三木家文書

忌部神社正蹟補考

田村神社宮司 細矢庸雄 謹提

著者略歴:細矢庸雄

著書に『忌部神社鎮座考』『忌部神社正蹟増補考』などがあります。

【編者考証】細矢庸雄の経歴から読み解く執筆の背景と「転勤」の謎

細矢庸雄は出羽国(秋田県)の藩校教授を経て、明治5年に安房神社(千葉県)、明治6年に大麻比古神社(徳島県)と、忌部氏ゆかりの式内大社を歴任した平田派の国学者です。その後、明治7年10月に讃岐国の田村神社へ権宮司として異動しています。

当時の時系列を追うと、非常に興味深い事実が浮かび上がります。細矢が大麻比古神社に在任していた明治6年〜7年頃、阿波では式内社「忌部神社」の所在地を巡り、山崎村と貞光村などの間で激しい論争が起きていました。政府の命を帯びた考証家でもあった彼は、当然この検証に関わっていたはずです。

しかし、検証の最中である明治7年10月、彼は突如として讃岐の田村神社へ転勤となります。そして彼が阿波を去ったわずか2ヶ月後の12月、太政官布告により山崎村が「忌部神社」として正式に比定されたのです。

杜撰な史料解釈を許さない厳格な細矢がいては、山崎村での比定を強行できない――そう考えた勢力による「体裁の良い厄介払い」であった可能性も否定できません。この長大な『忌部神社正蹟補考』は、赴任先の讃岐から、山崎説の牽強付会(「ケカ」を「ク々」と読むなど)を真っ向から論破し、不当な比定を覆そうとした「執念の告発書」であったと言えます。

地元に伝わる「立派な宮司が赴任してきたが、偽物だと見破って帰ってしまった」という伝承は、この「阿波にいた神道エリートが、山崎説を偽物だと徹底的に否定し、結果的に阿波を去った」という痛烈な史実が、後世の人々の間で劇的に脚色され、定着したものと考えられます。

忌部神社本宮の真の所在地について

【式内忌部神社の確定について】

忌部神社鎮座の事については、一説に挙げられているように、いずれも正しい旧跡と呼ぶべきものです。とりわけ野口年長が書かれた「山崎村鎮座忌部神社考」などは、大神の御神徳も世に現れ、数千歳の今に至るまで高く貴き御稜威(みいつ)が輝き賜う事は、実に天日鷲命の御鎮座なされた旧跡とも呼ぶべきでしょう。とはいえ、式内忌部神社にして当国の三大社の一社、あるいは国の一宮、四国の一宮などの確たる証拠がなくては、太祖本宮である天日鷲命の忌部神社であると言い難いでしょう。

【野口年長の四至の立石説への反論】

野口年長の「忌部神社考」には、「黒谷の旧社地およびその他の所々を見分したところ、四至の立石が御座候。考えますに、これは式内の大社の四至の立石に相違ないと存じ候」云々とあります。これは度会神主が書かれた『類聚神祇本源』を引いて考えられた説ですが、この官符は宝亀二年(771年)二月十三日のものであり、延喜式が撰上された延長五年(927年)十二月二十六日よりも百五十三年も以前の事ですから、これをもって直ちに「式内の大社」と言うことは困難です。また、式内の大社で今も四至の立石が残存している神社があるでしょうか。私がかつて奉仕した安房国安房郡大神宮村に鎮座する安房神社、また当国板野郡板東村に鎮座する大麻比古神社、讃岐国香川郡一之宮村に鎮座する田村神社は、いずれも式内名神大社ですが、四至の立石など全くありません。また、私の生まれ故郷である出羽国の九社やその他の大社においても、そのような立石を見聞きしたことはありません。したがって、これを以て式内忌部神社の確証とは言い難いのです。

【川田村説の否定と過去の自説の訂正】

また、私がかつて執筆した「川田村忌部神社鎮座考」などは、大方の趣旨に合致する事があるというまでの事であり、忌部本宮たる確たる証拠がなければ、本社から分かれた郷社や末社の忌部神社であるべきです。川田村の忌部社伝に「履中天皇の御宇、鷲住王がこの地の率地に座し、摂社・末社を建立し、大いに忌部神社を再興した」とあるのは、この頃に斎き奉って山の名も木綿麻山とし、川を木綿麻川と呼び、率地山木などと称したものであり、これは貞光の木綿麻山神社から移して唱えたものに違いありません。ここを忌部神社、あるいは忌部旧跡と言いなすのは、本宮から神霊をこの木綿麻山・木綿麻川・率地等に移して「忌部神社である」と言っているだけで、大方は川田村忌部神社の類いでしょう。

【山崎村説の争訟と村雲家追放の経緯】

やがて後世に至り、ついにその宗派(本末の関係)を忘却し、「我が奉仕する社こそ大祖たる式内忌部神社である」と思い込むようになり、元文年間に忌部神社の争訟を起こして山崎村の村雲家が追放されるに至ったというのも、数千年を経た事ですから、いかにもあり得る事です。

【真の式内本宮の所在に関する庸雄の新たな見識】

さて、麻植郡をはじめその近傍に、必ずしも式内本宮・天日鷲命忌部神社がある事が『延喜式』に見えている通りです。ではその本宮たる忌部神社は今、いずれの所に在るのかと言うと、私(庸雄)に一つの見識があります。今、試みにその事を述べましょう。

旧記と古文書の精査

【大蔵後家所持の旧記の再評価】

旧記とは、一説に挙げられている天和元年の事を書いた記録、また『阿陽記』、『風土記』、『阿陽細見録』、『阿陽荘鑑』、また生島繁高が所持していた書記に「天正十四年丙戌二月吉日 山田小八郎光長」とあり、終わりに元和・寛永年間の宝物等の事を書いたものの中にあります。これらと、貞光村別所の大蔵後家が持ち伝えてきた「忌部大神宮御宝物」と唱え代々尊敬し置かれた書記などを、今後の照準として考証を加えましょう。大蔵後家の書記は、『阿陽記』や『国鑑』などの他の記録から漏れている所があり、文章の体裁は整っていませんが、能く古実を知り得る旧記であると言えます。

【拝村・拝原村の地名由来と友落山遙拝説】

『阿波志』の「拝村」の項に「この村は高越山大権現の麓なり。これに依て拝村と云ふ也。往昔より権現に供うる御供米は当村より奉る、今も同じ」とあります。また「拝原村は吉野川北地分東の端なり。岩津に並ぶ、岩津は阿波郡なり。此の村は高越山を拝する所なり、故に斯く云ふ也。又、隔山大権現を拝する故とも云へり」と。生島繁高の道中記には、「今度実地見分致し候所、端山は右村よりは三里余り隔たり、その中間に山も段々御座候て甚だ遠く存じ候。これは種穂・高越山等の真向かいにて、川田村の忌部を拝し候地と申すは俗説ながら程近く相当致し候様に存じ候」とあります。これらはいずれも、忌部神社の旧跡を知らないが故の言でしょう。私はまだその地に足を踏み入れていませんが、拝原村の地勢を聞くところによれば、友落山の嶺上がはっきりと見え、端山に見るよりも高く、清頭岡や月出森など目も及ばない忌部古社である日名蔵の岩屋まで見えるといいます。そうであれば、太古の忌部神社である故に遙拝した村名と知られるのです。また、友落山の嶺上からこの村を見下ろすと、人家が軒を並べ、常盤木の間から白壁が手に取るように見えるといいます。そうであれば、この拝原村・拝村などは、忌部神社を遙拝した所であるが故にこの村名が付いたものに違いありません。この友落山忌部古社の事については、追って詳しく述べましょう。

【西端山の伝承:天富命と由布津主命の足跡】

西端山。「神代に天日鷲命が御馬に召され、此の所の内『吉良』と云う所に御止りになられた」とありますが、これは天富命が日鷲命の孫にあたる由布津命を率いて此の所に至り給うた事を誤り伝えて「日鷲命」と言っているのでしょう。それは『古語拾遺』に「仍て天富命、日鷲命の孫を率ひて、求めて肥饒の地を阿波国に造り、穀麻の種を殖う」とある事で知られます。また安房の忌部家系にも「神武天皇の大御世、天太玉命の子・大宮賣命、その子・忌部首天止美命、すなわち天日鷲命の子・大麻比古神の子・由布津主命(又の名は阿波別彦命)に令して、穀麻の種を殖えしむ。爾して由布津主命、阿波国に赴き、肥饒の地を求めて初めて種物を蒔く。故に其の所を云って麻植と云う」とありますから、御馬に召されたのは日鷲命ではなく、天富命であるはずです。このように、当国の『阿陽記』等の書記と『古語拾遺』、安房の忌部の家系の記述が自然に符合するのは、実に貴き書き物と言うべきです。また、この他に青木忌部の家系によって言うべき事がありますが、それは別の機会に述べましょう。

【「吉良(きら)」地名の語源と吉野川の由来】

「其の古蹟、吉良の御所なり」。吉良の御所とは、「来良(きら)れ給う所」という事であり、天富命が御馬に召されて此の所に来られ給うた故にそのように言うのでしょう。「来る」事を「来(き)る」と言うのは正しい古言です。今でも奥羽地方にこの言葉が残っており、仙臺、松島、塩竈などでは専ら言う事です。折に触れて笑う事もありますが、「己等が檀那(だんな)へ来られねか」と問えば、「御前方の旦那へ今朝掛けに来(き)られたるが、直ぐに帰られました」と答えますが、その言い方が「袈裟懸けに斬られた」と同音であるため、度々言い合う事があります。今の祖谷山辺りにもこの言葉が残っているといい、また西京(京都)でも時折聞く事があります。そうであれば、「吉良」とは「来られた」事を言うのであり、「吉良」と文字を当てた事から、後世に吉良川を吉野川と唱え替えた事が、次の本文にも見えている通りです。

吉良周辺の神代古跡

【名花「鈴なりの紅梅」の奇瑞】

「此の処に鈴なりの紅梅とて名花あり、花千重なり」。此の紅梅は、文政年間に弥陀堂建立の際、枝が軒に障るのを厭い、傍らに植え替えた折に継ぎ枯れてしまったといい、惜しむべき事です。しかしながら、明治八年十月十二日、濃州香川郡安原村の安藤勘八と云う者が、此の鈴形紅梅の枝を接ぎ木した木を、遠い道のりも厭わず当社に奉納しました。枝葉もかなりあるのに切る事もせず、栄えたまま持ち運んだといいます。今は御所平と云う所に植えられています。此の紅梅に奇瑞がありますが、話が長くなるので吉良山の御稜威について述べる際に記しましょう。

【豊凶を占う「実ならずの藤」】

「此の所に『実ならずの藤』とて春毎に花盛りに咲けども実を結ぶ事なし。今に数株此の所にあり。此の藤の花を見て年の豊凶を占うに違う事なし」。また此の藤に奇瑞があるといいますが、これも吉良山の御稜威の項で述べましょう。

【御所平と祭神について】

御所平。此処は天富命が由布津主命を率いて来り給うた所でしょう。今も祠があり、祭神は疑うべくもなく此の二柱の神を祀っているはずです。祭神を古老に聞いても「ただ御所平の神社と唱う」と言うばかりです。此の側に鈴なりの紅梅を植えました。此の所の奇瑞も吉良山の神威の項で述べましょう。

【駒ヶ岡の御馬岩とその他の旧跡】

駒ヶ岡。此の所に「御馬岩」と云う、馬の蹄の跡がある石があり、今も存するとのことです。此の奇瑞も吉良山の神威の項で述べましょう。此の外に、駒逗、床釜、遠見陣場、駒死地、産屋谷、すまる、柿、建石等の旧跡が数多ありますが、話が長くなるのでここでは省きます。

【蜂巣五社大明神について】

蜂巣五社大明神。前の大石に駒の蹄の跡がありますが、今は洪水の為に表裏がひっくり返ってしまった故に見えないといいます。当社の祭神は「八千戈神(やちほこのかみ)」と云い、仰山式社考並びに考論等の説がありますが、これについては別に述べましょう。此の神社の事は追々に述べます。

【吉良山中の「御魂処」探索と奇異な霊験】

御魂処。山上に二ヶ所あり、一所は御后、一丈四方程の大きさの石にて囲い、今は人往き難し。此の「一丈四方程」とは、一丈四方の所を大石にて囲っていると云う事でしょう。此の御魂処の事は、いずれの旧記にも見えていますが、何処と云う事を知っている人はいませんでした。然るに、明治八年十月十七日、大勢で手分けして吉良の山中をくまなく探し求めましたが、是と云う所はありませんでした。旧記には「蜂巣五社大明神御魂処、山上に二ヶ所有り」とあれば、蜂巣神社の山上の峰続きを尋ねようと古老に言うと、古老は「此の吉良山の東峰から少し下りた所に、往古より祟りをなすとして人跡絶えたる所がある。又、此の峰の真向かいの東端山にある民家から、毎年十二月大晦日には必ず点燈を見るといい、また毎夜此の頃に点燈が現れると云う。もしや此の所が御魂処ではないだろうか」と言いました。そこで戸長をはじめ衆人で議合し、翌十八日に大勢が斧、鋸、山刀を携えて樹木を切り払い、道を切り開いて此の所に至ったところ、東北は屏風を建てた如く岩窟があり、南に柳が一本立っていて通う道を作り、西は吉良山の峰続きの峻山でした。此の所を見るに、大石を畳み重ね、上に平石と思える石が今は割れて数々になっていますが、実に往古の御魂処とも思える所がありました。そうであれば、旧記にもよく符合すると云うべきでしょうか。「今は人往き難し」とは、往古は此の嶺上が平坦でいと清浄であった故に山陵となしたのでしょうが、数千年を経て山崩れが起き、今は御魂処二所のみが残っている故に、今は人往き難しと云う事なのでしょう。里俗は此の地を指して「シャウシウ」と云いますが、シャウシウは「清浄」の事でしょうか。然るに、当村の子供ら三人が御魂処を見ようと此の所に至り、注連縄を張り幣を立てたその上に登り、景色などを眺めて家に帰ったところ、その夜に大熱を発し、身体一面に発疹のような物が出たといいます。三人の親らは、御魂処の上に上がったと聞き、これは大神の祟りであろうと神社に参詣し、白和えなどを供えて神水を乞い、それを飲ませ、余ったものを身体に振りかけると、見る間に元のごとく治ったといい、実に恐れ多い事でした。

【御魂処の被葬者に関する推考】

さて、此の御魂処を「日鷲命御后なり」と里俗は申しますが、そうであるはずはありません。津咋見命の御后である黒島磯根御気姫命でしょうか、あるいは青木民部の家系によれば阿波宇斯比古命・宇斯比賣命の山陵でしょうか。追って考えるべき事です。

忌部古社と地名の符号

【忌部古社の所在地と『古語拾遺』との符合】

大蔵後家の旧記に曰く、「清頭谷と日名蔵谷の落ち合う処に、日鷲命・津作見等の二神を率(まつ)り、号して大社となす。往古は霊内山、又の名を友内山、又は本城の丸と云う。今の友落山なり。この二神の大社と奉称す」と。是ぞ正しき忌部古社とは此の所の事を云うのでしょう。なお、この事については次に詳しく述べます。この二神を合祀するとは、実に古雅な伝えと云うべきでしょうか。この旧記は、『古語拾遺』を読んだ者が書いた記録とも思われず、文意がいとも明快に捌けています。

【両森大神宮と清頭岡(経塚)の由来】

両森大神宮とは、後の本文にて知られます。然るに、里俗はこれを経塚と唱え、また文字にもそう書くため、両森大神宮と奉称する処を清頭岡と唱え来たるのは、仏家の経塚(きょうづか)となる故に熟考すれば、この清頭岡の「清頭(きょうづ)」を略して「キョツカ(経塚)」と唱えるようになったのでしょう。吉良山にもこの清頭岡があるのは、此の友落山から遷した号であるはずです。

【神孫第一の御魂と「日の妙見」への遷座】

「神孫第一の御魂」とは、神代の事として金銀の御幣束を立てて斎き奉った事をいい、「神孫第一の御魂、金銀の御平足を立て賜う所を神平と号す」とあるべきです。此の神平を今は「上平」と唱えます。昔、此の山上に神霊を祀った折に、その麓を通る者が馬に乗っていれば落馬し、川を渡れば水に流されるという奇異な事ばかりが起こったため、少し降りた上手(かみて)という処に社を遷し、「日の妙見」と称して今に現存します。さて、後世に至り、日の妙見とは里俗が日名蔵を「火投(ひなげ)」と唱え、さらに日名を名(みょう)と唱える事から、「日の名見」と言いなした事なのでしょう。後世に至り、「名」を「妙」に書き替えた事から、仏家の妙見菩薩のようになったのでしょうか。また「神孫第一の御魂」とある事から考えますに、日鷲命の神孫の第一とあれば、疑うべくもなく安房国の忌部の家系に見える大麻比古命(又の名を津咋見命)であるはずです。また、西には霊山内があり、東南は一宇・穴吹に連なり、西は吉良川を限り、北一方は人家が所々に在ります。そうであれば、「北面に神孫云々」とあるのも、此の北を指して申した事であるはずです。此の北の表にある古蹟等は数多あって、一朝一夕に語り尽くせる事ではありません。此の事は別途この一山の記として書き、また所々にも因んで述べる事にしましょう。

【元祖白川の御処について】

元祖白川の御処と唱え賜うと云う意であるはずです。渓間の猛流が瀑布の如くに降り落ちる故に、「白川」とは云う事なのでしょう。

【名川見(川見名)とさくら川の伝承】

此の処より二神が川を見渡し賜う処。此の二神は日繋命(日鷲命)・津咋見命と申しますが、此れは先に申し上げた天富命・由布津主命の二神ではないでしょうか。「佐久良谷、花都より吉野迄流れ来る花、珍しき御川上と御勇み賜ふ」と。故に此の原の惣てを「名川見」と唱え来たる。此の事は、桜の花の盛りには都にも劣らぬ景色にて、渓流が吉野川まで流れ、実に花も珍しき川上であると、御勇み悦び賜うた事を申した事であるはずです。また、此の原の惣てを名川見と唱え来るとあるのは、今もその古言が残って「川見名」といい、また此の渓間の流れを「さくら川」と云う事と合致します。

【日鷲命の岩屋「日名祗大神宮(火投社)」】

当山に日鷲命が御座す岩屋、日名祗大神宮と奉号す。此の事は、上に申し上げた通り、忌部古社とは此の所の事を云うのでしょう。今、大なる岩屋があり、此の岩屋は大木が横たわり化して磐屋となったものと、その跡と思われる所に小祠があります。また此の辺りに麻取石と云う大石があり、是も大木が化して岩となった事が一目に知られます。また、此の一山に限る事なく、傍近の山々も皆、高木が横たわり山となり、あるいは岩となった所で、半ばは土となり半ばは岩となり、また木の目などがはっきりと見えます。また此の祠を里俗は「火投社」と云います。「火投」は「日名顧」が転訛した言葉であるはずです。また此の窟には霊水があります。此の事は話が長くなりますので、此の一山の記に記す事にしましょう。

【本社・友内宮と西森京司大神宮】

本社・友内宮は忌部の社頭なり。本社・友内宮とは霊内山の嶺上の社を云う事でしょう。忌部社頭とは忌部神社の社頭に在る東森(月出)と云う意でしょう。そうであれば、日名蔵の岩屋こそが忌部神社である事に、疑う余地などあるはずがないと思われます。そして、友内山の東の方に月出の山と云う所があり、此の所に旧社の跡があり、小祠・神主・社人等の屋敷跡があります。大神宮西森京司大神宮、すべて奉彰す云々。また西森京司大神宮とは、今、西森に行司嘉社(ぎょうじかしゃ)と云うものがあります。此れは上の本文に見えた清頭岡なる事、明らかです。さて、此の両森大神宮は、いずれも日鷲命・津咋見命を祀ったものでしょうか。未だ考えが及ばず、なお追々に考えるべきです。

【機織りの伝説が残る「絹織岩屋」】

絹織岩屋。友落山の麓にあり、此の岩屋は高さ二丈程、長さ十二、三間ほど、奥行き三間程もあると云います。此の所に広き岩屋があり、機を織り始め賜う所なり。もし、上古の人が住んだ穴であろうかと推測してみても、穴の向きは乾(北西)に向かっており、そうであれば全く人が住む所とも思われず、人が住めば必ず雨が降り込むと思われます。

【内曲輪・本城の丸の跡】

当村の三里四方を外曲輪として、夫れより三重に内曲輪の蹟あり。まるで砦の新たなる祭祀に見える文ですが、それは友内山、又は本城の丸とあることから、城の丸と云う言葉から出た文章なのでしょう。此の曲輪の跡は今、何処から何処に当たるのか未だ聞きも見もしていません。

吉良山(友内山)への遷座と忌部神社の変遷

【友内山から吉良への奉遷とその理由】

其の後、忌部大神宮と奉崇称す。其の後、忌部大神宮と奉称するとあるのは、此の時に今の吉良御所へ奉遷したのでしょう。故に友内山を指して「忌部古社」と唱え、また何れの書記にも「其の後、忌部大神宮」とある事で知られるのです。もし今もなお友内山に鎮座しているのであれば、「其の後」の文字が有るべきはずがなく、此れらの事を読んで考えるに、山高くして四時の祭典も意のままにならず、また参拝の人民も難儀し、山上の西森・日名蔵の岩屋等は境内も甚だ狭く、祈年祭・新嘗祭の大祭を行う地もなく、次第に世が開けるにつれて友内山は自然と深山のようになってしまった故に、天富命が日鷲命の孫を率いて来られ賜うた地へと遷し奉ったものなのでしょう。此の吉良山は長からず、また短かからずして、人家も所々にあり、四時の祭典も不便がないからです。また此の吉良山中に西森清頭岡大神宮があり、また東森月出大神宮を祀る所があります。是等は皆、友内山より遷した証拠であるはずです。さて、此の友内山の麓に、現今「三木坊(みきぼう)」と云う地があります。此れは古の大嘗祭の年に当たり、麻穀及び種々の物を朝廷へ貢ぎ奉った地故に、貢の土地と云う事を「三木材」と云った事なのでしょう。此れは明暦・延宝以前まで唱えた記録が東端山の別戸長・武田浦三郎方に「三木材」とある事で知られます。そうであれば、往古此の地にて朝廷への貢ぎ物を調えた地である故に此の名があると考えられます。然るに、忌部神社も吉良へ遷った故に、その後追々に此の地の人家も社に近い所へ引移り、貢の土地も今は「三木材」と名のみ残りました。古老の口碑には「三木を名乗る氏人は大方は此の地より出た」といい、さもありなんという事でしょうか。また、忌部神社古跡の地に「城山」「城の丸」などの号があるのは、友内山本城の丸と云う名を移した号ではないでしょうか。

【「四国は神領」と云われる謂れ】

四国は当社の神領なり。日本神楽の初めは当社なり。当社の草創は神武天皇の朝に日鷲命の孫なる由布津主命が建立したと安房の忌部の家系にありますから、其の頃は此の神等が此の国に限らず四国中にも穀麻を始め種々の穀物を播殖し賜う事によりて、四時に実る物を以て此の大神等の御神徳を仰ぎ奉る神前こそなれ、それを「神領の故」と心得て書いた事なのでしょう。また神楽の始りは当社なりとは、天の磐戸の古事から云う事であるはずです。

【両御前神社と「ハハ山(母山)」の考証】

東端山、西端山、一宇山、穴吹山、貞光に今以て社家・神主・神楽人の子孫数十家あり。此の端山は母山でしょうか。安房忌部家系に曰く「飯長比賣命の御魂を此の御前の神と称奉る」とあり、また「阿多々主命の御魂を稚子御前の神と称奉る」とあります。然るに此の端山に「両御前」と唱える処があり、それが燈山の御前と云えば疑うべくもなく飯長比咩神をいう事であるはずです。なお詳しくは児宮の所で述べるべきです。然るに、慶長十一年卯月廿二日、遂菴の署名と花押がありて五ヶ條の壁書始めに定む、其の下に「端々山」とあります。そうであれば、此の頃までも「ハハ山」と唱えた事を知るべきです。一宇は「一宇」の草冠を脱落させたものでしょうか。「阿波志」に旧名「操生」とあり、なお考えるべきです。穴吹は「阿波志」に曰く「荘名富永荘即ち穴吹村」とあり、此の「富永」と唱えるのも、上古に大神等が肥饒の地と見て麻穀を殖えさせ賜うた故に、上代には自然と富栄えた故に富永の号を申した事なのでしょう。貞光は、異本「阿波志」に曰く「太田貞光殿」とあり、又「阿波志」に曰く「或いは曰く藤原貞光甞て居す、此の国名なり」とあり、両本ともに人の名になしていますが、いかがなものでしょうか。

【忌部氏人十四人賜姓との関連】

社家、神主、神楽人云々は、永井精古「忌部氏人」の処に、称徳天皇神護景雲二年の記録を引いて「太初以下、忌部越麻呂等十四人に姓を賜う云々」とあり、右の十四人は阿波・美馬・三好に住す、とあるべきです。「貞光山に忌部の古蹟多し」と云われたのは、此の旧記の事をも知って右のようにおっしゃったのではないでしょうか。

【二神の足跡と「定満」「定光」の考察】

当村にて麻を植え初め賜う尊とは、上に云った二神の事を申した事であるはずです。当村とは此の貞光山を指して云う事なのでしょう。嘉祥年間の宣命の写しに「定満」とあり、また慶長八年の記録を写したものには「定光」とあり、全く人の名とは思われない処があり、追って考えるべきです。そうであれば、讃岐の「麻抜き」と云う説もあり、さもありなん、彼の国にも殖えさせ賜うた故の号であるべきです。伊豫国夫より国々に麻を植え布を初むるにも苧麻郡(ううまぐん)があり、また二神が東土に行きて麻穀を播殖し賜う事までも云った事なのでしょう。

【東西端山・一宇・穴吹・貞光の五ヶ村と末社】

右の五ヶ村は社内にて、今以て右村に末社数多あり。右、麻を植えさせ賜う故、祭礼には麻を奉る。右の五ヶ村とは、東西端山・一宇・穴吹・貞光の五ヶ村には、忌部正統の皇神等を祀った所が多いはずです。また、蜂巣神社を式内八十子神社ならむかと云う人がいますが、此の社などは正しき忌部正統の神なのでしょうか。また一宇に磐戸の神社、その下に下之神社があり、貞光の西端山に御前神社、東端山にも亦御前神社、児宮等があり、いずれも忌部皇神等であるはずです。追って考えるべきです。祭礼に麻を云々というのは、此の五ヶ村に限る事なく、他の国や郡からも捧げた事であるはずです。此の事は上にも云い、また数々の本文にても知られる事です。

美馬郡・三好郡の境界変遷と論争の徹底批判

【三好郡の設置と郡号の変遷】

其の節、今の三好郡、美馬郡と云う。此れは三好郡がまだ分かれていない以前の事を云った文であるはずです。美馬郡を三好郡と云うとあるのは、美馬郡を分けて三好郡と云う事であるはずです。此れは『三代実録』の清和天皇貞観二年三月二日壬子「阿波国美馬郡を割いて三好郡を置く」とある事を云った事であるはずです。

【麻植郡と美馬郡の分割に関する記述の誤り】

其の後、美馬郡を三好郡と云い改め。此れは麻植郡中を分けて美馬郡に属すと云う事を、「改む」とは書き誤った事でしょう。此れらの文意により、麻植郡を分けて美馬郡に属した事の考えについては次に云うべきです。

【「美馬」「三好」の郡号由来と麻植郡との関係】

麻植郡半分を美馬郡と。そうであれば、此の三好郡の郡号も麻穀より出た名とも思われます。三好郡が麻を捧げ奉る事により、麻を植えし故に麻植(おえ)と唱えるのだと、これも次で云うべきです。「馬を美々しく飾り神馬を上に依り美馬と書て美馬郡と唱ふ」。阿州旧記考に曰く「美馬郡北郡名ハ古へ三好郡分らさる以前井ノ内谷馬岡明神馬を飼い始賜ふ地なる故斯云フトゾ一晩御間津比古神名ョリ起レルノ名ナリト何レカ是ナルヲ知ラス云々」とあります。本文の此の両説をも和銅六年の官符によれば、そうであるとも思われません。この郡号について熟考するに、天富命・由布津主命が此の所に来り給いて肥饒の地を見定めて殖えさせ給うた麻穀が故に甚だ美しく出来、「美麻、美麻」と唱え来たりしを、終に美麻を郡の名となしたものを、後世に「美馬」と文字を書く事からして、本文並びに旧記考にあるような「馬飼い」の如き説を云う事になったのではないでしょうか。『続日本紀』元明天皇和銅六年甲子「畿内七道諸国郡郷の名に好字を著く」とある事を思い合わせれば、美麻の考えの根拠無き事を知られるべきでしょう。また三好郡も麻を称えた郡名と思われます。それは麻が美しく出来、美好く生い茂る「美好(みよし)」を美好郡とし、その「芳字」を後世に三好郡と書き改めた事なのでしょうか。上の本文に見える「三好郡の麻を捧げ奉る」とあるのも、是等の事から云う事なのでしょうか。一説に「三好は三津郷、三野郷、三縄郷、此れを合せて三好郡という」説がありますが、此れが郡中の三郷に限る事であれば聞こえも良いでしょうが、此の他に数々の郷があればいかがなものでしょうか。また一説に「三好郡へ貢ぐ事より出たる郡号なり」と云いますが、此れは「三吉」であるべきで、後世に美好を三好と書くよりの異説でしょうか。上に挙げた和銅六年の官符によれば、麻の「美好(みよし)」が郡号に最も近いのではないでしょうか。是等の説は、後世の識者を俟つ事としましょう。

【四国一円に残る忌部旧跡の広がり】

豫州宇麻郡と書馬郡と唱ふ。四国中総体の郡村に右の古言多し。此れは上に挙げた讃岐に麻の故の説があり、また同国の今の豊田郡に黒島神社があり、此の神は黒島磯根御気姫命であるはずです。その近傍に黒島と云う所があり、その辺りに麻生神社があって祭神は天日鷲命であるとのこと。また豫州(伊予国)にも式内黒島神社があります。そうであれば、四国中に忌部神社の旧跡が数多あるという事を云った事であると思われます。

【「里分は惣海」の伝承と鹿江比売神社の水没説】

其の節、里分は大形惣海なり。地と見える所は大方水損を被る故に、里分は大形惣海なりと申した事であるはずです。野口年長曰く「鹿江比売神社、此の処は方今洪水の難に罹る所は古代の入江と思われる。北の方の大麻山に登りて南を望むに平坦の比売神社を、己の年頃板野郡中に普く捜り求むるとも在所を失せしは為す術もなく口惜き事なりかし。去る者、中頃細川氏・三好氏などの戦争繁かりし世には神社の破壊せしをも誰有て営造する者もなく、役なる小社になり不」有、神名に申し引かめしも有るべし。其の頃は堤などの崩れしも崩れし侭にて、領主にも下民にも洪水の防禦有るまじければ、或いは水の為に流れし神社もありて今所処を失いしも有るべきかと、涙もこぼるるばかりかなしかりけり」とありますが、此れは上古を思わぬ唯眼前の考えとも云うべきでしょうか。『延喜式』が撰上された延長年間(923〜931年)は既に千年に程近く、それ以前より御鎮座ある神社であれば、古えの入江を如何ほど探索しても知り得るはずがないと思われます。式内の神社は、恐らくは山に寄り丘に副いて斎き祭ったと思われます。此の鹿江比売神社鎮座等の事、忌部正統神社之記に思う趣旨を云うべきです。

【五ヶ村の惣名「苧地利(おじり)」について】

右を以て右五ヶ村の惣名を苧地利(おじり)と謂うは此の謂れなり。此の地、地利または苧尻とも云うとの事。爰にては上に見えた麻穀に拘わる文章と思える事があります。今現今、此の五ヶ村内にて某の田切(たぎり)は良き苧尻(おじり)なりと云うのは此の故であるはずです。此の事は他村になく此の五ヶ村に限るとの由。また此の山中に忌部旧跡数多ありと、事長ければここには漏らす。追って別に「吉良一山の記」を書いて詳しく云うべきです。

【三好長治の横領と長宗我部の兵火による神領喪失】

然る処、昔時数度の兵乱に神領を減らして、三好長治の代には漸く二三ヶ村神領ある所、長治悉く横領してとす。(長治は天正五年三月二十八日討死。長休の子と見えたり。)夫より神領なしとなり、自然と忌部社破崩に及ぶと候。此の事は三好長治が神領を横領して自然と神社も廃れた所に、又長宗我部元親の兵火の災いに遭い神社も絶失し、御神璽も土中に埋もれ、誰ありて再建する志もなく、又志ある者は力足らず、然るに蜂須賀家は程も有せず入国した故、申立てれども郡違いなりとて取り合わぬ由にて、打ち捨て置きし事、恐ろしくとも長く、悲しくとも哀しき事ならずや。故に後年此の神社の争訟出来、終いには朝廷迄申立てし由。又此の神社に限る事なく、全国の五十座の神社で今顕存する社は僅かしかなく、不敬神とも云うべきでしょうか。此の段はなお追々にも云うべきです。故に社家、神主、神楽人も百姓と成る。

【宮内山上の作り岩屋と村雲家の系図】

岩雲香花曰く、「宮内山上に神代の古蹟とて稀代の作り岩屋アリ。是又忌部の神の存蹟ナラん。又此の所の百姓の由緒を尋ぬるに、皆神孫ニシテ中頃忌部社ノ盛ナル時、神主・神子・樂人等ノ後胤ナリ。今、村雲氏ト云ふ神主アリ、是れ忌部神社ノ長官ナリトゾ。其の系圖天村雲命ョリ系統タエズ」とあるのも、是等の事を云ったものなのでしょう。また此の山上に稀代の作り岩屋ありとは、友内山なる日名蔵の磐屋を申した事であるはずです。また「宮内山上」とあるのは何れの所の宮内なる哉、何れ友内山の麓なる一宇か吉良・穴吹の内に違いなく、考えるべきです。

【「吉良」から「吉野」への変化について】

此の吉良ノ御所を吉野と唱ふ事ハ、來良を吉良と書き、右の吉良の御所を吉野と唱へかへし故、川つらを吉野川と其後書替へ文字に書し故ならむか。又、吉野と唱えるといっても、天正前後の事にあるはずがなく、既に『源平盛衰記』に吉野川と見えています。

【「貞光村」の分割と『阿陽記』の信憑性批判】

両端山は往古貞光村也。文禄中より貞光村・東端山・西端山の三ヶ村に相分れ、神代よりの名所なり。然る所、昔時忌部退却し、中古已來の名所記に見えす云々。神代よりの名所とは旧跡という意であるはずです。また「忌部退却して中古己来の名所記に見えす」とは、国中の事を書くにも此の吉良を忌部神社なりと云う者がなき事を申した事であるはずです。また旧記の終りに「新田義宗を菖蒲と云ふ所に新田神社と斎ひ祭り、又護良親王の霊社を渡飼といふ所に祭り、又一宇山なる高天原、天岩戸神業石等の書き述べあれど、事長ければ後に漏す」と。さて此の『阿陽記』『国鏡』等の記録は文禄以後の筆記したものなのでしょうか。又、大蔵後家の書記は右の五ヶ村苧尻というより後がなく、此れは古色がありて旧記の中の旧記というべきです。此の家の本(もと)は友内山・川見名・上平に住居していたとの由、故に忌部古社なる友内山の事を詳しく伝え有ると見えます。然るに享保年中、賞に怠り居宅を取り上げられ、今貞光村に住居すると。

【明治八年の忌部大神宮「神宝・奇瑞」出現騒動】

然るに、明治八年四月二十九日、吉良御所平より一丁ばかり西南に当たる宮蔭と云う所に、安次郎という者が家の大きなのを厭い、半分を売り払い屋敷地を平らにしようと縁をつかうと、奇しきその形、鶏卵の如き青石に白の筋の入った奇石を掘り出しました。常の石ならば七、八百目もあろうかと思うに、形に似もつかぬ重い石の故、目方を試るに一貫九百目あったとの事です。然る所、此れいふとなく「忌部大神宮、吉良御所に出現なり」と云いあいて、参拝の者がひきもきらず有る由。又、万民が祈るに感じて霊験日に増し盛んなり、と。又、七月二十一日、参詣の者が奇しく傍なる者に尋ねるに、「御神前の戸帳に奇しき御姿あり」と云えば、群多の者が「此れは描きたるにあらずや」とその所の者に問うに、近所の者が申し合わせ参拝するに、「此れは如何に薄墨にて描きたる如く、又藍にて得たるが如し。近づいてよく拝すれば、ただ白張の戸帳にして何も見えず。また遠退いて拝するに先に違う事なし」。是等の事を謹んで案ずるに、天日鷲命の天の磐戸に津咋見命を以て殖えさせ給うた麻穀の一夜に繁茂るのも、此の大神の貴き高き伊豆の神霊の神行である事でしょう。また今の世に至りても、当国の名産と称する荒妙・楮織半紙・尺長・藍草など諸国に超越した品が出来るのも、皆此の大神等の御神徳であるのに、その大神の御主神が数百年来土中に埋もれありしを掘り出し奉り、万民が忌部大神宮と崇敬し奉る事より、伊豆の御稜威が日を積み月を経て隆昌なるのは、霊妙に幽き神の所行とも云うべきでしょうか。故に見聞のまま、一通り書き記す事としました。

【野口年長による「永禄四年棟札」否定論】

野口年長の当国式社略考論に曰く、「或る人、忌部神社の永禄四年の棟札を持伝えたれど、是にて社の所在の証しなし」云々とあり、又同人の書かれた「忌部神社考」に曰く(此の都考の数々を本文として云う)、「一、永禄四年の忌部神社の棟札、村田岡蔵所持仕り居り申す候。岡蔵儀、美馬郡貞光村の産にして、右村に社、是ぞ所謂西端山吉良に忌部大神宮と称し来たるへ、実に此の社を御座候趣に候えども、疑わしく存じ奉り候。境の沿革は有るべき事に候えども、往昔とても貞光村までも麻植郡に候事は有るまじく存じ奉り候」

【野口年長の考証不足への批判】

彼(年長)は、肥前を論じて太古に逮ぼさぬ考えと思われます。なお次に詳しく論ずべきです。

【郡域変遷に関する『三代実録』の裏付け】

「里俗、今の美馬郡、古へ麻植郡にて今の三好郡、古へ美馬郡に有之候など、偽り伝え候え共、決して誤り有るべく御座候」 此れは何事ぞや。『三代実録』清和天皇貞観二年三月二日壬子「阿波国美馬郡を割き、三好郡を置く」とある事を、「里俗の信伝など」と云うのは、机上に向って居眠りなして終い、視聴を欠いたのではないでしょうか。そうであれば、古老の口実こそ尊むべき事でしょう。

【和銅年間の好字令と美馬郡・三好郡の設立経緯】

「美馬郡拝村、往昔麻植郡にて有之哉の考えも候え共、貞光村、古とても美馬郡にて有るべく御座候」 何なる名説あるかも知らされど、上に挙げた本文の手際にて思い遣られる事です。さて此の麻植郡・美馬郡が分かれ、美馬郡を置き、また延喜式の選上の後に麻植郡を割いて美馬郡に属した故に、忌部が今美馬郡にある事の大要を考えるに、『古語拾遺』に曰く(当大学の稿には如り)、「三好郡の年貢木綿麻及び種々物、所以の郡の名、為す麻植郡の縁也」と見え、また『延喜式』に「哀号麻殖郡」とありて、此の神社の草創は伊波比古天皇の御宇、日鷲命の孫なる由布津主命の奉斎し事は既に上の件に申した通りです。然るに此の朝の頃より麻植郡・美馬郡の区別があるはずがなく、大神等の麻穀を広く植えさせ賜うた所を押し並べて麻植郡と唱えた故に、麻植郡とも移した事なのでしょうか。然るに元明天皇和銅六年五月甲子「畿内七道諸国郡郷の名に好字を著く」とありて、此の大御代の頃、麻植郡より美麻が生える事を名として美馬郡を別けた事なのでしょうか。此れは当郡草創の時なのでしょうか。

【『延喜式』民部式の規定と郡分割の正当性】

しかるにまた年月を積み、入江も自然と岡となり、世の追々開けるに随い、此の美馬郡も終には大郡となりたる故、貞観二年三月に三好郡を別けた事なのでしょう。然る所、麻植郡と美馬郡を別ちたるばかりにて、此の郡もまた世の開くるまにまに弥増しの大郡となりたる故、西の方を分けて美馬郡に為せし故、麻植郡なる忌部神社も終には美馬郡とはなりたるのでしょう。それは『延喜式』民部式に曰く「凡そ郡は二千戸を過ぐるを得ず。若し余り五十戸以上有らば北郡に禦ぐ。地勢宜しからず分つ者は、状に随ひて別郡を立てよ」とあるにて、広き麻植郡を分けて三好郡を置て、狭き美馬郡に添えた事は式の撰上の跡とは知られる事です。此れらの事情に心を公平にして視給えば、忌部神社が現今美馬郡に在るからとて、少しも疑うべき事があるはずもありません。

【吉野川を跨ぐ郡境の不自然さへの反論】

中川清暁曰く、「阿波、板野、麻植、名西の郡中、吉野の大河を跨るの郡更になし。然るに美馬郡に限り大河を挟むは、麻植郡別て美馬郡となしたる一証ならむか」と云われたのは、さもあるべき事でしょう。なお詳しくはあとに云う也。

永禄四年棟札「ケカ(家賀)」の証明と最終論破

【永禄四年棟札「長瀬平太郎次郎」と「ケカ(家賀)」の証明】

「但し一神を数処に祭る候例多く候ては、八幡宮は今国中に百を以て数え申すべく候えば、忌部神社も麻植郡の外にもこれ有るべく候えども、永禄の棟札には四国一宮とこれ有る候えば、三大社の神社と相見え申し候」 大なる哉、式内部にこの瀬もなる事があるのか。尤も此の棟札には社の地名は御座無く候えども、鍛冶両人、ヶク(ケカの誤り)、長瀬平太郎次郎と御座候は地名と相見え申し候。「年長忌部神社考」を視て後に此の棟札を見し故、唯「ヶぁ」と計り思い、心より多観にも見もやらで申し上しは、苦笑すべき粗暴なりけり。しかるに今度、平村・家賀村・長瀬村と現今ある事に心を留めて見るに、間違うべくもなく「ケカ」なり。また貞光吉良の者は此の棟札を見るより「ナカ」と読んで写しを袋に贈りたり。その後、心なき者に譲ずるに、十人八十人とも「ケカ」と腹なり(判読不可)、又削りなとし入墨なとなしたる哉とくりかえし見るに古色のままなり。しかるに年長、五十年以前に「クタ(ク々)」と読みしは、又此の棟札に向って例の居眠りなしたりと見えたり。

【地名「平」「家賀」「長瀬」の存在と年長への猛批判】

さて此の「ヶカ」、上にも云う如く今東端山に平・家賀と村を並べて、西端山吉良忌部神社御迹より行程二十五丁位の由。又長瀬村は西端山にして、十二三丁位吉良と隔たりある由。又明暦四年二月三日の棟付人別帳に「長瀬太郎次郎」とあり、此れは棟札なる太郎次郎の、若しくは子孫ならむか。然るに年長、此の域に生まれながら地名と存じて地名も記さず、「殊に忌部神社の儀は式内神社の内にも三大社の一に候えば、何卒捜索仕り度く、私共若年より念願御座候」など、口には立派に云えど、一向に探索の功なし。口と心と相違するは、学者の恥とする所にあらずや。

【山崎村へ牽強付会する者への非難】

「貞光村より不遠三好郡に毛田村御座候、山崎村より不遠桁山猶更近く御座候」 此の「山崎より不遠桁山猶更近く御座候」とは、此の棟札を以て山崎忌部神社と牽き附けようとして「猶更近く」など申した事であるはずです。年長心は山崎神社に牽きい(偏る)よりして、「ケカ」と有るを「ク々」など読むのは、俗にいう「欲に目の見えぬ」と云うのはこれ等の事を云う事でしょう。

【「ケカ」「長瀬」の存在が疑いを晴らす】

「平と計りあらば山分に多くありて知れがたけれど」 (平を申す地名、山分杯に多く御座候得者、何方とも知れかたく候得者) がたけれど「ケカ」とあり又「長瀬」とありて、方今「平」「家賀」村を並べてあれば、紛らわしくも亦疑わしきことも少しもあるまじき事です。

【忌部氏人(高山・岡島・小野家)の没落を嘆く】

「野口年長、此の年頃貞光なる吉良の旧跡、又友内山古跡等捜索あらむには貞光山崎両端に相渉り何とか疑わしく奉り存じ候事」 実に早く知れたなら情むべき事ならず、又氏人などの衰えたる事実実に悲しむべし。当国忌部氏人は云うまでもなく安房の忌部の正統なる高山・岡島・小野の三家正しき神孫なるに、今平民となりしは涙もそぞろに零るるなり。此れは安房国忌部考を書いて上申し、せめて士族にもなさんと思う心のこの長き年月忘るるなしに目間。「且又一国一宮は勿論諸国に候えども、当国にて往昔式内三大社を一国一宮と唱え候哉とも相考え申し候。然れ共事多端に相成り候えば、忌部神社に相拘り候儀のみ申し上げ候云々」

【他国の式内社(下立松原神社・副川神社)の郡名相違の例】

此の永禄四年の棟札、『阿陽記』『風土記』等の由起によく叶う故、貞光吉良山に鎮座ある忌部大神宮、是ぞ正しき式内忌部神社の本宮なるべし。さて又、此の式内の神社、現今郡の違う事は諸国にも其の例多々ある事なり。今試みに其の一二を云わん。先ず安房国朝夷郡下立松原神社とは式にあれど今安房郡に在り。此れは嘉吉年中、神余修理亮勝重が家臣山下左衛門に主を害せられ、先領安房郡を山下郡と改む。朝夷郡長尾之荘をも横領して山下郡となして既に二百余年の其の間唱え来りしを、漸く慶安の頃に至り本の安房郡と改めし故、彼の長尾荘なる朝夷郡も終に安房郡となりたる故、下立松原神社方今安房郡とはなりたるなり。今地勢を見ても疆境直に知らるべく、下立松原神社の記になお詳しく云うべし。

【出羽国・安房国の例から見る郡名と神社の関係】

今、羽後の又我が生まれた出羽国風土記になる。往古より山北の三郡と唱えしは雄勝・平賀・山本の三郡なるを、中古山北を仙北と略へて郡と為し、この山本の郡を数十里隔たる津軽境に出来たり。故に式内山本郡副川神社、今仙北郡にありて山本郡になし。此の類諸国に間々ある事なり。又、郡も本は一郡にて追々別れたる事は、『古語拾遺』に曰く「阿波忌部居る所便ち安房郡と名づく。是れ今の安房なり」。然れば往古安房一国安房郡にて、その後麻の長高く美しく生ずる所故、長麻郡と云うが如くにて、追々開くるに随って名付けたる事なるべし。上古、橿原の宮の大御世の頃などは、万の物事大略にして、今の如く詳細なる事有るまじく思えろ。然れば麻殖神と云ひ、麻殖郡と号くる縁なり、とありて夫より追々郡邑の出来たる事を知られるべきです。

【棟札の古色と僧侶拾い物説の否定】

さて又、此の棟札、所々読めぬ所もあり。本は杉板にして其の時代なる突鉋(つきかんな)を用いたと見えて平らかならず。唯、神殿に建て置きたるを忌部破崩とあるその時に取り出し、岡蔵が手に入れ、神棚に飾り置き朝夕奉る燈明にて煤びれたるか。永禄の時代よりは一段古く見える物なり。然るを或る人「此れは僧侶の拾い物なり」とて取得ぬ人もある由なれど、夫れは明治に聞て真物を見ぬ人の云ふ事なるべし。中々以て偽作の物とは思われず、今ここに図して読み得たる所の文を暴く男なりとてち。

土佐軍記から読み解く貞光村=旧麻植郡忌部郷の確証

【『土佐軍記』長宗我部元親の侵攻と岩倉城陥落】

重清の城主・森下野守は大剛の兵であるので、所々の城主が元親へ降参するとの事を聞いて、「節を曲げる至福の者どもかな。敵が寄せたからとて何ほどの事があるべきか」と、城を三重に構えこしらえ、籠城した。「敵が寄せたならば、塀際へ引き付けて討ち取るべきだ」と待ち構えていた。元親は八千余騎を二手に分けて押し寄せ、鬨の声をあげた。城からは鉄砲を烈しく撃たせ、色めく所を切り出し、散々に戦った。寄せ手は追い立てられ、本陣へ引き取った。かくして日を暮らし、夜半時分に搦手より光富標之助・江村左工門組の与力が共に攻め入ったので、大手より元親は団扇を取って「急ぎ皆落とせ」と下知し給うた。城主・下野は自ら鑓を取って突出し、退かせまいと防いだ。これほどまでに寄せ手を三度まで追い散らしたが、猛勢が乗り入ってくれば、下野守は「今はこれまでなり」と矢倉に走り入り、腹を十文字に掻き切って伏した。相随う者どもも、「思い残す事はない」と敵と刺し違え討死した。寄せ手もあまた討たれた。この様子にて、先ず土佐へ引き取ろうと仰せられた所へ、桑名彌兵衛が進み出て、「此の勢いを挫かず、岩倉の城を攻め給え。土州へ引き返えし給えば、三好正安は当国の領主であるから、此の城を攻めるには験がない。さようであれば大敵となるであろう。岩倉を攻め落とし、正安を一国一城になせば、降参する事もあるべきだ。是非攻め給まえ」と申したので、「此の儀もっともだ」と同意し給うた。吉良左京・親貞を先手にして押し寄せ、攻められた。岩倉六兵衛は剛の者にて籠城し、三好へ加勢を乞うたが、三好は如何に思ったのか「我も無い」と加勢もなかったので、七月の内に攻め落とされ、六兵衛をも切腹して城は落ちた。此の辺の城主・青野・麻植などは人質を出して降参したので、城も知行も相違なく賜った。此の城は塀や櫓が丈夫であるので、桑名彌治兵衛を大将として三千余騎を留め置き、元親は土州へ引き取ろうとした所に、「三好が此の辺へ出陣」と聞こえてきたので暫く逗留し給うたが、沙汰がないのでまた此の城へ勢いを加え、都合三千六百余騎を籠め置き、土州へ帰陣された。

【麻植因幡守の降参と貞光村=旧麻植郡忌部郷の証明】

かくの如く、『土佐軍記』また『長元物語』にも、貞光城主・忌部大宮司の麻植因幡守持光が長宗我部元親に降参したとある。もとより麻植因幡守は、天日鷲命より天正年間に至るまで連綿と忌部郷貞光の荘に住居したのである。よって、貞光の荘は往古麻植郡忌部郷にて有った事は判然としている。天文二十一年八月、麻植郡忌部郷内山の城主にて忌部神社大宮司の麻植因幡守持光、岩倉の城主・三好山城守康長との戦場の古跡は以下の通りである。

【忌部大社境内としての霊地と武家の保護】

此の外に忌部郷の確証とすべき名所古跡は有らず、追って枚挙する事として、大抵を記した。もっとも、忌部郷三里四方の神領は、神代に天日鷲命の開かせ給うた霊地にして、すべて忌部大社の境内である。故に名所旧跡は数多ある。また忌部郷に限り、武家の威勢が盛んである世にも、武家の匡威にも憚れる事もなく、もとより神代より天文年間に至るまで国司をはじめ他人の領地と成った事は更にない。此の忌部郷は実にきわめて清らかな霊地である。

【『応仁武鑑』に見る広大な忌部荘と山崎村・海中説】

『応仁武鑑』:細川右馬頭持賢、居城阿波国麻植郡城山五十里を取組み、阿波忌部荘三百町、讃岐小豆島二百五十町、塩飽島、摂津中島七百町、和泉岸和田千二百町、合わせて二千四百五十町。
右の『応仁武鑑』を見ても、忌部大社の広大なる事を知るべきである。もとより山崎村や西麻植・敷地などに三百町の神領があるべき場所はあるまい。また麻植郡麻界村の南に当たりて神の山と云うものあり、その下に流れ有りて、その上に大なる石が有る。此の流れより四、五間上の大石に蠣殻の跡がはっきりと在る。これは往古此の辺りが大海であった事が明白である。そうであれば、海中に忌部の荘が有るべき謂われは決して有るまじき事である。

【穴吹山周辺の古跡(麻発地、宮人)】

桃山峠。毛賀と穴吹の境に在る峠である。
麻発地。穴吹山に在り。往古、忌部大社のもとよりその境内に摂社・末社は麻幣を奉り、麻を殖え作らしめた畑である。往古より近年までも無税である。検地帳には八、七畝余りと有るというが、現今は打ち出して二反余りと成し、神職武田氏所有の地である。また武田氏は世人も共に姓名を云わずして「幣元(へいもと)」と云う。
宮人(みやうど)。この宮人と云うのは穴吹山に在り。この宮人と唱える者は、此の地に往古より七十五軒有ったが、二軒が滅家となり、現今は七十三軒ある。此の七十三軒の人を世人は「宮人」と云う。「宮人」と云う事である。

【「美馬」の語源となった忌部大祭の「勝馬」神事】

忌部の勝馬。
忌部神社大祭の節、馬を美しく飾り忌部神社に奉った故、その村郷を「美馬」と号す。此の馬は忌部神社大祭の前日、二疋宛組み合わせて奔らせ、素速さの勝負を定め、その勝馬を翌日の大祭に美しく飾り忌部神社の神馬に奉った。然る所、天正年間の長宗我部秦元親による忌部神社兵火の後は、これら阿波国中の諸郡諸村の神社祭礼の節は、すべて忌部神社大祭の例に倣って、その神前にて両馬を奔らせ勝負を争う事は、往古より現今に至るまで世人の皆が能く知る所である。よって、此の競り馬は現今の由緒は元美馬郡より起これり。原は美馬郡穴吹山に在り。

【『阿波国鏡』阿波十三郡から十郡への改編】

『阿波国鏡』に曰く
寛文四甲辰年、阿波十三郡を十郡に改む。
板東郡・板西郡・那東郡・那西郡・名東郡・以西郡・名西郡・麻植郡・阿波郡・三好郡・美馬郡・勝占郡・海部郡、都合十三郡なり。
板東・板西の二郡を一郡にして板野郡と改む。那東・那西の二郡を一郡にして那賀郡と改む。以西・名東の二郡を一郡にして名東郡と改む。
板野郡・阿波郡・美馬郡・三好郡・麻植郡・名西郡・名東郡・勝占郡・那賀郡・海部郡の阿波十郡。

【吉良御所・藤ヶ森・御魂所など神代古跡の再録】

往古、美馬郡を三好郡と改め、麻植郡の半分を美馬郡と改め、二郡を三郡に改め、それを美馬郡に配して有之、爰に略す。
東西端山。神代、天日鷲尊が御馬に召され、当山の内「吉良」と云う所に御止りになり、その古跡は左の通り。
吉良御所。此の所に鈴なりの紅梅とて名花有り、花千重なり。吉野と唱え替え、右以来、川を吉野川と云う。
藤ヶ森。此の所に実なしの藤と云う名花有り、花咲けども実なし。
馬ノ岡。此の所に御馬石と云う大岩有り。
駒死地。此の所にて御馬死す。
御魂所。山上に二ヶ所有り。一ヶ所は御后、一丈四方程の平らなる大石を敷き、廻りに大石の囲い有り、常に人往き難し。此の所に広々たる岩屋有り。
機織り初め玉う所なり。当村より三里四方を曲輪として、夫れより三重の内曲輪の跡有り。其の後、忌部大神宮と崇称し奉る。尤も四国は当宮の神領なり。日本神楽の始まりは当社なり。東西端山・一宇山・穴吹山・貞光に、今以て社家・神主・楽人の子孫数多有り。
絹織岩屋。高く、日鷲尊が当所にて麻を殖え始め玉う。国々麻を殖え布織り始まる。右の五ヶ村は社内にて、今以て右の村々に末社数多有り。右、麻を植え玉う故に祭りに麻を捧ぐ。其の節、今の三好郡は美馬郡と云う。美馬郡・麻植郡は一部なり。其の後、美馬郡を三好郡と改め、麻植郡半分を美馬郡と改め、三郡になる。麻を殖え奉り捧ぐより、麻を殖ゆと書き麻植郡と唱える。馬を美しく飾り神馬を上るにより、美しき馬と書き美馬郡と唱える。豫州の麻植郡よりも、馬麻を上るにより苧麻郡と云う。四国中総体の郡村に右の縁の古書有り。其の節の里分は大方惣海なり。今以て右の五ヶ村の惣名を苧地利(おじり)と云う。然る所、往古数度の兵乱に神領が追々減少し、三好長治の代には漸く二ヶ村神領の所、長治悉く横領し、夫れより神領無しとなる。自然と忌部社は破崩に及び、神主・楽人は百姓となる。是より下は略す。

【『阿陽風土記』に基づく麻植郡・美馬郡の命名由来】

『阿陽風土記』に曰く
御魂所。二ヶ所有り。一ヶ所は御后、一丈四方の平らなる大石を敷き廻り、大石の立石にて囲う。今は人行き難し。絹織屋。広々たる岩屋有り、機を織り始め玉う所なり。当村三里四方を外郭として、夫れより三重の内曲輪の跡あり。其の後、忌部大神宮と称し奉り、四国は当社の神領なり。日本神楽の始めは当社なり。東端山・西端山・一宇山・穴吹山・貞光村に、社家・神主・楽人の子孫数多有り。尊が当村にて麻を殖え始め玉い、麻布を織り玉いし故に、此の謂れを以て麻植郡と号す。又、祭礼に美々しく飾りたる馬を出す事に依て、美馬郡と号すと有り。跡は略す。

【吉良御所平鎮座の絶対的確証】

『阿波国鏡』『阿陽風土記』にも、吉良御所平に忌部本社が有った事が判然と書載有り。殊に美馬郡の往古が麻植郡にて有った事を是も又明瞭なり。因て吉良御所平鎮座の式内・忌部本社に聊かも疑いを容るる所は決して無いのである。

【「新書は確証にならぬ」とする僻論への反論】

蜂須賀家は天正以来阿波国の領主故、蜂須賀家代中の著述の歴史は新書故、確証にならぬなどと、『阿波国鏡』『阿陽風土記』に僻説を唱える人が有る。因って左に答弁する。
蜂須賀家代中の著述の書類は新しき故、採用確証にならぬなどと僻論を唱える者が有ると雖も、吉良御所平の忌部神社の古跡は蜂須賀家にて拵える物にあらず。すべて神代よりの古跡なり。『阿波国鏡』『阿陽風土記』等歴史書は、皆その故旧の古跡を顕したものである。新書であっても実地と比較して齟齬なきものを、是を採用せざるのは封建の節の旧弊にして、王政復古・文明開化の趣旨に悖り、政府の御欽典とも云うべきなり。殊に『日本外史』は文政年間に頼山陽が著述したものであれば、新しき歴史なりとて投拾すべしとするか。然る所、方今、天朝にて厚く御採用之れ有り、諸学校にて講読せしむるなり。又、往古の歴史にも誤謬なきにあらず。因て歴史の新古を論ずる趣旨は決して有るまじき事である。

【『阿波忠功伝』から見る外山の領地と山崎村の非当性】

『阿波忠功伝』に曰く、木屋平若狭守。
復古より天正年間まで、領地を左に記す。
名西郡の内、神領・板井・藤・川田村・東種野・別枝・桁山・中村・三ッ木・川シ。
右の小屋平若狭守領分の地所は西は忌部郷を界とし、東は名西郡神領板井を限り領し、又『忠功伝』に東讃岐を領すと有り。すべて木屋平若狭守の領分を見れば、大抵の外山一円は木屋平氏の領地なり。又、山崎村は素より此の近村の平地の分は往古は皆すべて海なり。殊に現今にても年々吉野川の洪水の節には、山崎村は残らず水中となるのみならず、前顕の通り外山十二ヶ村は残らず木屋平若狭守の領地なり。そうであれば、山崎村は云うに及ばず外山中に忌部本社の古跡と云うべきものは無し。そうであれば、山崎村に忌部本社の有るべき謂れは更に無かるべきである。

【拝村が麻植郡であった事の確証】

美馬郡拝村、往古麻植郡にて有し確証。
明白なり。拝村は現今は美馬郡の内なり。又、谷川を隔てて同郡穴吹村に惣社八幡宮有り。然る所、拝村の大氏神は距離一里余りを隔てて麻植郡東川田村八幡宮に在り。拝村は往古より此の八幡宮の惣氏子なり。又他郡に氏神の有るべき謂れ無し。故に拝村は往古麻植郡にて有りし事明白なり。

【「東麻植郡」「西麻植」地名の由緒と遙拝所】

東麻植郡、西麻植と云う地名ある由緒。
往古、麻植郡は郡の始めにて他郡は無き故、種野山より西を東麻植郡・呉島の郷といい、往古此の地に忌部本社の遙拝所を設け、西麻植郷・西麻植と称し、又麻上野とも云う。種野山より東を外山郡・東麻植郡と云う。此の外山と云うは、忌部郷の内山に対し、忌部郷の外を外山と云う故、今以て種野山・桁山等へ登る麓の地名を外山口と云うなり。又種野山より西を今、名西郡と云う也。麻植上郡の略語なり。忌部本社を模写し、西麻植忌部本社遙拝所と唱え、因て衆人挙げて西麻植と称す。厥后(その後)、自ら地名となり此の地所は麻植郡の東に在りと雖も、今に西麻植と為す。又地を敷き斎き祭りし神社の在りし跡を、地名敷地と云う。

【現・麻植郡の狭小さと、旧麻植郡(美馬・三好含む)の広大さ】

方今の麻植郡に忌部郷の有るべき謂れなしと云う確証。
麻植郡は郡の始めなり。因て外の諸郡より広きは当然の事なり。然るに現今の麻植郡は東西四里に過ぎず、南北も又同じ。此の狭き僅かの里数の内に、呉島郷・川島郷・射立郷の三郷あり。斯くの如く距離四里の間に三郷ありて、此の間に忌部の大郷の有るべき所なし。(『三代実録』清和天皇貞観二年三月二日壬子「阿波国美馬郡を割き三好郡を置く」と有り。)又方今の三好郡は元美馬郡なり。美馬郡・三好郡は元一郡なり。此の当時の美馬郡に三好郡を加え、これを一郡に合して里程を計算すれば、東は美馬郡・麻植郡の界なる川田村より、西は三好郡・伊予・阿波の国界なる佐野村より十一、二里余り有り。南は阿波・土佐の国界なる祖谷村より、北は阿波・讃岐の国境まで是又十一、二里余りも有り。そうであれば、阿波国の内三分の一は美馬郡となるなり。因て現今の麻植郡より美馬郡の大なる事四、五倍増なり。麻植郡を割り美馬郡に加えずして、郡の始めなる麻植郡より斯くの如く美馬郡の広大なる事は有るまじき事。又地理を測量しても、西麻植郡(吉野川の北なる美馬郡に加えし事)は判然たり。故に旧麻植郡忌部郷内山吉良御所平の忌部大社を美馬郡と成した事は明白なり。因て方今の狭き麻植郡に忌部大社を置くべき所なし。又、長宗我部宮内少輔秦元親の兵火に罹りし忌部大社は、もとより禰宜・社人・巫女・楽人、忌部神社の別当寺十八坊等の古跡、忌部神社の大宮司麻植因幡守持光の古城跡、殊に天正年中麻植因幡守持光が長宗我部秦元親と戦場とした古跡、此の外神代よりの名所古跡等はすべて旧麻植郡忌部郷内山に在ると雖も、現今の麻植郡の内には斯くの如く明瞭判然たる確証類は更に無し。もとより忌部郷に在らずして、忌部本社の有るべき謂れは決して無き筈なり。因て山崎村の忌部と唱えるは、佐古の遙拝所の類にして、忌部の本社に在らざる事は前期の事情を見ても知るべきなり。故に方今の麻植郡に忌部郷の有るべき謂われは全くもって無し。

【吉野川を跨ぐ郡界から証明する麻植郡分割の事実】

麻植郡を割き美馬郡に加えし確証。
阿波国北方の郡はすべて吉野川を界として南北で郡名を異にする。此の郡を東より算えれば、吉野川より南の地方に在る郡は名東郡・名西郡・麻植郡なり。又吉野川より北の地方に在る郡は板野郡・阿波郡・美馬郡にて、すべて南の地方に在る郡を三郡、吉野川より北の地方に在る郡を三郡、都合六郡が吉野川の左右・南北に在りて各郡名異なるなり。然るに美馬郡に限り、吉野川を夾み左右に跨るは、是れ完全に麻植郡を割り吉野川北の地方の郡なる美馬郡に加えし故、外の五郡と異なり、美馬郡は吉野川を夾み南北の地に跨り居るなり。
因て麻植郡を美馬郡に割り加えし事は、前顕の如くにして聊かも疑うべき所無き判然たる確証なり。

忌部郷内山の寺院と地名伝承

【忌部神社別当十八ヶ寺の盛衰】

忌部郷内山吉良御所平忌部神社別当十八ヶ寺

右都合十八ヶ寺は、天正年中の兵火の後、大抵廃寺となり、又忌部郷を離れ諸方へ転遷し、今に至るまで判然と残り居ると雖も、忌部郷内山には僅か五、六ヶ寺のみ残れり。

【「内山」の古言と帰命院の伝承】

忌部郷に往古より今に至るまで内山と云う古言の残りし事
忌部郷一宇口山赤松と云う所が有り、此の所に役の行者が開基した「帰命院」と云う修験者が有り。往古より今に至るまで、配当の守り札には「内山帰命院」と書き、又祖谷山の人々が一宇・吉良・毛賀等へ来る事を、往古より今に至るまで「内山へ行く」と云う。是れ往古忌部郷をすべて内山と云った事は、全く疑いを容るる所なし。

【「宮内山(内山)」と「宮外山(外山)」の境界】

忌部郷に今以て内山と云い唱える古言
内山と云うは、忌部神社境内三里四方の内を「宮内山」と称するなり。因て内山と云うは其の宮内山の異語なり。外山と云うは、忌部神社の「宮外山」と云う事にて、忌部神社境内三里四方の外をすべて云うなり。外山と云うは宮外山の略語なり。川田・種野・桁山等を残らず外山なり。此の山へ登る麓の地名を今以て外山口と云う。又山崎村、此の度忌部神社勧請有し所の側に奥村と云うが有り、此の所の旧大里正に「外山三太夫」と云う旧家が有り、是れ則ち外山の姓は此の地名を取ったなり。又内山には往古役小角より連綿と子孫が続き、今以て内山を名乗る帰命院と云う修験も有り。因て従前吉良御所平に忌部本社が盛んになりし頃は、境内を内山と称し、境内の外をすべて外山と唱えた。

【殺生禁制の地・忌部郷における肉料御年貢の特例】

忌部郷に限り肉料御年貢を代価を以て納めし事
往古、奈良の都の節、御軍用として獣の皮を年々貢ぐべしとの旨、麻植宮司へ命が有り。然る所、忌部郷一円は往古より殺生禁制の地である故、獣の皮は代価を以て納むべき旨申し立て、夫れより忌部郷の例となり、既に近年までも納め来り候所、明治七年頃右の肉料御年貢は御廃止に相成り候。尤も四国中何れの所にも肉料御年貢と称し代価を以て納め来り候所は一切之れ無し。此の肉料御取立の帳面を見ても、阿波国旧麻植郡忌部郷内山は、忌部本社の境内にて有りし事判然たる確証有之候也。

【「麻地利(おじり)」地名の残存】

忌部郷内山に往古より地面の宜しき所をすべて麻地利(おじり)と唱える事
此の麻地利と云うは忌部郷に神代より残りし古言にして、宜しき地所を指して麻地利と云うなり。是は往古、麻を殖え作るには外の穀物を殖え作る地よりもすべて宜しき地所を撰びしなりて、良き地所を麻地利と云う言葉は忌部郷内山に限り今以て唱えるとも、内山より外の村里郡郷に地所を麻地利と云う所は一切之れ無し。

三木家文書