだよ。それにこの手を見てごらん、この手と鼻で
トンネルを掘るんだよ」
 おじいちゃんに言われてよく見ると、その手は体の割りには大きく、ロボットのように
頑丈な感じがしました。
「いつもトンネルを掘っているの?」
「そうでも無いようだよ。掘ったトンネルが崩れなければ、その中を移動することができ
るからね」
 おじいちゃんはとても物知りで、色々なことを知っています。
「モグラはいつも土の中にいるの?」
「だいたいそうだね。滅多に地上には出てこないようだよ。だからおじいちゃんだって、
モグラを見るのは久し振りなのさ」
 おじいちゃんはそう言いながら、マーくんにモグラを手渡しました。小さく見えたモグ
ラですが、マーくんの小さな手の上に乗ると、案外大きく見えるものです。マーくんは動
物が好きなので、初めて見るモグラでも怖がることはありませんでした。
「ねえ、モグラくん。君はどうして地上に出てきたの?」
 マーくんはモグラをのぞき込むようにしながら話しかけました。
「・・・・・」
 モグラは鼻をマーくんに向けながら、何か話しているような感じでした。でもマーくん
にはモグラの言葉は分かりません。
「のどがかわいたのかもしれないな」
 おじいちゃんはマーくんを見守りながら、モグラの代わりに答えました。
「もう長いこと雨が降っていないからなあ。土の中にあるモグラの住みかでも土が乾いて
しまい、水不足なのかもしれないよ」
「ふーん、君は水が欲しいのかい」
 マーくんはモグラを目の高さまで持ち上げ、心配そうな顔をしてたずねました。マーく
んの言葉が分かったのか、ピクピクしていたモグラの鼻の動きは、前よりも一段とはげし
くなりました。
「ほら、この中に入れてごらん」
 おじいちゃんは、自分のじょうろに水を少しだけ入れて持って来ました。マーくんはモ
グラを乗せたままじょうろの中に手を入れ、底においてそっと手を離しました。
「うまく飲めるかなあ」
 マーくんは心配そうに上からのぞき込みました。モグラは鼻をピクピクさせて、水のに
おいをかいでいるようです。
「ねえ、水飲んでるのかなあ」
 マーくんは心配になって、おじいちゃんを見上げて言いました。
「うーん、どれどれ」
 おじいちゃんは、マーくんに代わってじょうろの中をのぞき込みました。
「はっはっは、大丈夫。ちゃんと飲んでるみたいだよ」
 おじいちゃんは顔を上げると、マーくんに向かって言いました。
「このモグラ、どこで見付けたんだい」
 マーくんはそのままの姿勢で、足元を指さして答えました。
「ここでだよ」
「へーえ、ここでねえ」
 おじいちゃんは立ち上がり、辺りをぐるりと見回しました。
「うーん、モグラが出てきたような穴は見えないなあ」
 おじいちゃんはネギのうねに注意を払いながら、畑の端の方へ歩いて行きました。
「ここかな?」
 おじいちゃんが何か見付けたようです。
「多分ここから地上に出て、そこまで歩いて行ったんだろう」
 マーくんもおじいちゃんの所へ行き、こんもりと盛り上がった地面を見ました。土が乾
いているせいか、出口らしい穴は半分崩れてしまったようです。
「モグラは歩くの下手なんだね」
 マーくんはモグラを見付けたときのことを思い出しました。
「そうだよ、トンネル掘りは得意だけどね。地上を歩くのは苦手だから、うっかり出て来
ると猫などに捕まってしまうのさ」
「モグラは飼えないの?」
 マーくんは初めて見たモグラを、すっかり気に入ってしまったのです。
「うーん、ちょっと無理だろうなあ。何しろ住んでる世界が違うからね。おじいちゃんも
モグラの飼い方は知らないよ」
「ふーん、そっかあ」
 マーくんはちょっと残念そうでした。でもおじいちゃんにも無理なのだから、マーくん
には飼えるはずもありません。
「そんなにがっかりすることは無いさ。またここで会えるかも知れないよ」
 おじいちゃんはそう言って、モグラが水を飲んでいるじょうろの所へ行きました。そし
てじょうろの中をのぞき込み、マーくんに向かって言いました。
「どうやら満腹になったようだ」
 おじいちゃんは片手を入れてモグラをつかみ出し、マーくんの所へ連れてきました。モ
グラは前と同じように鼻をピクピクさせていますが、さっきよりも元気になったような感
じがします。
「さあ、家に帰してやろうか」
「帰しちゃうの?」
 マーくんはちょっぴり不満そうでした。
「そうさ、モグラだって自分の家が一番好きなんだよ」
 おじいちゃんはモグラをマーくんに手渡し、猫車の方へ歩いて行きました。
「君はおうちへ帰りたいのかい?」
 マーくんはモグラの頭をなでながら話しかけました。もっと一緒にいたかったので、別
れるのはいやだったのです。
「さあ、ちょっと離れてて」
 おじいちゃんは水の入ったじょうろを持ってきて、モグラが出てきた穴の辺り一帯に水
をまきました。
「こうやっておけば、モグラも帰りやすくなるだろうからね」
 からからに乾いて白っぽくなっていた地面は、水を吸って見る見るうちに色が変わって
いきました。
「さあ、モグラをここへ置いてごらん」
 マーくんはモグラを手に乗せたまま、ぬれた地面を見て何か考えています。
「心配無いよ。また会えるんだから」
 おじいちゃんはマーくんを促しました。マーくんはさびしそうな顔付きでしたが、急に
ニコニコしながら言いました。
「あのね、ぼく名前考えたんだ」
「名前?モグラのかい」
「そうだよ。モグラだから『モグベエ』って付けたんだ」
 マーくんは得意そうに言いましたが、おじいちゃんは首をかしげて答えました。
「モグベエ・・・ねえ」
 どうやらおじいちゃんは、この名前には不満なようです。マーくんはおじいちゃんの顔
を見て、どうして賛成してくれないんだろう、と思いました。でもすぐに、おじいちゃん
の名前が『もくべえ』だったことを思い出しました。自分に似た名前なので、おじいちゃ
んは不満だったのに違いありません。
「ううん、ほかの名前も考えたんだよ」
 マーくんはおじいちゃんに悪かったかなあと思い、あわてて言いました。
「はっはっは、モグベエでいいよ。モグラだからモグベエか」
 おじいちゃんは笑いながら言いました。
「本当にモグベエでいいの?」
 マーくんはちょっと心配そうに、もう一度おじいちゃんに聞きました。
「もちろんさ。ほら、モグベエが早く帰りたいと言ってるぞ」
 おじいちゃんは本当に気にしていない様子だったので、マーくんは安心しました。そし
てモグベエを地面に降ろす前に、モグベエを顔の前に持って来て話しかけました。
「さあ、君の名前は今日からモグベエだよ、分かったかい」
 モグベエは鼻をマーくんの方に向け、またピクピクさせました。
「そっか、分かったんだね、モグベエ」
 マーくんはもう一度モグベェに話しかけ、地面に降ろしました。モグベエは湿り気を含
んだ地面に鼻を近付け、何かを探しているかのように鼻を動かしました。モグベエが出て
きた穴は崩れてしまったので、また掘り直さなければ家には帰れません。
「モグベエ、ちゃんと帰れるかなあ」
 マーくんはちょっと心配になりました。
「心配いらないよ。人間がいれば野良猫も近付かないし、そのうち穴を掘って帰っていく
さ。さあ、残りの仕事を始めるぞ」
 おじいちゃんはじょうろを持って猫車の所へ行き、水を入れて再び仕事を始めました。
マーくんも自分のじょうろに水を入れてもらい、キュウリの所へ行きました。
 おじいちゃんは仕事をしながら考えました。さっきマーくんが『モグベエ』と言ったと
き、どこかで聞いたような名前だとは思いましたが、すぐに自分の名前に似ているとは気
が付かなかったのです。だってマーくんはいつも『おじいちゃん』と呼んでいるし、マー
くんのお母さんも『おじいちゃん』と呼んでいます。そればかりか、近所の若い奥さんや
郵便屋さんだって、みんな『おじいちゃん』と呼んでいるのですから。
 近所に住んでいたお年寄りもいなくなり、おじいちゃんを『もくべえさん』と呼んでく
れる人は誰もいないのです。もう何年も『もくべえさん』と呼ばれたことが無いので、つ
いうっかりして忘れてしまったのです。だから『モグベエ』の名前を聞いたとき、どこで
その名前を聞いたのか、真剣に思い出そうとしていたのです。マーくんはそんなことは知
らないので、おじいちゃんの顔を見て、不満なのかなあと思ったのでした。
 やがて全部の仕事が終わったマーくんとおじいちゃんは、モグベエを放した所にやって
きました。そこにはモグベエの姿は無く、新しく盛り上がった土がありました。
「モグベエは帰ったんだね」
 先に着いたマーくんは、うれしそうな顔でおじいちゃんにたずねました。
「ああ、そうだよ。もう心配無いさ」
 おじいちゃんもうれしそうでした。
「明日も会えるかなあ」
「そうだなあ、名前を呼んだら出て来るかもしれないよ」
 おじいちゃんはそう答えましたが、本当はモグベエが出てくるという確信なんてありま
せんでした。でもマーくんをがっかりさせたく無かったので、自然にそう答えてしまった
のです。
「さあ、今日は帰ろう。明日も水を運んでくれば、モグベエもきっと出てくるさ」
「うん」
 マーくんは半分は納得し、半分は心配そうな顔をして、おじいちゃんと一緒に家に向か
いました。

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