2024年11月10日 礼拝メッセージ
『理由なき恩赦』 マルコの福音書 15章1節〜15節
真夜中に、偽りの宗教裁判が行われた(マルコ14:53~65)後、夜が明けるとすぐに、主イエスの身柄は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトの下に引き渡されました。
何故、最高法院は、主イエスには死刑に当たる罪があると決めた(マルコ14:64)のに、自分達で処刑せず、総督ピラトに主イエスを引き渡したのでしょうか?それは当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあったので、死刑を実際に執行するためにはローマ帝国の許可が必要であったからです。(参照ヨハネ18:31)
しかしそれは建前で、主イエス殺害のことで自分達の手を汚したくなかったからです。福音記者ヨハネによれば、「さて彼ら<祭司長達>はイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。(ヨハネ18:28)」のです。 (過越の食事ではパン種を入れないパンを食するので、パン種を置いてある家に入ろうとしなっかったのです。)それは、罪のない人間を罪に定めるという罪を犯しながら、表面的に律法を守ろうとする愚かな姿です。そして、使徒の働き7章58節では、ステパノが最高法院によって石打ちの刑(リンチ同様)によって殺されています。彼らは、ローマ帝国を無視して死刑を行っているのです。最高法院の議員達は感情的になって、ステパノをその場で(町の外に追い出して)殺したのです。しかし、主イエスの時には、最高法院は、ある意味、冷静で合法的に殺しているのです。その姿、その心は、主イエスに対する、どろどろした憎しみの心が隠されていて、感情的に殺すよりももっと恐ろしい殺意です。
福音記者ルカによれば、ピラトは「ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた。(ルカ13:1)」と記されているように、不穏な挙に出たガリラヤ人を虐殺するくらいの男です。しかも、ヨセフスの「ユダヤ人古代史」によれば、神殿の献金でエルサレムに水路を引こうとして、ユダヤ市民と対立したり、カエサル(ローマ皇帝)の肖像がある軍旗を強引にエルサレムに立て、ユダヤ国民と激しく対立したりしていますが、それにしては、四福音書に共通しているのは、最高法院よりも、はるかに物わかりの良い男に思えます。
ピラトは、最高法院の訴えに、沈黙し続ける主イエスに、歯がゆくなって、主イエスの弁解を促しています。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。(4)=(マタイ27:13)」と。また彼は、最高法院の訴えが事実無根であり、「祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを知っていた(10)=(マタイ27:18)」のです。また、「あの人がどんな悪いことをしたのか(14)」と、ある意味、主イエスの無罪を主張しています。福音記者マタイは、ピラトの妻に関して、興味深いことを記しています。「ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。『あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。』(マタイ27:19)」と、彼の妻は、「あの正しい人」すなわち、義人としての主イエスの無罪を主張しています。
このことは、ピラトが考えているような単に無実の罪で訴えられた人ではなく、神の御子であり、神の認める義人であることを示しています。また、福音記者マルコは、ピラトが「この人の血について私には責任がない。(マルコ15:24)」と言っているのを記しています。ですから、彼は主イエスが義人であることを認めていますし、彼の妻の夢が気になっており、責任を負うのは割に合わないと思い、責任逃れをしたのでしょう。いずれにしても、ピラトが主イエスを無罪と認めたことは、エルサレム中の人々に隠すことのできない事実です。ですから後に、ペテロは、神殿参拝者達に向かって「あなたがたはこの方<主イエス>を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。(使3:13)」と言っているのです。
しかしそれほど、主イエスの無罪を信じているピラトが、どうして最後には、主イエスを十字架刑に宣告するに至ったのでしょうか?それは彼が、彼の目の前にいる主イエスが無実の罪に問われていることよりも、彼自身の保身が第一であったからです。福音記者マルコは、「ピラトは彼らに言った。『あの人がどんな悪いことをしたのか。』しかし彼ら<祭司長達に扇動された群衆達>はますます激しく叫び続けた。『十字架につけろ。』それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。(14〜15)」と記しています。そこに、群衆の機嫌を取るピラトの姿があります。何故、群衆の機嫌をとらなければならなかったのでしょうか?福音記者ヨハネはその情況を記しています。「ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。『この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とするものはみな、カエサルに背いています。』(ヨハネ19:12)」と。ピラトが恐れたのは、群衆がピラトをカエサルに反逆罪で訴えかねない様子だったからです。つまり、自分の首をつなぐためです。ヨセフスの「ユダヤ人古代史」に記されているように、ユダヤ人とピラトとの多くの対立があったことも、その背景にあります。もしそれで騒動があれば、何故、その騒動を防ぐことができなかったのか、と、監督不行き届きの罪で、総督の地位を失いかねないからです。
しかし、そもそも、ピラトが最初に主イエスに尋ねたのは、「あなたはユダヤ人の王なのか。(2)」です。最高法院では、神への冒涜罪ということで死刑と決めていたのですが、異邦人の法廷でも、さばきの対象となるように、福音記者ルカによれば、「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。(ルカ23:2)」と嘘の証言をして、総督ピラトに訴えています。つまり、宗教的、霊的な意味での王キリスト(救い主)であることを、ローマに反乱を企てているかのような、政治的含みを持った王としたのです。すなわち、問題のすり替えを行ったのです。宗教的な意味であれば、ユダヤ国民だけの問題であって、ローマ側は取り合わないからです。ピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか。(2)」の質問に対して、主イエスは「あなたがそう言っています。(2)」と答えています。塚本虎二訳では「そう言われるなら、ご意見にまかせる。」です。
先に、大祭司の「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。(マルコ14:61)」の質問に対して、主イエスは「わたしがそれです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マルコ14:62)」とお答えになっています。それで大祭司は、主イエスがご自分が神の御子であることを宣言しておられるので、主イエスを神への冒涜者として罪に定めました。
しかし、そのお答えに比して、ピラトへの答えは曖昧に思えますが、ピラトの質問は、彼自身の主体的な質問ではなく、祭司長達のねじ曲げた告訴である「ユダヤ人の王」すなわち、ローマに対する反逆者として王であったからでしょう。福音記者ヨハネは、「わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と主イエスがお答えになっておられることを記しています。このことから、主イエスがローマ帝国に対して反逆を企てている危険人物ではないことが明らかになりました。それに、ピラトの前にいる、沈黙の静かな男が、そんな危険人物だとはとても思えなかったのです。
しかも、ピラトが「もっと自分のことを弁解しろよ。(マルコ15:4)意訳」と言わせるほどに、主イエスはご自分に対する嘘の証言に対して、何も弁解なさろうとしなかった、その理由の第一は、神の御心に従っている主イエスのあり方でした。(参照;イザヤ書53章1~9節)そして第二は、主イエスがご自分への嘘の証言に対し、いっさい弁解せず、沈黙すればするほど、主イエスに罪が見出せないことが明らかにされて行くという事実です。人間側から見れば不思議なことです。しかし、そのことによって、かえって、主イエスを訴えている者達、裁いている者達こそが罪ある者であることが明らかになっているのが分かるのです。ですから、福音記者マタイは、ピラトが群衆の目の前で、手を洗う儀式によって、「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(マタイ27:24)」と、捨て台詞を吐いているのを記しています。それに対し、ユダヤの群衆は「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に<かかってもよい。>(マタイ27:25)」とうそぶくのです。罪の重さを感じます。罪が罪を呼び、どこまでもエスカレートして行くのを感じます。
「ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた(6)」ことから、群衆が要求し始めたので、暴動と人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていたバラバと、主イエスとを比較させます。ピラトは「祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを知っていた(10)」ので、群衆に「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。(9)」と問います。
ところが「祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように扇動した。(11)」のです。おそらくピラトは、当然、群衆がバラバではなく、「イエスを」と言うと思っていたに違いありません。しかし、祭司長たちに扇動された群衆は「バラバを」だったのです。そこでピラトが「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。(12)」と尋ねると、群衆は「十字架につけろ。(13)」と叫ぶのです。それでもピラトは群衆に「あの人がどんな悪いことをしたのか。(14)」と問いますが、群衆はますます激しく「十字架につけろ。(14)」と叫び続けるのです。
ローマの刑法でさえ、十字架刑は決して普通の死刑の方法ではなく、最も残忍な死刑の方法だったのです。それでも、群衆は、極悪人バラバではなく、主イエスを「十字架につけろ。」と叫んだのです。後に、ペテロはこのことについて、ユダヤ人達にはっきりと宣べています。「あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。・・(使3:14~15)」と。
さて、考えられないことが起こったのです。無実の主イエスが十字架に架けられ、明らかに有罪であるバラバが釈放されたのです。福音記者マルコは、バラバのことを何一つ記していません。ただ、主イエスの身代わりによって、バラバが赦された事実だけを記しています。死刑にされたに違いないバラバが、何故か、釈放されたのです。突然の恩赦です。主イエス・キリストによってです。主イエス・キリストの十字架の死が、人間の罪の贖いのためであることを、決して認めようとしない人も、この事実を、主イエスのいのちを代償にして、一人の男のいのちが救われたことを否定することはできません。
バラバには、釈放される理由、つまり免罪となる理由(善行)など、どこにもなかったのです。ただ、主イエス・キリストの身代わりの十字架の故です。このことは、誰も否定できない事実です。神はこの考えられない事件を通して教えて下さっています。バラバが釈放された事実は、私もあなたも、主イエス・キリストの十字架によって、私のあなたの罪が赦されることの証拠であるということです。
私達は、主イエスの裁判と十字架の事実の中に関わっている、最高法院の議員達(神に最も近いところにいる人であるにもかかわらず、嫉妬によって神の御子を殺した人達)、群衆(自己中心で、無責任な人達)、ピラト(利己的で、主イエスが正しいことを認めながらも悪<世>に屈してしまう人)を、自分に関わりのない人達と思ってはならないのです。この人々は、私たちの姿です。そして、バラバこそ、私たちの希望です。神が、私達に事実として示して下さった、救いの原理です。私達が救われたのは、実に、神からの一方的な愛の恵みです。バラバは、俺には釈放される理由がないなどと、拒否していません。当然のことです。しかし、そのことを何と多くの人々が、知らないとはいえ、拒否しているのでしょう!
主イエス・キリストは何のために、十字架につけられたのでしょうか?(参照;イザヤ書53章10~12節、ヨハネの福音書3章16節)
主イエス・キリストの恵みに、心から感謝しましょう!