Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years' Sprint

六年目(6)




 ロンドン最終公演日の朝、僕はホテルの部屋で荷物を整理していた。今夜のコンサートが終わり打ち上げパーティをしたら、明日午後の飛行機でトロントへ帰る。そのことを考えると気が重い。また八月の休暇の繰り返しになるのかと思うと、このままずっとツアーが続いていけばいいのに、とさえ感じてしまった。
 いつから我が家へ帰るのが、いやだなんて思うようになったのだろう。一度こじれてしまった愛情を元に戻すことが、これほど難しいとは。しかも時間がたつほど、ますます解決は困難になっていくように思われた。
 出かける直前になって、僕は後悔したはずだった。つまらない意地を張ってしまった。次はちゃんと迎えに行こうと。しかし、いざその決断を実行しなければならない時期が迫ってくるにつれ、決意はぐらつきだしている。迎えにいっても、ステラは戻ってきてくれるだろうか。夏に迎えに行かなかったから、怒っている可能性もある。しかもこのヨーロッパツアー中、僕は一度も妻に連絡をしなかった。携帯電話にしても、ホテルの電話にしても、国番号を押し、彼女の実家の番号を押そうとして、途中で止めることの繰り返しだ。
 ステラの携帯電話は、ほとんどいつも電源が切れている。以前は実家に帰っている時でも携帯電話がつながったが、あの事件以来、『家にかけてくれればいいから』と、携帯は放置しているようだ。でもステラの実家となると、時間帯によるが、最初にとるのはトレリック夫人の確率が高い。そして彼女が『ジャスティン・ローリングスさんからお電話です』と告げると(彼女は家では僕のことを若旦那様と呼ぶが、パーレンバーク家にいる時には、そう言わない。たぶん義父母が嫌がるのだろう)、だいたいその次に出てくるのは義母だ。『何の用なの?』と冷たく問いかけられ、ステラは電話に出られないと告げられ、切られる。たぶん僕から電話があったことも、ステラには話さないのだろう。トレリック夫人の勤務時間外の場合、電話を取る率が高いのはやはり義母で、同じことの繰り返しになる。たまにステラが電話口に出てくることもあるが、五回に一回あればいいほうだ。そうするとなおさら、電話をかけるのを躊躇してしまうのだ。おまけにステラにつながっても、前回迎えに行かなかった言い訳をしなければならないし、それは気まずい。
 それならせめて絵葉書を――そう考え、ヨーロッパの美しい風景が描かれた葉書を何枚か買った。でも、何事もなかったかのように以前のような文面を書くことは、よけいステラを怒らせるかもしれない――そう考えると、何を書いたらいいかわからず、そのままになっている。それにどうせ義父母がゴミ箱に放り込むのだろう。そう思うと、手紙や葉書を書く行為自体、まったく無駄な気もしてしまう。全米と同じく、ヨーロッパでもあまり外出ができづらいのは同じだが、それでもベルリンやパリ、ロンドンのように複数日滞在する町では、買い物に出ることもあった。でも、そこでステラが喜びそうなものが目についても、買っても受け取ってさえくれないのだろうと思うと、買う気分にはなれなかった。
 今度のアルバムのプリプロダクションの時、傷つき、怒りに満ちていたステラをそっとしておいた方がいいと思い、僕は連絡しなかった。そのことを後で詰られた。今もそうだろうか。ツアーが進んで行くにつれ、連絡をしない気まずさは広がっていき、ますますなんと言っていいかわからなくなって、彼女との距離が広がっていく。そしてとうとう、距離が広がったまま、ヨーロッパツアーが終わる――。
 僕はどうしたら良いのだろう。思わず、深いため息が漏れた。こんなことを続けていては、ますます妻との関係修復は難しくなっていく一方だ。今度は、迎えに行ったほうがいいだろうか。機嫌を直してもらうまでに、相当な謝罪が必要だろうが。だが、そうして仮にステラが戻ってきてくれたとしても、その家は一人よりははるかにましだが、以前と同じようでは決してない。もはや家庭は僕にとって、安住の地ではなくなっている。そう、仮に彼女が僕の謝罪を受け入れて、戻ってきてくれたとしても、たぶん春の、レコーディング終了時の半オフと、状態は変わらないのだろう。いや、もっと悪くなるかもしれない。ステラが僕のありのままの気持ちを受け入れ、過ちやこだわりを水に流して、自発的に戻ってきてくれるのでなければ。
 次のオセアニアツアーに出るまでの十日間だけなら、試してみようか。ステラを迎えに行かず、自分から帰ってきてくれるかどうかを。もしだめなら、もう一度一人で暮らせばいい。寂しいだろうが、そのうち慣れるだろうし、ジョイスも協力してくれるだろう――。
(でも、それでどうする気だ、ジャスティン・クロード・ローリングス?)
 僕の中の理性が、その時強くそう問いかけてきた。
(それで、ステラが戻ってくる保証はあるのか? どう見ても、戻ってこない公算の方が大きいぞ。以前迎えに行かなかったことと、ツアー中まったく連絡をしなかったことで、よけいにへそを曲げているだろうに。それに今度のツアーのインターバルは、一人暮らしでもまだなんとかなるだろうが、次はクリスマス休暇だ。いったいどうする気だ。また一人で実家へ帰るのか? 去年のように別々に帰ることになったと言って? 虚しくないか? それに、そうやってずっと先延ばしにしたところで、来年の春にはワールドツアーも終わってしまう。三ヶ月はオフだ。そんなに長い間、一人でいられるのか? ジョイスの協力だって限度があるし、そのうちに両親も気づくはずだ。そのころには一年も別居状態におかれている妻が、どうするかもわかっているだろう。おまえはもっともらしい理由を付けているが、本心は自分から折れるのがいやなだけだ。そして自分にストレスになるから、妻と向き合うのを避けているだけだ。だが歩み寄るなら、今しかないぞ。さもなければ、おまえたち夫婦は一生別居か、最悪の場合は離婚になるだろう。それでも本当にいいのか?)
「僕だけが歩み寄ったって、仕方がないんだ!」
 僕は乱暴にジーンズをトランクに押し込みながら、自分の良心に反駁するように、声を出した。
「二人で歩み寄れなければ、意味がないんだ。ステラから戻ってこない限り、何も変わらないさ」
 僕は勢いよくトランクの蓋を閉めると、安全ベルトをかけた。もう一つのトランクは、まだ開いている。ぎりぎりまで使う日用品や、今着ている服、パジャマなどを入れなければならないから。明日の朝、それを入れたら、出発準備は完了だ。
 明日帰る。それは誰もが疑っていなかった。その午後までは。

 いつもどおり四時半過ぎに会場入りするため、僕たちはその三十分前にホテルの部屋を出た。堂々とロビーから出ると騒ぎになって他のお客に迷惑だからと、ホテル側では従業員用通路を開けてくれ、裏口からいつも出ていっている。僕らはスタッフやセキュリティに付き添われ、エレベータをおりて、長い通路を歩いていった。通路は狭く薄暗い。何人かの警備員がいて、たまにホテル側の従業員とすれ違う。でも、その他には誰もいない――はずだった。
 誰かがいる。前方の壁の前に立っている人が。青みがかった紫色の、光沢のある長いガウン、フードの縁からこぼれる濃い琥珀色の髪、片手に持った銀のリング。あの人はいつかの幻影。マインズデールで会った、紫の天使だ。僕は思わずぎくりとして立ち止まった。その人は緑の瞳に何か訴えるような表情を浮かべ、じっとこちらを見ている。
 先を行くジョージやロビン、ミック、ロブやまわりのセキュリティにも、その姿は見えていないようで、さっさと前を通りすぎていく。でも、僕以外にこの幻影が見える人間が、一人だけいた。ちょうど僕の前を歩いていたエアリィも小さく「えっ!」と声を上げ、びくっとしたように足を止めて、そっちの方向を見たのだ。
「ヴィヴ……? なんで、ここに?」
 おそらく僕ら二人にしか見えていない幻は、一瞬の点滅の後に身体の向きを変え、僕らを正面から見据えた。言葉にならない思念の声が、こだまのようにかすかに頭に響いてくる。
(どうか、お気をつけてください)と。
「何に?」エアリィは小さな声で、そう問いかけていた。
(闇の力が、光の継承を切るために働こうとしています。その波動がかなり強烈に感じられます。心してください)
 かすかな思念の声が再び響く。その声なき言葉は、まるでこだまが響くように遠くに聞こえる。マインズデールで会った時には、もっとはっきり聞こえたのに。最初は不思議だったが、そのわけはすぐにわかった。それは、僕に向けられた言葉ではない。いわば、漏れたエコーを聞いているようなものなのだと。その幻影が呼びかけている相手、エアリィにはおそらく明瞭に響いているのだろう。
 その思念の言葉が伝わった時、彼は小さく身体を震わせ、幻影を見つめた。
「闇の力が動いてる……?」
 エアリィは小さな声で反復した。その横顔に、さっと感情が行きすぎたように見えた。驚き、当惑、怖れ――彼はしばらく沈黙した後、微かに頭を振った。
「うん。わかった。この先に、かなり厳しいことが待ってるんだ。たぶん最大の。でも……なんとかなると思う。ベストはつくすよ。ありがと」
 幻影は懸念と慈しみの入り交じったような、奇妙な表情で見つめている。 (本当に大丈夫ですか?)
 そう問いたげにも見えた。しばらくの間。
(あなたの助けになれれば、よかったのですが。私にできることは、母なる神に祈ることだけです。どうか、お気をつけて)
 思念の声がかすかに響くと、幻影は手に持った銀色のリングをくるりと回した。白銀の淡い光とともに、その姿はすうっと消えていく。
「どういうことだ?」
 僕は、しばらく驚きにとらわれて立ちすくんでいたが、やっとそう聞いた。
「おまえにも、あの人が見えるのか、エアリィ? でも、いったい……」
「ああ。まあ、時々会って、いろいろ話はしてるけど。でも、一人でいる時限定だよ。だから、びっくりしたな。みんなと一緒の時に見たのなんか、初めてだ」
 彼は少し黙り、僕を見て続けた。
「そうだ。ジャスティンには見えるんだった……」
「ああ。前にマインズデールにおまえを探しに行った時に、あの人を見たよ。でも一緒にいたロビンには、まったく見えなかったらしい。言っても、信じてすらもらえなかったよ。実を言えば、僕自身も半信半疑だったんだ。あれは僕の神経が生んだ幻視なのかって。今も一瞬そう思ったよ。でも、おまえにも見えているってわかって、なんだか少しほっとしたな。僕の頭がおかしくなりかけているわけじゃないってさ」
「ああ。別にあれは幻じゃないんだ。いや、ある意味そうかな。自分の頭が生んだ幻ってわけじゃないけど。あれは一種の投影で、波長の合う人っていうか、決められた人にしか見えないんだ。今のところは僕と、ジャスティンにだけしか見えない。でもそう思うと、運が悪いな、おまえも。ていうと、あの人に怒られそうだけど」
「どういう意味だよ、それ」
「だって、あれは普通の人には見えないんだ。ってことはさ、おまえは普通じゃないってことだから」
「たしかにそうだな。その理屈だと」
 僕は思わず苦笑して、小さく肩をすくめた。
「でも、おまえだって、人のことは言えないじゃないか。しっかり見えているんだから。それに、おまえの方が僕より、あの人とはお近づきだろ? 時々会って、話してるって、さっきそう言ってたじゃないか」
「ん、ま、それは否定しないけど」
 エアリィも笑って、微かに肩をすくめる。
「あの人はいったい誰なんだ? おまえは知っているのか?」
「知ってる。でも、言うことはできないな、今は。ヴィヴにも止められてるし、僕も積極的に考えたいことじゃないから」
「ヴィヴ? って、あの人が? それが名前なのか?」
「っていうか、僕が勝手にそう呼んでるだけ」
「どういう理由で?」
「なんとなく。でも、呼んだら来てくれるよ。回りに誰もいない時に、上を見上げて、『ヴィヴー!』って呼んだら、『なんですか?』って」
「ランプの精霊か?」僕は思わず笑った。
「いや、願いは叶えてくれないけどね。あの人に、その力はないし。ただ話をするだけ」
「まあ、そうだろうがな。でも、僕にはとてもあの人をそんな風に、なれなれしく呼べそうもないよ」
 僕は苦笑した。でも、あの人を知っているというからには、その呼び名もなんとなくではなく、理由はあるのだろうが、言えないということだろう。
 それでもやっぱり、不思議に思わずにはいられない。僕だけでなくエアリィにも見えるということは、あの人はたしかに存在している現実ということになる。でも、なぜ他の人には見えず、僕ら二人だけが見ることが出来るのだろう。波長が合うとは、どういうことだ? ラジオやテレビのチューニングのようなものだろうか? 普通の人には見えないとエアリィは言ったが、やはり僕らは他の人とは違うのか? まあ、エアリィが普通でないのは前からわかっていたが、僕までそうなのか? 決められた人とは、どういう意味なのか。マインズデールで会った時、僕はあの人の後継者なのだと言っていた。そうすると、僕もいずれその人の役割を果たすことになるということか? あの人の役割がそもそもなんであるのか、まったくわからないのに。
 第一、あの人はいったい誰なんだ。とても人間とは、思えないのだが。投影なんて技ができること自体、普通の人間でないことは確実だ。最初は天使の類を連想したが、リングを使って姿を消したりしているさまを見ると、魔法使いを連想したりもする。だがあの人は、そのどちらでもないのだろう――そんな思いも感じだ。その正体はわからないにせよ、あの人は何のために僕らの前に時々現れるのだろう。何らかのメッセージを伝えるために? でもそのメッセージの意味は、ほとんど理解できない。
 それに、もし僕があの人の後継者だとしたら、エアリィはいったい、あの人の何なのだろう? 呼んだら来てくれる、と言うのだから、本人が言うように、僕より近しい関係のようだが。あの人は、以前パートナーがどうとか言っていた。僕には光のパートナーが居ると。でも現実に彼と僕の関係が、いかにそれに近くとも、あの人は以前、言っていた。僕の光のパートナーは今、生の狭間で休息中――ということは、この世に存在していない。これから生まれる人ということになる。さらにあの人の別名がディラスタで、以前エアリィが人格分裂を起こし、セディフィという女の子になった時に、その名前を呼んでいた。その時、セディフィとディラスタは、二人で一対な感じを受けた。それに彼はあの幻影とも、対等に話しているようだ。もともとエアリィは敬語を使うのが苦手のようで、ローレンスさんやスタッフにも、しばらくたつとほぼ、いわゆるタメ口になるのだが、好意と信頼、それに多少の敬意が常に透けて出るためか、失礼な感じを抱かせないところが得な性分だ。しかしあの幻影に対しても、そうなのだろうか? ああ、また混乱してきた。どうもあの幻影が出現すると、いろいろと変なことを考えてしまうようだ――。
「おーい、二人でなに立ち話してるんだ! 話してもいいから、足を止めるなよ」
 ジョージが振り返って呼んでいる。微かな苦笑を浮かべて。ミックやロビン、ロブやセキュリティたちも、僕たちが追いついてこないのに気づいたのだろう。立ち止まって見ている。
「あ、ごめん! ちょっと気になるものが見えたから」
 エアリィは微かに笑って、そんな言葉を返していた。まあ、たしかに嘘ではないだろう。
「はぁ?」
 先行しているみなは、不思議そうに周りを見回している。
「なにもないよ? 壁にクモでも見つけたの?」
 ロビンがちょっと不思議そうな、怖そうな顔で、そう声をかけてきた。僕らが壁の方を向いて話をしていたからだろう。しかしクモ扱いするのは、あの人に対して悪いというか、畏れ多い気がする。
「違う。けど、今は何もないよ」
 エアリィは苦笑して首を振り、
「ああ。たぶん目の錯覚ってやつかな」
 僕も肩をすくめ、そうごまかした。
 僕たちのすぐそばで話を聞いていただろう二人の専属セキュリティ、ジャクソンとホッブスは、不思議そうな、当惑したような顔で、お互いに顔を見合わせていた。彼らは僕たちの会話内容と今の返答が、少し、というかかなりずれているのを感じて、不思議に思っているのだろう。僕たちの会話自体も、さっぱりわかっていない感じだった。まあ、当然だ。でも僕たちが歩き出すと、彼らもまた何も言わず、忠実についてきた。

 十一月のロンドンの陽は短い。夕闇の迫る中、今日もかなりファンたちが外に来ていた。どこからホテルを突き止めるのかわからないが、ネットの口コミで広がっていくらしく、滞在が長くなるに連れて、人数が増えていくようだ。初日は五十人くらいだったが、今日はちらっとのぞいてみただけでも、二百人以上いそうだ。
 コンサート会場では三、四割ほど男の子をみかけるが、ホテルまで来るような、いわゆる“追っかけ”は、ほとんど女の子だ。その大勢の少女たちをホテルの警備員たちが規制して、後ろへ下がらせている。人波が退き、通路があけられるまで、僕らはそのまま出口のところで待機していた。
「なんか……怖いな。今は、行きたくない気がする」
 その時、エアリィが首を振り、小さく身を震わせながら呟いた。
「えっ?」僕は軽い驚きを感じ、問い返した。
「どうしたんだ? 行きたくないって、ショウをやりたくないって言うことか?」
「違うよ。ショウ自体は、すごくやりたい。今日がヨーロッパラストなんだし、昨日また、新しいレベルに行けたって思えたから、これからが楽しみだな、とも思う。けどさ、今行くと……闇が待っていそうで」
「まあ、たしかに、もうじき暗くなるけれどな」
 半ばジョークのつもりで、僕は返した。
「そういう意味じゃないって。ナイスジョークだけど」
 エアリィは苦笑して首を振り、しばらく沈黙した後、思い直したように言葉を継いだ。「ああ……やっぱり、今行かなきゃ。そうしなきゃ、みんなに迷惑だし」
「おまえでも神経過敏になったりするんだな。さすがにいろいろありすぎたもんな、今回のツアーは」僕は軽く肩をすくめた。
「おまえでも、って言い方、気になるなあ。僕って、それほど無神経に見えるのかな」
 彼は苦笑しながら首を振り、そう抗議した。
「ま、でも自分でまいた種なんだから、しょうがないか。アーノルドさんに言われたこと、改めて実感しちゃうよ。ガラスの家に至近距離からボールを投げる、か。自分だけなら破片浴びて傷ついても我慢できるけど、みんなにも迷惑かけるって、わかってるのに、やっちゃったから」
「でも、僕らは誰もおまえを恨んではいないよ、エアリィ。これっぽっちも。今は本心で、そう言えるぞ。結果的にあれを出したのは、バンド全体の意志なんだから、おまえだけに責任をかぶせるつもりはないさ。それとも、おまえは後悔しているのか?」
「いや、全然。だってもう出ちゃったんだから、後悔したって、しょうがないよ。それにやっぱり整地は必然なんだ。『V.I』は、正念場なんだと思う。一番、危険なところ。でも、ここを超えれば、後は大丈夫なはずなんだ。だから、乗り切らなきゃ。大丈夫。たぶん……乗り切れる。あの人に言ったみたいに。そんな気もするんだ」
「ほら、二人とも、出るよ。急いで!」
 ミックに声をかけられて、僕らは話を打ち切り、外へ出ていった。まわりを取り囲んだファンたちが派手な歓声をあげる。その中を、いつものようにフリーのセキュリティ一人と、ジョージ担当のファーギー・パターソンの二人が先導を勤め、そのあとからミック、ロビン、ジョージを、ミックとロビンの専属セキュリティが、はさむような形で歩いていく。その後を、僕が道路側、エアリィは建物側を歩き、それぞれ専属のセキュリティ二人が挟み込むようにくっつく。さらにその後にロブとレオナ、エアリィの専属スタッフ、カークランドさんが続く。最後にフリーの二人が、ぴったりついてくる。直接攻撃を仕掛けてくる輩が出てきてからは、外を移動する時には、いつもそんな物々しい体勢だ。
 会場へ向かうリムジンは、いつも裏口にぴったりくっついて待機しているが、今回は他の運搬車が止まっていたため、少し離れた場所で待っていた。僕らは邪魔な車を迂回して、警備員がファンたちを止めている間に、急いでリムジンに乗り込もうと足を早めた。

 その時だ。突然人波が激しく揺れ、ファンの歓声とは明らかに違う声が鋭くあがった。紛れもない恐怖の悲鳴が。さらにその声がこだまするように幾重にもかぶり、広がっていく。八人のセキュリティたちがすばやく前に出、僕らを後ろに押しやって、取り囲むような形でかばう。と同時に、人垣がある一点を中心に、さあっと引いていった。
 一人の男が──ホテルの警備員の服装をしているが、赤毛頭の、二十代半ばくらいだろうか、その男が一人の少女を羽交い締めにしていた。茶色の髪を両側に束ねてリボンで結び、公式サイトで売っているスモークブルーのロゴ入りパーカーにえんじ色のセーター、黒っぽいチェックのジャンパースカートを着て、濃い茶色のタイツをはいた女の子は、まだローティーンくらいの年頃だった。男の腕に動きを封じられ、恐怖に顔を引きつらせて、今にも泣き出しそうだ。もう一人の男が、同じように若く、やはり同じように警備員の制服を着た、黒っぽい髪を長く伸ばした男が銃を手にし、その女の子の頭に突きつけている。少女のそばにいた十六、七歳くらいの女の子(黒い髪を肩に垂らし、黒いセーターにタータンチェックのスカートと黒いタイツ、そして捕まっている少女と同じパーカーを着ている。顔が似ているから、捕まっている子の姉かもしれない)が、懸命な様子で手をさしのべ、呼びかけている。「ソフィア! ソフィア!」と。それがたぶん、捕まっている少女の名前なのだろう。もう一人、四十代半ばとおぼしき中年男──やはり同じ制服に身を包み、黒い髪にちらほら銀色のものが見え隠れし、浅黒い肌のその男が、強い動作で、叫んでいる少女を押し戻した。
「下がりなさい! この子を助けたければ、下がるんだ!」
 その男は、さらに大声で叫んだ。
「ここにいるみなに告ぐ。動くな! 誰も動くんじゃない! 携帯電話で警察を呼ぼうとするんじゃないぞ。少しでも動いたら、この娘の命はない!」
 男は大振りのピストルをポケットから取り出し、地面に向けて一発撃った。
「なっ……」
 僕は凍りついたように、その場に立ちすくんだ。おそらくそこにいた全員が、そうだっただろう。ファンが拉致された? なぜ? なんのために? あの三人はホテルの警備員の格好をしているけれど、そうじゃないのか? あの子はきっと、姉とここに来たのだろう。僕らを一目見ようとして。その子がなぜ理不尽にも、あの男たちに拉致されたのだ? 柱のようなセキュリティの体の間から見えるその子の顔は、恐怖に青ざめ、凍りつくあまり、パニックにさえ陥いることが出来ない。そんな感じだ。
「安心するがいい。我々は別に無差別殺人に来たわけではないし、罪もないこの少女の命を奪うつもりもない。あくまで、そちらが変な動きをしなければ、だが」
「その子を離せ!」
 ロブが青ざめた顔で僕らを制し、代表で交渉に当たろうとした。
「なぜ、こんなことをする? おまえたちはホテルの警備員じゃないのか? そちらの言い分や要求は何だ?」
「制服を拝借した。本物の警備員たちは、殺してはいない。気を失わせて、そこの物入れに閉じ込めた。我々の用が済んだら、救出してやるといい」
 中年男が薄笑いを浮かべながら、右側の壁沿いにある物入れの方にあごをしゃくった。
「我々も、こんな手段は取りたくなかったが、他に方法がなかった。これははったりではない。要求が通らなければ、この子は殺す」
「だから、おまえたちの要求はいったい何なんだ?」
 ロブが焦れたように声を上げる。
「おまえではない! 我々は一介のマネージャー風情に興味はない」
 男が路上にぺっと唾を吐いた。そして一呼吸おいて、再び声を張り上げる。
「アーディス・レイン! いるのだろう、そこに! おまえの信徒を、この少女だけでなく、この場に集まったおまえの信徒たちの上に銃を乱射されたくなければ、ここへ、私の前に出てこい。ボディガードなんて連れてくるな! おまえ一人だけで、ここまで出てこい!」
「えっ!」
 僕らは再び絶句した。名指しされたエアリィは一瞬びくっと震え、青白くなるほど顔色を失った。が、ほとんど反射的な動作で、前に出ようとする。横にいたセキュリティのジャクソンがその腕をつかみ、引きとめた。
「だめだ。今連中の挑発に乗って出たら、思うつぼだ。危なすぎる!」と。
「だけど……」
 エアリィはもどかしそうに手を払いのけようとしながら、頭を振った。
「僕が出ることが、連中の要求なら……そうしないと、あの子は危ないかもしれないし、もし乱射なんかされたら……」
「そうはさせない! そんなことはさせないから」
「どうやって? 下手に動けないわけだし、通報も難しいし……」
「君が出て行って、状況が変わる保証はあるのか? あいつらのことがどこまで信用できるか、わからないんだぞ。無駄に危険になるだけだ」
「そうだ。ジャクソンの言うとおりだ。おまえが出て行っても、連中が人質を解放してくれなかったら、どうなると思う。だからおまえは動くな、エアリィ。交渉は、我々に任せろ。おまえは絶対に、ここから出たらダメだ。いいな!」
 ロブが乾いた声で制した。
「出てこないのか?」
 中年男が苛立ったように声を張り上げた。
「自らの信徒を見捨てるのか? はっ、とんだ教祖さまだ!」
「だから、僕は教祖じゃない!」
 エアリィもついにたまりかねたのだろう。そう声を上げた。
「何か、勘違いしてないか? 僕らは宗教じゃないんだから、信徒も教祖もないよ。僕らはただのロックバンドだし、彼女たちは僕らの音楽を好きになってくれた人たちだ。僕らにとって、大事な人たちなんだ。その子を離せ!」
「おまえはそう言って、きれい事でたぶらかそうとする!」
 男は声を上げた。そこには強い憎悪がはっきりと感じられた。
「そんな後ろで、ボディガードの影に隠れて、なんだかんだ言っていたところで、それは卑怯者の弁解だ。ここへ、私の前に出てこい。そして、ある場所へ行ってくれたら、この子は解放する。信徒たち、おまえが言うところのファンたちにも、手を出さない。どうだ!」
 そんなむちゃな要求が聞けるか! 僕は密かに歯がみした。あのソフィアという女の子はどうしても助けなければならないが、そのためにエアリィが拉致されたら、彼は絶対無事には帰れまい。あの男たち──あの話しぶりでは、どこかのカルトだろうか? 今やエアリィは、すべてのカルトを敵に回しているようなものだ。そんなところへ連れて行かれたら、どんな目に会うか──。
 なんとかならないのか? 僕は絶望的な思いで、体は動かさず、周りに目を走らせた。若い男たちの片割れは女の子をしっかりと押さえ、もう一人はぴたりと銃を突きつけている。二人ともくまなく周りに目を走らせ、不審な動きをするものがないかどうか、じっと見ているようだ。下手に通報を試みれば、あの子は危ない。交渉役の中年男も、僕らの情勢を注視しているように見える。ホテル側の警備員や、僕らのセキュリティたちも動けないし、いざという時飛び出したとしても、少し距離があるから、阻止することはかなり難しいだろう。でも果たして交渉で説得など、出来るのだろうか? 警察のプロならともかく、ロブや僕たちに。
「今から十数える」
 男はゆっくりと宣告した。
「その間に出てこなければ、我々はこの子を殺す。そしてその場で銃を乱射し、我々も自害する」
「…………!」
 僕らは一斉に絶句した。連中は狂気だ。しかし本気だ。それだけは、はっきりとわかる。
「一、 二――」
 そして男は、ゆっくりと数えはじめた。
 エアリィは前に踏み出しかけた。セキュリティだけでなく、僕も袖をつかんで止めた。
「ダメだ。行ったら……」
「だけど……」
 彼は当惑しきった顔で僕を見た。カウントは続いている。
「三、四、五――」
「畜生。誰か、あいつらをなんとかしろ……」
 ジョージがもどかしげにつぶやいた。
「うしろから回り込めたら……」
 僕はすぐにその考えを却下した。ダメだ。そんな派手な動きをしたら、連中はすぐ気づいてしまう。カウントは無慈悲に進んでいく
「六、七、八……」
「行くよ、もう! 危ないとか、そんなこと言ってられない。あいつら、本気だ」
 エアリィがついに僕らの手を強く振りきり、歩いていった。
「あっ、おい……」
 引き留めかけた僕らを振り返らず、彼はささやく。
「みんな、動かないで、絶対。誰も……僕の巻き添えにはならないで。僕に出来る範囲で、なんとかするから」
 彼はセキュリティの輪を突っ切って進み、男と一メートル半足らずの距離を置いて、立ち止まった。対峙すると、相手のほうがかなり身体は大きい。小さいころの環境のせいか元々の素質なのかはわからないが、エアリィは男性としては小さい。背は自分がとても小さいと気にしているロビンとそれほど変わらず(百七十センチあるかないかくらいだろう)、まるで少女のような線の細さ。風に拭きなびいたブロンドの髪をきらめかせ、青ざめた顔をして、それでも目には怒りと気概が輝いているその姿は、見るものの目を惹きつけずにはおかなかったが、同時にひどく無防備に、か弱くも見えた。大丈夫だろうか、本当に――そんな危惧は、おそらくその場の誰もが感じているに違いない。みんな叫びを押し殺し、息を詰めて成り行きを見守っているようだった。
「来たよ。だから、カウントを止めろ!」
 エアリィはぱさっと髪を振りやり、決然とした口調で言った。
「ふん。その勇気だけは認めてやろう」
 相手はせせら笑っているような口調だ。
「その子を放して、帰してあげてくれないか? 僕もここへ来たんだから」
「この子を離すのは、我々の目的が果たせてからだ」
「目的って?」
「まあ、おまえがここに出てきてくれたから、最初の段階は完了だが、それはまだ序の口に過ぎない。真の目的はこれからだ」
「だから、その目的って何? 僕にある場所へ行ってくれたら、って言ってたけど、それがそうじゃないのか?」
「そうだ」
「ある場所って、どこ?」
「とても素敵な場所さ。おまえにふさわしい」男はにやっと笑う。
 その間、僕らはもどかしげに見守っているしかなかった。が、注意が向こうにそれているのをついて、いちかばちか行動しようと試みた人たちも、何人かいた。そのうちの一人は、モートン・カークランドさん。エアリィの医療トレーナーで、専属マネージャーだ。真っ青な顔で交渉を見つめながら、震える声で小さくささやいている。
「誰か、僕の後ろの誰か……通報してくれ。気づかれないように。今、警察にかけた……」
 ちょうど前に立っているセキュリティの影になるため、今なら気づかれないと思ったのだろう。カークランドさんは後ろ手に携帯電話を握り、手探りでかけたようだ。それに呼応して、なんと真後ろにいたロビンがほんの少し屈み(彼もまた、ちょうどセキュリティ二人の影になっている位置に立っていた)、「○○ホテルの裏で、銃を持った男が女の子を人質に取ってます。早く来て!」と、震える声で強くささやいたあと、赤い顔をしたまま、元の姿勢に返った。僕は驚きと同時に、思わず『よくやった、ロビン!』と声を上げて、ぽんと背中を叩きたい衝動に駆られた。もちろん、そんなことは出来ないが。
 なんとか、相手には気づかれずにすんだようだ。男たちがこちらを見た目に、変化はないようだった。ふうっ──僕は思わず吐息をもらした。通報が成功したなら、五、六分で警察がやってくるだろう。それまで時間を稼げれば、大丈夫だ。同時にセキュリティの一人(新しく来た三人の一人だ)が、前を向いたままささやいた。
「誰か……投げるものを持っていないか。固ければ、なんでもいい。連中に気づかれないように気をつけて、俺に渡してくれ」
 もし犯人たちが銃を撃とうとしたら、とっさに投げるつもりだろうか? 僕はセキュリティの陰に隠れた方の右手を、そっとポケットに滑り込ませた。ギターのピックじゃ柔らかすぎるし、コインでもちょっと役不足だ。でもその他に役立ちそうなものは、何も入っていなかった。だが、そうだ。僕にもそれなら出来るかもしれない。小学生時代、僕は野球チームのエースだった。今でもコントロールがきくかどうかは怪しいが──僕はポケットに手を入れたまま、一番固そうな五十ペンスコインを握り締めた。
「俺のズボンの右ポケットを探れ……気づかれないように……」と、ファーギー・パターソンがごく微かに身体を相手に寄せて、ささやいていた。最初のセキュリティが後ろ手にそっとそのポケットに手を入れ、「ああ、これなら充分だろう……」とささやいて、すぐにそこから手を引き抜いていた。
 その間に、中年男はじっと眺めながら、嘲笑するようなトーンで言葉を継いでいた。
「しかしこうしてみると、おまえは本当に男には見えないな。娘は最初、おまえを女と思っていたらしいが、たしかにそう思うのも不思議じゃない。生まれてくるのを間違ったのか? それとも男のふりをしているだけなのか? 美しい……それはたしかだが、おまえはその見せかけの美で、どれだけの人をたぶらかしたんだ」
「それ、今関係ないだろう。あんたたちは、なんでこんなことをするんだ? 目的は? なんで僕を指名したんだ?」
 エアリィはひるまず、そう言い返している。
「おまえに会いたかったんだ、我々は。もちろん、こいつらとは違う意味でな」
 中年男は再びペッとつばを道路に吐き、そう答えた。
「じゃあ、どうして僕に?」
「しらばっくれるな! おまえ、自分のやったことぐらい知っているだろう! おまえのおかげで、仲間がどれだけたぶらかされたと思っているんだ! その男たちの妹も恋人も、そして私の娘もだ!」
「そうなんだ……」
 エアリィは少し驚いたように相手を見た。そして少し間をおいて聞く。
「どこの教団?」
「それはどうだっていい! おまえは何が目的なんだ? どうして我々の信徒をたぶらかして、自分の信徒にしようとする? 新手の邪教でも作る気か?」
「邪教って……そんなつもりはないよ。教祖になるつもりもないし。僕はただの、ロックバンドのシンガーだよ。それ以上でも、それ以下でもない。僕らの曲であんたたちの身内がその宗教を捨てたのだとしても、それは彼女たちの自由だと思うし。逆に言えば、その程度で離れられるほどの力しか、なかったってことなんじゃないか」
 おい、それは危ない! 僕は思わず冷たい汗が全身に吹き出るのを感じた。いや、ただでさえエアリィが出て行ってからは、冷や汗をかきっぱなしだが――たしかに正論だが、それは挑発になるぞ! 案の定、男たちの顔は真っ赤になった。
「地獄へ落ちろ!! これ以上とやかく言うと、この子を殺すぞ!」
 女の子を押さえている若い男が、詰まったような声で、激しい調子で威嚇した。
 エアリィも直接的に言いすぎて、相手を怒らせてしまったことを悟ったのだろう。ため息をつくと、視線を下に落とし、「ごめん。宗教は自由だから、あなたたちが信じていることを、僕があれこれ言う権利はないね」と詫びている。
 あっさり謝罪されたので、男たちも少し拍子抜けしたのか、そのまま黙っていた。
「こうしていても、埒が明かないと思わないか? え? もたもたしていると、誰かが目を盗んで、警察に知らせるかもしれないからな」
 やがて中年男が気を取り直したように、銃でとんとんと肩を叩きながら再び口を開いた。
「僕も同感だけど……じゃあ、どうすればいいかっていう具体的な解決案を、あんたたちは言ってくれないから」
「そうだな。じゃあ、そろそろ本題に入るか」
 男は二、三歩踏みこみ、手を伸ばして銃口をぴたりと付きつけた。左胸──まともに心臓直撃の位置だ。大口径の銃で、一メートルもない至近距離。撃たれたら即死してしまう。
「我々は、おまえに天誅を加えに来たんだ。復讐もかねてな」
 男は銃を構えたまま、にやっと笑った。
「おまえに会いたかったというのは、そういうことだ。ずっと狙っていたんだが、機会がなかったし、正攻法では無理だと思った。おまえはいつも、あのでかいボディガードと一緒にいるし、他の有象無象も大勢いる。それにおまえはスナイパーの銃弾も、金属バットもよけたらしいからな。仮に一対一になれたとしても、仕留めることは難しいだろう。だから、こんな手段をとらせてもらったわけだが、もしおまえが出てこなかったら、言葉通りここで銃を乱射し、出来るだけおまえの信徒、おまえの言うところのファンを道連れに、抗議の自爆をするつもりだった。このダイナマイトが見えるか?」
 男はあいたほうの手でジャケットをめくった。確かに何本もの爆薬らしきものを、腰の周りに巻きつけている。
「Suicide Bomber(自爆テロ)か……」
 エアリィは青ざめながら、そう呟いた。
「それは爆発させないで欲しいな。ここでは……あんたたちの命もなくなるし」
「我々の命など、どうでもいいのさ。教団のためなら」
「それは違う! 人の命より重たい教義なんて、ないはずだ」
 彼はまた相手の逆鱗に触れる危険を考えたのだろう。再びトーンを落とし、首を振って、言葉を継いだ。
「僕はそう信じてる」と。
「これだけの至近距離にいるのだから、爆発させてもいいのだがな。火をつけた瞬間に、吹き飛ぶだろう。この爆薬は、半径十メートルくらいの範囲で、木っ端微塵になるらしいからな」男は再びにやっと笑った。
「だが自爆テロや大量殺戮は、我々の教義とは違う。我々は過激派とは違うからな。そこのところを誤解してもらっては困るね。だからいわゆる、起爆装置を引っ張って爆破させるようなタイプの自爆もしない。たまに失敗もあるらしいからな。それに我々も本音を言えば、出来れば死にたくはない。おまえがおとなしく地獄へ行ってくれたら、それでいいんだ。本当はもっと、苦しんで死んでもらいたかったんだが。頭でなく、胸を撃ってやるから、おまえは死体になっても美しくいられるぞ。教祖様の耽美主義に、感謝するんだな。動くなよ。動いたら、ジョニーも引き金を引く。あの子を死なせたいのか?」
「で、もし僕が動かないで撃たれたら、あんたたちは、あの子を解放してくれるのか? 他のみんなにも、手は出さないでくれるのか?」
「そうだな。私が引き金を引いた後に、あの子は解放してやろう。我々が逃げるのを邪魔だてしなければ、銃も撃たないし、爆発もさせない」
「本当に……? 本当に、信用できるのか?」
「我々を信用するかしないかは、おまえ次第だ。ただおまえが逃げようとしたら、確実にもっと悲惨なことになるのは、たしかだな」
 結局、どうすれば良いんだ──僕はもどかしさに唇を噛んだ。と同時に、これは本当に現実に起こっている事なのだろうか、という妙な気分がする。まるで悪い夢でも見ているような──出口のないこの夢に、解決法はあるんだろうか? 僕はただ傍観者に終始し、はらはらしながら成り行きを見守っているしかないんだろうか? どうしたら、あの子を助けられる? どうしたら、エアリィも無事に切りぬけられる? あの狂信者たちは、どこまで信用できるんだ? あの爆弾がもし本物だとしたら――とはいえ、アーディスが出て行った時点で爆発させなかったのは、あの男の言うとおり、本当は自分も命が惜しいからに違いない。よほど追い詰められなければ、最悪のことにはならないだろう。それはたしかにそう思えるが、だからと言って、そのためにエアリィが殺されていいわけじゃない。警察は、いつになったら来てくれるんだ。でももし今ここで警察に来られたら、犯人たちは逆上して、もっととんでもないことにならないか――? 
 ソフィアという人質の少女は、今はもう死ぬほど怯えているような表情は見せていなかった。エアリィが連中の求めに応じて出ていってからは、ずっと彼を、彼だけを見つめている。と、その時彼女が弱々しい声で口を開いた。
「エアリィ……こんな奴らの言うことなんて、聞かないで」と。
「えっ?」
 その言葉に彼は――そしておそらくこの場の全員が、驚いたようだった。
「あなたが……わたしなんかのために、危険を犯して来てくれた。信じられない……ありがとう。それだけで……わたしはうれしい。だからわたし……殺されてもいい。あなたがわたしのために死ぬなんて、絶対絶対いや。だからあなたは……危ないことはしないで、逃げてください、お願いします。今から走って逃げれば、爆弾にだって巻き込まれずにすむわ。十メーター離れれば、大丈夫なら。わたしのためになんか、絶対死なないで!」
 その目はまるで何かに憑かれたようで、その言葉は緊張と勇気と自己陶酔が入り交じっているように響いた。僕ら側の人々もみな驚いたに違いないが、それ以上にざわっと、ファンたちの間に衝撃が走っていったのを感じた。さっきまで死ぬほどの恐怖に怯えていた、せいぜい十三、四歳の少女の必死な言葉は、今まで凍りついたように静観するしかなかったファンたちの間に、一種異様な感動を巻き起こしたようだ。
「ソフィアだけを死なせやしないわ!」
 少女の姉らしい女の子が、甲高くそう叫んだ。
「わたしたちの気概を見せてあげる!」
「そうよ! あいつらを取り押さえるのよ!」
「エアリィ! この場はわたしたちに任せて、会場へ行って!」
「そうよ。今夜が最終公演なんだから!」
「わたしたちのために出てきてくれて、ありがとう。あなたはやっぱり、ヒーローだわ。でも、あとはわたしたちが、ここは何とかする!」
「たとえそのために死んでも、本望よ!」
 そんな声があちこちから漏れ、ファンたちの人垣が激しくゆれ出した。今にもなだれを打って、押し寄せてきそうだ。思いもかけぬ逆襲に、男たちはすっかり動揺したらしい。
「こいつら……こりゃ、やっぱり新手のカルトだ……」
 若いほうの男の一人が、呆然とそうつぶやいている。
「だめだ! みんな、危ない! 来ちゃだめだ! 落ち着いて! 動かないで! 爆弾もあるし、危ないよ!」
 エアリィがファンたちに向かって、そう叫んだ。
「爆弾なんて、怖くない!」
「みんなで飛びつけば、大丈夫!」
「でも、あなたが巻き込まれると困るから、本当に逃げて! ダッシュで逃げて!」
「だから、ダメだって! みんなを置いて、逃げられるわけない! 君たちに何かあったら、困るんだ! 逆に言うよ、僕のためになんか死ぬな! それは絶対止めてくれ!」
「いい加減にしろ、おまえら!!」
 中年男がうなるような声で怒鳴った。と同時に、少女に銃を突きつけていたジョニーと呼ばれる若者が、きょろきょろと周りを見回し、そして引き金を引こうとした。しかし、その一瞬のためらいをついたように、エアリィが動いた。両手をついて一回転し、男の手を蹴り上げたのだ。はずみで銃がとんだ。かつてナイフで襲われた時にも、同じように手を蹴り上げて飛ばした、と言っていた。彼の身体能力なら、相当な早さでそれが出来るのだ。少女を押さえつけていた男がその子から手を離し、慌てて銃を拾おうとする。と、今度はびゅっと僕の傍らを何かが飛んでいき、その男の拾おうと伸ばした腕に当たった。あのセキュリティが投げたのだろう。それは大粒のビー玉か、ガラス細工の置物のように見えた。男は小さく声をあげ、腕を押さえる。僕も同時にコインを投げた。それは最初に銃を持っていたジョニーという男の眉間に当たり、そいつは一瞬うずくまった。
 女の子は手を伸ばしてきたファンたちに抱き取られ、彼女たちの中に無事保護された。着地してきたエアリィがぽんと足を伸ばし、銃をこっちへ蹴り飛ばす。それは、僕の足元へ飛んできた。僕は慌てて拾い上げた。ピストルなんて、持ったのは初めてだ。なんて重い。それに、ぞっとするほど冷たい感触だ。僕は慌ててそれをロブに渡した。
 だが銃はもう一丁ある。中年男が持っていた奴だ。それも奪い取らなくては──しかもそいつは爆弾も持っている。
「ちくしょう! よくもやってくれたな!!」
 男は真っ赤な顔になり、ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはライターだ。そしてカチッと火をつけ、身体の前に持っていきながら叫ぶ。
「動くな!! おまえら、少しでも動いたら、この導火線に火をつける。あっという間に吹っ飛ぶぞ!!」
「やめろ! だめだ! 火をつけるな!!」
 エアリィが、それを見て叫んだ。
「それなら、動くな! そう言ったはずだ!」
 男は吼える。
「だって、あの娘を殺そうとしたじゃないか!」
「おまえらが動いたからだ! 言っただろう。少しでも動いたら、この娘の命はないと。おまえが余計なことをしたから……おまえだけじゃない、どいつもこいつも、余計なことをしやがって!! そんなに死にたいのなら、お望みどおりにしてやる!」
「だから、止めろ!! 火はつけるな!」
 エアリィが再び、強い調子で声を上げた。
「殺したいなら……僕だけにしてくれ。みんなを巻き込むな! あんたたちは、僕に復讐をしたいんだろう。だったらこれ以上、無関係な人たちを巻き込むのは止めてくれ。僕が動かないで撃たれたら、他の人には手を出さない……そう言っただろ、さっき。だから、僕は抵抗しない。撃つなら撃て。そのかわり、爆発はさせないでくれ!」
「そんなこと、信用できるか!!」男は再び吼える。
「どうやったら、信用してくれる?」
 エアリィは相手を見据えたまま、再びぱさっと髪を振りやって言った。それは、驚くほど落ち着いたトーンだった。男もその声とまなざしに一瞬取り込まれたように、黙った。
「いいだろう……」
 中年男はごくりと固唾を飲んだような声を出した。
「そこを動くな。手は後ろに組め。ジョニー、おまえは私の傍に来てこのライターを持ち、何かあったら火をつけろ。ハリー、おまえはそいつの傍に行って、肩と服、いや、髪でもつかんでおけ。そして私が撃ったら、すぐにこっちへ来い」
 二人の若い男たちは頷き、言われたとおりにした。
 その間僕たちはみな、まるで何かに動きを封じられたように、その場に立ったまま見ているしかなかった。人質は解放されたのだから、今飛び出していけば押さえられるかも――だめだ、爆弾がある。この距離で爆発させられたら――エアリィの反射神経なら、火をつけてから起爆するまでに十メートル離れることはできるだろうが、周りに大勢いるファンたちは間に合うだろうか――いや、きっと巻き添えが出てしまうだろう。彼は本当に動かないで撃たれる気なのか、土壇場でよけて、その隙にセキュリティが飛び出す余地を作るのか――いや、この距離だと、爆弾の起爆に間に合わない可能性が高い。そんなところにセキュリティが飛び出したら、わざわざ爆発に巻き込まれに行くようなものだ。もしエアリィがよけたら、きっとあいつは怒り狂って火を点けさせるに違いないから。それなら発砲する前に、素早く相手を攻撃するのか――いや、あの至近距離だし、相手に髪と肩をつかまれている状態では、いくらエアリィでも間に合わないかもしれないし、弾に当たる危険が大だ。それに、ジョニーという男がもしすかさず火を点けたなら――爆発が起きたら、ファンたちには確実に巻き添えが出るから、それは絶対に避けねばならない。ならば、エアリィがよけたり攻撃したら、そのタイミングでセキュリティが飛び出していって、援護出来たら――いや、仮にぴったりタイミングを合わせられたとしても、距離があるから間に合わないだろう。どうすればいいんだ――そんな考えが半ばパニック状態のまま、堂々巡りを続け、身体は動かない。きっとこの場にいた全員が、同じだっただろう。
 中年男は銃を持った手を伸ばし、言葉を継いだ。
「これは密着させて撃つと、効果が減るんだ。だから、ここから撃つ。おまえが約束を守るなら、私も約束は守ろう。私が引き金を引いてから一秒、そのくらいあれば十分だな。それまでおまえがそこを動かなければ、私も自爆はしない。乱射もしない。それでどうだ」
「わかった……」
 エアリィは両手を後ろに回して組んだ。そして静かに言う。
「少し祈っても良いかな……」
「おまえも祈るのか。邪教の神にか?」
 男は軽蔑したように顔をゆがめた。
「あんたたちには、決してわからないだろうけど……少なくとも今は」
 彼は目を閉じて、呟いた。声には出さない、しかしその唇の動きでわかった。僕は読唇術など使えないが、なぜかその土壇場の言葉はわかってしまう。四年前、インドの寺院でパニックに落ちた時のように。今、エアリィが何と言ったのかも。
“Oh,My Sacred Mother――Mercy me”
『聖なる母よ、お慈悲を……』
 母といっても、彼の母親アグレイアさんに向かって言ったわけではない。それは『神よ』と同じニュアンスだ。彼は本気だ――本気でその身を犠牲にしようとしている。激しい戦慄が走り抜けた。
「エアリィ、止めろーー!!」
 僕は思わず、声を上げて叫んだ。金縛りが少しだけほどけたように。それに続いて、その場にいた誰もが、同じ言葉を叫んだ気がした。その叫びの中、銃声がこだました。ぱっと血が飛び、エアリィは一瞬驚いたような表情で目を開け、一歩よろめくように下がると、再び目を閉じて、そのまま後ろへ倒れた。横に立って髪と肩をつかんでいたハリーと言う男が少し手を離すのが遅れたため、一瞬引っ張られたような形になったが、男が手を離すと、そのまま一気に体の力が抜けてしまったように、落ちるように倒れていく。
 その瞬間、誰かがもの凄い勢いで飛び出していった。「うおおお!」と獣のような叫びを上げて、中年男に飛びかかっていく。ネイト・ジャクソンだ。エアリィの専属セキュリティの。彼が撃たれたことで、自制心が飛んでしまったのだろう。相手が手に銃を持ち、爆弾を身体に巻いていることも、相方のジョニーと言う男がそばでライターの火を捧げ持っていることさえ、眼中にないらしい。危ない!
 しかし相手の男たちは、少し躊躇しているようにみえた。一応目的は完遂したのだから、ここで自爆する意義はあるのか――火をつける役のジョニーという男も、当の中年男も、たぶんそう思ったのだろう。瞬間のそのためらいと、ジャクソンの勢いに圧倒されたのかもしれない。我に返った中年男が銃を撃とうと引き金に手をかけた時には、すでにジャクソンは恐ろしいスピードで、そいつの目の前まで来ていた。そのままスピードを緩めずに突進し、強烈なラリアートを食らわせたので、中年男は数メートルも吹っ飛んで、道路に倒れた。どうやら一撃で気絶してしまったらしい。手から銃が飛んだ。ジャクソンは急停止し、くるっと急転回して、今度はジョニーという男に突進する。その男はライターを投げ捨て、逃げ出した。それは幸い中年男とは離れた地点に落ち、その衝撃で火は消えたようだ。
「俺たちも行くぞ!!」
 ファーギー・パターソンが同時にそう叫び、残る七人のセキュリティ全員が飛び出した。ホッブスとフリーのセキュリティ三人が、若い方の二人の男たちを取り押さえ、パターソンとロビンのセキュリティ、トーマス・シングルトンが中年男を捕らえると、身体に巻いていた爆薬を外した。
「これ、やばいぞ、本当に。本物だ」
 パターソンがそれを地面に投げ出しながら、うめくように声を上げた。
「ああ。でもライターは回収した。危ないところだったな、本当に」
 ミックの専属セキュリティ、イアン・オーランドが身体を屈めて地面からそれを拾い上げ、ため息をついた。
 本気だったのだな――僕らは改めて、いっせいに身を震わせた。
 同時にファンたちが押し寄せてきた。誰かが地面に転がったままの、もう一丁の銃を拾い上げたようだ。人質にとられていたソフィアという少女の姉らしい、黒髪のあの子だ。声を震わせ、身体も木の葉のように震えながら、もう既にセキュリティたちに取り押さえられているあの中年男に向かって、銃を突きつけている。
「よくも……よくも! あんたなんて、殺してやる!」
「だめだ!」僕は前に飛び出し、声を上げた。
「これ以上、早まったことをしないでくれ、お願いだ!! エアリィは君たちを守るために、撃たれたんだ! そんなこともわからないのか! 彼の行為を無駄にしないでくれ!」
 まるでファンたちのせいであるかのようにも取れる、ひどい言い方をしてしまったな。―瞬そう思ったが、そんなことに配慮できないほど、僕も動転していたのだ。
 女の子は青ざめた顔で、銃を取り落とした。さらに体の震えが激しくなり、声を上げて泣き出した。その場にいたほとんどのファンたちが、泣き叫んでいる。
「いやぁぁ!」
「うそでしょうぉぉ!」
「なんでなんで……」
「あたしたちのことなんて、どうでも良かったのに」
「なんで、わたしたちのためになんか……」
「あたしたちが……余計なことをしたから……?」
「あいつらに逆らおうとしたから?」
「そんなぁ!」
「でも、どうすればよかったの、あの場合! 他に何が!!」
「わからない。わからないけど……こんなのいや! 絶対いや!!」
 それぞれの言葉が入り混じり、音の塊となって膨れ上がる。その中を切り裂くように、パトカーのサイレンが響いてきた。
 僕はさらに二、三歩近づき、屈みこんだ。ロブやカークランドさん、他のメンバーたちも近寄ってくる。正面から銃弾が来たその勢いなのか、そのまま後ろに倒れたのだろう。エアリィはコンクリートの上に、ほぼ仰向け状態で倒れていた。夕闇が深くなり、つき始めた街灯の灯りに照らされて、光のような長い髪が背中の真ん中あたりから、身体をとりまくように広がっている。パーカーのフードがクッションになって、それにハリーという男が髪から手を離すのが少し遅く、引っ張られたために加速度が和らげられたこともあって、頭をコンクリートに強打することは避けられたようだが、それでも――右手を投げ出し、左手は胸に当てているが、その手の下から赤い色がどんどん広がって、水色のコットンセーターを鈍い色合いに変え、さらに白いパーカーにも広がっていく。カークランドさんが抱き起こしたいように手を伸ばしたが、動かすのは危険だと悟ったらしい。そのまま呆然と見ていた。ジャクソンも駆けつけてきた。犯人たちの方は、仲間たちに任せたのだろう。そして、狂おしいほどの叫びを上げた。
「うぅぁぁぁー! だから出るなと言ったのに!! 君は優しすぎるんだよ!! なんでなんだ!?」と。そしてそれ以上はもう続けられないように、声を上げて泣き出している。僕らの後ろでロブが携帯電話を取り出し、かすれた声で救急車を呼んでいた。普段ははっきり正確に話すのが信条のロブが、今は半分しどろもどろだ。
「エアリィ……おい……嘘だろ? 冗談……だよな」
 僕は手を伸ばし、投げ出された右手に触れた。冷たい――。感情が半ば麻痺してしまったようで、僕もそれ以上は何も言えなかった。

 数分後、警官たちに男たちは連行されていった。閉じ込められていた本物の警備員たちも、無事救出された。手足をガムテープでぐるぐる巻きにされ、口もふさがれた状態で、長い人で数時間閉じ込められていたらしいが、幸い肌寒い季節だったので、熱中症や脱水にはならなかったようだ。下着姿ゆえ、身体は冷え切っていたそうだが。
 やがて救急車がやってきた。白服の技師が降りてきて、調べ始める。
「頸動脈がかすかに触れる。まだ生きているぞ」
 その言葉を聞いた時、思わず安堵のため息が漏れた。が、もう一人が首を振った。
「だが、これはかなりひどいな……」
「誰か付き添いに来て下さい」
 専属スタッフの二人、カークランドさんとジャクソンが、一緒に救急車に乗り込んでいった。ロブも本当は行きたかったのだろうが、総合マネージャーとして、ひとまず僕らの対応もしなければならないと、諦めたらしい。
 事件は一応、これで解決を見たことになる。ソフィアという女の子は無傷で保護され、ファンたちも誰もケガはない。少女の姉らしい子も早まって発砲などしなかったし、罪には問われない。制服を奪われて閉じ込められた警備員たちも、命には別条なく、犯人たちも全員捕まった。だから最悪の結末、などとは言うまい。でも無事な解決とは、到底言えなかった。
 僕らはとり返しのつかない犠牲を払ってしまったのではないだろうか──遠ざかっていく救急車のサイレンを聞きながら、みんな凍りついたようにその場に立ちすくんでいた。コンクリートの上に出来た血だまりは、まだ生々しく深紅にあたりを染めている。スタッフたちは沈痛な表情で押し黙り、警官たちがファンや警備員、ホテルの関係者たちに事情を聞いていた。ファンたちは泣き続けている。そして泣きながら、警察の質問に答えていた。その場にいた二七八人のファンたちが(この数字は、後で警察から教えてもらって知った。エアリィはたぶん、一瞬でその数を把握していただろうが)その場に佇んだまま、あるものは座り込んで、泣いていた。
 泣くな──僕は思わず叫びたくなった。まだエアリィは死んだわけじゃない。まるで彼を悼むように泣くのはやめてくれ! アーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、僕ら凡人とは違う。普通の人間じゃないんだ。こんなことで死んだりするわけがない。僕はこぶしを握り、唇を噛み締めた。




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