Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

三年目(2)




 翌日のお昼すぎ、インターフォンのチャイムが鳴った。僕のアパートメントは外から誰かが来た場合、玄関ホールのドアを部屋の中から開錠しないと、中に入れない。いわゆる、オートロックだ。モニターを覗くと、パーレンバーク氏の顔が大写しになっている。
「開けろ……!!」
 強い調子で、うなるような声が聞こえた。
 ステラの父親がどうして、僕の部屋を知っていたのだろうか。ステラが教えたのだろうか。どっちにしても、夕方会いに行く予定だったが、その前に向こうから来るとは。
 アパートメントの正面ドアを開錠して二、三分後、玄関のチャイムが鳴らされた。繰り返し、性急に。僕は急いでドアを開けた。
 玄関前には、パーレンバーク氏だけでなく、夫人も立っていた。
 ステラの両親とは、まだ僕らの付き合いが許されていた頃、何度か顔を合わせたことがあるが、あの頃から、さして外見は変わっていない。パーレンバーク氏は堂々たる体格で(でっぷりなどとは言うまい)、僕と同じくらい上背もある。渦を巻いた茶色の髪は半分ほど白くなり、青い目は色だけステラの瞳に似ている。彫りの深い顔立ちに口ひげを蓄え、若い頃はけっこうハンサムだったのではないかと思わせる顔だ。濃いグレーのセーターにカーキ色のフランネルズボンという普段着だが、雪が降りしきる寒い日なのに、コートもなしだ。夫人の方も、やはり上着を着ていない。薄紫色のニットのツーピースだけだった。彼女は小柄だが、横幅は夫に負けないほどある。形よく結い上げている金髪は、ここ数年かなり白が混じって、濃淡模様になってきていた。まつげが薄いため、剥き出しのように見える目は薄い灰色で、鼻は多少鉤鼻、口は薄く引き締まっている。二人とも血色の良い顔色だったが、この時は真っ赤を通り越してどす黒くさえなり、肩でせいせいと息を切らしていた。
「あ、こんにちは。よくここがわかりましたね。実は今日、うかがおうと思っていたんですよ。お入りください」
 だが、二人ともなお真っ赤な顔をして、ドアのところに立ったままだ。燃えるような目で僕をにらみつけ、何も言わない。と、突然父親がつかみかかってきた。
「きさま……!」
 明らかに憤怒に詰まった声を発しながら、がっしりとした手で、やにわに僕の襟首をつかみ、ぐいぐいと揺さぶってくる。
「よくも、よくも、うちの娘を……」
 あまりの勢いに、一瞬絞め殺されるのではないかと恐怖を感じたほどだ。僕は力をふり絞って手をもぎはなし、一歩後ろに下がった。パーレンバーク氏は一歩踏み込んで、再び手を伸ばす。僕はとっさに相手の手首をつかんだ。
「とりあえず、中に入ってください。外で騒ぐと、他の部屋の人たちに迷惑ですし、管理人さんが来てしまうかもしれませんから」
「離せ、汚らわしい!」
 氏はうなるように言うと、僕の手を振り解き、渋々という感じの足取りで、中に入ってきた。夫人もそれに続く。彼女は泣いているらしかった。目や鼻は真っ赤で、何度もしゃくりあげている。
 これではテーブルについて冷静な話し合いなんて、出来そうもないな。ため息とともにそう感じながら、僕は二人を見た。パーレンバーク氏はリビングに仁王立ちで、夫人のほうはその傍らに立ち、ハンカチを取り出して目に当てながら、鼻をすすり上げている。
「座ってください。お茶でもいれますから」
 言うだけ無駄だとは思ったが、一応そう言ってみた。
「いらん!」
 パーレンバーク氏は一言のもとに切り捨て、腰に手を当てたまま、僕をにらみ据えた。
「きさまの部屋になど、来たくはなかった! 汚らわしい! きさまはここに、娘を何度引き込んだのだ? 私たちの大事な子を。たった一人の娘を。愛らしく、汚れを知らず、白いユリのように育てと願いを込めて、そのとおりに育ってくれていたのに。きさまが、あの娘をたぶらかしたのだ。おのれ! 許さん、許さんぞ!」
「あの……いったい、どうされたのですか」
「とぼけないで!」
 パーレンバーク夫人が悲鳴のような声を上げた。
「あなたが娘に何をしたのか、知っているのよ! みんな知っているの! これはいったい何?!」
 夫人はハンドバッグの中から何かを取り出し、ぱさっとテーブルに投げてよこした。ああ──僕は彼らの憤激の原因を知った。一昨日病院でだした小冊子だ。
【妊娠と出産のガイドブック  セント・テレジア総合病院産婦人科】
 実家の病院名は、創業した先々代、僕にとっては曽祖父に当たる人が、病院の名前としてRollings(転がるもの)というのはあまりふさわしくないだろうと、尊敬している聖テレサにちなんで命名したらしい。裏表紙にはステラの名前、初診日付と出産予定日が記入されている。
「探し物をしているうちに、これを見つけたのよ。あの娘が切手を持っていないかと思って、引き出しをあけたら……」
 パーレンバーク夫人は、声を詰まらせていた。
「なんということでしょう。そんなことがあっていいのかしら。おお、神さま……」
「そのことについて、お話しようと思っていたんです」
 僕は努めて冷静に話そうとした。
「今日ステラがカレッジから帰ってきたら、都合を聞いてもらって、夕方お宅にお邪魔しようかと。そして、その話をしようと思っていたんです。決して隠していたわけではありません。僕はステラと、結婚の約束を……」
「黙れ!!」
 パーレンバーク氏が雷のような声で遮った。
「結婚だと?! 誰が認めるものか! きさまのような風来坊と、うちのかわいい娘を結婚させるなど! きさまは悪魔だ! その色男づらと一見紳士的な物腰で、何も知らないうちの娘をたぶらかし、たらしこみ、そしてこんな……ステラは、まだ十九なんだぞ! ろくでなしめ! 娘は言っていたんだ。私たちは誤解している。職業はどうあれ、紳士なんだとな。それがどうだ! 紳士が聞いてあきれる! ステラは見事に騙されたんだ! きさまこそは、最低の鬼畜だ!」
 氏はテーブルの上においてあったガラスの花瓶を引っつかみ、僕に投げつけた。思わず身をかわしてよけると、それは後ろの食器棚にぶつかり、がちゃーんと凄まじい音響を立てて砕け散る。食器棚のガラス戸と、中の陶器にも被害が及んだようだ。活けてあった薄黄色のバラが、その上にはらりと落ちる。三日前、ステラが買ってきた花だ。
「おちついてください。もっと冷静になって話し合ってください。僕の話を聞いて……」
 僕は前に飛び出して言いかけたが、無駄だった。
「うるさい!」
 パレンバーグ氏は吠え、また僕の胸ぐらを引っつかんだ。
「どうしてくれるんだ! 娘を傷物にして、あまつさえ、身籠らせるなど! あの娘の一生を、どうしてくれるんだ!」
「だから……ステラさんと結婚させてください。お願いします。できるだけの事はします。彼女を不幸になど、絶対させないつもりですから」
「黙れ! そんなことは聞きたくもない!」
 パーレンバーク氏は怒鳴り、腕に力をこめてきた。出来るだけ抵抗すまいと思ったが、あまりの苦しさに負けて、僕は再び彼の両手をもぎ離しにかかった。氏は僕の父親と同じくらいの年配のはずだが、元々力持ちなのか、それとも憤激が思いもかけないパワーを発揮しているのか、なかなか完全に引き離すことができない。
 渾身の力を振り絞って、やっと腕を引き離そうとした瞬間、テーブルの上に置いてあった携帯電話が鳴った。
「あっ……」
 ステラだろうか? 彼女も学校から帰ってきている時間だ。
 電話を取ろうとして手を伸ばしかけた瞬間、パーレンバーク氏は激しく僕を突き飛ばした。僕は後ろのキャビネットに叩きつけられ、反動で床に倒れこんだ。投げられた花瓶の破片、壊れた食器棚のガラス戸、さらにまた半ば割れたガラスの中へ突っ込んでしまったために、頭や手に破片が刺さったようだ。こめかみから頬へ流れる血を感じた。右手に刺さったガラスのかけらでできた傷から、血が流れ出すのも。
「金輪際、娘に近づくな! 今度近づいたら、本気できさまを殺すぞ!」
 パーレンバーク氏は怒鳴っている。電話はいつのまにか鳴り止んでいた。
「どうしてですか!」
 僕はたまらず声を上げた。
「僕らは愛し合っているんです。お互いがお互いを必要としていて、一緒にいたいと思っています。こんなことになってしまったのは、たしかに僕が軽率でしたが、でも僕たちは本当に愛し合っているし、ステラのお腹の中にいる僕らの子供は、生きて育っているんです。その子のためにも僕らは結婚して、ちゃんとした家庭を持って迎えてやりたいんです。お願いです、認めてください! それで気が済むなら、この部屋の中のものを全部叩き壊したっていいし、僕も喜んで殴られます。ただ、認めてください。ステラと僕の結婚を。そのためなら、どんなことだってします!」
 僕は床に膝をつき、両手をついて、夢中で懇願した。難攻不落の砦、何を言っても通じない相手。だがここを踏み越えなければ、僕らは前に進めない。
「愛し合っているだと! そんな胸糞の悪いたわごとを、二度と言うな!」
 父親は、ますます激高するようだった。
「ステラは、きさまに騙されておるだけだ!」
「僕は騙してなんかいません。真剣です。真剣にお付き合いをしてきたし、一時の情熱で結婚しようとしているわけでもありません。認めてくれなければ、ステラのお腹の子供は片親になってしまう。それとも、まさかあなたがたは、その子を堕ろせと……?」
「そんな恐ろしいことは出来ません。なんてことを言うの!」
 母親が首を振り、甲高く叫んだ。
「私たちはカトリック教徒よ。たとえ不本意な子供でも、生むしかないじゃないの。どこか……遠くの町へ行って、人知れず。子供はすぐ養子に出して、私たちは三人でドイツかアイルランドに戻るわ。ここにいては、あなたに会ってしまう。私たちの故郷なら、あなたから引き離しておくことが出来る」
「なっ……」
 僕は絶句し、そして、思わず憤激のあまり声を上げた。
「なんてことを! ステラは絶対、承知なんかしませんよ。あなたがたはステラの幸福がどうのこうの言うけれど、結局彼女の幸福なんて、どうだっていいんだ。なぜそんな親のエゴで、ステラを縛ろうとするんですか? めちゃくちゃだ!」
 しまったと思ったが、もう遅い。父親の顔はますます憤激でどす黒く染まり、母親のほうはヒステリックな悲鳴を上げて、泣き出している。
「あんまりだわ! あんまりよ! 私たちの家庭をめちゃくちゃにしておいて、私たちの幸せをことごとく踏みにじっておいて、この男はこんなことをぬけぬけと……」
「言いすぎたことは謝ります。でも、ステラのことも考えてください。僕はステラにプロポーズした。ステラは承知してくれた。うれしいとも言ってくれた。そんな彼女を無理やり僕から引き離して、生まれた子供をすぐ養子に出してしまうなんて、そんなことをしたら、ステラがどんなに悲しむか……あなたがたは、考えたことはないんですか?」
「そりゃ、ステラは悲しむだろうさ。最初のうちは。だが、きさまに騙されていたことがわかれば、目がさめれば、かえって私らに感謝するだろう」
 パーレンバーク氏は轟然と言い放つ。僕は再びかっとなった。
「どうして僕に騙されているって、決めつけるんです! 僕は真剣です! 本気で彼女を愛しています。ステラだって、わかってくれた。なのに、なぜ……僕がロックミュージシャンだから、いけないのですか? 僕が医学部の学生だったら、将来父の病院を継いだら、あなたがたはステラとの結婚を、認めてくれるんですか?」
「そうだな……」
 氏は仁王立ちしたまま、僕を見下ろした。
「そうだったら、考えてやらんでもない。もっともまだ二十歳にもならん生娘を、たぶらかして傷物にしたうえ、身籠らせるという不道徳は、許し難いが。よかろう……」
 氏は台所へ歩いていき、何かを探しているようだったが、やがて戻ってきた。手には細身の包丁が握られている。僕は一瞬、刺されるのではないかと、身をこわばらせた。彼はそれを僕の前に投げてよこした。目の前にカランと音を立てて、包丁が転がった。
「きさまがその髪を切り、手を刺して、二度とギターなど弾けなくするならば、それで、もう一度医学部に入り、あの病院を継ぐならば、娘との結婚を考えてやってもいい。どうだ?」
 パーレンバーク氏の青い目には、酷薄な光が燃えていた。
「そうですね」と頷いた、夫人の薄色の目にも。
 僕は呆然と、目の前に投げ出された包丁を見つめた。
「手を……手を傷つけたら、僕はメスも握れなくなります」
 力なく、そう呟くのが精一杯だ。
「内科医になればいい。それに、なにも利き手を刺さんでもいいわけだからな」
 どうしたらいい――ステラとの結婚を認めてもらうためには、僕は自分の生命とも言える音楽を、ギターを捨てなければならないのだろうか。そうすれば、ステラも喜んでくれるのだろうか。僕は包丁を手にとり、次の瞬間ぞくっと激しい震えを感じた。僕は包丁を床に投げ出した。出来ない。やっぱり、そんなことは──。
「出来ないのか。ならば、あきらめてもらおうか……」
 パーレンバーク氏がさげすんだように僕を見つめ、言いかけた、その時だ。
「やめて!」と、突然甲高い声がして、誰かが僕と氏の間に入ってきた。金色の髪に白い帽子をかぶり、紺色のコートを着たままのステラだった。彼女は頬を真っ赤にしていた。青い目は怒りをたたえてらんらんと輝き、きっと両親を見据えている。
「正気なの、パパもママも! なんてことを!!」
「ステラ……」
 夫妻は突然現れた娘に、すっかり度肝を抜かれたらしい。呆けたように見つめたあと、口篭もっている。
「おまえ、いったいいつ、どうしてここに……」
「わたし、昨日ジャスティンからスペアキーをもらったのよ。それでカレッジが終わって、まっすぐここに来たの。地下鉄の駅から電話をしたのだけれど出ないし、留守かと思っていたのだけれど、一応行ってみようと思って。うちへ電話したら、パパとママは出かけていると言われたし。でも、アパートの前に家の車が止まっていたから、まさかとは思ったけれど……本当に、ここへ来ているなんて。ドアを開けたら、パパとママの声が聞こえるんですもの。わたしは耳を疑ったわ。わたしこそ、聞きたいわよ。どうしてパパとママがここにいるの? わたしはジャスティンの部屋を教えた覚えはないのに」
「知っていたさ……調べればわかることだよ、おまえ……」
 父親は一転しておろおろとした口調になった。
「調べさせていたのね、探偵か何かに!」
 娘は頬を深紅に染めて、きっと両親をねめつけた。
「あの時、言っていたものね。わたしが夜帰らなかった時。お友達のところも、ジャスティンのところも、何も知らなかったから、連絡すらできなかった。知っておけばよかったって。だから、調べさせたんでしょう!」
 両親は何も言わなかったが、その目の表情は明らかにうろたえ、娘の言うことを肯定していた。ステラは激したように、言葉を継いでいる。
「わたしに赤ちゃんが出来たことも、何かで知ったのね? 卑怯じゃないの。わたしはジャスティンと結婚するの。もう決めたの! パパやママが許さなくても平気よ。もう十九なのですもの。結婚できるのよ。パパやママが認めてくれなくとも、結婚できるの!」
「ステラ……」
 夫妻は悲しそうな表情で、おろおろとしていた。
「おお、どうか怒らないでおくれ、ステラ。私たちはただ、おまえの幸せを考えて……」
 母親をさえぎるように、ステラは強い調子で叫んだ。
「だったら認めてちょうだい、ジャスティンとの結婚を! わたしの幸せを本当に考えてくれるなら、そうしてくれるはずよ! もし認めてくれないなら、わたしは家を出るわ! 今日のうちに荷物をまとめて、ここへ引っ越して……でも、ここはパパやママも知っているのよね。だから、新しいところを二人で探して暮らすの。もう二度と家には帰らないわ!」
「ステラや、ステラ!」
 パーレンバーク夫人は哀願するように、娘の足元にひざまずいた。
「おお、あなたはいつからそんな娘になってしまったの? 私たちを脅迫するの? 十九年間慈しみ、あんなにいとしんで育てたのに、その私たちをこんな男のために、いともあっさりと捨てると言うの? なぜ、あなたはそれほど変わってしまったの? あんなに良い子だったのに……」
 娘を見上げる夫人の顔は、顎まで涙に濡れていた。
「泣かないで、ママ……」
 ステラは悲しげにその姿を見つめ、それから母親の傍らにひざまずいた。
「ねえ、ママ、泣かないで。わたしもパパやママが悲しむのは、つらいの……」
「おお、ステラ!」夫人は娘の手を握った。
「あなたは優しい子よ。本当に、優しい子。それなのに、どうして私たちをこんなに悲しませるの? みんな、あの男が悪いのよ。ええ、そうですとも……」
「ジャスティンのことをあの男、なんていうのはやめてちょうだい、ママ」
 ステラは優しくもきっぱりとした口調で遮った。
「彼はいい人よ、本当に。パパもママもわかってくれようとしないけれど、本当にいい人なの。たしかにロックミュージシャンという不安定なお仕事についてはいるけれど、でもずっとわたしだけを愛して、決して浮気なんてしないと言ってくれたわ。わたしも、彼を信じているの」
「ステラ、本当にそれが信じられるの? この人は本当に、あなたの信頼に足る人だと思うの? 本当に結婚しようとする男性なら、その家族のことを考えて、充分な経済基盤と将来の安定を手に入れようと思うのが、普通ではないの? それが男の責任というものでしょう。なのに、ロックミュージシャンなんて、堅実な男性ならなりませんよ。たとえ趣味はあったとしてもね」
「不安定な業界なのは、たしかに認めますけれど……」
 ステラは僕を振りかえり、首を振った。自分が両親を説得するから、僕は口を出さないほうがいいということだろう。たしかに今僕が何か言うと、かえって彼らを逆上させるかもしれない。僕は言葉を飲みこんだ。ステラは熱心に僕の弁護をしてくれた。両親は、納得しているとは言い難い表情だが、少なくとも僕が言うよりは聞いてくれているようだ。
「では、一つだけお伺いしますけれどね」
 やがて夫人は冷ややかな口調で、僕に向き直った。
「今はその気がなくとも、もしあなたにたいした収入がなくなったら、あなたはステラや子供のために、家族の生活のために、今の浮ついた仕事をきっぱり捨てられますか? きちんとしかるべき職について、ステラに何の不自由もかけない生活を、保証できますか?」
「もしそんなことになったら、努力します。ステラや子供に生活の苦労をさせないように」
 僕は床に座り直し、夫人を見据えた。
「努力するだけでは困るんですよ。ちゃんと実現してもらわなければ。それに生活の苦労はもちろんですが、私たちが今まであの娘に与えてきたような暮らしを、保証してくれなければ困ります。そうでないなら、あの娘を結婚なんてさせるつもりはありませんよ」
「ママ、でも結婚するのは、わたしよ」
「私たちは、あなたのためを思って言っているのよ、ステラ」
「わかっているわ。でも、わたしは別に今と同じ暮らしでなくとも、住む家があって、普通に生活できるなら、かまわないの」
「でも、もしこの人が売れなくなって、収入がなくなったらどうなるの? あなたが働くなんて、とんでもないわ、ステラ。そんなことは、絶対許しませんよ」
「ステラを生活のために働かせたりは、絶対にしません。僕がどんなことをしても、働きます。家族の生活を支えるために、なんだってします」
「本当かね?」
 パーレンバーク氏が疑わしげに、じろっと僕を見た。
「ええ、約束します」
「どんなことをしても働くというが、工事人夫やダンプの運転手のような、いわゆるブルーカラーでなく、もちろん後ろ暗い商売でもなく、きちんとかたぎになって働くのでなければ、私は認めない。あんたは学歴もない。良くて親御さんの病院で、事務員として働けるぐらいが関の山だろう。それでは、たいした収入は期待できんぞ」
「もし音楽活動が思わしくなくなったら、僕も考えます。完全に収入が尽きる前に。資格を取るために勉強して、学校へ行きながら、病院で働けたら働きます。他にもっと良い仕事があったら、そっちへ行きます。ロビンやジョージの家の会社でも……彼らは同じバンドメンバーで、僕の親友ですが、スタンフォードグループの御曹司でもあるんです。もしバンドが上手くいかなかったら、二人は会社に戻ると思うんですが、僕ももし使ってもらえたら、一緒に働く選択肢もあると思いますし」
「ほう、そうなのか。あの成り上がりのスタンフォード一族が、あんたのバンド仲間とはな。それなら完全には、路頭に迷わないのかもしれないが……」
「お願いします。絶対に約束は守りますから!」
 僕は頭を下げた。スタンフォード家を成り上がりと言われたことはカチンと来たが、ここで文句を言ったら、よけいに話がこじれる。
「ね、お願い、パパ、ママ!」
 ステラは手を伸ばし、左手に父親の手を、右手に母親の手を握ると、懇願するような表情で両親を見上げた。
「お願いよ。パパ、ママ。わたしをジャスティンと結婚させて。認めてちょうだい。わたしのお腹には、わたしたちの子供がいるの。パパやママにとっても、孫でしょう? この子を幸せにしてあげたいの。パパやママがわたしをかわいがってくれたように。お願い」
 ステラの目は潤み、頬を伝って涙が流れ出した。彼女はもう一度言った。
「お願い、パパ、ママ……」
 パーレンバーク夫妻はしんから当惑したような顔をした。そして長い間娘の顔を悲しげに見つめていたが、やがて父親がため息とともに言った。
「しかたがない。それほど言うなら……好きにしなさい」
「ええ、そうね……かわいそうに、今は何も見えなくなっているのよ」
 母親もしゃくりあげながら言っている。
「あの、じゃあ……」
「ジャスティンと結婚しても良いのね!?」
 同時に問いかけた僕らだが、彼らは娘のほうだけを見て、渋々という感じで頷いていた。そして僕を見、父親が一転してきつい口調で言った。
「ただし、だ! 誤解するなよ。ここまでステラがのぼせ上がっているから、おまけに子供のこともあるから、やむをえず結婚を認めるだけだ。あくまで一時的なものだ。それに、条件がある。娘に決して生活の苦労をさせないことだ。ステラの信頼を裏切らないよう、あの娘を悲しませないよう、決して浮気などはしないことだ。それから、ステラをあんたの世界に巻き込んで、好奇心ばかり旺盛なマスコミの餌食にさせないことだ。それを今ここで誓わなければ、結婚は認めない」
「ええ、誓います」
 僕は頭を上げ、きっぱりと頷いた。
「忘れるなよ! もしきさまが約束を破ったら、娘はすぐに連れ戻すからな!」
「覚えておきます。ありがとうございました」
 とても友好的な承認とは言いがたいが、ともかく全面決裂という最悪の事態だけは避けられたことに、僕は心底ほっとしていた。

 僕は壊れたガラスや陶器を片付け、ケガしたところを応急手当し、床に散らばった破片を掃除してから、お茶をいれた。ステラは手伝おうとしてくれたが、「ケガをするといけないわ」と母親に押しとどめられ、僕も身重の恋人を気遣うべく、「君は座っていて大丈夫だよ」と言ったのだ。そうして、やっとパーレンバーク夫妻も話し合いのテーブルについてくれた。ただ、夫妻が僕を見る目は相変わらず鋭く、好意のかけらもない。見たくもないが、渋々対峙しているという感じだ。
「さて……ステラに生活の苦労をさせない。これが約束の一つだったな。まずは一つ聞こう。今のあんたの年収は? それに今、貯金はどのくらいある?」
 パーレンバーク氏が重々しい口調で、切り出してきた。
「パパ、そんなことを聞くのは、いくらなんでも失礼よ」
 ステラが抗議の声を上げた。
「わかっている。こんな不躾な質問は、他の人にはしないさ。だがこの男相手で、しかも大事な娘の将来がかかっているんだ。口だけなら、なんとでも言える。大事なのは現実の数字だ」
 僕は黙って引き出しを開け、通帳を取り出して、氏に差し出した。パーレンバーク氏はそれを開き、一瞬「おっ」と小さな声を上げて、目を見開いていた。
「以外とあるんだな。その年で」
「わりと成功できましたから。今のところは」
「そうか」氏は通帳を僕に返した。
「それなら、しばらくは大丈夫そうだな。そうだな……このたくわえが尽きるころ、まだあんたの年収が二十万ドルを切らなければよしとしよう。それが最低ラインだ」
「……わかりました」
 なかなか厳しい条件だ。僕の年齢で、そのラインは。今までの成功を続けていくことができれば楽勝だが、万が一うまくいかずに転職となったら、そこをキープするのは難しいかもしれない。いや、どんなにがんばっても、最低数年はダメだろう。仮にジョージとロビンの親の会社で働かせてもらえたとしても、彼らでさえ一番下からのスタートだと言われているのに。バンドが失速したら、そこで終わり――実質は、その条件と同じだ。でも今は、望みにかけるしかない。
「そして、もう一つ要望がある。あんたはプロテスタントだそうだが、うちはカトリックなんだ。改宗してもらいたい」
「あっ、はい。わかりました。すぐ改宗します」
 別に宗派のこだわりはないから、同じキリスト教ならかまわない。マインズデールもカトリック教会だったし。あまり関係はないが、そんな思いも掠めた。
「花嫁衣裳は、うちで用意しますよ。ステラには精一杯の支度をしてあげたいの」
 母親も渋々という感じではあるが、交渉のテーブルについてきた。
「ええ、それはもちろん。お任せします」
「それと、新居だが、こんな集合住宅ではいかん。子供が生まれるというのに、庭一つないのではかわいそうだ。一戸建てを用意しなさい。それも、あまり小さな掘っ建て小屋に、大事な娘を住まわせるわけにはいかんぞ」
「そうね。最低限六つか七つくらいのお部屋があって、パントリーもついていて、子供が遊べるようなお庭が欲しいわね。うちから近いところに。どうせこの人は仕事で留守が多くなるのだから、ステラが一人では何かと心細いでしょう。私たちのそばにいてくれれば、時々様子を見に行けるわ」
 夫妻の要望は、僕にはちょっと困惑させるものだったが、ステラは「それはすてきね」と目を輝かせている。
「わかりました。なんとかしてみます」
「産み月の二か月くらい前には、うちに帰っていらっしゃい、ステラ。産後も二か月くらいは、うちで過ごしてね」
「そうしていいの?」ステラがぱっと表情を輝かせてきくと、
「もちろんよ。初孫ですものね」と、夫人は手のひらを返したような応答をする。
「新居には、うちにいる家政婦のトレリック夫人とメイドを一人、手伝いに行かせるようにするわ。あなたに家事は出来ませんものね。それにあなたは大事な身体でしょう」
「ええ。でも、いいの? トレリック夫人がうちに来てしまうと、パパやママたちは困らないかしら?」
「スミソンズさんとメイドが一人残っているから、大丈夫よ。あなたがいなくなると二人きりですものね。寂しくなるわ」
 夫人は大きなため息をついてみせた。
 パーレンバーク家の家政婦が来るのか。ステラに生活の不自由はさせないと約束した手前、あからさまに反対はできないが、僕にはちょっと当惑する話だった。
「あんたと結婚することになったとしても、ステラの姓は変えないでもらいたい」
 さらに父親は、そんな要望を出してきた。
「えっ?」
 僕は思わず声を上げ、ステラの顔を見た。
「ええ……たしかにパパやママは、前からそう言っていたけれど……わたしが結婚する時には、姓は変えないって……やっぱり、そうしなければいけないの?」
 ステラは両親を見、問いかける。
「そうだ。おまえは我が家の、大事な跡取り娘なんだ」
 パーレンバーク氏は重々しい表情で頷く。
「長年続いてきた、由緒正しき我がフォン・パーレンブルク家が、私の代で途絶えてしまっては、ご先祖方に申し訳ない。しかも、ローリングスなどという下世話な姓になるなど、我々には耐えられない」
「そうですよ。いつも言ってきたでしょう?」
 母親も断固とした様子で娘を見ている。
「……子供に継がせるというのも?」
「そうだ。前からおまえには言っていただろう、ステラ。本当は婿養子に出来る条件なら一番良かったが、たとえ次男でも、この男を我が家の籍に入れるなど、考えるだけで身の毛がよだつ。だから子供は、とりあえずこの男の姓になる。それはいたしかたない。しかし、おまえたちに生まれた男の子の一人を、その子が成人した時に私たちの養子とし、フォン・パーレンブルクを名乗らせる。男の子がいないようなら、女の子でもいい。その希望は変わらない。おまえも承知していたはずだ、ステラ。一番良いのは、さっさとこいつと別れて、別のもっと信頼できる良い男性、我が家の婿養子にふさわしい男と一緒になることなのだが、それは今のところ当てには出来ないのだから、しかたがない。それが我々の条件だ。さもなければ、この結婚を認めるつもりはないからな」
「ええ……」
 ステラは小さく頷き、僕の顔を見た後、再び目を伏せた。
 そうか。ひとり娘の宿命として、きっと彼女は子供の頃から、両親にその条件を言われていたに違いない。ただ結婚の話が急に具体化したために、言い出せなかったのだろう。できたら僕は、ステラと同じ姓を共有したい。子供にも、成人した時とはいえ、途中で姓を変えるようなことも強制はしたくない。第一、もしあの未来世界が本当ならば、その子が成人になる時まで、今の世界は続いていないだろう。しかし、とりあえずその問題は今、棚上げするとして――。
 ステラの両親が血統への誇りとこだわりを強く持っているなら、ステラもそれを昔から言われていたのなら、ここは、突っ張るべきではないのかもしれない。僕自身は自分の家とか姓に、そうこだわっているわけではない。ローリングスの家には兄ジョセフもいるし、僕が妻の姓を名乗ってもいいくらいだが、それはパーレンバーク夫妻に『考えるだけで身の毛がよだつ』とまで言われているのだから、他に選択肢はなさそうだ。
「わたしがフォン・パーレンブルクのままでも、ジャスティン・ローリングス夫人になることに変わりはないわ」
 ステラがためらいがちに言って、再び僕を見た。
「ああ。大丈夫だよ。君は君の姓のままでいても、僕らが夫婦になることには変わりないのだから。それに息子の一人を将来的に君の姓にすることも。僕ら二人の子供なんだしね」
「そうか……それなら、まあ……よしとしよう」
 パーレンバーク氏は微かに安堵の表情を見せて頷いたあと、言葉を継いだ。
「では、これが最後なんだが、せめて式の時だけは、その髪を切ってくれ。それにあんたの友達も、バンドの連中だけは招待せんでくれ。いや、ちゃんと髪を短くして、見苦しくない格好で来るならいいが、長髪のままちゃらちゃら来られると、非常に困るんだ。うちにも体面というものある。そんな婿や友達では、恥ずかしくて親戚など呼べん」
「えっ!」
 僕は思わずかっと血が上るのを感じた。そんな。バンドのみんなこそ──ロビン、エアリィ、ミックにジョージ──彼らこそ、僕の結婚式に誰よりも来て、一緒に祝って欲しい仲間たちなのに。ロビンには僕のベストマンを頼もうとしたのに。それに、まだツアーのインターバル中に髪を切ったら、その次のロードはショートカットのまま出ることになってしまう。スタイルにこだわるわけではないし、また伸ばせばいいと言ってしまえばそれまでだが、長い髪も僕のステータスシンボルと思っていたから、抵抗は感じる。だが、それよりも一番つらいのは、もっとも親しい友たちを呼ぶなと言われたことだ。彼らを何か人目に付くのが恥ずかしいもののように、言われたことだ。僕自身だけなら、どんな偏見でも我慢できる。でも、親友たちまでそんな風に見られたくない。
 よほど断ろうかと思った。でも、とりあえず今まで向こうの条件を飲んできたので、パーレンバーク夫妻の態度もかなり軟化してきているように見える。ここで断ると、彼らは逆上するだろうか? 結婚は認めない、などと言い出すだろうか? また最初のように修羅場になったら困るし、ステラも今回はあまり援護してくれそうにないことは、彼女の表情から読み取れた。ステラは興味深そうな顔で僕を見ていた。この小さな譲歩を(と彼女は考えているようだ)自分のためにしてくれるかどうか、見てみようという顔だ。
「……わかりました」
 僕はため息とともに頷いた。パーレンバーク夫妻はいくぶん満足げな顔になり、ステラも(あら、意外)という感じとともに、(自分のためにここまで譲歩してくれた)ということに、うれしそうな表情も見て取れる。
 でも、僕の気持ちはすっきりしない。バンドのみんなは許してくれるだろうが、気を悪くしないだろうか? 第一僕の友達、結婚式に呼んで祝福してもらいたいような友人が、バンドの仲間以外、いったい何人いるだろう。はっきり言って、一人もいやしない。ロビンがロサンゼルスの病院で言っていたように、ロビンと僕は幼い時からあまりに近すぎ、排他的な親友同士だった。それで自分の世界が狭められたとは思わないけれど、こういう場になって他に友達がいないというのは、けっこう情けないものがある。もともと僕も表面的には社交的に振舞えるが、なかなか相手を友達と認めない、実質的にはかなり非社交的なのが、いけないのだろうが。しかたがない。せめてロブに来てもらおう。ロブはあくまで後見役的な人であり、友達という感じではないけれど、礼服を着てちゃんとした社会人に見えるのは、彼しかいない。
 すっきりしないながらも、話し合いはなんとか無事に終わり、最終的にはパーレンバーク夫妻も僕らの結婚を認めてくれた。五月四日という結婚式の予定日も承知してくれた。会場はパーレンバーク家が通うカトリック教会になるが。日取りが決まった後、みんなで夕食をともにとステラは提案したが、いつまでもアパートメント前の道路に車を待たせておくわけにはいかないからと、二人は帰っていった。
「あなたも一緒に来てね、ステラ。あなたの食べたいもの、何でも作ってもらうから」と母親に懇願され、彼女も一緒に車に乗って行った。僕は取り残され、肩をすくめてから実家に連絡し、夕飯を食べに帰った。ついでに会場変更を話しておけばいいと。

 翌日、僕は再び出かけた。昨日から降っていた雪も、朝方にはやんでいる。プロテスタントとカトリック、双方の教会に出かけて改宗手続きをした後、アイスバーン状になった道を、僕はステラの家へと向かっていた。もっと広いゆったりした車をというので、去年の暮れにマイカーもシルバーメタリックのBMWに買い替え、やっと運転も慣れた頃だ。
 今日は家を探さなければならない。僕のアパートメントからステラの家まで、車で四十分くらいの距離だ。いつも通っている道には、めぼしい空き地や売り家がないのは知っていたので、僕は彼女の家に向かう道を曲がらずに、そのまま少し北に走り、ノースヨーク地区に入ったところで、ぐるっと回りこむようにステラの家に向かった。すると、なんという奇跡か、いくらも走らないうちに、まさに『これだ!』と思うような家が、目に飛び込んできたのだ。まるで僕を招くように。
 その家は、まだ建ってさほど間がないような外観だった。角地にあり、かなり広い敷地は、赤茶色のレンガを土台にした白い飾りフェンスで囲われている。庭の中に木が何本か、フェンスに近い場所に植えられていて、外からはちょうど良い目隠しになってくれた。外壁はオフホワイトに塗られ、屋根は明るい緑。しっかりとした木製のドアと、二重サッシになった大きな窓。門のところに、【売り家、または貸家】と札が出ていた。
 僕はそこに書かれた不動産屋の連絡先を書きとめ、とりあえずパーレンバーク家へ行くと、そこから車で十五分もかからない場所に、良い物件を見つけたと報告した。そして不動産屋に連絡し、まもなくそこからやってきたセールスマンとともに、その家を見に行った。ステラと彼女の母親が一緒だ。ステラはその家を一目見ると、手を打ち合わせ、「あら、かわいい! すてきな家ね!」と、小さな叫び声を上げた。
 家の一階にはキッチンと食堂、吹き抜けになった広いリビング、パーラー、小さな個室が二つと食料室、ランドリールームとシャワールーム、そして洗面所とトイレがあった。食堂の外にある、中庭に面した広いテラスには、白い椅子とテーブルのセットが置かれ、天気のいい日は、ここで食事ができそうだ。二階には大きな主寝室と広めの個室が三つ、それにサンルームがある。バスルームは二階には二つあり、主寝室に付属したマスターバスルームと、子供たちや来客用のものがあった。主寝室には広いウォークインクロゼットも付属していて、屋根裏部屋までついている。庭にはしっかりした、大きな物置もあった。
「あら、すてき、すてき!」
 ステラは目を輝かせてそう連発し、
「そうね、このくらいの広さなら、まあまあね」と、パーレンバーク夫人も、まんざらではない顔だ。
「絶対にお買い得ですよ! こんな物件は、もう二度と出ないでしょうから。お客さんは、本当に運がいいですよ」と、不動産屋も売り込みに余念がないようだ。
 この家は五年ほど前に建てられたもので、かなり裕福だった元の持ち主は、もう少し田舎に引っ込むために、ここを売りに出したという。家の状態は、驚くほどきれいだった。
「おいくらなんですか、この家?」
 僕はこっそり聞いてみた。
「これだけの立地条件で、この規模の建物にしては、破格ですよ」
 教えてくれた値段は、二百万ドルを超えていた。それではとても手が出ないと僕はあきらめかけたが、二割を頭金として入れてくれれば、残りは十年かけて分割払いにしてもらえば良いという。僕はそれでも、少し躊躇した。デビューアルバムがかなり成功したし、セカンドも半分とはいえ、わりと売れている。マネージメントは原版権の配分を六対四で割り振り、アドバンスから超過した制作費やプロデューサー分を、マネージメント側から支出してくれた。結果、セカンドアルバムに関しては、マネージメント的には大赤字になったが、僕らの収入は保証された。ツアーもサポートとはいえかなり順調なので、僕の年齢にしては、自分で動かせるお金はわりと多いだろう。パーレンバーク氏も一瞬驚いていたほどに。でも先の保証のないこの業界で、頭金で貯金の八割が消えてしまい、なおかつ百八十万ドルを超える負債を(十年分割だと、利息が入って実質は二百万ドルをゆうに超える)背負うというのも、勇気がいる。それも、年間二一万五千ドルの支払いを一度でも延滞してしまうと、次の年には出て行かなければならない。今度のアルバムがプラチナセールスにならなければ、レーベルとの契約もなくなってしまうのに。そこから先は、本当にどうなるかわからない。でもこれを逃すと、きっと希望どおりの物件などないような気がした。セールスマンのトークではなく、そんな予感がした。賃貸にした方が無難だろうが、それでは自分の家とは言えない。えい、思いきって買ってしまおう。そうすればパーレンバーク夫妻も僕の甲斐性を、少しは見なおしてくれるだろう。
 その日のうちに、もうその家は僕らの来るべき我が家となっていた。

 翌日、不動産屋から紹介されたインテリア・コーディネイターがパーレンバーク家へやってきて、ステラと僕、さらにパーレンバーク夫妻まで話に加わり、新しい家のインテリアを決めた。張り替える壁紙と照明を選び、カーテンとカーペットを決めたあと、家具を購入した。クロゼットをいくつかと、リビングのソファ、テーブル、パーラーの応接セット、キャビネット、二人分の本棚、書斎のデスクと椅子、ダイニングセット、ベッドにドレッサー。産まれてくる子供のためのベビーベッドと衣装入れを。翌日は、もうリハーサルが始まっていたが、午後三時からスタートなので、それまでの時間を利用して、ステラとその両親とともに、電化製品を購入した。エアコン、洗濯機、乾燥機、冷蔵庫、テレビ、DVDプレーヤー、ステレオセット、電子レンジ、オーブントースター、掃除機、空気清浄機、ヒーター、加湿器、食器洗い機――小切手やカードの支払い書がどんどん出ていき、今までの印税の残りやツアーのギャラをほとんど吐き出したが、もし年相応に学生の身分だったら、自分の収入だけでここまで整えることは、とうてい出来ない。その点だけは、パーレンバーク夫妻も少し見なおしてくれたようだった。

 リハーサルの三日目、午前中に僕はステラの家に寄り、通帳とカードを預け、暗証番号を教えて、残りのこまごまとしたものを、体調の良い時に揃えてくれるように頼んだ。
「ええ、わかったわ。でも、わたしの好みで整えてしまってもいいの?」
「いいよ。任せる。家にいるのは君のほうが圧倒的に多いからね。好きなように、居心地のいいように整えたらいいさ。僕は文句を言わないよ。ただ、予算があるからね。あまり豪華なものは買えないと思うんだ。通帳の残高を確認して、その範囲でお願いするよ」
「ええ。でも……わたしがあなたの通帳で、お金を下ろしても良いの?」
「当たり前だろ。君は僕の奥さんになるんだから」
「そう……ね」
 ステラは少し頬を赤らめた。そして通帳を開くと、少し驚いたような声を上げた。
「まあ……わたし、お金のことを気にしていなかったわ。ごめんなさい。けっこう減ってしまったのね。あのおうちが、思ったより高くなくて良かったけれど」
「いや……それは家の代金の、二割にすぎないんだ。頭金なんだよ。残りは、これから返していかなければならないんだ」
「あら、そうなの? 大丈夫?」
「何とかなるさ。君は気にしなくていいよ」
 僕は肩をすくめた。
「ただ、家具とか電化製品の支払いが、来月落ちるんだ。だからその分を残してくれると、ありがたいな」
「わかったわ、どのくらい?」
「二八万ドルくらい、かな」
「あらまあ……」ステラは再び、小さな声を上げた。
「かなりかかってしまったのね。ごめんなさい。わたし、わがままを言いすぎてしまったかもしれないわ」
「いや、幸い買えたからね。気にしなくていいよ」
 僕は再び小さく肩をすくめた。
「ただ、それを引いてしまうと、そんなに動かせるお金は多くないね。六万ドルくらいしか残らない。ごめんよ」
「大丈夫よ、それだけあれば」
 ステラは小首を傾げて微笑んだ。
「大きな所は、みんなそろえたから、あとは何がいるのかしら。お鍋とか食器ね。それからベッドのおふとんや毛布、シーツやカバー、テーブルクロス。でもリネン類はうちでそろえてくれると、パパとママが言っていたわ。だから大丈夫よ。新しい服も七着作ってもらえるらしいし、ママはエプロンを十枚も作らせるって言っていたのよ。家事用にではなくて、一家の主婦として見えるように、ですって。わたしね、レース編みでテーブルセンターを編もうと思うの。ダイニングのテーブルの真中において、その上にお花を飾るの。ああ、なんだか子供の頃にそろえた、お人形のおうちのようね」
「おままごとじゃなく、本当の家だけれどね。感想はどうだい?」
「とても楽しいわ。うきうきした気分よ」
 ステラははしゃいだ声を出す。
「あなたとわたしのおうちなのね。それから赤ちゃんの。わたしね、子供の頃から将来の夢は、お嫁さんだったの。今の人たちからすれば、つまらないと軽蔑されてしまいそうね。それは職業じゃないのよ、と。でも真っ白いウェディングドレスを着て、結婚式を挙げて、どこか南の島へ旅行に行って、お庭のある白い壁と緑の屋根の、すてきなおうちに住みたかったのよ。あのおうちは、まったくそのとおりね。なんだか夢のようだわ」
「一つだけ、南の島への旅行っていうのは無理だけれどね。新婚旅行としては。年末か来年には行けると思うけれど。それと、僕も今はなんとかこれだけの支度が出来たけれど、君のご両親が懸念されていた通り、残念ながら先の保証というのがない世界なんだ、僕の仕事は。でも君に生活の苦労はさせないよ、絶対」
「万が一、ミュージシャンとして生活できなくなっても? パパにそう約束したのよね。大丈夫なの?」
「ああ、もし不幸にして、そんなことになったとしたら、どんな仕事をしてでも、君と子供を支えていくさ。その覚悟はできているよ。でもたぶん、そんなことにはならないような気がするんだ」
「あら、ずいぶん自信があるのね。たしかにあなたたちは上手だし、すてきだと思うけれど。よほど今度の作品に自信があるの?」
「自信? 自信はあるさ、当然。アーティストの自信だけなら、どんな作品だって大成功、っていうのが音楽業界だけれどね。僕には市場のことは良くわからない。でも……」
「発売されたら、買って聞いてみるわ」
「いや、そのうちに僕からプレゼントするよ。新婚の夢が落ち着いたらね。ああ、でも胎教には、ちょっとどうかな? 君にはやっぱり、モーツアルトのほうがいいかな?」
「大丈夫よ。クラシックの合間に聞いてみるわ。気分のいい時に」
「じゃあ、僕としてはこれから、未来の妻と子の生活のために、仕事に出かけるよ。明日からはリハが十時スタートになるから、しばらく会えないけれど、ツアーに出る前に、また寄るから。あっ、でも学校があるかな?」
「わたし、カレッジは中退するの。明日届けを持っていくつもりなのよ。だから、これからは、ずっとお家に居るわ」
「そうか。冬学期が終わってからじゃなく?」
「ええ。どうせ結婚するのだし、今が大事な時期なのだから、雪の中を通学して転んだりしたら危ないって、パパとママが心配して。無理をして通うことはない。やめてしまいなさいって言うの。だから、冬学期を待たないで、やめることにしたのよ」
「そうか。そうだね。そのほうがいいよ。今はたしかに大事な時期だから。かぜでもひいたらいけないし、疲れ過ぎないように、身体に気をつけるんだよ」
「ええ、ありがとう、ジャスティン。大丈夫よ。パパとママも同じことを、いつも言っているから。あなたも無理をしないように気をつけてね」
「ああ、ありがとう。」
 本当はステラを抱きしめ、キスしたかった。でもパーラーの隅にある揺り椅子にパーレンバーク夫人が陣取って、新しいテーブルクロスに刺繍をしているという風を装いながらも手は動かさず、僕らの様子をじっと見ているおかげで、なんとなくやりにくい。僕はステラの肩を抱き、軽く頬にキスをするだけにとどめた。それすらも夫人は「まあ!」と声を上げ、あからさまに驚きと嫌悪の表情を浮かべたが。

 全米ツアーに出発する日、二時にバスが迎えに来るので、午前中に僕は再びパーレンバーク家へ行った。どこか外へ出かけるには時間もなく、ステラの身体のこともあるので、結局パーレンバーク家の客間で、母親に監視されながら二時間ほど過ごした。帰る時にも、夫人を必要以上に刺激しないためにと、頬へのキスすら出来ず、ただ手を握りあって「行ってらっしゃい。身体に気をつけてね」、「ああ、君こそ充分気をつけるんだよ」と言い交わしただけだ。ステラは手を振りながら、「浮気はだめよ!」と言い、僕も手を振って「しないよ、絶対!」と笑った。
 そして、僕はツアーに乗り出していった。ある人気バンドのサポートとして、発売されたばかりのアルバムの、最初のプロモーションツアーだ。




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