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2024年3月17日 礼拝メッセージ
『決意の道』  マルコの福音書 10章32節〜34節  

 いよいよ、エルサレムに近づきました。これまで何度、エルサレムを訪れたでしょう。しかし今回は、二度とエルサレムから出ることがないのです。「イエスは弟子たちの先に立って行かれた。」と、福音記者マルコの短く簡潔な語り口に、主イエスの並々ならぬ決意を持って歩いて行かれる様子が感じられます。そのただならぬ、主イエスの雰囲気に、弟子たちは何かを感じ、驚き、恐れを感じていました。しかし、それが何であるのかは分からないのです。主イエスは弟子たちの先頭に立って歩いて行かれます。そして弟子たちは、驚き、怪しみながら、その後をついて行くのです。

 この道ばかりは、主イエスが先頭に立って歩いて行かなければならないのです。何故なら、十字架の道は、主イエスお一人の道だからです。弟子たちはその後をついて行くのですが、もしその道を行く本当の意味<恐ろしい運命>を理解していたのなら、彼らはついて行かなかったかもしれません。何故なら、弟子たちは、主イエスが祭司長達、律法学者たちに捕らえられたとき、逃げ出してしまったのですから。

 しかし主イエスは、しばらく行かれると立ち止まられたのでしょうか? それともゆっくりとした歩調になられたのでしょうか?  御跡をついて来る弟子たちの中から、十二弟子をおそばに呼ばれ、ご自分に起ころうとしていること<恐ろしい運命、十字架の死>について話し始められたのです。

主イエスにとってみれば、足手まといの、そして最も大事なとき<十字架の時>、逃げ出してしまう、頼りない十二弟子たちを後に残して、お一人でさっさとご自分の道を行かれた方が良かったのではないでしょうか?しかし主イエスは、十二弟子たちを「神の国の福音」を宣べ伝える使徒として立たせるために、立ち止まって、あるいは、弱い彼らの歩調に合わせて下さったのです。主イエスは、彼らが、ご自分の御跡について来ることを望んでおられるのであり、また、主イエスが呼んで下さらなければ、十二弟子たち<私たち>は、主イエスの御跡をついて行くことなどできないのです。 

 さて、主イエス・キリストの受難の予告は、これが初めてではありませんでした。これで三度目です。最初は、8章31~32節に、「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえられなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。(マルコ8:31~32a)」と記されています。そしてこの時、「ペテロは主イエスをわきにお連れしていさめ始めた(マルコ8:32)。」ので、主イエスが「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている(マルコ8:33)。」とペテロを叱られたことが記されています。 この時の弟子たちは、主イエスのみことばの意味が分かっていなかったのです。

 次は、9章31節「『 人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる』」と、主イエスは予告しています。そして、32節「しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。」のです。

 そして三度目が、10章33、34節です。主イエスのこの三度目の受難予告は、今までよりも非常に詳細で具体的です。主イエスは、祭司長、律法学者たちに捕らえられて裁判にかけられ、死刑を宣告されますが、異邦人すなわちローマ人に引き渡されます。そして主イエスは、ローマ人に、嘲られ、唾をかけられ、鞭で打たれ、彼らに殺されますが、三日後に復活されるということです。

 この三度目の十字架の死と復活の予告に対して、弟子たちの無理解と反応に驚きます。まるで何も聞いていなかったかのようです。最初の十字架と復活の予告(マルコ8:32)の時、ペテロが主イエスを諫めたことは、無理解にしても、無理解なりの反応がありました。二度目の十字架と復活の予告(マルコ9:32)に対して、主イエスに尋ねるのを恐れていたのは、最初の時にペテロが叱られたのを覚えていたからでしょう。そして自分たちにとって、快くないことに耳(心)を閉ざしたのでしょう。三度目の時の弟子たちの反応について、福音記者ルカが記しています。「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:32)」と。

 何故、隠されているのでしょう。何故、弟子たちには理解できなかったのでしょう。弟子たちは、ローマ帝国に支配されていることからのイスラエルの解放を願っており、権力を持って、民を支配する祭司長たち、律法学者たちを快く思っていませんでした。ですから弟子たちは、このローマ帝国を滅ぼし、ユダヤ人の王国を実現する救い主を求めていました。その必要のために、自分たちの夢の実現のために、主イエス・キリストに、ついて来たのです。自分たちの願い、欲望を実現するために、救い主を求めていたのです。その証拠は、次の35節から37節に記されている弟子のヤコブとヨハネが、主イエスの王国が実現した時、自分を右大臣に、もう一人を左大臣にして欲しいと願っていることにあります。ですから、その救い主が十字架で殺されるなどということは、絶対にあってはならないことなのです。「隠されていた(ルカ18:32)」とは、主なる神のご計画の中で、神がそのようにされたという意味ですが、それでは弟子たちには罪がないのかと言えば、否です。何故なら、弟子たちの欲望すなわち彼らの罪「自我」が中心であったために、真理を見ることができなかったからです。つまり、神のご計画、神の御心ではなく、自分の思い、自分の計画が中心であったからです。神の知恵ではなく、人間の知恵であったからです。(参照;第一コリント2:1~9)

 やがて、主イエス・キリストの復活と昇天の後、聖霊に満たされたとき、弟子たちは、主イエス・キリストの十字架の真理を理解するようになり、主イエスが何と忍耐深く、弟子たちに真理を語って下さっていたのかを思い出すことができたのです。  聖霊に満たされた弟子たちは、人間の知恵ではなく、すなわち、武力による流血ではなく、人の手にかかって殺されるという、主イエス・キリストの十字架での流血、死という、人間には愚かに見える行為によって、人が救われるという不思議<神の知恵>を見るのです。主イエスの十字架の死による罪の贖いによって「救われる」すなわち「神の王国」の住人となるという恵みを知るのです。今、起こっている中東戦争(イスラエルとハマスの戦争)で、武力をもって戦う人たちには愚かなことです。しかし、武力によっては決して「平和」は訪れないのです。主イエスは「剣を取る者はみな剣で滅ぶ(マタイ26:52)」と警告しておられます。主イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、すなわち、神の愛によってのみ、真の平和が訪れるのです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力(第一コリント1:18)」なのです。

 現代においては、自分さえ良ければという自我の繁栄の時代だからでしょうか?現代の若者たちには、かつて私が若かった頃、70年安保の時代、思想だとか革命だとかと口に泡を飛ばして議論することを見なくなりました。かつては共産主義、社会主義が、政治が、世の中を変えると思っていた時がありました。しかし現代において、若者だけではなく、多くの人々が、どんな思想であれ、政治が世の中を変えると真剣に思う人々は皆無に近いとは言い過ぎかも知れませんが、希望を持つ人は多くはいないのではないかと思います。と言っても、真剣にこの世の中を少しでも良くしようと、他の人々のために働く人、尊敬すべき人もおられることも事実です。

 しかし、人間の思想や主義では、真の平和は与えられないのです。人間そのものが変わらない限り、自我を持つ人間が、どのような理想的な社会形態を築いたとしても、そこには、真の平和を生むどころか、必ず争いや戦争が生じるのです。

 人に嘲られ、唾をかけられ、むち打たれるという無力な人が、どうして世界を救うことができるのか、世界に平和をもたらすことができるのか?人間には考えられない救い主のあり方!人間の考える英雄とは、全く正反対のお方!すべての人間の、拒否の中で、孤独の中で、誤解の中で、弟子たちに裏切られ、捨てられ、十字架に架けられ、死に葬られたお方が、世界に真の平和をもたらすお方、世界を救うお方、私たち一人一人の罪からの救いを与えられるお方と、いったい、誰が考えることができたでしょうか?誰もそんな愚かな革命を考えられませんでした。人間には考えられない不思議な革命です。「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることはありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(第一コリント1:21)」その「宣教のことばの愚かさ」とは、十字架に架けられた主イエス・キリストです。弟子たちに逃げられ、敵に殺されてしまう、無力な主イエス・キリストです。

 しかし人間の目からは無力に見えても、大いなる神の力、神の平和がそこにあるのです。主イエス・キリストは、むち打たれ、嘲られ、ののしられ、唾を吐きかけられても、その人たちのために、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23;34)」と、祈られたのです。

 武力ではなく、力でもなく、「愛」、どこまでも深い愛、限りない愛によって、私たちの罪の贖いのために死なれたお方が、私たちの救い主、主イエス・キリストです。

 私たちが信じる、主イエス・キリストは、人間の知恵ではなく、神の知恵によって、神の御心によって(従って)、歩まれたのです。
 主イエス・キリストの、エルサレムへの道は、十字架の道、死の道です。しかし、父なる神の真の平和の道であり、永遠のいのちに至る道です。主イエス・キリストの決意の道は、父なる神の決意、限りない愛の道です。私たちは今。どのような決意の道(人生)を歩んでいるでしょうか?主イエス・キリストが与えて下さる決意(愛)の道でしょうか?私の自己満足、自我の道でしょうか?やがて滅び行く、この世の楽しみ、偽りの平和の道でしょうか?

 主イエスは言われました。
 「しかし、人の子は三日後によみがえります。」と。事実、主イエスは復活され、死に勝利されました。永遠のいのちを私たちに与えるために。

 私たちに与えられている道は、主イエス・キリストの十字架と復活の道、永遠のいのちに至る道です。主イエス・キリストは、今日も私たちに呼びかけておられます。「わたしについて来なさい」と。私たちは、主の御跡について行きましょう。主の決意の道を。