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2024年4月21日 礼拝メッセージ
『がんばれ!ロバの子』  マルコの福音書 11章1〜11節

 「さて、一行がエルサレムに近づき、」とは、いよいよ、主イエスの十字架の死が迫ってきていることを意味しています。「オリーブ山のふもとのベテパゲとベテスダに来たとき、」の「オリーブ山」とは、終わりの日(再臨の日)メシヤが現れると預言されている場所(ゼカリヤ14:4)です。そして、オリーブ山の麓には、主イエスが父なる神に「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(マルコ14:36)」と祈られた、ゲッセマネの園があり、オリーブ山の西側に「ベテパゲ」の地があり、東南に「ベタニヤ」の地があります。「ベタニヤ」は、主イエスが愛された、マルタとマリヤの姉妹とその兄弟ラザロの住んでいる村であり、その地名の本来の意味は「悩む者の家」「貧しい者の家」です。その「ベタニヤ」と対照的なのは、主イエスが、これから向かおうとする「エルサレム」です。イスラエルにおける繁栄と権力の象徴であり、中心地です。神の救いに最も近いと考えられていた神殿のある地です。しかしエルサレムは、ローマ帝国の力に屈服し、ローマ帝国の属領となっていたただけではなく、神の救いに最も近い地(都)どころか、形骸化した宗教の地となっていました。主イエスが怒りをあらわにし、神殿の中で商売をしている者達を追い出し(マルコ11:15~16)、「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたち(神殿に仕える祭司たち)はそれを『強盗の巣』にしてしまった。(マルコ11:17)」と嘆かれたほど、神殿は汚されていました。

 主イエスは、その汚れた都エルサレムに向かうにあたって、「向こうの村」のロバの子を所望されました。何故、ロバの子なのか? 実はゼカリヤ書に預言されています。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。(ゼカリヤ9:9~10)」と。

 主イエスをお乗せしたロバの子が、ゆっくりと進みます。「すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。」のです。群衆は、主イエスの前に後に行き熱狂的に叫びました。「ホサナ。“祝福あれ、主の御名によって来られる方に(参照;詩118:26)”。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」と。「ホサナ」とは、“どうか、救って下さい(参照;詩118:25)”という意味です。“”福音記者マルコは、群衆の叫びを、詩篇118篇25~26節からの引用しています。確かに群衆は「ホサナ」と叫びましたが、その最初の意味を失い、ただ歓迎を表す感動詞として用いられていたのではないかと思います。そして、主イエスをダビデの子として、すなわちメシヤ(救い主)として「救って下さい」の意味が込められているとしても、群衆は、今こそユダヤ解放の時、ローマ帝国を打ち破る政治的なメシヤを期待していたのです。それは後に明らかになります。福音記者マルコは、詩篇118篇を引用し、真の救い主の姿を記しながら、現実の群衆の望む救い主の姿を対比し、十字架への道を暗示しているのす。

 主イエスは、エルサレム入場において、ロバの子に乗っておられます。それは確かにゼカリヤ書の預言の成就として、ロバの子に乗られたことは間違いありません。しかしそれは、ゼカリヤ書9章9〜10節に記されているように、軍馬に乗った王、戦いの王としてではなく、「柔和でへりくだった、平和の王」を象徴しているのです。群衆の歓呼の声の中で、ゆっくりと進むロバの子に乗った主イエスのお姿は、雄々しい武将の姿とはほど遠い様子です。

 ロバの子に乗っておられることは確かに預言の成就としてであるとしても、熱狂的に迎える群衆の中を進むロバの子に乗った主イエスのお姿は、熱狂的な群衆の姿とあまりにもかけ離れているように感じるのです。違和感があります。主イエスは大工(石工)です。しかも「宮きよめ(マルコ11:15~17)」においては、商売人たちを蹴散らしたお方です。屈強な男性であったと思われます。その屈強な男性が親ロバではなく子ロバに乗っておられるのです。よろよろして「転ば(子ロバ)なかったでしょうか?あまりにも、熱狂的な群衆の様子とかけ離れているように感じるのです。雄々しい軍馬に跨り、颯爽として群衆を見下ろしながら進む主イエスのお姿こそ、群衆の歓呼の声にふさわしいと思うのです。しかし「神は馬の力を喜ばず、人の足の速さを好まれない(詩147:10)」のです。

群衆の姿(様子)と、主イエスのお姿(様子)の対比は、そのまま、神から離れている人と、神の人との対比でもあるのです。 熱狂的な彼らは、弟子たちも含め、やがて主イエスに失望し、彼らの期待を裏切った、主イエスを見捨てるのです。熱狂的な彼らの中には、やがて「十字架につけろ(マルコ15:13~14)」と叫ぶ群衆の一人となった者も多くいたに違いないのです。何という身勝手なのでしょう。感情的な信仰の空しさを、人間の満足を追求した信仰の愚かさを見ます。否、それは、神への信仰ではなく、自己追求の信仰なのです。彼らの熱狂的な信仰は、神を自分の満足の道具としたにすぎないのです。自分の役に立たなければ捨てるのです。自分の意に添わなければ捨てるのです。

 ですから、群衆が叫べば叫ぶほど、主イエスの心は寂しさで一杯になったのではないかと思うのです。移ろいやすく空しい喝采の中で、黙々とロバの子に乗って進む主イエスのエルサレム入場は、悲しみに満ちているのです。群衆は、ロバに乗る王としての主イエスを見ているのに、軍馬に乗る主イエスを迎えているのです。主イエスは愛を示す王として来られたのに、群衆は、力で敵を屈服させる王を期待しているのです。

 さてここで、熱狂的な群衆の中で黙々と主イエスを乗せて歩くロバの子について注目したいと思います。ロバは、古代オリエントで好んで用いられた旅行用、運搬用(参照;マタイ2:5「荷ろばの子である、子ろばに乗って」)の動物であり、特に、馬が少なかった昔のイスラエルでは、士師も預言者も王でさえもロバに乗ったのです。(参照;第二サムエル16:12「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため」)

 山を旅するには、馬よりも強く、女、子どもでも乗りやすい背丈であることから、ロバが愛用されたのです。しかし、ソロモン王がエジプトから大量の馬を輸入(第一列王10:28)してからは、ユダヤ王国の歴史上に、ロバを用いた王侯貴族は一人もいないのです。そのロバに乗る主イエスのお姿が、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就であり、主イエス・キリストの柔和とへりくだりの王としてのお姿であることを、弟子たちも気付いていなかったのです。

 そして主イエスが、「だれも乗ったことのない子ろば」と指定していることに注目しましょう。旧約の規定においては、すべての家畜の産む初子が神への献げ物とされたのですが、その中で、ロバの子だけは例外で、神への献げ物とならず、ロバの子は子羊によって代わりとされたのです。すなわち、神に献げることのできない動物とされていたのです。(参照;出13:13、34:20)しかし主イエスは、ロバの子をエルサレム入場のための動物とされたのです。神の預言の成就として選ばれた動物が、神への献げ物とならなかったロバの子であったのは、何故なのでしょうか?ロバは普段、荷物を運ぶ動物です。軍馬のように立派でもなく、子羊のように神に用いられる動物でもないのです。しかし今、神の御子、主イエスは、そのロバを最も大きな意味を持つ、エルサレム入場に用いられたのです。主イエスが、私たち人間の罪の贖いのために向かう、決意の十字架の死に向かう、エルサレム入場に用いられたのです。卑しめられ、取るに足りない雑用のロバの子が、主の栄光の御業に用いられたのです。「主がお入り用なのです。」と言われたのです。しかも、ご用がすめば、「すぐに、またここにお返しします。」と、日常の雑役に用いられるロバとして戻されるのです。

信仰生活として考えてみたいと思います。信仰生活は、「熱狂的な感動」と「日常生活からかけ離れたところ」にあるのではないということです。信仰生活の最も重要な拠点は、日々の雑用の中に、平凡な中にこそあるのです。群衆のさめやすい熱狂の中で、黙々と主の御業に用いられるロバの子は、乗り手である主イエス・キリストのへりくだりをそのまま、その姿に表しながら歩むのです。

気が付こうと付くまいと、主の御業に用いられているのです。

ロバの子が主に用いられたことの素晴らしい意味は、この世において取るに足りない者、さげすまれている者に対して、神の愛のまなざしが注がれていることです。

神が用いられるのは、特別な才能とか、熱心な努力(多くは自己実現が中心)ではなく、日々の雑用の中で、自分の果たすべき役割の中で、主にあって、忠実に、黙々と、歩む結果によるのです。神の救いは、この世の価値観(エルサレムの繁栄)を持つ者ではなく、この世の貧しい、取るに足りない者(ちいさなベタニヤ村)に与えられるのです。

 それを自覚している者、「心の貧しい(マタイ5:3)」者に、神の愛が分かるのです。熱狂的な群衆の中で、突然の主の御業のために用いられるロバの子が、王の王、主の主である、神の御子、主イエスをお乗せしている、その重さに耐えられなくなって、よろけそうになる、その格好の悪さに恥ずかしさをこらえながら、黙々と歩む時、主イエスは「重いかい?でもきっと歩き続けることができるよ。わたしを乗せているのだから、がんばれ!ロバの子」と呼びかけて下さるのです。きっと、ロバの子は、やがてその重さにも喜びを感じるようになり、がんばることができたのです。私たちもまた、ロバの子のように、主イエスをお乗せして、信仰生活を歩む者でありたいと願います。