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ここでの最後の日、夕方六時(時刻は二四時間制なので、十八時だ)中央公園でのコンサートは、朝のうちに大統領や市長の許可がおり、午前十時から、一般の人たちにニュース回線を通じて告知されることとなった。
アイザックとヘンリーは、僕たちが朝食をすませてまもない時間に、もうやってきた。僕たち八人は連れ立って再び倉庫へ行き、途中で一度お昼を食べに部屋に戻った以外、午後遅くまで、新世界への若者に贈る音楽レッスンに費やすことになった。
教えたことは主にギターやベース、ドラムス、キーボードの仕組みや弾き方の基礎だ。二人は熱心な様子で話を聞き、繰り返し質問し、携帯用の小さなコンピュータに何事か打ち込んでいる。一人が練習をしている間、もう一人は携帯用ビデオカメラを持って、その様子を撮影していた。
実際の練習は、二人ともまったくの初心者だけに、悪戦苦闘の連続という感じだ。彼ら自身ももどかしく思うらしく、何度も頭を振ったりため息をついたり、でも二人とも非常な熱心さで覚えようとしているようだ。ただし、初心者だから覚悟していたこととはいえ、はっきり言って二人とも恐ろしく下手だ。ドラムスは右手と左手のアタックがずれまくったり、バスドラがお留守になったり、テンポが不均一だったりして、仮に他のパートがどんなにうまい人がやっていても確実に足を引っ張られるだろうと思えるほどの、見事なリズムを刻んでくれたし、ギターやベースはフレット上の音の位置がわからないと言って、スケール一つ弾くのに四苦八苦し、コードがうまく押さえられないと、また四苦八苦している。特にギター初心者の鬼門、FコードやBコードは、彼らにもやはり難関だったようだ。おまけに、ピッキングのひどさといったら、おせじの言葉すら出ないくらいだ。
僕たちは何度も繰り返し教えた。スティックの持ち方、叩き方、フレットの読み方、押さえ方、ピッキングの方法。本当に初歩の初歩だけれど、どんな音楽の道もここから始まる。初めて自分がギターに触ったころのことを思い出した。音取りでつまずき、コードでつまずいた、十二才になったばかりの自分を。なかなか思うように指が動かなくて、何度も「もういやだ!」と、投げ出そうとした昔を。でも、少しずつ弾けるようになっていくにつれ面白くなり、いつしかそれが自分の生活の一部になっていった。今はプロになった僕でも、初めて触ったギターに四苦八苦していたあの日から、すべてが始まっている。最初からうまい奴なんていない。誰でも最初は初心者だ。アイザックもヘンリーも指は真っ赤になり、かなり痛そうだったが、それでも泣き言を言わず、練習を繰り返している。そう、その熱意さえあれば、きっと上達できるだろう。
アイザックもヘンリーも、キーボードだけはそこそここなした。普段からコンピュータの操作や簡単なプログラミングに慣れているのだろう。僕には煩雑だと思えるシンセサイザーの仕組みや操作も、違和感なくマスターしているようだ。けれど、やっぱり両手弾きになると、つまずいていた。両方の手をばらばらに動かすなんておよそ不可能だ、なんて言う。それが出来なければ、どんな楽器もマスターできないと思うのに。
「慣れれば出来るよ。両手弾きの場合は、まず片方ずつ楽に弾けるようになるまで練習して、それからゆっくり合わせる。そうすれば、だんだんうまく出来るようになるよ。結局は何回も反復することによって、身体に覚えこませるしかないんだよ。どんな楽器でも、すべて反復練習が基本なんだ。そのうちに、だんだん楽にできるようになっていくからね」
ミックが辛抱強い口調で、そう励ましていた。
「なかなか難しいものなんですね、楽器を演奏するのって。もっと簡単に出来るのかと思っていました」
アイザックは鳶色の髪を掻きむしりながら、ため息をついている。
「そりゃあ、すぐにうまく弾けるようにはならないよ。僕らだってみんな少なくとも五、六年は毎日毎日欠かさず練習して、やっと今のレベルになったんだから。肝心なのは、これからの練習さ」
僕は指を振った。数時間の練習でマスターできるようなら、僕たちだって苦労はしない。
「そうなんですか。そんなにかかるんですね。でもコンピュータは苦もなく演奏するのに、人間がやると、なぜこんなに難しいんでしょう」
ヘンリーが不思議そうな顔で首を捻ると、ジョージが熱のこもった口調で、こう答えていた。
「そりゃ、コンピュータはこっちがやらせたいと思うとおり、一発で間違いなく正確にできちまうからだよ。だが人間の手足の場合は、そうもいかないわな。最初はなかなか言うことをきいてくれないもんだぜ。楽器の練習は、一に忍耐、二に忍耐、ひたすら我慢の繰り返しなんだ。でもなかなか出来ないだけに、出来た時は本当に感激ものなんだぜ」
「そうですね。たしかに僕らの身体は、コンピュータのように思い通りには、動いてくれませんね」
アイザックはため息をついて、真っ赤になった自分の両手を見ている。
「でも、僕たちは自分の手で演奏することを望んで、無理を言って教えてもらったのだから、これくらいで挫折はしていられません。僕らでも、これからずっと練習を続けていけば、いつかあなたたちのように、うまく演奏できるようになれますか?」
「それは保障するよ。僕たちだって、決して特別じゃないんだ。僕たちの世界には、もっとうまい人が大勢いるよ。僕たちはまだ、プロになったばかりなんだ。これからの努力が必要だというのは、僕たちだって同じだよ。お互いにがんばろうね」
僕は思わず、二人の手を取った。
「ええ、ありがとうございます」
二人は礼儀正しく礼をのべている。
「もう十六時近いんですね。ずいぶん長い時間、ありがとうございました。でも、あなたたちの音楽を聴いていたり、楽器の練習をしていたりすると、僕らも時間がたつのを忘れてしまうほど、短く感じられますよ。こんなに長い時間が経ったとは、思えませんでした。どうしてなんでしょうね」
アイザックが不思議そうに言うと、
「君たちが心から音楽に興味を持って、好きになってくれているからだよ。僕らもよく音楽に熱中していて、時間を忘れるんだ。君たちも僕らと同じ、音楽を愛する同志だね」
ミックが穏やかに微笑して、答えていた。
「そう言ってもらえると、うれしいです。これからもがんばって、練習します」
アイザックは表情を輝かせた。ヘンリーもその横で、何度も頷いている。
「ただ、全部は無理だろうね。一応他の人たちに教えてもらうために、ひととおり四つの楽器の基礎だけは教えたけれど、その道のエキスパートになろうと思ったら、それからの突っ込んだ練習は、一つか二つに絞ったほうが無難だよ」
ミックはそう言葉を継いでいる。
「どうやって絞りこみますか?」
「とりあえず四つとも練習を進めていけば、自分はこの楽器の方がほかのよりも楽に出来るとか、弾いていて楽しいと感じるものが、出てくるはずだよ。それを選べばいいさ」
「そうですね。でも、とりあえず後の人たちのために、基礎は全部マスターしなくては。あ、そうそう。ひとつ大事なことを忘れていました。楽器は一通り習いましたけど、歌を自分で歌う場合、基礎知識とか練習は必要ないのですか? 僕たちのように、元々上手でない人が上達するには、どうすれば良いんでしょうか」
アイザックは頷きながら、そう問いかけてきた。
「そうだねえ。ヴォーカルの場合は、楽器演奏よりも素質に左右されるパーセンテージが高いような感じだからね」 ミックが考えるように言い、ついで苦笑して肩をすくめた。
「ほら、エアリィ。君の専門なんだから、あとは任せたよ。とは言っても、ウチのシンガーは天才だけど技術的じゃないから、人に説明できるかな?」
「それは言えてる!」
ジョージと僕は同時に声を上げ、肩をすくめて笑った。
たしかにエアリィは、一言で言うなら技術より感覚と直感のシンガーだ。ヴォーカルのことは僕もそれほど詳しくはないが、少なくともいろいろな歌唱上のテクニックというのがあるのは知っている。でもいつか彼に、『おまえはそういうのって、覚えないのか?』と聞いたら、『必要? 僕は今のとこ、必要感じてないし』と返してきた。僕らもみな、それはそうだと思い、それ以上突っ込まなかった。曲作りでも理論より感情だし、それが彼の特性であり、強みだと僕も思っている。
だからなのか、彼は音楽セオリーを覚えようとしない。その気になれば、たぶん一時間もかからないで、僕らよりはるかに詳しい音楽理論を身につけられる能力はありそうなのだが(あの読書スピードと、読んだら完璧に理解して覚えることができるのだから)、『なんか理論覚えてその通りやろうとしたら、類型的な奴ができそうな気がする』と言って、見ようともしていないようだ。だからここで僕たちがアイザックとヘンリーに理論を教えているのを聞いて、「へえ、そう」「ふうん」などと、二人と一緒になって相槌を打っているありさまだ。おまえに教えているわけじゃない、というか、今までにも僕らが教えているくらいの理論を覚える機会なんて、腐るほどあっただろう。おまえならものの三十分かそこらでできそうなのに、とあとで言ってやろうと思っていたところだった。しかもただ聞いているだけでなく、時々「その理論、なんか変」とか、「快不快って言葉、好きじゃないなぁ。和音の気持ち良さなんて、聞き手にかなり左右されない?」などと、邪魔になるような茶々を入れるから、ますます困る。しかも「人間の手足はなかなか自分の思うとおりに動いてくれない」というやり取りに、ぽそっと小さな声で「そうか……やっぱ普通の人って、そうなんだ」と、少し感嘆したようなトーンで呟いていた。
勉強や運動もそうだけれど、造作もなく出来て当然という人間には、わからない人がどこがどうわからないのか、それが理解できないから、他人にわかりやすく教えるということも苦手らしい。ハイスクール時代、僕やロビンがわからない問題を聞くと、答えは教えてくれるものの、その解法の道筋に僕らがついていけるかどうかは、まったくお構いなしという感じだったのと同じように。
「歌の基礎練習? 発声とか、そんなの? いるのかな? まあ、あったほうがいいんだろうけど、僕は正式にやってないから、わかんないや」
生徒の質問に対するエアリィの答えは、やっぱり思いっきりあてにならない。
「おまえなあ、仮にもプロだろ。わからなくてどうするんだ。本くらいすぐ読めるんだから、勉強しとけよ」
言っても無駄とは思いつつ、僕は思わず苦笑した。
「でもあなたは、とてもとても歌が上手ですよね。それにすごくすてきな声ですが、それは生まれつきなんですか?」
アイザックは懲りずに聞いていた。
「あは、ありがと! けどさ、声は生まれつきだから。それにどんな声が良い声で、どんなのがダメかなんて、聴いた人の好き好きだって思うし、どんな声だって本当の悪声なんてないって、僕は思うけど。ただヴォーカリストってインストに比べて、体調がもろ出るんだ。カゼひいたり、寝不足だったり、疲れすぎたりすると、声が出にくくなったりして、けっこう体力勝負な部分があって。基本ドラムとヴォーカルは肉体労働だけど、別の意味で。普通の持久力とかじゃない、歌い続ける体力が必要になるみたい」
「そうなんですか。では、その体力はどうやってつければいいんですか?」
「うーん、よくわからない。ある程度慣れでなんとかなる部分もあるよ」
おい、それじゃ答えになってない、と僕は突っ込みそうになった。アイザックとヘンリーも、ポカンとしたような、困ったような顔だ。
「あ、でもね。一応僕も発声法は知ってるよ。ちゃんと声を出せてたら、咽喉もあまり傷めないと思うし、それは基本かもね。子供のころ聖歌隊にいた時に、教わったんだ」
エアリィにも相手の困惑が少しはわかったのだろう。ちょっと肩をすくめ、そう言葉を継いでいた。
「それはどんなものですか?」
「腹式呼吸は知ってる? 胸じゃなくて、お腹から息を吸って吐く。ここでも、生理学とかの文献に載ってたよ。発声の基本は、まず腹式呼吸なんだって。背筋を伸ばして、息の通り道を作って、吐いていく。それをすべて声にして……こんな感じ?」
彼は実際に発声してみせた。エアリィだと、この「Ahhh」という発声は非常にきれいに響く。でもアイザックとヘンリーが「こんな感じですか?」と同じようにやってみた時には、まるで首を絞められた鶏を連想させて、思わず笑いを堪えるのに苦労した。もっとも僕だって『ちゃんと発声してみろ』と言われたら、彼らを笑えはしないが。
「だめですねえ、僕らじゃ。やっぱり、歌は生まれつきの才能ですか?」
アイザックとヘンリーも悟ったらしく、苦笑して首を振っている。エアリィは彼らの発声を聞いて、小さく「プハッ」と笑ってしまっていたが(僕らは我慢したんだから、笑うな、と言いたいが、それを言うと追い打ちになる)、小さく首を振りながら、答えていた。
「だめだっていうのは、まだ早いと思うけど。何回かやってくうちに、コツをつかめるかもしれないし。それにまあ、歌なんて自分で楽しく歌えてれば、それでいいと思うし」
「それだと、はっきり言ってカラオケレベルだぞ」
僕は思わずそこで、そう口を出してしまった。
「でも、ここじゃ商業音楽ってないんだし、まず自分でやってみることからなんだから、最初はカラオケ的でもいいと思うんだ。それで歌っていくうちに、自分なりの表現とかできてくるかもしれないし」
「まあ、それはそうだが、とりあえず今は、単なる自己満足じゃない、人に聞かせることのできる音楽を目指しているわけだから。ジョンソンさんもメイヤーさんも」
「うん。でも最初は楽しんでやることが大事なんじゃないかな。楽しくないと、続かないと思うし」
「いや、楽しくないこともあるだろうさ。でも、その先の上達を目指してやっていくわけだ。おまえには、わからないかもしれないが……」
「うーん。まあ、上を目指して、っていうのはわかるけど……」
エアリィは少し黙った後、ちょっと首を振って言葉を継いだ。
「でも、どうやったら歌が上手くなるかって言われても、僕にはわからないなあ。歌っていけばいろいろわかることもあるから、まずそこからやっていけば、としか言えないし。そもそも、どういうのが上手いのか、僕にはよくわからないんだ。で、人に聞かせる場合には、相手に伝わっていれば、いいんじゃないかって思う。たしかにね、技術的なことっていうのもあるだろうけど、僕は普段意識してないから、説明はできないし。ちゃんと声を出すっていうのは、必要だと思うけど。咽喉に負担かかるだろうし、細い声だと楽器の中に埋もれちゃうから。それとね、僕の場合だと、自分で作るのは僕の感情だし思いだから問題ないけど、人の歌の場合だと、歌詞読んで、それで自分の中に響くかどうか見てるんだ。響けば、あ、歌えるって思うし、響かないと、あ、ダメだって思っちゃう。気持ち入れて歌えないから、あまりうまくできないな、って」
「おまえはそうだよな。まあ、僕も似たようなものかもしれない。その曲が気に入るかどうかは。歌じゃないけどな」僕は思わず肩をすくめた。
「でもエアリィ、それをもうちょっと具体的にジョンソンさんとメイヤーさんに、説明してくれるとありがたいな。発声法はさっきやったからいいとしてね」
ミックが苦笑しながら口を出してきた。
「具体的に? って、すごく説明しづらい、それ。あー、自分はこれを表現したいって思えることが、僕にとっては第一なんだけど、そう……何のために音楽をやるのってきかれたら、一つには楽しいから。もう一つは、人に何かを伝えたいからって、僕は答えるかな。だから……うーん、あなたたちは何を思っていて、何を伝えたいかなって、それを考えることからだと思う。少なくとも、楽器に負けない音量で声が出てて、音階も外れてなかったら、あとは気持ちが入れば、僕はオッケーだと思う。中にはオンチさんもいるけど、その場合は……うーん、あきらめるか、それでも突き進んで新しい味わいを作るか、かもね」
新しい味わいって――おい、おまえにはありえない話だろうから、そう簡単に言えるだろうが、音痴ならその時点で諦めた方が身のためだと、僕は思うが。特に、人に聞かせるのだったら。だから僕はコーラスさえ諦めたんだぞ、と思ったが、口には出さなかった。
「そうなんですか……伝えたいこと。何かを伝える、という目的があればいいんですね。でも僕ら、個人的に歌う分にはいいんですが、人に聞かせるとなると、楽器に負けない声は出せないかもしれないですし、正しく音が出ている自信もないですから、もとから歌が上手い人を探した方が楽ですね。ありがとうございます」
アイザックが少し苦笑しながら頷いて、頭を下げた。ヘンリーも同じようにしている。
「ああ、もうあなたたちの野外演奏会まで、あまり時間がなくなってしまいましたね。こんなに遅くまで付き合ってもらって、本当にすみません。僕たちも準備を手伝いますよ」
アイザックが時計に目をやって、少し慌てたように言い、
「壊さないだけまし、という程度しか出来ないかもしれませんけれど」と、ヘンリーは少しおどけたように付け足していた。
荷物運搬用の電動カートを借り、みなで協力して、機材を公園まで運び出した。園内の一番中心よりの環状道路に面した芝生の上に、幅二・五メートル、長さ五メートルくらいで八十センチほどの高さの、白いプラスティック製の台が二つつなげて置いてあったので(これは運搬ロボットがやってくれたようだ。下の芝生をいためないか、少し心配だったが)、それを特設ステージにして、その上にセッティングをする。普段のステージよりちょっと狭いけれど、これが倉庫にあった一番大きな台なので、しかたがない。まあ、実際ステージで動くのはエアリィと僕だけだから、いつもより少し控えめに動けば大丈夫だろう。下にそのままセッティングをするという案もあったが、もし人がたくさん来てくれた時、後ろが見えにくくなるからと、台を使うことにしていた。がらがらだったら洒落にならないけれど、そうならないことを祈りつつ。公園の地面にも変換電気が流れているので、コンバータを使えば、電源は簡単にとれた。
夕方五時半すぎ、セットが組みあがった。十一月の日没は早く、あたりはもう深い夕闇に包まれている。公園の白い街灯だけが、僕らを照らすライトだ。僕たちはここで購入した服――最初に支給された冴えない色の、均一サイズのものではなく、自分のサイズに合った、色鮮やかな上衣を着ていた。青、赤、緑、紫、黄色、と色はばらばらだけれど、白い照明なら、大丈夫だろう。
少し緊張してきた。僕たちのような駆け出しの新人バンドが、新世界にロックをもたらすと言う大役をやるなんて少し気が引けるし、自信もそうない。でも他に誰もその役をやってくれる人がいない以上、仕方がない。陳腐な言葉だが、とにかくベストを尽くしてやろう。
午後六時になる頃には、幸いなことに、かなりの人が集まって来てくれていた。ステージの場所から扇状に広がり、プロムナードのあたりまで人が立っている。はっきり数えられないが、千人、いや、もっと――二千人弱はいるだろうか。(あとでエアリィが最初は一七一三人、途中から二八二人来たと言っていた。ぱっと見で数を把握するのも、距離や広さを見積もるのも、彼の特技だ。僕にはとてもついていけないが)僕たちの時代だと、中規模ホール程度の人数だけれど、そもそもこの町には一万人足らずしかいないことを考えれば、相当多い。ここへ来てから、これだけ多くの人を見るのは初めてだ。この街の静かな環境で暮らしてきた人たちにとって、僕たちの音楽はうるさいと感じるかもしれない。共鳴してくれる人が、どのくらいいるだろうか? ともかく、やるだけやらなければ。
基本的には僕たちの時代でやっていた四五分のショウをそのままやり、最後に昨日出来たばかりの新曲を披露する予定だった。でも、いきなりはじめると刺激が強すぎるかもしれない。少し断っておかなくては。
「おい、エアリィ。MCを最初にやっておいた方がいいぞ」
「やっぱり僕がやるの?」
「あたりまえだろ。MCはヴォーカリストの役目。場所が違ったって、一応コンサートなんだから。MCは慣れてるだろ? あ、一応うるさいかもって、ことわっておけよ」
「けど、ジャスティン。ここじゃMCとるのは歌い手の役目、なんて、そんな習慣ないと思うんだけどなあ。ま、いいか」
エアリィはちょっと肩をすくめてから片手を上げ、聴衆に呼びかけた。
「こんばんは、みなさん! わざわざ集まってくれて、ありがとう! あと四時間で僕たちは帰ります。今まで色々と、ありがとうございました。結構僕たちも、ここで楽しんでました。本当はみなさんと一人一人会って話がしたかったけど、そんな時間はもうないから、僕たちは僕たちのやり方で、音楽というコミュニケーション手段を使って、みんなと話がしたいと思います! だけどね、最初に断っておくけど、僕たちの音楽は相当音が大きいから、静かなこの街にはあまり似つかわしくないかもしれないんだ。でも、もし我慢できたら、聞いてくださいね! じゃあ、行きまーす! あ、でもPAないから、後ろの方には届きにくいかも。前の方はうるさくて、後ろは少し聞きにくいかもだけれど、ごめんなさい!」
インストバンド時代は僕がMCをやらざるを得ず、それがひどく苦痛だったが(幸か不幸か、当時は人前で演奏する機会は少なかったけれど)、今は安心して任せられる奴がいてよかった。密かにそう思いつつ、ひと呼吸おいて他の三人を見、頷いた後、演奏をはじめた。最初の曲は、ギターのイントロから始まる。
音が流れ出たとたん、前半分の聴衆が驚いたように一斉に身体を震わせるのが見えた。この音量は彼らには異質すぎるのだろう。全員帰らなければいいけれど──それに、エアリィが言ったように、PAがないから、後ろの方の人たちには音が拡散されてしまうだろう。音響は最悪、とはいかないまでも、良いとはとても言いがたい。でも、もう後には引けない。僕はギターを弾き続けた。ピックが弦に触れるたびに飛び出す音が、空気を震わせる。続いてジョージの手足から打ち出されるドラムのビート、ロビンの細いけれども力のある指から弾き出されるベースのグルーヴ、ミックが魔術師のように操る鍵盤から飛び出す暖かい、きらびやかなサウンドが加わる。全部ひとつに絡み合って、この円形ドーム全体が震えているようなうねりを感じた。エアリィが歌い出すとそこに新たな衝撃が加わり、バイブレーションが一気に膨れあがる。波のようなうねりが公園内を包み込んでいく。
このセットをやるのは、二週間ぶりくらいだ。僕たちの時代の観客とは比べものにならないほど、ここの人たちの反応は静かだ。でも音楽が確実に彼らの心をも震わせているだろうことが、その表情から僕にも読み取れる。観客は誰も帰らず、ただその場に立ち尽くして、じっと聞き入っているようだった。
セットが終了すると、僕たちは昨日できたばかりの新曲発表に及んだ。
「これは本邦初公開、ここで作った出来たてだよ」なんていうMCの後、僕は最初の音を弾く。なんといっても二十数時間前に出来たばかりで、アレンジもほとんど練っていないだけに、ちょっと聞いた感じは、今までのセット曲よりラフだ。でもこれが今の僕たち自身に一番近いものだろう。
新しい世界を見つけた
はるかな時の向こうに
驚きと戸惑いの中で
僕たちは立ちすくむしかなかった
僕らの世界はどこへ行った
懐かしい顔、懐かしい景色
探し求めても空しい
世界を隔てて
僕たちはお互いに、ストレンジャーだった
でもわかってきたんだ
世界が隔たっていても
僕たちは同じように生きている
同じ時をもっと共有したら
きっとわかりあえる
新世界
その美徳と美しさ
穏やかさと平和
そして限りなく広がる未来
今はまだ小さな世界が
星を超えて広がっていく
いつかまた巡り合いたい
遠い未来で
この光景を、僕は死ぬまで忘れないだろう。立ち尽くしている人々、透明な空気を切り裂いて鳴り響く音楽。これが、僕たちの置き土産だ。歓迎してもらえるかどうか、わからない。でも、パッションと自由な感情を、少しでも伝えることができたら。それが、もしもっと息づけば、この世界はより素晴らしく生きるだろう。おこがましいかもしれないが、そう思える。
新曲を最後にして、コンサートを終える予定だった。この最後の曲は僕たちの思いであり、賛歌でもある。これできれいに終わりたかった。でもそう伝えると、聴衆は不満そうな様子をする。彼らはアンコールの仕方を知らない。ただ、もうちょっと聞かせてくれと、口々に言っている。まだ七時十分過ぎだ。時間はそう迫っているわけじゃない。アンコールをやろう。でも、ファーストアルバムの収録曲はインスト以外全部やってしまったし、それ以前のオリジナルもないので、後はカヴァー曲くらいしかない。
「何かないかなあ……」
みんなでステージの袖に集まって、首を捻った。
「インストナンバーやればいいのに」
エアリィは言うが、僕は首を振った。
「いや、やっぱり五人で締めないとな」
「じゃ、セッションしてる?」
「五人で締めるって言っただろうが、おまえ、そんなに休みたいのか?」僕は苦笑した。
「まだ行けるよ、全然。けどさ……なんか今、もうひと押ししてくれたら曲が出来そうだって、そんな感じがしてるんだ。だから、みんなのジャムを聞いたら、出てくるかもしれないって思って」
「ここで曲作る気か、エアリィ? ぶっつけ本番で? そりゃ、むちゃだ。出来なかったら、どうするんだ? それに、ちゃんと出来たとしても、どんなのが飛び出してくるのかわからないんじゃな。いきなりアンコールでやるのは、不安だぞ」
「うーん。そうかな、やっぱ」
「でもまあ、一応やってみたら。ここでフリージャムをやるのも、おもしろいかもしれない。ただ、僕たちもそうは待っていられないから、十分、最長でも十五分だね」
ミックがしばらく考えるように黙った後、頷いた。
「じゃ、もしそれで出てこなかったら、スタンダードやろうよ。ビートルズとかツェッペリンとか、ロックの原点をさ。『ロックンロール』なんて、いいかもしれない。もし新曲の出来がたいしたことなくて盛り下げちゃっても、それで挽回したらいいじゃん。僕も、出来までは保障できないから」
エアリィはそんな心許ないことを言っていたけれど、一か八かで僕らは任せてみることにした。リズム指定がバラードだったので、出来さえ良ければ最後をしめくくるのにいいかな、とも思えた。
バラードリズムでのフリージャムというのは、あんまりやったことがない。少し不安だったけれど、いざやってみると、結構いろいろなフレーズが浮かんでくる。ここでの経験、世界への思い──いろいろなことが頭の中に浮かび、指先に伝わっていく。
十分ほど弾いたころ、エアリィが「OK」サインを出したので、僕はソロを締めくくった。彼は「さっきの……このフレーズ……あれ、頭から入れてよ」と僕に指定してから、しばらく音を聞いていようだったが、やがて両手でマイクスタンドを包むようにして、静かなトーンで歌い出した。
それは賛美歌に近いような、混じりっ気なしの澄んだ響きだった。一度聞いたら忘れられないほど印象的で、美しいメロディラインを持った、この世界の夜のように透明な歌だ。最初からかなり高いキーだけれど、第三バースから、音階がさらに一オクターブ跳ね上がる。こんな高い音程は、ほとんど聞いたことがないくらいだ。まるで少年聖歌隊のような、ある種の神聖さ。そういえば、彼はロードアイランドでクワイアを経験したと言っていたから、昔の十八番に近いのかもしれない。不思議な声だ。超高音につきものの、キーンという耳障りな金属的な響きがまったくない。あくまで透明に、無心に響いていく。
空の色が変わっていく
風が冷たくなっていく
もうすぐ長い夜がやってくる
暗闇は怖かった
「夜が終わらなかったらどうしよう」
子供のころ、そんなことを聞いた
「大丈夫よ。長い夜も必ず明けるわ」
彼女はそう言っていた。
「夕べの祈りを祈りなさい。
一日に別れを告げて
新しい夜明けを迎えられますようにと」
太陽は沈むとき、最後の光を投げかける
もっとも美しい光を
夕日の黄金色はその日の終わりに贈る
最後のプレゼントだと彼女は言った
今、ひざまずいて夕べの祈りを祈ろう
過ぎていく一日を見送るために
暮れゆく世界のために
でも僕は今、知っている
夜はいずれ終わって
新しい一日が始まることを
夜の向こうに一筋の光を見たから
希望を見たから
もう怖れない
不覚にも涙腺がゆるんできたしまった。この世界での経験と、僕らの世界の運命――心にある恐れを、ぐさっと、えぐられたような感じだ。でも、そこにあるのは悲しみや恐れではなく、子供のように無心の祈り。
それにしても――僕は感嘆の思いにとらわれた。アーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、非凡な人間だ。「僕は人とは違うのかなあ」と、本人も言っていたが、たしかにそうだと、僕はこの時深く確信した。ただし、変人だという意味ではむろんなく、常人にはお呼びもつかないという意味で。これほど純粋な、静かな無心の祈り。すべてを理解しつつ強く、謙虚になれる、これほどの感情は、普通の人間からは湧いて出はしないだろう。たった十四才の少年が、どうしてここまでわかる。どうしてここまで無垢に、なおかつ峻厳になれるのだろう。聴衆たちの中にも、泣いている人がかなりいた。しばらくの静寂の後、わっと拍手と歓声が起き、コンサートは幕を閉じた。
僕たちはそのまま舞台の裏手から、部屋がある第三庁舎へと戻っていった。機材はそのまま残され、ロボットによって撤収され、ここの博物館に展示されることになっている。これからこの世界で音楽をやっていく上で、どうしても必要だからと、アイザックとヘンリーにお願いされたからだ。旧世界文化の参考資料になるからお願いすると、ゴールドマン博士も言う。楽器も機材もワゴン車もここに残したままだと、向こうに帰った時、もし間に合ったら、あわよくばNYCからそのまま続行できるという希望は潰えることになるけれど、帰れるだけで幸運なのだから、贅沢は言えない。愛着のある機材――ことに今までずっと愛用してきたギターを手放すのは悲しいけれど、新世界にロックが発展していくために、犠牲に捧げよう。
ステージを降りてから、僕はギターを外してラックにかけると、そのボディに唇を押しあてた。「バイバイ。今までありがとう」と呟き、背を向けて、小走りに駆け出す。ここで食べる最後の夕食をとりに、二週間過ごした部屋へと。
部屋を出ようとした時、パストレル博士が訪ねてきた。
「やあ、諸君。いよいよ、ここともお別れだね。準備は出来たかい?」
「ええ。本当にお世話になりました」
僕たちは、ここに来た時の服装に返っていた。服はきれいに洗濯され、プレスがかかっている。ジーンズにプレスというのも変だけれど、ここの人たちは知らないのだろう。仕方がない。スニーカーもきれいに汚れが落とされ、新品のようになっていた。
ここに預けた荷物の中から、一、二日分の着替えを返してもらった。でも残りの服は、ここの博物館に展示するから残していってくれと言われ、お世話になったせめてものお礼にでもなればと思って置いてきた。下着や靴下は、あまり僕たちの時代のものと変わらないようなので、ここで使っていたものを持ち帰り、エアリィは『縫い目がなくて、着心地がいいから』と、就寝着とズボンも一枚ずつ持って帰っていた。僕を含め他の五人は、『これは戻ったら着られないだろう』と、ここの人にお返ししたが。仮IDチップのついたブレスレットだけでなく、ここで支給されたり買ったりした靴や服も、置いていく。だから、荷物はあまり多くない。少しの着替えと日用品、身につけていたお金やカード、免許証、パスポート、ビザ、時計、携帯電話、ミックのノートパソコン(この町にたどり着くまでに渡った川でバッグごと水にもぐったけれど、ビニールで何重にも防水されていたためか、壊れずにすんでいたらしい)、それに手紙に入っていたロボットの基本回路設計図を納めた、灰色の細長い筒(この中に保管しておけば、どんな変色も劣化もしないらしい)、ここから乗って帰るエアカーを処理する小型分解装置を入れたカバン、それだけだ。
「そうか。では、あとは待つだけだね。これは言おうか言わないでおくべきか、私も迷ったんだが、やっぱり、言っておかなければならないと思ってね。それでここに来たんだよ」
博士は口髭をひねりながら、僕らを見て切り出してきた。
「帰る際に、君たちに一つだけ覚悟してもらわなければならないことがあるのだ。君たちはこれから超自然現象によって時空を超えるのだから、行き先はコントロールできない。だから、必ずしも出発時点に帰れるという保障はないということをね」
「え?」
「ああ、もちろん君らの時代へは帰れるだろうとは思うよ。その点は、心配はないだろう」
博士は手を振り、安心させるように笑った。
「だがね、君らは曲がりなりにも特異空間を通過するのだから、行った先の場所と時間は、基本的には保証されない。それを考えに入れておいてくれたまえということさ。過去か未来か、どちらかへ多少行きすぎる可能性もあるんだ。とはいっても、一年も二年もずれるとは考えにくい。そうすれば、あの手紙に何か書いてあるはずだからね」
「ということは、僕たちは、二〇一〇年の十一月一日には、帰れないかもしれないということですか?」
ミックが驚いたように、問い返している。
「そういうことだ。こっちへ来た時点と帰る時の間に二週間あまりの差があるように、過去へのタイムホールの出口も、また入口とは異なる点に出るかもしれないんだ。だが、それがどの時点になるのかは、私たちにもわからない。出口が出発点より未来なら、その間に空白期間が出来てしまうし、もし過去だったら、それから君たちがタイムリープをするまでの期間、世界には二組の君たちが存在することになる。これは考えようによっては、おもしろい話だね。もとの君たちと、ここへ来て帰った君たちか。あとの方の君たちは前の君たちよりも、ここで過ごした時間と、もう一組の君たちが消えるまでの時間分の生理時間が経過した君たちなんだ。いやはや、そうなれば君たちはずいぶん時間を得したことになるね」
博士はからからと笑ったあと、再び真顔になって言葉を続けた。
「だがまあ、そんなに飛び離れた時に着地しないよう、私たちも願っているよ。未来にせよ過去にせよ、どちらにしてもあまりずれると君らには不都合だろうからね」
ショックだった。考えてもみなかったことだ。だが言われてみれば、十分ありうることだった。僕たちは必ずしも、行った時と同じ時点に帰れるわけじゃないと。着地した時点がもし未来なら、その間は行方不明になっているという羽目に陥るわけだし、過去なら、ある一定期間自分たちが二組存在しているという状況におかれてしまうことになる。どちらも困るけれど、謎の失踪よりは、まだ二人いるほうがいい。でもその間知り合いには会えないし、どこかの街の安ホテルにでも身を潜めていなければならない。もし、かなり長い期間だったら、やっぱり困る。
博士は僕たちの顔を見た後、元気づけるように手を叩いた。
「さあさあ、とりあえず今は帰ることが先だ。帰ったらすぐに日付を確認して、それから対策を考えたまえ。場所もついでに確認しておいた方がいいな。多少はずれているかも知れないから。だがまあ、そんなに困って立ち往生するような羽目にはなるまい。そんなことになれば、時空間が破綻しかねないからな」
「あの……ひとつ質問していいですか?」
ロビンが小さな声でおずおずと言った。ここの人たちに彼から言葉を発することは、記憶している限り、たぶんこれまで一度もなかったはずだが、博士が頷くのを待ったあと、堰を切ったように、早口にしゃべりはじめている。
「僕たちは本当に帰れるんでしょうか? あの、もしも失敗しちゃったら、どうなるんでしょう。そうなると、僕たちは帰れないんですか? それとも、この世界自体が消えちゃうんでしょうか? もし本当に無事に帰れたら……本当に大丈夫なんでしょうか? 過去への逆行は、時空間のタブーだっておっしゃいましたよね。過去の因があって、現在の果があるのだから、因が変わってしまうと、果もまた変わってしまう。現実が変えられてしまうから、それはタイムシークエンスの破綻につながりかねないという理論ですよね。シークエンスが狂ってエンドレスループに入ってしまうと宇宙が破綻するって、一般に言われていますよね。僕たちは……僕たちは過去へ逆行するタブーを侵すわけですが、その点は気をつけなくていいんですか? つまり……これまでの歴史の流れを壊さないようにするためには、どうしたらいいんでしょうか?」
「詳しいね、君は。どこで知ったんだい?」
博士は、どことなく面白がっているような目で見ている。
「ロビンはSFマニアなんです。時空間ものも、結構読んでるんですよ」
彼がまた恥ずかしそうに黙ってしまったので、僕がかわって答えた。
「そうか。どおりでね。旧世界のSF文学には、いくらかの真理があるものも多いように見受けられる。矛盾点もまた、たくさんあるがね。では、最初の質問から答えようか。君たちが帰れることは、まず間違いないと思うが、万一なんらかの突発事故で帰れなくなるとすれば、私たちの世界にとって最大の危機となるだろう。君たちが帰ってくれないと、この世界は作れないんだからね。そうなると、私たちの新世界は消えてしまうだろう。だが、もしこの世界が消えたら、そこにいる君たちはいったいどうなるのかね? そう、二つの可能性が考えられる。一つには、新世界がなくなるのだから、最初のタイムリープもなくなり、ここへ来る直前までいた世界がそのまま続く。つまり、君たちのここでの記憶はいっさい消え、気がついた時には旧ニューヨーク市へ行く乗り物の中、ということになる。これがマイナーチェンジで収まる場合だ。が、しかし最初のタイムリープ自体にそれでは収まらない何か重篤な要因が関わっていた場合、これはシークエンスクラッシュとなるだろう。本当にそれが起きた場合どうなるのか、私にもわからない。宇宙が破綻するというのも一説だ。たしかに時空間の破綻は、秩序の崩壊につながるからね。だから逆説的に言えば、そんなことは起こらないだろう。宇宙秩序が絶対的なものとして働いている以上、時空間を破綻させるような事態は起こるまいと信じる。どちらがどうなるか私にはわからないが、確実に言えることは、たとえ失敗しても、ここにずっととどまることだけは、ありえないということだ。もう一つの質問の方だが、これも私は心配していないんだよ。あの手紙に書いてあるポイントさえ押さえてくれたら、後は君たちが無理にそれを破ろうと努力しないかぎり、シークエンスは守られると思うからね。それが宇宙の秩序であり、現実の重みだと思っている。たとえば君たちはもとの時代へ帰ったら、あと十一年で世界は滅ぶぞ、と大声で宣伝するかね? ここでの体験を、まことしやかに吹聴するかね?」
「いいえ、そんなこと……考えてもいません」
僕たちはいっせいに首を振った。
「そうだろう。手紙にも他言は無用と書いてあったし、仮に約束を破って誰かに話したとしても、狂人扱いされるのが落ちだからね。それに君たちが世界の破滅を回避したくとも、その原因が我々にもわかっていないのだから、回避するすべはないわけだ。あれだけ大規模な災害は、人間的なレベルで防ぎきれるものではない」
「そうですね……」
「ただ、もしも回避手段が万が一見つけることができ――まあ、本当にその可能性はゼロに近いだろうが――もし君たちが回避に動くことで実現できたら、それはまた別だ。もしそれが成功すれば、この新世界は確実に消える。そのかわり、君たちの世界は、消えないで残るかもしれない。ただし、そう長くはもたないだろうがね」
「そうですね。僕らの文明の限界は、もう見えているような気がします。よくて、あと五、六世紀もてばいいほうじゃないでしょうか」
ミックの声は小さく、少し苦々しげだった。
「いや、もう少しはもつようだよ。ゴールドマン博士の歴史研究班のシミュレーションでは、旧世界がそのまま続いた場合、二七、八世紀にはかなり荒廃した状況になり、三五世紀ごろに自然終息するだろうという結果だった。だが、どちらがいいと君らに問うつもりはない。君たちの良心に訴えても、仕方あるまい。本当に万々が一、回避手段が見つかって、実行できるとすれば、回避に動いたとしても、君たちを責められはしないだろう。誰だって、自分の住んでいる世界は救いたいだろうからね。しかし、一つだけ考えてほしい。さっきの失敗の場合と同じように、この世界を消すということは、君たちはその知識を知りえなかったという帰結につながってしまうだろうということをね」
「つまり……無限ループ……ですね」
ミックとロビンが同時に呟いてている。
「そう。そしてそれはシークエンスクラッシュにつながる。その場合どうなるか、それはわからないのはさっきも言ったとおりだが、避けねばならぬ事態であることに間違いはない。そして、もう一つの可能性もある。君たちが過去に帰っても、何らかの原因で定められた日にアイスキャッスルでコンサートができなかった場合、もしくはオタワに移る前にアイスキャッスルで全滅した場合。そう、考えたくはないが、カタストロフの時点で旧世界が完全に滅亡してしまう場合にも、この新世界は消えてしまうだろう。その場合、君たちの中でここの記憶が消えるだけで終わるが」
「そうなんですか……」
そう言ったきり、言葉が出なかった。思わず震えた。
「大丈夫さ。そう怖がらなくとも。私たちは君たちを信用しているし、この現実をも信用しているよ。一度現実として固まってしまったことは、たとえ過去に戻っても改変はされまい。私は現実の持つ絶対的な力を信じている。君たちはただ自らの正義と良心に忠実に、十一年間を生きてくれればいい。流れを壊すまいと神経質になる必要はないだろう。では、がんばりたまえ。もう時間だ。行ったほうがいいぞ。私も他のスタッフと一緒に現場まで行く予定だ。君たちの帰還を、ぜひ見届けたいんでね。私は一足先に行っているから、出来るだけ早く来たまえ」
博士は僕たちの肩をポンと叩いて促し、手を挙げてちょっと笑ってみせると、先にエレベータホールへと歩いていった。
やっぱり回避手段はとれないのだ。僕たちに残された道は、ここでの経験を一切極秘にし、流れにそって十一年の日々を暮らすだけだ。ある意味では、待っているだけ。もともとそれしか方法はないのだろうと思ってはいたけれど、いざ改めて直面すると、割り切れない思いが残る。世界を救う――それができたら。どこかのゲームや英雄譚のように。でもその道は、たぶん見つからない。漠然と、そんな予感を感じた。僕たちにできることは、今この世界に続く道を確保することだけ。完全な滅びではなく、そこから広がる希望につなげるよう、歩いていくだけ――。
僕はため息をついて、自分のバッグを持ち上げた。他のみなも連鎖的に小さなため息をつき、それぞれの荷物を持って部屋を出ていった。二週間暮らし、結構居心地は良かった。二週間の仮住居。もう戻ってくることはない。
博士に言われたことを考えながらエレベータを待っている時、エアリィがちょっと肩をすくめながら言った。
「けど、あの人って、なんか牧師さんみたいって思った。神さまや運命はこの世界じゃポピュラーじゃないって言ってたけど、パストレルさんの宇宙の秩序とか現実の絶対性って、まるで神さまのことみたいに聞こえるんだ」
「ああ、たしかに、そんな感じもするな」僕は頷いた。
「パストレル博士は、そうかもしれないね」
ミックも同意している。「そういえば、ここでは宗教は失われているんだよね。僕らの時代から伝承はされたようだけれど、すぐに消えてしまったって。新世界の初期にはある種の宗教があったと、図書室の文献にあったけれど、それも二二世紀の半ばくらいからだんだん消えていって、今ではもう神という概念も信仰の意味も、ほとんど知る者もいないらしい。たぶん新世界は、宗教的世界観が入る余地がないんだね。博士は職業上、宇宙という目に見えない大きな力を感じていて、それが彼にとっては無意識に神のように感じられるのだろうけれど、普通の人は生活の中で見えざる大きな力を感じる機会が、あまりないんだと思うよ。だから宗教は失われるんだ」
「じゃ、パストレル博士は、宇宙教の祭司ってわけかぁ」
エアリィはちょっと笑った後、視線を上に向けて、言葉を継いだ。
「大宇宙の祭司か。なんか……変な響きだな。けど僕も神さまと宇宙の秩序って、ほんとはイコールに近いのかも知れないなって気がするんだ。僕らみんなの上に作用する目に見えない神秘的な力が、神さまなんじゃないかなって。僕らの時代の宗教より、よっぽど核心ついてる気がする。僕らの時代のって、みんな自分の都合のいいように勝手に解釈して作り上げたものって感じがしてしまうんだ。だから消えても惜しくないな、僕は」
「おまえ、無神論者か? 一応はクリスチャンだろ?」
僕はそう言わずにはいられなかった。
「うん。まあ、そうなんだろうね。カトリックの洗礼と聖体は受けたから。けど、堅信礼はやってないし、礼拝もほとんど行ったことないなぁ。小さい時、時々教会で何ヶ月かお世話になってたこともあるけど、教義はあまりピンと来ないし、キリストや聖書をあがめる気にはなれないんだ。信じてる人をどうこう言うつもりはないけど、イエス・キリストは、神さまじゃないよ。神さまに目をかけてもらった人の一人ってとこじゃないかな。本当の神さまがいるってことは、僕も信じてるけど」
「アーディス・レイン! 頼むから俺らの時代へ帰って、そんなことを言うなよ。特に、プレスの連中には。宗教問題は軽々しく口に出さないほうがいい。懐疑主義者だってレッテル貼られちまうぞ。それだけならまだいいが、そのうちに悪魔崇拝だなんだって言われたら、やっかいだからな」
ジョージがやや仰天した面持ちで諌めている。
「やだなあ。異端イコール悪魔じゃ、短絡しすぎだって。けど、キリスト教もユダヤ教もイスラムも、なんで異端や異教徒にこだわるんだろ。仏教もそうかな? だいたい宗教がたくさんあるってことが、そもそも変だよ。神さまって、そんなたくさんいるはずないのに。ホントはみんな、同じ神さまを見てるんだ。なのにお互いが自分に都合のいいフィルターかけてイメージ作って、結局はかけ離れたものにしてるんだ。それなのに自分こそは一番正しい、あとはみんな間違いだって決めつけるから、ややこしくなるんだよ」
エアリィ自身には宗教論争はタブーだなどという自覚がないのだろう。相変わらず平然とした口調で言う。でも、僕も考えさせられてしまった。神とはいったい何なのだろうか、と。僕らのこの運命を定めたのは、神だろうか? 宇宙の意志なのだろうか? ひょっとしたら、本当にそれは同じものなのだろうか? この時代には、普通の人たちは、本物の自然から隔離されているから、自然の力というものを意識することはない。だから神という概念は失われている。でも、そうすると神は自然の中におられるのだろうか?
頭がぐらぐらしてきた。これからもとの時代に、僕らの世界に帰ろうというのに、今までの宗教感が揺らいでしまうのは困る。
それ以上、考える時間はなかった。エレベータがやってきて、僕たちの会話は(おそらく考えも)、打ち切られた。いよいよ、ここから帰る、その時が来たという、息苦しいほどの緊張感がこみあげてきた。
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