Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

五年目(4)




 まわりの話し声が、かすかに聞こえてくる。遠くから響くように。
「ふん……ずいぶん、たわいなかったな」
 そう言っているのはプレストン氏。パンパンと手を叩く音がし、すぐに複数の足音が聞こえてきた。誰か入ってきたのだろうか。
「上首尾ですね。ありがとう、プレストンさん。一人で手こずるようなら、援軍にかけつけようと思ったんですよ。でも、案外簡単に行きましたね」
 聞き覚えのない声が、聞こえてきた。
「ああ。まったく警戒していなかったからな。甘いもんだよ」
「それでは、彼をお楽しみにつれて行ってあげましょうか」
 そう言っている声には、どことなく聞き覚えがある。どこでだろう──?
「これからどうするのかい?」
 プレストン氏が問いかけるのが聞こえた。
「そうですね。清廉潔白なバンドのメンバーをジャンキーにしてやりたいところですが、二、三日監禁して薬漬けにしない限り、確実ではないですね。ローディーが一緒に来ている以上、それは無理でしょう。まあ、我々ものこのこ一人で来るはずはないと思いましたが。でも見た感じ、あのローディーは遊び好きそうですし、今もご主人をほったらかして、友達と飲んでいますよ。あっちにも一人張り付けてあるので、いつ帰るかわかりますが、これから別の友達が出演するライヴハウスへ行って、それからまたみなで飲むようなことを言っていたそうですから、夜中までは帰ってこないでしょうね。お供があの男だけで、マネージャーやセキュリティが来なくて、良かったと思いました」
「まあ、そうだな。ずっとお供に張り付かれたら、僕も機会がなかっただろうからね。まさか今の彼のステータスで、ローディーと二人だけで来るとは思わなかった。てっきりぞろぞろと取り巻きが来るかと思っていたよ」
「だから言ったでしょう、プレストンさん。エアレースというバンドは、そういう一般的なスターがやるようなことは、ほとんどやらないんですよ。さすがに単独行動はあまりないでしょうが。その分、我々としては付け入る余地はありますがね。ですからこうやって、身柄を確保できたのですから」
 聞き覚えのある声が、そう言っていた。
「それで、どうするんだい? 薬漬けが無理なら……」
「でも、種はまくことができますよ。一度やった薬の快楽は、脳が覚えているものです。だからみんなが、手放せなくなるわけですからね。でも、それだけではないんです」
 男は声を潜めた。耳うちでもしているのだろうか。声が小さすぎて、僕にはその内容は聞こえなかった。
「ほう……それはそれは」
 プレストン氏は、どことなく面白がっているような、喜んでいるような声を上げていた。そして少し黙った後、続けた。
「じゃあ、僕も一緒に行って良いかい? 見てみたいんだ。君たちに協力したんだから、いいだろう?」
「ええ。別にかまいませんよ。あなたも参加しますか?」
 聞き覚えのない二人目の声が、そう言った。
「いや、参加は遠慮しよう。見物だけさせてくれ」
「いいですよ。よろしければ、一人お好みの子を回しましょうか? 私たちは見ませんし邪魔もしませんから、別室でお楽しみになれば」
 聞き覚えのない二人目の声は、笑いを含んでいる。
「それは悪くないな。見物のあとに、そうさせてもらうか」
 プレストン氏も、クックと笑っているらしい。
 身体が持ち上げられるのを感じた。抗う気力は起きなかった。すべてがもうろうとして、すっぽりともやに包まれたような気分だ。どのくらいの時間がたったのかも、よくわからない。

 次に覚えているのは、ベッドに寝かされている感じだった。
「こうして見ると、わりといい男だね」
 頭の上でそんな声がする。さっき聞いた最初の声だ。
「こいつは過敏体質ではないんだね」
 別の声が、そう言っていた。
「そう。普通なようだね。だからきっと、よく効くだろうよ。そもそも薬品過敏なんて、そうはないさ。あいつくらいだろう」
 最初の声が言う。
「さてと、それで、いつからお楽しみが始まるんだい?」
 プレストン氏は、どことなく興奮しているような声だった。
「そうですね。あと一時間ほどで用意ができますよ。それまで、そこの椅子にでもお座りください。何か飲み物でもお持ちしましょうか」
 二人目の声がそう言った。
 しばらくの間――カチャカチャというグラスの触れ合う音。ほんの少しだけ、声が遠くなった。それでも言葉は聞き取れる。
「それにしても、ずいぶん手の込んだことをするんだね。君たちのターゲットは、あの子だと思っていたんだが」
 プレストン氏の声が再び聞こえた。
「ええ。そうですよ。まあ、これはほんの余興です。でも、トリガーになりうるという点で、このジャスティン・ローリングスは有効な駒だと思うんです。このことはきっと、あとあと彼に精神的なダメージを残すと思います。なにせ、こいつの女房は箱入り娘ですからね。そうして精神状態が悪くなれば、それだけフラストレーションも起きやすくなるし、内乱もけしかけやすくなるでしょう。それに私はエアレースというバンド自体が嫌いなんです。むやみに優等生で、気分が悪くなる」
「それは僕も同感だ。まったく、いやみなくらい善良なんだからな」
「だから、その一角から、ちょっと崩してみたかったわけで」
「なるほど。でも内乱というと、やっぱり分裂ねらいかい?」
「そうですねえ……正直に話しましょうか。分裂は意味がないです。最初から狙っていません。その気になれば、インスト陣など取り替え可能だと思うからです。もちろん、多少はダメージにはなるでしょうが……ことに、今はシルーヴァ・バーディットがいますからね。分裂させたところで、乗り換えは簡単でしょう。知っていますか? アーディス・レインとシルーヴァ・バーディットは幼なじみで、夏のフェスティヴァルで再会した時、バーディットが盛んにラブコールを送ったいう話を」
「ほう。それはまた、意外な組み合わせだね」
「ええ。でも実際問題としては、ジャスティン・ローリングスよりシルーヴァ・バーディットの方が、はるかに扱いにくいですよ。バーディットはもと殺人犯だし、天涯孤独で、妻子もいない。あの男が大事にしているものは、二人の仲間と、アーディス・レイン――あの男にとって彼は、両親とともに農場で暮らしていた、幸せだった時代の象徴らしいです。それゆえ、守りたい対象でもあると。まあ、さすがに恋愛対象ではないとは思いますが。そういう趣味はなさそうですからね、バーディットも。それでも、ジャスティン・ローリングスより、はるかに愛着がありそうですよ。ですから、バーディットを手駒にすることは出来にくいでしょう。それよりは、まだ現状の方がいい」
「それはそれは。あの男の事情は良く知らないが、一癖ありそうだとは思ってはいたよ。たしかにこの子のほうが、はるかに扱いやすそうではあるね。それなら、僕が分裂をけしかけたのは、意味がなかったな」
「いや、それはそれでいいですよ。後々の火種の一つになるでしょうから」
 見知らぬ声の一人が、クックと笑っている。
「火種にして……でも、分裂は狙わないのだろう?」
「そう。我々のターゲットは、アーディス・レインです。あなたがおっしゃったように。あのモンスターを潰すことが、最終目的なんですよ」
「やっぱりそうか。あの子はたしかにモンスターだな。天使の顔をしたモンスターだ。彼がモンスターでなければ、好みのタイプなんだがね。モンスター化する前に、食っておきたかったな。まあ、あの年齢では、ばれたら面倒だったろうが」
「そう言った人は、私の知っている限りでは、あなたでたぶん十五人目くらいですよ、プレストンさん」
 聞き覚えのある声が、くぐもった笑いを漏らしていた。
「残念ながら、年齢で躊躇している間に、モンスター化しちまいましたがね。あの時に○×が潰してくれたら、と今になって思いましたよ」
「ああ、連中か。あそこは女関係も派手だが……」
「そうですね。グルーピーを百人集めての百人斬りパーティは有名ですが。メンバースタッフ関係者、総勢数十人とグルーピー百人の、乱交パーティですよ。あなたがたは、やったことはありますか?」
「そこまで派手なのは、さすがにないな。バンドの全盛期には、たくさん女の子を呼んで、薬もたっぷり仕込んで、朝まで乱痴気騒ぎをしたことは何度もあるが。次の日のギグがある場合は、響くからダメだがね。連中はまあ、スケジュールは緩いからな。あれだけの大物だとスタジアムで客を集めて、一週間に二、三回やれば事足りる。良い身分だと思うよ」
 プレストン氏は少し嘆息するように言い、そして再び聞いていた。
「で、まさか男の方も百人斬りをしているのかい、連中は?」
「いや、そっちは少数派ですからね。バイも含めて、メンバーと五十人近くいるスタッフの中でも、十二、三人くらいしかいません。まあ、一般的な確率からすれば多いでしょうけど。そのうちの五人は女側なので、たくましい筋肉男が好きで、それも別口ですがね。だが主要メンバー二人が男側で、好みのタイプに目がないのが大きいですね。一人はバイで、一人は専科です。誰が誰とはいいませんが」
「いや、なんとなく僕には見当がついたよ」
 プレストンさんは苦笑しているようなトーンだった。
「連中のターゲットにされると、悲惨ですよ。メンバー二人含めて、かなりSというか、極限状態を超えるまでボロボロにするのが、無上の喜びという奴らですから。おかげでターゲットにされた方は、身体的な回復に一週間くらいかかるという噂です。連中はもともと一か月に一週間の休みを入れていますが、そのラストに、打ち上げと称してやるんですよ。そのターゲットがサポートだった場合は」
「ほう……」
「まあ、犠牲者はサポートのバンドだけではなく、そのスタッフやローディーだったり、若い男のファンだったりもしますが。気の利いたサポートバンドだと、マネージャーやメンバーが、あらかじめそれ用の要員を同行させる場合もありましたね。基本は自分たちのスタッフに命じて、誰か適当な男の子を連れてくるんですが、サポート側が用意していたりすると、大喜びするんです。実際、連中がサポートを選ぶ基準は、タイプがメンバーやスタッフの中にいるか、いない場合はそれを提供できるか、それが最終的な決め手になるらしいですから」
「それはそれは……まあ、サポートなんて、ある程度動員上乗せが期待できる知名度がなければ、ほとんどしがらみとコネで決めているようなものだからね。我々の場合もそうだ。でも、それで決めるとなるとは……ああ、そうか。主要メンバーが、そっちだからか」
「ええ、そうです。サポート側にすれば、おいしい話ですよ。ターゲットにされさえしなければ、彼らのスタジアムツアーに同行できるし、ギャラも結構高い。サポートにしては、ですよ。そして百人パーティのお相伴にもあずかれる、と」
「ハハハ、とんだスケープゴートだね。そのターゲットは」
「そう。ターゲットの方は悲惨ですけれどね。たいていの場合、精神にも異常をきたして、PSTDになったりアルコール中毒になったり、自殺したものも二人くらいいたはずです」
「おやおや。でも連中と彼らは、接点はあったのかい?」
「四年前のツアーで、サポートに抜擢しかけたんですよ。まだデビューした翌年だったんですがね、エアレースは。でも、好みにどストライクだったために食指を伸ばしかけたんですが、土壇場になって『でも十五は、やっぱりさすがにまずいんじゃないか。万が一訴えられたらシャレにならないから、やめとけ』と、リーダーが言い出したところに、ちょうど対立候補が、好みの子を差し出してきたんです。十九歳で、新しく入ったギタリストの弟だと。それでまあ、次の機会には年齢問題もクリアされるだろうから、今回は代替品で我慢するか、と、連中もそれで手を打ったらしいですよ」
「代替品、というのもひどい言い方だね」
 プレストン氏は笑っているようだった。
「その後は悲惨でしたけどね。スケープゴートにされたその子とその関係者は。ツアーが始まって二か月くらいたったころ、彼は錯乱して兄を刺したらしいです。致命傷にはならず、全治一か月くらいの怪我で済みましたが。その子はそのまま精神病院に入院となり、二年前に退院してからは消息不明です。誰か有名どころに愛人として囲われているという噂もありますがね。もちろん、ツアー自体は何もなかったように続けられ、兄は急病ということにして脱退させ、代わりのギタリストを入れ――しかも念の入ったことに、これもタイプに近い若い奴をね。そいつを新しいスケープゴートに差し出したのです。弟に刺された兄の方は、メンバーがそんな目的で弟を同行させたということは、まったく知らなかったらしいですね。ツアーが始まっても、他の連中にうまくごまかされて、弟の状況を知らなかったと。だから弟にいきなり刺されて、後で事情を知らされた兄は、大変なショックを受けたそうです。それでノイローゼに近い状態になってしまい、アルコールに逃げ、一昨年の春、酔っぱらった状態で車を運転して、崖から落ちて死んでしまいました。新しいスケープゴートの方も、ツアーが終わるとすぐに脱退していますね。今もカウンセリングに通っているという話です」
「おやおや、それは気の毒に。本当に悲惨だね」
「○×も去年ツアーをはじめたんですが、前回『次のツアーでチャンスをあげる』とマネージメントにも言ったらしいですが、もうあそこまでモンスターになると、無理だと思ったようです。もう乗ってこないだろう、と。それに共演する勇気もないでしょうしね。××の二の舞になりますよ」
 ××はあれか――最後のサポートツアーのヘッドライナー。一ヶ月も持たずに中断せざるをえなくなってしまった、あの人たち。あの後の夏、彼らは仕切り直しツアーを始めたが、興行成績はボロボロだったらしい。そしてその翌年に、解散してしまっていた。話し声は相変わらず続いている。
「こんなことになるのだったら、あの時多少リスクを冒しても、思いを遂げておけばよかった、などとメンバーたちは悔しがっていたそうですが、後の祭りですね。我々も、まったく同感でしたよ。なんで強行して、モンスターになる前に潰してくれなかったのだとね」
「そうだなぁ、たしかに。でもみんな、つい年齢でビビると。そこいらの名もない一般人ではなくて、そこそこ知名度もあったわけだし……その危険を冒した勇気のあるやつは、いなかったのかい?」
「我々の知っている限りでは、いないですね。近いところで、○○くらいでしょうが、あれはもう十六になっていて、あの最初のモンスターアルバムがリリースされて、一か月ちょっとたったころですよ。でも、未遂に終わったというか、媚薬系ドラッグにアレルギーを起こして、ぶっ倒れたらしいです。いわゆるアナフィラキシー・ショックという奴ですかね。それで驚いて部屋に放置したら、奴らのマネージャーが駆けつけてきて救出されて、病院沙汰になったそうで。我々がその話を知ったのは去年なんですが、マネージャーに携帯電話で助けを求めた、という話を聞いて、あとで連中のマネージャーに言ったんですよ。なんて間抜けな。せっかくのチャンスだったのに、なぜ携帯を手の届くところに置いたんだ、と。そうしたら向こうが言うには、いや、そんな間抜けなことはしない。自分もこれはいい機会だと思ったから、そのまま手遅れになるように別の部屋に連れて行って、部屋の電話のプラグを抜いてから、そこのベッドに寝かせた。携帯電話は上着のポケットに入ったままだったから、上着ごとその部屋のクロゼットに入れた。ベッドから起きて、歩いてそこまで行かなければ、届かないはずだ、と」
「ほう、じゃあ、なんとか歩けたのか。それでそこから電話をかけて倒れた、と」
「いや、それなら部屋の床に倒れているはずですが、聞いた話では、ベッドに寝たままだったらしいですよ。それにあの状態で、歩くのは無理だったはずだと。状況を考えれば、途中で気づくことも難しいですよ。しかも最初に倒れた部屋から変わっているのに、マネージャーはそこに迷わず駆けつけた、と。まあ、これもミステリーですね。おかげで、ブレイクしかけた途端に薬で死ぬ、という最高のシナリオを逃してしまったわけです」
 見知らぬ声は、ため息を一つついたようだった。
「それにしても、本当に厄介な存在ですよ、アーディス・レインは。今まであれほどすさまじいモンスター・アーティストになんて、会ったことがない。たいていはね、ブレイクとか、売り出しは市場の戦略なんです。ある程度のプッシュがなければ、火はつかない。いや、プッシュしてもダメな例は多々ありますけれどね。でも彼は、そういう市場戦略を全部無効にしてしまうほどの力を持ってしまっている。いや、それが自分の勢力範囲内なら万々歳ですが、我々は被害者側ですからね」
「我々のほとんどが被害者側ではないのかい? 向こうのマネージメントとレーベルだけだろう、ほくほくしているのは」
 プレストンさんの声も、苦々しげだった。
「そうなんですよね」
 見知らぬ声は、再びため息をついたようだった。
「なんとかしなければならない、というのが我々の総意です。どんな手を使っても、と。一刻も早く抹殺しなければなりません。被害がこれ以上広がらないうちに。もう周りに手を出すとか、傷つけるとか、そんなまだるっこしいことではだめです。物騒な話ですが、真面目に言って、これ以上走り続けるのを止めるためには、もう殺すしかないんです。死んだら伝説化はするかもしれませんが、もう新しいものも作れないでしょうから、これ以上の被害は防げます」
「まあ、そうだが……本当に物騒だね。毒殺でもするのかい? それともヒットマンを雇うとか?」
「毒殺はダメでしょう。警察が出てくる。我々は犯罪者にまでは、なりたくはないです。根回しが効けばいいけれど、向こうの勢力もばかにはなりませんからね。薬の事故に見せかけて、というのも、薬品アレルギーがわかっているだけに、不自然になりますし。ヒットマンは、そうですね……正直に言いましょう。一度試したことがあります。でも、失敗でした」
「ほう……」
「あいつは身体能力も、化け物級のようで……」
 再び意識が遠くなってきた。会話がまた、切れ切れの断片のようになってくる。
「そういえば、誰かが娘を拉致しようとしたと……」
「間抜けな奴だな。警察沙汰になるだけで、意味がないじゃないか」
「失敗したらしいが……」
 また少し、霧が晴れたように、会話が明瞭に聞こえてきた。
「ところでね、この子はどうなんだろうね。そっちの趣味のやつの受けは」
 プレストン氏が、そんなことを言っていた。
「そうですね……まあ、そっちの方面にもモテるかもしれませんが、男側の趣味には、少し華奢さや可愛さが足りないようにも思いますよ。背も高すぎますしね。人の趣味は千差万別ですから、一概には言えませんが、どっちかと言えば、この手を好むのは、ネコの方が多いでしょうね。筋肉は足りませんが」
「ハハ、まあ、そうかもしれないな。僕も全く同感だ」
「おお、一つ良いことを思いつきましたよ、それで。より追い討ちをかけるのに……」
「どんな……ほう、それは面白い。けっさくだ」
「こいつは、愛妻家なんですよ」聞き覚えのある声が言う。
「グルーピーを取らないのも、女房への義理立てらしいですからね。浮気はしない、と誓ったようで」
「バカか、この男も女房も。この業界で、馬鹿らしいにもほどがある。女もそんな約束を信じているなんて、世間知らずも良いところだ」
「お嬢さんですからね、こいつの女房は。たいして可愛くもないが、どこがいいのか、こいつはべた惚れらしいです」
 聞き覚えのある声が言い、さらにこう続けた。
「以前、そこをついて、脅しをかけてみたこともありますが、はったりだと見破られたのか、時間の猶予があるということがわかってしまったのか、すぐにマネージャーに相談に行ってしまいましてね。結果的に大失敗に終わりました。甘ちゃんの坊やだと思ったが、案外したたかなところもありますよ」
 あっ──ぼんやりと会話を聞き流していた僕も、そこに来てはっとするものが、まだ残っていた。この声、わかった――NYでの電話の男だ。ステラとクリスの安全と引き換えに、エアリィの歌手生命を断てと脅してきた奴。こいつがここに――?
 けだるさと快楽の奥底で、それでも怒りの火が燃えるのを感じた。誰だ──おまえは誰だ? まぶたが重い。目を開けられない。それでも僕は力を振り絞って目を開き、見ようとした。視界がかすむ。はっきり見えない──。
 霧の中にぼんやりと、四人のシルエットが見えた。少しずつ、焦点があっていく。一人はディーン・セント・プレストン──もう、さんとか氏なんて、つける気はしない。あの人だけは、はっきりわかる。でもあとの三人は、まったく見覚えがない。三人とも若くはない感じで、一人は背が低く、あとの二人は中背で、そのうちの一人はでっぷり太っている。太った奴と背の低い奴はブルネット、あとの一人は縮れたダークブロンドで、口ひげを生やしている。それだけはわかった。でも、誰があの時の男なのかは、わからない。そもそも僕は、相手の顔は見ていないのだから。何かしゃべってくれれば、声で見当がつくのかもしれないが……
「お、目が覚めかけているのか?」
 太った奴が言った。こいつの声は違う。
「おお。本当だ。少し追加を打とう」
 この声も……しかし、どっちがしゃべったのかはわからなかった。まぶたが重くて耐えられず、目を閉じてしまったからだ。誰かが僕の腕に触り、針が触れるのを感じた。再び液体が流れ込んでくる。やがてまた、大波がかぶさってきた。しびれるような陶酔感で、意識もはっきりしなくなっていく。
「そう。ばかばかしいほどの愛妻家だから、面白い手があるんですよ」
 遠くから響くように、聞き覚えのある声が聞こえた。
「プレストンさん、分裂でなく内乱を狙うという意味が、わかりますか? これは遠まわしの三段論法です。まずローリングスのもっとも大事にしているものに、打撃を与える。そして、よりフラストレーションを感じやすい状態にする。その状況では、たとえ今は友達だと思っていても、我々が望む感情をだんだん持つようになってくるでしょう。人間ですからね。そうすれば、やがて手駒に使えるように……」
「そう。善良な人間が堕ちていくのを見るほど、快いものはないですよ。かつての親友を手にかけてしまって後悔する図、などは想像すると愉しいじゃないですか。ジャスティン・ローリングスは苦労知らずのお坊ちゃんだ。挫折知らずの人間はプライドが高く、精神的にももろいものです……」
「そうだな。いやみなくらい善良なバンドがクーデターで破滅する、か。面白いね……」
「まあ、時間はかかるでしょうけれどね、そこまで行くには……」
 声がゆっくりと引いていく。また意識が遠ざかっていくのだろうか。

 再び意識がつながった時、もう話し声は聞こえなくなっていた。微かなざわめきのような笑いとささやき――でも、その言葉は聞き取れない。香水の香りが、かすかにした。誰かが──柔らかい肌が触れるような感触。僕を包み込むように。僕は、みだらな夢を見ているのだろうか。やがて、深い陶酔が訪れた。漂う甘い香り、頭の芯からとろけるような激しい快楽。白いもやは、いつしか紫やピンク、オレンジや黄色の綿のような雲へと変わっていった。もう何も考えられない。何がどうなってもかまわない。僕は沈んでいく。雲の海の中へ──。

 目覚めた時には、ホテルの部屋にいた。それも、自分の部屋だ。いつ、ここに帰ってきたのだろう。頭が異様に重く、ハンマーで叩かれたようにがんがんと痛む。まるで身体中の力が抜けたような、ひどいだるさだ。
 起き上がろうとすると、激しいめまいと吐き気に襲われた。たまらず再びベッドに寝転がり、ゆっくりと深呼吸してみる。もう一回……できるだけ、そっと起き上がった。起きあがって初めて、自分が服を着ていないのに気づいた。普段はパジャマなのだが、今は本当に何も着ていない。ベッドサイドの椅子に、昨日着ていた服が無造作にかけてある。
 昨夜の記憶がよみがえってきた。ああ、プレストンの家から、いつここに来たのだろう。あの男たちの会話を聞いたのは、この部屋だったのだろうか。すべては夢なのか──いや、夢なら今こんなに気分が悪いはずがない。
 今、何時だ? ゆっくりと頭を廻らせて枕元の時計を見た。十二時半──もうお昼過ぎだということか。今日も外は曇っているらしいが、昼間だということだけはわかる。プレストンの家で暇を告げようとしたのが、午後六時過ぎ、あれから十八時間が経っている。たぶん、日は飛んでいないだろう。そうだ。時計のカレンダーも二三日だ。丸一日はたっていない。でも昨夜あれから、僕は何をしていたのか。なんだかひどく後味の悪い夢を見たような気分だ。思い出したくもない。わけのわからない忌まわしさを感じる。
 服を取ろうとして両手を伸ばすと、左腕の赤い注射痕が二つ目に入った。一つは前腕に、一つは二の腕に。ぞっと全身が総毛だった。両方の腕全体を調べたが、幸いにもそれ以上の注射痕は見つからなかった。
 ともかく──ともかく、この忌まわしい薬と忌まわしい一夜を追い出そう。僕はふらつく頭を押さえてベッドからおり、壁に捕まって歩くと、バスルームに飛び込んだ。必死に吐き気を堪えながら、シャワーのコックを全開にする。熱い雨が降り注いできた。身体を流れ落ちるお湯を感じながら、じっとその中に立ち尽くした。でも、どれだけ長い時間熱いシャワーを浴びても、背中をぞくぞく駆け上がってくる寒気は消えない。

 だるさを堪えながら、のろのろと濡れた髪をタオルで拭き、トランクから新しい服を出して着終えた頃、ジミーが部屋の連結ドアをノックし、次いで顔を出した。
「お邪魔します、ジャスティンさん……すみません。お着替え中でしたか?」
「ああ、いや、着替えはすんだよ」
 僕はソファに身を預けながら答えた。
「ところで、ジミー。君は昨夜、何時ごろここに帰ってきたんだい?」
「あっ、すみません……昨晩は友達と飲んでしまって、ここに帰りついたのは四時前なんです」
 ジミーは少し顔を赤らめ、決まり悪そうな顔をした。
「僕のベッドルームから、何か聞こえなかったかい? 話し声とか物音を」
「いいえ、とても静かでした。もうよく眠っておられましたよ。それで、僕もできるだけ物音を立てないようにして、休んだのです。眠かったですから」
「そう……」
 僕は深いため息をつき、ソファにもたれかかった。ということは、午前四時前には、僕はもう連中の手から解放されていたのか。そういえば、あいつらもジミーが帰ってくる時間を気にしていた。クルーを同行させたおかげで、あいつらがチラッとほのめかしていたような、監禁麻薬漬けなどという、とんでもない事態は避けられたのか。ほっとしたと同時に、ひどく寒気を感じた。
 ジミーはちょっと不思議そうな表情で僕を見たが、賢明にも質問は控えたようだ。ただ、これだけ聞いてきた。
「朝食はどうしますか? まだですか?」
「まだだよ。でも、何もいらない。食欲がないんだ」
「あまりお加減がよくなさそうですよ、ジャスティンさん。大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫。やっぱり、オレンジジュースだけ、もらうよ」
「わかりました。ちょっと待っていてください」
 ジミーはルームサービスに電話をかけ、まもなくボーイがジュースを持って来た。ジミーはグラスを僕に渡しながら、微かに笑って聞いてきた。
「昨日プレストンさんのお宅で、飲みすぎたんですか?」
 表情がこわばるのが、自分でもわかった。ジミーは自分が何かまずいことを言ったと思ったらしい。一瞬で笑顔は引っ込み、「すみません。差し出がましいことを言ってしまって」と、口篭もっている。
「いいや、君のせいじゃないよ」
 僕はグラスを受けとり、一息に飲んだ。冷たいオレンジジュースが、のどに心地いい。深く息をつくと、僕はグラスをジミーに返した。
「あの、ところでジャスティンさん。そろそろ支度をしないと、六時の飛行機ですから。二時半に迎えがくるそうですよ」
 ジミーがためらいがちな口調で言う。
「送ってもらいたくなんかないよ!」
 僕は思わず、はじかれたように叫んだ。
「あんな連中には、もう会いたくない。タクシーで帰ろう」
 ジミーは驚いたような顔で僕を見、何か言いかけて、思いとどまったようだ。そして、これだけ言った。
「それでは、支度は僕がやりますから。少し休まれた方が良いですよ。本当にご気分が悪そうです。それと、髪はしっかり乾かした方が良いと思います。風邪をひきますよ。僕が乾かしましょうか?」
「ああ。じゃあ悪いけれど、頼むよ……」
 僕は頷き、ドライヤーで髪の毛を乾かしてもらうと、荷造りを任せて、ソファに横たわった。でもともかく、迎えが来るまでに帰ろう――。
 準備が終わると僕は立ち上がり、ジミーとともに、タクシーで空港へ向かった。

 頭の芯が痛い。ずきずきするいやな痛みだ。口の中が乾き、何度も水やジュースでのどを潤さずにはいられなかった。体中の力が抜けたような、ひどいだるさだ。飛行機でもシートに深ぶかと座り、ぐったりした気分で目を閉じていた。離陸の時、耳がひどく痛く、気分が悪くて吐きそうになった。今まで数限りなく飛行機に乗っているのに、こんなことは初めてだ。ちくしょう──初めての課外活動の結果がこれか。とんだ成果だ。もう二度とやるものか。バンドを離れての音楽活動なんて、楽しくもなんともない。今さらながら、人はみな善人とは限らないのだと思い知らされただけだ。
 離陸して二時間くらいたったころ、同じ飛行機に乗り合わせたファンが声をかけてきた。僕は思わず怒鳴った。
「うるさい! 僕は気分が悪くて寝ているんだ。見てわからないのか! あっちへ行け!」
 彼ら彼女らから見れば、僕はとんでもなく横柄でわがままな、鼻持ちならない奴だと思っただろう。でも、そんなことかまいはしない。もう、どうだっていい。ファンを二、三人なくそうが、痛くも痒くもない。いや、彼らがもしネットをやっていたら、僕の悪行はもっと広く知れ渡るだろう。だが、だからなんだっていうんだ。たまたま機嫌の悪い時に出くわしただけだとは思わず、たった一回の遭遇で僕という人間のすべてを決め付けてしまう阿呆な連中なんて――しかもわざわざエコノミーからファーストクラスまでやってきて声をかける奴らなんて、こっちから願い下げだ。第一、僕のファンでなくなっても、バンドのファンであることに変わりないだろうし、関係あるものか。どうせ僕は第二選択なんだ。いつもそうだ──。

 空港には、マネージメントの車が迎えに来ていた。運転しているのはロブではなく、若い男性スタッフだ。僕はその車で、自宅へ帰った。
 家の玄関に着いた時には、倦怠感はピークに達していた。時差の関係で、体感的には真夜中なことに加え、薬の影響だろう。けだるくて、立っていることもつらい。ステラがうれしそうな笑みを浮かべ、玄関に出てきて、何か言っている。
「お帰りなさい、ジャスティン。お疲れさま」
 僕はかろうじて笑顔を作ったが、それ以上の気力は出せなかった。
「ただいま、ステラ。ごめんよ。疲れて、眠いんだ。寝かせてくれないか」
 本当は妻を抱き締め、軽くキスをしながら、笑顔で「ただいま!」と言うつもりだった。いつものように。でもその時の僕は、とてもそんな気分ではなかった。相変わらず頭はずきずき痛み、口の中は乾き、身体中がだるい。だが、風邪をひいたような感じとは違う。圧倒的な脱力感だ。ちょっと驚いたように見つめるステラの傍らを擦り抜け、駆け寄ってくる息子も無視して、服を着替えることもせず、僕はベッドに入った。そして眠った。

 眠りは深く、まわりには虚無の空間がある。やがて闇の中から、夢が浮かび上がってきた。空は暗黒で星も出ていない。まったく何の光もない。一歩踏み出せば、底なしの深淵に落ち込むことがわかっている。足元から吹き上げる風が髪を揺らす。
「ここはどこだ? 僕は誰だ? みんなは……? ここは空虚だ!」
 僕は恐怖と不安の中で叫ぶ。その時足元が崩れ、僕は深淵に落ちていく。
「うわあ!」
 落ちる感覚を抱きながら、何かに捕まろうとして手を伸ばす。でも、まわりには何もない。伸ばした手に触れるものはない。むなしく空を掻きながら、僕は落ちていく。空虚な深淵は、いつの間にか黒い渦のようなものに変化した。すさまじい力で引っ張り込まれる。落ちていく。くるくる回りながら。まわりから無数の声が聞こえてくる。
『おまえには、ここがふさわしい』
『気分はどうだ。最悪だろう……』
『おまえはいやな奴だな、最低だ……』
『おまえなんか、虫けら以下のちっぽけな存在なのさ……』
『もがくがいい。助けなんて、来るものか』
『落ちてしまえ、この偽善者め』
『出口なんて、ないのさ』

「やめろー!!」
 我知らず声を上げ、僕は叫んでいた。そして目が覚めた。まるで水の中から出てきたように、全身がぐっしょり汗で濡れている。頭の中には、まだ夢の恐怖が残っている。
 ベッドの上に起き上がり、大きく息をついた。薄緑色のカーテンの隙間から差し込んでくる光の筋が、まぶたを射る。思わず目を細めて手をかざし、大きく息をついた。光だ。ああ、これが欲しかった──。
 カーテンを引き、窓を大きく開けて、太陽の光と風を部屋いっぱいに入れた。少し開いたドアの隙間から、妻と子供の声が聞こえてくる。頭はもう痛くない。身体もあまりだるくない。僕は深く息を吐き出し、吸いこんだ。冷たい風が、気持ちよかった。ああ、やっと我が家へ帰ってきた。いまいましい薬も抜けた。もう大丈夫だ。

 シャワーを浴びたあと、食堂に入ると、ステラの笑顔が迎えてくれた。
「やっと起きたのね。心配したのよ。昨日の夕方帰ってきたと思ったら、すぐに眠ってしまって。今、これからランチなのよ。よほど疲れていたのね」
「ああ、ちょっとね。もう大丈夫。ごめんよ、心配かけて」
「時差ぼけかしらね。あなたはいつもヨーロッパから帰ってくると、早く眠くなるようだから。それに慣れない環境で、緊張したのではないの? でも大丈夫なら、良かったわ」
 妻はほっとしたような笑顔をみせた。
「お腹が空いたでしょう? 家へ帰ってきてから、何も食べていないのですもの。急いでお肉を焼いてもらうわね。それから、はい、レモネード。わたしはいつも飲んでいるの。疲れた時にいいのよ」
 ステラはそれ以上、何も聞こうとはしなかった。ただにっこり笑って、グラスをテーブルに置く。僕はそばにきたクリスを抱き上げて、一緒にテーブルについた。
「ありがとう、ステラ。心配させて悪かったね。そう……たぶん時差ぼけだよ。帰ってきた時には、僕の時計では午前二時過ぎだったからね。それに、疲れたのもたしかだと思う。ああ、家に帰ってほっとしたよ。やっぱり家が一番いいな」
 冷たいレモネードを飲み干すと、僕は深く息をついた。悪い夢から完全に覚めたような、すっきりとした気分だ。妻に笑いかけながら、僕はやっと足を地に付けることが出来た、安堵を感じた。
 さらに嬉しい驚きが待っていた。食事を終え、コーヒーを飲んでいる時、ステラは両手を胸の前に合わせ、明るい口調でこう告げたのだ。
「ねえ、ジャスティン。わたしね、あなたが帰ってきたら、報告したかったことがあるのよ。あのね……クリスに弟か妹が出来たの」
「ええ?」
 予期せぬ報せに、僕は思わずコーヒーにむせてしまった。
「ここ二週間ほど生理が遅れていたし、体調も変だったから、もしかしたらと思ったの。それであなたがロンドンへ行っている間に、お医者さまに行ってきたのよ。エヴァンス先生の所に。今、ちょうど七週目に入ったところですって。予定日は六月二五日なの。今度はどちらかしらね。わたしは女の子が欲しいけれど、あなたは?」
「そう、それは本当によかった。僕は……まだ、わからないな。どっちでもいいよ。男の子だって女の子だって、うれしいさ」
「そうよね。わたしも本当はそうよ。どちらでもいいの。男の子だったら、クリスと仲良しの兄弟になるでしょうね。それに両方の家のために、男の子は二人欲しいし。ねえ、来年の六月には、あなたはどういう予定?」
「うわ! またロード中だな、きっと! この次のアルバムは五月頭くらいのリリース予定でスケジュールが進んでいるから」
「あら、また? 残念だわ」
「でも、リリース直後のロードはたぶん北米だから、帰ってくるよ。立ち会いは難しいかもしれないけれど、会いに行くよ。移動日だったら、北米大陸どこにいても、トロントまで行って帰ってこられるからね」
「それなら、少しはよかったわ。クリスの時には、よりによってあなたはオーストラリアなんですもの。それから一ヶ月以上、オーストラリアやアジアを回っていたから、全然会えなくて……」
「あの時には、本当に参ったな。毎日、時がたっていくのがもどかしくて、たまらなかったよ」
 僕は思い出して笑った。その時に生まれた息子は、もう幼児と言える年齢になった。だんだんとできることが増えて、しっかりしてきたクリス。今もジュースを飲みながら、僕らの嬉しそうな様子を見て、にこにこしている。
「クリスも、もう二才なんだな。来年の六月か、予定が遅れたら七月には、お兄ちゃんになるんだ。早いもんだな」
「そうね。あっという間ね。本当に幸せだわ。あなたと結婚して二年半、毎日がずっと幸せだった。これからも、きっとそうね。来年には、欲しくてたまらなかった二人目が生まれるし。幸せだわ。怖いくらいに」
 ステラはそっとお腹に手を当て、微笑んだ。
 僕も幸福だ。ステラと結婚して、ずっと毎日が満ち足りていた。来年には新しい家族も増える。これ以上の幸せがあるだろうか。僕の家族──僕のオアシス、僕の港。失いたくない。ずっとずっと、永遠に。時は過ぎていく。過ぎてみれば、時間は無情に早い。でもリミットが来るまでの間は、ずっとこの幸せを離したくない。それから先のことは、考えたくない。切なかった。切なさ過ぎて、胸が痛くなるほどに。

 それから二週間ほどは、平和にすぎていった。もっとも最初の一週間は、抜けたと思っていたが、やはり薬のフラッシュバックに時々悩まされ、急に寒気がして身体が震えたり、息苦しくなったり、あの快楽が欲しい、という理不尽な渇望が起きることもあった。そんな時、僕は水やスポーツドリンクを飲み、熱いシャワーを浴びたり、身体を動かすことで耐えた。二人目も生まれるというのに、薬なんかに手を出してたまるか。連中の罠にはまり込むのだけは、絶対ごめんだ、と。その強い意志が僕を支えた。二週目に入るころには症状は徐々に消えていき、十日を過ぎるあたりから、完全になくなった。幸い、それほど強い薬ではなかったのだろう。
 ステラはつわりのせいかあまり体調が良くないらしく、家政婦のトレリック夫人がしばらく泊まりこみ、家の切り盛りにフル回転していたが、僕らの幸福が曇ることはなかった。ステラはクリスに本を読んでやったり、玩具で遊んでいるのを見守る。時おり、優しく声をかけながら。僕はもっぱら身体を動かす、ダイナミックな遊びを担当する。寝かしつけるのはステラでないとだめだが、急に冷え込みを増した庭で子供と遊ぶのは、僕の役目だ。それは誘惑を退けるための最上のセラピーであり、解決法でもあった。毎日が穏やかで美しく、満ち足りていた。

 雪のちらつく寒い十一月の午後だった。クリスは子供部屋でお昼寝をし、僕らは居間でお茶を飲んでいた。そこへトレリック夫人が一抱えの郵便物を持ってきた。
「午後の郵便です」
 そして空いたお皿をさっと持って、台所へ引き揚げていく。
 僕はカップを置き、テーブルの上に積まれた封筒を一つ一つ改めた。個人の住所は知らせていないので、ファンレターは来ない。ダイレクトメール、取引のある金融機関やツアースポンサーからのお知らせ、カードの明細書などを、一つ一つ封を開け、中味を確かめてから、たいていは処理用の箱の中に放りこんでいく。その箱がいっぱいになったら、まとめてシュレッダーをかけて捨てるのだ。
 その中に、ステラ当てのエアメールが一通あった。消印はロンドン。コスメティック会社の名が記された封筒だ。封筒のすみに【重要なお知らせ】と書いてある赤いスタンプが押してあった。封筒には少し厚みがあったが、そのスタンプもダイレクトメールや案内には良くあるものだったので、僕はたいして気にも止めずに、妻に手渡した。ステラも、「あら、ここは使っていないけれど、重要なお知らせって何かしら?」と首を傾げながら封を切り、中身を取り出している。彼女はまず、手紙のようなものを引っ張り出した。白い紙に何か印字してあるようだ。よくある商品案内のようなたぐいのものだろうと思い、僕はそれ以上気に止めずに、次の手紙にかかっていた。
 小さくあえぐような奇妙な声に、僕は顔を上げた。ステラは手に、何枚かの大判写真のようなものを持っている。彼女はもう一度、ひぃっと吸い込むような奇妙な声を立てた。その顔は唇まで真っ青で、手は震え、ついで身体全体もがたがたと震え出している。手に持っていたものが、ひらひらと床にこぼれていった。何が彼女をそれほど動転させたのか――? まだテーブルにおいてあった最初の紙を、手にとって読んでみた。
【先月、あなたのご主人がロンドンにみえた時の、記念写真を送ります】
 ただ、それだけ書いてある。あの時のセッションの――写真? 記念写真なんて撮っただろうか? 向こうのレーベル側の要望で、プレストンと一緒に写真は撮ったが。訝りながら、僕は床に落ちた写真を一枚拾い上げ、一瞥したとたん、衝撃のあまり、再び取り落とした。なんてことだ。記念写真というのは、そういうことか──。
 どの写真にも、はっきりと僕が映っていた。それも裸で、知らない女たちと一緒に、ベッドの中にいる! 思わず顔が赤くなるような痴態をさらしていた。どこをどう見ても、あの最中。それも写真ごとに相手の女が違っていて、たぶんもう四十代だろう中年の厚化粧女、三十代半ばくらいの派手な女、二十歳前後の女の子、十七、八くらいの若い娘、そして最後は、化粧は厚いが、どうみても男だ。三十歳くらいの男。でも、そんな――。
 あああっ──思わず叫び出したくなる衝動を、僕は懸命にこらえた。あの晩、きっとあの晩に──覚えている。甘い香水の香り、柔らかい肌の感触。覚えているのはそれだけなのだが、そういうことだったのか──身体が冷たくなった。おぞましさに気分が悪くなりそうだ。吐き気さえしてきた。さらに連中が言っていた、『面白いことを思いついた。ダメージの追い討ちになるだろう』というのが、最後に男を加えることだったことも、その時悟った。あいつらが言っていたこと――この手はネコが好む。ネコってなんだ、とその時にはぼんやりと聞き流していたが、そういうことか。僕はあの時、四人の女たちと一人のオカマの相手をさせられたのか。連中が見ている前で――。
 本当に吐き気がこみ上げ、僕は思わず洗面所に行って吐いた。しかも、それだけでは飽き足らず、その場面を写真に撮って、妻に送りつけるとは。だいたい、どこで家の住所を――ああ! 僕は自分で頭を殴りつけたくなった。自分で教えたんじゃないか?! プレストンがスタジオで、出来上がったCDと謝礼をあとで送りたいから、連絡先を教えてくれと要望した。最初はマネージメント会社を教えたのだが、それでは一般のファンレターに紛れてしまうかもしれないから、是非個人の連絡先を教えてくれ、悪用はしないからと言われ、うかつにも自宅の住所を教えてしまった。僕はなんてバカで間抜けで、世間知らずだったのだろう! まさかこんな汚い罠だったとは。人を陥れるにしても、これほど卑怯なやり方があるだろうか?
「ちくしょう!」
 洗面所から戻ると、僕は床に散った写真を拾い上げ、ずたずたに引き裂いて、ごみ箱に放り込んだ。憤りで目がくらみそうだった。
「こんな写真を信じちゃだめだ、ステラ! 罠なんだ! 悪質な嫌がらせなんだよ! 僕を信じてくれ!!」
「罠……ですって?」
 彼女は椅子に座ったまま、青ざめた顔をして、静かに繰り返す。その声は妙に落ち着いているようだったが、あきらかに震えていた。
「どういう罠なの? どんな嫌がらせ? 教えてもらいたいものだわ。あなたがちゃんと写っていたではないの。あれは、みんな別人だとでもいうの? それとも合成写真だとでも……?」
「違うよ、そうじゃない。たしかに僕だ! でも、僕はだまされたんだ。陥れられたんだよ! 僕は全然覚えがないんだ!」
「つまらない言いわけはやめて! 男らしくないわ、ジャスティン!」
 ステラは激しく首を振り、かすれた声で叫んだ。
「わたしだってね……わたしだって、あなたがロックミュージシャンだということは、わかっていたわ。でも、あなたはいつでも浮気なんかしていないと、言っていたわよね。その言葉を信じていたのに。……まさか、ここまでひどいなんて! わたし、自分の夫がこんなにけがらわしいことをしていたなんて、夢にも思わなかったわ。あなたをずっと信じていたのよ!」
 ステラは目に涙を浮かべながら、なおも激しく詰る。
「だからあなた、あの時に疲れたと言っていたのね。でもわたし、あなたがまさかこんなことで疲れていたなんて、思いもよらなかったわ!」
 僕は妻の憤激の前にうろたえ、なんとか弁明しようと躍起になった。
「誤解なんだよ。僕はそんなことはしてないんだ。あいつらにだまされて……わかってくれ、ステラ。信じてくれ! 僕だって被害者なんだから!」
「もういいわ、ジャスティン! あなたの言いわけなんか、聞きたくない!」
 ステラは手で涙をぬぐうと、やにわに立ち上がった。はずみで椅子が倒れるほどの勢いで部屋を飛び出し、階段を駆け上がっていく。階上の寝室に閉じこもるつもりだったのかもしれない。でも、乱れた気持ちが足をもつれさせたのか、最後の段を踏み外した。
「きゃあ!」
 悲鳴とともにステラはつんのめるように前に倒れ、うつぶせの姿勢のまま階段を滑り落ちていった。踊り場の手すりにぶつかり、一回転した後、今度は横向きに滑って落ちていく。最後は壁にぶつかり、反動で床に叩きつけられた。まるで悪夢を見ているようだった。
「ステラ!」
 僕は茫然と立ちすくみ、次の瞬間、しゃにむにそばに駆けよった。
 ステラは両手を伸ばし、身体を横に曲げて倒れていたが、「うっ」と短くうめいて、身体を起こそうとした。
「痛い……痛い……」
 ステラは振り絞るような声をもらした。その場につっぷしながらお腹に手をやり、泣きそうな叫びをあげている。
「赤ちゃん……赤ちゃんが。いや! 助けて!」
 スカートの下から一筋の血が流れ出し、床の上に小さな池を作っていった。
「動かないで! 今、救急車を呼ぶよ!」
 僕はあわてて電話に飛びついた。物音で気づいたのだろうか、トレリック夫人が出てきて、「お嬢さま! まあ、どうなさったのですか!?」と、声を上げていた。階上で、クリスの泣き声も聞こえる。騒ぎで目がさめてしまったのだろう。
「階段から落ちてしまったんだ。今、救急車を呼んだ。トレリックさん、僕はクリスを見てきますから、ステラを頼みます。でも、動かさないように。それと、パーレンバークさんに連絡をお願いします」
「まあ、なんと言うことでしょう……お嬢さま、お気をたしかに」
 夫人はステラの傍に行き、その手を取りながら、青ざめた顔でつぶやいている。
 僕は階上に駆け上がり、泣いているクリスを抱き上げてなだめながら、携帯電話で実家へかけた。電話に出た母は一瞬絶句したように黙った後、励ますように言った。
「落ち着きなさい、ジャスティン。ステラさんを動かしてはダメよ。そのままの姿勢で寝かせて、毛布をかけて暖かくして、出来るだけ動揺させないように、励ましてあげて。エヴァンス先生に連絡を入れておくから、救急車が来たら、うちへ来るように言ってちょうだい。あなたもクリスチャンを連れて、病院へ行ってね。わたしとジョイスも行くから、クリスはうちでしばらく預かりましょう」
「ああ、お願いするよ、母さん」
 僕は泣いている息子の頭をなでながら、階下へ降りた。救急車のサイレンが、遠くから聞こえてきた。

 ステラは病院の緊急処置室へと運び込まれ、産婦人科の主治医エヴァンス先生と、外科の医師が来た。クリスは母と一緒に来たジョイスとホプキンスさんが、すぐに実家へ連れて帰ってくれた。トレリック夫人から連絡を受けたらしいパーレンバーク夫妻も、血相を変えて病院に駆けつけてきた。
「なんだってこんなことに……奥さん、娘は大丈夫なのでしょうか?」
 義父が母に向かって、咳き込むように聞いている。
「階段から足を滑らせて、落ちてしまったようなんです。それも、かなり上のほうから。先生方が今診察と治療をしていますが、流産の危険があるそうなんです」
「おお、なんてこと。かわいそうに……」
 義母は泣き崩れていた。いつもながら義父母は僕のことは完全に無視だが、この場ではかえってありがたかった。下手に事情を説明しようものなら、逆上した二人に殺されかねない。それに僕自身、義父母のことなど、ほとんど眼中になかった。ただステラとお腹の子供が気がかりだった。




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