Part 1 of the Sacred Mother's Ring - The New World

第一章  プレリュード(3)




 三月、ちょうどロビンと僕が十七回目の誕生日を迎えた頃、僕らはコンテストに応募した。一度、ミックとジョージの前のバンドでも応募したことがあるという、プロへの登竜門で有名な、国内で一番大きいアマチュア・ロックコンテストだ。今年の六月でやっと十四才という若いヴォーカリストを迎えたことで、ますますクラブ出演の道は遠のき、たまに行われるハイスクールの体育館や公民館でのライヴしかほぼ出番のない今(あと二年が、あと五年になってしまった)、それが道を開く一番の方法だった。その時には三曲目の歌入りオリジナルを作っている最中だったが、まだ完成はしていなかったので、先に出来た二曲のうち『A Spirit in Calling』を応募曲とし、規定にあったようにオーディオと映像の二ファイルを作ってDVDに焼き、バンド全員で撮った写真と個人データを記入して郵送した。
 その時には、僕はあまり結果を期待してはいなかった。たしかに自分たちのバンドには満足していたし、その中でできるだけのことはしているという自負もある。でもこの広大なミュージックシーン、星の数ほどもあるアマチュアバンドの中で、自分たちがどんな位置にいるか、クラブシーン経験のない僕にはまったくわからなかったから、うぬぼれる勇気もなかった。エアリィにいたってはミックに「この用紙に必要事項を書き込んで」と紙を渡された時、「うん。でもMELVICって何? 国内最強のコンテスト? ええ、応募するの? 本気で? 嘘だぁ!」と、驚いたように声を上げていた。カナダに来てからまだ半年の彼は、コンテストの存在すら知らなかったわけだ。それにバンドを結成してからは一年でも、アーディスが参加してからはまだ二ヶ月だから、いきなりのコンテスト応募に面食らったのだろう。ただミックやジョージ、それにロビンまでが珍しく、「いや、いいところまで行けるかもしれないよ」と強気だった。

 応募から一ヶ月がたったころ、練習場に来たミックはバッグの中からおもむろに、一枚の紙を取り出して広げた。
「さっき、メールが来たんだ。これはその写しさ。コンテストの結果が来たよ」
「「どうだった!?」」
 僕らは一斉に声を上げる。
「こう書いてある。【エントリーナンバー八三八番、AirLace──あなたたちは、オンタリオ州一次、二次予選を通過いたしました。五月八日、午後四時より○×ホールにて州大会を行いますので、本メールを直接か、またはプリントしたものを持って、当日十二時までに会場にお越しください。州大会でのあなた方のエントリーナンバーは二四番です】」
 ミックは手にした紙を僕らの方に掲げた。
「ほら、確認してごらん」
「ええ?!」
 その内容を読むと、思わず大声が出た。
「予選を通った? 州大会だって?!」
「うぉー! 本当に予選を通ったか!」
 ジョージが感極まったような声で叫んだ。
「前の時には、応募して一週間もたたないうちに落選メールが来たが、今回は遅いから、期待はしてたんだ。それでもな……ああ、オンタリオ州予選は、全国で名だたる激戦区なんだぜ」
「そう。僕たちは無事激戦の中を勝ち抜けたんだ。きっと行けるだろうと思ってはいても、この結果を見た時には、僕も震えたよ」
 ミックの口調は落ち着いているが、声はまだ少し上擦っている。
「今日は、四月の十七日だな。本選まで、あと三週間だ。やることはわかってるな」
 ジョージが厳かに告げ、僕らはみな「練習だね」と、頷く。
「そうだ。今までのように週三、四回じゃなく、最低でも五日は取りたいな。平日三時間、今日のような休日は、五時間くらいはな」
「うん。僕らは大丈夫だよ。エアリィはたぶん、無理だろうけれど」僕は苦笑した。
「まあ、あいつは特別ルールだからな。今日だって、三時半から妹連れで参加するって言っていたしな」
「エステルちゃんも来るんだね。特に、今日は土曜日だしね」
 ミックは微笑し、続けた。
「それは彼が加入した時の約束だから、仕方がないね。僕ら四人の時には、インスト部のシェイプアップに専念しよう」

 僕らが練習を始めて二時間ほどたった頃、エアリィがエステルを連れて合流してきた。僕らはいつものように、彼女のために椅子と小さなテーブルを用意した。エステルはたいてい、ピンクと白、ウサギのぬいぐるみを二つ抱え、お絵かき帳とクレヨン持参でやってくる。大きな音で耳がやられないよう、ピンクの耳当てもつけている。兄の方は妹のために水筒とお菓子を持ってきて、お菓子の方は僕らにもふるまってくれる。手作りらしいが、うちの家政婦、ホプキンスさんにも負けない味だ。今日もクッキーを持ってきてくれたので、母屋から紅茶を持ってきてもらって、僕らも一息入れた。そして僕らは、コンテストの結果を彼にも告げた。
「え? 本選出るの? 僕も?」
 エアリィは驚いたように言い、「当たり前だろうが!」と、僕らは一斉に返す。
「おまえ、もう少し自覚を持ってくれよ。いくら特別ルールだと言っても、正式メンバーなことに、変わりはないんだぞ」僕は肩をすくめた。
「うん。でも、また土曜日か」
「エステルちゃんは、連れてきてもいいよ。出演はできないけどな、当然。その時はステージの袖で待っててもらえばいいさ」
 視線が妹のところへ飛んだので、僕は先んじて言った。他の三人も頷く。
「わかった。で、応募曲を演奏すればいいんだね」
「そうだよ。僕らのエントリー番号は二四番だから、かなり後だろうけれどね。全部で二八組が出演して、最後に州代表二組が選ばれるんだ」ミックが説明する。
「選ばれなかったら、そこで終わりなんだね。もし万が一、選ばれたら?」
「その二週間後に全国大会があるんだ。今年は、バンクーバーで行われるけれど」
「うわ、西海岸。遠!」
「もし、行ければの話だがな、あくまで」
 ジョージがそう釘をさす。
「もし選ばれれば、交通費と宿泊費は主催者側から出るよ」
 ミックも補足する。
「そうなんだ。それで、もしバンクーバーに行くことになったら、同じ曲をやるの?」
「いや、その時には、別の曲が必要だよ」
「何をやるの?」
「いや、先走るなよ、エアリィ」僕はそこで止めた。
「まだ全国大会の話をするのは、早すぎるだろ! とりあえず州大会だ。二八分の二だぞ。ここで止まる確率の方がはるかに高いんだ」
「単純な確率論だけではないとは、思うけれどね、僕は」
 ミックが微かに首を振った。
「先はたしかに、見据えておいた方が良いと思うよ。途中で止まる可能性もあるにせよね。そう、全国大会では、州大会とは違う曲を演奏することになる。もし行くことになったなら、二週間の間に、別の候補曲を選定して、練習しなければね。だから、ちょっと忙しくなるかな。それで、もし全国大会で優勝できたら、コンテストの動画チャンネルに登録される。普通に動画サイトで流すよりも、見てもらえる確率は格段に高くなるし、音楽事務所やレーベルの人たちも見に来るから、彼らの目に止まれば、デビューの道も開けるんだ」
「そうなんだ。そうなったら、大学との両立って、可能?」
「いや、無理だろ」僕は思わず声を上げた。
「そうだね。今はCD媒体の売り上げも激減しているし、動画やストリーミングもまだそこまで普及はしていないうえに、もしこちらが主流になったとしたら、ますます厳しくなるだろう。印税がけた違いに少ないからね。だから、ライヴで知名度を上げつつ、収入を得る必要がある。売れなくて、オファーがないなら、大学へ行くことも、副業を持つことも可能だけれどね。でも、音楽で成功しようと思ったら、たぶんそんな暇はないはずだよ」
 ミックが後を受けて、説明していた。
「そうなんだ」
 エアリィはしばらく黙り、そして続けた。
「それで、みんなは音楽で成功することを望んでる、ってことなんだね」
「そこは見据えてなかったのか、おまえ」
 僕は再び声を上げた。
「うん、全然」
 そう返されて、思わずこけそうになる。たしかにバンドに加入した時も、「そこまでコミットする気はなかった」と言う奴だから、熱量の差は無理もないのかもしれないが。
「でも、万が一そうなっちゃったら、ジャスティンもロビンも、大学どうするの? まあ、僕もだけど」
 そうだ。僕らはもうすでに、進学先が決まっている。三人ともトロント大学へ行く予定で、エアリィは特待枠で物理学部、ロビンは人文学部、そして僕は医学部だ。
 プロのミュージシャンになりたい。それが僕の夢。もちろんそのためにバンドをやっているのだし、それを目標にして、がんばってきたつもりだ。実現することを夢見て。でも、それはいつ現実になるのだろう? 本当にミュージシャンになりたいのなら、なぜ僕は大学へ、しかも医学部へ行こうとするのだろう。ロックミュージシャンに大学は必要ないだろうに。進学を決めた時には、たしかに思っていた。まだはっきりプロへの道は開けていないのだから、大学へ行きながら今のようにセミプロとして活動をし、チャンスがあったらプロになろうと。でももしチャンスが来なかったらそのまま就職して、趣味として続ければいい――進学を決めた裏には、心のどこかにその思いがあったことは否めない。夢が見果てぬ夢で終わる可能性も考えて、安全な逃げ道を作っていたのだと。
「まあでも、先のことはわかんないから、その時に考えたらいいか」
 エアリィは首を振り、迷いのなさそうな口調で言う。自分から話を振っておいて、気楽な奴だ。でも、たしかにそのとおりで、三週間後に終わってしまう可能性も十分、いや、かなり高いだろう。

 でも実際には、そこで終わりはしなかった。僕らは州代表に選ばれてしまったのだ。とても信じられなかったが、紛れもない現実だった。夢はまだ進んでいる。
 二週間後の土曜日に、バンクーバーでコンテストの全国大会が行われた。僕らは大会の前日、初めて西海岸のその都市を訪れた。翌日午後からリハーサルが始まり、夕方五時から本番。全国大会では州大会と違う曲にしなければならないので、先月セッションで一から作り上げた四番目の歌入りオリジナル曲、その当時一番の自信作でもあった『Shades of Green』でエントリーした。これは思春期の、それこそ“青臭いものの見方”を自嘲気味に振り返ったような歌詞で、その底から純粋で無垢な精神性が輝き出るような、そんな曲だ。構成はいわゆるヴァース・コーラス・ヴァース・コーラス・ミドルエイト・コーラス、というような典型的なパターンをあえて外し、ちょっと複雑にした。変拍子やリズムチェンジも入れた。イントロから七拍子のアルペジオなんてSwifterの影響がありありだけれど、耳に残る軽快なヴォーカルメロディがインストの複雑さをカヴァーして調和する、不思議な曲でもある。
 演奏を終え、すべての出場者が出番を終えた後、三十分ほど休憩。その後、出場者十二組全員がステージに上げられる。そこで司会者が発表していく。まずは特別賞。それから準優勝。僕らの名前は上がらない。やっぱりそう甘くはないかな、ストレートな音楽の方が有利だったかな、そう思いかけたころ、司会者が高らかに言った。
「それでは最後に、今大会の栄えある優勝者を発表します」
 十秒ほどの緊迫した沈黙のあと、勝ち誇ったようなトーンで告げる。
「八番。オンタリオ州、AirLace! 参加曲『Shades of Green』!」
 一瞬、耳にした言葉が信じられず、僕は固まった。
「えー!? マジでぇ!?」と、エアリィは驚き全開なトーンで声を上げ、
「うぉおおお!! やったぞ!」と、ジョージは両手を突き上げ、雄叫びを上げた。
 ロビンは「うわぁあ」と震えながら、両手をぎゅっと握り合わせ、ミックは紅潮した顔で「やった! とうとう!」とため息を吐くように言った。
 そんなみんなの反応を見、聞きながら、僕はなおも声が出なかった。会場の拍手と歓声の中、奇妙な激しい戦慄が身体を駆け抜けるのを感じた。本当に──実現してしまうのか? 僕の夢がこんなに早く。
 司会者に「おめでとう。今の気分は?」と聞かれても、すぐには言葉が出なかった。
「あ、なんだか本当に……信じられません。でも本当に嬉しいです。ありがとうございます」――やっとそれだけ言った。先に司会者にマイクを向けられたエアリィが、「嘘みたい。ホント、信じられない。でも嬉しいです! ありがとう!」と答えた後だったので、結果的に同じことを丁寧に言いなおしたような感じになってしまったけれど、それは僕自身の感想でもあることには間違いない。

 毎年このコンテストには、音楽事務所やレコード会社など、業界の人が大勢足を運んで、これぞと思った出場者に対して交渉し、契約を持ちかけるという。結果、毎年優勝者はほぼ必ず、時には準優勝や特別賞の出場者にも、稀には選に漏れた人でも、プロへの道が開けることになるらしい。業界自体は年々厳しくなってはいるらしいが、とりあえずチャンスは与えられることになる。
 大会終了後、僕たちは出演者何組かが一緒に使っていた楽屋ではなく、テーブルと椅子が八客置いてある小さな部屋へ案内された。
「これから交渉が始まりますから、そこで待っていてください」
 主催者側の係員が言う。出された飲み物を飲みながら二十分ほど待っていると、ノックの音がし、二人の男性が現われた。ひとりは四十代半ばくらいの年配で、濃い金髪を七三に分けてなでつけ、銀ぶちの眼鏡をかけた背の高い人。もう一人は二十代後半くらいだろうか。背は年配の人より少しだけ低く、髪は茶色で少しウェーヴがかかり、肩幅が広く体つきはしっかりしているが色白で細面だ。茶色の目はあまり大きくなく、鼻筋は通っているがやはり細い感じで――まあ、あまり大きな特徴はないかもしれない。
「初めまして。幸運なことに、私たちが最初の交渉権を得たからよろしく頼むよ。私はASTRA Music Production総合マネージャー兼社長の、レイモンド・コールマンだ」
 年配の男性の方がそう名乗った時、僕は思わず声を上げた。「ASTRA?!」と。ミック、ロビン、ジョージも同じように声を上げている。かなり有名な、僕にとっては特別な音楽事務所。ロビンとミック、僕が大ファンだった、僕たちがこの道をめざそうと決心するきっかけになったスィフターが所属していたマネージメントだ。過去形で言わなければならないのが悲しいが。そう、彼らはもういないのだから。
「知っていてくれたのなら、嬉しいね」
 社長氏は笑みを浮かべた。
「そうだね。資料によると君たちのうち三人は、一番好きなミュージシャンにスィフターを上げてくれていたから。嬉しいね。若い子のファンもいないではなかったが、数は少ないからね。だから、うちの事務所のことも知ってくれていたんだね」
「は、はい」
 僕はかろうじて頷いた。ミックも同じようにしている。ロビンは固まってしまったらしく、ただうつむいただけだったが。
 社長氏は笑顔で頷き返し、傍らの若い方の男性をさして言葉を継いでいた。
「こっちの男はロバート・ビュフォードという。我々はロブと呼んでいるのだが、去年までスィフターのロードマネージャー補佐をしていた男だ。あの事故の、唯一たいした怪我もなかった生存者さ。ある意味強運の持ち主だ。彼が州大会で、君たちのことを報告してきた。君たちにほれ込んだと。全国大会へ行くことになったから、社長もぜひその目で確かめてくれと言うんで、私もここへ来た。そして彼の目に狂いはなかったことを確信した。彼はぜひ君たちのマネージャーになりたいと言う。おっと、それは先走りすぎかな」
 コールマン氏は椅子に座りなおすと、僕たちを正面から見据えた。
「君たちは非常な逸材だ。うちのマネージメントと、ぜひ専属契約をして欲しい。うちは君たちも知ってのとおり不幸な事件があって、今は有力アーティストがいない状態だ。しかし長年培ってきた経験と信用がある。レコード会社やプロモーターへの有力なコネクションもあるし、優秀なスタッフも残っている。うちへ来てくれれば、全力でバックアップすることを約束する。だから、ぜひうちへ来てくれ」
 夢が現実になる時、どれほど震えるような歓びを感じるだろうかと思っていた。でも実際には、ただただ信じられなかった。耳にした言葉が、目の前の人たちの存在が。どんな夢だって、これほどとんとん拍子に行くなんて、考えられない。
 僕たちは先送りするはずの決断、見果てぬ夢にかけるのか安寧な現実を取るのかという一生を左右する重大な分岐点に、思ったよりもずっと早く直面することになってしまった。卒業式を間近に控えた、ハイスクール最終学年の春に。秋から僕たちはトロント大学に、進学が決まっている。ミックは来月大学を卒業して大学院に進学する予定で、ジョージのほうはあと一年、大学の課程を残している。もし今プロになったら、進学はできないだろう。セミプロならいざ知らず、プロのミュージシャンと大学生とは両立できるほど甘くない。大学へ行けないことはかまわない。でも進学をやめてしまうと、もう後戻りができないような気もして不安だ。僕が跡を継いで医者になってくれると信じて疑わない両親の顔が、頭の中をかすめていく。
 何を迷うんだ。とうとう望みが叶うんだぞ。なのになぜ、いざ実現しそうになっている今、不安を感じてためらったりするんだ。間違いなく大きなチャンスだ。ためらって逃したら、次はいつやってくるか保証はない。運良く次の機会が巡ってきたとしても、その時には自信を持って受けられるのか? 今受けるのと、どんな違いがあるのか? 何も違いはしない。ためらうのは愚かなことだ。チャンスが早ければ、よけいな回り道をしなくてすむ。それに僕たちからすれば、憧れのマネージメントからのオファーだ。好運の女神は後ろ髪が禿げているという。ためらって逃がすなんてもったいない。いつかは決断しなければならないことだ。思ったより少し早いだけだ。
「みんな、どうする? 僕は願ってもない話だと思うけれど」
 ミックが僕らを見回して問いかけた時、僕は即座に頷いた。
「受けるよ! よろこんで」
「俺も異存はないよ」
 ジョージはにんまりとした笑いを浮かべた。
「しかしまあ、こんなに早くこの日が来るとはな。驚きだよ。大学はすっぱりやめよう。親にはいろいろ言われそうだが、元々その覚悟だったんだ」
「僕は卒業の年だから、憂いなく決断できるよ。大学院は入学辞退になっても、プロになれるのなら惜しくはないさ」
 ミックも笑みを浮かべながら、何度も頷いている。
「へえ、ホントにここまで来ちゃったんだ。夏一杯でやめるの、残念だなって思ってたけど……」
 エアリィの言葉は、青天の霹靂の一言だった。他の三人も同じだったらしく、一様に驚きの表情を浮かべている。
「え? どういうことだよ、エアリィ!」
 僕は思わず声を上げた。
「あ、まだみんなには言ってなかったけど」
 彼は少し戸惑ったような表情を浮かべた。
「九月から、MITに行こうかなって思ってたんだ」
 MIT? マサチューセッツ工科大学――?
「おまえ、僕らと一緒にトロント大学に行くんじゃなかったのか? 特待生だろ」
「うん。話が来たときはそうしようと思ったんだけど、次点の人に、譲ってくれって頼まれてさ。彼はそれを逃したら大学へ行けないって言うんだ。経済事情で」
「それで譲ったのか。バカだな。特待生じゃなくたって、他にも奨学金はあったろうに。誰だよ、その図々しい奴は」
「いや、誰とかはいいよ。それで、継兄さんがMITを勧めてくれたんだ。彼、そこの大学院にいるんだ。僕なら特待生枠取れるから、教授に推薦してやるって。家の方もね、家政を見てくれる人が来月から来てくれるから、大丈夫だってなって」
「嘘だろ……」
 僕は思わず頭に手を当ててうめいた。
「やめてくれよ。たった一年でアメリカに戻るなんて言うのは」
「あ、まだ決めたわけじゃないよ」
 エアリィはあっさりした口調で言う。「返事は保留してたんだ。このコンテストの結果が出るまで。ダメだったら、MITへ行こうって思ってた。みんなと別れるのは、寂しいなって思ったけど――よかった。そうならなくって」
「じゃ、お兄ちゃん、ボストン行かないの?」
 僕らが何か言うより早く、子供らしい声が響いた。エアリィの隣の席で絵本を見ていたエステルが、僕らの会話を聞いていたらしい。彼女の同行は、僕らにも予想済みだった。オンタリオ州大会にも来ていたし、練習にもほぼ毎回来ていたから。全国大会に行くために、スタンフォード家の車で順にメンバーをピックアップして空港に向かった。エアリィの家に寄った時、ちょっと申し訳なさそうに「ごめん、エステルもいい?」と妹を連れてきた時には、「やっぱりなあ」と、僕らは微苦笑を交わしたものだ。考えてみたら、父親が不在か、いてもかまってやれない状態の家に、泊りの旅行で小さな子を一人残しておくわけにはいかないから、当然でもあった。彼女の飛行機代は、お継父さんが出してくれたらしい。学校以外は、ほぼエアリィとセットで付いてくるエステルだから、僕らはもうすっかり彼女の存在に慣れていた。公共の場や楽屋では、おとなしく絵を描いたり絵本を見たりして一人で遊び、僕らがリハーサルや本番の時にも、ステージの隅っこの椅子に座ってじっと待っていたから、お行儀はいい子だ。僕らだけの時にはわりとおしゃべりで、比較的活発な子だが。
「うん。家は出るけど、トロントにはいるかな」
「わぁ、よかった!」
 兄の答えに、妹は両手を合わせ、歓声を上げる。
「紛らわしい言い方するなよ!」
 僕は安堵のあまり、思わず肩を叩いた。
「つまりは、おまえもOKなんだよな、プロになるの」
「うん。そう言おうとしたら、途中で切られた」
「話の順序の問題だ、それはな。でも、良かったよ」
 ジョージも満面の笑みで頷いている。
「おまえはどうする、ロビン? ここまで来たら、おまえも後には引かないよな」
「あたりまえだよ! 僕の夢だったんだから」
 ロビンは首を振り、兄に答えた。
「よし、じゃあ、プロになるということで決定だな!」
 ジョージがそう宣言し、
「では、さっそく仮契約、良いかい?」と、社長氏が身を乗り出してきた。
「本契約は、トロントの事務所で改めて行おう。親御さんたちにも話さなければならないだろうから、そうだな……明後日、事務所まで来てくれ。これが地図と連絡先だ」
 仮契約が終わると社長氏は僕らめいめいに名刺と、マネージメント事務所の場所を記した小さな地図を手渡した。

 一度転がり出したボールは、もう止まらない。翌日、僕らはバンクーバーからトロントへ帰り、その夜、僕は乗り越えなければならない大関門に、正面突破を試みた。ホプキンスさんは休暇中で不在だけれど、夕食の席には家族全員がそろっている。父、母、兄のジョセフ、姉のジョアンナ、妹のジョイス。話をするにはいい機会だ。それにホプキンスさんの不在は、強力な反対勢力が一人減っていることを意味する。どの道、今日中に話をしなければならない。
 夕食が終わり、コーヒーもほぼ飲み終わったころ、僕は意を決して切り出した。
「話したいことがあるんだけれど、聞いてほしいんだ」
 そして僕は、一気に言った。僕は大学へは行かない。バンドがコンテストの全国大会で優勝して、プロから誘いが来た。僕らはそれを受けた。仮契約もすんだ。ハイスクールを卒業したら、マネージメントが借りてくれたアパートで暮らし、プロとしての第一歩を踏み出すつもりだ、と。
 僕の言葉の意味が家族に浸透するまで、かなりの時間を要したようだった。長い沈黙。やがて母がガタンと椅子を後ろに倒しながら立ち上がり、うわずった声で叫んだ。
「まあ、ジャスティン! なぜ、そんな大事なことを、一人で決めてしまったの?!」
「おまえがバンドを熱心にやっていたのは知っていたが」
 兄ジョセフの声もかすかに震えている。
「大変なことだぞ。いや、医者にならなかった僕がえらそうなことは言えないが、それにしてもロックミュージシャンとは……どういう世界だか知っているのか?」
「知っているとは、言えないかもしれない。でも、実力や努力だけが必ずしも報われる世界じゃないことや、成功できるのはほんの一握りの人間だけだということや、成功したとしても堕落への誘惑も多い世界だということは、知っているつもりだよ」
「そうだ。好きだけでは、やっていけない世界だぞ。おまえがどれほどがんばっても、認められないかもしれない。どんなに努力しても這い上がれない、そういう可能性だってあるんだ。いや、そっちの方がはるかに多いだろう。特に今は、業界自体セールスが劇的に落ち込んでいるんだぞ。これからだって悪くなる一方だろう。おまえは夢を見ているだけだ。なぜ、危ない道を選ぼうとするんだ」
 だってそれは、僕の夢だから――それは軽々しい言葉だろうか。そう、本当に兄の言うとおり、夢を見ているだけなのだろうか。
 兄はため息を吐き、言葉を続けている。
「おまえは医者に向いている。僕はそう思ってきたし、僕が親不孝をした分も、おまえが埋め合わせてくれると……いや、それは僕の勝手な期待だから、どうでもいい。でもな、ジャスティン。悪いことは言わない。芸能界なんて、外から眺めて憧れるだけにしておくんだ。中に入ったら幻滅するだけだ。いろいろなしがらみや誘惑や躓きや現実が、おまえの夢を奪っていくだろう。その時に後悔しても、もう遅いんだ」
 そうかもしれない。うまくいかない可能性だって、当然あるだろう。でもやりもしないうちから、あきらめたくはない。僕は反駁した。
「どうして最悪のことばかり、考えなければならないんだい、ジョー兄さん。そういうことだって、あるかもしれない。それは、たしかに認めるよ。でも、そればかりじゃないはずだ。僕は音楽が好きだ。ギターが好きだ。仲間たちと好きな音楽をやって、それで生活が立てられたら、僕らの音楽を聞いてくれる人がいたら、それ以上は望まない。医者はたしかに興味はあるけれど、僕の天職じゃない。僕は父さんのように苦しんでいる患者さんたちを救うという使命感もないし、心が沸き立つわけでもない。たとえ成功の可能性がわずかでも、僕は自分の道にかけたいよ」
「……あなたはまだ若いし、今までに躓いたこともない。だからそう言えるのよ。あなたは現実の苦しさや厳しさというものが、わかっていないわ。わたしはあなたが医師にならないと言うなら、それはしかたがないとも思っているのよ。でも、ロックミュージシャンだけは……体面や体裁の問題ではないの。あまりに不安定だし、危険すぎるわ。音楽で生活が立てられる人なんて、ほんの一握りよ。それだって、いつまで続くかわからないのよ。不健康な世界だということも聞いているわ。ジャスティン……わたしはあなたを信用しているけれど、あなたは本当には何もわかっていない。夢を見ているだけよ。もっとよく考えなさい」
 母は懸命に落ち着こうとしているような声だった。
「だけど母さんや兄さんが、どれだけあの業界のことを知っているのかい? 外からの評判や偏見だけじゃないか」
「それだけじゃないぞ」兄がうなるように言う。
「僕は少なくとも、おまえよりは知っている。僕だってロックは嫌いじゃない。おまえも僕がハイスクールの時、一時期バンドを組んでいたのを知っているだろう。そこでドラマーだった僕の友人はハイスクールを中退してプロをめざし、セミプロ活動に入った。彼は上手だった。才能もあったと思う。だが彼はとうとう芽が出ずに、今は結局、自分が以前出ていたクラブのバーテンダーをしている。八年も回り道をして、行きついた先が場末のクラブのバーテンダーだ。あの時でさえそうだ。ことに今は、音楽業界全体が厳しい状況に陥っている。新人をゆっくり育てている余力はない。すぐに成功しなければならないんだ。それがどれだけ難しいか。おまえだって、もし何年もそれでロスをしてしまったら、やり直すのは大変だぞ。また一から勉強しなおして、医大を受験する根性があるなら別だが、それでもどれだけかかるか……」
「その人は不幸な例だろう。失敗もあれば成功もあるんだ。そんなの、やってみなきゃわからないじゃないか。それに仮に失敗したって、僕は後悔なんかしないよ。行きつく先がクラブのバーテンダーでも、好きな音楽を聴いて働けるなら、僕ならきっと満足するさ。いいじゃないか。自分の生き方くらい、好きにさせてくれたって。僕はもう十七なんだし、ハイスクールも卒業する。もう一人前だと思ってる……」
「ばかもん! 一人で大人になったようなことを言うな!」
 父が家中に響き渡るような声で怒鳴り、同時にテーブルを激しく叩いた。その衝撃でコーヒーカップが二つほどひっくり返り、夕食用の白いテーブルクロスの上に、小さな茶色のしみを作っていく。父はさらに声を張り上げた。
「おまえなんぞ、まだまだひよっこにすぎん! 自分の好きなようにさせてくれだと?! ふざけるな! 大学の手続きも、もうすっかり済んでいるんだぞ!」
「それは……悪かったと思うよ。入学金も学費も無駄にして。いつかきっと返すから」
「金の問題じゃない! せっかく医学部に合格したんだ。どれだけ母さんも私も、喜んだと思っているんだ! それをこの場で、全部ひっくり返そうというのか! そんなことは許さん! おまえは大学に行って、医者になれ、ジャスティン! 医者になって、この病院を継ぐんだ!」
「いやだ! 僕は大学には行かない! 医者になんかならない! 自分の道を行きたい! 父さんの思いどおりになんか、なるもんか!」
 僕は衝動的にそう叫んでいた。
 父は乱暴にいすを後ろに引き倒すと、大股にやってきて、手を振り上げた。次の瞬間、鋭い痛みと衝撃が頬を走った。さらにもう一回。僕は思わず後ろによろめいた。口の中に血の味がし、同時に、ますますかっと熱くなった。
「わかってくれないなら、もういいよ!」
 部屋を飛びだして行く僕のあとから、色々な声が交錯して追いかけてくる。
「ジョン、暴力はやめてくださいな! ジャスティン、待ちなさい! まだ話は終わっていないでしょう! 戻ってらっしゃい!」
 母がうわずった声で叫び、
「追わなくていい、ルーシア! ほうっておけ! あんな奴はもう知らん!」
 父は激した様子で、吐き捨てるように怒鳴っている。
「二人とも興奮しないで。もっと落ち着いたほうがいいよ」ジョセフが宥め、
「これが落ち着いていられるか!」と、父が怒鳴り返す。
「とにかく、もう少し冷静に話しましょうよ」なだめるような声で言っているジョアンナ、
「お父さんったら、ひどい! 叩かなくたっていいじゃない!」と、声を上げてなじっているジョイス――。
 階段を上がって部屋に行くまでに、いろいろな声が入り交じって聞こえてきた。僕は自分の部屋のドアをバタンとしめて、音を遮断した。中から鍵をかけると、ベッドの上にどさっと身を投げ出し、枕に顔を埋める。
 親に叩かれたのは初めてではないけれど、覚えている限り、ここ十年ほどはない。頬が熱く、ジンジンとしびれるような感じがした。でも、痛みはどうでもいい。名状しがたい胸苦しさを感じた。家族にすんなり賛成してもらえるとは思っていなかったけれど、これほど拒絶されるとも予想していなかった。僕は自分の見通しの甘さをなじり、落ちこみ、それから考えることをはじめた。どうすればいいのだろう。
「家を出るしかないな……」
 両親を説き伏せるには、まだまだ時間と労力がかかりそうだ。ひょっとしたら、一生ダメかもしれない。わかってくれないなら、もういい。僕は自分の道を行くだけだ。
 僕は起き上がり、大きな旅行用バッグをひっぱりだすと、荷造りをはじめた。これから家を出て、自分の足で踏み出さなければならない。親が許してくれても、契約が完結すれば僕たちはプロとして独立生活を始めることになる。どのみちこの家は出なければならないのだから、こういう形になったとしても未練はない。僕はもう十七才だ。ハイスクールも卒業する。もう親の保護なんか必要ない――。僕は少し逆上せていたのだと思う。初めて親に正面切って反抗した興奮と、その無理解に対する憤激とで、頭がいっぱいだった。

 部屋のドアをノックする音が聞こえた。僕ははっとして頭を上げた。
「誰?」
 しばらく沈黙の後、ジョアンナの声がした。
「わたしよ。ジョイスも一緒にいるわ。入れてちょうだい。話があるのよ」
 僕は一瞬ためらった。
「今、邪魔されたくないんだ。悪いけど、帰ってよ」
「ジャスティン、あまり興奮してはダメよ。あなたの気持ちも、わからないではないけれど。ともかく入れてちょうだい。入れてくれるまでは、わたしたち、ここを動かないわ」
 普段は穏やだが、ジョアンナという人は一度決心してしまうと、絶対あとには引かない。今も彼女がその決意なのは、独特のきっぱりした口調から伺えた。しばらくは気にしないようにしたが、三十分以上たっても、まったく立ち去る気配がない。僕は降参し、渋々ドアを開けた。部屋に入ってきた二人は、ベッドの上に作りかけになっている荷物を見て、驚いたようだった。
「ジャスティンお兄ちゃん、ひょっとして、家出するつもりだったの!」
 ジョイスが目を丸くして、荷物と僕を交互に見ながら叫んでいる。
「そうだよ。どうせ父さんや母さんには、わかってもらえないんだ。僕は明日、出ていくよ。そうすれば、みんなにも迷惑は、かからないだろ」
「いやよ、そんなの!」
 妹はポニーテールにした栗色の髪を揺らせて僕に飛びつき、わっと泣き出した。
「あたし、お兄ちゃんが行っちゃうなんて、いや!」
「ジョイス、ごめん。でも、みんないつかは大きくなって、家を出ていかなきゃならないんだよ。大学へ行っても、カレッジに入寮することになるだろうしね。三、四ヶ月早くなるだけだよ」
「だって……いつ、帰って来てくれるの? パパとケンカしたままじゃ……」
「ああ。しばらくは帰って来れないだろうけど、でも外では会えるさ。泣くのはやめてくれよ、ジョイ。もし父さんや母さんが許してくれたら、また遊びに帰ってくるよ」
「本当? 本当に来てくれる?」
「ああ、それに僕の落ち着き先が決まったら、いつでも遊びにおいで。ただ、僕も仕事を持つから忙しいだろうけどね。暇な時だったら、相手になれるよ」
「本当? うれしい!」
 ジョイスは僕の傍らに腰をおろすと、大きな淡褐色の目をきらきらさせて見上げた。
「あたし、がんばってパパを説得するわ。お兄ちゃんがミュージシャンになることを認めてもらうの。そうすればお兄ちゃんもお休みの時に、家に帰ってこられるわけでしょう?」 「ちょっと待って、ジョイス。あなたは先走りしすぎよ」
 ジョアンナは僕を挟んで妹の反対側に腰をおろしながら、苦笑して遮った。
「それより前に、もう少しじっくり考えなければならないことがあるのではなくて? ジャスティン、あなたに聞きたいことがあるの。あなたはちゃんと考えて決めたの? 本当に音楽を一生の糧にして、生きていくつもりなの? 兄さんの言うことは本当だと思うわ。決して生易しい業界ではない。それでも何が起きても後悔しないほど、あなたは音楽が大好きなの? その仕事がどうしてもやりたいの?」
「うん。僕なりにいろいろ考えたんだ。難しい道だってこともわかってるつもりだけど、でもやっぱりこれしかないって思えるんだよ」
「そう……」
 姉はしばらく僕の顔をじっと見守り、静かに頷いた。
「もう一つ、質問があるの。わたしは音楽業界のことは詳しくないけれど、とかく良くない評判を聞くわ。麻薬とか、乱れたセックス、アルコール中毒、暴力。どれも恐ろしい罪よ。母さんや兄さんもはっきりとは言わないけれど、そのことを心配しているのだと思うの。あなたはそういう罪に染まらないって、ここで誓えて?」
 姉の言葉には、率直で真摯な響きがあった。僕には、まるで良心の声のように聞こえた。
「大丈夫だよ。誘惑に負けたり、罪に染まったりはしない。いつも良心を保つようにするよ。それに、人に悪い影響を及ぼすようなことはしない。神さまに誓ってもいいよ」
「そう。それなら、わたしはあなたを信頼するわ、ジャスティン。わたしはあなたを良く知っているつもりよ。あなたは不道徳な子ではない。軽はずみでも、向こうみずでもないわ。あなたがそう言うからには、よっぽど強い決心があるのね」
「うん。僕は本気なんだ」
「それなら、わたしはあなたの行く道に、祝福があるように祈るだけだわ。あなたは自分の選んだ道を行く権利があるのですもの。その選択に責任がもてるかぎりはね。今はたしかに、家を離れるのがいいことなのかもしれないわ。父さんも母さんも冷静さを失っているから、少し時間と距離を置いたほうがいいでしょう。でもね、ジャスティン。わかってもらおうとする努力は、これからもやめてはいけないわ。父さんも母さんも、決してわからず屋ではないの。あなたの話があまりに急で、思いもよらないことだったから、びっくりして我を忘れているだけなのよ。九月から大学の医学部へ行ってくれると思い、それを心から喜んで、入学の準備をしていたのよ。必要になる本のことや、あなたがカレッジに入寮した時のための支度のこと、将来のことを、父さん母さんは嬉しそうに話していたわ。それなのに、あなたにかけていた期待を突然裏切られた。父さん母さんからすれば、そうとしか思えないのかもしれないわ、今は」
「うん……それは、わかっているよ。父さん母さんには、本当に申し訳ないことをしたと思っているんだ」
「あなたがそれをわかっているなら、大丈夫ね。父さん母さんも、少し時間はかかるかもしれないけれど、いつかきっとわかってくれるに違いないわ。あの人たちは、あなたのお父さんとお母さんなのよ。あなたを生んで、あなたに愛を注いで、ここまで育ててくれた人たちなの。そのことへの感謝は、忘れてはだめよ」
 その言葉は冷静さを失っていた僕に、落ち着きと理性とを取り戻してくれるような気がした。僕はふっと息を吐き、頷いた。
「そうだね……ありがとう、姉さん……」
「あなたに神のご加護がありますように、ジャスティン」
 ジョアンナは灰色の瞳に彼女独特の慈愛を宿して僕をまっすぐに見、静かに頷いた。
「もう一つ、忘れないでね。もし夢が実現せずに、うまくいかなくても、あなたの人生はそこで終わりではないことを。他の道も、やり直せる機会もたくさんあるということを」
「うん。ありがとう、姉さん。いつか、万が一夢が破れる時が来たら、思い出すよ。今はまだ、考えたくはないけれどね」
「大丈夫よ、ジャスティンお兄ちゃん。あたし、力になれるなら何でもするわ」
 ジョイスが両手で僕の手を握り、きらきらした瞳で僕を見つめた。
「がんばってね、お兄ちゃん。あたし、どんな時でも、お兄ちゃんの味方よ」
「ありがとう」
 僕は妹の手を握り返し、両手を回して二人を抱きしめた。
「ありがとう、姉さん、ジョイス……僕も二人の幸せを願っているよ」

 翌朝、僕は荷物を詰めた旅行用バッグとギターを入れたケースを持って、食堂に下りていった。荷物を置くと、テーブルに歩み寄る。
「お父さん、お母さん、ジョセフ兄さん。僕は今日、家を出ていくよ」
 しばらく、みなは無言だった。ジョアンナとジョイスは予想していただろうが、父母や兄には衝撃だったのだろう。三人ともフォークやナイフを宙に浮かせたまま、唖然として見ている。僕も次の言葉を失って、家族の顔を見返していた。
 やがて呪縛がとけたように、フォークやナイフはテーブルの上に置かれた。
「ジャスティン。あなたって子は……まあ! 本当に出ていくつもりなの!」
 母が立ち上がり、かすれた声で叫んだ。
 反応が返ってきた今、僕は言葉を続けることができた。
「ごめんなさい、お母さん、お父さん! それに兄さん」
 僕は床に跪いた。
「お父さん、お母さん。親不孝なまねをしているっていうことは、僕もよくわかっているんだ。許してくれなくても、仕方ないって思ってる。期待を裏切ってしまって、本当にごめんなさい。でも僕はやっぱり、自分の好きな仕事をしてみたいんだよ。せっかく来たチャンスを逃がしたくないんだ。お父さん、お母さん。僕を産んで、今まで育ててくれて、ありがとう。それから兄さん、ずっと気にかけてくれて、愛してくれてありがとう。僕はこの家で、とても幸せだった。それなのに、こんな形で出ていくことは、すごくつらいけど……僕はずっとみんなのことを、愛しているから」
 我知らず涙が流れてきた。誰も、何も言わなかった。凍りついたような沈黙の中、僕はゆっくりと立ち上がり、荷物を取り上げてみなに背を向け、廊下へ出ていこうとした。
「待ちなさい、ジャスティン」
 母のつまったような声がした。僕は振り向いた。母は僕を見たまま、しばらく何も言わない。やがて、震える声で口を開いた。
「せめて……せめて、朝くらい、食べていくものよ……」
「ありがとう、母さん。でも僕、なんだか胸がいっぱいで、何も食べられそうもないんだ」
 僕は精一杯、笑顔を作った。泣いたままでは、出て行きたくない。
「ジャスティン! 間違っていると思ったら、意地をはらずに帰ってこいよ! おまえは、まだ十七だ。若いんだからな」
 ジョセフがテーブルから立ち上がって、そう言っている。
 ジョアンナはそっと微笑んで頷いてみせ、ジョイスは元気な声で、「がんばってね!」と言ってくれた。父は新聞に顔をうずめ、何も言わなかった。その手が、かすかにぴくぴくと震えているのが見える。
「許してもらえたら、また来るよ。ホプキンスさんにもよろしく言っておいて。今まで……ありがとう、本当に。そして……ごめんなさい」
 僕は廊下から玄関へと進んだ。喉元にこみ上げてくる固まりを感じながら玄関のドアを閉め、何かに追われるように小走りに、家の門から外へと出ていった。

 よく晴れた暖かい、五月下旬の朝だった。僕は門を出、我が家を振り返った。閑静な住宅街の中、広い芝生を前景にして建つ、レンガ調の壁にモスグリーンの屋根の大きな家。厳しくも暖かい両親と、よく遊んだり相談相手になってくれたりした姉や兄、年も近く気の合う妹、優しいホプキンスさん。彼女が休暇中で不在だったことは、ある意味ほっとしていた。両親のみならず、僕は彼女の期待も裏切ってしまったのだから。物質的には何一つ不自由したことなく、愛情も常に満ちていた家。そこから出ていくことは、暖かい繭を抜けて、厳しいけれど広い大空へ飛びだすことだ。
 僕は大きく深呼吸をし、時計を見た。七時四○分だ。これからどこへ行こうか。足は自然とロビンとジョージの家へ向かったが、途中で気がついた。彼らだって、家族を説き伏せるのに苦労しているのではないだろうか? 今僕が行ったら、よけい混乱するんじゃないだろうか? 
 ジョージとロビンのスタンフォード兄弟の家は、国内有数の大財閥だ。スタンフォード財閥は基本的に同族経営で、衣類と雑貨を扱う小さな貿易商からレジャー産業まで手を広げるようになった大会社へと、一代で発展させた創業者であるバーナード・スタンフォード氏がCEO、その次男で、氏の末っ子であるロバート氏(ジョージとロビンの父親)が社長を務めている。バーナード翁の長男は系列会社の社長で、長女と次女、それぞれの婿たちも、同じようにそれぞれ系列会社を経営している。ジョージとロビンの一番上の兄、ブライアンを含め、孫たちの何人かも、すでに経営者見習いとして会社に入っているという。ジョージとロビンの実家であるウォールナット・フィールドの隣の建物には長男、彼らからすると伯父に当たる一家が住んでいる。その隣には、それぞれ娘たち、二人にとっての伯母一家が住む。この一帯は、スタンフォード一族の王国だ。
 幼い頃から何度も訪れ、僕にとっては第二の我が家ともいえるウォールナット・フィールド。名前のとおりクルミの木がいっぱい茂っている広い庭、壮大な屋敷と豪華だが品のいい調度、たくさんの雇い人たち。ちょっと見にはいかめしそうだが、どことなくユーモラスな感じも漂わせている、頭のはげた小柄なバーナード翁。口ひげを蓄え、とび色の髪がいくぶん後退しかかり、小太りで一見気のいいお父さん風のロバート氏。血色のいい顔につやつやした黒い髪を編み上げ、きびきびとした動作の、気さくなジェーン夫人。眼鏡をかけ、黒髪をきちんとなでつけた、ちょっと神経質な感じの、一番上の兄ブライアン。この家族たちが、ロビンやジョージの決断をどう受け止めるだろうか? もし僕の家以上に、保守的だったら――?
 僕は方向を変えて歩き出した。とりあえず家から遠ざかろう。歩いているうちに、地下鉄の駅が目に入った。家からは、歩いて十五分ほどの距離にある場所だ。あの夜、Swifterのコンサートを見終えて帰ってきた時、階段を上ってここに出てきた。ロビンの家でもうちでも、夜遅くなるからと車での迎えを提案されたけれど(実際、会場まではスタンフォード家の車で送ってもらった)、僕たちは断っていた。ライヴの余韻に浸っていたかったから、そんな予感のせいだ。それは正しかった。地下鉄には、同じコンサートに行った大勢の人たちが乗っていて、その話題を盛んに話している、コンサート後の熱気の余韻に浸ることが出来た。でもロビンと僕が『バンドを作ろう!』と、あの街灯の下で興奮して話し合ったその直後、黒塗りの見慣れたリムジンが横に停まり、『ロビンお坊ちゃま、ジャスティン様、雪が降ってまいりましたし、ここから先は人通りもあまりありませんゆえ、お迎えに参りました』と、スタンフォード家の副執事が助手席から降りてきて告げたものだ。車では数分くらいの距離なのに。
 僕は思い出して苦笑し、地下鉄駅の階段を下りた。普段は自動車での移動が多く、ほとんど公共交通機関は利用していないので、少し新鮮な気分を感じ、僕はふと学校まで地下鉄で行ってみようと思いついた。学校まではたった一駅、階段を上がり、見慣れた通りを歩いていく。十分ほど歩いた後、僕はハイスクールの近くにある、ファーストフードの店に入った。家を出るという緊張感が抜けたら、お腹がすいたのを思い出したからだ。
 一人で朝食をとりながら窓の外を見ると、春の明るい日差しに照らされて、並木の影がくっきりと道に浮き出ている。登校時間になる頃で、何台も送迎の車が通って行く。歩きや自転車の学生もいる。僕たちは一ヶ月ほど前に、最終試験を終えた。あとは一週間後に行われる卒業式まで、学校には行かなくてもいい。並木の向こうに、学校が見える。つい先月まで通っていたのに、学生時代が遠い昔のようにさえ感じられた。

 ポケットの中で携帯電話が鳴った。僕は電話を取り上げ、通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「あっ、ジャスティン?」  聞こえてきた声は、ガールフレンドだ。
「ステラ?」
 僕は驚きながら問い返した。
「おはよう。どうしたんだい、こんな朝から。学校はお休みかい?」
「ええ、今日は卒業式なの。だから、わたしたちはお休みなのよ。学年代表で、式に出る人たちは別だけれど」
「そう。君の学校は、早いんだね」
「ええ。いつもこのくらいの時期よ。それでね、今夜の卒業パーティに招待されたの。一緒に来てくれるかしら?」
「そう。何時から?」
「六時からなの」
 行けるだろうか? 午後からマネージメントのオフィスへ行って、本契約をして、アパートも探さなければならない。それに僕が持ってきた荷物の中に、卒業パーティに着ていけそうな服はあっただろうか? 今朝あれほど大げさに家を出ておいて、その午後に服を取りに戻るなんて、間抜けにもほどがある。でも断ればステラはがっかりするだろうし、彼女にもいずれ僕の決断を話さなければならない。その前に下手に機嫌を損ねたくはない。
「良いよ。じゃあ、五時半に君の家に迎えに行くよ……」
 でも、兄の車を借りるわけにはいかないだろうし、家の運転手にももう頼めない。
「ごめんよ、だけど家の車では行けないんだ。タクシーになっても良いかい?」
「あら……」
 ステラはちょっと残念そうな声になった。
「お兄様の車もお家の車も、今日は都合が良くないの?」
「まあ、そんなところだね」
 思わず苦笑がこみ上げた。
「それならタクシーでも良いわ。迎えに来てね」
「ああ」僕は頷き、ついで聞いた。
「ところでステラ、僕も話したいことがあるんだ。学校がお休みなら、これからちょっと出てこられないかい?」
「いいわよ。でも、お昼までね」

 一時間後、僕らは彼女の家にほど近い喫茶店で会った。
 ステラは十六才、九月で十七になる。カトリック系のプライベートスクール、良家の子女が行く品の良い学校として有名なそのスクールの十一年生だ。彼女はジーンズやTシャツ、スウェットのようなカジュアル系の服は、まったくといっていいほど持っていないらしい。学校は制服があるし、普段の服装もほとんどワンピースやスカートばかりだという。ピンクや赤といった華やかな色や、派手な装飾も好きではないらしい。僕の知る限りでは、白や紺系を好んでよく着ていた。
 この日もセーラーカラーの白いワンピースだ。スカートは広がりすぎず、タイトすぎてもいず、全体に青い水玉が飛んでいる。襟元とカフス、スカートの裾には青いリボンの縁取りがついていた。黄金色の巻き毛を肩に垂らして、両サイドの髪を耳の上で小さく結び、青いサテン地のリボンを飾っている。顔立ちは全体に小作りで、少し上を向き加減の小さな鼻と頬のかすかなそばかす、それに顔のほかのパーツに比べて少々口が大きすぎることが彼女の悩みの種らしい。でも僕から見れば、彼女の理想だと言っていた完璧な美人──すらりとして背が高く、ギリシャ彫刻のような研ぎ澄まされた美人より、小さな欠点はあっても、愛らしいステラの顔が好きだ。はにかんだように目を伏せるその表情、頬に上る紅の色、微笑むと右側の頬にだけ浮かぶえくぼ。彼女はその魅力に気づいているだろうか。
 そんな彼女に僕は話した。僕に訪れた運命の転換と、これからの決意を。ステラは驚いたように目を見開いて、じっと話を聞いていた。二、三度激しく瞬きし、何か言いたいように口を開けたが、思いなおしたようにまた閉じる。
「まあ!」
 彼女は口に出しては、それだけ言った。そして少し間を置いて、再び繰り返した。
「まあ!」
「突然で、びっくりしたと思うけれど」
 僕は手を伸ばし、ステラの手をとった。
「そういうことなんだ、ステラ。僕はミュージシャンになる。君は反対かい?」
「反対というより……ただ、驚いたわ」
 ステラは目を見開いたまま、首を振った。
「わたし、あなたはお医者さまになるとばかり、思っていたのですもの。九月から大学の医学部に行くと言っていたし……それでゆくゆくは、あなたのおうちの病院の、お医者様になると思っていたのよ。ご両親は、それで良いとおっしゃったの?」
「いや、大反対されたよ。勘当同然だね。それで、家を出てきたんだ」
「まあ……」
 再びそう言ったあと、彼女は僕の傍らにおいてある大きな旅行バッグとギターケースに目をやり、やや詰まったような口調で続けた。
「だから、そんなに荷物がたくさんあったのね。どうしたのかと思ったのよ」
「ああ、そうなんだ」
 僕は微かに苦笑して、肩をすくめた。そして彼女の手を、少し力を込めて握った。
「ステラ、僕は本気なんだよ。それだけは、わかってほしいんだ」
「ええ。あなたがロックを好きだということは知っていたし、バンドに一生懸命だということも、知ってはいたけれど……あなたのバンドがダンスに出ていて、わたしたちも知り合ったのですものね。でも、そこまで本気で考えていたなんて知らなかったわ……」
 ステラは目を伏せた。しばらく思案しているようにテーブルに視線を落としていたが、やがて再び目を上げて僕を見た。
「でもジャスティン、ご両親に反対されても、あなたの決意は変わらなかったのでしょう? わたしが反対しても、やっぱり気が変わったりはしないのでしょうね」
「ああ。君には申しわけないけれどね。でも、できたらわかってほしいんだ。君だけには」
「そう。わかったわ……少し考えさせて」
 ステラは微かに頷き、再びテーブルに目を落とした。考え込んでいるような沈黙が、しばらく続いた。僕は黙って待っていた。
 やがて、彼女は思い切ったように目を上げ、頷いてくれた。
「ええ。わかったわ。それがあなたの夢なのよね。しかたがないわ。でも、一つだけ約束して」
「なんだい?」
「浮気はしないでね。他の女の子と仲良くしたりしないで」
「しないよ。そんなこと、絶対に」
 僕は思わず吹き出した。
「本当に? 約束よ」
「ああ、約束するよ」
「それなら……いいわ。がんばってね」
「ああ、ありがとう、ステラ!」
 僕は安堵のあまり、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。でもステラは人前でのそんな行為をとても許さないだろう。
「でも、今日は大丈夫なの? 卒業パーティには来てくれるの?」
 ステラは心配そうに首をかしげ、問いかけてくる。
「ああ、行くよ。ジョイスに頼んで、着ていけそうな服を持ってきてもらうから。来週には僕も卒業式だから、ちゃんとした服装が必要だしね。タクシーにはなってしまうけれど、五時半に君の家に迎えに行けるようにするから」
「そう。よかったわ」
 ステラはティーカップを手に取りながら、控えめな微笑を見せてくれた。




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