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その間にも、ステラとアデレードは話を続けているようだった。
「本当に、かわいい赤ちゃんねぇ、今、何ヶ月?」
アデレードはクリスを見てにこやかに問いかけ、
「三ヶ月なの」
ステラはクリスを抱きなおしながら、いとおしそうに答える。
「わたしはね、三月十八日が予定日なの。生まれたら仲良くしてね」
「ええ、もちろんよ。たのしみだわ」
二人はすっかり打ち解けた様子で、話を続けていた。
「新しいおうちは、どのあたりなの?」
ステラはそう聞いていた。
「今はクイーンズパーク近くのコンドミニアムに住んでいるけれど、新しく家を建てる場所はリッチモンドヒルなの。完全な郊外地区よ」
「あら、それでは方角はうちと同じだけれど、少し遠いのね」
「どちらに住んでいるの、今?」
「ノースヨークよ。わたしの実家がヨークミルズにあって、そこから車で十分くらいのところなの」
「あら、そうなの。じゃあ、方向的にはたしかに同じね。車で行けば、三十分くらいかしら。街中に出るのは、少しかかるけれど」
「そうね。でも、どうしてその立地にしたの?」
「もともとあそこの土地が良いって決めたのは彼だけど、わたしも賛成した理由はね、自然環境かしら。緑が多くて、いいところなのよ」
「ああ、わかるわ。子供のためには、花や木に囲まれた所で、遊べるお庭があったほうがいいものね。でも十区画分も敷地があるなんて、すてき。うちももう少しお庭が広ければ、いうことはないけれど。でもわたしの実家も近いから、場所は動きたくないの」
「お宅のまわりがもし売りに出るようなことがあったら、買えば良いんじゃない? そうして新しいお庭にしたり、離れを建てたりすればいいわ」
「あら、そうね。そうしたらお庭も広くなるし、パパとママが長く泊まれるように、きれいな別邸を建てるのも良いわね。すてき!」
すてきじゃないぞ、ステラ。それはやめてくれ! 僕は思わず心の中で言った。ステラは当然のことだが僕の声なき言葉には気づかず、クリスをちょっと抱きなおしながら、ちょっとためらったような口調で、こんなことを聞いている。
「あの……あなたがたは、いつから一緒に住んでいらっしゃるの?」
「ここ二週間くらいかしらね、まだ。わたしは今のところに十一月から住んでいるけれど、エアリィが来たのはツアーが終わってからだし、しかも体調不良で帰国が遅れて、クリスマス当日に戻ってきたから。でも元々わたしたち、同じアパートメントの住人だから、行き来は何度かしていたわ」
「それでは、偶然同じアパートにメント?」
「そう。前はわたし、もう少しダウンタウン寄りにあるアパートメントで、友達と三人でルームシェアをしていたの。でも一人は地元に近いモントリオールの大学へ行くことになって、もう一人はお母さんが病気になって、実家に帰らなければならなくなって……わたし一人で三ベッドルームの家賃を払っていくのはちょっときついし、広すぎる感じもしたから、前のところへ移ったの。引っ越して二ヶ月くらいたった頃ね、わたしたちが知り合ったのは。一昨年の五月半ばよ。十四日。屋上で偶然出会って……」
「まあ、そうなの。それもロマンティックね」
「まあ、その時にはロマンティックと言える出会いではなかったけれど、たしかに運命の出会いだったわね」
アデレードは一瞬視線を遠くに向けて、それから小さく肩をすくめていた。
「それから三日後に、その時に借りたバンダナを返そうとして部屋に行ったら、留守だったわ。それからいつ行っても、『今いません』プレートがかけてあって。やっと三ヵ月後に、再会できたのよ。八月二十日だったわね。朝……それも八時ごろ、仕事に行く前に少し時間があったから、もう一度のぞいてみようかしらと思って行ったら、彼がちょうどドアから出てきたところで――それで、わたしの顔を見て『あ、久しぶり』と言って、次の瞬間、倒れたのよ」
「えっ?」
「わたしは驚いて、『どうしたの?』と中へ入ったら、『ごめん。お腹がすいてめまいがした……』って。三ヶ月ぶりに家に帰ってきて、家には何もないからって。それで買い物に行こうとしたんだけれど、ふらふらしてしまったって……いったいなんなの、とは思ったけれど、『とりあえず、ちょっと待ってて』と言って、急いで自分の部屋に帰って、パンと、ミルクとフルーツをトレーにのせて持ってきたのよ。こんなに非ロマンティックな再会になるとは思わなかったわ」
「本当に……でも、どうしてそういうことに?」
「さあ……わたしも聞いたのよ。今までずっと留守だったけど、それと関係あるのって。『地獄の特訓受けてて、その後世界旅行に行って、まあちょっといろいろあって、一昨日帰ってきたんだ』って言っていて、『どのくらい食べてないの?』と聞いたら、『うーん。よく覚えてない』って。『なぜ?』と聞いたら、時間感覚がなくなっていたって……なんだか、さっぱりわからなかったけれど」
それは日付と状況を考えると、失踪してから練習所に戻ってきた日の朝か。空腹のあまり倒れて彼女の世話になるというのも、なかなかに恥ずかしいが、まあ、運命的な再会、なのか、これは? それにしても、彼女が持ってきてくれた朝食をとっている間にでも、さっさと連絡をよこしてくれ、と思ったが、丸一日半寝続けて、当日十一時を過ぎて携帯電話を再充電するまで、僕らに連絡することは完全に頭から抜けていたらしいから、しかたがないのだろう。一、二日なら連絡し忘れることもあると、マインズデールのシスターも言っていたし――戻ってきてからの時間で。エアリィにとっては、失踪中の三週間あまりは、意識の上ではどういう扱いだったのだろうかと、ふと再び疑問に思ったが、それは答えの得られない問いだ。アデレードは話を続けている。
「わたしはでもね、これでおあいこかな、と思ったの。最初に出会った時、彼の部屋でスコーンとお茶を出してもらったから。もっともわたし、最初に会った時には、同性と話しているつもりだったわ。腹が立つくらいきれいで、キラキラ光るプラチナブロンドで、ポジティヴで生意気な、男の子言葉でしゃべる小娘、そんなふうに思っていたの。だから、第一印象は最悪よ。あなたに何がわかるのよ、という反発が大きくて。話していくうちに、はっきり物を言い過ぎるけれど、良い子かもしれないと思ったけれど。だから、『少し落ち着いたら、お茶でもいれるから、部屋来ない?』って言われた時、行ってみる気になったのよ。もうちょっと、この子のことを知りたい気になってきて。それでお茶を飲みながら、いろいろ話したの。まあ、多少話がかみ合わないわね、とは思ったけれど。『あなたも男の人を愛すればわかると思うわ』って言ったら、『ええ? そんな趣味ないよ』って返されたりね」
これにはステラだけでなく、僕も危うく吹き出しそうになった。さりげなく彼女たちの話を聞いていることを(別に下世話な意味ではなく、ステラがちゃんと楽しく過ごせているかを気にしているだけなのだが)気づかれないよう、必死でこらえたが。
「でも、わたしもとても興味を惹かれたから、この子のことを調べてみようと思ったの。その時には名前はきかなかったのだけれど、十六歳で、ロックバンドでヴォーカルをやっていて、二年前にデビューして、バンドはある程度売れているらしい、ということは話していてわかったから、それを頼りに、仕事場のパソコンで、二年前にデビューしたトロント出身のバンドの一覧を調べて、画像を見て……それで彼のことがわかったの。本当にわりと売れていることとかはわかったけれど、最初はそれでも、わたしは彼のことをまだ、女の子だと思っていたわ。名前を見ても、どっちだかわかりづらいし。でもある記事に『彼』って書いてあったから、『え、あの子、男の子?』と、本当に驚いたのよ」
「ああ、やっぱりそうなのね。わたしもそうだったの。だから、最初にあの人がバンドで出たのを見た時に、ジャスティンに変なことを言ってしまって……」
「ああ、無理はないわね」
アデレードは肩をすくめた後、にこやかな調子に聞いてきた。
「あなたたちは、どんな風に出会ったの?」
問われて、ステラは嬉しそうに、僕らの出会いの話を語り出している。ハイスクールのダンスで出会って、声をかけられて、それから……と。しかも、少々の惚気が入り出している。僕はさすがにきまりが悪くなり、そっとその場を離れたが、ステラはついてくる気配はない。やっと彼女にも、楽しい話相手が見つかったということだろう。
ご馳走はすべてなくなり(ステラのシーフードサラダも好評のうちに、お皿がからになった)、ドリンクもほとんど底をついた。全員参加のマスゲームをやり、談笑し、時は楽しく過ぎていった。クリスはすっかり眠ってしまい、プリシラもジョージの膝で眠り、エステルまでちょっと眠そうにあくびをかみ殺し始めて、僕らは思ったよりも時間がたったことを知った。四時から始まったパーティは九時半にお開きとなり、お互いの家族の親睦という目的も、充分はたされたようだ。
「また来年いらっしゃいね。ああ、その前にエアレースのみんなには会えるわね、四月に。楽しみにしているわ」
ビッグママは僕らを玄関まで見送りながら、にこやかに言った。
「ええ、またお世話になります」僕とミックは微笑してそう言い、
「うん。楽しみ!」「ああ、悪いけど、よろしく!」と、エアリィとジョージは笑う。ロビンは何も言わず、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべる。ロブもレオナもビッグママも、そんな僕らの反応には、もう慣れきっているのだろう。彼らは微笑を浮かべ、手を振った。「良い休暇を!」と。
僕らは庭に停めた五台の車にそれぞれ乗り込み、みんなばらばらの方向に走っていった。これから三月まで、僕らはそれぞれの個人に戻る。
「新年会の感想はどうだった?」
僕の問いに、ステラは微笑んで答えた。
「思ったより、ずっと楽しかったわ。みなさん、良い方ね。アデレードとは本当にお友達になれそうで、よかったわ。彼女は七月生まれなんですって。わたしと二ヶ月しか違わないのよ。それでね、わたしにマダム・クロフォードの、春のファッションショーの招待券を贈ってくれるのですって。彼女は出ないけれどって。もう赤ちゃん、生まれるころですものね。いずれまたモデルさんに復帰するのって聞いたら、もう引退する予定で、制作側の勉強をしたいって言っていたわ。まだあれだけきれいなのに、もったいないけれど、もともとモデルっていってもクロフォード先生の専属だし、前からデザイン側に興味があったから、ちょうどいい機会だって言っていたわ。彼女が着ていたドレスも、自分で作ったのですって。本当にすごいと思ったわ」
「へえ、そうなんだ。本当にすごいね。君もそのブランドが好きなのなら、ショーの招待券はよかったね。楽しんでおいでよ」
「あら、あなたも一緒に来てよね、ジャスティン。アデレードはチケットを二枚贈るって言っていたから」
「僕もかい……まあ、いいよ。わかった」
僕は肩をすくめ、車を発進させた。婦人服ブランドのファッションショーなんて、女の子だらけだろうなとは思ったが、僕も彼女の世界に少しは興味を持ってみよう。
その冬はいつにも増して寒く、吹雪もよく来た。暖かさと太陽を求めて、僕は一月半ばから三週間ほど、妻と息子を連れて、バハマの静かなリゾートビーチで過ごした。まだ赤ん坊のクリスは何もわからないだろうけれど、僕たち二人にとっては新婚旅行の続きであり、子供という絆を経て、より緊密になった夫婦の結びつきの再確認でもあった。旅行中、静かな浜辺に白塗りの広い洋館が売りに出されているのを見つけた。その家の外観も内装も気に入ったので、翌日その家を買った。バハマで過ごす時の別荘にするために業者を介して掃除を依頼し、調度を整え、信頼のおける管理人を紹介してもらった。海に出て遊ぶためのクルーザーも買った。このくらいの贅沢をする余裕が、今はある。
でも金銭以外の成功の副産物には、かなり悩まされた。僕が行動する範囲のどこでも、少なくとも若い人たちは、ほとんど僕らのことを知っているらしいのだ。歩いているだけで、すれ違う誰かに振り返られたり、ひそひそ囁かれたりしてしまう。近所のマーケットに買い物に行く時も、雪のない暖かな日に公園へ散歩に行く時も、お気に入りのカフェで一休みする時も、必ずと言っていいほど誰かの視線を感じる。僕の名前が見知らぬ人の間で囁かれる。それだけならまだ我慢が出来るけれど、時々話しかけてくる人がいるのには困る。いったん誰か一人が話しかけてくると、その場にいて僕らを見ていた人たちも、たいてい後からやってくる。ステラは昔のように怒ったりはしないが、困惑の表情でじっと下を見つめているし、クリスは目を丸くしてきょときょと回りを見、やがて機嫌が悪くなって、むずがりはじめる。家族の楽しみがこれでは台無しだ。バハマにいた時もそうだった。なぜプライベートな楽しみに無粋な邪魔が入るのだと心の中で舌打ちしつつ、こっちもファン商売だからそう邪険には出来ない。外に行く時には変装したいなどと思ってしまうほどだが、それもまた抵抗がある。僕は何も悪い事をしているわけではないし、人目を憚らなければならない理由もないはずだ、と。
でもそんな外野の雑音はあったにせよ、家族三人いつも一緒にいられるオフは、それだけで幸せだ。クリスも毎日少しずつ大きくなっていき、表情が豊かになってきていた。語りかけにも反応するし、声を上げて笑ったりもする。寝返りも出来るようになり、腹ばいになってぐるぐる回ったり、絨毯の上をコロンコロンと転がったりしている。春がくる頃には、もうおすわりもできはじめていた。
そんな休暇があと一ヶ月弱となった三月初めの午後、エアリィが僕の家にやってきた。アデレードは予定日が近づいてきているので、あまり外に出られないらしく、エアリィ自身もこれからリッチモンドヒルに建てる予定の、新しい家の打ち合わせがあるからと、家の中までは入らず、玄関で立ち話をしただけだ。だが彼の姿を見て、僕は少し意外な感じを受けた。エアリィはボトム以外、めったに黒やグレーの服を着ているのを見たことがない。でもこの時の彼は、長めの黒いコートを着ていた。ボトムもブラックジーンズだ。コートの下は白いセーター。襟元から見えているTシャツは黒だった。右手に下げているトートバックも。
「そんなにじろじろ見ないでくれる?」
エアリィは肩をすくめ、そう抗議していた。
「いや……だって、おまえがそんな格好をしたのを、初めて見たからなあ」
「今、喪中なんだ。だからね。黒のトップスは、そんなに好きじゃないんだけど」
「えっ……誰が亡くなったんだ?」
僕は驚いて問い返した。
「マインズデールのシスターなんだ。三日前に」
「ええ!」
その知らせは、驚きと感傷を僕にももたらした。そうか、あのシスターが亡くなったのか。生きてちゃんと会えるのはこれが最後のような気がすると、二年前に会った時に、シスターは言っていた。マインズデール教会でミュージック・ビデオを撮影した時には、ほとんど話らしい話をする時間がなかったので、それはある意味、当たっているかもしれない。休暇中にでも、一度会いに行けばよかった。もうかなり高齢だっただけに、なおさらだ。僕は深く吐息をつき、繰り返した。
「そうか。シスター・アンネ・マリアが……」
「うん。まあ、八七だったからね。天寿を全うした、って言えるとは思うけど。風邪から肺炎になっちゃって。でも、あまり熱もなかったし、本人も大丈夫だって言うから、まわりもそんなに悪いとは思わなかったらしくて。医者に行った時には、もう手遅れだったって。あと一日持ちこたえればいい方だって、言われたらしいんだ」
「ああ、高齢者には時々あるんだよ、無熱性肺炎。なまじ症状が激しくないから気がつかないで、手遅れになりやすいから、かえって怖いんだ」
「うん。さすがジャスティン、伊達に医者の息子じゃないね。僕は神父さんから連絡もらって、すぐ行って、なんとか臨終には間に合ったんだ。それまでほとんど眠ってたらしいんだけど、僕が行った時には、目を覚ましてた。それで、『わたしは……兄さんには、向こうでは会えないわね。それが残念……だけれど、でも他のみなには……会えるわ』って、そんなことも言ってた。最後にシスター、僕の手を握って言いかけてたんだ。『アーディス……わたしは、わかったような気がするわ……おまえが、あの……』そこで意識が消えて、十分もたたないうちに亡くなってしまった。静かで……安らかだったけど。一昨日がお葬式でさ。僕も昨日の夜、マインズデールから帰ってきたんだ」
「そうか。おまえは臨終に間に合って、よかったな」
僕は首を振り、考えた。シスターが『向こうでは兄さんに会えない』と言ったのは、もうその兄はこっちに来ているからなのか、僕として――そんな思いが掠めると同時に、何度も感じた奇妙な思いを、また覚えた。そして最後に彼女がエアリィに言いたかった言葉は、何だったのだろう。わたしはわかったような気がする。おまえがあの……その続きは。
「おまえはその最後の言葉の続き、気にならないか?」
「いや、僕はわかってる。シスターがなんて言いたかったのかは」
「なんて……言いたかったんだ?」
僕は聞いたが、エアリィは答えなかった。ただ首を振り、これだけ言った。
「シスターは鋭い人だったから」
どういう意味だ……そう聞きたかったが、それは彼らのプライベートに踏み込むことになるかもしれない。そう思い、僕は口調を変えた。
「そうか。シスターはおまえのお母さんの後見人だもんな。だからおまえも、今は喪中というわけか」
「ああ。シスターは僕にとって、母方のお祖母さんって感覚なんだ。母さんの本当のお母さんは、母さんが赤ん坊の時に亡くなってるから。だから僕も喪に服したいなって。今週一杯くらいまでね。それでさ、これ持ってきたんだ。シスターに頼まれたから。おまえに渡してくれって」
エアリィはバッグから布で包んだ本のようなものを取り出すと、僕に差し出した。
「僕に?」
僕は手を出して受けとりながら、思わず問い返した。
「そう。まあ、おまえって、シスターに会ったのは、一、二回くらいだろうけど」
「ああ、一昨年の夏に、おまえを探しに教会へ行った時に、初めてお会いしたよ。あの時には一晩お世話になって、ずいぶんいろいろな話をしたな。ちゃんとお会いしたのは、あの時だけかな。ビデオ撮影の時には、シスターはほとんど出てこられなかったし」
不思議に思いながら僕は包んであった布をほどき、本を取り上げた。古びた日記帳だ。
「それって神父さんの日記らしいんだ。ああ、キャラダインさんじゃなくて、先代のね」
「え? ヨハン神父さんの?」
「うん。神父さんが亡くなってから、シスターがずっと大事にしまってたらしいんだけど、なんでそれを、一度しかまともに会ったことのないおまえに譲りたいなんて言ったのかって、キャラダイン神父さんは首を傾げてたよ。でも、シスターがはっきり言ったんだ。『兄さんの日記を、おまえの友達の、ジャスティン・ローリングスさんに……渡して』って。だから一応、持ってきたんだ。いやだったらもう一度、教会に持って帰るけど」
「そうか……わかった。ありがとう」
僕はもう一度日記帳をざっとくるみながら、頷いた。
「いいよ。これ、僕が預からせてもらうよ。それがシスターの遺言なら。あの人はきっと、信じていたんだろうな。僕がヨハン神父さんの生まれ変わりだって」
「へえ、シスターはわかってたんだ。まあ、そうか」
別に驚いた様子もなく、むしろ当たり前のような口調だった。
「って、そう決まりきったように言うなよ。本当のところは、どうかわからないんだから」
「まあね。そういえば、一昨年の暮れにマインズデールへ行った時、シスターがおまえのことを、ずいぶん聞きたがってたっけ。ご両親の職業とか家庭環境とか家族構成とか。その時、シスターは言ってたんだよ。『わたしがおまえの、あのお友達のことを知りたかったのは、単なる好奇心ではないのよ。兄さんが聞いた声が本当だったのかどうか、確かめてみたかったの』って」
「……おまえは生まれ変わりって、本気で信じるか、エアリィ」
僕はそう聞いてみた。
「信じてるよ。ていうか、知ってるって言った方がいいかな」
彼はごくあっさりとした口調で答えた。
「ただ、目で見たものと耳で聞いたことしか信じられない人には、わからないんだろうなって思う。また生まれ変わって人生やり直すより、天国で永遠に幸せでいた方が楽だって思うから、信じたくないってのもあるだろうし。それに生きてる間は前の人生なんて、意識されないから。その人にとっては生まれてから死ぬまでがすべてで、生まれる前のこと、死んだ後のことは知らない。今の段階では、まだ溝は深いし。でも、稀に空白の向こうから、記憶の断片が来ることもある。おまえ自身はどう思う、ジャスティン? おまえと先代神父さんとは、表面的には赤の他人だけど、でも、どこか深いところでつながっていそうだって、感じることってある?」
「ああ、そうだな。何回か神父さんの夢を見たことがあるんだ。その時には、全然知らない人だったけれど」
僕は臨終の夢と戦争の夢を語った。のちにシスターの話と、そっくり符合したことも。
「へえ、じゃ、結構つながってるんだ。時間が短かったせいかな。でも、ジャスティンの前世がヨハン神父さんということは、前世は悲劇の聖職者で、今は良家の子息兼ロックミュージシャンか。相当な落差だなぁ。前世でがんばったご褒美かな」
「もし、そうだとしたらな。でも、そういう因果応報論って、仏教みたいだな」
「うーん、それとはちょっと違うと思うんだ。ご褒美になる場合もあるし、もうちょっとがんばって上を目指せって場合もあるし、逆に前世で業になっちゃっても、次で報いが来るとは限らないし、その辺は意外とランダムかもしれないなって思うよ。でも行き先は、途中で脱落しない限り、みんな同じなんだ。僕らの場合は」
「はあ?」
「でも、どんなに外の環境や立場は変わっても、芯は変わらないと思う。ジャスティンの場合もさ。僕は先代神父さんを、直接には知らないけど」
「僕だって、全然知らないよ! だから、なおさらに不思議なんだ」
「そういえば、ヨハン神父さんとシスターは、霊媒体質なんだって、キャラダイン神父さんが、前に言ってたんだ」
エアリィは一瞬黙って僕を見た後、そう続けた。
「霊媒体質?」
「うん。というより、二人とも第六感が鋭いタイプじゃないかって思うんだけど。あの人たちの先祖に千里眼がいたとか、もっと遠い先祖は魔女裁判で殺されたとか、シスターが言ってたこともあるし。神父さんは予感とか気に敏感な人だったらしいし、シスターもね。彼女はドイツで恋人が戦死した時、その同じ時に恋人の幻を見たらしいんだ。それに、時々こっちの心の中を読んだようなことを、言う時があったし」
「ああ、それは僕も感じたな」僕は頷いた。
「そうやって考えると、結構シスターも素因があったんだなぁ。そうかぁ……うん。でも結局、ヨハン神父さんの方になったわけか。あの縛りのせいかな」
「何がだ?」
「いや、影の話……」
「は?」
「忘れて。ちょっと変なこと言っちゃったから!」
「おまえ、真面目に今日は変だぞ。ずいぶん、わけのわからないことを言って。ランカスター草原で会った時ほどじゃないが」僕は苦笑した。
「あれは洒落にならないから、本当に忘れて!」
エアリィは首を振って、少し笑った。 「今はたぶん、シスターが亡くなったことで、動揺じゃないんだけど、少し気分が波立ってるんだと思う。それだけだよ」
「おまえは小さい頃から、シスターにお世話になっていたらしいからな。わかるよ」
「うん。年に不足はないって言ってもね。もういないんだっていう事実は、慣れるまで、やっぱり寂しいよ。もう会えないんだし」
彼は一瞬遠くを見るような目をしたあと、もう一度バッグに手を入れ、今度はクリーム色の封筒を差し出した。
「これ、アデルに頼まれたんだ。おまえのとこ行くなら、ステラさんに渡してって。マダム・クロフォードの、春のショーの招待券」
「ああ。そうか。そういえば、ステラが言っていたな。ありがとう、とアデレードさんに伝えておいてくれ」
「うん。三月十二日だから、彼女は行けないと思うけど」
「おまえは行かないのか?」僕はそう聞いてみた。
「なんで? アデルが行ったとしても、たぶん僕は行かないよ」
エアリィは不思議そうな表情で、少し笑った。そして、コートをもう一度はおると、帰り際、振り向いて僕を見、言葉を継いだ。
「それはともかくさ……ジャスティン、おまえの人生の前には、たしかにたくさんの積み重ねがあったんだろうし、違う時代に生きてた、別の自分もいたんだろうけど……僕もいろいろつい言っちゃっといて、なんだけど、今はあまり、深く考えないほうがいいと思う、自分以前のことなんて。その日記になんて書いてあるか、僕は知らないけど、前世の言葉だ、なんて思って読んじゃうと、妙な気分になると思うんだ。でも、前がなんでも、後がなんでも、とにかく今は、おまえ自身なんだから。おまえはジャスティン・クロード・ローリングスで、他の何者でもない。当たり前のことだけどさ」
「ああ……ありがとう。そうだよな」僕は頷いた。
あとでステラに、「アーディスさん、せっかく見えたのに、上がられなかったのね。なんのお話だったの?」と聞かれたが、僕は、「いや、あいつも忙しいらしくてね。彼と僕の共通の知り合いが亡くなったんで、僕にその人の形見を持ってきてくれたのさ。ああ、それとアデレードさんから、ファッションショーの招待券を君にって」とだけ答えた。
エアリィと僕の共通の知り合いといったら、バンド関係かハイスクールの方か、そんなところを想像したかもしれないが、ステラはそれ以上の説明は求めなかった。むしろファッションショーの招待券の方に、気を取られたらしい。
「あら、本当に送ってくれたのね。なんて優しい人なのかしら。あとで彼女にお礼の電話をかけなくちゃ」と、言っただけだ。お互いの電話番号は、きっとパーティの時に交換したのだろう。
僕は内心ほっとした。この問題は妻に言っても、理解はしてもらえないだろう。たとえ彼女が、前世からの約束の人だったとしても。
その夜、僕は仕事部屋で一人、古い日記帳を開いた。三八年前に亡くなっている人のものだから、ページは黄ばんでいるし、インクもかなり退色している。最初のページは、こんな記述で始まっていた。
【愛する祖国を捨て、やってきたこの国での後半生に、何が待っているのだろう。ドイツでは、私はこの体と妹以外の、すべてを失った。しかし、そこにはそれまでの私のすべてがあった。亡くなった人たちを弔うため、神職を志した時、最初に思ったのは、故国でプロテスタントの牧師になることだった。我が家はもともと、カトリックではなかったのだから。しかし、そう思った時、一つの啓示が私を貫いた。主の声を聴きたもうた聖パウロのように。私は衝撃に見舞われた。『いや、お前はこの国を出るのだ。カナダの沿海州に行き、カトリックの神父となれ』と、その観念の声が言った。私はそれにあらがえないと悟った。私にとっては見知らぬ国、言葉もあまりしゃべれない。それに元敵国の人間を、周りの人々は歓迎してくれないだろう。それでも】
そして二人で入ったノヴァ・スコシアのカトリック修道院で、「ジョン・ローゼンスタイナー」と呼ばれて、「いいえ、私はヨハン・ローゼンシュタイナーです」と答えた。『これが、私のアイデンティティだ』と思ったという。
そうか――神父さんとシスターは、ドイツを嫌って出たわけではなかった。何かの啓示(僕らを導いた、あの声なのかもしれない)に従って動いただけで、常に故国への思いと誇りを持っていた、だから彼らはヨハン神父であり、シスター・アンネ・マリアなのだ。シスターに夕食をごちそうになったときに出たポテトとザワークラウトも、彼らの祖国への愛着のあかしなのだろう。
彼らはその後、修道院を出て神職の資格を得、マインズデール・カトリック教会に赴任する。その後は、平穏な記述が続く。日曜学校の話、次はバザー、その次には、ランカスター老人の臨終を看取ったいきさつが書いてある。どうやら日記と言っても毎日つけているわけではなく、特筆すべきことが起きた日にだけ記していたらしい。
【一九四八年七月X日
ジョナサン・ランカスター老人の臨終に行ってきた。『良いのですよ、神父さん。私は死ぬのが嬉しいのです。やっとリディアに会えますからね。それにアリステアのことも、きっと天国へ行けば、わかるでしょうから』彼はそう言い残し、穏やかに死んだ。彼の悲劇的な話を町の人たちから聞いていた私は、人生の半分以上を深い悲しみと憤り、絶望の中で過ごさざるを得なかったこの人に対し、胸をふさがれるような思いを感じた。彼はかつての私――父母と兄、そしてシルヴィアを失った、私の絶望にも似ている。しかし神よ、かの人にもう少し前向きな希望や信仰があれば、これほど暗い人生を過ごさなくても良かったでしょうに。彼の来世に安らぎがあらんことを。そう祈りながら夜明けの草原を歩いていると、上空からふと一条の光が地面に降り、一本だけある若木に落ちるのが見えた。まるでヤコブの梯子のようだが、空に雲は出ていない。それに太陽は東の果てに上るところだった。明らかに太陽とは違う光だ。
赤ん坊の泣き声がする。木の下へ行ってみると、赤ん坊が地面を這っていた。私はその子を抱き上げ、教会に連れ帰りながら、不思議な気がした。この子は、いつからここにいたのだろう、と。私が老人の家に行くため、そばを通りかかった時には、この子はいなかった。看取って帰ってきた、その間だろうか? しかし私にはなぜか、この赤ん坊があの光とともにやってきたような気がしてならない。アンネ・マリアはその説に懐疑的だが。
私たちはこの子をアリステアと名付けた。服に縫い取りがしてあったからだ。アリステア・Lと。そういえば、あの老人の行方不明の赤ん坊も同じ名前だった。もし生きていたならば、今はもう四十歳を超えている立派な大人だろうが。だが老人の臨終を看取った帰りに、彼が気にかけていた一人息子と同じ名前の赤ん坊を拾うとは、不思議な偶然に思える】
その後何年分かの記述を経て、この時拾った赤ん坊がランカスター老人の息子にうり二つであることを老人の妹から聞かされ、不思議に思う下りがある。それはこんな言葉で、締めくくられていた。
【これは現実だ。空想的小説ではない。私の理性はそう思う。だが、もし本当に二人が同一人物なら、四二年も時を飛ばしたのは、偶発的な超常現象なのだろうか。それとも何者かの人為的な業だろうか? 後者だとしたら、いったいなんのために。いけない。私は少し神秘主義的になりかけている。そんなはずはないのだ】
三十年近くに及ぶ長い記録は、こんな記述で終わっていた。
【一九七六年五月X日
不思議な夢を見た。正確には、見たとは言えないかも知れない。視覚は何もなかった。羊水に浮かぶ胎児のように、暗くなま暖かく、心地よい空間だけだ。
遠くから声が聞こえた。耳にではなく、心に聞こえる声だ。それは非常に印象的な、荘厳かつ清澄で、穏やかな声だった。私のことを『我が後継者』と呼ぶこの声は、驚くべきことを語った。千年期が切り替わって二十年あまりで、我々の文明は終焉になると。私の命は終わりに近づいているとも語った。自分ではそれほど重病ではないと思うが、自らの死は、さほど恐れるつもりはない。しかし、世界の終焉とは。その声は言う。私の次の人生で、その世界の終焉と再生を見ることになるだろうと。次の人生? 私はキリスト教徒だ。しかも司祭だ。仏教徒ではあるまいし、輪廻転生は信じない。しかしその声には真実の響きがあり、私は試しに問うてみた。次の人生で、私はいったい誰になるのだと。その声は答えた。(あなたは生粋のカナダ人男性として、トロントに生まれます。裕福で愛情深い医師の家に生まれ、両親と兄と姉妹、使用人たちに囲まれ、友情にも恵まれて、何不自由なく育つでしょう。シルヴィアさんの生まれ変わりの女性とも、結ばれるはずです。来世のあなたは聖職者にはなりません。あなたはロックミュージシャンとなり、あなたのバンドは世界中に受け入れられ、おびただしい数の若者たちを熱狂させるでしょう)と。
『なんだって?』私は思わず笑わずにはいられなかった。なんというジョークだ。アリステアのような芸能人、しかもロックミュージシャンとは。もっとも私は音楽を愛好し、ウッドストックにも価値を認める、異端な聖職者ではあるが。
(本気にしていませんね)その声は言った。
(しかし、あなたが本気にしようとしまいと、それは事実なのですよ。あなたのこの生は、まもなく終わる。しかし今度の休息は、わずか十七年にも満たない短さです。ここの間合いは、いつも非常に猶予がないのです。私もそうでした。あなたは再び、この世にやってくるでしょう。まったく違うあなた自身として。そのあなたには、重大な使命があるのです。時の輪を閉じるために記録を残し、起源の子に出会って、彼女の変革を手助けする。そして世界の終焉と再生を見る。あなたの次の生は、非常に重要な、鍵となる人生です。私は次の生でも、あなたに会いに来ます。起源子が覚醒した後には、私自身の姿を見せることもできるでしょう。その時まで、ごきげんよう)
声は聞こえなくなり、私は目覚めた。全身汗びっしょりだった。その夜、アリステアが突然ロサンゼルスから帰ってきて、同じく不思議な夢を見た、いや、聞いたと語った。
私たちはその夜遅くまで、いろいろと話し合った。アリステアは自分の命はあと九年ほどで、次の生は世界再生の後、起源子の子供として生まれると言われたらしい。
『私は聞き損なったが、その起源子とは、いったいなんだか聞いたかい? 彼女というからには、女性なんだろうが』と、私は聞いてみた。アリステアは答えた。
『僕もはっきりとはわからないのですが、あの声が言うところによると、世界の純化のために生まれる子なんだそうですよ。魂に光の種を蒔き、永遠の命への祝福を運ぶ子なのだと。輪をつなぐ接点の役割を持ち、非常に重大な意味を負うとも言っていました。そしてその子が生まれて四半世紀で、この世界の終焉が訪れるそうです』
世界の終焉か。いや、それから再生するのだから、滅亡ではない。それが希望だ。ノアの洪水のように、この病んだ世界が浄化されるためには、そんな荒療治しかないのだろうか。そういえばその声は、この文明の終わりを引き起こす災いのことを、『グランドパージ』と呼んでいた。大いなる禊ぎ――なるほど。しかし、それを引き起こす大いなる神とは、いったいなにものなのだろうか。それが私の信じている神より、さらに大きなものであるならば、我々は受け入れるしかないのだろうか】
記録はそこで終わっていた。僕は思わず深いため息をつき、静かに本を閉じた。マインズデールへ行って、シスター・アンネからいろいろと話を聞いた時、アリステアさんが突然帰ってきて、そんな話をした三日後に、ヨハン神父は急な病に倒れ、ほどなく世を去ったと言っていた。昔、夢で見た神父さんの臨終の光景が、再び頭の中によみがえってきた。僕はかすかな戦慄を覚えた。
これが今から三八年前に、ヨハン神父の手によって書かれたものなら、彼が僕の前世だという疑いは、ますます強まる。その夢の中の声が言っていたという彼の来世の姿は、いかにも今の僕に、しっかり当てはまる。だから、きっとシスターも確認のために、エアリィに僕のことを詳しく聞いたのだろう。そして、ますます確信を深めたに違いない。それに、ヨハン神父が亡くなったのは一九七六年五月、僕が生まれたのは九三年三月。その間は本当に、十七年弱だ。それに僕も夢の中の声を聞いたし、その声の主が姿を現したのも見た。実体ではなく、幻影だが。
あの人は以前、声だけの時、(あの方が目覚めなければ、私も姿を見せることが出来ない)と言っていたが、幻影としてでも、姿を見たということは、その『あの方』というのは、目覚めたということか。日記の中では、『起源子が目覚めたあと』となっている。では、『あの方』と起源子は、イコールなのか。しかし起源子というのは、そもそもなんなのだろう。浄化のために生まれる。輪の接点。永遠の命への祝福を運ぶ――さっぱりわからない。起源子に会うとか、起源子の子供という表現がなされるところを見ると、人間なのだろうが。しかも神父さんが言っていたように、『起源の子と会い、彼女の変革を助ける』という文脈なら、その起源子と彼女はイコール、つまり女の人だ。『あの方』――女王陛下と同じ、Her Majestyという言い方からしても(観念的には、だが)、間違いないのだろう。しかしそれは、誰なんだ? 僕は会っているのか?
僕が今までの人生で重要な出会いをした女性なんて、ステラしかいない。でも彼女は確か、ヨハン神父さんの婚約者だった、シルヴィアさんの生まれ変わり――なのかもしれない。確証はないが。でも日記の中でも、『シルヴィアさんの生まれ変わりの女性と結ばれる』と書いてあったし、未来世界で見た夢の中でも、ステラからその女性に姿が変わった。たぶん、そうなのだろう。起源子というのがそもそも何なのかはわからないが、なんとなくステラは違う気がする。そうなると、あとは誰がいる? 僕が知っている女性――母、ジョアンナ、ジョイス、ホプキンスさん、レオナ、フォーリー女史、他にも数人の女性スタッフ、ビッグママ、エステル、アデレード、パメラ、ポーリーン――ああ、義母やトレリック夫人やメイドさんたちも、女性だが――でも、誰も当てはまらないような気がしてしまう。それでは、僕はまだ会っていないのか。これから出会うのか?
僕は頭を振った。もうこれ以上考えるのはやめよう。エアリィが忠告してくれたとおり、自分が生まれる前のことなんて、深く考えるべきじゃない。僕は僕自身であって、他の誰でもないのだから。明後日あたりにマインズデールに行って、シスターのお墓参りをしてこよう。そして、それで終わりにしよう。
僕は首を振り、日記帳をもう一度布にくるむと、本棚の一番奥へしまった。再び取り出して見るつもりはなかった。時計を見ると、もうすぐ午前四時だ。思ったより遅くなっていたらしい。寝室は暗く、僕のサイドのスモールライトだけが小さく灯っている。ステラは眠っているようだった。隅に置いたベビーベッドの中で、クリスもすやすやと眠っている。僕はパジャマに着替え、ライトを消して、妻を起こさないよう、そっとベッドに潜り込んだ。しかし彼女は目を覚ましたようだ。
「ああ、ジャスティン……遅かったのね」
ステラは小さく、眠そうな声を出した。
「ごめんよ。起こしちゃったね。こんなに遅くなっていたなんて、知らなかったよ」
「ええ……寝る前にあなたのお部屋をのぞいたら、何かを一生懸命読んでいるようだったから、邪魔をしてはいけないと思って、先に休んだの。起きていようかとも思ったのだけれど」
「とんでもない。先に寝ていてくれて良かったよ。じゃあ、おやすみ……」
「おやすみなさい……」
ステラはすぐに再び軽い寝息を立てて、眠りはじめた。僕も眠りの誘いを感じた。傍らに眠る妻のぬくもりを感じながら。それは今の僕自身、ジャスティン・クロード・ローリングスとして存在している自分の、揺るぎない存在感だった。
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