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その日の午後、ロブに空港まで送ってもらって、ロビンと僕は沿海州へ向けて発った。夕方七時ごろ、ニューブランズウィックの州都、フレデリクトンに着いた。そこからマインズデールまでは、車で約三時間弱かかるという。知らない夜道、しかも途中からは、かなり何もないという道を走る勇気はなかったので、僕らはトロントを発つ時に予約しておいたホテルに一泊した。翌日の朝九時に、レンタカーを借りて出発。お昼すぎに、僕らは目的地に着いた。
マインズデールはニューブランズウィック州の中央部に位置する、人口二千人程度の小さな町だ。鉄道は通っていず、州を通る大きな道路から外れた枝道沿いのため、車だけが頼りだ。公共の交通手段は、モンクトンやフレデリクトンとの間を結ぶバスが一日に二、三便通るだけ。アリステア・ローゼンスタイナーの最盛期や死後十数年ほどは、彼の聖地として熱心なファンたちが、交通の不便さを押して大勢やってきたらしいが、今は訪れる人もそれほどは多くないと聞く。
駐車場を探して車を停め、近くにあった小さな食堂で昼食を取ったあと、僕らはメインストリートを歩き出した。郵便局、銀行の出張所、会社の小事務所やいくつかの商店、スーパーマーケット、住宅。建物はクリーム色や明るいベージュに塗られ、バルコニーで栽培されている赤やピンクの花々が色取りを添える。メインストリートの両側には、ポプラの街路樹が十メートルくらいの間隔で植えられていて、その間は花壇になっていた。
まるでお菓子箱のように、きれいで小さなこの町に来るのは、もちろん初めてだ。でも通りを歩いているうちに、僕は妙な郷愁におそわれた。ここに来たのは初めてではないような、そんな感じが強くする。それに僕は教会の所在地を、正確には知らない。現地へ行って携帯電話の地図を開いてみればなんとかなるだろうと、そんな気でいたのに、実際に町へ着いてみると、なんとなく道がわかるような気がした。メインストリートを町役場の方角に向かって歩き、マーケットの角にある交差点を左へ。それから五分ほど歩いて橋を渡り、四つ目の角を右へ。そこからまっすぐ行けば、やがて左手に見えてくるはず──。
あまりに僕が迷いなく歩いていくので、ロビンは不思議に思ったのだろう。
「ジャスティン、君はマインズデール教会を知っているの?」と、聞いてきた。
「いや……知らないと思う」僕は首を振った。
「存在は知っていたけれどね。母さんがアリステアさんのファンだったから、僕もバイオを読んだことがあるんだ。マインズデール・カトリック教会は、アリステア・ローゼンスタイナーのファンなら、知っていて当然の場所だよ。でも、母さんは実際に行ったことはなかったんだ。僕も当然そうだよ」
「そう。エアリィから場所を教えてもらったこともないよね。地図を見ているわけでもないし。あらかじめ調べたわけでもないみたいなのに、君はまるで道を知っているみたいに、ずんずん行くんだもの。ちょっと驚いたよ」
「僕もびっくりしているよ。でもなんだか、すごくおぼろげに覚えているような気もするんだ。不思議だな。夢ででも、見たんだろうか。もう、そろそろ見えてくるはずだよ」
やがて、木製の柵に囲まれた教会が視界に入ってきた。その外観を見たとたん、僕は思わず足を止めた。同じだ。壁は明るいグレーに塗りなおされ、十字架も新しく金色に塗られたようだが、そのたたずまい、モスグリーンの屋根、ステンドグラスのはまった窓、庭の雰囲気。夢で見た教会そのままだった。ただ夢で見たものより、かなり時を経ている、そう感じられるだけで。
僕は気をとりなおし、中へ入っていった。礼拝堂には誰もいない。夢で見たと同じように手入れの行き届いた花壇に、同じ夏の花が咲いている。芝生を踏んで建物を回ると、裏庭は墓地だ。そこは夢の風景とは、いくぶん雰囲気が変わっていた。中央近くに鮮やかな赤いバラと白い百合が植えられた、ひときわ目立つ墓がある。僕たちはその前に行って、碑文を読んだ。
【アリステア・ジョン・ローゼンスタイナー ここに眠る。
一九四八〜一九八五 三七才没
【人生は一本の映画である】』
その隣に、ピンクのトルコ桔梗が植えられている小さな墓があった。
【レナ・メイアリング・ローゼンスタイナー ここに眠る。
一九四七〜一九七六 二九才没】
こっちはアリステアさんの奥さんのお墓だ。この人は思春期になってから両親を亡くし、それ以降はこの教会を手伝いながら一緒に暮らしているうちに、アリステアさんと恋に落ちたという話だった。元々心臓が弱く、アグレイアさんを産んで一年足らずで世を去ったと、伝記本に書いてあった記憶がある。こちらには何も碑文は書いてなかった。
僕たちはそれほど広くはない、手入れの行き届いた墓地を歩き回った。ある墓の前まで来た時、僕は再びぎくりとして足を止めた。崩れかけた灰色の石、その墓標はほとんど消えかけているが、それでも途切れ途切れにこう読める。
【ジョナサン・セオドア・ランカスター ここに眠る】と。その下の碑文は、人生と家族、そしてかろうじてその残った綴りから『失意』だと判別できる言葉しか読めない。でも、これは同じお墓だ。夢で見たものは真新しかったが、それからかなりの年数が経っているという違いがあるだけで。僕は何か得体の知れない戦慄を感じて、その場を離れた。
さらに歩くうち、片隅に灰色の石でできた小さなお墓を見つけた。この教会の先代神父であるヨハン・ローゼンシュタイナー師(これが本来のドイツ語読みの姓だ)のものだ。英語読みではジョン・ローゼンスタイナーとなるこの人は、しかし自分からそう名乗ることはなく、ずっとドイツ語読みで通したため、村の人々からもヨハン神父と呼ばれるようになったらしい。
アリステアさんの養父ということで、通のファンにはある程度そのプロフィールを知られているヨハン神父のことも、母の蔵書であるアリステアさんのバイオグラフィーに書いてあった。彼は世界大戦後、妹とともにカナダに渡り、カトリック修道会に入った後、ここで初代マインツ神父さんの跡を継いだ人らしい。ヨハン神父はアリステアさんが亡くなる九年前に、急病で世を去ったという。一緒に来た妹、アンネ・マリア・ローゼンシュタイナーは(この人も英語風にアン・マライアとは、決して名乗らなかったらしい)、神父さんの死後もシスターとして教会に留まり、司教はヨハン神父の親友だった人の甥が継いだらしい。
ヨハン神父のお墓には、こんな碑文が刻まれていた。
【私はまた戻ってくる。すべてを見届けるために】
この言葉にも聞き覚えがある。僕はずきっとした感覚を覚えた。まるで急に鋭い稲妻が突き刺さったような。ちょうどその時、僕らの背後から聞こえた声のせいかも知れない。
「何かご用ですか?」
微かにドイツアクセントが入った、低い、はっきりとした威厳のある声だった。
「あなたがたは、お墓参りに見えたのですか? それとも神父さんにご用ですか? でもあいにくと、キャラダイン神父は不在ですよ。近隣の村へ巡回出向中なのです。神父さんは明日の夕方、お帰りになる予定ですよ」
振り返ると、グレーの法服に身を包んだ尼僧が立っていた。まるで気配を感じさせないで、僕らの背後まで来ていたのだ。ベールの下の顔には深いしわが刻まれ、相当な年配のようだけれど、顔立ちは上品に整っている。きっと若いころは、かなり美しかったのだろう。澄み切った灰色の瞳には、驚くほど若々しい力がこもっていた。その眼差しは慈愛に満ち、なおかつ衰えぬ鋭さを感じさせる。その顔に、僕は見覚えがあった。エアリィの部屋で見た写真に写っていたシスター。この人がきっとアーディスの母親の後見人、そして先代神父さんの妹である、シスター・アンネ・マリアに違いない。
「あなたがたは、この町の人ではありませんね」
彼女は僕らに視線を据えたまま、言葉をついだ。
「初めて見る顔ですもの。どちらからいらしたのですか?」
「はじめまして。突然うかがってすみません」
僕は礼儀を思い出し、自分たちの名前と、トロントから来たことを告げた。
「ああ、そうですか。わかりました。あなたがたはアーディスのお友達ですね」
「ええ、そうです。それに、同じバンド仲間です」
「そうですか。先日、トロントのマネージメント会社の方から、お電話がありました。アーディスがどこかへ行ってしまったので、心当たりがあったら教えて欲しいと。それから二日後に、マネージメントの関係者とおっしゃる方も、お見えになりました。あなたがたも、あの子を探しに見えたのですか、こんなところまで?」
「ええ、そうです」
「でも、あの子はここには来ていませんよ。なにも連絡はありませんし。マネージメントの方々にもそう言いましたが、あなたがたは聞かれなかったのですか?」
「ええ、それはわかっています。でも、僕らはちょっとでも彼の手がかりを知りたいんです。ここはエアリィ、いや、アーディスが生まれたところだし、あなたは彼のお母さんの後見者だったとも聞きました。彼自身のことも、小さい頃から知っている方だと。だから僕らが知らないことでも、何かわからないかと思って、来てみたのです」
「……アーディスもいいお友達を持って、幸せですね」
シスターはかすかに微笑した。
「ええ、私はあの子がごく赤ん坊の頃から知っていますし、母親が仕事で面倒を見られない時などに、時々何ヶ月間か預かっていたこともあります。正確に言えば、ここはあの子が生まれたところではありませんけれどね。実際あの子がどこで生まれたのかは、誰にもわからないのですよ。私はあの子の母親アグレイア、その父親アリステアと二代に渡って育ててきましたし、アリステアが亡くなった後は、アグレイアの後見人にもなりましたが。アーディスはステュアートさんが後見人になってくださっていますがね。ええ、あまりお役には立てないかと思いますけれど、あの子について私の知っていることを、あなたがたがお知りになりたいのなら、お話してもいいですよ。こちらへお入りになってください」
彼女は教会に隣接した司祭館の横手にある小さなドアを開けて、僕らを招き入れた。
「ここは私用の居間なのです。その椅子におかけになってくださいな」
二人がけのソファにはクリーム色の地にスミレの花を散らした、比較的新しそうなカバーがかけてあった。シスターは奥に(たぶん台所だろう)行くと、すぐに戻ってきて、自分も向かい側にある肘掛け椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、作りかけのパッチワークの作業かごが置いてある。彼女はそれを取りのけ、窓際に置いた。
「今、お湯をかけて参りましたから、お茶はもうしばらく待ってくださいね」
「いえ、お構いなく。僕らはお客さんではないですから」
僕はあわてて手を振った。
「どんなことが、お知りになりたいのですか?」
シスターは灰色の目で僕らを見守りながら、きいてきた。
「でもその前に、私からも一つ聞いていいですか? あなた方の所属している音楽事務所の方は、アーディスの所在がわからず、連絡も取れなくて困っているので、心当たりはないかとおっしゃったのですが、そのお電話があって、もう十日以上たちます。あなたがたがここへ探しにいらっしゃっているということは、あの子はまだ所在不明なのですね。私は、それがどうも腑に落ちないのですよ。あの子らしくないのでね。アーディスという子は、あまり深く考えないで行動することがあるのは認めますが、みなさんが心配して探しておられるというのに、十日以上も連絡しないということは考えられません。一日二日なら、そこまで気が回らなかったということもありますがね。忘れっぽいということではないのですが。実際、あの子は忘れませんしね、何事も。ただ、他のことに強く気が行っている時には、それ以外のことが、意識から抜けてしまいがちになるようです。でも、あの子は少なくとも無責任ではないですから、そこまで時間がたてば、いくらなんでも気がつくでしょう。ですから、何かよほど特別な事情があるのか、それが気がかりなのです。あの子は、どういうふうにいなくなったのですか?」
「それなんですけれど、実は……」
僕は頷くと、これまでのいきさつをかいつまんで話した。
「まあ……」 シスターは驚きの表情になり、ついでため息をついた。
「そうですか。まあまあ、そんなことが……でも、あの子にはたしかに、なにか不思議な雰囲気がありましたからね。そもそもあんな尋常でない生まれ方をした子だから、ちょっとくらい普通でない点も、あっても不思議ではないのかもしれませんけれど」
「尋常でない生まれ方……ですか?」
「ええ。本当に不思議な話なのです。そもそもあの子の父親はいまだにどこの誰かわからず、誕生日も正確かどうかわからないということは、知っていますか?」
「ええ。お父さんのことは、お母さんが記憶喪失になったから、わからないって……それは聞いています。なぜそうなったか、という詳しい事情は聞かなかったですが」
「そうですか。話せばいろいろ長くなりますが……実は、あの子が生まれる一年前に、母親のアグレイアが、突然失踪してしまいましてね」
「ああ、そういえば、ミュージカル監督のジーノ・フレイザーさんが、言っておられました。アグレイアさんは売り出し中の、一番大事な時期に失踪したって。そのことですか?」
僕はふとあの夜の講師たちの会話を思い出し、問い返した。
「ええ。そうなんです。その方も、私は知っていますよ。アグレイアが行方不明になった時、何度もここを訪れてこられて、お話もしたことがありますから。ええ。本当にあれは不可思議な失踪でした。そのこともあったので、今度アーディスがいなくなったと聞かされた時、私は内心では、あの子の母親のように消えたのかと、思ってしまったくらいでしたよ」
シスターは遠くを見るような目で語り出した。
「あれは今から十何年か前の六月、そうですね……アーディスが十六なのだから、十七年前ですね。アグレイアは五月に二十歳になったばかりでした。その三、四日前からここに帰ってきて……あの娘の母親はあの娘が赤ん坊のころに亡くなったので、私がずっと母親代わりとして育てたのです。あの娘の父親同様に。アリステアは忙しい身ですし、ハリウッドはあまり子供向きの環境とは言えませんからね。アリステアが亡くなってからは、本当にここがあの娘の家になりました。アグレイアは十六の時、ミュージカルスクールに入るためにニューヨークへ出ていきましたが、それからもときおり帰ってまいりましてね。あの時もそうでした。七月からの舞台で大きな役をもらったと言って、喜びと期待にあふれていましたよ。それが、明日はニューヨークに帰るという日の午後――それは美しい日でした。お茶のあと、あの娘は陽気に誘われるように、ランカスター草原に散歩に行ったのです。この町のはずれにある、かなり大きな草原ですが、その季節は花盛りでしたからね。アグレイアは一人で出かけました。今も、はっきりと覚えていますよ。白い小花を散らしたローズ色プリントの半袖ワンピースに白いレースのショール、髪は服と共布のリボンで一つに束ね、素足に白いサンダルという軽装でした。近くへ散歩に行くのですから、もちろん何も持っていきはしませんでしたよ。お金も貴重品も着替えも、何一つ。『行って来ます。すぐ帰ってくるから。いっぱい花を摘んでくるわ。そうしたら、ダイニングのテーブルに飾りましょう』と明るい声で言って、前の道を草原に向かって歩いていきました。でも、それきりあの娘は、いなくなってしまったのです。夜になっても帰ってこないので、私もキャラダイン神父も心配して、探しに出かけました。草原に一本だけある木の下に、摘みかけの花束とあの娘が髪につけていたリボン、それにサンダルの片一方が落ちていました。他には何も変わったところはありません。あの娘が煙のように消えてしまった以外は。まるで、神隠しにでもあったようでした。もちろん私たちも、ブロードウェイの関係者の方たちも、方々手を尽くして探したのですが何の手がかりもなく、まったく行方はわかりませんでした。舞台は代役の方が演じることになり、その夏は終わりました。秋が過ぎ、冬が訪れても、あの娘は帰ってきませんでした。春になるころには、このまま帰ってくることはないのではないかと、私たちも半ばあきらめかけていたのです。昔もその向こうの森で神隠しのようなことがあって、ついに発見されなかった事件がありましたしね」
シスターはそこで一息入れてしばらく黙り、また話し出した。
「それが忘れもしません。ちょうど一年後の夜でした。夜中に目が覚めて、ふと窓を閉め忘れたことに気づき、閉めようとしたら、急に空が光ったような気がしたのです。稲妻だろうか、でも雨は降っていないようなのに、と不思議に思ったとたん、わかりました。流れ星だったのです。空一面、まるで雨のように星が降ってきたのです。時計を見ると、三時二十分か三十分頃……あの季節は、もう少しで夜が明ける頃です。流星雨が観測されるだろうなどというニュースはまったく聞いていなかったので、本当に不思議な気がしましてね。私は不意に、これはきっと何かの前兆に違いないと感じ、我知らずひざまずいて祈っていました。それからベッドに入ってまた眠ったのですが、朝の五時くらいにまた目が覚めました。誰かが寝室の窓を叩いているのです。弱々しい音でしたが、私はそれに気づき、窓を開けました。窓の外に、アグレイアが立っているではありませんか。消えた時と同じ服装のままでしたが髪をたらし、サンダルが片一方脱げて裸足でした。おまけに腕の中に小さな赤ん坊を、しっかりと抱きかかえていたのです」
「じゃあ、その赤ちゃんが……?」
「ええ、そうです。アーディスです。ともかく、こんなに仰天したことはありませんでした。私はすぐに二人を中に入れました。赤ちゃんは、本当に小さな子でしたね。目方を量ったら千二百グラムくらいしかない、手のひらに乗るような赤ん坊でした。見たこともないくらい可愛いらしい子でしたね。アグレイアがどこかで、天から落ちてきた天使の赤ん坊を拾ってきたのではないかと、私は一瞬思ったくらいです。一インチほどの水晶のようなものを左手にしっかりと握っていて、それがちかちかと光っていたのを覚えています。金のチェーンがついたペンダントでした。なかなか離そうとしないので、私はそのまま握らせておきました。三日ほどでようやく手を離したので、私が一度預かり、あの子が十歳になってから、母親や小さな妹たちと一緒にここに来た時に、事情を説明して返したのです。それからずっとあの子は、そのペンダントをつけているようですが」
ああ、あのペンダントか――あの時、光っていた。金色の鎖に、直径二、三センチくらいの透明な水晶がついているが、エアリィはいつもアンダーシャツの下にそれをつけているようだ。鎖が長いので、水晶が胸の中心部くらいに来るのだが、球体ではなく、厚みが一センチくらいしかないので、普段は緩みのある上衣に隠れて、まったくわからない。
「赤ん坊は裸のまま、アグレイアが失踪した時に羽織っていたレースのショールにくるまっていました。六月とはいえ、明け方は肌寒いので、身体がかなり冷えていました。たまたま手元に孤児院に寄付するオムツとベビー服があったので、大きすぎてブカブカでしたが、ないよりはましですから、それを着せて、赤ん坊用のミルクはなかったのですが、哺乳瓶はあったので、とりあえず砂糖湯を作って飲ませ、毛布にくるんで寝かせると、アグレイアに事情を聞いてみたのです。あの娘は部屋からカーディガンを取ってきてはおり、自分でココアを作って飲んでいましたが、私の質問に、ランカスター草原で花を摘み、ぽかぽかして眠くなったので、木の下で少しうたたねをしたようだと、答えていました。『ごめんなさい。こんなに遅くなっていたなんて気づかなかったわ。すっかり眠りこんでしまったのね』あの娘はそう言いました。昼間花をつみにいって、眠りこんで夜になった、まるでそんな感覚でした。こうも言いました。『左のサンダルはどこへ行ってしまったのかしら。探したけれど、なかったの。髪のリボンも。それはまあ、良いけれど……すっかり足が痛くなってしまったわ。赤ちゃんを抱いて、一マイル近くも片足跳びは出来ないから。赤ちゃんがいなくても無理よ』とも。そして自分で驚いたように、繰り返すのです。『赤ちゃん? そういえば、あの子はどこから来たの?』と」
シスターはそこで一息おくと、両手を組み替えてから、再び話し出した。
「私は聞きました。『あなたはどうやって、なぜ、あの赤ん坊を連れて帰ってきたの? あの子は、いったいどこの子なの?』と。あの娘は不思議そうに考え込み、言いました。『わたしの子……なのかも知れない。そう思ったのよ。目が覚めて、わたしの腕の中に赤ちゃんがいた時に……夢の中で、わたしは子供を産んだような気がするの。誰かが(はい、この子はあなたの子ですよ)と言ったの。わたしもそうだと思ったの。だから、わたしは何も疑問に思わずに、自分の子だと思って、抱いて連れて帰ってきたのだけれど……あの子って、本物なの? でも……』あの娘は頬に手を当て、しんから戸惑ったような顔をしました。『今日は六月十四日でしょう? もう朝だから。今日わたしは、ニューヨークへ帰る予定なのよ。明後日からリハーサルが始まるから。でも、一日で赤ちゃんを産むことなんて、できないわ。わたしは妊娠なんかしていなかったもの。ましてや、臨月でなんかないし。ありえないじゃない』私は注意を促しました。『そう、今日は六月十四日よ。でもあのカレンダーをよく見てごらんなさい、アグレイア。日付だけではなくて、他を』と。アグレイアは壁にかかったカレンダーを、じいっと見つめました。違いに気づくと、小さな悲鳴を上げましたよ。『金曜日? え、火曜日の後だから、水曜じゃないの? ええ、なんですって、九六年?!』あの娘はしばらく呆然とし、それから激しく震え出しました。『いったい、これはなんの冗談なの! 来年ですって?! わたし、タイムトリップでもしたの?! ねえ、もしこれが本当なら、舞台はどうなってしまったの? 終わってしまっているわよね、もうとっくに! わたし、出られなかったの? 誰かがかわりに出たの? 冗談じゃないわ! わたし、今度の役にかけていたのに! もう七光りなんて言われないように、がんばって見返そうと思ってたのに! わたしの一年を返して! いったい、何がどうなっているの。さっぱりわからないわ!』と、本当に取り乱したさまで叫ぶように言うと、頭を振って、泣き崩れてしまいましたよ。これは完全な記憶喪失だと思い、私は次の日にアグレイアを連れてモンクトンに行き、お医者さまにかかったのです。診断の結果、本当に記憶喪失であることがわかりました。あの娘がその十三年後に事故にあって死ぬまで、空白の一年間の記憶は、ついに戻らずじまいでしたよ」
「なぜ、アグレイアさんは記憶喪失に……?」
僕は思わずそう聞いた。
「それはわかりませんね。その時に見てもらった専門のお医者さまの話によると、記憶喪失というのは、頭部に外傷を受けた後か、非常に強い精神的な打撃にあった時に、起こりやすいらしいです。でも、アグレイアには頭部に外傷を受けたような痕跡はなかったし、検査をしても、脳にも何も異常は見つかりませんでした。精神的な問題ならば治療を受けているうちに糸口がつかめてくるらしいですが、それもまったくなかったようです。あの娘は二ヶ月ほど治療を受け、結局原因は不明ということで、あきらめてしまったのです。最後の診療の時、お医者さまはこんなことをおっしゃっていましたよ。『記憶をなくしているというより、元々記憶が存在していなかったような印象を受けるのです。赤ん坊を産んだ夢を見た。それは事実だったのかもしれませんが、その前後の記憶が夢という形ですら記憶に残っていない。不思議なことだとしか言いようがありません。これ以上、我々にはどうしようもありませんね。お気の毒ですが』と」
「アーディスのお母さんがいなくなったのが、ちょうど一年前なら、その間に……」
僕は考え考え、そう口を挟んだ。
「そういう解釈が自然ですよね。お医者さまも、そうおっしゃっていましたし。十月十日と言いますが、一年もあれば、赤ん坊を身ごもって産むのには、十分すぎる期間でしょう。しかし実際にその間何があって、どこで何をしていたのか、それはアグレイア自身でさえまったく記憶がなく、当のあの娘も三年前に死んでしまった今となっては、真相は深い闇の中です。でも、私はいまだに不思議でたまらないのですよ。アグレイアはランカスター草原から失踪し、同じ場所に帰ってきた。失踪した時、警察は家出でなければ――何も持っていってないのだし、動機もまったくないから、それは考えにくいとおっしゃっていましたがね――誰かにさらわれた可能性が高いと言っていましたが、ランカスター草原の道は、車は通れないのです。良くて自転車かオートバイですが、森の中に入ってしまうと、それも通れません。あの森はこちらからは、数メートルほど中に入ったところの池のほとりで、道が終わっているのですよ。しかしマインズデールの町へ向かうなら、この教会の前も通りますし、あの娘を乗せた自転車やオートバイが通れば、誰かが見るでしょう。しかしそんな目撃者はおらず、道にも数日以内に軽車両が通った跡もない。誰かに声をかけられて森の中について行った可能性はありますが、あの森には他に道はなく、三、四キロに渡ってずっと木が茂っています。人が通れないほどではないですがね。もちろん警察は森や池の中も捜索しましたが、何も発見されませんでした」
「そうなんですか……」
「あの娘はいったい、一年もの間どこへ行っていたのか、その間、どうやって生活していたのでしょう。銀行に自分の口座を持っていましたし、二十歳になったので父親の遺産を相続して、経済的には困っていなかったのですが。アリステアは亡くなった時、七千万ドルほど遺していましたから。今は三千万くらいに減っていますが。アグレイアもニューヨークで男に騙されたり、いろいろ浪費してしまったようで。あの娘が亡くなった後は、ステュアートさんがその半分を相続し、残りはアーディスとエステルがそれぞれ二十歳になった時に、半分ずつ相続することになっているんです。まあ……それはともかく、あの娘の預金には、その間まったく手がついていませんでした。一年間あの娘を見たという人は一人もいず、まるで世界から消えてしまったかのようでした。誰かの元に監禁されて過ごしていたなら、それもありうるのですが、そして、その間の記憶がもし辛いものなら、意識の防御として記憶が消えてしまう場合もある。モンクトンの精神科医の方も、そうはおっしゃっていました。しかしカウンセリングをして、その可能性を引き出す糸口になるようなキーワードや話をいくらしてみても、他の話題と同じような反応しか返さないので、それは考えにくいとも仰っていました。それに、もしそれほど長い間監禁されていたなら、あの娘にもそれなりの変化が出ても良いはずですが、それもありませんでした。着ていた洋服も同じですし。一年同じ服装のままなら、もっと服はボロボロになっていてもよいはずですが、私が一年前に見た時と、まったく同じような感じでした。仮にその服がすぐにどこかに保管され、たまたま逃げ出したか、解放された日に再びその服を着たのだとしても、サンダルが片方だけというのは変です。ふつうは新しい靴を用意されるでしょう。それに、まったく同じ場所で気がつくというのも」
『わたし、タイムトリップでもしたの?』
教会に帰ってきたアグレイアさんは、いつのまにか世界が一年進んでいたことに気づいた時、そう言ったという。うたた寝している間に、一年もたつわけがない。だから彼女の感覚では、そうとしか言いようがなかったのだろう。もしかしたら、それは本当かもしれない。一度ならずその不可思議を経験した僕には、完全否定は出来ない。でもそうしたら、赤ん坊はいったいどこから湧いて出たことになる? 時の狭間から? 別のどこかの時間線が超時空間の中で交差して? いや、それはいくらなんでもありえなさすぎる。
「私は超常現象など信じないほうですが、あの娘が口走ったような解釈も考えてみました」シスターは僕の考えを見抜いたように、静かに言った。
「実際、たしかにそれに近い印象でしたよ、正直に言いましてね。記憶が存在していないのかもというお医者さまの言葉を聞いた時、なおさらそう思えました。おとぎ話ではあるまいし、現実にそんなことはあるはずがないうえ、アーディスの存在も説明できなくなりますけれどね。でも、そういう可能性も考えられた、昔のある事件をも思い出しました。それは、あとでお話ししますがね。ちょっと失礼しますよ。すっかり話に夢中になって、お湯を沸かしていたのを忘れてしまいました。お茶の分が残っていればいいですけれど」
彼女は奥へと立っていき、しばらくのちに、湯気の立つ茶色のコーヒーカップを三つ運んできた。
「すみません。どうかおかまいなく」
僕は恐縮しながら、カップを受け取った。ロビンも頭を下げ、手を伸ばして受け取っている。コーヒーには、すでにミルクが入っているようだった。僕は一口飲んだ。どうやらインスタントらしいが、熱くておいしい。砂糖は入っていなかった。入っているかと、懸念したのだが。シスターは「お砂糖はここにありますよ」と、テーブルにシュガーポットを置いた。ロビンは手を伸ばして、角砂糖を二つ入れていた。
僕らはしばらく黙って、コーヒーを飲んだ。やがてシスターはカップをテーブルの上に置くと、ほっとため息をついて、口を開いた。
「このあたりは不思議なことが多すぎますね。ランカスター草原一帯は、ある種の強い気を感じると、兄が言っていたことがありますが」
そう前置きしてから、シスターは再び話し始めた。
「アーディスは本当にアグレイアの実子なのか、私は一時疑ったこともあります。理論的に考えれば一年あったのですから、十分妊娠出産は可能ですし、あの娘にしてもおぼろげながら、赤ん坊を産んだ夢を見たと言ったのですが。あの娘が戻ってきた時、そう、殿方にこんなお話をするのは憚られるのですが、たしかに出血はしていたのです。あの娘が失踪した時も、月のものが来ている時でしたが……私も詳しくは見ませんでしたがね。でも、産後すぐの身体にしては、しっかりしすぎているような感じがしました。赤ちゃんの方はへその緒もまだ瑞々しく、しっかりとくっついていました。身体は濡れていず、汚れてもいませんでしたから、清められたあとだとは思いますが。あの状態ですと、普通は生まれてせいぜい数時間くらいだと思います。普通の生まれたての赤ちゃんのように赤くもなく、くしゃくしゃでもなかったですが、私はそう直感しました」
シスターはそこで再びコーヒーを一口飲むと、話を続けた。
「でもアグレイアは、少し前に赤ん坊を産んだようには見えなかったのです。そもそも数時間前に赤ん坊を生んだ産婦が、しかも初産なのに、二十分かかる道をすたすた歩いてくるというのは、あまりないことですよね。母乳も結局、出ませんでしたし。ですから、ひょっとして、どこかの赤ん坊を自分の子だと思いこんで連れてきてしまったのではないかと、心配しましてね。もしそうだとすれば大変ですから、急いで方々調べてみましたが、それらしい赤ちゃんの失踪事件など、ありませんでした。捨て子なのか、さもなければ本当にアグレイアの生んだ子であったとしても、父親は誰なのか。赤ん坊が握っていたペンダントだけが唯一の手掛かりなのですが、それだけではまるで雲を掴むような話で、何もわかりませんでね。あのペンダントには留め金がなく、すっぽり頭からかぶるようにかけるもので、チェーン部分には何も刻まれていません。水晶のような本体を陽にかざすと、ルーン記号のような文字が浮かび上がるものでした。私は一度、モンクトンの宝石商にそのペンダントの鑑定をしてみてもらったのですが、その店の主人は言っていました。『チェーン部分は金だね。純金だ。でも刻印がない。金は必ず刻印されるものだが。それと、この結晶は水晶じゃない。でもダイアモンドでもない。いや、この大きさのダイヤだったら、えらいことだがね。なんだろう。ガラス玉でも無論ないし、ジルコニアでもない。不思議だね。炭素に少しケイ素が混じっているような、そんな屈折の仕方だ。下手な鑑定屋だったら、ダイヤというかもしれないな。それと、たぶんこの模様のように見えるものは、結晶の中の不純物だろう』と。『どこで売っているものだか、わかりますか?』と聞くと、『こっちが聞きたいな。こんなものは見たことがない。その結晶も、ダイアモンドに少し水晶が混じった、としか言えない代物だし、そんなものが天然であるとは思えない。もちろん人工でも開発されてはいないんだ。それに、この表面のカットだ。こんなカットの仕方は今までに見たことがない。たぶんトロントやモントリオールへ持って行ったって、いや、ニューヨークやロンドンに持って行って鑑定してもらっても、同じことしか言われないだろうよ』と。アグレイアも一度、ニューヨークであのペンダントの鑑定をしてもらいに行ったんです。アーディスが三歳くらいの時に。やはり、同じことを言われたようですね」
「そうなんですか……」
「ええ。少し話がそれたようですが、赤ん坊のことは、アグレイア本人も納得がいかなかったのでしょうね。『本当にわたしの子かどうか、鑑定してほしい』と、言いだしたのです。それで私はハリファックスの病院に、二人の親子鑑定を依頼しました。私も気になっていたので。当時はDNA鑑定もさほど精密ではありませんでしたけれど、その結果は非常に肯定的で、『DNAパターンの完全な一致が何箇所かあり、二人の間には親子関係があると推測される』という判定でした。『この赤ちゃんのDNAはひどく変わっている。こんなのは見たことがない。この子の父親という人が誰だか、興味がありますね』とも言われましたがね。ともかく鑑定で証明されたのだからと、私たちもアグレイアの子と認めて、赤ん坊の戸籍を作ったのですよ。アグレイアの記憶が戻らない以上、父親の欄は空白にするしかありませんでしたが。それで、アグレイアに赤ん坊の名前はどうするのか聞いたところ、最初はどうしようかしらと思案気でしたが、しばらくして、こう言いました。『いえ……ちょっと待って。わたし、聞いたことがあるかもしれない。この子の名前は、アル……アルティス……レイア……かも』と。そしてあの娘はじいっと考え込んでいるようでしたが、やがて『決めた。これがあの子の名前よ』と言って、紙に書いたのです。『Arthis Reine』と。これだと『アーディス』とも読めるけれど、と言うと、それでもいい。本来はアルティスとアーディスが一緒になったような響きだったと言うのですよ。本来の音とは何、と聞いても、よくわからないと答えるだけでしたが。そしてレインはこのスペル、フランス語のレーヌ、つまり女王を意味する、これでなければならないというのです。理由はわからないけれど、そんな気がするのだと。あの娘はその頃……いえ、正確には失踪する前ですが、フランス語を少し勉強していたので、それもあるのかとは思ったのですが、フランス語とはいえ、男の子に女王は奇妙じゃないかしらとは感じました。しかしアグレイアがそう言うからと、それに響きは悪くないと思ったので、赤ん坊にアーディス・レインと命名したのです」
ああ――由来を聞かれても困る、とエアリィが言っていたな。名前を聞かれて、アーディス・レインと最初に名乗った時に。その名づけは母親アグレイアさんの、失踪中の一年間に失われた記憶の、ほんのかすかな名残だったのかもしれない。アルティスとアーディスが一緒になったような響き、そして女王――それが何なのかは、彼女にすらわからなかったのだろうが。
「誕生日については、いつ生まれたのか、アグレイアもまったく記憶にないというので、とりあえず帰ってきた日の、六月十四日にしました。本当はそれ以前なのかもしれないのですが、生まれて間もないという、その直感を信じることにしたのです。流れ星の雨の中、あの子は地上にやってきた。そんな印象が強かったせいもあるのでしょうね」
六月半ばの夜明け前、流星雨に先導されてやってきた赤ん坊。光る水晶を握って。いや、水晶じゃないのか。宝石屋の鑑定結果では。そういえば、新世界で川を渡る時、エアリィはアンダーシャツを着たまま、泳いでいった。『寒いから』とその理由を言っていたが、彼がシャツを脱がなかったのは、ペンダントが流れていかないようにするためも、あったのかもしれない。おそらく大切なものなのだろう。ロードでモーテルの相部屋になった時にも、何回か見たことがある。『それって何がついてるんだ?』と問いかけた僕に、『水晶じゃない?』と答えていたから、ずっと水晶なんだと思っていた。そしてそれは、エアリィがインドの寺院でトランス状態に陥った時に、光を発していた。赤ん坊のころ、それを握っていた時もそうだったとシスターは言う。しかし、いつも光っているわけではない。それがアーディスの出生の謎の、唯一の手掛かり。誰が彼にそれを持たせたのだろう。父親なのか? そして母親の方は謎の失踪をして、記憶喪失。それでも二人の間には親子関係があるということが、鑑定で証明されている。
たしかに深く考えると、疑問符だらけだ。でも理論的に考えれば、説明はつけられるのかもしれない。母親が何らかの突発事故か事件に遭って、記憶をなくしてしまった。その後しばらくして子供を受胎し、誰か他の人の(何にも持っていないのでは、自力は考えにくいだろう。もしかしたら子供の父親かも知れない)保護の下で一年暮らし、赤ん坊を生んだ。その後、何かの拍子に元の記憶が戻り、同時にその間の記憶をなくしてしまったのだとすれば。母体にはあまり変化がなく、さらに行方不明になった時の格好のまま、同じ場所で気がついたという点さえなければ、そういう解釈もできるだろう。
「完全につじつまを合わせるのは難しいけれど、理論的には一応説明可能ですね」
またもやシスターが僕の心の中を読んだようなことを言い、僕は思わずどきっとした。彼女は穏やかな微笑を目に浮かべながら問いかける。
「そこから先のあの子の生い立ちは、あなたがたは知っていますか?」
「ええ、彼からだいたい聞きました。いろいろ大変だったということも」
「そうですか。でしたら、私が繰り返す必要もありませんね。ただ、これだけは誤解してほしくないんですけれど、そんな経緯で生まれたとはいえ、アグレイアは決して冷淡な母親ではなかったと思います。まだ二十歳で――いえ、本当は二一ですが、あの娘にとっての一年間はなかったも同じなのですから、感覚は二十歳だったでしょう――いきなりなんの前触れもなく、気持ちの準備もなく母親になってしまったので、とまどいは大きかったことと思いますが、幸いアーディスは手のかからない赤ん坊でしたしね。よく眠るし、あまり泣きもせずに。時々眠りから覚めた時に泣くらしかったですが、すぐに泣き止んで、アグレイアにもニコニコと笑いかけたりするので、あの娘もすぐに『可愛い』と言うようになりました。実際、本当に可愛い赤ん坊でしたしね。ミュージカルの活動に出来るだけ支障をきたさないよう、私もあの娘の公演期間中は、ここで預かっていました。あの子は普通よりもはるかに発達が早く、一歳の誕生日には、もう駆け回っていましたし、二語文、時には三語文も話していました。オムツも八ヶ月程度で取れてしまいましたし。もしかしたら誕生日が間違っていたのかしらと思うくらいでしたが、身体の大きさは年齢相応、いえ、少し小さいくらいでしたね。最初は新生児の状態だったことは、間違いないと思いますし、発達がかなり早い子だったのでしょう。二、三歳のころから階段の手すりを滑り降りたり、二階の窓から木の枝に跳んで庭に下りたり、そういうことも良くやっていました。アグレイアはもちろん、アリステアも子供のころ、そんなことはしませんでしたけれど。まあ、行儀が良いとは言えませんが、男の子ですから、怪我さえしなければ、そのくらい元気でも良いだろうと、私もあまりうるさくは言いませんでした。それにあの子は聞き分けの良い子で、私にも懐いてくれましたし、よくお手伝いもしてくれて、教会に来られる方たちの間でも、ずいぶん可愛がられましたね。あの子が募金箱を持って回ると、いつもより多く寄付が入っていたものです。とても人懐っこくて、良く笑って、そこにいるだけで回りの気分を明るくしてくれるような、そんな子でした。リードさんと一緒にいた時も、周りのクルーさんたちからマスコット扱いをされていたようですし、まあ、あの子の天分なのでしょうね」
「わかります、なんとなく」僕もちょっと笑って頷いた。
「ただリードさんが亡くなってからの何ヶ月間は、アグレイアも今でいう、ネグレクトをしてしまったらしいですが。悲しみや心を乱されることが多すぎたのだと思います。あの娘は、リードさんとの子供を早産してしまったのは、お葬式の時、向こうの親戚に何か、陣痛促進剤のようなものを飲まされたせいだと疑っていました。子供が生まれてしまえば、その子に財産を持っていかれるから、と。その人たちへの恨みや、愛する人とその子供を亡くしてしまった悲しみで、心がいっぱいだったのでしょう。次の年の三月に、アグレイアは取り乱したような声で、電話してきました。『シスター、どうしましょう。アーディスがぐったりしていて、動かないの』と。私は驚いて事情を聞いたら、あの子を一人残して、アパートを二週間ほど留守にしてしまった、と。食べ物もなにもない状態で。なぜそんなことをしたのかと聞くと、『忘れていたの』と答えるのです。『あの子がいることを、忘れてしまっていたの。今の自分を思い出したくなくて……だから、あの子のことも忘れてしまっていたのね。ああ、わたしは本当にひどい母親だわ。どうしたらいいかしら』と。まだ息があるのなら、病院に連れて行きなさいと言ったら、そんなことをしたらネグレクトで捕まってしまうと、泣くのです。私は言いました。『落ち着きなさい、アグレイア。あなたはそれだけのことをしてしまったのよ。とりあえずアーディスに少しでも意識があって、ものが飲み込める状態だったら、薄い砂糖水から始めて、ジュースやフルーツ、プリンなどを段階的にあげなさい。それも出来ないようなら、捕まるなんて言っていないで、病院に連れて行かなければダメよ』と。『わかったわ』とあの娘は言い、それから数時間後に、また電話をしてきました。『大丈夫だったみたい、シスター。なんとか砂糖水とジュースを飲んでくれて、ゼリーも食べて、今は寝ているわ』と。私は本当に安堵しました。どうやら水のボトルが二本だけあったのが、幸いしたようです。それを飲んで、かろうじて命をつないでいたようですね。私はあの娘に言いました。アーディスに体力がついて、ここまで来られるようになったら、連れてきなさい。しばらく預かるから。ここで私が責任を持って、元通り元気な子にしてあげるから、あなたはその間に、自分を取り戻しなさい、と。リードさんのことは美しい思い出にして、もう取り返しのつかない、確かめようもない疑惑で人を恨むのも止めにして、あなたはこれからも生きていかなければならないのだから、と。アグレイアは泣いているようでした。『そうね……』とあの娘は言い、それから五日後にアーディスをここにつれてくると、アグレイアは一人でニューヨークに戻っていきました。もう一度、自分自身の人生を立て直そうと。そして、それから三ヵ月半がたった七月半ばに、再びここに帰ってきて、言ったのです。大丈夫、ミュージカルに戻ることができた。新しい恋人もできた、これからその人とアーディスと三人で、新しい生活を築くと。それで子供をつれ、ニューヨークへ帰って行ったのですが……そこからの顛末は、あなた方もご存知でしたでしょうか」
「ええ……」インドの高原で聞いた話を思い出し、僕は固唾を呑んで頷いた。
「そうですか。それなら、私もあえて繰り返しはしません。その男に私は会ったことがありませんが、きっと悪魔の心を持っていたのでしょう。でも、アグレイアにとっては子供とのつながりを再認識させてくれたという点において、一つだけは良いことをしてくれたのだと思います。本当に、それ一つだけですがね。あの娘がニューヨークへ戻って五ヶ月ほど過ぎた十二月に、アグレイアはここに来て、『ありがとう、シスター。体調が悪いのに、アーディスのお世話を頼んでしまって。もう大丈夫だから、あの子を迎えに来たわ』と言ったのです。事故のことは聞いていましたが、手紙を出しても返事がなく、あの娘が私に出した手紙も届いていなかったようで、その間のことは何も知らなかったので、驚いて、私は別に体調は悪くはない、事情を問い合わせても何も返事がなく、気になっていたところだ。アーディスはここには来ていないと告げたら、アグレイアは真っ青になりましてね。『ええ! どこへ行ったの! まさか……』と。友達にガード役を頼んで、あの男の所に行ったら、アパートには誰もおらず、その男は倒れて入院したと聞かされ、子供は行方不明で……無事再会できた後、あの娘は私に言ったのです。『やっとわたしは、アーディスの本当の母親になれたような気がするわ。六年と半年たって。今までも可愛いとか愛しいとか思っていたけれど、それでも心の底で、わたしは思っていたのかもしれない。あなたはどこから来たの。あなたは本当にわたしの子なの、と。鑑定で証明されているから、自分の子には間違いないって、わかってはいるのだけれど、なんといっても記憶がないから。でもロサンゼルスで、あの子をうっかり死なせてしまいそうになった時、わたしはとても後悔したのよ。だからあの人に、あの子を預けたくなかったのに。病院で会ったとき、わたしは胸がいっぱいになってしまったわ。本当に小さくて、頼りなくて、細くなってしまって、傷だらけで……ああ、この子はわたしの、かけがえのない子なんだ。もう二度とひどい目にはあわせたくないって、心からそう思ったわ。だから、あの子に言ったのよ。ごめんね。うっかりあの男の言うことを信じてしまった、わたしを許して。これからは百パーセント、あなたのママになるわ。あなたはわたしの大事な子よ。これからはどこへ行くのも一緒よ、と』」
病室での感動の再会。その話はエアリィもしていたな、と僕は思い出した。そしてそれから半年後、二人は新しい家庭に入っていった。その六年後に、アグレイアさんは事故で、三四歳で亡くなった。
アリステア・ローゼンスタイナーの一人娘、アグレイアさんを、僕は直接的には知らない。ジョージが持っていた雑誌や、エアリィの部屋の写真でしか見たことはないが、長い金髪の巻き毛、まつげの長い青い眼、ふっくらとしたピンクの頬に、小さな赤い口元。非常にかわいらしさのある、はっきりとした顔立ちの、美しい人だった。ただ、エアリィと容貌の相似はあるかな、というと微妙かもしれない。同じ金髪碧眼ではあるが、彼は別次元の美だ。浮世離れした雰囲気に加え、髪の色も母親よりかなり薄いし、ウェーブもゆるいし、目の色も明るい。まつげや瞳孔のような、黒の部分が青くなる、ブルーブラッドという特殊体質、因子も含めて、それは決してわかることはないだろう、父親の血なのだろうか。でも彼の特殊因子比率は、たしか八五パーセント――科学検査結果表にそう書いてあったし、未来世界のタッカー大統領も言っていた。それなら父方単独で、そこまで行くだろうか? 普通は五十だ。そして、『妹は母さんそっくり』と、エアリィが以前言っていたが、たしかにエステルに、その母の面影は色濃いように思える。事故で死んでしまった彼女の双子の姉妹も、同じだったろう。
アグレイアさんの生涯は――恋多き女だったとフレイザーさんは言っていたが、幾多の挫折や悲しみ、失意を乗り越えて、最後は大学教授の妻として、先妻の子であるアランさんも含めて四人の子供に囲まれ、穏やかな幸福の中にいたのだろうと思う。彼女の理想ではなかったのかもしれないが。そして今は、彼女が最も愛した人、カーディナル・リードさんと失くした赤ちゃん、そして双子のもう一人の娘とともに、天国で幸せにしているのかもしれない。そんな思いを感じた。
「アグレイアもアーディスも、リードさんが亡くなってからの一年あまりの間は、非常に辛い思いをすることになってしまったのですが、ステュアートさんにめぐり合えて、本当に良かったと思います。しかしあの娘も若くして死んでしまったことは、非常に不運でした。そう……偶然なのでしょうが、みな、短命なのが気にかかります。アグレイアの母親レナは、二八で亡くなってしまいましたし、アリステアもアグレイアも、三十代で亡くなってしまっているのです。メイベルはたった五歳でした。アーディスとエステルには、せめて長生きをしてもらいたいものですが……」
シスターは遠くを見るような眼で、そう言った。しかしその口調には、(悲しいことに、私にはそういう予感はしない)という含みが感じられ、僕は一瞬背中に冷たいものが走るのを感じた。たしかに……あの未来が本当ならば、エアリィもエステルも天寿を全うするまで、生きていられるだろうか。僕も、ロビンも、他のみんなも……。
シスターは小さなため息をつき、コーヒーを一口飲むと、再び話を続けている。
「そう……最初は、アリステアなのでしょうね。アグレイアもアーディスも、アリステアの子孫なのですから。兄がアリステアを保護したのは、私たちがここへ来て、まもなくのことでした。そのいきさつにも、少し不思議な話があるのです」
「不思議な話ですか?」
これ以上あるのかと、僕は思わず反復した。
「ええ。遡ればことの始まりは、もう百年も前のことです。まだ先代のマインツ神父の頃でしたが、私たちがこの町に赴任してきた時、町の長や信者の方々が話してくれたのです」
シスターはテーブルに両手を組み、再び語りはじめた。
「今から百年前に、この町に夏の間だけ来ていた、ボストンの富豪がいたのです。その人の母親の故郷がここで、古いお屋敷もあったものですから。その名前を、ジョナサン・ランカスターと言いました。その人は三十歳を過ぎて、この町で十歳以上も年の離れた、若く美しい娘と巡り会い――彼女はここに住んでいる伯母を手伝いに、その夏滞在していたので――翌年の春、二人は結婚しました。結婚してからも、夫婦で夏を過ごしに来ていました。二年後の冬には、かわいい男の赤ちゃんも生まれ、夫婦は幸せの絶頂にあったそうです。翌年の夏にも、夫妻は赤ちゃんを連れてここに来ていましたが、ある日奥さんは赤ちゃんをベビーカーに乗せて草原へ散歩に行ったまま、夜になっても帰りませんでした。富豪は二人をなにものにもかえがたい宝だと思っていましたので、草原やその向こうの森を探した結果、森の中にある池のほとりで、変わり果てた姿の奥さんを発見したのです。その岸辺には水の境界がわかりにくい場所があったので、危険だからあまり近くへは行かないようにと、いつも言っていたそうですがね。森までは赤ちゃんを連れてだと遠いから行かないと、奥さんも言っていたらしいのですが、その日は暑かったので、日陰を求めて、森に行ったようでした。まだ草原には木もないころでしたので。森への道が終わるところにベビーカーが置いてあり、赤ちゃんの帽子が、池のほとりにある木の枝に引っかかっていました。たぶん赤ちゃんの帽子が飛ばされたので、それを拾おうとして奥さんは池に落ちたのではないかと、人々は推測しました。全身水に濡れていたそうですから。でも池に浮いていたり、沈んでいるのではなく、なぜ岸に仰向けに寝ていたのか。這い上がってきてから、こときれたのか。それとも、誰かの手で引き上げられたのか、だとしたらそれは何者か、この事故と何か関わりのある第三者がいるのか、その人が赤ちゃんを連れ去ったのか。人々は不思議がり、様々な憶測をしたといいます。そう、赤ちゃんの方は、忽然といなくなってしまいましたからね。岸辺に、はいずったようなあとがあるのですが、まだ水際まで少し間があるところで、ふつりと消えていたそうです。まるで誰かに抱きかかえられて、連れ去られたようだと。でも他に足跡は、何もなかったようなのですが。池に落ちたり、誰かに投げ込まれたりした可能性も、やはり否定できないというので、池中をさらって、さらに森の中をくまなく探したのですが、どうしても赤ちゃんは見つからなかったそうです。それで、赤ん坊はきっと誰かに連れ去られたに違いない、さらに赤ちゃんを連れ去った者が、奥さんをも殺したのだ――そんな推測を、その人はすっかり信じ込んだようでした。最愛の妻を殺し、息子を拐かした犯人を必ず見つけだすのだと、その人は仕事も財産もなげうって、必死に行方を探しました。しかし何の手がかりもなく、二十年、三十年とむなしく時は過ぎ、すべてを失ったその人は、すっかり隠者のような老人となって、その森の池のほとりに小さな掘っ建て小屋をたてて、住みつくようになっていたそうです。そして一日中、奥さんを奪った池を眺めていたと。その中へ飛び込まなかっただけ、幸いだったのでしょうが……やがて病を発して、失意のうちに亡くなったのです。もう六十年以上も前のことですがね。それゆえにあの森は、町の人から『失意の森』と呼ばれているのです。臨終には、兄が立ち会いました。その二か月ほど前に、ここに着任していたので。兄が行くのを待っていたように、その人はなくなったそうです。あの世に行けば妻に再び会える、息子の行方もわかると言い残して」
「気の毒な話ですね……」
「ええ、本当に気の毒な人でした。その老人の臨終に立ち合った帰りに、兄はランカスター草原の木の下で、生後半年くらいの赤ん坊を拾ったのですよ。白い上等のカバーオールを着て、草の上で泣いていたそうです。服の内側に、名前が刺繍してありました。アリステア・Lと。そこで兄は、その子をアリステアと名付けたのです。誰かが困って捨てたのだろうか、それにしては身なりが立派なので、ひょっとしてどこかから連れてこられたのかもしれないと思い、かなり広範囲に問い合わせたのですが、子供の身寄りの心当たりはありませんでした。この近くにある、教会と提携している孤児院に預けるか、いい縁組があったら養子にとも考えたのですが、その考えにはどちらも、不思議と気が進みませんでした。そこで私たちはその子を兄の養子とし、ここで育てることにしました。この子を育てるのは、神が私たちに課した義務なのだ。そんな気が強くしたのです」
シスターは再び、追憶するような視線を窓の外に投げた。
「アリステアが教会に来てから二年がたったころ、あの老人の妹が兄のお墓参りに教会に訪ねてきまして、庭で遊んでいるあの子を見、驚いたように言いました。この子はアリステア・ランカスターにそっくりだと。四十数年前に、森で行方不明になった赤ん坊です。たしかに当時生後六ヵ月くらいでしたし、髪も同じ金色の巻き毛で、拾われた時に着ていた服も、赤ん坊が失踪した時と同じ白いカバーオールでしたがね。上質のコットンでできていて、手編みのレースがついたりっぱな服でしたが、その服に付いていた名前、アリステア・Lというのは、アリステア・ランカスターとぴったり符合します。その服には、乾いた泥を落としたような汚れがかなりありましたし。でも四十年以上前に行方不明になった赤ん坊が、そのまま時を飛び越えて現れるなど、考えただけでも不可能です。ですが、その老夫人が言うには、顔がそっくりだ。いなくなった時には赤ん坊だったけれど、二歳になったらこんな顔になるのだろうとわかるくらいに。と言って、写真を見せたのです。ランカスター家はもともと裕福でしたから、記念写真もいくつかとっていたのでしょうね。それを彼女は兄の墓にそなえるつもりで、持ってきたらしいです。古い白黒写真でしたが、たしかにそこに写っていた赤ん坊は、拾われたころのアリステアと瓜二つでした。それに。その人は重ねて言ったのです。兄夫婦の赤ん坊は、不思議な瞳を持っていた。もとは灰色なのですが、光のかげんや気分で青にも緑にも紫にも変わり、夫妻はたいそう不思議がって、また自慢もしていので、よく覚えていると。アリステアも、まったく同じような目をしていました。私たちは少し不思議に思ったものです。兄はアリステアを拾った時、この子の誕生日をいつにしようと考え、ちょうど生後六ヶ月くらいなら、と思いついた日が、ちょうどアリステア・ランカスターの誕生日でもありましたが。しかし赤ん坊が時間を飛び越えるなど、現実には考えられません。そんなことはありえないと、その方もおっしゃっていましたけれどね」
「不思議なことですね……」
僕は言いながらも、同時に(でも、完全にあり得ない話ではないかも)と、心の中で付け足さずにはいられなかった。信じられないことだが、僕らは現に経験している。一度起こったことなら、完全に不可能とは言えないかもしれない。だからといって、そうだと確信するだけの根拠は、もちろん何もない。そうそう超常現象が起きるとは考えにくいから、単なる偶然の一致としてすませた方が、よほど理論的には頷ける。さもなければ、行方不明になった赤ちゃんが、どこかで無事に成長していて、映画俳優になったアリステアさんは、その子供か孫かもしれない。そういう可能性もゼロではない。かなり低いだろうが。
「まあ、すみません。つい、あなたがたには関係のない昔話ばかりしてしまいましたね」
シスターはふと我に返ったように、少し恥ずかしげに笑った。
「いいえ、そんなことはないです。とても興味深いお話でした。あんまり不思議なことが多いので、びっくりしてはいますけれど……」
「世の中には科学や常識でははかれない、不思議な力があるのかも知れませんね」
「ええ……」
僕はロビンと顔を見合わせ、心から頷いた。不思議な力は、僕らも経験している。もう二年近く前に……。
「この世界も、そう遠くない将来に終わるのかもしれませんね」
シスターは静かな口調でそう続けた。
僕は思わずどきっとして、飛び上がりそうになった。ロビンもそうだったようで、お互いに顔を見合わせたあと、彼女の穏やかな瞳を見返した。
「兄が急死する三日前でした。アリステアがハリウッドから突然戻ってきて、二人でそんな話をしていたのを覚えています。起源の子供が来て四半世紀で、私たちの文明は終焉になると。不思議な声が、夢の中でそう言っていたと。それ以上は、聞きませんでしたが。私が聞くべきではない、聞いてはいけないと思いましたので」
不意に頭の中に昔の夢の断片がよみがえってきた。未来世界で最初の夜にみた、神父さんとアリステアさんの夢を。シスターの言うのは、このことだろうか――?
「本当に、よけいなおしゃべりばかりして、すみませんね」
シスターの声で、僕は再び我に返った。
「でも、ジャスティン・ローリングスさん……でしたっけ」
彼女は真っすぐ僕を見据え、にこやかに言葉を継いだ。
「あなたにお会いするのは初めてですが、なぜだか初めて会ったという気がしないのです。不思議ですね。とても懐かしい気がします。ですからついうれしくなって、いろいろと長話をしてしまいましたよ」
「え?」
「お忘れください、年寄りの戯言ですから」
シスター・アンネは微笑み、僕らにコーヒーのおかわりをすすめた。さらに籠の中からビスケットの箱を出し、中身を菓子盆にのせてテーブルに置いた。
「どこにでもあるビスケットですが、いかがですか?」
「ありがとうございます」僕らは恐縮して受けた。
シスターもコーヒーのおかわりを飲み、ビスケットを一つつまんだ。
「こんなお話ばかりで、あなたがたのお役に立ったとは思えませんが」
「いえ、とんでもない! 本当に感謝しています」
そう言った僕を、シスターは再びにこにこと見つめ、聞いてきた。
「ところで、あなたがたはランカスター草原へは、行かれましたか?」
「いいえ。ランカスター草原というのは、赤ん坊のアリステアさんを見つけたり、アグレイアさんが失踪したり、うんと昔には赤ちゃんがいなくなったという草原ですか?」
「ええ、そうです。ただアリステア・ランカスターがいなくなった場所は草原でなく、森ですがね」シスターは頷いた。
「ランカスター草原は隠れるところなど、ほとんどなさそうな場所なのに、不思議ですよね。木が一本あるきりで、あとはずっと野原なのですから。その一本だけある木は、あの最初の失踪事件があった後に生えてきたらしいですが、その木の下で六二年前アリステアは保護され、十七年前にアグレイアが行方不明になったのですよ。なんでもいつか町にやってきた植物学者さんの話では、図鑑にも載っていない、珍しい木なのだそうです。ランカスター草原は、アーディスのお気に入りの場所でもあります。あの子はごく小さな頃から、草原とその木に特別な愛着を感じているようでした。あの子はその木を『光の木』と呼んでいましたが、幹が金色なので、ふさわしい名前でしょうね。ここで預かっていた時も、教会の庭で近所の孤児院の子供たちと遊んでいたと思うと、ふっと気がつくと庭からいなくなっていて、そこへ行っていることがよくありました。子供の足では遠いでしょうにね。大きくなってからも、ここに帰ってくる時には必ず行っていました。というより、あそこへ行きたくて、ここにはついでに寄るという感じですね、最近の二、三年は。あの子はとくにあの木が大好きで、『ここへ来ると、なんだか落ちつくんだ。故郷へ帰ってきたんだなあって気がして』と、言っていたことがあります。あの木の実も好きですね。他には誰もあの木の実など、食べようとは思いませんけれど。苦いというわけではないのですが、しびれるんですよ。毒があるわけではないようなのですが。きれいな実なのですがね、金色に光って。あの木は実がなるのが遅く、いつも十一月に入ってからなんですが。そして六月には、青いきれいな花が咲くのです。アグレイアがいなくなった時も、その青い花がたくさん咲いていました。今は、どちらの時期でもないですけれど」
「行ってみます。どう行けばいいんですか?」
僕は思わず椅子から立ち上がった。エアリィがそれほどまでに愛着を感じている場所が存在しているならば、たとえ教会までは来なくとも、そこには立ち寄っているかもしれない。仮に今はまだ来ていなくとも、いずれ来るかもしれない。元の彼の人格や性向が、少しでも残っていればだが――それを信じて、可能性にかけてみよう。もし見つけられなくても、二、三日この町に滞在して、何度か足を運んでみればいい。
「この教会の裏の細い方の道を、町の中心部とは反対の方向にずっと行けば、出られますよ。私は足が弱ってしまったので、お供することは出来ませんが、一本道ですから、わかりやすいと思います。さっきお話したように、草原の道は車が通れないので、歩かなければなりませんが。あなたがたならば、二十分もかからないかもしれませんね」
「わかりました。ありがとうございます」
僕らは礼を述べ、教会を後にした。出かける時、シスターはにこやかに言ってくれた。
「あなたがたは、もう今日のお宿は決めたのですか? 町には二件小さい宿屋がありますけれど、もしまだ決めていないなら、今夜はここに泊まるといいですよ。今からランカスター草原まで行って帰ってくると、日が暮れてしまうかもしれませんし」
「いいんですか?」
「ええ。ぜひそうしてください。たいしたお構いは出来ませんけれど」
強くそう勧められ、僕は頷いた。
「助かります。そうさせてください」
「お世話になります……」
ロビンも遠慮がちに、小さく言い足している。
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