message




2024年3月24日 礼拝メッセージ
『十字架の意味』   ルカの福音書 23章34節

 今週主日から受難週(3/24~30) です。ルカの福音書22章から、主イエス・キリストの受難の出来事が記されています。 それにしても、主イエスのご生涯の最期は何と悲惨なのでしょう!主イエスが「最期まで愛された(ヨハネ13:1)」十二弟子の一人ユダに裏切られ、祭司長達に金で売られます(ルカ22:3~6)。そして、それがわかっていながらも、最後の晩餐のなかで、主イエス・キリストの罪の贖いの完成によって与えられる、新しい契約について語られます(ルカ22:15~20)。その契約とは、主イエスが、私たちの罪のために十字架に架けられ、血を流されることによって、私たちのすべての罪が赦されるということです。

 ペテロは、どんなことがあっても、主イエスとご一緒なら覚悟はできております、などと豪語しました(ルカ22:33)が、主イエスの予告(ルカ22:31、34)通り、鶏が鳴く前に三度、主イエスを知らないと言ってしまいます(ルカ22:55~61)。

 主イエスは、ユダの裏切りによって、祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たち達から差し向けられた兵士や群衆に捕らえられました(ルカ22:54)。捕らえられた主イエスは、監視人達にからかわれ、鞭打たれます(ルカ22:63)。そして主イエスは、最高法院(ユダヤ教議会)で裁判にかけられます。その罪は、主イエスが神の子であるということの、神に対する冒涜罪です(ルカ22:66~71)。

 しかし、それにもかかわらず、祭司長達は、ローマ帝国の総督ピラトの下に連れて行き、政治犯に仕立てようとします(ルカ23:1)。何故なら、祭司長達が主張する神に対する冒涜罪では、主イエスを死罪にすることには、ローマ帝国の支配下では不十分な罪であるからです。ところがピラトは、主イエスについて罪を見出すことができず、主イエスがガリラヤ人であることを知ると、特に、熱心党的反乱が多いガリラヤ地方出身であることから、ヘロデ王のところへ主イエスを送ります(ルカ23:2~7)。

 ヘロデ王はバプテスマのヨハネのこともあり、主イエスの行う何かの奇蹟を見たいと思っていたので好奇心を持って迎えたのですが、ヘロデ王の質問に、主イエスは何もお答えにならなかったので、主イエスを嘲弄して、またピラトの下へ送り返しました(ルカ23:8~11)。

 さてピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆を呼び集め、主イエスに何も罪を見出されないことを伝えますが、祭司長、長老、民衆は、囚人バラバを釈放し、主イエスを十字架につけろと叫び続けます。ピラトはそれで 、自分の責任を軽減し、彼らの要求通り、死刑の宣告をします(ルカ23:13~25)。そして、“ゴルゴダの丘と呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所(ルカ23:33)」(マタイ27:23)”に向かっての、主イエスの十字架への道行きが始まります。

 この十字架の情況は、映画「パッション」で見ることができますが、その映画でショックを受けて亡くなった人がいたほど、残酷です。十字架につけられた犯罪人の一人が言ったように、主イエスには何の罪もなかったにもかかわらず(ルカ23:39~43)。 

 主イエスが「何も罪がない」のに十字架に架けられ死なれたと言っても、人間が無実で死刑になったということとは、決定的に違います。何故なら、主イエスはすべてにおいて完全に罪を犯さなかったお方であり、人間が無実で死刑になったとしても、何かの犯罪に対して、有罪か無罪かであったということだけであって、その人間に全く罪がないということではないからです。人間は、人間から見て、どんなに良い人に見えても、また実際に良い人であっても、真実に心隠さずに言うのなら、他人には見えない、心の内面の醜さを持っていることを知っています。もし人間が自分の心の中で思っていることがすべて外に明らかにされて、人間関係が行われるとしたら、すべての人間関係が破壊、破滅してしまいます。人間関係は突き詰めて言うのなら、人間が本当の姿を見せては成り立たないのです。犯罪人の一人が言ったように、人間はみな、その罪の報いを受けなければならないのです。それは現実の厳粛な事実です。しかし、主イエスは、その私たちの罪、自分でどうすることもできない罪を、ご自分の一身に背負って、死んで下さったのです。

 ある牧師が、主イエスの十字架の情景を、非常にリアルに表現し、その苦しみがどんなであったかを伝えたとき、ある婦人がそれに感動して大声で泣き出して、とうとう、聖書のメッセージが伝えられなくなってしまったそうです。主イエスが、どんなに苦しかったのかということを、私たちがどのように受けとめるのかということは重要なことです。

 しかし感情的に、どんなに主イエスに同情し、主イエスの死を悲しみ嘆いても、それは、主イエスの十字架の死の意味を本当に知ったことにはなりません。主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に自分がいるということを、まずはっきりと知らなければならないのです。映画「パッション」の監督、メル・ギブソンが、主イエスを十字架につける釘を打ち付ける手の役を自ら演じたのは、主イエスを十字架に架けたのは自分だという認識からだと聞いています。

 私たちは、主イエスの十字架上の言葉「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)」と叫ばれた、とりなしの祈りが自分に与えられていることを知らなければなりません。

 主イエスの十字架の死の意味は、“赦し”です。愛されるべきではない私たちが愛されているということです。 主イエスは、ご自分を嘲笑い、敵対する者達に、限りない「愛」を示されたのです。本当に、この愛が、この赦しが、私たちに与えられていると信じている人は、悔い改めて、隣人を愛する愛を与えられるように願うようになるのです。もしそうでないのであれば、あなたはまだ、この本当の愛を受け取っていないのかもしれません。

 もし、主イエスが、このとりなしの祈りをしてくださらなかったとしたら、私たちは救われなかったことを知らなければなりません。しかし、主イエスは、ご自分に敵対する者をも愛され、とりなしの祈りをしてくださったお方です。そして私たちも、そのとりなしの祈りの中に与っているのです。

 パウロは、その愛を受け取っている者に宣べています。「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7)」と。

 主イエス・キリストの十字架の死の意味を、感情的に涙することによっては、私たちの信仰は完成しません。私たちもまた、主イエス・キリストの十字架の死による、罪の贖いの故に、とりなしの祈りの故に、罪赦された者としての自覚を与えられたのなら、主イエス・キリストと共に、とりなしの祈りを献げる者とならせていただきましょう。

 主イエス・キリストの十字架の死を真に見つめるのなら、私たちがどうしようもない罪人であることを見つめることです。しかし、だからこそ、主イエス・キリストの十字架の愛が私たちに与えられていることを知るのです。パウロはその愛を与えられた者としての信仰告白をしています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ2:19~20)」と。