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2024年3月3日 礼拝メッセージ
『人にはできないことが、神にはできるのです』  マルコの福音書 10章23節〜27節

 主イエスは言われました。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしいのです。」と。弟子たちは驚きました。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と。「多くの財産を持っていた(マルコ10:22)」資産家のその人は、「十戒を守っている(マルコ10:20)」真面目な人でした。※前回の聖書箇所(マルコ10:17~22)参照

 しかし、前回の聖書箇所から、自己の執着を捨てなさい、それは所有物に限らず、自己の心も、神以外のもので、心を占めているものはないかを問われました。そしてそれには、救われるに値しない自分が愛されているという、神の圧倒的な愛の事実を発見しなければならないということ、つまり、罪の悔い改めと神の赦しを体験しなければならないことを学びました。

 しかし、弟子たちには、その本当の意味が分からなかったのです。取税人のような不正の富を得ている金持ちならともかく、この真面目な金持ちが救われないとしたら、いったいだれが救われるのだろうか、と。

 しかし、金持ちでも主イエスの救いを得ている人は大勢いるのです。使徒の働き12章12節に記されている、マルコの母マリアは、自分の財産を主のために有効に使った女性であり、彼女の息子は、ペテロとパウロの弟子となり、このマルコの福音書の著者マルコです。

 ヨハネの福音書19章38~39節に記されている、アリマタヤのヨセフとニコデモは、主イエスの埋葬のために香料と亜麻布を用意した、ユダヤ人の指導者で金持ちでした。

 ヨハネの福音書12章1~8節に記されている、マルタとマリアは金持ちであり、マリアは三百デナリの高価なナルドの香油を主イエスの足に塗りました。

 ルカの福音書19章8~9節に記されている、ザアカイは取税人のかしらで、不正の富を得ていた金持ちでした。主イエスに救われたザアカイは、財産全部捨てたのではなく、半分を貧しい人々に施し、だまし取った人には四倍にして返すと言っています。おそらく、抜け目のない彼のことですから、それまでの貯蓄の利子が利子を生み、相当な財産があったに違いないのです。主イエスは、その彼に「今日、救いがこの家に来ました。(ルカ19:9)」と宣言され、ザアカイには、真面目な金持ちの人のように、財産全てを貧しい人々に施せ、財産を捨てよ(マルコ10:21)とは言っておられないのです。

 ではどうして、主イエスは「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう」と言われたのでしょう。しかし、多くの聖書箇所から、主イエスが、単に「金持ちが救われない」と、言っておられるのではない、と分かります。弟子たちは、おそらく、単に「金持ちが救われない」と理解したのでしょう。

 ここで、「金持ち」ということを、よく考えてみましょう。まず、物質的な富、繁栄ということで考えて見ましょう。

 昔も今も、多くの人々は一応、貧しくても心が豊かであれば、などと言いますが、やはり、しあわせという実感を、物質的な豊かさに求めることが多いのではないでしょうか?ですから、神社やお寺で、商売繁盛等のお札を買う人が後を絶たないのです。しかし、物質的な富の危険性は、人の心をこの世に向けさせるのです。永遠の国より、今、この世にだけへの思いに向けさせるのです。今、幸せであれば、今、満足できればよい、そのための蓄財ができればよい、と。そして、その欲望だけが膨らんで行くのです。

 そして、すべてのものの価値を、幸せの価値を、価格で考えるようになるのです。大げさだと思われるでしょうか?しかし、現代は、すべて金銭であらゆる物事が価値づけられれていないでしょうか?人の能力もそうです。受験戦争と言われて久しく、もう当たり前の世界になっていますが、小さい時から、塾通いをして勉強に励むのは何のためでしょうか?本当に学問が好きで学者になりたいという人が多くて、受験戦争があるのではありません。この世で、良い地位、良い暮らしを得たいから、頑張るのです。もちろん、勉強そのものが悪いなどと言うのではありません。いわゆる教養を身に着けることは、人生にとって必要なことです。しかし、このことは、人間の価値を能力で見ている、究極的には、人間を価格で見ているに過ぎません。そしてさらに、富とか繁栄は、人を簡単に傲慢にします。能力においても、金銭においても、地位においても、繁栄は人を高慢にさせ、自己満足に陥らせるのです。いいえ、他人のことではありません。私たちも、小市民的な豊かさの中でも、簡単に自己満足と高慢さを知らず知らずに持ってしまいます。金銭においても、能力においても、それがすべて神のものであることなど思いもよらず、高慢になってしまうのです。キリスト者であっても、その危険性があります。ですから、箴言30章8~9節には、人間は豊かになれば神を求めなくなり、貧しくなれば神の御名を汚すために、貧しさも富も与えないで下さい、とう願いがあるのです。

 弟子たちの「それでは、だれが救われることができるでしょう。」の問いは、弟子たちがまだ、人間の努力によって救いがある、すなわち神の国に入ろうとしているからです。ですから、主イエスは、「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」と仰ったのです。救われるということ、神の国に入るのは、人間の努力や功績によるのではない、と。人間の力や努力では、すべてを捨てることなどできないし、神に従うことなどできない。もしできたとしたら、それはすべて、神がそうさせてくださったからだと。神の国に入ること、すなわち、救われるということは、すべて神が私たちにプレゼントして下さったのであり、賜物なのだよ。人間は自分を救うことなどできないし、本質的には、富んでいることも貧しいことも、本質的には関係がない、救って下さるのは神だけだよ、と言っておられるのです。

 主の名は「不思議(士師13:18)」「不思議な助言者(イザヤ9:6)」と呼ばれますが、主なる神は、私たちに「救い」を与えて下さる。「人が神を信じる」という不思議を見せ続けて下さるのです。

 あなたには、「神にはどんなことでもできる」という信仰がおありでしょうか?その信仰は全てを神様に“ゆだねる”ことから与えられます。

“ゆだねる”ということは神の前で、自分の努力や力に頼ってジタバタすることをやめ、自分の罪深さを素直に認めて、自分ではなく、神が働いて下さるように求めることです。今日も主イエスは、あなたに「すべてを捨てて、わたしについて来なさい。」と呼びかけて下さいます。あなたにはできなくとも、“どんなことでもできる”主イエスご自身があなたと共にいて下さいます。ですから、私たちは主イエスの呼びかけに答えることを、願うだけでいいのです。「どうか、従わせて下さい。」と。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ5:3)」