Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years' Sprint

六年目(9)




 次の日、僕たちは午後の便で帰る予定だった。僕は朝食と荷造りをすませ、外がうっすらと明るくなるのを待って、公園に散歩に出かけた。この時期のロンドンは、十時を過ぎないと夜が明けない。しかも天気が悪く、雨のしょぼつく寒い日だったが、あの事件以来、病院へ行く以外ほとんどホテルに缶詰状態に近かったので、ふいに外に出かけたい衝動にかられたのだ。ロビンやジョージ、ミックはこんな天気に外へは行きたくないらしいが、僕はともかく外へ出たかった。みんなが来ないのなら、一人で気楽に行きたかったのだけれど、もちろん今の状態では、一人でなんか、とても行けはしない。ボディガードのホッブスが一緒だ。そしてロブには、「飛行機の時間があるから、十一時半までには帰れよ」と釘を刺されていた。
 他の人にあまり見つかりたくないので、僕は髪を後ろで一つにきつく束ね、帽子をかぶってサングラスをかけた。公園には、ほとんど誰もいない。たしかに傘を片手に水溜まりをよけよけ歩くのでは、あまり散歩に適してるとは言えないし、ベンチも濡れているから、腰をおろすこともできない。空は陰気な鉛色、草は茶色く枯れて、木々もすっかり葉を落としている。でも一番冴えない季節の冴えない天気でも、僕は結構楽しんだ。久しぶりに外を自由に歩くという解放感に浸っていた。つかず離れずついてくるホッブスの存在も、あまり気にならない。

 二十分ほど歩いた頃、この冷たい雨の中、ベンチに腰かけている人がいるのに気づいた。それもベンチの上にレジャーシートを敷き、両方の手すりに大きな傘を二本くくり付け、その間にビニールシートを張り渡すと言う周到さで、膝の上にスケッチブック、右手にはクレヨンを持ち、一心に絵を描いているようだ。傍らに、クレヨンの箱が置いてあった。オレンジ色のレインコートをすっぽり来こんでいて、そのフードの下から白い毛糸の帽子と、お下げに編んだ黒い髪がのぞいている。女の子のようだ。
 見ているうちに、彼女はふと目を上げた。しばらく手を止めて、じっとこちらを見ている。と、見る間に立ち上がり、絵をベンチの上に置くと、僕の方に駆けてくる。しまった、気付かれたかな。気づかない振りをして歩き去ろうか――そんな考えも頭をかすめたが、雨の中で写生している、奇妙な女の子に対して引かれた興味の方が大きかった。
 僕はその場で待った。彼女は息を弾ませて側へ来ると、雨に濡れるのもまったく気にしていないように、少し小首を傾げて嬉しそうな声を出した。
「ジャスティンさん!? ジャスティン・ローリングスさん……でしょ?」
「そうだよ」
 僕は少々ためらいながら頷き、傘を半分ほど彼女の方にさしかけた。
「やっぱりそうだわ! わたしも、半信半疑だったけど……だって、こんなところにいるはずないと、思ってたんですもの。とっくに帰られたかと思っていたの」
「今日帰る予定なんだ」
「ああ、そうですよね。色々大変でしたもんね。わたしも、もう大ショックで……でも、最悪なことにはならなくて、本当によかったわ。あなたも無事だったし」
 彼女は再び小首を傾げ、僕を見上げた。僕は彼女のその動作に、なんだか見覚えがあるような気がした。声や目の表情にも。彼女は悪戯っぽい調子で言葉を続けた。
「覚えてらっしゃいません、ジャスティンさん? わたし、あなたにお目にかかるの、初めてじゃないんです。去年の五月にあなたがロンドンにいらした時、わたし図々しく二回もお部屋に押しかけていったわ」
「ああ!」僕は思い当たり、小さな叫びを上げた。
「君は……ニコレット?」
「覚えていてくださったんですね。わあ、うれしい!」
 彼女は頬をピンクに染め、両手をあわせた。
「そうです。わたし、ニコレット・リースです。お久しぶりです。あの時は、ありがとうございました」
「気が……つかなかったよ」
「あの時は、よそ行きでしたから。これが普段のわたしなんです。お化粧もしていないから、あまり見ないで下さいな。なんだか恥ずかしいわ。まさかあなたに会うなんて、思いも寄らなかったし……」
「でも、普段の君もかわいいよ」
「またあ、おせじでしょう? でも、うれしいです」
 彼女はぽっと頬を染めている。僕は再び問いかけた。
「どうして雨の日に、写生なんかしているの? しかもこんな寒い日に」
「やっぱり変ですか? でも、わたし絵を描くのが大好きで、今通信教育で勉強してるんですが、今度提出する自由課題に、雨の日の公園を描こうと思って。普通は写生なんて、きれいなものを描くんですけれど、時にはあまり人が見ない、描かないようなものを、描いてみたいと思ったんです。それで今日は雨だし、仕事もお休みだから、夜が明ける前からここに来たんです。たしかに寒いですけれど、ちゃんと防寒しましたし。雨の日の公園って、灰色に煙って陰気そうだけれど、これはこれで風情があると思いません?」
「そうかもね」
「あなただって、こんな雨の日にお散歩していらっしゃるくらいだから、きっとその風情を認めてらっしゃるんでしょ?」
 彼女は悪戯っぽく笑った。
「本当は晴れていた方がいいけれどね」
 僕も笑いを浮かべる。
「でもたしかに、君の言うことも一理あるよ。こんなうっとうしい日でも、一部の美があるってね」
「それに晴れた日は人が多くて、あっちこっち声を駆けられて大変だからですか?」
「そうだね」
「超人気者も大変ですね。エアリィ……アーディス・レインさんの事件には、本当にわたし、衝撃でしたし。あの人はわたしにとって、神様みたいな人だから……」
「神様? エアリィが君の神様みたいだって? あいつが聞いたら、いやがるよ」
 僕は思わず肩をすくめた。
「それで、僕は君にとってなんなの?」
「あなたはわたしの王子さまです」
 彼女は頬を染め、きっぱりと言いきる。
 僕は思わず苦笑した。
「そこまでねえ」
 それしか言葉がない。
「あの……ジャスティンさん。怒らないでくださいね。わたしはエアレース命ですけれど、あなたは特別なんです。あなたのことは……単にエアレースというバンドのギタリストじゃなくて、あなたは、その……厚かましいことを言ってごめんなさい。でも、あなたは手の届かない、雲の上の大スターや神様じゃなく……恋愛対象になり得るような、わたしの生身の愛する人で……ええ、わかっています。迷惑ですよね。あなたにとっては、去年の春ホテルで一緒に過ごしたことなんて、いつでもあるような単なる行きずりにすぎないんですよね。でも、あの夜のことは、わたしは一生忘れません。わたしには、宝石のように貴重な思い出なんです」
 一言ごとにますます頬を燃え立たせながら、彼女は熱っぽい口調で言った。それから恥ずかしそうにうつむき、両手で顔を覆っている。
「ごめんなさい。迷惑ですよね……」
「迷惑だって?」
 僕はそっとその手を取って、顔から離した。そしてうつむいているその眼をのぞき込み、微笑みかけた。
「僕も覚えているよ、君のことは。あれからどうしたのかなって、時々思っていたんだ」
 それは嘘ではなかった。ほのかな懐かしさとともに、二度か三度ほど、彼女と過ごした夜を思い返したことがあった。妻と上手く行かなくなってからだが。
 ニコレットは目を潤ませて僕を見上げた。頬を燃え立たせ、歓喜と恥じらいの表情を浮かべて。かすかに身体が震えている。僕は胸が熱くなり、衝動的な決心をした。どうせ家に帰ってもつまらないのなら、ここでの出会いを大切にした方がいい。ここで彼女に出会ったことは、運命の導きのような気さえした。思わず言葉が出てきた。
「ねえ、ここで再会したのは、本当に幸運な偶然だから、このまま別れるのは惜しいね。これから僕の部屋にこない?」
「ええ……」
 彼女は少しはにかみを見せながらも、目をきらきらさせて頷いている。
「でも、今日帰るご予定なんでしょう?」
「予定は変えたよ。しばらくトロントには帰らない」
「でも、奥さんが心配なさいません? 待っていらっしゃるでしょうに」
「妻は僕がいつ帰ろうと、まるで気にしてないさ」
 その口調と表情で、僕たち夫婦があまりうまくいってないことを、ニコレットもなんとなく悟ったのかもしれない。しばらくためらうような表情を見せた後、そっと言い出した。
「じゃあ……わたしの家にいらっしゃいません? わたし、一人暮らしなんです。ちょうど一部屋空いていますし」
「いいのかい?」
「ええ。わたしの部屋は、あなたがいらっしゃるホテルより、十分の一も豪華じゃないけれど、でもわたし、料理はわりと得意なんですよ。レストランのごちそうではなくて、あなたにイギリス風の家庭料理を作ってあげたいわ。イギリスは料理がまずい、なんてよく言われてますが、おいしいものもたくさんあるんですよ」
「そう。じゃあ、君の家に行くよ」
「いいんですか、ジャスティンさん?」
 そばで僕らのやりとりを慎み深く聞いていたらしいホッブスが、そこで口を出してきた。僕は彼に向き直った。
「いいさ。君はみんなと一緒に帰っていいよ、マイク。でも、一つだけ頼みがあるんだ。今からホテルに帰って、僕の荷物を持ってきてくれないか。ああ、トランク二つはいらない。一つだけでいいから、どっちかを。僕は……そうだな……」
 僕はあたりを見回した。少し離れたところに、小さなあずまやがある。
「あそこに見えるあずまやで、彼女と待っているよ。その間に、しばらくロンドンの友達の家に滞在するからと、ロブに電話で伝えておくつもりだよ」
「いつまで、ご滞在予定ですか?」
「そんなことは、わからないよ。帰る気になったら、マネージメントに連絡を入れるから。カークランドさんの他にも、二、三人ロンドン在住のスタッフがいるわけだし、まだ当分エアリィは帰れないから、ジャクソンも残るだろう。ロブも時々は来るだろうしね。だから僕もこっちへ残ったって、そんなに問題はないだろうと思うんだ」
「まあ、そうですね。それに僕は基本的に、あなたのプライバシーに立ち入るつもりはありません。でも、ここで単独行動するのは危険ですよ」
「大丈夫だよ、自分で用心するから。それにきっと、僕はそれほど狙われないと思うしね」
「連絡先を教えてくれませんか?」
「僕の携帯にかけてくれればいいよ。彼女のほうの連絡先は、迷惑がかかるといけないから、教えたくないんだ。僕もまだ知らないしね。あまり彼女を待たせたくないから、早く行ってくれると、助かるんだけどな」
「わかりました。出来るだけ急ぎます。トランクをどっちでもいいから一つだけ、持ってくるんですね。では、それまであずまやで待っていてください」
「ああ。頼んだよ」
 僕は頷いてみせた。しかし、待っている気はなかった。ホッブスの姿が公園の木立の向こうに見えなくなると、僕は彼女を振り向いた。
「じゃあ、行こう、ニコレット。写生が途中になってしまって、申し訳ないけれど」
「ええ。それは全然平気です。またの機会にしますから」
 ニコレットは写生道具やビニールシートなどをてきぱきとした動作で片づけ、大きなビニールのトートバッグに入れている。彼女の片づけが終わると、僕はその手を取ってゲートに向かった。ニコレットは少し驚いたような声を上げた。
「え? あそこのあずまやで、待っているんじゃないんですか?」
「いや、待っている気はないよ。彼が側にいると、うるさいから、追い払っただけだ。それに待っていたら、きっとみんなに何だかんだと言われるよ。僕の荷物はトロントへ送り返してくれるだろう。貴重品やパスポートは、幸いなことに今持ってきてるんだ。少しばかり身の回りの物を、これから買うよ。一緒に選んでくれる?」
「ええ……」
 彼女は驚いたようだったが、微笑を浮かべて頷いていた。
 僕らは足早に公園を出ると、ちょうど通りかかったタクシーに乗り込んだ。車の中で僕は携帯電話を取り出し、電源を切った。僕が帰る気になるまで、再び電源を入れるつもりはなかった。このタイプなら、電源さえ切ってあれば、僕の居場所はわからない。僕は自分自身を隔絶するつもりだった。マネージメントから。音楽ビジネスから。そして、ステラからも。

 ニコレットのアパートは市街地の外れにあり、エレベータもない、四階建ての古い建物だったが、作りはしっかりしているようだった。彼女は二階に住んでいた。リビングダイニングとキッチン、個室が二部屋。全体にこじんまりとしていて、床には絨毯も敷いていなかったが、掃除は行き届いている感じで、さっぱりとしている。彼女が『今一部屋空いている』と言った個室は、最近結婚したという彼女のお姉さんが使っていた部屋のようだ。今はお姉さんが置いていったベッドや荷物、ニコレットの画材などが置いてある。
「わたし、実家はレスターなんですが、二年前から姉と二人で、ここに住んでいたんです。姉は九月に結婚したので、今はわたし一人なんですよ。それで、そのうちにもう少し小さいところに引っ越そうと思ってたんですが、まだそうしてなくて、良かったです。このお部屋、今からお掃除して、あなたが寝られるように片付けますね。あの……わたしのベッドは小さいですから」
 ニコレットはそう言いながら、少し赤くなっていた。
「姉の寝具で申し訳ないですが、でも一度洗ったので、清潔だと思います。あとで乾燥機を当てますね」
「ありがとう」
 僕は少し微笑しながら、それだけ言った。彼女の部屋には、たぶんこの部屋と同じサイズのベッドしかないのだろう。少し幅の狭そうな、シングルのパイプベッド。たしかにこれでは二人は寝られないし、僕も彼女とぴったり密着して身動きも取れない状態で眠るのには、やはり少し抵抗があるから、別々の方がお互いに気楽だろう。
 小さめのリビングダイニングには、白いクロゼット、本棚、二人がけのソファとテーブル。テレビとDVDデッキ、それにコンパクトなステレオセットが白いローボードの上に置いてあった。ローボードの中は僕らのCDやDVD、雑誌がぎっしり入っている。壁には、正面に僕らのポスターがドーンと貼ってある他は、彼女の手になると思われる絵がいくつか画鋲で留めて、飾られていた。公園、港、街の通りなどを水彩やクレヨンで描いたもので、なかなか上手だ。その絵がシンプルなライトグレーの壁紙に、彩りを添えている。彼女の自画像や、家族のものと思われる肖像画、友達らしい女の子や猫の絵もあった。それから――僕は思わず指をさした。
「これ、アルバムジャケットの模写だね」
 僕らのアルバム、『Children〜』から『Vanishing〜』までのジャケットカバーの絵が、昔のLPサイズに拡大されて描かれていた。
 僕らのアルバムジャケットはデビュー作から一貫して、子供たちをモデルに扱っている。サードアルバムは、手の上から飛んでいく小鳥を見送る女の子、その次は青空に吹く風を見上げている男の子の後ろ姿、最新作は白いドレッサーの鏡に映る自分の姿を不思議そうにのぞいている、小さな女の子。この最新作のモデルは、一歳を少し過ぎたころのロザモンドだ。その表情がおもしろいと、エアリィはアデレードに見せるために、携帯のカメラで撮ったそうだ。その娘の写真を改めて見て、(これってユーリカ! の表情だな)と思ったらしい。が、このアルバムタイトルを持った作品は、もうすでに別のジャケットで世に出てしまったし、エアリィにしても自分の子供をジャケットに持ってこようなどとは、全く思わなかったようだ。しかし新作のジャケット選定時に、(鏡に映る世界っていうのも、幻想かも)と、この写真を思いつき、アート監督のハーバートさんに、別のモデルで撮って絵に描いてもおもしろいかも、と言ったところが、監督さんに、『いや、別のモデルはいらないよ。この方が芸術的だ。これを絵に模写して使おう』と、ジャケットカバーになった経緯がある。
「ロザモンドちゃんって、かわいいですよね。まるで天使みたいで。さすがにエアリィのお子さんだけあって、本当にきれいでかわいいって、感激しちゃいました。病院の前で実物を初めて見ることができたんですが、ピンクのフリフリのワンピースを着て、金髪の巻き毛がくるくるで、おめめがパッチリしていて、本当にお人形さんより、かわいかったわ」
 ニコレットは僕の後ろから絵をのぞき込みながら、そんなコメントをした。
「ああ、今回こっちに連れてきていたからね。先週、一足先に帰ったけれど。あの子は可愛い子だよ、本当に」
「あなたにもお子さん、いらっしゃいましたよね。クリスチャン坊や。三歳くらいでしたっけ。すみません。一歳くらいの時にネットで拡散されたから、お写真は見たんですが、かわいいお子さんですよね。今はもう少し大きくなられたでしょうけれど」
 思わずどきっとした。五月以来、半年も僕は息子に会っていないのだ。クリスはステラと僕の確執を知らない。でも小さな心にも、なんとなく父と母が昔のように仲良しではないことを、感じているのだろう。一緒にいた時もいつも通り甘え、元気に遊んではいるが、時おり手を止め、僕らをじっと見ていた。その瞳に不思議そうな表情を浮かべて。僕ら大人の意地の張り合いに、小さな息子を巻き込んで良いのだろうか――そんな良心の痛みを感じた。クリスは今、どうしているだろう。あの子は父親を――こんな僕でも、今でも慕ってくれているだろうか。今の僕に、その資格があるだろうか。
 ニコレットも僕の戸惑いをなんとなく感じたようだった。それ以上息子の話を追求はせず、他の絵の説明を始めた。これは五月のころのハイドパーク。これは去年の夏、コーンウォールに行った時、これは母親で、こっちが父親。これは姉。これは一番仲良しの友達で、これは実家で飼っている猫。僕らの肖像もロゴマークもあった。

 リビングの壁はまだ救われた。問題は彼女の寝室だ。部屋には少しスリムなシングルサイズのパイプベッドとパソコンデスクが置いてあり、その上に赤いノートPCがのっている。その横には小さなドレッサー。壁には彼女の手書きの絵は飾られていない。そのかわり、壁はおろか、天井にまで僕らのポスターがめいっぱいだ。グループショットやエアリィと僕だけのもの、宣材ポスターやライブショット、大小取り混ぜて何枚あるかわからないほどだ。他にもグラビアの切り抜きや表紙などがいっぱい貼ってあって、壁紙の地色がほとんど見えないありさまだ。どこへ目をやっても、自分や仲間たちに見下ろされているような気がして、ひどく決まりが悪い。この部屋で眠ることにならずにすんで本当によかった、とひそかに胸をなでおろした。ベッドの上の壁には、あの時ホテルの部屋で彼女に書いた僕のサインが、額に入れて恭しく飾られていた。
「すごいねえ、この部屋は……」
 僕は思わず苦笑しながら呟いた。
「ここは、わたしの神殿ですよ」
 彼女はいたずらっぽく笑った。
「これだけ集めるのに苦労したんですから。グッズもコンプリートしましたし、CDもファーストから全部揃えてます。シングルは限定販売だから、『Beyond the Night』と『The Glass Castle』しか手に入らなくて、それもやっとの状態です。シングルカップリング曲とか、PVとか……メイキングがついているのもあるし、全シングル集めたかったんですが、少なすぎますよ、発売枚数。手に入らなかったものは、動画サイトで我慢するしかなくて。ツアーDVDも、もちろん買いました。『Children〜』ツアーのMSGと、『Euraka』ツアーのO2。こっちは地元だから、よけいに気合い入ります。VIツアーのDVDは、いつ出るんですか?」
「ああ、まだ撮ってないんだよ。二回目の北米で撮る予定だったから」
「そうなんですか。早くツアーが再開するといいですね。今回のツアーも、本当に良かったから、早くDVDで見たいです。あとはブートレッグ。映像ものはほとんど出ないので、音源ばかりなんですが、三五公演分くらいあります。あっ、でも、ミュージシャンとしては、やっぱりいやですか、ブートレッグって」
「いや、僕もけっこう持っていたからね」
 僕は肩をすくめ、苦笑した。
「それで、不当に儲けたりするのは良くないけれど、ファン同士が非営利で音源を交換するものなら、まあ、あまりうるさく言うつもりはないよ。でも、まあ、僕らはあまりないけれど、調子が悪い日があった時、それが半永久的に音源に残されたりするのも、ありがたくはないけれどね」
「でも、ファンとしては、できるだけ生で見たい。それが無理なら、せめてできるだけの公演を、間接的にでも体験したい、というのは心理じゃないですか」
「僕も昔はファンだったからね、わかるよ。まだコンサートを観にいけなかったころ、ブートをずいぶん集めたっけ。スィフターやHSを」
 HS――Harvest Sheep。ディーン・セント・プレストンさんとカール・シュミットさんのバンド名は、CDをすべて捨ててしまってからは口に出したくもなかったが、今はすんなり言えた。プレストンさんにも、再び敬称をつける気にもなった。今はあまり他の音楽を聴かなくなっていたので、もう一度CDを買いなおそうとは思わないが。
「じゃあ君は、今回のロンドン公演も観に来てくれた?」
「ええ、もちろん! 『Green Aid』と、アリーナ公演の初日を観ました」
「へえ、そう。『Green Aid』も観に来てくれたんだ。あれもね、実は映像化されるんだよ。来年の春あたりに。僕らは『Talk to the Nature』と『Earth Sky and Sea』こっちはまだ仮題で、たぶん次のアルバムに収録されることになるだろうけれど、タイトルは変わるかもしれない。あんまり直接的で芸がないって、エアリィが言っていたからね。その二曲だけの参加だけれど。まあ、君は来ていたなら、わかっているよね」
「ええ。あなたがたの出演が見たくて。世界で生中継される場に、わたしも立ち会いたかったんです。だから、オークションで落としたんですよ。チケットの抽選に外れたので。お給料一か月分が飛んでしまいましたが、その価値はありました。本当に素晴らしかったわ。わたし、あなたがたのファンで良かったって、ものすごく誇らしかったんですよ。他のアーティストなんて、あなたがたの前には、みんなかすんじゃいます。ファンだからそう思えるって言うんじゃなくて、そうでない大人たちまで、そう言っていましたもの。それに、本邦初公開の新曲も聴けたし。本当にすばらしい曲ですよね。番組をタイマーで録画したんですが、DVDが出るなら、絶対手に入れなくちゃ。次のアルバムは、いつごろ出るんですか?」
「うん……まあ、エアリィが順調に回復して、復帰できたら……まず今回のワールドツアーの残り半分を消化して、三ヶ月くらい休んで、それから次を作り始めるから、早くて再来年の春か夏だね」
 復帰できなかったら永遠に出ない、などとは言えなかった。僕もそうは絶対に思いたくない。
「そもそも『Earth〜』はね、グリーンエイドに出る日に出来た、それこそできたてのほやほやだったんだ。もともとは『Talk〜』だけで参加する予定だったんだけれど、二曲演って欲しいって主催者に要請されて、何にしようかって考えて、でもそれにふさわしい主題の曲が他にあるかなって思案していたんだ。そうしたら、エアリィが『作っちゃおうか。なんか出来そうな気がするから』って、ものの三十分で書いちゃった奴があれなんだよ。あまり時間がなかったからアレンジも決めてもらって、急遽スタジオを借りて、二時間ほどで仕上げたんだ」
「凄い!」ニコレットは心から感嘆したような声を上げた。
「あんな壮大な素晴らしい曲をたった三十分で書いて、二時間で仕上げた、ですって?」
「エアリィの曲作りの瞬発性は、本当に異常だよ。インスピレーションが落ちたら、たいてい三十分とかからない。だから彼は、プリプロダクションは暇だって、ぼやいているしね。しかも、とんでもないレベルの曲を出してくる。同じバンドで言うのも何だけれど、彼は天才以上だ。僕も完全に脱帽している。まあ、ちょっとだけ悔しい部分もあるけれどね。でも感嘆の方が明らかに大きいんだ」
「本当に、そうですね。あの人はいろいろな意味で、すごいです。それに、あなたたちインスト陣も二時間で、あそこまでこなれて演奏できるのね。やっぱり上手なんだわ」
 ニコレットもため息をついていた。そしてしばらく何か考えているように沈黙したあと、ためらいがちに言葉を継ぐ。
「あの……ということは……」
「なんだい?」
「『ROCKIN EXPRESS』に載っていた、あなたのインタビューって……わたし、とてもショックでした。それで、信じなかったんです。あなたがあんなことを言うはずはないって。やっぱり、でっち上げなんですね」
「ああ、まあね。あれは途中から、かなり変形されているよ。実際に僕が言ったこととはね」僕は苦笑した。
「でもそのあとで、エアリィと一悶着やったっけなあ。そこのインタビュアーが彼にその記事を見せたもんだから。それでひどいケンカをした、というか、僕が一方的にケンカをふっかけてしまったんだけれど。まあ、たしかに、ほんのちょっと軋みがあったのは事実なんだ。僕自身は気づいていなかったけれどね。インタビューそのものはでっち上げでも、僕はたしかにあれに近い感情を、どこかに持っていたんだって気づいてね。あれよりひどいことを、彼に直接言ってしまったよ。でもね、そうやった爆発したおかげで、解消できたんだ、結果的に。エアリィには悪いことをしてしまったけれど、僕はやっぱり自分は欠点だらけの人間なんだって、痛感もしたよ。人間関係って、深くつきあって行くには、きれい事だけでは乗り切れないことも、出てくるんだろうね。でも、そうやってぶつかったおかげで、僕も吹っ切れたし、今の僕らはもう本当に、親友同士に戻れたよ。和解した翌日に、あんなことになってしまったけれど……」
「ああ、そうですね……」
 ニコレットは真剣な面持ちになり、頷いていた。
「あの時、わたし会場にいたんですよ。最終公演のチケットも取っていましたから。初日は本当に隅っこの遠い席だったけれど、すごく感激して、終わってから三十分くらい、その場にぼーっと座り込んでいたくらいです。もう一回あの感動のコンサートが見られると思って、それも初日はBショウだったから、最終日はたぶんCで、違うセットが見られるって。スタジアムになったから席は遠いけれど、でもスタンド正面だったし。嬉しくて夜も眠れなかったのに、土壇場でキャンセルでしょう? あの時わたし、午前中だけ仕事に出て、午後休をとって、あなたたちの会場入りを見るためと物販のために、二時から会場に来ていたんです。そこで友達二人と合流して。初日に買い損なったロングスリーブとマグカップを買うために列に並んでいて、ああ、四時半には買い終わってロードエリアの所まで行ければいいな、と、そんなことを思ってたんです。四時二十分くらいに、なんとかグッズをぎりぎりで手に入れて――わたしが買ってすぐ売り切れになったですから、両方とも――よかった。さあロードエリアの近くに行こうって、列から出たら、会場に集まっていたファンたちの一部から、悲鳴に近い声が上がったんですよ。それから、ものすごくざわざわし始めて。『エアリィがホテルの前で、カルトの奴に撃たれたって!』『うそぉ!なんで?』『やっぱりSMがらみで?』『だと思う。他に考えられない!』――あ、SMって、Scarlet Missionの略なんです。『宗教は危ないのよね!』『三度目よ、襲撃!』『でくの坊セキュリティは、なにしてたのよ!』『やだーー! 嘘だと言って!!』って、あとはもう言葉も聞き取れないくらいになりました。現場からの情報が拡散されて回ってきたみたいなんです。わたしも急いで友達と一緒にスマートフォン取り出して、『ファンの子を人質にとられて、正面から胸を撃たれた』っていう書き込みを見たとたん、嘘、それじゃ死んじゃう! 何かの間違いよ! って、思わず貧血起こして、その場に座り込んじゃいました」
「ああ、今は情報拡散が早いからね」僕は少し苦笑した。
「会場の外には、もうかなりの人が来ていたんですが、真面目に学校に行っていた学生さんたちが、来はじめる時間帯だったから――そのうち四分の一くらいの人が『じっとしていられない! 現場行って、たしかめてくる。ホテルどこ?』『○○』『あ、そこにいたんだ』『わかった、行こう!』と行ってしまって、『病院わかる?』『救急車追っかけてる人がいるって。報告待ち』と言っている人もいて、残りの人はその場で泣いたり叫んだり、すごい騒ぎでした。わたしは座り込んだまま、友達とずっとスマートフォンで、情報を更新しようと必死になっていて、でも、みんなが同じようにしていたから、ものすごく重くて。五時前に主催者の人が出てきて、正式にキャンセルが告知されて、そのころには相当な数の人が来ていて、もう本当に騒然となりましたね。もし犯人がその場にいたら、わたしたちに殺されていたに違いないわ」
「ああ……」
 僕は思わず頭を振った。会場では、きっとすごい騒ぎになっていたのだろうな、と僕も後から思ったが、やっぱりそうだったのか。それにしてもあの場で、どうやって救急車を追いかけたんだ? あの場にいた誰かがバイクにでも乗って、突っ走ったのだろうか。病院がわかったのも、そのせいか。信号は大丈夫だったのか? 事故を起こさなくて良かったな、と、よけいな心配をしてしまった。
 そして――会場の外には、ニコレットもいたのか。五時前にはホテルの外よりも、はるかに多い――五時半からの開場なので、もうその頃には、かなりの人が来ていただろう。スタジアムのコンサートシーティング、キャパいっぱいの五万四千枚のチケットは、完売していた。少なく見積もっても、その頃には一万人以上の人が、会場の外で待機していただろう。もし僕らがあの時すぐにリムジンに乗り込める状況だったら、あいつらは警察で供述していた通り、そこに来て銃を乱射し、半径十メートルはふっとぶという爆弾で、自爆したのだろうか。
 改めて、激しい寒気を感じた。でも今それを話してニコレットを怖がらせても、仕方がない。幸い、と言うのは少し抵抗があるが、あいつらはその最後の計画は、実行しなかったのだから。僕はふっとため息をつき、頭を振った。
「僕らもヘッドラインツアーを始めてから、ずっとノーキャンセルで来たけれど、とうとう記録が破れたね。それも、まさかこんな形のキャンセルとは、僕らもとうてい思わなかった。期待して集まってくれた人たちには、申し訳なかったと思っているよ」
「でもわたし、思いました。現場にいなくて、よかったって。あの場にいた人たち、いたたまれなかったと思いますから。わたしもたぶんその場にいたら、同じようなことをしようとしたと思います。わたしは犠牲になってもいいから、逃げてって。逆にアーディス・レインさんがわたしたちの犠牲になるって、それはありえないわって。優しい人なんでしょうね、きっと。あれほどの人なのに。その気持ちはとってもありがたいんですが、自分のせいでって思ってしまうのは、本当にいたたまれないですよ」
「ごめん。そう言ってしまったのは、僕なんだ。あの時は僕も動転していたからね」
「ええ。あなたがそう言ったっていうことは、知っていますが……それも拡散されていますから。でも一般的に見れば、やっぱりそうですよね」
「でもあいつにとって、君たちの命は重いんだよ。逆に考えてみれば、自分のために誰かが、大勢のファンたちが犠牲になったって考えるのは、やっぱりいたたまれないだろう」
「まあ……そうかもしれませんね……」
「それに、彼は言ってたんだ、病院で。あの時、弾丸が当たって意識が飛ぶ瞬間まで、ずっと思っていたって。絶対に死なない。死にたくない。生きてやるって。犠牲になるつもりは、彼もなかったんだ」
「意志の力、なんですね。なんていうか……エアリィらしいなって思います」
「僕もそう思うよ」僕は強く頷いた。
「でも、あそこにいたファンの人たちが自分を責めるのは、違うと思う。僕は思わず誤解されるようなことを言ってしまったけれど、本当に憎むべきは犯人たちだ。それ以外の、誰でもないよ。身内がカルトから脱会したのは、その宗教がその程度のものだからだって、エアリィがあの場でそう言っていたけれど、本当にそうだと思う。V.Iアルバムは引き金になったかもしれないけれど、本当に価値のあるものなら、消去されたりはしない。そういう意図もあるんだ、あれには。僕も最初はわからなかったけれど、再演を繰り返すうちに、わかってきた。消去されるのは幻想だけだ。真実は消えない。なのに奴らは、自分たちと同じようにしか考えられない。僕らをカルトだと思い、彼を教祖だと思い、たぶらかして自分の下へ引き寄せた、そう思い込んで、ゆがんだ復讐を企てた。でも間違ってる、それは根本的に。僕らはロックバンドだ。エアリィはそのシンガーで、ソングライターだ。それ以下でもそれ以上でもない、彼があいつらにそう言っていたように。それを理解できないのは、あいつらが偏見で凝り固まっていたからだ」
「ええ。でも、よく言われますよね、大人たちとか、一部のメディアには。エアレース自体、一つのカルトじゃないかって。カルトっていうイメージとは、ちょっと違いますけれど。だって、スーパーメジャーですし、AirLace。断トツで、ナンバーワンメジャーでしょう、今では。でも影響力がものすごく大きいから、そう見られてしまうんでしょうね」
「まあ、それはたしかにあるね」
「V.Iは本当にセンセーショナルなアルバムだったから、騒ぎもすごかったですけれど。ネットを見ていても、本当にいろいろありましたね。わたしは親元を離れていたし、学校も卒業しているから、それほど派手な確執は起こしませんでしたが……ああ、でも上司とは二、三回ぶつかりましたね。以前でしたら、上司に意見しようなんて思わなかったですが。それは間違っている、と、どうしても思えてしまって。でもわたしだけでなく、そのセクションの七、八人くらいが後押ししてくれて、その上司は最後には戸惑ったような顔で、『ち、これが例のなんとか現象か』なんて言っていました」
「そうなんだ……」僕は思わず苦笑した。
「でも、なんだか……夢みたい」
 ニコレットはふとため息をついて、僕を見上げた。
「あなたがわたしの部屋にいる、こうして話をしているなんて……バンドの裏話なんかも、じかに聞けて……現実に起こっているなんて、信じられないです」
「いや、そんなに構えないでほしいな。僕はただの人間だよ。AirLaceというバンドのギタリストであると同時に、普通の人間だ。笑いもすれば怒りもする。ものも食べるし、寝るし、お風呂にも入るし、トイレにだって行くよ。別に特殊な人間なんかじゃないんだ。君と同じだよ。それは僕だけじゃない。みんな、そうさ」
「ええ。今はあなたを、とても身近に感じます」
 ニコレットは頬を紅潮させ、両手を合わせて、僕をじっと見てきた。
「去年までは、わたしも他のファンと同じような見方をしていましたけれど。あなたたちは雲の上の人で、憧れの人。毎日一回はあなたたちのCDを聞かなくては気が済まなくて、いつかカナダにも行こうと思って貯金もして。ホームタウンのコンサートが見たかったし、あなたがたの住んでいる街を見たかったから。トロントの人たちは、よくネットでぼやいていましたけれど。みんながホームタウンに来ようとするから、ただでさえ高い倍率がよけいに跳ね上がって、地元のファンがちっとも見られないって。でもわたし、地元の人って、それだけで羨ましいと思います。同じ街に住んでいるなんて。名所めぐりだって簡単に出来るし――そう、非公式サイトには、名所観光マップもあるんですよ。自宅はさすがに除外してますが」
「それは……普通の観光マップじゃないのかい? 市庁舎やタワーや議事堂みたいな」
「そういうオーソドックスな観光ガイドじゃないんです。AirLace関連の名所マップです。卒業したハイスクールとか、アマチュア時代に出ていたバンドフェスの会場になった学校とか、コンテストの会場とか、よく行っていたお店とか、良く行っている場所とか、ビデオに出てきた場所とか、マネージメント会社が入っているビルとか。ああ、あなたのご実家の病院もありますよ」
「ええ、本当かい? 大丈夫かな」
「外から見て、写真を撮るくらいですから。カナダ編はトロントが主で、あとはマインズデール。あそこの教会はエアリィの生誕地みたいなものですし、『Evening Prayer』と『Scarlet Mission』の二曲のPVの撮影地でもあるから、ある意味ファンの聖地ですね。あの人のお祖父さんの、アリステア・ローゼンスタイナーさんの聖地でもあるみたいで、わたしも少し映画は見ました。車頼りの田舎らしいですが、わたしもぜひ行ってみたい場所です。あとアメリカ編もあるんです。プロヴィデンスとニューヨークがメインの。あなたがたインストの四人には関わりはないでしょうけれど、プロヴィデンスの学校から『Cascade』や『Waitin’ for the sunrise』が生まれているわけですし、“ローディー・ギャング”のみんなで集まって遊んでいた場所とか、あの事件があった練習場とか。ニューヨークでは、『Wild Rose』や『Through the Window』があって、子供のころ監禁されていたアパートとか、飛び降りて保護された場所とか、野バラさんに助けてもらった場所とか、そういう所もあります」
「え、と言うか、特定されているのかい、その場所を。ファンたちに?」
「ええ。あの小説家さんのブログにありましたから。それがファンサイトにも転載されて。だから熱心なファンは、ほとんど知っていますし、そういう名所めぐりもけっこう盛んです。わたしもそうで、まだ名所めぐりはしたことはないですが、いつか絶対行こうと思っていて、CDやDVDを見て、聞いて、動画を見て、いろいろな情報をあさって、みんなと話して、騒いで、コンサートに行って。プライベートでは、遠くから一目でも見られたら、それだけで幸せで。本当は去年の春も、図々しくガードをかいくぐってあなたの所へ押しかけていくつもりなんかなかったんです。でも……」
 彼女は少しいたずらっぽいまなざしで、僕を見上げた。
「あなたはきっと覚えていないですよね。わたしはあなたに会ったのは、あの晩が最初じゃないんです」
「え?」
 でもあの時より前には、彼女を思い出せない。
「去年の春ですけど、前回のワールドツアーの、あなたたちがイギリスへ来た最初の日でした。わたし、ロンドンの空港で待っていたんです。それであなたたちがゲートから出てきて、みんなが一斉に走り出して、警備員さんが止めて……それで、わたしは警備員さんに突き飛ばされて、転んでしまったんですね。あなたはそれを見て、その人に抗議してくれたんです。『乱暴しないでくれ!』って。そして、わたしに向かってにっこり笑うと『ごめんね。大丈夫?』って、言ってくれたんですよ。それ以来あなたはわたしにとって、急に現実味を帯びた、一人の人間になったんです。生身の人間に恋するような気持ちになってしまって。だから、どうしても会って話をしたいって、そんな気持ちが押さえきれなくなって。あなたたちが泊まっているらしいホテルは、同じホテルに泊まっている人たちの書き込みでわかる場合があるので、チェックして、その時もたまたまわかったので――わたし、もしかしたらあなたたちの宿泊先はそこかもしれないと見当をつけていて、あらかじめお部屋を予約してあったので、ホテルのロビーやお店をうろうろしていたんです。あなたのお部屋は最初、わからなかったんですが、あなたのボディガードさんを空港で見て知っていたので、たまたまその人を見かけて、それでこっそり後をついて行って、あの人があなたの部屋に行くところを確認して……どうしようか迷ったんですが、意を決して、ドアを叩いたんです。怒られても、追い返されても、近くで顔を見られたらそれで良いと思って……」
「そう。マイクの後をついていったのか。まあ、あの頃ならフロアに警備員はいないから、部屋がわかったら、来られたんだろうね」
「今はいるんですか? 警備の人」
「ああ。このツアーからね。飛び込みのファンならまだいいけれど、攻撃されると困るから。特にエアリィは絶対外に部屋が知られないように、かなり気をつけているんだ。この間の全米ツアーで、ルームサービスのふりをした奴が彼の部屋に発煙筒を投げ込んで、その煙で気分が悪くなってしまって。アレルギーを起こすほどじゃなかったけれど、でも相当咳き込んでしまったんだ。公演には響かなかったけれど」
「あら、まあ! そんなこともあったんですか!」
「そう。それに発煙筒じゃなくて、爆発物だったら大変だと、マネージメントやスタッフたちは青くなっていたよ。僕らもね。彼への攻撃は、本当に洒落にならないんだ。特にこのツアーは。だからずっと彼の専属スタッフが、部屋でも一緒にいることが多かったんだ。ドアを開けた途端に襲われるような事態を避けるためにね」
「そうなんですね。でも結局、こんな大きな事件が起きてしまって……命が助かって、本当に良かったです。『危機を脱して、意識が戻った』という報告が公式ページに出た時、思わず泣きましたから」
「そうなんだ。本当にありがとう。心配をかけて申し訳なかった、とあいつの代わりに言っておくよ」
 僕の言葉にニコレットは笑って頷き、そして少しそれた話の続きに戻った。
「あの時、わたしがあなたの部屋まで行くことが出来たのは、本当に偶然の幸運だったと思います。それに追い返されると思ったら……最初は少し不機嫌そうで、ちょっと怖かったですが、すぐに笑って部屋に入れてくれて、本当に嬉しかったです。天にも昇る気持ちでした。一対一で会えて、あなたは本当に思ったとおりすばらしい人で。それで、ますます好きになってしまったんです」
「照れるな。そんなに誉め上げないでくれよ。でも僕は、ホテルで会った時が初対面だと思っていたよ。正直言って、さっき君が言った空港の話は、覚えていないんだ。ごめんね」
「いいんです。たぶん、あなたは気に留めてはいないと思いましたから。あなたにとっては、当たり前の行為なんですよね。あなたは優しい人だから。公園でお会いした時も、あなたはわたしに、さりげなく傘を差しかけてくださったし。本当に優しい人なんですね」
「頼むよ。そんなに誉め上げないでくれないか」
 僕は面映くなるばかりで、少し身の置き所のないような思いを感じた。

 彼女のアパートに転がり込んでから、一週間が過ぎた。ニコレットは勤めをずっと休み、身の回りの世話をしてくれる。掃除や洗濯をし、おいしい食事を作り――そう。確かに彼女の手料理はおいしかった。イギリスの料理はまずいというのは、たぶんに例外もあるのだろう。淋しい我が家に帰るより、彼女とこうしているほうが、よっぽど幸せだと思えた。僕は安楽な微温湯に浸かるように、ゆったりとした快適な、そして無為な生活に身を沈めていった。その間、ほとんど何もしなかった。ギターはホテルに置いてきてしまったし、本といっても彼女の蔵書はロマンス物が多く、趣味に合わない。でも彼女が僕の好みそうな本やゲームを買ってきてくれたので、それを読んだりゲームをしたり、テレビを見たりして日を過ごした。彼女は家の仕事をする傍らで、一緒にゲームをしたり話したり、僕をモデルにして新しい絵を描いたりしていた。
 その間に、彼女のことを色々と知った。ニコレット・リースは今二十歳で、三月五日生まれ。両親はレスターで大きな商店を営んでいて、比較的裕福であること。彼女も四才違いの姉マーガレットとともに、経済的には何不自由なく育ったが、美人で利発で朗らかな姉といつも比較され、非常にコンプレックスを持っていたこと。もともと内気で引っ込み思案だった彼女はそれですっかり傷つき、ほとんど友達もなく自分の殻に閉じこもって、少女時代を過ごしたこと。そんなことを、話してくれた。そんな彼女の心の扉を開いたのは、僕たちの音楽。特にあの空前の出世作となった『Children for the Light』との出会いだったということも。
「わたし、子供のころから音楽は好きで、クラシックからロックまで、いろいろと聞いていたんです。あなたたちの音楽も、セカンドシングルの『Tell Me』をラジオで聞いて好きになって、次の日にデビューアルバムを買ったんです。それがすごく良かったから、セカンドが出た時も買ったし」彼女は僕にそう語った。
「だけど正直に言えば、最初はわたしのお気にいりの一つにすぎなかったんです。外国のバンドだし、かなり若いし。わたし、エアリィとは同じ年なんですよね。あの人の方が誕生日は三ヶ月遅いし、あら、超美形だけれど、残念ながら年下、なんて思ってしまいました。当時のわたしも十四か五でしたので、同い年はありえないと。それに、どう見ても超可愛い女の子に見えてしまうし。あなたのことは格好良いし、三歳上だし、良いな、と思ったのですが。でも、ファーストは本当に好きなんですよ。特に『Tell Me』と『 Little Vigilantes』『Truer Words』『Escape』、『Indifferent Circles』『Shades of Green』それに『A Spirit in Calling』がとてもお気に入りで……あら、十一曲中七曲って、相当なパーセンテージですね。残りの曲も、けっこう好きです。ライヴの方が、断然良いですけれど。ファーストの時って、本当にみんな若いから。エアリィ十四だし。声がすごくきれいだけど可愛いって感じで、今聞くと。最近あまり初期曲はやりませんけど、『Children〜』ツアーのDVDで聴いた時には、本当にあの時には感じなかった感情が生々しく感じられて、『Escape』とか『A Spirit〜』とか『Shades〜』とか、泣けるんですよ、本当に。悩める十代の真情ずばりっていう感じで。CDもとても良かったけれど、ここまで感動はしなかったです」
「ああ。そうだね。ファーストの曲は、そういう主題が多いから。大人の世界観とのギャップというか。最初に見た時には、『ええ、おまえ、こんな詞書くんだ』って、意外だった。まだ知り合って一年もたっていなかった頃だしね。彼の内面の深いところまでは、知らなかったんだ。『Children〜』ツアーのDVDか。マディソン・スクエア・ガーデンで撮ったやつだね。あの頃はもうエアリィも覚醒しているから、スタジオ版とは違ったデリバリーがあったんだろうね」
「覚醒……って?」
「ああ、彼は『Children〜』製作前にモンスター化したから。才能的に。大脱皮したって言うかね。そしてバンドもモンスター化したんだ」
「それは、わたしも思っていましたが……なにか、バンドで特別訓練を受けたっていう話は聞いていましたけれど。そう、たしかにセカンドとサードのギャップは凄いですよね」
「セカンドアルバムは、わたしとしては少し期待はずれかな、と思いました。デビュー作が良かった分、期待値が高すぎたのかもしれませんが。なんというか……曲は良いんだけれど、物足りない。ファーストの時より、ぐっと来るものがない。すごく……なんていうのか、ストレートすぎる。そんな感じがしたんです。『Take into the Flame』と『Round and Round』、それに『Silent Cry』は好きでしたけれど。ごめんなさい」
「いや、僕らにとっても、セカンドは思い切り不本意だからね。君があげたその三曲以外、僕らも好きじゃないよ。その三つが、元の形をある程度残せた曲なんだ。三曲だけはそうして良いと、プロデューサーが言ったんだ。それでね」
「あのプロデューサーは、大戦犯ですよね。セカンドの曲は、ライヴの方が断然良いです。特にオルタネート・ヴァージョンが。去年のツアーでタイトルトラックのオルタネート・ヴァージョンを聞いた時、本当に感動しました。ああ、本当はこんなに凄い曲だったのに、なぜアルバムで出さなかったんだろうって思いました。今でも、セカンドアルバムは三曲以外、あまり聞いていませんね。ライヴヴァージョンばかり聞いてます。特にライヴで披露されているオルタネート・ヴァージョン、あれが動画サイトに上げられているんですが、そっちで出してくれたらどんなによかったか、と本当に思ってしまいますね」
「ああ。セカンドアルバムは、オルタネート・ヴァージョンが真の形なんだ。僕らが作った、最初のデモだよ。プロデューサーに、全面的にやり直しを命じられる前のね」
「本当に聞けば聞くほど、あのプロデューサー許せませんが……今はもう過去の人になってますね。良い気味だわ。でも当時のわたしは、そんな事情は知らないから、なんだか期待はずれ、という感情だけが残ったんです。それにツアーが始まったと思ったら、タクシーの事故で、あっという間に終わってしまって。ヨーロッパツアーもキャンセルになったんですよね。一応チケットとっていたんですが。それから一年近く音沙汰がなかったから、わたしもかなりさめかけていました。あなたがたが、わたしの命を救ってくれるまでは」
「えっ、僕たちが君の命を救ったって?」
 僕は驚き、問い返した。
「どういうこと? いつだい? まるで覚えていないよ」
「ええ。あなたがたは、知らなくて当然ですよ」
 ニコレットはちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わたしがもうすぐ十七歳になるころのことなんです。きっかけはもう少し前になるんですが、まだレスターで家族と住んでいたころです。わたしは子供のころから友達が少なくて、本当に仲のいい子がいなかったんですが、新しい学年になってしばらくすぎた十一月の終りごろから、わたしにとても親しげに声をかけてくれる女の子がいて、その子と仲良くなることができたんです。『私たちは親友よね』と彼女は言い、わたしも嬉しくて『もちろんよ!』と返したものです。彼女は美人で明るくて、はちみつ色の巻き毛がとてもきれいで、わたしはこんなに素敵なお友達が持てたことが、とても自慢でした。そして年が明けたころ、わたしに一人の男の子が声をかけてきたんです。彼は一つ年上で、同じ高校の上級生でした。それでわたしたちは、付き合い始めたんです。彼は優しくて、わたしは有頂天になりました。三回目のデートの時、彼は自分も友達を連れてくるから、ダブルデートしようと言ってきました。それでわたしも彼女と一緒に行ったんですが、彼の方のお友達は来なくて、都合が悪くなったと。それでその日は、三人で会ったんです。彼が彼女に対して優しくて、よく話すのは、きっとお友達が来ないから、彼女が一人で寂しくないようにだと、わたしは思っていました。なんて優しい人なんだろうと。でも……それから彼からは連絡がなくなり、わたしからかけても忙しいからと言っていたんですが……そうですね、三人で会ってから、一か月もたたない頃でした。わたしがアルバイトをしている喫茶店に、二人が入ってきたんです。わたしはその時には洗い場をしていたので、接客はしなかったんですが、目を上げたら、仕切りの隙間から、テーブルに座っている二人が見えて。とても仲が良さそうで、テーブルの上で手を握り合ったりしているのです。わたしは自分の目が信じられませんでしたが、聞いてみないとわからないと、二人のところへ行きました。そうしたら、彼は彼女の方がずっと好きだと言い、彼女はわたしより自分の方が彼にふさわしい、と、平然と言うのです。さらに彼女はわたしと一緒にいたのは、今まで仲良しだった子と仲たがいしたので、他に友達のいない、引き立て役になってくれそうな子を選んだ、って言ったんですよ。『でも、あなたってホントつまらない子ね』と、そんなことまで。それに対し、彼は笑って、たしかにそうだね、なんて言うんです。おまけに、彼がわたしに声をかけたのは、間接的に彼女に近づきたかったからだとも言って。その時のわたしの気持ち、わかってもらえますか? やっとできた友達、やっとできた彼氏、そう思っていたのは、わたしだけだった。向こうはなんとも思っていない。友情や愛なんて、偽りだった。そう気づかされ、すっかり絶望のどん底に突き落とされて、制服のまま喫茶店を飛び出し、アルバイトもクビになってしまいました」
「そうなんだ。それはひどいな。でも、それはやっぱり君の言っているように、本物じゃなかったんだよ。それに早く気づいて、ある意味では良かったんじゃないかい? 昔、僕の妹がやっぱり、友達に裏切られたって、泣いていたことがあるんだ。仲良しだった子が、陰で妹の悪口を言って、別の友達グループに行ってしまったって。小学生のころだけれどね。その時母が『今のうちに気づいて、良かったのだと思いなさい。でも、他の子たちがみんなそうだと思ってはだめよ。だんだんあなたにも、わかるようになるわ。誰が偽物で誰が本物なのか。偽物に出会ったって言うことは、ある意味では良い経験なのよ』って、言っていたっけ」
「ええ。たしかにそうなんですよね。でも、わたしの家族って結構冷たくて、あなたのお母さまのように、優しくはなかったんですよ。『あなたがとろいからよ』とか、『もう少し魅力的にならなければね』なんて言うだけで。だからわたしよけい傷ついて、すっかり落ち込んじゃったんです。世の中に、自分ほど不幸な人間はいない。神さまは意地悪だ。わたしはやけになって、そう思いました。孤独で、もう二度と誰も信じられない気分で、人生に絶望してしまったんです。十代のころって、結構なにもかも大げさに感じるでしょう? あの時もそうで、わたしはもう何もかも失った。未来の希望も何もない、それならいっそ死んでしまおうって、思いつめたんです。まるで悲劇のヒロインになった気分で、暗い曲を流しながら遺書を書き、そのあとありったけの薬を飲んで、お風呂場で手首を切るつもりでした。そのまま実行して、朝まで誰も気がつかなかったら、あの晩は家に他に誰もいなかったから、わたしは本当に死んでいたかもしれません」
「でも君が今、こうして生きているということは、思いとどまったんだね」
「ええ。でも、どうして思いとどまったか、わかりますか?」
「いや」
「遺書を書き終わった時、BGMとしてかけていたメランコリックな曲を止めようとしたら、手が切り替えスイッチに触れて、ラジオに切り替わったんです。そうしたら急に、音楽が飛び込んできました。『逃げないで/憤激と絶望を内に閉じ込めないで/声を上げてほしい/助けを求めて、手を差し出してくれたら/その手を握りたかったのに/なぜ行ってしまう/未来を断ち切るな/お願いだから/見えない滝が間にあって/君の元に近づけない/それは君を閉じ込めてしまう/君の姿は水のスクリーンの向こうに/見えなくなった/そして消えてしまった』――わかります? あなたがたのサードアルバムの二曲目です。『Cascade』」
「ああ、あれか!」
 僕は思わず両手を打ち合わせて、小さく叫んだ。
「あれならわかるな。あれはエアリィが、プロヴィデンス時代に自殺した友達のことを思い出して、書いた曲だ。『僕には何も出来なかったことが、心残りだ』って言っていた。あれだけダイレクトなリフレインは、最近あまり書かないけどね。でも、ものすごい偶然だなあ。あれはラジオシングルじゃないから、それほど頻繁にはオンエアされてなかったはずなのに、君がまさに死を決意した瞬間に流れてくるなんて」
「ええ、そうなんです。たまたまラジオで、あなたがたのニューアルバムの特集をしていたんですよ。たしかにすごい偶然でしたけれど、今では運命だと思っています。わたし、その歌を聴いた時、まるで身体を電流が通り抜けたような気分がしたんです。逃げるな、戻れ! そう強烈に言われたような感じでした。わたしの嘆きなんか、珍しくもないことだ。逃げるなんて恥ずかしい。強烈にそんな意識が呼び覚まされ、思わず震えました。ばかなことをしようとしてたって……それで、わたしは正気に返り、遺書を燃やしたんです」
「そう。よかったよ、本当に。そうだなあ、あの『Cascade』はかなりの自殺を思いとどまらせたっていうことは知っていたけれど。相当な数の手紙が来ていたし、ネットの書き込みも結構あったらしい。でも、君もその一人だったとは知らなかったな。まあ……経緯って、あの本に書いてあったから、君は知っているかな。『Cascade』はプロヴィデンスのハイスクールから生まれた、って、君も最初に言っていたものね。そう、あれは彼がトロントに来る前の年に、クラスメートが孤独や絶望に悩んで飛び降り自殺したことが題材なんだ。エアリィにしてみれば、そのクラスメートとさほど親しくしたわけじゃなかったけれど、まあ、あいつは元々誰とでも友達になろうとするほうだから、親しく声をかけたこともある……」
「ええ、知っています。あの本は読みましたから。読んでボロボロ泣きましたし。でも、そのエピソードは、わりと軽く流されていましたね。その人とは、それほど親しいわけでもなかったから、それほど気には止めていなかったら、ある日突然、校舎の屋上から飛び降りちゃったって。遺書が送られてきたらしいですね。『君には孤独はわからないだろう。君はクラスのマスコットで、みんなに愛されているから。僕は君のように笑えたら、君のように魅力的だったら、と何度思ったか知れない。でも、君が僕に親切にしてくれたことは、忘れないよ。ありがとう』って」
「ああ」
 頷きながら、僕は思った。しかしその人は、思い違いをしていないか、と。『僕には本当の意味での仲間なんて望めないって、わかってるべきだった』――そう言った時の彼の眼とトーンを思い出す時、ある意味ではエアリィほど真の孤独を知っている人間はいないのではないかと、僕は思える。そのクラスメートは、彼の表面だけしか見えなかったのだろう。深く付き合っていたわけでは、なかっただろうから。
 前作のレコーディング時、ローレンスさんも言っていた。『あの子は時々、ふっと人が変わったような表情をすることがある。隔絶された孤独、失ったものに対する悲しみ。そう、言ってみればそんな感じだ。たぶん、エアリィの場合は同じ精神性を有する人、同類のいない寂しさかもしれない、そう思うんだ』
 エアリィは昏睡から目覚めた時に『みんなと一緒に行きたかった』と言った。でも、その『みんな』は、僕らではないのだろう。そんな気がする。彼の失われた同類。それが何なのかは、わからないが。
「わたし、その次の日に早速ショップに飛んでいって、CDを買ったんですよ。店に残っていた、最後の一枚でしたけど」
 ニコレットは少し頬を紅潮させながら、話を続けていた。
「本当に、すごい、すごい感動でした。別のバンドじゃないかと思えるくらい圧倒的で、言葉に出来ないくらい衝撃的で……まるで世界が変わってしまうくらい。魂が揺さぶられた、なんて生やさしいものじゃなかったです。マグニチュード九くらいの激震でしたね」
「ずいぶん大げさなたとえだね」
 僕は思わず苦笑した。
「本当ですよ。わたしには、それくらいの衝撃でしたもの。音楽を聴いてあんなに泣いたり震えたり、慰められたり、力づけられたことは、初めてでしたもの。何回聴いても、感動は薄れません。『Children〜』も『Eureka』も『Vanishing〜』も、みんな感動の名盤ですよ。後になるほど、ますます凄くなっていくし。わたしもますますのめり込んでいって。でもあの衝撃は、なによりも鮮明に残っているんです」
「そう、そう言ってくれると、うれしいけれど……なんだか少し照れるな」
「わたしはあなたたちに出会って、コンプレックスも悲しみも、すべてを前向きの力に変えていける強さを学んだ気がします。それから三年間で、いつのまにかわたし自身も変わってきたんですよ。物事を前向きに見られるようになって、くじけてもなんとか立ち上がれる力を持てるようになって、世の中にいるもっと不幸な人たちのことも、思いやれるようになったんです。わたしが変わると同時に、まわりも変わっていきました。友達もでき、生きがいもできて。とくに同じファンの子たちとは親友になりましたしね。姉とも、本当に仲良くなれました。わたしに感化されて、彼女もファンになったんですよ。今あなたがいる部屋にも、姉が出て行く前までは、ポスターが貼ってありました。結婚して、持っていきましたが。二回ほど、一緒にコンサートにも行ったことがあります。わたしの世界は変わったんです。本当にわたしは救われたんですよ」
「そう言ってくれると、本当にうれしいよ。アーティストとして」
「それに、これはファンの間では常識と言うか、ほかからは都市伝説扱いされてしまうんですが、あなたがたの音楽は、記憶力や集中力を上げるのにも、とても効果があるんです。勉強前に聴いて、それから勉強して、一段落したらもう一度聴いて、をしていると、すらすら頭に入ってきて、そしてテストの時には思い出す。テスト前に一曲聞ければ、もっと万全ですね。それでわたし、ハイスクール最後の成績は、ものすごく上がりました。スポーツにしても、集中力が上がって、うまくできるんです。それは他のファンの子も同じようで、だからLacerは――あ、あなたがたのファンをそう呼ぶんです――成績は上位のことが多くて、先生や親もある程度、黙認していることも多いと聞きます。わたしの親も、少しわたしのことを、見直してくれたようですしね」
「そうなんだ……」
 頷きながら、思った。それはきっと『その中にいると、自分の能力も最大限に引き出されるようだ』『あの子の力は、まわりのすべてを昂揚させるんだな』と、ローレンスさんが言っていた、その作用がファンたちにも同じように働いているという証左なのだろう。それが勉強やスポーツでの集中力という、二次的効果を生み出しているのかもしれない。
「それに、性格も少し変わりますしね。前より、積極的になれるんですよ」
 ニコレットは少しいたずらっぽい調子で言葉を継いでいた。
「昔のわたしだったら、とってもあなたの部屋まで押し掛ける勇気はなかったですから」
「でも、僕は直接的には、君の救い主やヒーローじゃないよ。たまたま転んだ君に声をかけたからっていう理由だけで、僕が君の王子さまになってしまうのかい?」
「ええ。あの瞬間、ビビっと来たんです。それに……なんというか、わたしにとって、エアリィは偶像なんですよね。アーディス・レインというアイコン。神様に近いというか、不可侵なものという感じがしてしまうんです。なんだか、恐ろしく高次元な印象で。遭遇エピソードとか読んでいると、すごくフレンドリーな人で、優しくて可愛くて飾らない人、という印象ではあるんですが、だから、本当にあなたみたいに生身で接したら、恋愛感情も湧いてきちゃうのかもしれませんが、なんだかそう思うと、きゃー、畏れ多い、と思ってしまったりもするんですよ。もし会えたとしても、まともに話が出来るかどうか、自信がないですし。でも、あなたは……わたしと同じ、人間なのかなって思えるんです。ごめんなさい、気を悪くしたら。でも、あなたの優しさは、とても人間くさいというか……エアリィが博愛だとしたら、あなたはピンポイントの愛、という気がして。あら、わたし自分で何を言っているか、わからなくなってしまったわ。でも、わたし、あなたは一人の人間だって感じて……会って話したいって、たまらなくなってしまって」
「あいつのは、アガペだからな。本人が言っていたように。それで僕は、エロスか」
 僕は思わず苦笑した。
「それに君が言っていたことは、当たっているよ。僕も君と同じ、一人の人間だということを……エアレースというバンドのメンバーであると同時に、一人の人間だ」
 僕は言葉を止めた。上手くあとの言葉が出てこない。ニコレットも少し戸惑ったように黙った。一週間前と同じ言葉。しかし、この一週間の間に、少し意識が変わったのかもしれない。彼女にとってのあこがれと、現実と。
 この一週間で話したいろいろなこと。そしてさっきの会話。その話の内容や態度、それに部屋に貼られたポスターや集められたCD、グッズ――そういったものから、彼女が僕らの熱心なファンであり、信奉者であることは察せられる。僕らのことも、たぶんファンたちに知られていることはすべて、本当にトリビアに属することさえも知っている。そして、たとえばエアリィ相手だと、彼女は完璧に熱心な一ファンとして振舞うだろう。大勢のファンたちがそうであるように。でも僕に対しては、どうなのだろう。最初に会った時には、明らかにファン的なためらいと崇拝が感じられたが、今はその思いとともに、もっと身近な人間として、普通に接しているようでもある。でも恋人として、ではもちろんない。彼女は僕を王子さまだと言ったが、想像の中で膨らんだイメージではなく、こうして現実の生身の人間として現れてしまった僕を、本当はどうとらえているのだろう? 彼女がエアレースというバンドについて論じている時、僕がそのメンバーであるという認識を、現実にはっきりと認識しているのか、それとも切り離して考えているのか――。僕は一瞬、わからなくなっていた。それは、彼女も同じだったようだ。
「あなたは……エアレースのジャスティン・ローリングスさんなのよね」
 ニコレットはためらいがちな口調で、そう聞いてきた。
「そうだよ……」
 僕も戸惑いを感じながら頷いた。
「なんだか……改めてそう思うと、すごく不思議だわ。それに、すごく怖い。あの人はすごいミュージシャンで、トロントに奥さんと子供さんがいて、来年の夏くらいにはまた世界を股に掛けてツアーして、アルバムを出すたびに世界中で何千万枚も売るような、超人気バンドのギタリストだわ。そう。わかってはいるの。わかっているんだし、あなたがあの人だということも、知ってるわ。だからこそ、こんなに嬉しいんだし……」
 彼女は言葉を飲み込んだように黙り、再び僕を見つめた。長い間、視線をゆっくりと移動させて見ている。僕の頭や顔、胸や手、足の先まで。
「あなたはあの人……半分はそうで、半分はそうじゃない。なんだか不思議な感じね」
 彼女の瞳に、当惑と不安の表情が広がっていくのが見えた。今までは長い憧れが現実になったという興奮で、夢に浮かされているような気分だったらしい。だが、初めてはっきりと現実を見据えた結果、不意に新たな認識と不安感が襲ってきたようだった。
(あなたは、本当は誰なの? わたしたちはこれから、どうなるの?)
 ニコレットの深く濃い灰色の瞳は、そう語っていた。
 その質問は僕自身をも、心底動揺させた。一瞬、自分の存在がわからなくなってしまったような戸惑いを覚える。思わず彼女の瞳から目をそらせると、壁に貼ってあったポスターの中の自分と、目があった。その中でかすかに微笑んでいる僕は、ミュージシャンとしての僕は、今の僕とは、ある種他人のようにすら感じた。
『僕はジャスティン・ローリングス。AirLaceのギタリスト』
 もう一人の僕は、自信を持ってそう言っているようだった。僕は思わずたじろいだ。
(僕だってそうだ!)
 激しく首を振りたい衝動にかられた。
(でも僕は、それ以前に一人の人間だ。君がミュージシャンとしての僕ならば、僕はそれと同時にローリングス家の次男で、以前は医者をめざしていて、バスケットと野球とホッケー、それに推理小説やサスペンスが好きで、ステラの夫で、クリスチャンの父親だ)
 そう思ったとたん、電流のような衝撃が走り抜けた。そうだ、僕には家族がいたのに。いくら喧嘩をして冷戦状態にあったからといって、自らの播いた種を棚にあげ、他の女の子の所へ走るなんて、なんて愚かなことをしているのだろう。
(おまえはなんでそこにいるの、ジャスティン?)
(そんなところで、何をくすぶってるんだよ)
(君はそこにいるべきじゃないよ、ジャスティン)
(君の居場所に帰ったほうがいいよ。本当に)
 ポスターの中から、みながそう言っているような気がした。僕は思わず頭を押さえた。たまらない恥ずかしさを覚えた。
「どうしたの、ジャスティンさん……?」
 ニコレットの声で、僕は我に返った。彼女は僕の腕に手をかけ、心配そうに見上げている。彼女の顔を見た時、突然、ずきりとした痛みを感じた。僕は、いったい何をしたのか? 彼女をどうするつもりだったのか? 本当に心から愛していたのだろうか?
 一連の騒ぎや動揺、心の欝憤が曇らせていた現実の重みと真実が、この時突然ベールを剥がすように、はっきりと見えてきた。僕は妻との不仲から生じた心の侘びしさを埋めるために、この純真な若い女性の、一ファンとしての熱情を利用しただけなのではないかと。
「なんでもないよ」
 僕はしばらく黙ったあと、頭を振り、微笑してみせた。
「ただ、僕も君と同じく、ちょっと変な気がしたんだ。ここにいる僕と、それからこの僕」
 ポスターを指差し、僕は言葉を継いだ。
「どっちも本当の僕だけれど、一瞬わからなくなったんだ。今、自分のいるところも、君のことも……」
 ニコレットは再び当惑したような、哀しげな顔になった。その表情は、僕の心により大きな後悔を呼び起こした。これでは彼女のことは一時の気の迷いだと、言ってしまったも同然だ。彼女を弄んで捨てるなんて卑劣なことは、とてもできない。だからと言って、ステラと別れてニコレットを妻にすることなど、とても考えられないし、そこまで彼女を愛してはいない。そう、それが苦い真実だ。ニコレットには今も昔も、強い好意しか感じていない。だからと言って彼女を都合のいい現地妻にしておくなど、それこそ非人道的だ。そこまで堕落したくはない。僕は彼女が持っているジャスティン・ローリングスのイメージを完全に壊してしまう前に、ここから立ち去るべきかもしれないが、僕がやってしまったことは、簡単に引き返せるものではなかった。ニコレットの方にも、僕を受け入れるか拒絶するかという選択があるし、正統な権利を主張することだって出来る。でも、たとえ彼女がこれからも何も言わずに受け入れてくれたとしても、その優しさと真剣な熱意に甘えていてはいけない。でも拒絶することは、なおさらひどい傷を残してしまうだろう。
『でも、わたし、ギターを弾いているあなたのことを、すてきだと思ったわ。わたしたちが初めて会った、あのハイスクールの交流パーティで。だから、あなたに声をかけられた時には、恥ずかしかったけれど、うれしかったのよ。あなたのファンの子たちも、ちょうどそんな心理ではないのかしら。もしあなたがあの時のように、ちょっと笑ってあの子たちに声をかけたら、本物の恋に落ちたりしないのかしら』
 ステラと一度破局する前、彼女が言っていたことが、不意に脳裏によみがえってきた。僕がニコレットに対してしたことは、これと同じだ。だが、最初にステラに声をかけた時と違い、今の僕には妻も子供もいる。彼女との付き合いに責任を持つことは出来なかったのに、自分の心の迷いから、たいして考えることなく、一線を踏み越えてしまった――。
 僕はため息をついた。自分の愚かさから、出口のない迷路に入ってしまったような気分だった。戻ることも出ることもできない迷路に。




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