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夏から秋へと季節は進み、九月の半ばにロビンとセーラが結婚した。
『あまり派手な式はしたくないんだ。本当に祝福してほしい人たちだけに、集まってほしいんだよ。もちろん、みんなも。でも……僕なんかじゃマスコミも注目しないだろうけれど、みんなが来ると、マスコミとかファンが来ちゃう可能性もあるよね。それは嫌だな。でも、みんなには絶対に来てほしいんだ』
再開ツアー中に挙式予定を聞いた時、ロビンはそう答えていた。その日にちはロンドンへ最終公演に行く前の短いオフの間に、スタンフォード家とセーラの家の人々とも協議したようで、ロンドンへ行く飛行機の中で知らされていた。家族同伴でなく、僕単独で来てほしい、とも。同じようにエアリィやミックにも『家族は同伴しなくていいよ』と告げていた。ジョージは身内だから、また別だが。
場所は彼の実家の教区にあるプロテスタント教会で、僕も七〜八年前まで通っていたところだ。もっとも僕らにはかの宗教否定騒動があったから、教会がすんなり頼みをきいてくれるかという懸念も、多少あった。でもこの教区はスタンフォード家が絶大な権限をもっているので、牧師さんも頼みを断れなかったらしい。しかし、正式に来た式の招待状を見て、僕は目を疑った。式の開始時間は午前七時だ。朝食は式後のパーティで出るそうだから、家で済ませなくともよさそうだが、今僕はかなり郊外に住んでいるので、これに間に合うように行くには、五時半には起きなければならない。朝早ければ、余計なギャラリーは来ないだろうとの読みなのだろうが、こんな早起きは初めてだ。
式に集まったのはロビンとセーラ双方の親族――スタンフォード家の方は、バーナード翁をはじめ両親、長兄ブライアンの一家、ジョージの一家、伯父伯母一家と大勢いたが、セーラの方は両親と母方の伯父、彼女のトロントでの下宿先である、父方の叔母一家だけだった。セーラは一人娘で、伯父は独身のため、従姉弟も叔母の子供二人だけだという。そして彼女の親友三人。二人は保育学校の友達で、もう一人はハミルトンにいた頃からの友達――この人がセーラを心配して、僕らの曲を送った人だそうだ。それに、バンドのメンバー。ジョージは親族側なので、エアリィとミックと僕、ロブ夫妻、それにロビン専属の二人のスタッフ、チームRの、ベーステクとセキュリティだけだった。ベストマンも付き添い娘もいなかった。
ロビンがタキシードを着るのは、僕の結婚式以来だ。あの時にはベストマンだったので銀ねず色だったが、今は花婿として白いタキシードを着ている。髪は肩に垂らしたままだが、やっぱりこの方がロビンらしい。彼は頬を紅潮させ、ひどく緊張しているように見えた。セーラは純白のウェディングドレスを着ていた。オーガンジーで、緩やかなストレートライン、スタンドカラーの襟元にパールのネックレスを飾り、七部袖だがほとんど膨らみはなく、飾りらしい飾りも付いていない。それが純白と相まって、清楚なイメージだった。茶色の髪を後ろに引きまとめて結び、後れ毛の間から見え隠れする耳には、小さなトルコ石のイヤリングをつけていた。その上からシフォンのベール――純白で、同じようにあっさりとした、小さなヘッドドレスのついたベールをかぶっている。頬を染め、瞳を輝かせたその表情は、清らかで初々しい花嫁そのものだ。
九月の朝の光の中、二人は結婚し、その後花嫁花婿を囲んで、教会から徒歩五分ほどの距離にあるロビンの実家まで、全員で歩いて行った。通りには、他には誰もいなかった。あとでわかったことだが、この道はこの時間スタンフォード家の守衛さんたちが張り番に立ち、一般の人たちが通れないようにしていたらしい。
ウォールナット・フィールドの広い庭の芝生には、真っ白なクロスをかけた丸いテーブルが七つと、背もたれのついた白い洒落た丸イスが、ひとテーブルについて八客並べられ、小さな銀色の縁取りがついた名札がおいてある。それぞれのテーブルの上には、ガラスの水盤にいけたバラやランの花が飾られていた。横の方には長い白テーブルがあり、コックさんたちが五人並んで、出来立ての朝食を提供していた。モーニングステーキ、ソーセージ、オムレツ、オートミール、新鮮な果物のフルーツパンチ、ヨーグルト、シリアル、パン。絞りたてのフレッシュジュースと、コーヒー、紅茶。スタンフォード家にふさわしく、食器はヨーロッパ製の高価な陶器を使い、食材もすべて最上級だという。
普段よりもかなり早く起きたため、少し寝不足であまり食欲はないが、おいしそうな匂いにつられ、僕は朝食をお盆にとり、名札が置かれた席についた。ここはバンド関係者席なのだろう。エアリィ、ミック、ロブ、レオナ、ベーステクのアルバートと専属セキュリティのトーマス・シングルトン、それに僕の七人だが、空いた一つの椅子に「俺は親族席より、こっちのほうが落ち着く」と、ジョージが時々家族から離れ、座りにきていた。スタンフォード家の親戚たちも、トレント家の家族親族友人たちも、同じように朝食をトレーの上に取り、席について、回りの人たちと話しながら食べている。そういえばジョージとパメラの結婚披露も、やはりこんな感じだったな、と僕は思い出した。彼らは僕らがデビュー直前の十月初めに式を挙げ、やはりこの庭でパーティが行われた。僕らバンドのメンバーもみな出席した。あちらは午餐会で、出席者はこの倍くらいいたが。
食事が半分ほど進んだ頃、僕らのテーブルまでスタンフォード夫妻が来て、
「みんなには本当にお世話になって、感謝しているよ」
「本当に、いつもありがとうね」と、言葉をかけてきた。
「でもこの進路で良かったと言えるのかどうか、みなさん的にはわからないと思いますが……」と、僕は思わずそう返した。すると、あとから来たバーナード翁が、笑みを浮かべて、僕たちに言ってきた。
「いや、あの小さなロビンに心から満足できる居場所を作ってくれた君たちには、本当に感謝しているんだよ。おかげであの子は幸せになれた。可愛い嫁さんも見つかったしな」
翁は笑った。スタンフォード夫妻も、その言葉に笑顔で頷いている。
「それに、君たちのマーチャンダイズ・ビジネスに関わらせてもらったしな。あれも、なかなか好調なんだよ」
バーナード翁は、そうも付け足した。そういえば、サードアルバムの発売時から、バンドのマーチャンダイズ関連の製造流通をお願いしているから――『どうせなら、質良く低コストのほうが良くないか? うちはそういうの得意だから、頼んでみようぜ。関わらないとは言ったが、ビジネスチャンスは別だろう』とジョージが提案し、父親のロバート氏が快諾してくれたのだ。ファンベースが拡大するにつれ、マーチャンダイズ市場もかなりの規模になったので、結果的に双方にとって大正解だったのは間違いない。そうすると、スタンフォードグループとも、完全に無関係というわけではないのか。
途中、セーラの友人たち三人に彼女の従妹も加わった四人が、顔を赤くしながら僕らのテーブルにおずおずと来て、「すみません、プライベートなのに。でも……わたしたちと一緒に写真をとってくださいませんか」と声をかけてきた。僕たちは「いいよ」と頷き、一緒に写真をとった後、彼女たちが持ってきた色紙にサインもした。
みなが朝食を食べ終わった頃、ロビンは一生で一度のことをした。花嫁を伴って、自分から来客たち一人一人の所へ赴き、挨拶をして、二言三言言葉を交わしたのだ。最後に僕らのテーブルへ来た時、彼は明らかに感激しきったような顔で僕ら一人一人を見、口を開いた。
「ありがとう、みんな。色々と親身になってくれて、祝福してくれてありがとう。それに、こんな朝早くに来てくれて、本当に嬉しいよ」
「まったく、こんな早起きは初めてだぞ」
僕は肩をポンと叩きながら笑った。
「でも、よかったな。おめでとう。奥さんを大切にして、幸せに暮らせよ」
「ロビンって絶対、言われなくても奥さん大切にするんじゃない?」
エアリィはちょっと笑って言い、
「まあ、それはそうだな」僕は肩をすくめた。
それをにこにこ聞いていたロビンが、突然こんなことを言いだした。
「ねえ、エアリィ、ジャスティン、お願いがあるんだ。図々しい頼みだけれど、君たちならきっと、きいてくれると思うんだよ。僕たちに、お祝いをしてほしいんだ」
「えっ? お祝い、まだ届いてないか?」
僕は少しきょとんとしながら、聞き返した。エアリィも少し驚いたような顔で見ている。結婚式のプレゼントはささやかながら、もうみんな贈っていたのだ。
「そうじゃないんだ。プレゼントはもらったよ。ありがとう、二人とも。大事に使わせてもらうよ、本当に。みんなが祝ってくれているのは、本当に痛いくらい感じるんだ。でも今この場で、君たちが僕に歌の贈り物をしてくれたら、最高だなって思って。『(No one could be an)Angel』を」
「ああ……でも、あれって、結婚式にはどうかなって思うけど。ロビンの自作の奴のほうが、良くない? 花婿から花嫁に捧げる歌っていう方が」
エアリィは少し不思議そうな表情で、問い返していた。
「あれはね、本当にお花畑だから、いいんだ。人に聞かせられるものじゃないよ」
ロビンは少し恥ずかし気に顔を赤らめ、首を振る。
「でも、シングルのボーナストラックになったんだし、人は聞いてるよ、きっと」
「そう思うと、すごく恥ずかしいけれど、でもあれって、あの『Scarlet Mission』のボーナストラックだから……カップリングがジャスティンのインストで。きっと一回聞いただけで、あとは忘れているよ、僕のおまけなんて」
「そうかなぁ……」
エアリィは懐疑的だったようだが、僕はきっとそれは、当たらずしも遠からずだろうと思った。あのシングルを買った人は、おそらく付属している音楽ビデオとメイキング目当ての人がほとんどだ。カップリング曲には僕のインストも含め、それほどのインパクトはない。動画サイトに挙げられたその曲たちの再生数も、他のカップリング曲とそれほど変わらない数字だったし、コメントもなんとなく予想できるので、読んでいなかった。
「『Angel』は彼女の、特別な曲なんだ。だから……」
ロビンは傍らの花嫁を見た。セーラも頬を紅潮させ、小さな声で言っている。
「お願いします。もしできましたら……」
「うん……まあ、そう言うなら、いいよ。でも、今って食べたばっかりだから……十五分くらいしかたってないから、もうちょっと食休みさせて。食後三十分は欲しいんだ」
「わかった。じゃあ、もう少ししたら、お父さんとロブにスピーチを頼むから、それが終わってからで、お願いできる?」
「まあ……その後なら、大丈夫かな」
ロビンとセーラがなぜ、この曲をこの場で聴きたいと思うのか、エアリィには細かい事情は、わからなかったかもしれない。花嫁の過去のことは、僕以外誰にも話していないと思うから。だが花婿の真実の愛を祝うなら、やはりこの曲しかないだろう。
「僕はじゃあ、アコースティック・ギターか。アンプラグドだな。ぶっつけ本番だけれど、なんとかなるだろう。でも、ピアノのパートはどうしようか」
「ピアノは外に出せないから、ギターだけでいいよ。アルバートに言って、僕のギターを持ってきてもらうから」
「こんなところで、特別ライブショーか?」
ジョージが笑いながら肩をすくめた。
「一曲だけだよ」
ロビンも笑って、傍らの花嫁を見やっている。
彼は両親のところへ駆けていき、話にいったらしい。やがてスタンフォード家の執事さんが進み出て、中央に備え付けられたマイクに向かって告げた。
「みなさま。本日はこんなに朝早くからお集まりいただき、ありがとうございます。しばらくご歓談いただきましたが、ここで当家主人、ロバート・スタンフォードより、みなさまにお話があります。その後、本日の花婿であるロバートのマネージャーであるロバート・ビュフォード様より、お祝いのスピーチをいただきます」
ロバートだらけだな、と僕は思わず小さく笑った。他の参加者たちも同じように感じたらしく、会場からも軽い笑いが起きている。これでもし僕の義兄、ロバート・エイヴリー牧師が司祭だったら、ロバートそろい踏みだ。彼の教区はスカボローだし、宗派も少し違うので、それはないが。
彼らが話している間に、ロビンのベーステクであるアルバート・グリーンウェイが許可を得てお屋敷に入り、ロビンの部屋からアコースティックギターを持ってきた。暑くなってきたのと、少々弾きにくくなるので、僕はスーツの上着を脱ぐと、椅子の背にかけ、そのギターのチューニングを整えた。
「んー、こんな朝早くじゃ、ちゃんと声でるかなぁ。食後三十分、ぎりぎりだし」
エアリィも同じように水色のソフトスーツの上着を脱いで椅子にかけ、タイを緩めると、シャツのボタンを二つ外しながら首を振っていた。歌うには、のど周りを締め付ける物は邪魔なのだろう。クラシックの声楽家は歌う二、三時間前から何も食べないというが(飲み物は必要だが)、ロックはそこまで厳密ではないことが多い。でも、やはり食事の直後は声が出にくくなるのだろう。
彼はグラスに水を注ぐと、ゆっくりと一口飲み、息をついた。ちょうどそこでロブの話が終わり、執事さんが「ありがとうございました」と礼を述べた後、一息おいて告げる。
「えー、それではここで、本日の花婿ロバートの盟友であるジャスティン・ローリングス様とアーディス・ローゼンスタイナー様に、花婿のリクエストにより、一曲演奏していただきます」
「来た!」エアリィはちょっと肩をすくめて小さく笑い、
「ハハ、これはこれで緊張するな」僕も少しだけ苦笑する。
僕たちは中央に進み出た。執事さんが椅子を一つ据え付けてくれたので、僕はそれに座り、ギターを膝に乗せてかまえる。そしてエアリィがマイクを取って、言った。
「えーと、ロビン、セーラさん、おめでとうございます。二人のリクエストで、『(No one could be an)Angel』をやります。結婚式の定番曲っていう感じじゃないけれど……まあ、一応ラヴソングだから、かな。ぶっつけ本番、アコースティックアレンジです」
彼はそのマイクをスタンドに戻すと、高さを下げて、僕のアコースティックギターの前にセットした。スピーチを聴いている間に、一本しかないマイクで、どうやったらバランスが取れるか、二人で相談した結果のセッティングだ。「これだけのスペースだったら、マイク要らない」と、エアリィは言っていたし、アコースティックギターの音を少し増幅させた方が、バランスとしてはいいだろうと思えたからだ。
僕は軽くギターのチューニングを確かめた後、イントロを弾き出した。
朝の透明な空気に、アコースティックギターの美しい音色が響きわたる。やがてすうっと歌が入ってきた。このうえもなく澄んだ穏やかな、優しいトーンで。ノンマイクでも十分通るその歌声が、アコースティックバージョンで、普段よりほんの少しだけテンポが遅いことも相まってか、僕たちの耳にはある種のゴスペルのようにさえ響いた。
君は愛なんて、信じられないという
もう二度と、愛にめぐり合うこともないと
偽りの愛に、君はひどく傷つけられたから
もう何もかも信じられないと
真実の愛を見つけて、それはきっとどこかにあるから
悲しみに沈んだまま、心を閉ざすことはやめて
君は愚かだった、盲目だった、軽率だった、落ち着かなかった
偽りの優しさと、幻の愛に幻惑されてしまった
そう、たしかにたくさんの間違いを犯してきたけれど
新しくスタートすることは出来るから
思い出を学びに変えて
君らしさをなくさないで
本物の愛は、きっと君を待っているから
真実の愛を見つけて
君は天使にはなれないから、許せなくてもいい
誰も天使にはなれないから、間違いだってする
完全な人間なんて、きっといない
みんな弱さを持っているから
道に迷うこともある
周りが見えなくなることも
でも、とり返せない間違いなんてないから
いろいろなすれ違いや、誤解
届かなかった思いや言えなかった言葉
それはきっと、みなが抱えている思い
誰も天使にはなれないから
完璧な愛なんて、きっとない
でも、君の本当の愛を見つけて
探せば、きっとどこかにあるよ
過去の悲しみに泣くことはあっても
その影の中に今を隠してしまわないで
君の本当の愛を見つけて
この曲のインスピレーションは、かつて身も心も捧げた恋人に捨てられて、絶望していたアデレードへ向けた思いなのだそうだ。この曲が収められた前作『Eureka』のプリプロダクションの時、そう言っていた。でも、もうその当時、彼女との間にロザモンドが生まれていたあとなのだから、彼女の“本当の愛”というのは、おまえにならないか、と僕が言ったら、エアリィはきょとんとした顔で、『え? そう? いや、それは考えてなかった』などと答えていたが。
曲自体は『愛に傷ついた人へのエール』となり、美しく切なく、時には激しい、心に残るメロディーと、彼の“共感と感情をすべての人の心に響かせるデリバリー”とで、多くの人の心を揺さぶり、この曲にインスパイアされたドラマもいくつか出来たという。それゆえ、ある意味僕らのファン以外にも知られている曲ではある。そして曲の主題からして、セーラのハミルトン時代からの親友アメリアさんが、この曲を彼女に贈った理由もわかる。
それは、たしかにあまり結婚式には、あまりふさわしい主題とはいえないかもしれない。だがエアリィの歌は聞き手の心に、その主題にまつわる、あらゆる感情を喚起する。コンサート会場のような場では、さらに集団コミュニケーション、もしくは共感、時にはテレパシーさえ引き起こしてしまうが、ここではただ一つの感情だけが伝わってきた。暖かな祝福が。それは周囲の人たちの思いを吸収してふくれあがり、僕の心をも洗われるような優しさに満たされていく。その感情は、ロビンたちにも通じているのだろう。彼らに喚起されているであろう様々なシーン、感情、その上から圧倒的な優しさと祝福に包まれて、この歌は彼らの心にはどう響いているのだろう。
セーラは途中で、感極まったようにうつむいていた。紅潮した頬に、あとからあとから涙が流れ落ちている。何度も白い手袋で頬を拭い、最後にはその手を口元に当てて泣いていた。それは浄化の涙だ。彼女の過去を洗い、ロビンのこだわりをも流し――ロビンは花嫁の肩を抱き、何度も頷きながら、自分のハンカチで彼女の頬を伝う涙を拭いてやっていた。彼自身も泣きながら。
曲が終わると、エアリィはこう締めくくった。
「二人の本当に、祝福を」と。
僕も、間髪を入れず叫んだ。
「おめでとう、ロビン! セーラさん! 幸せに!」
数秒の沈黙の後、そこに出席している全員から、大きな拍手がわき起こった。これだけの人から起きるとは思えないほど、大きな音量で。花嫁と花婿は、まだ頬を濡らしたまま、足早に僕らに近づいてきた。ロビンはやにわに手を伸ばし、エアリィと僕の手を同時につかむと、かすれた声で言った。
「ありがとう、ありがとう、本当に……最高のプレゼントを、ありがとう」
セーラも僕らを見上げ、繰り返していた。
「ありがとうございます。本当に……」と。
「よかった。けど、花婿も花嫁もそんなに泣いちゃってたらダメだよ。笑って!」
エアリィはあいた方の手でロビンの肩をぽんと叩き、
「でも、悲しい涙じゃないよな」
僕もあいた手で、もう一方の肩を叩いた。
「うん……本当に、ありがとう」
ロビンはそう繰り返す。
「おめでとう、しあわせにな」
「うん。月並みだけど、それしか言えないな」
「うん……本当にありがとう」
ロビンはそれしか、言葉が出てこないようだった。
宴がお開きになると、みなにキャンディボンボンと記念品(中心に小さなバラのドライフラワーが入り、周りに金の粉をちりばめた、ガラスの文鎮だった)が配られ、出席者全員が並んで、二週間の予定で北欧へ新婚旅行に旅立つ新夫婦を見送った。派手に目立つことの嫌いなロビンだから、“JUST MARRIED”のプレートも、たくさんの空き缶の伴奏もなしだ。僕らもクラッカーを鳴らしたりお米を投げたり歓声を上げたりという騒々しい見送りはせず、ただ手を振り、「がんばれよー!」と、声をかけただけだった。
ロビンとセーラを乗せた車が走り去り、視界から消えてしまうと、また親族たちのそばではなく僕らと一緒にいたジョージが、ほっとしたような口調で言った。
「まあ、なにはともあれ、めでたしだな。あいつも良い嫁さんをもらったし、俺らもこれで全員が妻帯者だ」
そして思い出したように、こう付け加えた。
「ああ、違うか。全員じゃないんだな。一応、おまえはまだ結婚してなかったんだっけ、エアリィ。でも、ほとんど夫婦みたいなもんだから、つい一緒にしてしまったぜ」
「違うよ、ジョージ。全員妻帯者ってのは、今は当たり」
エアリィはちょっと笑い、右手を振ってみせた。
「僕も正式に結婚してるから。ほら、これ結婚指輪」
たしかに薬指には、金の指輪がはまっている。小さなブルーダイヤをあしらった、波を思わせるラインの、シンプルだが洗練されたデザインだ。再開ツアーのリハーサルから、ずっとつけていたのは知っていたが、右手だから、まさか結婚指輪だとは思わなかった。
「ちょっと見せてくれ」
彼は指輪を抜き取って、僕の手に落としてよこした。裏側に文字が刻んである。【2017.3.17 A.M To A.R】
「僕らイニシャル同じだから、ミドルまで入れないと区別が付かなくて、そうしたんだ。両方ともA To Aになっちゃうから。サイズもほとんど違わないし」
エアリィは僕の手から指輪を取り、またつけていた。
「でも、なぜ右なんだ? 普通左だろ?」
ジョージが怪訝そうにきく。
「きき手に指輪すんのって、なんとなくうっとうしいから、やなんだ」
そうか、アーディスは左利きだった。それはともかく――。
「だけどな、それ半年前の日付じゃないか。今年の三月だろ? なぜ僕らに何も言わなかったんだ? 式にも呼ばず、結婚しても黙ってるなんて」
「ああ、そういえばリハーサルに入る前だったなぁ、届け出したのは。トロントへ帰る前にマインズデールへよって。一応アデルは花嫁衣装着て、略式だけど式は挙げたんだ。エステルとアラン継兄さんとエイドリアン――あっ、アデレードの弟さ、それにロージィと、あとはキャラダイン神父とシスター・キャサリン――シスター・アンネ・マリアの後任に来た人なんだけど、それだけだったかな、立会人は。みんなも呼ぼうかな、とも一瞬思ったんだけど、なんだかさ、みんなを呼んじゃうと、やっぱりちゃんと式やらなきゃいけないって気になっちゃうし、そうすると、もっと他にも呼んで、とかなっちゃって、けっこう大げさになりそうで。子連れなんだし、あんまり仰々しくはやりたくなくて。だからま、みんなに報告もしなかったんだ。式にも呼ばなかったんだし、実際結婚しても、ほとんど何も違わないから。ただアデルとロージィの姓が変わっただけで。僕自身も普段は意識してないしね。自分が結婚したんだってこと」
「そうか。見事に極秘だったね。まさか君が半年も前に結婚していたなんて、僕らも気づかなかったよ。でも、君の場合はそうでもしないと大変だからね、わかるよ」
ミックがやさしい口調で言葉をかけていた。
「でも、おまえのタキシード姿も見てみたかったがな」
ジョージと僕は同時に言った。
「タキシードなんて着ないよ。持ってないんだ。白のソフトスーツだけさ。これの色違い。でもさ、なんか、スーツって堅苦しい感じがして、あまり好きじゃないんだ。ああ、でもアデルの花嫁衣装は、昔ファッションショーで着た奴だよ。ステラさんとお揃いの」
「ああ、あれか。うーん。やっぱり見てみたかったな」
「あ、写真ならあるよ。エステルが撮って、僕の携帯に送ってくれた奴が」
「どれ、見せろ!」
僕らはいっせいに声を上げた。
エアリィはポケットからスマートフォンを取り出すと、操作して、僕らに見せてくれた。たしかにアデレードの衣装は、ステラと同じものだ。僕も十分見覚えがある。そこに写った輝く笑顔の彼女は、ステラに負けず美しい。いや、一般的に見れば、勝負にすらなっていないのだろう。ステラもアデレードが着た花嫁衣裳を見て憧れ、同じものを注文したのだから。それは元々、アデレードのために作られた衣装なのだろう。その雰囲気や顔立ち、スタイルに合うように。エアリィはその横で白いソフトスーツを着て、髪をゆるく、少し右寄りで束ねたスタイルで写っていた。ちょっと照れたように笑っていて、片手を花嫁の肩に、もう一方の手で娘を抱いている。レースがたくさんついた、真っ白なワンピースを着たロザモンドは両親に抱かれ、ウェディングブーケを抱えて、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。フラワーガールなのだろうか。ミニ花嫁さんのような雰囲気もある。
指が触れたのだろうか。その写真がスライドし、兄妹二人で撮った写真が出てきた。ふわふわしたピンク色のシフォンのようなドレスを着て、満面の笑顔で兄の腕にしがみついている少女。たぶん自撮りしたのだろう。思わず言葉が口から出てきた。
「エステルちゃんも、本当にきれいになったな」
「ああ、彼女ももう十三だしね。この時は、まだ誕生日前だけど」
エアリィは少し照れたような表情を浮かべた後、携帯電話を再びポケットにしまった。
「まあ、良かったな。でも、どうして結婚する気になったんだ? やっぱり結婚してもいいと思ったのか?」 僕はついで、そう聞いた。
「うーん。今もいいんだろうかって気はしてるけど、ま、戸籍の上じゃ問題ないし、アデルもそれでも良いって言うから、いいかと思ってさ。去年、ロンドンの病院で言ってたじゃないか、ジャスティン。彼女は正式な妻じゃないから、しばらく面会許可がおりなくて泣いてたって。それでアデルの本心って、どうなんだろうって思って。生活上のパートナーで、ロージィの父親っていうだけじゃなく、こんな僕でも一応夫のほうが良いのか、それともそうじゃないのかって、退院してニューポートへ行った時、聞いてみたんだ。そうしたらアデレードは、子供にローゼンスタイナー姓を名乗らせたいって言うんだよ。それで、彼女自身も同じ姓になりたいって。ロージィもそれまでは、ロザモンド・ハミルトンだったわけだけど。ロザモンド・ローゼンスタイナーより、そっちの方が語呂良いんじゃないかって思ったんだけどさ、僕は。ダブルローズになっちゃうし。でも彼女はハミルトンじゃなく、ローゼンスタイナーになりたいって言うから……まあ、母さんも僕にその姓を継承して欲しいって言ってたから、子供たちに継がれるのも悪くないのかなって思って。ま、それでね」
「そうか。でも、やっぱり女性の立場としては、半端なのはいやだろうからな。ともかくおめでとう。僕らもほっとしたよ。やっぱり子供までいながら夫婦じゃないっていうのもなんだか不自然で、ずっと気になっていたんだ」
「あっ、再来月には、もう一人生まれるんだよ。アデル、もうすぐ九ヶ月なんだ」
「えっ、そういうことは、もっと早く報告しろ。まったくおまえは、結婚したことも第二子が出来たことも、全部報告が遅いぞ」 ジョージが笑い、
「そうだぞ、本当に!」と、僕は指を振った。
「でも、本当に良かったよ。ロビンもいい奥さんが見つかったし」
「うん。きっと似合いの夫婦になるな。今日はダブルでおめでたい日だぜ」
「本当に良かったね」
僕らはそう言いあって、それぞれの家に帰るべく車に乗り込んだ。ジョージは家族とともに、今日は実家に泊まるらしいが、ミックとエアリィはそれぞれ車を運転してきている。僕は「途中でジャスティンとこの近く通るから、良かったら迎えに行くよ。今日は僕一人だし」と、エアリィが言ってくれたので、家の前で拾ってもらって、一緒に来ている。
「ところで、エアリィ。おまえはセーラさんの真実を知っていたのか?」
僕は車の中でそう問いかけると、彼はあっさりと答えた。
「詳しいことは知らないよ。でもさ、あの曲をリクエストするってことは、セーラさんは純情には違いないけど、どっちかっていうとアデルみたいに、過去にいろいろあったってタイプなんじゃない、きっと」
「そうなんだ、実は……」
僕は簡単に花嫁の過去を話した。
「そうかぁ。けっこう大変だったんだ。アデルもそうだけど、ダメ男を好きになっちゃって怪我するって、わりとあるんだな。まあでも、失敗は成功の母って言うし、今は乗り越えられて幸せそうだから、良かった」
「そうだな。でもセーラさんだけでなく、ロビンもいろいろ悩んだんだよ」
「ああ……ロビンのことだから、彼女にプロポーズするのに、勇気がいったんだろうね」
「いや、それもあるけどな。彼女の過去を乗り越えるのにさ」
「そう……じゃあ、ロビンも彼女の手助けが出来て、良かったじゃない」
「いや、そういう意味じゃないんだ。結果的には、そうだけどな」
話がかみ合っていない。ロビンが彼女の過去にこだわってしまった心理を、エアリィは理解できないのだろう。僕は苦笑し、言葉を継いだ。
「まあ、いいさ。でもロビンも心理的に、彼女の過去を乗り越える必要があったんだ。そうして二人で過去を乗り越えて、これから新しい未来を築こうとしているんだ。一人なら難しいことでも、二人なら楽に出来る」
「なんか、むずむずしてきそうな台詞、それって。結婚式のスピーチだね。ロブも同じこと言ってたし」
「あのなあ」僕は再び苦笑した。
「でもおまえも、過去を乗り越えてきた人間だろ? 難しくはないか? まあ、おまえは強いから、大丈夫か。過去に現実を侵食されたくないって、前に言っていたものな」
「うん。でもまあ、逆に言えばそれも、構え過ぎって気がしてるな。今思うと」
エアリィは首を振った。
「乗り越えてやるぞーって気張ってるうちは、まだ昔にとらわれてるってことなんだと思うし。それに、記憶や感情に無理に蓋しようとしても、そのうちに蓋が吹っ飛んで、吹き出てくるよ。だから気負わないで、流れに任せてけばいいって、今は思ってる。僕はさ、記憶を消去できないし。赤ん坊の頃から覚えてるんだ。一番初めの記憶って言うのは、夜、木の葉っぱの間から、瞬く星を見てたことなんだ。傍に女の人が寝てて、僕はものすごく不安で寂しくなって、赤ん坊のように泣いた……て、実際赤ん坊だったんだけど」
「もしかしたらそれって、マインズデールの光の木の下の記憶か? お母さんが赤ん坊のおまえを連れて、教会に戻って来た時の」
「そう。ショールが薄くて寒かった。でもそれ以上に、圧倒的に心細かったな。すっごく無力で、頼りなくて……不安で怖かった。そのうちにだんだんと夜が明けていって、周りが明るくなっていって、星が消えていって……傍にいた人が起き上がって、ひょいと僕を抱き上げて、言ったんだ。『あらやだ、もう夕方? それとも、まさか朝?』って。まあ、その時には、まだ言葉の意味はわからなかったけど」
「おまえ、そこまではっきり記憶があったら、もう一息、誕生の瞬間とか、胎内記憶とかもありそうだな。もしそうなら、出生の真相もある程度判るんじゃないのか?」
「いや、その記憶はないんだ。それ以前でぼんやり覚えてるのは、光に包まれてた感じかな。暖かくて柔らかい、紫がかった銀色の光に」
「光?」
水ならわかるが。暗くて温かい水、なら胎内記憶なのだろうが――。
「それより前になると、もう僕の人生じゃないけど」
エアリィはちょっと笑い、首を振った。
「でも、それも記憶に残ってるんだ。普段はあまり意識しないけど、夢にはよく出てくるから。で、起きると、ちょっと妙な気分になるんだ」
「前世の夢か……」
僕はヨハン神父さんの夢を思い出し、頷いた。たしかに妙な気分になる。そして僕は何気なく聞いた。
「おまえの前世の夢って言うのは、どんなんだ?」と。
「なんて言えば良いかな……」
エアリィは少し黙った後、言葉をついだ。
「別の世界……なにもかも。だから起きた時のギャップがやばいんだ」
それ以上、彼は何も言わなかった。やがて小さく首を振ると、口調を変え、続ける。
「でもさ、それはともかく、過去は乗り越えるっていうより、ありのままを受け入れるしかないんだろうなって思う。過去と現在と……そして未来と。それに一緒についてくる感情を、どう処理してくかっていうのが課題なんだろうけど、感情がついてくるのは、仕方ないんだろうって思う。僕が前のオフの時、一昨年か、あの小説家さんが野バラさんやダンの近況と一緒に、ニューヨーク時代の一時期母さんの恋人だった奴の情報を知らせてきた時も、記憶がわーッとよみがえってきて、『うわ―、会いたくない!』って思ったし」
「あの本に書いてあったとおりなら、本当に最低野郎だからな。わかるよ」僕は頷いた。
「でも、どういう近況だったんだ? そいつ。あれから、その、おまえのお母さんからの別れの手紙で発作を起こして倒れてから……生きてたのか?」
「うん。ただ、もう彫刻は出来なくなってたけどね。あの時、あいつは脳卒中を起こしてたらしい。処置が間に合って助かったんだけど、右半身が動かなくなって」
「そうなのか。それならあの時、おまえが救急車を呼んだのが、そいつを助けたんだな。でも、右半身麻痺か。どうせそいつ、ろくな彫刻はしなかっただろうし、もう暴力もふるえないだろうから、ある意味報いかもしれないな」
「ああ……まあ、才能はそんなになかっただろうけどね。でも好きなことが出来なくなったのは、辛かったとは思う。あいつの家は資産家だったらしくて、でも親と対立して家を飛び出してたんだけど、あいつが入院してる間にその親が亡くなって、遺産を相続して、それで今まで暮らしてたらしいんだ。でも三年前に、また入院して。今度は肝臓がんだって。アルコールや薬のせいかな。でも、親の遺産ももうなくなって、病院もアパートも追い出されそうで、下手をしたら路上で野垂れ死にになるって。そんなことを言ってきたんだ。あの小説家さんがメールで。それで、ああ、あいつにはふさわしい状況なのかもしれないけど、救いようのない人生だなって、なんか哀れに思えてきたんだ。せめて最後はちゃんとベッドの上で死んでもらいたいなって思って、入院費用を払った。なかなか会う気にはなれなかったけど、会わないと気持ちの整理がつかないと思って、一昨年の十月、あいつが死ぬ前に一度だけ会ったんだ」
「そうなのか。それで、どうだった?」
「うん。闇の住人は闇のままだった。外見はかなり変わったけど、中身は同じだ。変われなかったんだなって……なんだかすごく納得したけど、すごく気分も乱された。でも僕は、もう六歳の子供じゃないから、怖れることはないんだって思った。記憶の問題だけだね」
「そうだな……でも、気持ちが通じない人間って、いるんだな」
「まあ、仕方ないよ。ただ闇の住人は二種類いるけど、あいつはどっちなんだろうなとは、思うんだ。最後には救われるのか、それとも闇に吸収されて脱落するのか……」
エアリィは小さく頭を振ると、口調を変えて言葉を継いだ。
「ところでさ、ジャスティン。後ろから車ついてきてるの、知ってる?」
「えっ?」
僕はあわてて振り返った。シルバーの小型車が後ろにいる。でも運転手の顔に、僕はなんとなく見覚えがあった。
「マネージメントの車だよ。運転してるのって、スタッフさんだし」
「護衛ってわけか」
僕はいくぶん安心して、前に向き直った。
「去年の春くらいから、マーケットに買い物に行くのすら大変なんだ。ロブたちにいちいち連絡入れて、護衛が来るのを待ってなきゃならないんだ。すごくめんどくさい。オフに家族旅行に行くのにも、知らせてくれって言うんだ。それとなく護衛するからって。いや、いらない。ってか、ついてくるの、やめて! って言ったんだけど、おまえたちには気づかせないようにするし、おまえのプライベートは尊重しているから、って。ちょっと待って、そういう問題じゃない。そんなことに余分なお金と労力使わなくて良いよ! って言ったんだけど、それが自分たちの仕事だって、ロブはきかないんだ。でも僕は遠慮しないから、行きたい時には遠くへだって行くよって言ったら、それは全然かまわない。事前に知らせてくれさえすればって。予告なしに行ったら、おまえの家の中に監視カメラと、門の所に人間の警備員を二四時間貼り付けなければならなくなるぞ、なんて脅かしてくれて、もうホント……やだ!」
「おまえは大変だな。僕はセキュリティアラームだけでよかったよ」
「でも今年の頭に渡された新しいセキュリティアラームってGPSついてるから、居場所わかっちゃうよね。友達や家族はアラームが来てから対処みたいだけど、僕らメンバーは、ほぼずっと追跡されてるみたい。ロブがそう言ってたし」
「そうなのか。それはそれで、少し考えてしまうな」
「まあ、僕らのプライバシーは尊重されてるって信じたいけどね。マネージメントも大変だなって思うけど、そこまで大げさにしてくれなくともいいのに、とも思っちゃうな。もし変なのに追っかけられても襲われても、誰かを人質にとられたりしない限りは逃げ切れる自信あるよ。カーチェイスもできるし。リード父さんに時々、ドラックレースとかに一緒に乗っけてもらったりしたから」
「それで、見てて覚えたのか。だから、おまえ前に、いや未来か、無免許でも運転できたし、いきなりロケットスタートしたんだな。でも、街中でカーチェイスしないでくれよ」
「一回だけしかやってないよ。ロージィがさらわれそうになった時に」
「ああ、あれか。あれは大事にならなくて、本当に良かったな」
一昨年のオフに、ロザモンドは誘拐未遂にあったのだった。あの時には本当に、いろいろあった。僕もディーン・セント・プレストンさんのセッションから陰謀に巻き込まれ、二人目の子供を失い、夫婦の仲も冷えきった。その後『Vanishing Illusions』の騒動も加わり、エアリィとの間にも微妙な障壁が出来つつあった。今はすべてがクリアになり、元通りになったことが、本当にありがたく思える。
「話を戻すとさ、たぶん、記憶ってみんなも同じように、積み重なってるんだと思うよ。意識とのリンクがなくなってるだけで」
エアリィはしばらく黙った後、そう言葉を継いでいた。
「そうなのかもしれないな。それが忘れるって事なのかもしれないけれど」
「でも普段忘れてても、リンクがつながると意識に出てくるから、厳密に忘れてるとはいえないかもね。そういう点じゃ、僕だってそうだよ。忘れないっていっても、普段からずっと意識し続けてるわけじゃない。思い出そうとすると、思い出されてくるっていうだけだし。みんなが忘れた、っていうのも、ただ記憶を無意識に放り込んでるだけかも知れないなって思うんだ」
「そうかもしれないな……」
「で、たぶん、みんなは忘却の彼方に沈んで、浮かび上がってこないことがあるっていう違いだけじゃないかと思う。でも厄介な記憶ほど、忘却の彼方には沈んでくれないような気がするな。あのこととか……」
「あのこと?」
「うん。未来世界の話」
「ああ、あれか!」僕は思わず手を叩いた。
「なんで、そんなことを思い出させるんだよ、エアリィ! よりによって、今日という日に。僕だって、そのことは忘れたいんだぞ」
「今日という日にふさわしくない話題、今まで目一杯してきたじゃないか」
「まあ、そうだけどな」僕も肩をすくめる。
だが、再び考えてしまった。もう、あと四年というところまで来てしまったのだと。今結婚したロビンとセーラも、この世界での幸せは、あと四年しかないのだろうか? それに、子供がすぐできたとしても、三才だ。あまりにも小さすぎないだろうか? 僕はステラと結婚してからその時まで、八年ほどの時間がある。もう少し早くロビンたちも会えていたら、もっとよかったのに。
僕は頭を振った。本当にこの忌ま忌ましい記憶を、六フィート下に埋めてしまいたい。でもどんなに深く埋めたつもりでも、あの時が来るまで決して消えてなくなりはしない。おりを見て、また飛び出してくるだろう。僕は小さなため息をついた。
やがて九月の晴れた朝の中に立っている、我が家が見えてきた。車から降りて門をくぐると、芝生の上で遊んでいたクリスが嬉しそうに走ってきた。子供を見守っていたらしいステラもその後から、笑顔を浮かべ、近づいてくる。二人の姿は安らぎと希望の象徴のように見えた。今はこの幸せ、それだけを考えよう。
秋の日々は飛ぶように過ぎて行き、至福の休暇は、二ヶ月間の美しい思い出と笑いに彩られた、家族のアルバムの一ページとなった。そして十一月から、次のアルバム作りの作業を開始した。本当は一日からスタート予定だったのだが、エアリィが二人目の子供の誕生を見届けてから参加したので、実際の作業が始まったのは五日からだ。生まれたのは今度も女の子で、名前はティアラ・ヴァイオレットという。わずか二一才の若さで、すでに二女の父親になったエアリィは僕らに祝福された時、「ありがと!」と、少し照れたように笑って答えたが、ふと考え込んだ顔になり、こんなことも言った。
「けど、ちょっと考えちゃうんだ。この子、あの時、四才だから」
「あ!」
僕たちはいっせいに、小さな叫びを上げた。その意味を、みんな知っているのだろう。再びあの認識が頭をもたげてくる。そうだ。これから子供を作るのは、もう遅いのかも。ロビンとセーラの結婚式の時にも感じたが、僕らだってそうかもしれない。二人目の子供ルークが幻となってしまって以来、ステラに妊娠の兆候はなかったが。
妻は僕らの仲が完全に元どおりになってから、ずっともう一人子供を欲しがっていた。だが幸運にも次の子に恵まれたとしても、さぞかし先行きは大変だろう。それは本当に、幸運と言えるだろうか。僕の心情としては、運命の日が過ぎるまで見合わせたいというのが、正直なところだった。ちょっとクリスと年齢はあきすぎるだろうが、僕ら二人ともまだ若いのだから。でも『あと四年待ちたい』と、ステラに言うことは出来ないだろう。『なぜ四年も待つの?』と、彼女はきいてくるに違いない。その理由を正直に話すことは出来ないし、かといって、『子供はもういらないよ。クリス一人で十分だ』と、言い切ることもできない。天に任かせるしかない問題だとわかってはいても、不安と希望の狭間で、それは苦しい命題だ。
今年はプリプロダクションからローレンスさんも立ち会ったので、最初から彼らが所有する、高原のプライベートスタジオを使った。三作目からずっとこの時期にお世話になってきたビッグママ──ロブのお母さんは、もう今年の秋からいない。と言っても、彼女は相変わらず元気にしているらしいが、メキシコにいるのだ。
結婚してメキシコシティに住んでいるロブのお姉さん、スーザンさんがこの夏の終わりに体調を崩して病気になり、しばらくの予定で手伝いに行ったところ、娘さん夫妻から望まれて、その地で孫たちが大きくなるまで、一緒に暮らすことになったらしい。ビッグママに会えないことは寂しいが、彼女は忙しく、幸福に過ごしていることだろう。暖かな土地で、娘さん夫妻と小さな三人の孫に囲まれて。それに、もうこれで会えないわけじゃない。メキシコシティに公演に行った時に、会う機会はあるだろう。ロブのお姉さんや小さな甥姪たちにも。ただ彼らはアイスキャッスルへは、来てくれるだろうか――? 来られるだろうか――?
僕らはクリスマスの直前まで作業を続けた。短いお休みを過ごすためスタジオを後にした時には、プリプロダクションは終わってデモが完成し、ベーシックトラックも二曲ほど出来上がっていた。続きは年があけて八日から、同じ場所で始めることになっている。僕らはそれぞれの家でクリスマスを過ごすために、空港から我が家へ向けて、降りだした雪の中を帰っていった。
また、一年が過ぎた。もうあと四年だ。
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