Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years' Sprint

六年目(2)





 そんな波乱はあったものの、レコーディング自体は順調に進み、作業はミックスダウンの段階に入った。サードアルバムからモンスターセールスを記録するようになったため、制作費を気にする必要がなくなった僕らは、いつも使わせてもらっているケベックの高原にあるプライベートスタジオ、ラセット・プレイスを共同所有するスィフターメンバーの未亡人たちに多くの謝礼を渡すこともできたし、観光をかねた海外でのミックスダウンもできるようになっていた。そのため、前作はロンドンで作業を行ったが、今回はジュネーブまで飛び、レマン湖を眼下に見ながらの作業となった。二週間で、ミックスダウンは終わった。アルバムに収録する十二曲を選曲して曲順を決めれば、マスターの出来上がりだ。
 三月半ば、いくぶん春めいた日差しがガラス越しに差し込むスタジオの一室で、僕たちは出来上がったばかりの新作のマスターを、通しで聞いた。正式にレーベルに渡す前に出来上がりを確認するという、いつものプロセスだ。
 だが僕たちにとって通算五枚目にあたる、『Vanishing Illusions』とタイトル付けられたアルバムを、一曲目の『Turning the Scale』からラストの『Talk to the Nature』まで、十二曲七〇分を初めて通して聴いた時、僕はアルバムに隠されたメッセージをはっきり認識し、思わずぞくっと戦慄が駆け抜けるのを感じた。一曲一曲をレコーディングしていた時には、はっきりとは見えなかったものが、十二曲集まってアルバムという形になった時、その真のコンセプトが鮮やかに浮き出てくる。それは恐ろしく衝撃的なもの――まさしくタイトル通り“社会的幻想、および通念を消し去るもの”だったのだ。
 一曲目は『自分を縛っているのは、ほとんどが押しつけられた他人の価値観だ。でも本当の真実は、いったい何なのだろう』それを強烈に訴えかける、まさにアルバムの導入にふさわしいメッセージだ。でも、全体にかなり社会的なテーマが多いことはたしかだが、おのおのの曲をレコーディングしている時には、アルバムの全体像をあまり感じることはなかった。唯一、『Scarlet Mission』という曲のテーマには、最初から僕らも戸惑ったが。この曲は歌詞だけを単純に読めば、厳格で不実な恋人への、穏やかな非難と悲しみ――そうとれなくもない。でも実はここに歌われている恋人とは、宗教、それに他ならない。もっとはっきり言ってしまえば、現存の宗教のあり方を明らかに否定している。その内に秘められた強烈なメッセージは、タイトルとあいまって『単なるラヴソングだよ』などととても誤魔化せるものではないだろう。特に一部の過激なキリスト原理主義者たちにとっては、冒涜的に聞こえてしまうかもしれないし、イスラムや他の宗教に対しても、同じ危険があるかもしれない。もし僕の義兄エイヴリー牧師が(彼はバプティスト系の牧師だが)真の意味を知ったら、どんな反応をするか、考えただけで恐ろしい。
 こればかりは僕も曲が完成した時点から、(ちょっと危ないな)と思った。宗教と政治の議論は避けた方がいい、とよく言われるが、それはその人の根本に根を張った信念であるから、決して説得されることはないし、激しい議論の応酬を無駄に招いてしまうだけだということを、わかっているためだろう。僕たちも今までは、この領域に踏み込むことは、ほぼなかった。だがここに来て、その一線を越えてしまった。
 もともとエアリィの宗教観は、一般的なキリスト教とは少し違う。それは、僕も知っていた。マインズデール教会で薫陶は受けているはずだが、『イエス・キリストは神様に目をかけてもらった人の一人』と言うくらいだから、三位一体説をそもそも信じていないし、聖書も『物語や道徳の教科書としては、いいかもね』などと言う。ただ、無神論者ではない。『本当の神様がいることは信じている』と、言っていたから。でも、エアリィはいつも神様を代名詞で言及する時、“彼”ではなく、“彼女”と言う。そのことが一部の鋭いインタビュアーたちに『アーディス・レインは、どういう宗教観を持っているんだ?』という疑問を起こさせているようだ。彼の書く歌詞も『多少懐疑主義者っぽい』とも言われているし。それでも今までエアリィは公の場で、自分の宗教的スタンスを明らかにしたことはなかった。しかし、この曲を出してしまったら、『私は無神論者』と、大っぴらに言ってしまうようなものだろう。しかもアーディス自身は無神論者ではないのだから、よけい話がややこしい。もちろん僕を含めインストの四人は、宗派の違いはあれど、れっきとしたクリスチャンだ。それゆえ、アルバムの選曲段階になった時、僕はこの曲を入れることを、少し躊躇した。でもエアリィが珍しく、強く主張したのだ。
「これも入れてほしいな。じゃないと、意味がぼやけるんだ。宗教問題はやばいことはわかるけど、これもパズルの一片なんだから、どうしても落とせないんだ」と。
「いったい何のパズルを作ろうとしてるんだよ」僕は問うた。
 エアリィはちょっと考えるように沈黙した後、答えた。
「ゼロの地平。そのパズルを作りたいんだ。今がその時期なのかなって思って」
「なんだって?」
 その時の僕には(そしておそらく他の三人にも)、ちんぷんかんぷんの答えだった。
 僕らはその曲をアルバムに入れることにした。たしかにアーティストの良心に従えば、これはやっぱり入れるべき曲だ。出来自体は申し分なかったし、内容が危ないからといって危険を冒すことを避けるのは、ミュージシャンとしてアーティストとして悔いの残る行動だろう。そう思えたからだ。

 その時には『ゼロの地平というパズルを作りたい』というエアリィの言葉を、僕はあまり深刻には考えていなかった。『けど、Zero Horizonってのは、まんま過ぎるな。アルバムタイトルとしては。まあ、Vanishing Illusionsも、そのまんまだけど』――その言葉の意味も、はっきりとわかっていたとは言えない。
 収録曲は、個々に独立した主題を持っている。仮想現実、自然、欲望、マスメディア、権力、虚無感など。おのおのの歌詞は、明確な意味を持つものもあれば、隠れテーマのように浮かび上がってくるものもある。それは、ばらばらのピースだ。ピースだけを単独で聞いている分には、その曲それぞれの主題と情景だけが感じられる。だから、わからなかったのだろう。
 作曲やアレンジ、演奏に関しては、前二作を上回ると自信を持って言える。音楽的にもアイディアを出来る限り詰め込み、躍動的なロックのダイナミズムにあふれた傑作が出来たと思った。その評価は揺るがない。だが、アルバムとして改めて全体を聞いてみた時、十二曲のピースが集まって出来た『完成されたパズル』がもたらす意味と、あまりにも衝撃的なパワーに、当事者であるはずの僕らバンドの面々さえ、言葉を失わずにはいられなかったのだ。
 もう一度聞き返してみた。さらに、もう一回――都合三度のリプレイを通して、僕は新作の持つ意義を完全に理解した。“ゼロの地平”パズルの意味を。それは社会、常識、通念、宗教、それらのものからもたらされる価値観や幻想、そういうものをすべて白紙に戻し、聞き手を真空地帯に置く。彼らは一種の混乱状態に落ち、その後見えてくる。幻想に支配されるな。絶対的な真実だと思ったもの、そのほとんどは社会通念や価値観や倫理によって作り上げられた幻想なのだと。社会、そして自分自身さえ、作り上げられたイメージの中に生きている。だから、それに捕らわれるな。
 ある意味では。危険な思想だろう。欲望の赴くままに振る舞おう、道徳なんていらない。そんな過激な意識を引き出す恐れもあるし、アナーキズムやニヒリズムに走る可能性だってある。でも僕らの場合、決してこの結末へはつながらない。確信を持ってそう言える。このアルバムの本当のすごさは、リスナーたちを一種の真空状態に起きながら、否定的な意識をまったく起こさせないことにある。あらゆる呪縛から自由になった時、人は無の状態に置かれる。ゼロの地平──たしかに、よく言ったものだ。自我だけが残り、それ以外には何もない。だが、それは悪いものを築くためではなく、より良いものを作り上げるための整地作業だ。
 僕は改めて、アーディス・レインというアーティストの、底知れない力を見たような気がした。ロック音楽という媒体を通して、ここまでやれてしまうのは、彼ただ一人だろう。エアリィは未踏の領域に、なお深く入って行きつつある。『Children for the Light』は奇跡の名盤だと、誰もが言った。『Eureka』が完成した時、僕は思いつつあった。もしかしたら、エアリィの存在自体が奇跡なのでは、と。そして今『Vanishing Illusions』に至って、僕はその認識が間違いなかったことを、確信した。アーディス・レインはモンスターとして覚醒しただけではない。その力は時とともに、ますます強大になっていく。その凄まじい力に僕ら四人も振り回され、巻き込まれ、苦闘しながら作り上げたこのアルバム。だが、この作品が持っている異様な衝撃力は、僕たちさえも当惑させる。
 焦りと混乱を感じた。バンドで一緒にやり初めた時、僕たちは音楽上の創作リーダーだった。僕たちは他の三人が言っていたように、ソングライティングチームでもあった。だが三作目の製作直前に、エアリィは未踏の領域に目覚め、人間以上のものに脱皮した。単なる一人の人間たる僕には到底追いつけない、共有できない領域を、一人で突き進み始めた。もはやチームではなく、彼は音楽上での絶対的リーダーとなった。僕ら四人は彼に引っ張られ、おいて行かれまいと必死になった。ただそれだけ──アーディス・レインという音楽的モンスターの後に、必死でついていくことだけ。それがこの四年近くの年月、僕らインストの四人がしてきたすべてだ。僕らは、いよいよ本当に置いていかれるのだろうか。アルバム製作という舞台から──。

 ソングライティングにおいて、アルバムに収録された十二曲のうち、僕が自分のものだと言えるのは、オフの最後に書いた『The Revelation Day』という一曲だけだった。またのタイトルを『世界がゼロに戻った日』というこの曲は、五年半後に迫り来る世界の終焉をまざまざと思い起こさせる、僕らにとって最高に恐いナンバーだ。
 曲を作った時のことを思い出す。僕らの二人目の子供が幻と消えてしまったあの日から、五日後のことだった。遊び疲れたクリスがソファの上で眠ってしまったので、僕は抱き上げて、ベッドに連れていった。毛布をかけてやり、傍らの椅子に腰を下ろして、僕は小さな息子を眺めていた。無垢な寝顔だった。ただ楽しい夢があるのみの、子供の姿だ。
 不意に切なさに襲われた。ああ、この子は未来に何の疑いも持っていない。世界があと六年足らずで終わるなんて、悪い夢だ。ただの幻だったら、どんなにいいだろう。この子が期待しているとおり、いつまでも平和な未来がずっと続いていてくれたら。そのためだったら、何を犠牲にしてもかまわない。
 そんな思いで息子の寝顔をじっと眺めていると、突然頭の中にフレーズが溢れだした。まるで洪水のような勢いで。僕は頭を押さえ、何かにせかされるように、自分の部屋に飛び込んだ。セッティングもそこそこにギターを弾き、夢中で五線紙にペンを走らせる。ギターパートを先に全部書き、ベースを付け加え、キーボード・パートを書き入れ、リズムを指定した。最後にヴォーカルメロディまで全部書いた。全パートが完璧に書けたのは本当に珍しいことだった。ただ、歌詞がついていないだけだ。
 プリプロダクションに集まったスタジオで、作業三日目に曲は仕上げられた。僕らが持ち込んできた作品のうち、エアリィが歌詞をつけてきた、ただ一曲、それがこの曲なのだ。その時、彼はちょっと苦笑しながら、こんなことを言った。
「詞は付いたんだけど、やな歌になっちゃった。なんか他のイメージが全然浮かばなくて。覚悟して聞いて」
 出来あがった歌詞は、たしかにとんでもなかった。
『永遠に続くはずの未来は、突然途切れた/束の間の穏やかさを破って/嵐は何の前触れもなしに襲ってきた/そして世界は地獄と化した/君には見えないかい?/街は炎の中で崩れていく/何が起こったのかすらわからないままに/文明は、一瞬にして壊れていく/彼らは逃げ惑いながら/決してこない救いを求め叫ぶ/世界はゼロに戻っていく――』  必死に頭の片隅に追いやろうとしていたイメージを、ぐいっと手荒く捕まれてひっぱりだされ、目の前に無慈悲に突き付けられた――まさにそんな感じだった。おまけにその時には流しだったが、エアリィが本気でこれを歌うと、曲の感情や情景が、鮮烈に心に飛び込んできてしまうだろう。まるで時をさらに飛び越え、世界最後の日に直面して、頭から炎の雨を浴びているような、世界の崩壊をまざまざとこの目で見ているような、そんな気にさせられてしまう。
 勘弁してくれ! 僕は思わずそう叫びたくなった。本番のレコーディングはおろか、もしツアーで演奏することになったら、ほぼ毎晩そんな気分を味わうことになってしまう。冗談じゃない! と。でも、この曲がこういう主題になってしまったのは、僕の責任だろう。この曲を作った時に感じた思いが、イメージが増幅されてエアリィに伝わってしまい、彼はそれに従って歌詞を書いただけのだから。
「なんかさ、これじゃ、本当救いがなさすぎて、やだな」
 エアリィは歌い終わると首を振り、ため息をついていた。言われるまでもなく、僕も同感だった。
「だけど曲の出来自体は、とてもいいんだから、没にするのは惜しいね」
 ミックが考え込むように呟き、
「他の詞は付けられないのかよ、エアリィ。メロディ自体は暗くないんだぜ」
 ジョージは、引きつったような笑いを浮かべていた。
「だって他のイメージ、絶対浮かばないんだ。メロディの表面明るくったって、この曲、とんでもない悲壮感に満ちてるよ。なまじマイナーじゃない分、よけいさ。けど……うーん、もうちょっとは救いがあるように、なんとかできるかなぁ……」
 エアリィは頭を振り、しばらく考え込んでいるように沈黙したあと、歌詞が書かれたノートのページを開いて、修正を始めた。三十分ほどのち、第二ヴァージョンができた。数行、表現をやわらかくし、最後のヴァースを新しく付け足して。廃墟の中から再生する、希望の暗示を。それによって曲の悲惨さは救われた。それに、ゼロからの再生──それはまさに、このアルバムの主題にも直結する。それゆえ、この曲はアルバム入りしたのだ。
 だが収録された十二曲中、僕が作ったと言えるのはこれだけだった。それですらエアリィの修正なしには成り立たず、元のヴォーカルメロディも、半分近く変えられてしまった。メロディの質は明らかに向上したが、インストが修正せざる得なくなったのも、いつもの通りだ。
 エアリィは前二作同様、作曲からアレンジまで、終始主導権を取っている。アルバム収録曲の曲順設定すら、今回は『悪いけど、流れのイメージがあるから、出来たらこうしたいんだ』と、十二曲の順番をきっちり指定してきた。僕らも流れ的には文句はなかったので、そのまま採用した。おそらくそれもパズルを組む上での、重要な要素だったのだろう。
 僕らはエアリィの決めた方向性の中でのみ、自由だった。自分ではのびのびと自由にやっているつもりでも、結局作り上げたものは、最善の解法は、いつも彼が心の中で最初に描いていた音像と、同じものになってしまう。そのことを前々作では、僕はまったく気づかなかった。前作では、うすうす感じ始めていた。でも今回、最終デモが完成したあと、エアリィがごくあっさりした口調でこう言った時には、少なからず衝撃を受けたものだ。
「今回は、僕がヴォーカルラインを書いた時に感じてるインストのイメージと、みんなが作ってくる最終アレンジが、ぴったり同じだったんだ。前の二つも、かなり一緒だったけど、今回は完璧だよ。ちょっとびっくりだな」
 そう──彼はそう言ったのだ。
 ちょっと待ってくれ──じゃあ、僕らがベストアレンジを捜し求めている、あの苦闘はなんなんだ。試行錯誤を繰り返し、必死で最善を捜し求めている甲斐が、どこにあるんだ。その結果が、最初からエアリィがすべてのパートを規定したのと同じアレンジに落ち着いてしまうのなら、以前から、そして今回は百パーセントそうなのだとしたら――それゆえ、最初に彼がオフに書いてきた曲が、インストパートも入れてきた三曲が、即座に完成形だと認めざるをえなかったのは、僕らが仮にやったとしても、同じ形にたどり着くことを、僕らも無意識に感じていたからなのだろうか。でもそれなら、僕らが苦労する理由がどこにあるんだ。
 他のメンバーもそう感じたらしく、みな複雑な表情を浮かべていた。やがてジョージが、引きつり気味の笑いを浮かべながら、口を開いた。
「それならなあ、エアリィ。なにも俺たちが苦労してアレンジ考えなくても、おまえが全部最初に決めてくれた方が、早いんじゃないか?」
「えー! それって手抜き! 第一、僕にそんな権限ないし。自分のパートは自分で考えないと、みんなも納得できないと思う。結果的に、今までたまたま一緒になっただけで、違うのもあるかもしれないんだし。どんなのになるかは、みんなの結果が出ないと、わかんないんだから」
 エアリィは頭を振って答えた。本当に何気ない調子で、僕らの動揺など、ほとんどわかっていないような口調だった。そう、彼からすれば、さしたる問題ではないのだろう。自分で最初に描いた音像と同じ結果を、僕らが出してくる。前二作もそうだったが、今回は完全に一致した。それがちょっと不思議だ。ただそれだけのことだ。
 だが僕にとっては、毎回プリプロダクションになると頭を悩ませるベストアレンジ探しが、結局は彼の手の上で右往左往しているだけなのだとわかるのは、かなり衝撃だった。それは、ミックやロビン、ジョージも同じだっただろう。ここまで――ここまで僕らは、とりこまれてしまっているのか。アーディス・レインという底知れない、無邪気なモンスターに。最終デモが録り上がってからそのことを聞かされたのが、まだ救いだった。作業中だったら、しばらくは気力をなくしたに違いない。

 そして僕らは今、何を作り上げたのか。“ゼロの地平”というパズルは、どういう意味だったのか。はっきり耳にし、悟った時、僕は思わず身震いして、竦み上がった。おそらく、インストのほかの三人も、同じ思いだったのだろう。しばらくは、誰も何も言えないでいたほどだ。
「ちょっとこれは……やばくないか」
 ジョージが沈黙を破って、擦れた声を出した。
「うーん、きっと、ただではすまないだろうね」
 ミックも首をひねり、うなってしまっている。
「出すのが怖いよ、僕は」
 僕は当惑しながら、正直に言った。
「出来は本当に素晴らしいけれど……これを出すには、勇気がいるね」
 ロビンも小さな声で、そう呟いている。
「えー、そんなにやばい? どのへんが?」
 エアリィは僕らの反応に、少し驚いたような感じだった。
「どのへんがって、トータルコンセプトがだ。やばいなんてもんじゃないぞ、おまえ!」
 僕は思わず声を上げた。
「そうかな。まあ、多少は問題あるかもしれないけど、でも歌詞の上じゃ、そうストレートには書かなかったつもりだよ」
「字面はな。でも、真意は伝わるよ。伝わりすぎるほどに」
「伝わってんなら、パズルは成功だ。よかった」
「よかったって問題か?」
 僕はあとの言葉を飲みこんだ。なぜ、僕はこれほど反発する? エアリィが前もって作品の方針をはっきり明かして、相談してくれなかったからか。僕らの思惑とは無関係に、自分の作りたい作品にしてしまったことか。でも、それは前からわかっていたことじゃないか。前二作と何も違わない。彼が歌詞を手がけている以上、バンドのコンセプターであることは動かしようがないのだし、その内容について僕らに相談しないのも、今に始まったことじゃない。テーマに異議がなければ、何も問題はないのかもしれない。
「どうしてだよ、エアリィ……」
 僕はかろうじて続けた。
「どうして、こんな危ないコンセプトを設定するんだ? 僕はおまえの書く詩は好きだよ。真剣で深くて、希望があって。僕らの知らない世界や心情を、たくさんおまえから教わったよ。だけど今回は少し違う。たしかに、おのおの詩はさすがだよ。良いと思うよ。それは僕もどうこうは言わない。でも、おまえはいつからそんなに過激になったんだ? これは一種のマインドコントロールだ。決して否定的な方には持っていかないことは認めるさ。でも概念の破壊自体が、一つの社会挑戦だろ。ファンはまだわかってくれるだろうが、周りの大人たちや世間からどれほど反発を受けるか、わからないんだぞ」
「やだなあ、ジャスティン。マインドコントロールだなんて、どっかのカルトやセミナーみたいだ。逆に僕は、そういうのは解きたいんだ。それでアルバムを聴いてくれた人たちの心を少しでも動かせたらいいなって、思ってるだけさ」
「動かすだろうさ、確実に。たぶん、おまえの思っている以上にな。でも、なんのために? なぜ社会に真っ向から挑むような、こんなコンセプトにしたんだよ」
「うーん。ここまで来たから、ベクトルを変えてみたいって思ったんだけど……」
 エアリィは片手を頭に当て、少し考え込むような感じで言葉を続けた。
「『Children〜』は、あの時点での過去と今の総括、って感じで。だからあのアルバムは、パーソナルな主題も多いけど、それをもっと一般的なものに置き換えた感じで、『Eureka』は自分と、それを取り巻くものの総括なんだ、言ってみれば。で、今回は自分を取り巻くものと、自分との関連。その過程で、構築されてきた価値観を見直す、そんな感じかな。それで、いったん整地できたらって思う。周りに流されているうちは、本当の自分ってなかなか見えてこないから。何が価値のあるもので、何がそうでないのか、自分で考えるために」
「それで……幻想の消去か?」
「うん。いろんな意味での幻想。通念とか、価値観とか、メディアとか、仮想世界とか、権力とかお金とか、流行とか宗教とか、自然に対するスタンスとかプライドとか、うわべの付き合いとか、個々の主題まとめて。僕はこの社会、どっか変だって感じてる部分があるから。大事にしなければいけないものを軽んじてて、どうでも良いものをあがめてるような。何か大きな、目に見えないものに操られてる……それも、モノと欲望だけで動いてるとしたら、ちょっと情けなくないかなあ。幸せな人生って、生きる意味って、そんな低いレベルでいいのかなって、そんな気がしてるから。それに、なんかいろいろ不自由なものに縛られてるって。本当に正しいのかそうでないのか、考えることをしないで。だから、そういう呪縛を解きたい。そういうのを一度全部はずして、自分で考えてみようって、そんなコンセプトを作ってみたかったんだ」
「うん。それはわかるよ。悪くはないことだけど……」
 たしかにその通りかもしれない。僕もそう思うことが何度かある。だとしたら、コンセプトには、なんら問題はないじゃないか。間違っていないのなら、なぜ僕らは戸惑うのだろう。ミックもジョージもロビンも考え込んでいるようだ。きっと同じ考えを追っているのだろう。
「ロックアルバムのコンセプトとしては、その主題は決して珍しくないよ」
 僕らとともに現場に立ち合っていたプロデューサーのアーノルド・ローレンスさんが、その時、口を開いた。
「破壊的なものや退廃的なもの、憎悪や殺人のような、もっと暗くて救いようのない、明らかに悪いと思えるようなコンセプトを持つアルバムだって、それこそ掃いて捨てるほどある。君たちにはそういうマイナスの方向性はかけらもないから、決してコンセプト自体に問題があるわけではないんだ」
 そこで一呼吸おくと、ローレンスさんは僕らを見まわし、言葉を継いだ。
「ただ、君たちが戸惑うわけもわかるよ。問題は主題より、衝撃性や影響力の強さなんだ。普通の音楽でも、リスナーの中に影響を受けやすいタイプの人がいて、その人の本来持っている気質とか考え方や気分なんかに、あまりにマッチしてしまった場合は、その人に思いも寄らない効果を与える場合がある。それがもし否定的な概念だったら、自殺に追い込んでしまったり、殺人を犯したりという破壊的な結末になることもあるんだ。だから、ミュージシャンは自覚すべきなんだよ。リスナーの存在と、その影響についてね」
「ええ……わかります」
 僕は頷いた。みなも同じだったようだ。
「ただね、普通のアーティストの場合は、たとえば百人リスナーがいたとしたら、聴いた音楽に本気で影響される人は、非常に優れたアーティストでも、せいぜい十人くらいだろう。リスナーの気質の差とか、嗜好の違いといった壁があるからね。でも、君たちは違う。君たちの音楽は相手の気質や嗜好を、まったく問題にしない。強引に壁を取り払って飛び込むだけの力があるんだ。だから『Children for the Light』であれだけ派手な大ブレイクを果たしたわけだし、『Eureka』でもその勢いを増幅して、突っ走れたわけなんだ。その二作が数え切れないほど多くのリスナーたちの悩みを払い、力づけ、さらには無気力無感動に陥っていた人たちにさえ感動を与え、まわりの世界に目覚めさせた。それは紛れもない事実なんだ。その結果、君たちは膨大で、なおかつ熱心なリスナーの母集団を獲得した。ほとんど全部のファンたちが、君たちの新作を心待ちにしているだろう。だからこそ、問題が出るんだ。今度のアルバムは僕も、リプレイを聞いて震えが止まらなかった。主題もさることながら、前二作を上回る衝撃度だ。まず間違いなくその主題はリスナーの心に届き、揺り動かすだろう。本気で感化される人が大半に違いない。その主題は、幻想の消去だ。それはたぶん、多くの葛藤を生み出すだろう。社会側にとっては、非常な脅威に思えるだろう。なぜならば、このアルバムに触発された何千万人規模での大きなムーヴメントが、きっと起こってしまうだろうからだ。その結果、何が起こるか……影響力の強さと、その作用の大きさ。それが、君たちの怖れの正体なんだろう」
 そうだ。ローレンスさんの言うとおり、それが僕が(おそらくミックやジョージ、ロビンも)不安に思い、怖れていることなのだ。具体的にはっきり、そこまで言葉には表せなかったが。僕らは顔を見合わせ、深く頷いた。
 ローレンスさんは、そんな僕らの反応を確かめるように見たあと、言葉を継いだ。
「そうなると、問題は二つだね。まず一つは、エアリィ、君自身に、どれだけの覚悟があるかということだ。君の信念は、決して間違ってはいないと僕も思う。だが、このアルバムをこのまま発表することは、ガラスの家に至近距離から、特大のボールを投げ込むに等しい。その破片で、君自身かなり傷つく覚悟がいるだろう。バンドの他のメンバーたちにも、その飛沫は降り注ぐだろう。それでも君は、ボールを投げる勇気があるかい?」
「えっ……?」
「君はそれでなくとも、業界のある勢力にとっては、抹殺すべきモンスターとみなされているんだ。単刀直入に言わせてもらえばね。今までだって、いろいろな形で君たちへの、いや、主に君への妨害工作はあったわけだ。そこにこんな危険な、反対勢力たちにとっての危険だけでなく、社会全体に重大な波風を起こしそうだという危険まではらんだ作品を出せば、君はより多くの反対者を作ってしまうことになるだろう。それほど君の力は、大きすぎるんだ。誤解を恐れずに言うならば、君たちの音楽をリスナーすべての心にダイレクトに飛び込ませているのは、君の力ゆえだ。それが、僕らが封印を切ってしまった、君のモンスターなんだ。君はその力に対し、もっと自覚的にならなければいけない。君の力は、諸刃の剣だということを。自分がどこまで出来るか、という実験的な意味だけで、やるべきものではない。君は一部の人たちに、何と呼ばれているか知っているかい? “Mesmerizer”――誘惑者、もしくは催眠術者だ。『洗脳者』と呼ぶものもいる。君は触れるものを、完全に感化してしまうからだ。だが今までは、その結果がほぼ良い方向にしか現れていないから、そういう連中も静観している。だが、これはちょっと違う。このアクションそのものは、ネガティヴではない。だが、ポジティヴとも言えないと思う、これだけでは。そう、水平切り……君が言っていた、ゼロの地平だ。その結果、切られて倒れるものが出てくる。整地するためには、そこにあるものを破壊しなければならないわけだからね。その時、君を『催眠術者』と呼ぶ人々は、どう思うだろうか。君の力がもし、はっきりとした破壊の方向へ向かったら、と懸念を抱く人も、きっと出てくるだろう。君を良く知っている人はそうは思わないだろうが、それよりも圧倒的に、イメージだけしか知らない人の方が多いのだからね。いや、君は負のイメージは決して持っていないが、その強すぎる力ゆえに、君の本質を疑う人も一部には出てきてしまうと思う。どんな人間も、百パーセントの支持は得られないものだからね。それは君を、今以上の危険に陥れるかもしれない。それでも君は、進む勇気があるかい?」
 ローレンスさんの言葉は真実だ。みんな、そう悟ったに違いない。エアリィも一瞬、青ざめたほどに。しかし彼にためらいは、まったくないようだった。きゅっと唇を噛み、ローレンスさんをまっすぐ見つめ、頷いた。
「うん……でも、僕は進みたい」
「そうか……理由を聞いてもいいかな?」
「それが、今の僕の必然だから、って言うと、理由になってるのかなって、わからないけど……ここを通らないと、先に進めないから。正直言うと、僕も少し怖くなった。それに、またみんなを巻き込んじゃうのかなって考えると、申し訳ないとも思う。でも僕は今、たぶん他のものは作れない気がする。これは必要なプロセスなんだ。次のステップに行くために」
「そうか。これは必要な通過ポイントだと。そうなると、君はその先をも、見据えているんだね。ここを進んだ先には、何があるんだい?」
 ローレンスさんは穏やかさと熱情の入り混じったようなまなざしで、そう問いかける。
「今はまだ、漠然としたイメージだから、この段階では、はっきり言えないけど」
「そうか……」
 ローレンスさんはしばらく黙って見つめた後、言葉を継いだ。
「僕は、君を信用するよ」
「ありがとう……あ、ございます。本当に」
 エアリィはちょっと安心したような表情になった。散々タメ口でしゃべっておいて、そこだけ半端な敬語になるな、と、僕は思わず苦笑した。
「だが君の中では、ここは避けては通れない道だと」
 ローレンスさんは重ねて問いかける。
「たとえば、一曲抜いて別のものにするとか、曲順を入れ替えるだけでも、ずいぶんパズルの意味はぼやけると思うが、そういうこともやりたくはないんだね」
「うん。意図的にぼやかしちゃうと、アルバム自体を殺すことになると思うから。完成品をわざわざ壊してレベルダウンしなきゃならない理由が、やばいからってことだけだったら、なんかやだ。そういうのには、屈したくないって思う」
「そうだな。君の考えはよくわかった。純粋にアーティストとしての見地に立つなら、それはたしかに正論だと思うよ。僕には『アーメン』としか言えないな。いや、変な意味ではないよ。君の勇気が報いられることを祈る。そして君の無事を祈るよ。本心からね」
 ローレンスさんは深く頷き、再び僕らの方を向いた。
「では、もう一つの問題に行こう。君たちはどうだい? ジャスティン、ミック、ジョージ、ロビン。君たちは、ガラスの飛沫をかぶる覚悟があるかい? それとも、そんな危険は犯したくない気持ちの方が強いかい? そう、その気持ちは決して恥じるべきものじゃない。君たちがそう思うなら、本当にみんなが納得できる道を、時間をかけてでも、探すべきだと僕は思う。どうだい?」
 恥じるべきものではないと言われたものの、逃げるのは臆病者のような気がしてきた。エアリィの主張がアーティスト的見地に立った正論なら(ローレンスさんもそう認めたし、僕自身もたしかにそう思う)、避けるのはやはり、ミュージシャンとしての本質を見失っているということに他ならない。第一、エアリィがここまで強固だと、インストの四人だけでアルバムを手直しするなどと言ったら、バンドの分裂を招きかねないだろう。それに、内容に決して不満があるわけではない。この数ヶ月すべてを忘れて没頭し、持てる力と情熱をすべてそそぎ込んで、完成させたアルバムなのだ。作品としての出来には非常に満足しているし、コンセプトにも共感できる。反応が怖いから、そんな理由で引いてしまっては、情けなさすぎる。一緒に勇気を持って進むしかない。
 みんな同じ結論に達したようだった。レーベルが許可するかどうかも少し気になったが、次の日マスターを取りにきた担当者たち(デビュー当時からお世話になっているスタインウェイさんと、前回からはA&R部長シュレーダーさんまで乗り出してきていた)は、こう言っただけだった。
「いや、これは素晴らしい! 言葉が出ない。最高のモンスターアルバムだ」
「本当に震えが止まらないよ。またもや大ヒット間違いなしだ! 本当に感激したよ!」
「反発も来そうな感じですが、大丈夫ですか?」
 ロブが気遣わしそうに聞いたが、宣伝部長のシュレーダーさんは笑っただけだった。
「ハハハ、反発結構だ。多少反響がにぎやかなほうが、我々としては宣伝になっていいよ。問題作、おおいに歓迎だ。さあさあ、とにかく早くアメリカに帰って、急いで生産ラインに乗せよう。工場にはラインを止めて、待機させているんだ。五月の第一週に世界で同時発売するのだと、社長も張り切っているんでね。さあ、これから忙しいぞ!」
 彼らはあたふたと帰っていった。レーベルは売れればいいのだろうから、気楽なものだ。

 こうして出来上がった五枚目のアルバム『Vanishing Illusions』は、配給レーベルが予定した通り、五月の第一週に世界同時リリースされることになった。多少反響が大きくなることは覚悟していたけれど、それがどれほど膨れあがっていくか、今の僕らに予想はできない。レーベルにマスターを渡した時点で、ボールは僕らの手を離れて転がり始める。どこまで行くかは、誰にもわからないのだ。

 スイスでのミックスダウンを終え、トロントに戻ってきた僕は、二週間半ぶりに我が家の門をくぐった。誰も迎えには出てこない。家の中は、しんと静まり返っている。半ばがっかりし、半ばうんざりした気分だった。ステラは去年の十一月から――退院してきた時からずっと、僕の仕事中は、クリスを連れて実家に帰ったままだ。僕は帰って来るといったん家に荷物を置いて、妻と子供を迎えにいく。義父母から皮肉を言われ、冷たくあしらわれながら、なんとか家族を連れて戻ってくる。仏頂面をしたトレリック夫人も一緒だ。レコーディングの合間に戻って来た時も今も。
 ステラはもう身体の方は、すっかりいいようだ。今年に入ってからは、すでに普通に歩けるようになったし、流産後の検診でも、問題なく回復しているらしい。でも僕らの間には、まだあの事件が影を落としている。家のことは一切トレリック夫人に任せ、ステラはずっとクリスにつきっきりだ。一緒に遊んでやり、世話をし、過保護といっていいほど、いつもそばにいる。クリスが眠っている時には、一緒に子供部屋にこもってしまうか、寝室に引っ込むことが多くなった。
 いつもはクリスが眠ると、夫婦二人の時間だった。リビングでお茶を飲み、語り合ったものだ。でも今のステラは、なんとなく僕を避けているとしか思えない。夫婦の会話はほとんどなくなり、彼女の笑い声も久しく聞かない。僕と一緒に出かけたがらなくもなった。小旅行はもちろん、公園や遊園地にでも遊びに行こうと誘うと、『あなたと一緒だと、知らない人が寄ってきて煩わしいから、いや』と首を振る。買い物に行こうともちかければ、『出かけたくないから、トレリック夫人に頼んでちょうだい』とくる。僕の買い物なら、『あなた一人で行って』だ。気分転換にと、外での食事やお茶に誘うと、『うちのお料理では、あなたのお口には合わないの? 外でたくさん、おいしいものを食べているから? トレリック夫人が気を悪くするわよ』と、皮肉が返ってくる。ドライブやピクニックの誘いも、『行きたくないわ』の一言で却下だ。夫婦生活も、ずっと途絶えたままだった。あれから半年近くたった四月になっても、まだ拒否を続ける。『放っておいて。そんな気分には、とてもなれないの』と。寝室も別にしたいとすら一度彼女はほのめかし、僕が『どうしてだい?』と少し語気を強めて問い返すと、ため息をついて、『それなら、いいわ』と、不機嫌とあきらめが入り混じったような声を出しただけだった。
 夫婦のベッドはクイーンサイズなので、シングル二台分ほどの広さがある。その広いベッドの端に、彼女はいつもうずくまって眠る。僕が寄ろうとすると、(ここはわたしの場所よ。出ていって)という表情をありありと浮かべて、迷惑そうに僕を見る。しかたなく、僕は自分のサイドに寄って眠る。手や身体が触れ合うことすらない。ずっとそんな状態だ。  僕は最初戸惑い、やがて苛立った。ステラは僕の話を信じてくれると言ったはずだ。あのけがらわしい写真は、みんな卑劣な陰謀の産物なのだと、認めてくれたんじゃなかったのか。それなのにどうして、僕らは元通りになれないのだろう。情けなく悔しい思いに耐えられなくなった僕は、ついにある夜、ベッドの中で妻に正面から問い正した。
「君は僕のことを、本当はまだ許していないんだね、ステラ」と。
「そんなことはないわ。あなたは悪くないもの」
 彼女の答えは、どこかとってつけたように響いた。
「だったら、どうして君は僕を拒むんだい?」
「だから言ったでしょう。そんな気になれないって。いやなの、そういうことが。それにあなたは、他の人とも……」
「ステラ、あれは僕のせいじゃないって、わかってくれたんじゃなかったのかい? ねえ、君はあれから少し変だよ。ずっと僕を避けて、ろくに話もしてくれない。どこかへ誘っても、断ってばかりだ。どうしてなんだい?」
「どうして、ですって? そんなこと、わかっているはずよ。今は楽しい気分ではなくなったの。だからよ」
「そんなに流産がショックだったのかい?」
「当たり前よ。あなたは女ではないから、それがどんなに悲しいことなのかが、わかりはしないわ。わたしの中で育っていた大事な小さな命が、赤ちゃんになることなく、消えてしまったのよ。どんな子だったのかしら。どんな顔をしていたのかしら。会ってみたかったって……ずっと思ってしまうの。今はもう、かなりお腹が大きくなっているはず、六月末には生まれるはず……そう思うと、その時が来るのが怖いのよ。予定日が来たのに、あの子はいないって。わからないでしょうね。赤ちゃんが生まれたら、その子はどんな子で、どういう服を着せて、どういう風に話しかけて、クリスともどういう風に遊んで、どんな兄弟になるか。ずっと思っていたのよ。ずっと楽しみにしていたの。それが全部、突然消えてしまったの。この悲しさ、あなたにわかる?」
 ステラは小さなおえつを漏らし、しばらく言葉を途切れさせた。
「でもね、楽しくなくなってしまったのは、それだけが原因ではないの。あなたさえ……あなたがもし昔と同じジャスティンで、わたしを慰め励ましてくれたなら、きっと今ほど悲しくはなかったと思うわ。でもね、わたしはもう、あなたに昔と同じ気持ちは持てない。あの写真を見た時、あなたに対する信頼が崩れてしまったのよ。もちろん、あなたの言うことは本当に違いないと、頭では理解していてもね。あなたは自分から、そんなことをする人ではないわ。それはわかってはいるの。でも、ある意味では事実よね。あなたがあの人たちと、そういう関係にあったということは」
「でも、それは僕の意志じゃないよ。君だって、わかってくれたじゃないか」
「それはそうよ。でも、わたしはあなたの意志もそうだけれど、その事実そのものがつらいのよ。あなたはいつも、何ヶ月も家を空けているわよね。去年はだいたい四ヶ月、その前の年もそのくらいしか、家にいないわ。離れている時にあなたが何をしているのかは、わたしは何も知らないのよ。あなたを信用するしかないの。それなのにあなたを信じられなくなったら、わたしはどうすればいいの? あなたは前に他の女の子と浮気なんかしないって、誓ってくれたわよね。それは結婚する時の、約束でもあったはずよ。でもジャスティン、あなたは本当にわたしと結婚してから、一度も他の女の人と関係を持ったことはないの? あの写真は別としてよ。正直に答えてちょうだい」
 逆にそう問いつめられて、思わず返答につまった。この時ほど二度の破戒を後悔したことはなかったが、妻に嘘は付けない。僕はありのままに答えた。
「まったくないとは言えないよ。でも、二回だけだ」
「そう。思ったよりは、ずっと少ないけれど、ゼロではないわけね。あなたはやっぱり、わたしとの約束を破ったのね。わたしはあなただけを愛して、ずっと待っていたのに。あなたと結婚する前からずっと、わたしはあなたを待って過ごしてきたわ。寂しかったけれど、いつも幸せだった。それはあなたがわたしだけを愛し、外での誘惑を果敢に退けてくれてると信じていたからなのよ。それなのに、あなたは他の娘を愛したのね」
「愛したわけじゃないよ」
「愛したわけではない? それでは、あなたもやっぱり、心と身体は別なのね。愛してもいない女の人と、関係を持てるのね。それなら、なおさら信用できなくなるわ」
「そう短絡しないでくれよ、ステラ。他の子と寝たのは、たしかに僕が悪かった。そんなつもりはなかった。つい魔がさしてというか、流されてしまったんだ。でも、もうやめようと心に誓った。僕が愛しているのは、君だけだよ、ステラ。だけど、君にも理解して欲しいんだ……」
「あなたの業界は、誘惑が多いということでしょう。わかっているわ、それくらい。ミュージシャンとしては、当たり前のことなのでしょうね。でもどうしても、感情面では許せないわ。わたしたちは結婚しているのよ。それなのに自分の旦那さまが、他の人と関係を持っているなんて、愉快なわけはないではないの」
 彼女はくるりと背を向けた。しばらく沈黙した後、僕に背を向けたまま、ぽつりと呟く。
「それに、わたしが入院していた時、あなたはどうして会いに来てくれなかったの?」
「え?」意外な非難に、僕は耳を疑った。
「何を言っているんだ。毎日ちゃんと行ったじゃないか。でも、いつも門前払いだ。あげくには、転院すると脅かされたしね。君は何も言ってくれなかったし」
「それはわたしも、怒っていたからよ。本当に悲しくて遣り切れなくて、あなたを責めるよりほかに、しかたがなかったの。でも本当はね、いくらママがああ言っても、毎日ずっと来てほしかったのよ。退院するまで。転院する気なんか、なかったわ。何と言われても来てくれて、優しい言葉をかけて、誠心誠意謝ってほしかった。もしあなたがそうしてくれていたら、わたしはもっと早くあなたを許せたし、もやもやしたわだかまりを持ち続けることもなかったかもしれないと思うの」
「ステラ……」
 思ってもみなかった妻の言葉に、僕は半ば呆然とした。
「だったらどうして、あの時にそう言ってくれなかったんだ。君がそう言ってくれたなら、毎日行ったさ。どんなことだってしただろう。それが君の望むことなら。なのに君は、何も言わなかったじゃないか。僕は君の気持ちを傷つけたくなかったから、今は言うとおりにした方がいいと思って、病院に行くのを我慢したのに」
「ええ。わたし、勝手なことを言っていることは、よくわかっているわ」
 ステラはもう一度向き直り、僕の目を見てきた。非難の色を浮かべて。
「でも、あなたはもっとわたしのことを理解してくれていると、思っていたの。言わなくても、わかってくれると。なのに、あなたはわたしの気持ちなんて、ちっとも考えてはくれなかったのよ。それだけではないわ。あの後あなたがお仕事に行ってからも、全然連絡をくれなかった。手紙も電話も、一度だって」
「君は傷ついているんだから、そっとしておくほうがいいと思ったんだ。それにプリプロダクションの時は忙しいから、あまり連絡しないのは、いつものことじゃないか」
「でも、わたしには、まるで知らん顔をされているように思えたのよ。あなたはきっとわたしのことを、それほど大切に思ってくれていないのだわと、そう考えてしまったの。本当にわたしのことを愛してくれているなら、わたしがどれほど悲しんだかを理解してくれるはずだし、本当にわたしが必要としている慰めがどんなものかも、知っていてくれるはずよ。そうでしょう?」
「僕は僕なりに、君のことを大事にしているつもりだったよ」
「でもあなたの考え方と、わたしの望んでいるものは違うのよ。あなたはわたしのこと、わかってくれていないの」
「ステラ。君が言ってくれなければ、わからないよ。僕は超能力者じゃないんだからね」
「でも、愛はあるはずよね。黙っていてもお互いに理解しあえるのが、愛ではないの? 言わなければわからないなんて、あなたの愛はその程度のものなの?」
「君は愛に幻想を抱きすぎているよ、ステラ。だったら、君だって僕のことをわかってくれているのかい?」
 思わずそう返してしまった。その言葉は、ますます妻を苛立たせたようだった。
「わたしが、あなたを理解しようとしなかったとでも言いたいの! もういいわ。この話はよしましょう。わたしたち、いつまでたっても平行線だわ」
 ステラは再び僕に背を向けると、毛布を頭の上まで引き上げた。
「もうわたし、寝るわ。眠いの。おやすみなさい」
「おやすみ……」
 僕は茫然とあいさつを返した。冷たい『おやすみなさい』は、百の非難より雄弁に僕を打った。まるで対話の扉が、ぴしゃっと目の前で閉ざされてしまったように。僕はため息をつくと、妻に背中を向けた。
 長いこと眠れずに、さっきの会話を思い返しているうち、だんだんと僕にもわかってきた。あれ以来僕たち夫婦の仲をぎくしゃくさせているのは、あの忌まわしい事件そのものではなく、それによって明らかになってきた、お互いの小さな誤解やすれ違いの積み重ね、考え方の違い、お互いの住む世界の違いなのだと。急に妻が手の届かない所に行ってしまったような、心細さを感じた。もう僕たちは、もとに戻れないのだろうか――。

 ワールドツアーが始まるまでの、六週間あまりの半休暇。いつもならこの上なく楽しい休みが、これほどほろ苦かったことはなかった。途中十日ほどビデオ撮影や取材のために家を空けるのが、いつになく救われたような気分だった。休暇が終わって二週間のリハーサルに入る時には、ほっとしたと同時に、そんな自分に気がついて、悲しくもなった。いつのまにか我が家が、楽しさややすらぎの場では、なくなっていたことに。

 まだ半休暇中の四月上旬に、ロンドンから小さな包みが届けられてきた。去年のセッションで録音した曲が入ったCDと、謝礼の小切手だ。ジャケットに映っている、白いスーツに身を包んだプレストンの笑い顔を見たとたん、かっと激しい憤りがこみあげてきて、僕は内容を聞きもせず、CDをケースごと捨てた。小切手もびりびりに引き裂いて、ゴミ箱に放り込んだ。元々お金が欲しかったわけじゃない、と。
 ディーン・セント・プレストン自身がすべての陰謀を仕掛けたわけではないし、ステラが流産したのは、あくまで二次的な、不幸な偶然だ。理性の上では、彼をこれほど憎むつもりはなかった。だが、あの人が陰謀の片棒を担いでいたことは、否定しようのない事実だ。あの人の家での食事会から始まったトラブル、失ってしまった二人目のわが子、広がった僕ら夫婦の溝、壊れかけてしまった家庭。痛手はあまりに大きかった。その憤激のはけ口をどこかに見つけなければ、我慢が出来ない。
 一瞬ためらった後、僕は持っていた彼らのバンドのCDまで、すべてゴミ箱の中にたたき込んだ。中から覗いているジャケットが気になり、回収用の袋を持ち出すと、家にあった他のゴミと一緒に、収集に出した。ちょうど明日は不燃ごみの回収日だ。
 集積所に袋を放り投げた時、いわれなき傷の痛みを感じ、自分の中にあった貴重な何かが一緒に捨てられて、なくなってしまったような気がした。失われたものは、何だったのだろう。僕たち夫婦の幸せだった蜜月時代? それとも、他人に対する信頼の心だろうか?




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