2024年10月13日 礼拝メッセージ
『真の勇者』 マルコの福音書 14章43〜52節
汗が血のしずくのように流れるほど(ルカ22:44)、父なる神に祈ったイエスは、祈り終えた時、御心に従う心の備えが十分にできていました。しかし、眠っていた弟子達は、相変わらず霊的に盲目であったので、主イエスは心を痛め、今こそ信仰によって立ち上がることが必要な時、彼らのご主人が捕らえられ、十字架に架けられるという重大な時、目を覚まして祈るべきことを(眠っている場合ではない)話されたが、まだ話し終わらないうちに、ついに時が来たのです。
12弟子の一人、裏切り者のユダが先頭に立ち、ローマ軍の一隊の兵士(ヨハネ18:3)、祭司長、宮の守衛長達、長老達(ルカ22:52)、そして彼らから差し向けられた群衆<下役(ヨハネ18:3)>が手に剣や棒を手にしてやって来たのです。それは実に大がかりな捕り物騒ぎでした。いったい、それほどの人数が必要だったのでしょうか?(大勢の弟子達が彼らに立ち向かうと考えたのか?)
サタンの化身と化したユダは、最も恐ろしい方法で、主イエスを裏切るのです。それは、口づけで裏切ることです。口づけは本来、愛する者がその愛する人にするもの、あるいは尊敬を表す行為です。しかし裏切り者のユダは、普通の尊敬の挨拶ではなく、尊敬する主イエスを敵に売り渡す合図として、尊敬あるいは愛する表現である口づけをするのです。ユダは彼ら(兵士、下役等)と合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ(44)」と言っておいたのです。その通りに、ユダは主イエスに近づき、「先生」と言って口づけをしました(45)。ユダのこの異常な挨拶は、彼の裏切りの心を隠そうとする心の現れでしょうか?この時、主イエスはユダに「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい。」と言われたのです(マタイ26:50)。主イエスは、ユダを「友よ」と呼んでおられます。裏切り者のユダを、最後の最後まで愛されたのです。(参照;ヨハネ13:1)
そして主イエスは彼ら(兵士・下役等)に捕らえられました(46)。この時の様子を、福音記者ヨハネはこう記しています。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、『だれを捜しているのか』と彼らに言われた。彼らは『ナザレ人イエスを』と答えた。イエスは彼らに『わたしがそれだ』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに『わたしがそれだ』と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。」と。群衆が近づいて来た時、主イエスご自身が名のりをあげておられます。その威厳のため、群衆は後ずさりし、地に倒れます。
主イエスは、裏切り者に欺かれ、哀れにも捕らえられる囚人ではなく、ユダと群衆の事前調整もも、ユダの偽装も、すべては茶番劇でしかなく、主イエスは捕らえられたのではなく、自ら捕らえさせ、敵の手に身を預けられたのです。主イエスが捕らえられた時の様子をみると、主エイスの落ち着きと弟子達の慌てふためき(マルコ14:47、50)と群衆のものものしさ(マルコ14:48)の対比でその違いが明らかになります。
この様子を、ペテロは後にこう宣べています。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。(第一ペテロ2:24)」と。主イエスが自ら、捕らわれの身となられたことは、慌てふためく弟子達に対して言われたことからも明らかです。人々(兵士、下役等)が主イエスに手をかけて捕らえた(46)時、弟子の一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としたとき(47)の様子を、福音記者マタイは詳しく記しています。「そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。』(マタイ26:52~54)」と。福音記者ヨハネは、「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。(ヨハネ18:10)」と記し、福音記者ルカは「するとイエスは、『やめなさい。そこまでにしなさい』と言われた。そして、耳にさわって彼を癒された。(ルカ22:51)」と記しています。
主イエスは、ペテロに剣を収めさせただけでなく、耳を切られたマルコスの耳にさわって癒されました。このことは、単に争いを避けさせたということだけではありません。福音記者ヨハネは、主イエスが「わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)」と言われたことを記しています。主イエスは、ご自身のことよりも、大祭司のしもべを切りつけたペテロ以下弟子達(ルカ22:39)が逮捕されることを避けさせておられるおです。何という弟子達への愛情でしょうか!ご自分が捕らえられようとしている時、何という落ち着きでしょうか!
しかし、主イエスが、主権的に敵にご自分を預けられた、その最も大きな理由は、ゲッセマネの園の祈りの結果なのです。主なる神、父なる神の御心に従ったことによるのです。父の御心とは、主イエスご自身には何の罪も見出されないのに、私たちの罪の贖いのために、十字架におかかりになることです。
福音記者ヨハネによれば、主イエスを捕らえようとやって来た人々は、ローマの軍隊と千人隊長、それに下役達(ヨハネ18:12)という、物々しさであり、その中心にいたのは、祭司長達です。その祭司長達に、主イエスは言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。(48〜49)」と。彼らが主イエスを捕らえなかったのは、第一に、主イエスが民衆に絶大な人気を持っておられたからです。第二に、主イエスに罪がないことを知っていて、かえって自分たちに罪があること責められていたからです。
そして「聖書が成就するため」とは、主イエスが十字架で死なれることです。それは、イザヤ書53章に、ゼカリヤ書13章7~9節に預言されており、主イエスご自身も何度も預言(マルコ8:31、9:31)しておられたことです。
ここで、気づかされることは、主なる神、父なる神様の御心は、決して一方的ではなく、御心に応答する者によって、為されるということです。主イエスは、ゲッセマネの園において、父なる神に十分に祈り、その結果、父なる神の御心に従ったのです。父なる神の御心に応答されたのです。主イエスの受難の中での驚くべき落ち着きは、ゲッセマネの園の祈りの結果によるのです。その祈りの結果、十分に備えができておられるからです。主の御心を行っている(実現している)自覚故です。主イエスの驚くべき落ち着きは、この世の栄誉ではなく、この世の常識ではなく、主なる神、父なる神の御心に従ったが故です。
ペテロを始めとする弟子達の失敗は、自分の力で頑張ろうとしたことです。十分に祈らなかったその結果によります。その結果は、ただ自分の身に危険を招くだけとなったのです。主イエスが、大祭司のしもべマルコスの耳を癒されなかったとしたら、どうなっていたでしょう。一見、ペテロの行為は勇気ある行動です。しかし神は喜ばれないのです。
真の勇気ある行動は、祈りの十分な備えによって成されるのです。福音記者マルコは、逮捕に向かった人々と、弟子達のあわてふためいた興奮状態と緊張を伝えています。しかし、恐怖に捕らえられているのは、群衆と弟子達であって、主イエスではありません。人間的な頑張りに頼った弟子達は、皆、主イエスを裏切って逃げ出したのです(50)。
真の勇者とは、十分な祈りの備えによって、主の御心に従う人、主に信頼する人です。私たちの日々の生活、勝利の生活は、祈りの十分な備えによって成されるのです。