2024年10月20日 礼拝メッセージ
『偽りの裁判』 マルコの福音書 14章53節〜65節
ついに、主イエスは捕らえられました(人間側から見ると)。しかし、主イエスは自ら捕らえられたのです。(参照;第一ペテロ2:24)何故なら、それは父の御心だからです。その御心とは何でしょうか?主イエスが人間が受けるべき罪のさばきの身代わりとして十字架で死ぬことです。しかし、主イエスにとっては、神の御子であられるにもかかわらず、神に捨てられる!ということです。三位一体の神が?、有り得ないことです。罪がないのに、罪のさばきを受けるのです。その事実が、主イエスが受ける偽りの裁判です。
主イエスは、大祭司のところに連れて行かれました(53)。大祭司とは、旧約時代、モーセの兄アロンが最初の大祭司に任命されて以来(出28:1)、代々その職を継承するようになった最高位の祭司職で、神と神の民との間をとりなし、神のみ前に民を代表する者でした。しかし、新約時代には、すでにその継承は崩壊しており、大祭司職はヘロデ大王がその任命を行使するようになり、最高法院(ユダヤ最高議会)がローマと交渉する機関であったため、大祭司職は、宗教的権力と政治的権力が集中するようになったのです。主イエス時代の大祭司カヤパ(マタイ26:57)は、ユダヤ人社会の宗教的権威を一手に握り締め、絶大な権力を持ち、神殿内の儀式等、数々の宗教的行事を通して莫大な利益を手にしていたのです。人間の側から見ると、カヤパは大祭司ですが、神(主イエス)から見ると、神を冒涜する者でした。
かつて主イエスは、神殿内の商売人を蹴散らしました(マルコ11:15~17)。その神殿内の商売は祭司の許可なくして行えるものではありません。おそらく、その上納金から私腹を肥やしていたのでしょう。主イエスの宮きよめによって、祭司長達や律法学者達は、どのようにして主イエスを殺そうかと相談しているのです(マルコ11:18)。主イエスは神の側にいるはずの人間から殺されようとしているのです。(マルコ3:6)」
何故、主イエスは神の側にあるはずの人間に、殺されようとしているのでしょうか?主イエスが真の神の御子であり、真に神の側にあるからです。大祭司、神の民を代表して神の側にあるべき者が、神の側にいないからです。自分達の神の側にいる(はずの)権威が、真の神の御子によって、崩壊することを恐れていたからです。その証拠が、この偽りの裁判です。
主イエスが連れて来られた大祭司の家に、祭司長達、長老達、律法学者達が集まってきました。いったい、何事でしょうか?しかも真夜中に。主イエスの裁判が行われる最高法院とは、ユダヤ人最高議会であり、最高裁判所です。大祭司、祭司長達、長老達、律法学者達の71人で構成され、民事、刑事、ユダヤ教関係の裁判権を併せ持つ、ユダヤ人の最高議会です。その最高議会が、何故、真夜中に?緊急事態?それにしても、何故、真夜中に?つまり、民衆の知らないところで、すばやく行われようとしているのです。異常としか、言いようがありません。緊急事態を認めたとしても、その裁判は公正であったのでしょうか?否です! 第一の証拠は、その目的が、イエスを死刑にするため(55)であったからです。第二の証拠は、その目的のために、公正でない多くの偽証がなされた(55)からです。しかし、偽証は、十戒(出20:16<第9戒>)においても禁じられています。それでも彼らはその罪を犯してでも、主イエスを殺したかったのです。しかし、どのような多くの不利な証言も、不一致があり、決定的な罪の証拠にならなかったのです。最後の偽証は、「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。(58)」というもので、神殿侮辱罪ということでしょうか?しかし、この偽証は聞きかじりの、事実と反する証言であり、他の者たちの証言もおそらく不正確な証言で一致しなかったのです。 このことは、主イエスの十字架の死と復活を意味しており、福音記者ヨハネが詳しく記しています。主イエスが宮きよめをなさった後、ユダヤ人たちが「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。(ヨハネ2:18)」という質問に対して、「イエスは彼らに答えられた。『この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。』そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか』しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。(ヨハネ2:19~22)」と。(すべての議員が、主イエスに悪感情を持っていたわけではないと思われます。(参照;ルカ23:50~53「アリマタヤのヨセフ」、ヨハネ19:38~42「アリマタヤのヨセフとニコデモ」)
「そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。『何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。』しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。(60~61) 」と。大祭司は、多くの証言が一致しないため、何とか、主イエスの言葉尻をつかもうとにじり寄りますが、それでも主イエスは黙ったまま、何もお答えになりませんでした。主イエスの沈黙の理由は、このような不正な裁判で、どのような正当な弁明も一切無駄であるからでしょう。しかし最大の理由は、預言の成就です。イザヤ書53章7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
何よりも、主イエスが口を開かないことによって、主イエスが神の御子であることが明らかになり、多くの偽証者達が、主イエスを罪に定めようとすればするほど、主イエスの無罪性が浮かび上がってくるのです。大祭司は明らかに、あせりを感じています。主イエスが神の御子であるか否かを、はっきりとさせなくてはならなくなります。民衆は主イエスを信じているのですから、その期待を裏切らせなくてはなりません。誰の目から見ても、今は捕らえられている、ただの人である主イエスが、神の御子であるはずがない。しかし、それなのに、自分達の権威を危うくするこの危険人物を葬らなければならない。直接的な答えが聞きたい。大祭司は再びイエスに尋ねました。『おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。』(61) 」と。
しかし意外なことに、主イエスは今までの沈黙を破られ、はっきりと答えられたのです。『わたしが、それです。(62)』と。それが事実だからです。
目の前にいる人間が、神であるはずがない。人間としては、大祭司としての自分が最も神に近い者であると自負するカヤパは、かたくなに、主イエスを神の御子として認めたくなかった。おそらく、どこかでもしや、という恐れがあったに違いありません。そして続けて主イエスが言われた、『あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(62)』のみことばは、聖書の欄外注の引照にあるように、詩篇110篇1節とダニエル書7章13節の引用であり、主イエスはご自身が、審判者として、地上に再臨されることを明言されたのです。大いなる皮肉です。裁いているカヤパが、裁かれていることが明らかになっているからです。大祭司であるカヤパはおそらく、このみことばを知っていたに違いなく、身震いしたのではないか、と思います。しかし、カヤパは自分の権威を守ることのほうが勝っていました。主イエスを殺すことしか考えていなかったカヤパは、このみことばを、人間の分際で自分を神とし、神を汚すことばとして捉えて、神への冒涜罪としました。何故なら、ユダヤ人は、自分を神とするなど、考えられないことであり、神の御名を直接唱えないことを守っていたほどであるからです。(今日では「ヤーウェ」と発音するとされており、以前は「エホバ」でした。)「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。(63~64)」神を認めない、本当は神を信じていない者、自分を神と同等に置いている者、すなわち、罪人が、本当の神の御子を、神への冒涜者と決めつけているのです。何という愚かさでしょうか?「そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、『当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。(65)」のです。何という、恐ろしい光景でしょうか!
この裁判の情景を、過去に起こった事件として見てはならないのです。何故なら、今も起こっていることだからです。人間は自己中心の罪から、神を神として認めようとしないからです。自分を正しいとしている者は、決定的に神から離れており、神を知ることができないばかりか、神を冒涜する者、滅びに至る者となるのです。
この世のあらゆる不幸な出来事、特に政治、戦争などの不幸な出来事はすべて、人間が神を認めず、自分を正しいとする、否、自分を神とすることから出ているからです。しかし、神を神として認める(信じる)者は、自分の罪を認めざる得ず、悔い改め、謙遜にならざるを得ないのです。真の神を礼拝しない者は、自分では気づかなくても、自分を基準として、自分を神としてしまうのです。そして神をさばくような、とりかえしのつかない重大な間違いを犯してしまうのです。
私たちは、真に神を神として礼拝しているでしょうか?自分で気づかずに、自分を神としていることはないでしょうか?心したいと思います。
主イエスは、この裁判の情況を通して、自分の正しさを弁明することよりも、ただ、黙って、沈黙すること、耐え忍ぶことにより、神に喜ばれることを示しておられるのです。かえってそのことにより、自分の正しさが明らかになるからです。 何よりも、神がすべてをご存知であることを知りましょう。
主イエスがなさったことは、自分の正しさを表明することではなく、神の御心を、神の栄光を表すことでした。みことばに聞きましょう。
「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口に欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰った。(第一ペテロ2:19~25)」のです。
真に神を礼拝する者は、この世の人々の「偽りの裁判」人々の誤解、中傷に対して、沈黙し、耐え忍ぶことにおいて、勝利する者となることを知るのです。何故なら、罪ある人々の証言よりも、最も大事なことは、神の保証なのですから。人間を恐れるのではなく、神を恐れ、神を信頼しましょう!