Part 2 of the Sacred Mother's Ring - the 11 Years’ Sprint

二年目(9)




 教えられた道を歩いていくにつれ、建物がまばらになっていった。畑や果樹園、牧草地が広がる一帯を抜けると、一面の野原が僕らの前に広がっていた。ランカスター草原。たぶんこの名は、百年前に失踪事件を起こした、あの一家にちなんでつけられたものだろう。そこはまるで緑の海のようだった。八月の陽光の下、草は瑞々しい青さで広がり、風が吹き抜けていくと、葉っぱの裏の銀色を見せて、波のようにうねっていく。行く手には、気の毒な老人が妻子を失った暗い森があり、右側と左側の果てには、なだらかな丘陵地帯が広がっていた。
 この光景──僕ははっきりと思い出し、息をのんだ。夢に出てきた草原は、ここだったのか。同じ風景だ。夢の中より、真中に立っている木が大きいというだけで。その樹は大木というほど大きくはないが、シスターの話では最初の失踪事件の後に生えてきたらしいので、樹齢は百年くらいたっているのだろう。
 その木に目をやった僕は、再び息をのんだ。まさか──こんなにうまく行くはずがない。僕は夢を見ているのだろうか? この十二日間、何回となく夢に見た。『なんだ。おまえ、こんなところにいたのか。人をさんざん心配させて!』そう言ったところで目がさめる。でも、純然たる夢にありがちな非現実感は、今はない。木の下に、彼が立っている。幹に手をかけて、見上げていた。まるで彫像のようにじっと動かず、髪の毛だけが微かな風に揺れ、日の光を反射して輝いている。
 ロビンも気づいたようで、はっとしたような表情で足を止めた。
「エアリィ……? 本当に……?」
「ああ、まさかこんなにタイミング良く見つけられるとは、思わなかった」 僕はささやき返した。
「でも……あいつは今、どういう状態なんだろうか。話してみないと、中身が本人か別人かも、わからない。僕らにも、気づいていないようだし」
「うん。そうだね。とにかく、行ってみようよ」
「そうだな」
 僕らは道を外れ、草の中へ踏み出した。この距離では話も出来ない。しかし、相手も僕らの存在に気づいたようだ。少し驚いたように目を見張り、ぱっと踵を返そうとする。でも走られたら、僕らはたぶん追いつけない。また見失いたくはない。僕は思わず、反射的に叫んだ。
「エアリィ、待て!! 逃げるなー!!」
 彼はびくっとしたように動作を止めた。木の幹に片手をかけたまま、僕らのほうを向く。呼びかけで反応したのだから、中身も本人の可能性が高いのだろうか。裾に青と緑の幾何学模様が入った、五分袖の白いチュニックと(旅行中に市場で買ったものだ)、ブルージーンズ。インドでいなくなった時と同じ姿だ。でも、十日以上も着の身着のまま放浪したような汚れもやつれも、まったく感じられない。半月前一緒にインドの寺院の門をくぐった時から、時が流れていないかのように。でも、寝起きの状態でものを見るように、どこかぼんやりとした視線で僕らを見ていた。
 ロビンと僕は小走りに駆け寄った。が、五、六メートルほどの距離に近づいた時、その表情が動いた。目を見開き、頬にかすかに赤みがさすと同時に、鋭く叫ぶ。
「来るな!!」
 その激しい拒絶のトーンに、僕らは足を止めた。ロビンと当惑げに顔を見合わせてから、僕は問いかけた。
「どうしたんだよ、エアリィ。どうしちゃったんだよ? おまえはまだ、戻ってないのか? 誰か別人なのか?」
「別人……?」彼はぱちぱちっと瞬きをし、僕らを見た。
「ある意味、今の僕は……別人かもしれない。少なくとも、みんなの知ってる僕じゃない。でも、アヴェレットやセディフィじゃないよ。あの人たちは、遠い昔に統合されてしまってるから……」
「どういうことだよ」僕は問い返す。
 しかしエアリィは、何も答えは返さなかった。ただ黙って、僕らを見ているだけだ。
「なあ……何か言ってくれないか?」
 僕は思わず一歩踏み出した。
「教えてくれよ。どうして、こんな行動に出た? なぜ僕のメモに従わないで、どこかへ行ってしまったんだ? どうして何も連絡をよこさない!? 今も、最初に僕らを見たとき、おまえは逃げようとしただろ。どうしてなんだよ!? いったいおまえに、なにが起きたんだ?」
「今は、まだ僕は……こっちの世界に戻れる、自信がないんだ」
「はっ? どういうことだ?」
 しかし彼は再び沈黙し、力のない瞳で僕らを見ているだけだった。その眼は普段のきらめく夏空ではなく、果てしない深さの、透明な、しかし動かない水のようだった。僕は思わず一歩踏み出し、頭を振って声を上げた。
「なあ、エアリィ、黙るのは止めてくれ。こっちの状況を、おまえはわかっているか? 自分がやったことを、わかっているのか? インドから黙っていなくなって、十日以上も行方不明で。僕らみんな、どれだけ心配したと思っているんだよ!」
「ごめん……」
 その言葉は、どことなく機械的な響きがした。反省している感じではない。でも、今は責めるべき時じゃない。
「どうやってモントリオールの空港から、ここへ来たんだ?」
 僕は別の切り口からいってみようと、少しトーンを落として聞いた。
 エアリィはしばらく黙ったあと、足元の草に視線を落としながら答えた。
「彼が、ここへ連れてきてくれた……」と。
「彼? 誰だよ」
 その質問には、答えは得られなかった。
「今まで、どこにいたんだ?」
「……どこでもない場所……」
「えっ?」
 黙りはしなかったものの、それではまったく答えになっていない。それに普段のエアリィとは違う、力のない、抑揚もほとんどない話し方だ。まるで感情が欠如してしまったような、いや、その下に渦巻く激しい感情を抑圧しているかのような……。
「ここへは、まだ来るんじゃなかった……」
 エアリィは木を見上げ、独り言のように言った。同じように抑揚のない話し方だ。
「でも、光の木が見たくなったんだ……」
 視線を移し、僕らを見た。相変わらずその目に、光は戻ってこない。焦点が合っていないというより、ぼんやりと遠くを見ているような感じだ。
「エアリィ……本当にいったい、何があったんだ」
 僕は再びそう聞かずにはいられなかった。しかし彼はまた黙ってしまう。ただ僕らを見返すだけだ。僕は再度、懇願せずにはいられなかった。
「答えてくれよ!」と。
「……わかったんだ。すべてが……」
 彼はしばらくの沈黙の後、遠くを見るような眼で、そう答えた。
「彼女が……僕が、ここにいるわけも。でもそれが……すごく、重い。僕にはまだ……負いきれない……」
「何をなんだ? おまえはインドでも、僕にそう言ったよな。僕には負いきれない、と。なにが、負いきれないんだ」
「それは……今は言えない」
「どうしてだ? それに彼女って、誰なんだ?」
「僕は……変形した彼女だ。今はそれだけしか、言えない。言いたくない。死んでも言えない……」
「どうしてだ? 話してくれなければ、僕らにもわからない。おまえを助けたくても、力になりたくても、何も出来ないじゃないか。教えてくれよ。おまえ、あの時僕に言っただろう、助けてって……だから、助けたいんだ」
「それは……忘れて。誰も……僕を救うことは、出来ないから」
 彼は空を仰いで、ゆっくりと眼を閉じた。長い間、再び沈黙したあと、目を開け、僕らを見る。いつもの彼ではない、光のない瞳で。
「みんなを救うことも……できないんだ。ごめん……なんて、定めなんだろう……不運だよね……みんなも、僕も……」
 今までの彼は、いなくなってしまった――ローレンスさんの言葉を、僕は再び思い出した。本当に、エアリィは別人になってしまったようだった。明るく率直で前向きで、無邪気で感情を素直に口にし、表現する。よく笑い、そして決して悲惨な過去にも押しつぶされない強い精神を持っていた、以前のアーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、インドの寺院で失われてしまったのだろうか。『ある意味、今の僕は別人かもしれない。少なくとも、みんなの知っている僕じゃない』――本人も、そう言っていたように。今目の前にいる彼は、ガラスのピースの集まり。そんな印象を受けた。ちょっと乱暴に触れたら、粉々に崩壊しそうな危うさをもった、非常に脆いガラスの彫像。
『何が起きたんだ』と問うた僕に対して、彼の返答は、『すべてがわかった』だった。『彼女が……僕がここにいるわけも』彼女と僕、ではない。”彼女”と“僕”は同格――その彼女はセディフィ? いや、違うと思う。もしそれが彼の中に眠るモンスターだとしたら、それがインドの寺院で出現したあの超人格なら――そう、あの人はたしかに、女の人のように思えた――彼の自我は今、その内なる超人と折り合いをつけようとしているところなのか。『その超人に精神を乗っ取られてしまうか、それに抵抗を試みて破綻する可能性もある』そうフレイザーさんが言っていたように、今のエアリィはまだ、非常に危ういバランスの上にいるのだろう。
「やっぱり、出てくるべきじゃ、なかった。このタイミングで、ジャスティンやロビンに会うなんて……」
 エアリィはふっとため息をつき、再び天を仰いだ。
「なんで今、光の木が見たくなったんだろう。まだ安全な繭の中に、いるべきだったのに。光の木……むしろ、なかったほうが良かったのに。切なくならずにすんだ……いや、どっちみち忘れられないから、あってくれてよかった……けど、ここは違う。おまえも僕と同じだな。本来の場所でないところで、一人育ってる……寂しくないか?」
 そして深いため息をつき、幹に寄りかかり、目を閉じる。
「本当に……なんて、定めなんだろう……」
 再び長い沈黙が落ちた。やがて彼は身体を起こし、木の幹を慈しむように撫でると、まるで木に語りかけているように言う。
「また来るよ……でも、今は帰らないと……どこでもない場所に」
 今のエアリィはもしかしたら、こっちより向こう側に近いところにいるのかもしれない。そんな思いに、僕はすくんだ。正気と狂気のエッジで、軽く一押しされたら向こう側に転落してしまいそうな、本当に危うい状態。そんな時、僕は何をすればいいのだろう。うっかり何か言って、何かをして、最後の一押しになってしまったら――。
 ロビンが前に飛び出した。そのまま突進し、エアリィにぶつかっていった。木の幹にちょっとぶつけるような形になったあと、両手でぎゅっと抱いた。
「エアリィ! 元の君に戻って!」
 そして半泣きになりながら、言葉を継ぐ。
「そんなのは、僕の知ってる君じゃないよ! 君は明るくて、元気で、笑ってて、とってもしっかりしてて、なんでも出来て、いつも前向きにものを考えられて……僕は君みたいになれたらって、何回思ったか知れない。ねえ、お願いだから、元の君に戻って!!」
 僕もあっけにとられたが、エアリィも同様だったらしい。まさかロビンがハグしてくるとは思わなかっただろうし、あからさまにここまで感情をぶつけてきたことに、驚いてもいるようだった。その目に、いくぶん正気が戻ったように見えた。そっとロビンを後ろに押しやると、かすかに首を振り、言う。
「ありがと、ロビン……」
 彼は僕ら二人を見、しばらく沈黙した後、言葉を継いだ。
「戻れたらいいな。僕もそう思う……」
「そうだ。戻ってこい、エアリィ! 以前のおまえになって! 僕らみんな、待っているんだ! 向こう側へは行かないでくれ! お願いだ」
 僕も声を上げた。強い願いを込めて。そうだ。怖れている場合じゃない。僕が出来ることは、彼をこちら側に引き戻そうと試みることだ。ロビンがやったように。
「昔の僕には……たぶん、もう戻れない」
 エアリィは静かに言った。そして小さく髪を振りやると、いくぶん静穏な表情で僕らを見て、言葉を継ぐ。
「ジャスティン……ロビン。僕は今……ばらばらに壊れたものを、もう一回組み立ててる、途中なんだ。でも……そう……僕は、みんなが心配してるみたいに、気が狂ったわけじゃない。わかってる……これから僕がしなければならないことは。でも今は……まだ自分の存在が、怖いんだ。すべてを負っていけるほど……知識を受け止められない……」
 彼は木を見上げる。その緑と木漏れ日に見入っているように。長い沈黙のあと、エアリィは再び僕らを見た。
「ジャスティン……ロビン……今は、僕を一人にして。時間が欲しいんだ。いつか僕は、以前の僕に近い状態に、戻るから……そうしたら、みんなのところへ、帰るから」
「わかった。どのくらい待てばいいんだ?」
 安堵のため息をつきながら、僕は頷いた。
「わからない。でも……そんなに長くはかからないと思う」
「そうか……わかった。待つよ」
「ありがと」
 エアリィは短く言うと、次の瞬間には身体を反転させ、木の下を離れた。ロケットスタートのような速さで、草原を走り出す。
「あっ、おい……」
 僕は意表をつかれ、追いかけようと足を踏み出した。しかし、最初に予想したとおり、追いつくことは不可能だった。ただでさえ歩きにくい、足を取られる草原なのに、まるでトラックを走る短距離選手のような──いや、それ以上のスピードだ。度肝を抜くほど速い。本気で走ると、こんなスピードが出るのか。自転車でも追いつけないかもしれない。僕はあとを追うことはあきらめ、叫んだ。
「エアリィ! あの合宿所で、僕らが集中練習した同じ場所で待っているぞ! 僕らは先に作業を始めているから! だから絶対、戻ってこいよ! 負けるなよ!!」
 聞こえただろうか? もう姿は見えない。向こうの森の中に入っていってしまったようだった。
 夕方になりかけていた。西の丘に太陽は傾き、草原に金色の光を投げている。風がさあっと吹きすぎ、草の原に金と銀の波が立った。木は夕日を浴びて、黄金色に輝いている。十数メートル離れた場所に、草原を通る小道が見えていた。この道は森に入ると、数メートルのところで終わっていると、シスターが言っていた。そこから先には気の毒な老人が妻子をなくした池があり、数キロメートルに渡って、路のない樹林が広がっているという。エアリィはその中を、どこへ行こうとしているのだろうか。『どこでもない場所』とは、いったいどこなのだろうか――?
 僕はぼんやりと森を見つめ、ついで木へと目を移した。彼はここに戻ってきたのだ。光の木──最も安らげる場所へ。僕らは邪魔をしただけなのだろうか? 彼が救いと安息を求めてやってきた場所を、追い立ててしまっただけだろうか? でもまたいずれ、ここに戻ってくるのだろう。そんな気もした。そして最初に懸念したように、何も確認できないまま見失うより、少なくとも話が出来て、『いつか、みんなのところへ帰る』という言葉が聞けただけ、良かった――。

 僕はふとため息をつき、町に帰ろうと歩き出した。とにかく草の中は歩きにくい。道へ戻ろう。ロビンもそう思ったようで、同じように道に向かって歩いていく。
 その時、誰かが僕を呼んだ。
(ジャスティン・ローリングスさん)
「えっ!」
 僕は反射的に立ち止まった。その声は、ほんの耳元でしたようだ。でも、そんなはずは──シスターが言ったように、この草原に隠れる場所はない。光の木は完全に人を隠しおおせるほど大きくはないし、草も身を伏せるには丈が短すぎる。ここには今、ロビンと二人しかいないはずだ。ロビンは一メートルくらい左後ろにいる。たった今、その姿を見たばかりだ。それなら、いったい誰が僕を呼ぶのだろう──?
 振り返った僕は、驚きのあまり身体の力が抜け、草の中にぺたんと座り込んでしまった。僕のすぐ後ろに、人が立っている。なのに、その接近になにも気づかなかった。この人はいったいどこからやってきたのだろう。それに、その姿といったら──。
 その人は僕と同じくらいの背丈で、紫紺のガウンのような服をまとっていた。かすかに光るサテンのような素材でできたその服は丈が長く、裾は足元までたれている。全体のシルエットはゆったりとしていて、たっぷりとしたビショップ袖だった。裾と袖口には銀色のふち飾りが入り、右胸のところに銀色のマークが光っている。二つのルーン文字のような記号が交差するこのマークにどこかで見覚えがあったが、その時には思い出せなかった。服にはそれ以外の装飾はついていない。その人は左手に大きな銀色の輪のようなものを持ち、服に付属しているフードを、すっぽりとかぶっていた。フードの中から覗く顔は、まるで最高のギリシャ彫刻のようだ。
 目が合うと、その人はかすかに微笑んだ。ついと右手を上げてフードを後ろに押しやり、優美な動作で頭を振った。琥珀色と茶色の中間のような色合いの髪がまっすぐに流れ落ち、腰まで垂れ下がる。頭の両翼の髪は一房ずつ、違う色合いになっていた。目の色と同じ、エメラルドの緑。額の中ほどには、白銀の光を放つ輪がヘッドアクセサリーのようにつけられている。その輪の後ろに当たる部分には、銀色にも緑にも赤にも偏光する、翼のような揺れる装飾がほどこされていた。この人は男性だろうか、女性だろうか? 中性的な顔立ちだが、目や口元の感じが、かすかに男性らしい雰囲気を持っている。美しいのはもちろんだが、圧倒的な気品が神々しくさえある人だった。実際、僕の第一印象は、この人はイメージしているような純白の衣装も、背中の羽根も頭上の輪もないが、天から舞い降りてきた天使ではないか、というものだったほどだ。
(あなたがたがここに来たことは、決して間違いではありませんよ)
 僕は驚きのあまり声をあげ、頭を押さえた。頭の中に直接、声が響いてきたのだ。そういえば最初の声もごく耳元で言われたように感じたけれど、実際は今と同じ響きかただ。
(あなたをここに導いたのは、私なのですから)
 声はそう響きつづける。僕は衝撃のあまり、最初は言葉の意味より、その異様さに気をとられてしまっていた。唇を通した声でなく、声なき言葉が頭の中で語られる。その事実がただ、信じられなかった。
(すっかり驚かせてしまいましたね)
 再び、声なき声が聞こえてくる。空気を伝わる振動でなく、直接頭の中のシナプスを刺激して聞こえてくる声でも、そのトーンを感じることができる。柔らかい雨だれの響き。それは非常に清澄に、心地よく聞こえた。
「あっ……」
 僕は激しく瞬きし、固唾を飲んで相手を見つめた。立ち上がると、かろうじて言葉を搾り出した。
「あ……あなたは、どなたですか?」
 相手はかすかな微笑を浮かべ、僕を見ている。相変わらず唇は動かないまま、音なき声が響いてくる。
(今は、はっきりとその問いに答えることはできません。でも、あなたが想像しているような天使ではありませんよ。神の使いという意味では、たしかにそうですが、あなたがたのイメージするものとは少し違います。私たちも、もとはあなたがたと同じ人間です。あなたがたよりも発生が早かったために、地球の人々より少し進化したもの、と考えて結構です。私は神の使命をおびて、先導者の役目を果たすべく、ここにやってきました。地球の民たちが、光の子供たちの後継となれるように。私たちのたどった道を、あなたがたも行けるように。何の意味だかわからない、まるでちんぷんかんぷんだ。あなたはそう思っていますね。でも、今はそれで良いのです。私があなたの前にこうして姿を現し、お話をするのには、わけがあるのですよ。あなたは、神に選ばれた人。私の後継者としての道を歩むべく、定められた人だからです。それだけは覚えておいて下さい。あなたは約束されたことを見届けるために、今ここに生まれてきたのだということも)
「は……あ」
(覚えていますか、ジャスティン・ローリングスさん。私は以前、あなたの夢の中で会いました。声だけでしたので、会うというのは、正確な表現ではないかもしれませんが。今、ようやく姿を表すことができました)
「ああ!」
 思い出した。この声は、たしかに聞き覚えがある。そうだ……夢の中で聞く、“天の声”だ。ここへ来るきっかけになった夢の、最後の啓示も同じ響きを持っていた。ああ、だからこの人は初めに(あなたをここへ導いたのは私だ)と、言ったわけか。
(かつて私も、あなたと同じ立場にあったのです)
 その声はあいかわらず柔らかく穏やかに、頭の中に響いてくる。
(私もあなたも、従うもの、助けるものの運命のもとに生まれたのです。覚えていますか?)
「ああ、あの二元論がどうとか言う……」
(そう。あなたも私も、影の立場として生まれたのです。でも陰と陽という時、その字面の印象を鵜呑みにしないようにと、以前にも言いましたね。覚えていますか? 監督と俳優は、役割が違うだけだということを。あなたには、まだ私の言うことはわからないでしょう。でも、遠い未来にあなたと私が同じ現世で遭遇する時、あなたはすべてを知ることでしょう。その時には、お互いにまったく違う人格になっているでしょうが)
「……どういうことですか?」
(今は知らなくとも、いいことです。まだ誰も知りません。新たな世界は、光の子供たちのためにあるということを。あなたとあなたのパートナーが、新しい世代の人としては、真実を知る初めての人となるでしょう)
「僕のパートナー?」
(そうです。あなたが監督役だとすれば、俳優の役割を果たす人。適合子である、あなたの陽のパートナー。陽は光で、陰は影です。行動し、切り開くのは光の役目、見守り、助けるのが影の役目です。そう、私たちは、いうなれば裏方なのです。彼女が言ったように。あなたは私より、かなり表に出ることも多いかもしれませんが、基本的にはやはり裏方です。彼女もあなたに言いましたね。『あなたはディラスタのパレーヴィン時代だ』『ディラスタの方が楽だなって、ちょっと羨ましく思ったわ。でも、あたし裏方は性に会わないから、文句は言えないけれど』と。彼女の性格は相変わらずですが、懐かしかったです。影が表に立つ機会はそう多くないけれど、私たちは表裏一体のパートナーです。それゆえ、光は起源子となっても、完全に孤独というわけではない。影が常に存在し、見守っていますから。あなたの光はまだ現在は、この世にいませんが、これからきっと同じように育って行くはずです)
「今はいない……?」
(彼は今、生の狭間で休息しています。あと十一年ほどで、この世に再び生まれてくるはずです。パートナー同士生きる時期がずれることは、さほど珍しいことではありません。今回の生では、あなたと彼との交差期間は決して長くはないし、前回ほど緊密な関係にはならないでしょうが。今回の生においては、別のもの……起源子との関係が絡むからです。起源子は後継の影と組むことになる。それがルールです。私もそうでした。それゆえ、その生では起源子が強い光となるので、自分自身の光のパートナーとの関係は薄くなるのです。しかしそれでも、あなたは彼の後見役的な人となるでしょう。あなた方は、そう生まれついているのです。あなたが影でパートナーが光である以上、その役割分担は常について回ります。最後の時まで。長い長い年月にわたって生を繰り返すたびに、あなたがたはどこかで交差し続けるでしょう。光と影が絡み合うように。そして最後にパートナーと一対で、初めて完全なものとなれるのです。あなたがたの場合はまだほんの入り口で、そこまで到達するには、まだまだ長い時間がかかりますが。そして私たちは今、ゴールの一歩手前……)
 頭の中の声が急に混線したように乱れ、消えた。現実に聞こえる他の声が、盛んに僕に呼びかけている。
「ジャスティン、ジャスティン! どうしたの、ジャスティン。君まで変になっちゃったの? ジャスティン!」
「えっ……あっ!」
 僕は何かに無理やりぐいっと引き戻されるような衝撃を感じ、一瞬気が遠くなりかけた。目の前にロビンの顔がある。泣き出しそうな表情で僕を見上げ、両腕をつかんで、激しく揺さぶっている。僕は呆然と彼を見た。
「ロビン……?」
「ああ、よかった……正気になってくれた……」
 ロビンは嘆息するような口調だった。
「どうしちゃったのかと思ったよ。君がいきなり座り込んだから、転んだのかと思ってそばに行ったら、何かに驚いたよう顔をして、立ち上がっても、空中を見つめたまま、時々わけのわからない独り言を言っているんだもの。まるで誰かに問いかけているように……僕はまさか君までエアリィと同じように、何かおかしくなってしまったんじゃないかって心配で、本当にどうしたらいいか、わからなかったよ」
「幻……なのか?」
 僕は激しく瞬きし、強く頭を振ったあと、あたりを見まわした。誰もいない。夕暮れの草原、暗い森、ぽつぽつと点きはじめたマインズデールの町の灯り。西の丘に太陽は没し、名残のオレンジ色の光が、空を染めている。気の早い星が、二つ三つまたたいている。どこを見ても、ここにはロビンと僕の他、誰もいない。
「どうしたの、ジャスティン、本当に?」
 ロビンが心配そうに、重ねて問いかけてきた。
「なんでもないよ」
 僕は深くため息をついた。ロビンは黙って僕を見た。でもその目は(何でもないはずはないのに、僕には話してくれないのかな)と、雄弁に語っている。僕はちょっと苦笑し、もう一度頭を振ると、小道を目指して歩き出した。
「わかったよ。本当のことを言うと、僕はきっと幻覚を見ていたんだ。不思議な人が僕の目の前に現れて、テレパシーみたいに直接頭の中に語りかけてきた。いろいろなことをね。僕はその人と話していた……」
 僕は再び苦笑して、相手の顔を見た。
「ほら、信じてないだろ? だから、なんでもないって言ったんだよ」
「本当……なの、ジャスティン?」
 ロビンは明らかな驚きを浮かべて、僕を見ていた。
「本当にそんなことを、君は体験したって……」
「そうだなあ……僕が立ったまま瞬間的に寝てしまったとか、幻覚が起きるような危ない薬でも飲んでいない限りは……さもなければ、頭がおかしくなりかけているんじゃなければ、本当だったのかもしれない。僕にはそうとしか言えないよ。でも、おまえには何も見えなかったんだろ?」
「うん。何も。君のほかには。君が見たという人は、どんな人で、何を言っていたの?」
「どんな人? とにかく、すごい人だったよ。あれは、きっと紫の天使さ。紫紺のフード付きガウンを着て、銀色のヘッドアクセサリーをつけていて、明るい茶色のまっすぐな髪が腰まで届いていて、頭の両側に一房ずつ緑の毛が混じっていた。そうだなあ、その髪と目の色だと、青みがかった紫の服って、どうなんだろうなって思うけれど……実際僕は着たことはないけれど、でも不思議と、あの人には似合っていた。オーラがさしそうなくらい神々しかったしね。でも言っていることは、さっぱりわからない。ちんぷんかんぷんだった。いや、たぶん英語でもわかるように言ってくれてはいるんだろうけれど、内容は何がなんだか、さっぱりさ」
「ジャスティン……」
 ロビンはしんから心配そうな表情になった。
「本当に大丈夫? 君もずいぶん疲れているんじゃない? まさか中東かインドで、精神的な影響が来るような病気にかかったんじゃないよね、エアリィも君も」
「違うとは思うけれど、ひょっとして、そうかもしれないなあ。いや、でもそうしたら、フレイザーさんやローレンスさんだって、変になっているはずだし……十代限定というのでもないだろうから、やっぱり違うと思うよ」
 僕は再び首を振り、肩をすくめた。
 小道に復帰した僕らは南に──マインズデールの町に向かって歩き出した。
 それにしても、本当にあれは何だったのだろう。白昼夢? いや、夕方の幻覚だろうか? でも、一つだけは確信できる。あの声の響きには、はっきり聞き覚えがあると。マインズデールへ来る気にさせた夢の最後の言葉、さらには未来世界で夢の中から語りかけてきた声。そう、どちらも夢の中で聞いた。では、今も夢を見ただけなのだろうか? 立ったまま瞬間的に眠って? 僕はナルコレプシーではないし、てんかん持ちでもないはずだが。
 それにあの人は、何を言いたかったのだろう。最初の夢でも二元論がどうとか言っていたけれど、今回もそれに近いことを言っていた。光と影は役割が違うだけだと。そしてあの人は影の立場で、僕はその後継者で――ということは、僕も影か? 影は裏方だともいう。あまりもろ手を上げて喜べないのは、僕にはまだ、かの二元論が十分にわかっていないということなのだろうか? 光は行動し、切り開く。影は見守り、支える。そう、最初の夢でもそんなことを言っていたっけ。それはただ紙の裏表のように、役割が違うだけだとも。
 あの人はさらに、わけのわからないことを言っていた。(『あなたはディラスタのパレーヴィン時代』『ディラスタの方が楽だなって、ちょっと羨ましく思ったわ。でもあたし、裏方は性に会わないから、文句は言えないけれど』――そう彼女は言った)
 彼女とは誰だ? 誰がそう言っていたんだ? 僕は知っているような気がする。その言葉に聞き覚えがある。ディラスタという名前も。誰かが繰り返し、その名前を言った。それもつい最近――。
「あ!」思い出したとたん、小さな叫びが漏れた。そうだ。あの娘だ。セディフィ。彼女が言っていたのだった。まったく同じ言葉を。
『あたしは知識を得た時、ディラスタを少し羨んだわ。そっちの方が楽で良いなって』
 知識――何の知識なのだろう。それはエアリィが言っていた、『死んでも言えない』ことなのだろうか。アヴェレットとセディフィも、その知識を『とても怖い』と表現していた。エアリィも言っていた。知識が大きすぎて、まだ負いきれない、と。そのために、今の彼は内面的に混乱状態にある。それを乗り越えなければ、エアリィは元の彼に近い状態に戻ることが、できないのかもしれない。
 でもその知識の正体を、僕は知ることが出来ないだろう。今は――そんな認識もはっきりと感じた。知ることも共感することも、分かち合うことも語り合うことも出来ない。それは今の僕には踏み込めない領域なのだ、と。
 セディフィとディラスタは、パートナー同士なのだろうか。でもセディフィとは、いったい何なのだろう。あの幻影がディラスタだとしたら。光と影? あの幻影が影なら、セディフィは光――髪のせいなのか、エアリィにも光のイメージはあるが、セディフィとは彼の内なる別人格ではなく、妄想の産物でもないなら――あの幻影が彼女を知っていて、その同じ言葉を繰り返したとすれば、彼女はかつて実在した人物になるのだろうか。あの幻影とともに。そうすると、あの時出現したもう一つの人格、アヴェレットもそうなのだろうか。アヴェレットやセディフィは、遠い昔に統合されている――エアリィはそう言っていた。遠い昔に統合された彼の一部? それは、いったい何を意味するのだろう。別の自我意識? そういえば自我同士で話が出来たら面白いなんて、セディフィは言っていたが、でも、同じ時期には咲かない花? どういう意味なんだろう。
 考えはとりとめもなく巡っていく。僕が長いこと無言で歩いているせいだろう。ロビンが僕を見上げ、重ねて問いかけてきた。
「ジャスティン、本当に……大丈夫?」と。
「大丈夫だよ」
 僕は頷いた。そして強く頭を振り、考えを断ち切ろうとした。いくら考えても、答えは得られないことなのだ。少なくとも今は。
 強い風が吹いてきた。銀色の波が立ったように、草原が揺れる。闇が迫ってきていた。金色から薄い灰色に変わりつつある草原を後に、僕らは黙りこくって歩いていった。行く手に見える町の灯りを目指して。

 教会へ着くと、シスターが夕食を用意して、僕らを待ってくれていた。
「たいしたものもありませんが、どうぞ」
 シスターがすすめてくれたのは、干したタラとインゲン豆が入ったクリーム煮と、厚くスライスされた、ゆでたジャガイモ。それにくたっとしたキャベツのようなものが付け合わせてある。食べてみると、少し酸っぱい。これは――ザワークラフトだ。初めてヨーロッパ遠征に行った時、ドイツでヘッドライナーのバンドさんが僕らを食事に連れて行ってくれた。そのとき食べたのが、ソーセージとポテト、そしてこのザワークラフト。ヘッドライナーさんたちは僕たちにビールを勧め、年長の二人だけが飲んだ。僕とロビンも、「ここでは君たちも飲んでいい年齢だぞ」と言われたが、謹んで遠慮した覚えがある。ジャガイモは最初付け合わせだろうと思ったが、それにしては量が多いし、パンもないから、主食だと理解した。クリーム煮は、比較的あっさりとした味付けで、素朴だが、おいしい。ケッパーがトッピングされ、チーズが隠し味に使われているようだった。僕は最初の食べた時には、ただ、(ちょっと変わっているけれど、おいしい)と思った。でも半分くらい食べた時、(なんだか、この味に覚えがある)――そんな思いがよぎった。家では食べた覚えはないけれど。
 食後のコーヒーを飲み終わると、シスターは僕らを寝室へ案内してくれた。シスター用の居間兼食堂を抜けて、奥まった廊下の右側にある小部屋がそうらしい。向かい側はシスターの寝室だという。
 廊下の壁には、一枚の写真が飾ってあった。キャビネ版を大きく引き伸ばしたような感じの、古い白黒写真だ。廊下の電灯近くだったので、はっきりと見えた。背景に映っているのは、この教会。そこに三人の人物がいた。真中に映っているシスターは三十代半ばほどで、両側の神父の服を着ている二人の男性は、ともに四十にさしかかったくらいの年配にみえる。
 僕は思わず「あっ」と小さく声を上げた。右側の人にはまるで見覚えがなかったが、左側の司祭の顔には、はっきりと見覚えがある。未来世界の夢で、アリステアさんと語り合っていた人。そして僕が十五歳の時に見た不思議な夢──夢の中で臨終を迎えていた神父さん、その人だ。夢の記憶にあるよりも、写真の人は十歳近く若いが、はっきり同じ人だとわかる。そしてシスターも。彼女は死にゆく神父さんを見守っていた人、たぶん今目の前にいるシスター・アンネの、数十年前の姿なのだ。
「このお写真は、シスターと先代の神父さんですか?」
 僕は何気ない調子で、そう尋ねてみた。
「ええ、そうです。おわかりになりますか?」
 シスターは微笑して頷き、写真を指差した。
「もう四十年以上前の写真ですよ。左側が兄……この教会の先代であるヨハン・ローゼンシュタイナーです。真中が私で、右側の人はサミュエル・キャラダイン神父。モンクトンの教会の司祭で、兄の親友でもありました。今の神父さんは、この人の甥ごさんなのですよ。上のお兄さんの子供なのです」
「そうですか……」
 僕は不思議な衝撃に打たれ、写真を見上げた。ヨハン神父──この人はいったい、どういう人なのだろう。なぜ時々、僕の夢に現れるのだろう。母がファンだった映画俳優、アリステア・ローゼンスタイナーの養父。そういう認識でしか、僕は神父さんのことを知らない。僕の父方の祖母はドイツ系だけれど――僕の緑の目は、彼女譲りなのだそうだ。顔立ちも良く似ていると、ロサンゼルスで会ったメイヤー医師は言っていたが、祖母は僕が赤ん坊の頃亡くなったので、記憶にはない。でも祖母の旧姓はローゼンシュタイナーではなく、シュナイダーだ。似てはいるが、違う。祖母側の親戚にも、その苗字はいない。縁続きではないと思うが――。
「これは、私たちがここに赴任して、十二年目の春に撮ったものですよ。ちょうどキャラダイン神父が近くに巡回に見えて、ここまで訪ねてこられたのです」
 シスターは懐かしげな表情で写真を見上げた。
「ドイツから移住して、十四年が経った頃ですね。兄と私は終戦から半年後に、カナダに来たのです。私たちの大叔母の一家が、それより十数年ほど前にカナダに渡っていたので、私たちも移住先にここを選んだのです。大叔母たちとは直接的な知り合いではないので、接触はないですけれど」
「あなたとお兄さんが戦後ドイツからカナダに移住されたというのは、僕も存じ上げています。恥ずかしながら僕の母がアリステアさんの大ファンで、僕も伝記を読んだことがありますから」
「あら、それは偶然ですね。あなたのお母様は、まだお若いのではないですか?」
「そうでもないです。僕を生んだ時には、母はもう三十代半ばでしたから」
 僕は少し間をおいてから、続けた。
「シスターと神父様は、お二人でカナダに移住されたのですか? 他の家族の方は?」
「ええ。二人だけです。あとはみな、死んでしまいましたので」シスターは答えた。
「本当に、ひどい戦争でした。ナチが台頭してきた時から、兄も私もイヤな予感がしていたのです。名字も紛らわしいですし。ローゼンとつく名前は、アシュケナジーが多いですからね。実際、起点は私たちもそうらしいです。七、八代くらいの間にドイツ系との婚礼が相次いで、ほとんどドイツ人の家系になっていましたが……それで、なんとかドイツ人と認識してもらったようで、兄は兵隊に行ったのですが、すぐに軽い肺病にかかって除隊され、故郷で暮らしていました。でも、私たちの町は前線に近いので、戦争が激しくなってくると、イヤでも戦いに巻き込まれてしまったのです。一番上の兄ヨーゼフは戦死してしまいましたし、私の幼なじみの恋人も海兵になり、船が撃沈されて死んでしまいました。兄には結婚を目前に控えた婚約者がいたのですが、その人は防空壕で、爆弾に直撃されて死んでしまったのです。母も一緒に。父はそれ以前に空襲で家が焼けた時、倒れてきた家具の下敷きになって、逃げられずに死んでしまいました。私たちは必死で父を救おうとしたのですが、このままでは私たちも死んでしまうと、父が強く言ったのです。自分を置いて、逃げろと」
 シスターは目を伏せ、一瞬言葉を止めた後、続けた。
「私たちは泣きながら逃げて、やっと防空壕に避難したのです。兄と婚約者、母と私、その四人で。でも、運悪くそこに爆弾が転がり込んできてしまって。兄と私が助かったのが、奇跡としか言いようがなかったですよ。先に逃げてきた人がかなり……そうですね、十五、六人ほどはいたので、私たちは入り口近くにいたのが、幸いしたようです。爆発で入り口付近の天井が崩れて、私たち二人は埋まって、それで……落ちてくる土と、母と兄の婚約者の体が盾になって……二人を少しでも中にいれようと思ったのが、かえって災いになってしまったようでした。そこに避難していた人たちは、私たち二人以外、誰も助かりませんでした。家族の弔いを全てすませた後、私たちは祖国を出る決心をしたのです。神が私たちを生かしておかれたのだ。これからは神に一生を捧げ、新しい国で人々の魂の救済を祈ろうと。それで戦後カナダに渡り、カトリック修道会に入ったのです」
「えっ……」
 衝撃で目がくらみそうな気がした。シスターが話してくれた情景は、インドの高原で見た、あの夢とそっくりだ。あの夢の中の妹も、たしかにシスターだった。見覚えがあったのもそのせいだ。そして婚約者は──。
「お兄さんの婚約者さんのお名前って……もしかすると、シルヴィアさんですか?」
「なんですって!?」
 シスターは驚いたように、激しく瞬きをした。
「ええ、そうですよ。シルヴィア・ヴィータという名前です。でも、どうしてあなたが知っていらっしゃるんですか?」
「それは、僕もよくわからないのですが……その人はもしかすると、蜂蜜色の金髪で、目はブルーグレイで、色は白くて、鼻の所に薄いそばかすのある、全体にちょっと中心よりの、小作りな顔立ちじゃないですか。背はそれほど高くなく、ほっそりとしていて、髪は長く、お下げに編んで頭に巻いたヘアスタイルで、首の横に小さな赤い蝶のようなあざのある人では」
「ええ、ええ……そうです。本当にその通りですよ!」
 シスターはますます驚きの表情で頷き、繰り返し問いかける。
「でも、どうしてあなたが彼女のことを、知っていらっしゃるのですか?」と。
「よくわからないんです」
 僕もそう繰り返すしかない。
「でも、二、三回ほど、ヨハン神父さんとその婚約者さんの夢を……たぶんそうなんでしょうけれど、見たことがあるんです。なぜかは、よくわかりませんが……だって僕は、神父さんのことは、何も知らないですから。アリステア・ローゼンスタイナーさんの養親、ということで、お名前は知っていましたが。さっきも言いましたが、母がアリステアさんのファンで、僕も伝記を読んだことがありますから。でも……特に半月ほど前にインドの高原に行った時、そこのキャンプ場で見た夢は、ものすごく生々しい印象でした。戦争中で、兄と妹の婚約者が戦死し、父は崩れた家の下敷きになって助けられず、僕自身も除隊された、そんな状況の中、四人で……母と妹と婚約者と僕で、防空壕のようなところに避難するんですが、やっぱりそこには十何人かの人がいて、僕らは入り口近くにしかいられなくて、少しでも僕は女性たちを中に入れようとしたけれど、妹は出てきて……そこに爆弾が転がり込んで爆発して、でも妹と僕は入り口に近いところにいて、天井が崩れて土の中にすっぽり埋まったおかげで助かった。そんなストーリーでした。夢で土の中から外へ出た時、僕は気づくんです。右手は、ずっと恋人の手を握り締めたままになっているって。だけど、本当に手だけなんです。腕の途中で切れていて……。母と恋人の安否は、その時にはわからなかったのですが、恐ろしい予感がして、夢の中で叫んでいたんです。シルヴィアって。でもそんな名前の女性に、知り合いはいないんです。だから不思議に思って。さっきあなたがおっしゃっていたお話と、ほとんど同じような状況だったから、ひょっとして同じ人なのかと……」
「おお……あなたは、やはり……」
 シスターは、まじまじと僕を見つめた。その視線は僕の頭のてっぺんからつま先までゆっくりと動き、最後に再び僕の目を凝視する。ついで目頭に手を当て、うつむいていた。
「やはり、そうだと思っていました。あなたは、兄さんと同じ目をしているから……その目を見て、兄さんを思い出していたんです。まるで若い頃の兄さんと話しているような気がして……懐かしかったのも、無理はないですね。本当に、すぐにやってきてくれて……」
 シスターの目は涙で潤んでいた。僕の両肘のあたりに手をかけ、懐かしげに見つめてくる。僕も彼女の言わんとしている意味がわかった。だがわかっても、戸惑うばかりだ。本当か? 冗談だろう。僕が神父さんの生まれ変わりだというのか――? 輪廻転生なんて、本当にあるかどうかも、わからないのに。
 シスターも僕の当惑がわかったらしい。微笑を浮かべて手をはずした。
「そうでしょうね。そんなことを言われても、あなたにとっては、戸惑いを覚えるだけでしょう。忘れて下さい。でも私はあなたに会えて、本当に良かったと思っています。約束通りだったのですね」
「約束?」
「ええ、兄が最後に言ったのです。私はすぐに戻ってくる。すべてを見届けるためにって」
 僕は言葉を探したが、上手く見つからなかった。
「ああ、そんなことを言っても、あなたを困らせるだけですね。本当に忘れて下さい」
 シスターは笑顔で、そう繰り返した。
「ええ、そうします……」
 僕は頷いた。笑顔を作ろうとしたが、少しぎこちないものになったと思う。
「では、おやすみなさい。狭い部屋ですが、勘弁してくださいね」
「いえ、とんでもない。本当にありがとうございます。おやすみなさい」
「それと、洗面所と手洗いは廊下の突きあたりですから」
「わかりました。ありがとうございます」
 僕らは寝室に引き取った。たしかにあまり広くない部屋だけれど、きちんと整えられている。窓にかかった水色更紗のカーテン、同じ素材のベッドカバー、木製の書物机と椅子。机の上の灰色の小さな一輪挿しに、ひまわりの花がいけてある。きっとシスターが飾っておいてくれたのだろう。ベッドは一台しかなかったので、臨時用ベッドとして、窓際のソファの上に、オレンジストライプのカバーがかかった枕と、花柄の毛布が二枚置いてあった。どっちがベッドを使い、どっちがソファを使うかでしばらくロビンと譲り合った末、公平を記してくじ引きで決め、結局僕がベッドを使うことになった。
 たぶんこの部屋で、アリステアさんやアグレイアさんは育ったのだろう。エアリィもマインズデールに来る時には、ここを使っているに違いない。この部屋の机には、さまざまな年代を重ねたような、たくさんの落書きがしてあった。三代でこの部屋と机を使っていた、その年輪なのだろう。ただ、部屋の様相はその持ち主によって変わっていたに違いない。この水色系のインテリアは、エアリィの好みだろうか。アグレイアさんの時代には、ピンクの花柄だったのかもしれない。アリステアさんは……何色が好きだったのだろう。あの人が昔使った部屋に今僕がいると母が知ったら、感激するだろうな……。
 そんなたわいもないことを思いながらベッドにもぐりこむと、どっと眠さを感じた。いろいろと、不思議なことがありすぎた一日だった。深く考えると、混乱して僕まで正気をなくしそうな気がする。もう考えるのはよそう。僕らにとって一番重大な問題は、アーディス・レイン・ローゼンスタイナーが元の彼に――完全に戻ることは不可能だと彼は言ったが、それに近い状態に戻り、バンドに復帰してくれるかどうかだ。エアリィは時間をくれと言った。そして――そうだ。インドの寺院で出現した彼の中の超人格も、最後に同じようなことを言っていた気がする。『時間をください』と。僕らに出来ることは、信頼して待つことだけなのだ。

 僕は夢も見ずに眠り、目がさめた時には、朝の八時を過ぎていた。シスターは教会の庭を掃除していて、居間のテーブルの上にゆで卵とパンの籠が、布巾をかけて置いてあった。それにインスタントコーヒーの瓶と、お湯の入ったポット、それにカップが二つ、ミルクと砂糖が用意してある。僕らはコーヒーを作って(少し濃すぎたが)、朝食を取り、お世話になったお礼に掃除や庭の草むしりを少し手伝ってから、教会を後にした。宿代と食事代としていくらか置いてこようと思ったが、シスターはどうしても受け取ろうとしない。それでも僕らは寄付という名目で、いくらか渡すことには成功した。キャラダイン神父はその夕方に帰ってくるらしく、僕らの滞在中、ずっとシスターひとりだけだった。
「私も年ですから一人で大丈夫かと、神父さんは心配していたのですよ。あなたがたが来て下さって、かえって助かりました」
 シスターは別れ際に、笑顔で言った。そしてつと僕の手を握り、再びまじまじと見つめながら言葉を継ぐ。
「また、ぜひいらしてください。でも、たぶんちゃんとお会いできるのは、これで最後のような、そんな気がしますが……私はあなたにお会いできて、本当によかったと思っています、ジャスティン・ローリングスさん」
「あ……ええ、僕もです。本当にありがとうございました。また機会がありましたら、ぜひお邪魔させてください」
 さすような熱っぽい視線に、いくぶんくすぐったさを感じながらも、奇妙な郷愁と切なさを覚えて、僕も強く、といっても相手が痛くない程度にその手を握り、微笑を浮かべた。
「ではお気をつけて、あなたもお連れの方も」
 シスターも微笑し、僕らに向かって手を振った。

 僕らは教会をあとにし、もと来た道をたどり始めた。
「シスター・アンネは、ずいぶん君のことを気に入っていたみたいだね、ジャスティン」
 メインストリートを歩いている時、ロビンがそう切り出してきた。
「前世では、僕らは兄妹だったらしいからね」
 僕は肩をすくめ、半分冗談のように言おうとした。さらに冗談めかして、言葉を続けた。
 「まさかシスターに嫉妬したとか、自分が省みられないから落ち込んだとか、そんなことを言うんじゃないだろうなあ、ロビン」
「まさか! 違うよ。やめてよ、ジャスティン!」
「はは、冗談だよ。本当に、おまえも成長したな、ロビン。ロスの病院で落ち込んでいた頃に比べてさ」
 僕は相手の背中をぽんと叩いた。
「うん。僕はもうあの頃の、うじうじした僕じゃないつもりだよ。あの時君の言葉でかなり吹っ切れたし、それにそれからも、いろいろあったしね」
「そうだな。昨日草原でエアリィにいきなりハグしにいった時には、本当にびっくりしたよ。おまえは僕にだって、めったにあんな行動はしないからな」
「うん。自分でも、あとでびっくりしたよ」
 ロビンは少し恥ずかしそうに笑った。
「でもあの時には、思わず身体が動いたんだ。あんな彼は見たくないって思った。本当に別人みたいで、放っておいたら、どこか手の届かないところへ行っちゃいそうで……理想であり続けて欲しい、っていうのは僕の勝手な期待だけど、でも以前のエアリィに戻って欲しいって、本当に思ったんだ。昔のように僕ら五人でいたい、ずっと……って」
「おまえはあの時、一番適切な行動をしてくれたんだと思うよ。エアリィをこっちへ引き戻すために。僕はおまえと一緒に来られて、よかったと思う」
「うん……そうなら、本当に良かったけど」
 ロビンは少し照れたような笑みを浮かべ、僕を見上げた。
「ジャスティン、君はもちろん一番の大親友だけど……でも、やっと完全にわかった気がするよ。ロスの病院で、君が言っていたこと」
「本当に、良かったよ」僕は頷いた。

 駐車場へ行く前に、僕らは町の食堂でホットドックとコーヒーの軽食を取ってから車に乗り、フレデリクトンへ向かった。その道中で、ロビンは口を開いた。
「マインズデールの町って、きれいなところだったね。感じがスイスの小さな村みたいだ」
「ああ、それはあるかもな。僕はスイスの方は、実際に行ったことはないけれど。去年のヨーロッパツアーは、イギリスとドイツとオランダと、北欧だけだったしな」
「そうだね。あの人たちが人気だったエリアが、そのあたりだったんだろうね。僕は小学生の頃、一度スイスへ行ったことがあるよ。家族で。いつもは母さんの実家の農場へ行っていたんだけれど、その年には行けなくなって、その代わりにって」
「ああ、そういえば一度、夏にヨーロッパ旅行へ行っていたな、おまえのうちは。小学校……四年の終わりの夏休みだっけな。僕は五年だったけれど」
「うん。君が飛び級してしまって、僕がクラスで一人ぼっちになってしまった、あの頃だよ。あの時には、僕は旅行には行きたくなかったんだ。一ヶ月もなんて。君のうちも避暑には行くけれど、二、三週間で帰ってくるし、学校では行き帰り以外会えないから、せめて休みの日には、君に会いたかったんだけれど」
「でも、楽しいだろ、家族の旅行も。しかもヨーロッパだなんて、豪勢だな。さすがに大会社の社長一家だけあって」
「まあ……少しは楽しいこともあったけれどね」
 ロビンは微かに肩をすくめる。そしてしばらく黙った後、小さく言った。
「でも、あのあたりは沈んでしまうんだよね、未来では……」
「えっ?」
 僕は再び忘れようとしていた未来の記憶を呼び戻され、問い返した。
「ヨーロッパがか? 残っていた気がするが」
「ううん、マインズデールだよ。沿海州は半分くらい、沈んでしまうんだ。海の中へ」
「そうだったか……」
 僕は未来世界で見た二つの地図を思い出そうとした。
「でもおまえ、良く覚えているな。その辺の細かい違いを」
「いや、僕はエアリィじゃないから、見た瞬間に地図を記憶しているわけじゃないよ。図書館の文献で、読んだだけなんだ。新世界で。歴史は見てないけれど、地図と解説を見ていたら。沿海州の海沿いの方は、かなり沈んでしまった。マインズデールも。でも、ランカスター草原の場所が、直径八百メートルほどだけ、あの木を中心に隆起して、海の中から出ている。島になって。そう書いてあったんだ。その木は、新世界の象徴として祭られているらしいんだ。そこで、あ、これももしかしたら歴史に触っちゃうかもしれないって気づいて、やめたんだけれどね」
「そうなのか。そんなにピンポイントで残ったのか」
 僕はある種の感嘆を覚えた。新世界にもあの木が残っているなら、もう樹齢四百年を越える大木になっているだろう。でも、なぜこの木が、新世界の象徴になるのだろうか? 周りが沈んだ中に唯一残ったものだから、なのだろうか。
「でもね、それはともかく、僕はまだ、いろいろよくわからないんだ」
 ロビンはしばらく黙った後、再び口を開いた。
「結局、何がどうなったのか、エアリィがなぜ、ああなってしまったのか。モンスターの覚醒っていうのは、わかる気はするんだけれど、それが具体的になんなのか、どうなるのか……僕はそういうことには縁のない凡人だから、見当もつかないんだよ。おまけにシスターは不思議な話ばかりするし、君まで妙な幻想を見たって言うし……ああ、本当に僕はその不思議の領域には、縁のない人間かなって思えるよ。エアリィや君には、ある種共鳴する、その不思議領域がある、たぶんね。でも、僕にはない。昔の僕だったら、いじけたかもしれないね。でも今はただ、僕にも知ることができたらよかった、残念だな、と思うだけになったよ。ちょっと悲しいけれどね」
「いや、僕だって、よくわからないさ。そういう点、おまえとそう変わりはないよ」
 僕は軽く肩をすくめ、首を振った。
「それにわからないことなら、深く考えたくはない。そう思うよ。今回のことも、出来るだけ理性的に考えた方がいいように思うんだ。たぶん僕も慣れない土地を旅行してきたために、ハイテンションになった、それだけのことだと思う。エアリィにしたって……まあ、フレイザーさんがおっしゃることは、僕も理解は出来るけれど、おまえと同じで、それがなんなのか、どうなるのかは、わからないよ。僕にも縁のない領域だろうから。でも、どっちかといえば、エアリィはミックが言ったみたいに、今までの環境を乗り越えようと無理しすぎて、心理的なひずみが溜まったところに、トレーニングと異国の環境がストレスになって……あいつのトレーニングは本当に限界ぎりぎり、いや、それ以上だったらしいから、それで精神バランスを崩した。そう思った方が、無難な気がするんだ。だけど幸いにも、それは一時的な錯乱で、時がたてば回復するものなんだろうと。シスターの話だって冷静に考えれば、きっと理論的な謎解きができるんだろうし、真相は案外単純なものなのかもしれない。それに生まれ変わりの話なんて、確かめようがないしね。単なる偶然が重なっただけっていうことだって、あり得るんだ。だからおまえも、あまり深く考えない方がいいかもしれないな、ロビン」
「うん。いろいろ納得はできないけれど……そう思ったほうが、いいのかもね」
 ロビンは微かに首を振り、小さくため息をついた。
「君の言うことは、わかるよ。ああ、ジョージ兄さんだったら、絶対そう考えるに違いないしね、ジャスティン。現実的に考えたほうがいいって……」
「そうさ。おまえがSFやオカルト好きなのはわかるけれど、そういうことを現実に持ち込みすぎることは、ある意味危険だと思うんだ。極力、理論的に考えて、あとは気にしないことだな」
「うん……」
 ロビンは頷き、しばらくのち、再び首を振った。
「そうだね。考えたって、僕にはわからないことだから」
「そう。僕もそうだよ。だからもう、僕は考えないことにしたんだ」
「うん。本当に……僕も、できるだけもう、考えないようにするよ」
 ロビンは再び頷く。僕らはしばらく黙った。

 カーステレオはロック局にチューンしてある。ラジオなんて、僕の好みとは程遠い。そう思い、デビューするまではほとんど聞いたことがなかった。でもロードでの移動の時間が増えていくにつれて、お気に入りのCDをかけていることもあるが、BGM的に音楽が欲しい場合に、聞くようになった。時々自分たちの曲もかかるし、何も音がないと、少し寂しく感じることもあるからだ。
 次々とかかる曲を、僕はほとんど聞き流していた。今の音楽シーンには、特にメインストリームと呼ばれる、メディアでよくかかるような音楽には、ほとんど刺激や魅力を感じてはいない。だからこそ、自分たちが聞きたいと思う音楽を目指してバンドを作ったのだ。
 曲が変化した。同時に僕らは「あっ!」と小さな叫びを上げた。カーステレオから流れてきたのは、僕らの曲『Take into the Flame』──セカンドの中では一番気に入っていて、スマッシュヒットもしたチューンだ。軽い震えを感じながら、僕は聞き入っていた。

 君を縛るもの/君を傷つけるもの/君を悩ませるもの
 それは終わりのないゲームになっていく
 君を閉じ込める檻/君を捕らえる怒り
 それが君を阻む障壁
 炎の中に投じてしまえ

 妬み、欲望、怒り、フラストレーション
 侮辱、悪意、虚無感、そして絶望
 無知、皮肉、暴力、そして孤立
 怠惰、裏切り、苛め、そして疎外感

 君を落ち込ませるものは多すぎて
 同じ状態に君を縛り付けてしまう
 でもそれは意味のない棘に過ぎない
 炎の中に投じてしまおう

 そういえば、この曲の歌詞は青臭いと、あのプロデューサーには言われたのだったな。それに対しエアリィが『僕も年齢的にはミドルスクールですから』と肩をすくめ、『そう、君は十五なんだな。本当に若いな』とプロデューサー氏は、少し残念そうなトーンで言っていた。その裏の意味を考えると、悪い意味で鳥肌が立つが。
 これは無事な三曲のうちの一つ――イントロを短くし、少し構成を単純化して、リフレインを多めにしたが、それほど妥協はせずに通せた曲だ。これと『Round and Round』、そして『Silent Cry』この三曲だけは。
 ロビンもじっと聞き入っているようだったが、曲の間奏に入ったところで、かすかに笑みを浮かべた。
「この曲、いいよね。セカンドの中で、一番好きだ。それに僕、エアリィの歌は好きなんだよ、最初から。気持ちが浄化されるような声だよね。響きがきれいで、優しくて、でも力強い」
「ああ」僕は頷いた。
「昔、言ってたよね、ジャスティン。まだ僕らが四人だったころに。前線のパートナーが欲しい。言葉とメロディを持った声の方が、遥かにリスナーに届くからって。僕も本当に、それは正しかったと思うよ。それに、僕はやっとわかった。彼の言葉は経験に裏打ちされた、本心からの思いなんだって。だから、聞き手の心に届くんだ」
「ああ……そうだな」僕は深く頷いた。そして続けた。
「だから、もうインストバンドには戻らない。戻る気はない。ミックが言っていたっけ。僕がエアリィに出会った前の日の練習で。インスト四人じゃ、不完全だっていう気がする。最後のピースがはまれば、このバンドは完全なものになるって。本当に、その通りだったと思う」
「そうだね、本当に……」ロビンも頷いていた。
 曲は後半のリフレインに入り、ロビンは小さな声で一緒に歌いだした。

 僕を縛るもの/僕を傷つけるもの/僕を悩ませるもの
 そんな終わりのないゲームはもうやめよう
 僕を閉じ込める檻/僕を捕らえる怒り
 それが僕を阻む障壁
 炎の中に投じてしまえ
 炎の中に投げ込め
 そして、すべて焼き尽くすんだ……

 ん? 歌詞はyouだが――エアリィもそう歌っているが、ロビンはmeになっている。ああ、そうか――僕は運転を続けながら、二人のデュエットを聞いていた。ラジオから流れる声と、隣から聞こえる声。フルコーラスで流してくれた、ラジオ局に感謝しよう。
 曲の終わりにかぶさって、DJが言った。
「ハイ、ハリファックスに住むアリス・ミラーさん、十六歳からのリクエストでした。こんなメッセージを頂いています。『セカンドはちょっと中途半端かな、普通のバンドっぽくなってしまったな、と思ったけれど、好きな曲もたくさんあります。運の悪いアクシデントでツアーがあっという間に終わり、それ以来目立ったニュースを聞きませんが、でもきっとこんなことではめげないで、次のアルバムで復活してくれると信じています。セカンドでは、この曲が一番好きでした』そうだねえ、AirLace、がんばって欲しいねえ、ぜひ。カナダロック界の、期待の星だからね。僕もデビュー盤のほうが好きだったけれど、まあ、若いということは、いろいろ試行錯誤もあるからね。次は、いつ頃出るのかな。アリスだけでなく、気にしているファンはかなり多いと思うよ」
 一瞬の間の後、番組は別のアーティストの曲へと移った。僕は手を伸ばし、カーステレオを切った。我知らず、呟きが漏れた。
「僕らはまだ、これからなんだな。がんばらなきゃ、本当に……」
「うん。絶対このままでなんか、終われないね」
 ロビンが強い口調で同調した。
「ああ、絶対次は納得の行く、いいものを作ってやる。全力で」
 僕はハンドルをぎゅっと握り締め、頷いた。




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