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2024年11月3日 礼拝メッセージ
『ペテロ泣く』  マルコの福音書 14章66節〜72節  

 ペテロは、主イエスを見捨てて逃げ去りました(マルコ14:50)が、その後、遠くからですが、主イエスの後について行き、大祭司の家の庭の中まで入って行きました(マルコ14:54)。一見、大胆だと思えますが、福音記者ヨハネによれば、もう一人の弟子が一緒で、彼が大祭司の知り合いで、彼が門番の召使いの女性に言って、門の外に立っていたペテロを招き入れたのです(ヨハネ18:15〜16)。それにしても、ペテロは臆病であったわけではないようです。主イエスが捕らえられようとした時、大祭司のしもべマルコスに撃ちかかり、その耳を切り落とした(マルコ14:47、ヨハネ18:10)のであり、向こう見ずのところもあり、勇気もあったのだと思います。何故なら、彼は今、敵陣に乗り込んでいるのです。では彼は何のために、敵陣に入ったのでしょうか?できれば、主イエスを救おうと思ったのでしょうか?否、彼のことですから、何も考えずに、主イエスを愛するあまり、ついて行ったのかも知れません。しかし、いずれにしても、自分の身の安全ばかりを考えている者が、敵陣にまでついて行くことはしないのではないか、と思います。

 しかし、ペテロは、主イエスを否定したのです。大祭司の召使いの女性の一人が「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(67)」と言うと、ペテロは「何を言っているのかわからない。理解できない(68)」と答えたのです。福音記者ヨハネによれば、その女性は、門番をしていた女性であり、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね(ヨハネ18:17)」と聞いています。福音記者マルコも、その女性が、火に当たっているペテロを見かけると、「彼をじっと見つめて言った」と記しているのは、火の光で確かめていたのであり、「ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」と質問しているので、確信してではなかったようです。

 しかし、その女性が「ナザレ人イエス」と言っており、福音記者マタイによれば「ガリラヤ人イエス(マタイ26:69)」と言っているので、ペテロが時折、火にあたっている人々と話している特徴的なガリラヤなまりによって確信をもたれたのではないかと思います。ですから、召使いの女性は、二度目は確信して「この人はあの人たちの仲間です。(69)」と言ったのだと思います。福音記者マタイは、二度目は、別の召使いの女性が言ったと記していますが、顔よりも、そのガリラヤなまりが印象的ではなかったか、と思います。その証拠が、三度目の、ペテロのそばに立っていた人々のことばが「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。(70)」であり、福音記者マタイによれば「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73)」であるからです。しかし注目すべきは、この召使いの女性や一緒に火に当たっていた人々が、確信を持って言ったのか、どうかよりも、ペテロの反応にあります。彼は、主イエスのように、法廷(エセ法廷ですが、)で取り調べを受けているわけでもなく、また捕らえられるというわけでもなかったようです。法廷の関心は主イエスであり、弟子達ではありません。また、当時の慣習では、女性の証言は、法的には重要視されなかったので、召使いの証言は、ペテロにとって、それほど脅威ではなかったのです。また人々の反応も、ペテロを弟子だと確信したとしても、それ以上の追求はなく、捕らえようとしていないことを見ると、ペテロが再び、剣を抜いて暴れない限り、安全ではなかったかと思えるのです。

 また、主イエスの弟子であっても、大祭司の知り合いであったもう一人の弟子(ヨハネ18:15)によって、ペテロが大祭司の庭に入ることができた事実から、安全ではなかったかと思えますし、祭司側では、主イエスに関心があっても、弟子達には関心がなかったと思えるのです。

 では何故、これほどペテロはうろたえ、主イエスを否定したのでしょうか?第一に、ゲッセマネで祈り抜いた主イエスの勝利と、眠りこけていたペテロの敗北が明確に現わされたということです。神に祈らず、神の御声を聞いていないと、人の声が、一人の女性の声が、襲いかかる恐ろしい獅子(第一ペテロ5:8)の吼え猛る声のように聞こえてしまうのです。本当の強さは、覚悟して受けとめる大試練に打ち勝つことではなく、不意に襲う小さな試みに勝つかどうかによって明らかになるのです。

 ペテロは勇気ある人間でした。彼は自分に関わるすべてのものに対し、情熱と犠牲を持って行う人でした。主イエスの招きに対し(召されたとき)、ためらうことなく、主イエスに従いました。彼は全力を尽くして、主イエスのために、生涯を献げようとしました。しかし、その熱心がサタンの活躍する場を与えたのです。彼の熱心、主イエスを決して裏切らないと言ったことは決して嘘ではなかったのです。しかし、彼は自分の弱さに気づいていなかったのです。

 彼はかつて、主イエスがわたしは誰かと問われたとき「あなたは生ける神の子キリストです(マタイ16:16)」と答え、その信仰の故に、主イエスが「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしは教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイ16:18)」と祝福されたのです。しかしその後、主イエスが十字架の預言をされたとき、「ペテロは、主イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。(マルコ8:32)」のです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。(マタイ16:22)」と。しかし主イエスはペテロを叱って言われました。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ16:23)」と。(マルコ8:29~33)

 大祭司の庭で、ペテロは必要以上に主イエスを否認しました。弟子であることを激しく否認したのです。「嘘ならのろわれてもよい誓い始め、『私は、あなたがたが話しているその人を知らない』(71)」と。ペテロは、主イエスの弟子であることを否定することによって、それでは何故、彼が大祭司の庭にいるのか?つまり、今、自分が立っている自分自身の存在をも否定していることに気がついていないのです。今まで主イエスと共にあった過去も、そして現在も、さらに未来の自分をも否定しているのです。ペテロの主イエスの弟子であることの否定は、彼自身の内面から出て来たものです。祈っていなかったことの結果です。自分を信じていたことの結果です。神の御子キリストと自分との関係を否定することは、神の御子キリストの存在を否定すると同時に、彼自身の存在を否定することになるのです。ペテロの否定は、私にもその危険があることを示しています。自分の信仰が、自分自身にある(自分の熱心にある)と思っているならば、それはもろく崩れるものです。(参照:エペソ2:8~9)第二次世界大戦の中において、日本の教会の多くが、主イエス・キリストへの信仰告白を守りきれなかったその姿も、ペテロの否認も同じ姿です。そして私たちの姿でもあるのです。日常において、主イエスにある自分の立場をはっきりとしているかが問われるのです。

 それにしても、主イエスは何故、このことを預言し、サタンのふるいにかけさせることを容認された(ルカ22:31)のでしょうか?砕かれるためです。本当の悔い改めを体験するためです。主に従うためには、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心(詩51:17)でなければならないのです。ペテロのように、情熱と犠牲を惜しまない勇気を持つ者は特に危険なのです。

 私はかつて、リバイバル聖会での講師のある牧師に、「君は、おとなし(い)ガンコだ。」と言われたことがあります。主に従うためには、もっと砕かれなければならない(そのままでは大失敗する!)と。その時の私は自分の属する教会、教団を出て、一人で開拓伝道するつもりで、その夢を語ったのです。(リバイバル聖会の主催者の牧師が開拓伝道者であったので、その影響を受けていたのだと思います。)しかし、主に従うということは、今の私にとって、教会に仕え、教団に仕えることだと知らされたのです。主にすべてを委ねるということを。

 ペテロは、この経験によって、自分の力に頼る働き人ではなく、自分の力の限界や弱さを十分に承知したうえで、主の御力に頼りながら働く働き人となり、新しく主に用いられる者となったのです。聖霊の働き、導きによって。

 ペテロは何によって、そのことに気づいたのでしょうか?鶏が二度目に鳴いたときです。では、一度目の鳴き声は聞こえなかったのでしょうか?否定することに夢中で聞こえなかったのかも知れません。しかし、二度目の鳴き声を聞いて、ペテロは我に返ったのです。キリストにある我に。確かに、鶏の鳴き声がきっかけでした。しかし彼が我に返ったのは、彼が泣き崩れる<激しく泣いた(ルカ22:62)>ほどに、思い出したのは、主イエスのみことばでした。一度目の鳴き声の時とは違い、二度目の鳴き声が、ペテロの心を突き刺す警告として響き、主イエスのみことばを思い出したのです。

 では何故、二度目の鳴き声が、主イエスのみことばを思い出すきっかけになったのでしょうか?福音記者ルカは、その理由を記しています。「主は振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)」と。主イエスは顔を向けて、ペテロを見つめられたのです。主イエスのその目が、無我夢中で裏切り行為をしていた彼に、主イエスのみことばの成就を悟らせ、彼を我に返らせたのです。

 その主イエスの眼差しは、ペテロの裏切りの悲しみの目ではなく、叱責の目でもなかったのです。彼の弱さをご存じの主イエスの、彼が再び立ち直るために祈ってこられた、やさしさに満ちた愛の目でした。何故なら、主イエスはペテロに「わたしはあなたのために祈りました。あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)」と言っておられたからです。

 このことから学ぶべきことは、真の自分を知るということです。自分が自分を知ると言うことは、自分の認識によるのではないということです。主イエスの愛の眼差しで見つめられている自分、主イエスに知られている自分こそ、本当の自分であるということです。人間社会(比較社会)で相対的に見ている自分(自分の認識)ではなく、主イエス・キリストに知られ、愛されている自分こそ、本当の自分であることを知ることです。主イエス・キリストが、私を知っていて下さるということこそ、本当の自分でいられるのです。

 罪とは何でしょうか?
 神を知らないということです。
 従って、自分自身をも知らないということです。

 主エイス・キリストは、自分自身をも知らない、ペテロの無知と高ぶりの罪を十字架によって背負い、彼の罪の贖い主になられたのです。そして私たちの無知と高ぶりの罪をも、十字架によって背負って下さったのです。ですから私たちは、私たちのすべてをご存じの主イエスに、すべての望みを託しましょう!

 私たちは自分自身を知らない者ですが、主イエス・キリストは、私たちを完全に知っていて下さるのです。(参照;詩139:1~24)私たちは、神にも、自分にも不真実な者ですが、主イエスは、それでも私たちを愛し続けて下さる真実なお方です。ですから私たちは、主イエスにいつも自分の心を探っていただきましょう(詩139:23〜24)。

 そして、主イエスの愛の眼差しから、目をそむけないで、生きて行きましょう!