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2024年4月14日 礼拝メッセージ
『何をして欲しいのか』 マルコの福音書 10章46節〜52節

 主イエスと弟子達の一行はエリコに到着しました。エリコはエルサレムの東北東約27キロに位置する町です。ガリラヤから、東ヨルダンを経て、エリコに到着し、そしてまた、エルサレムに向かうために、エリコを出られたのです。おそらく、一行がエリコに到着した時、主イエスの癒しの奇蹟や教えを伝え聞いていた人々は大歓迎で、その名声は知れ渡り、エリコを出られる時は、さらに、主イエスについて行く人々が増し加えられていたと思われます。何故なら、「多くの群衆と一緒に」と記されているからです。

 そして、主イエスと弟子達と群集の一行が、エルサレムに向かってエリコの町を出られると、その道端に、ティマイの子バルティマイという目の見えない物乞いが座っていました。彼は主イエスがおられると聞くと、大声で叫び始めました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」と。しかしエリコにおいて、さらに増し加わったと思われる群集は、歩きながら話しておられる主イエスの周りを囲みながらついて行き、そして、後方の群集などは、耳をそばだてながらついて行くのですから、ただでさえ、聞こえにくいところに、突然、無遠慮に叫び立てるバルティマイに腹を立てたのです。彼らは彼を黙らせようとしました。しかし彼は、ますます声を張り上げて叫び立てました。もし、イエス様が呼んで下さらなかったら、群集はおそらく、彼の口をよってたかって封じようとしたでしょう。

 さて、バルティマイの叫び声は、とうとう主イエスを立ち止まらせました。そして主イエスは、「あの人を呼んで来なさい。」と言われました。多くの人々は、まさか、目の見えない一物乞いの訴えをお聞きになるとは思っていなかったのです。何故なら、当時、盲人であることは罪のためであると考えられていたからです。(参照;ヨハネ9:1~2)
 そして、多くの群衆にとって、主イエスの存在は、すぐれたラビ<教師>あるいは預言者、また、ユダヤの国をローマ帝国から解放してくれる救世主、彼らの英雄です。そのようなお方が、盲人の一物乞いに関わってはいられない、否、関わってはいけない、と思っていたのではないかと思います。ですから、多くの人々が彼を黙らせようとしたのです。

 しかし彼は黙りませんでした。しかも彼は「ダビデの子、イエス様」と呼んでいます。その呼び名は、真のメシア<救世主>の尊称です。(参照;エレミヤ33:14~17、イザヤ11:1~10)
 多くの群衆のように、英雄としての救世主ではなく、自分の救いのための救世主として、呼んでいるのです。彼が明確に、自分の救世主としての信仰を持っていたのかどうかは分かりません。しかし、彼はとにかく、個人的に主イエスを必要としていたことは確かです。多くの群衆のように、ユダヤを解放して下さる救世主、彼らの期待を実現してくれる英雄としての主イエスは、彼には必要がなかったのです。ですから、多くの群衆が、彼を黙らせようとしても、彼は黙るどころか、ますます叫び出したのです。彼は必死だったのです。しかし、主イエスは、高いところから冷やかに人間を見下ろすお方ではなく、一人一人、個人的にかかわって下さるお方です。群集はその愛を今、目の前で目撃したのです。

 主イエスに呼ばれたバルティマイは、喜びのあまり、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスのところに走り寄りました。当時、上着は寝具の用もかねており、生活必需品です。脱ぎ捨てたことは、彼の物乞いの依存的な生活からの脱出を意味しています。

 主イエスは彼を見てやさしく尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか」と。 主イエスは盲人の思いが分からなかったのでしょうか。もちろん、そうではありません。 主イエスは彼に尋ねる前に、彼の願いをご存じの神です。(参照:詩139:1~4)
あえて尋ねられたのは、彼の救いの要求を明確にさせるためです。そしてこの質問は、彼だけではなく、事の一部始終を見ている弟子達にも尋ねておられるのです。「あなたが求めるべきものは何ですか?」と。

 盲人バルティマイは答えました。「先生、目が見えるようにしてください」と。

 ペテロは、キリストの故に一切を捨てた犠牲に対して、「ついては何がいただけるでしょうか。」と見返りを求めました(マルコ10:18)。ヤコブとヨハネは救い主のイエスの栄光の御座の右と左に座る栄誉ある地位を求めました(マルコ10:37)。

 しかし、バルティマイは報いや栄誉ではなく、今までの不幸な犠牲に対する賠償でもなく、自分の欠陥の回復だけを求めたのです。彼はただ、切実に、「私をあわれんで下さい。」と、願ったのです。盲人として、当然の事を願ったにすぎないのでしょうか。そうではないことが、癒された後の彼の行動でも明らかになります。主イエスが、「さあ行きなさい。」と言われた時、彼の新しい人生の出発には何の強制もないのです。ただ、目が見えることだけが彼の願いであったのなら、彼は彼の新しい人生の出発をすれば良いのです。しかし、彼は主イエスについて行くことを選んだのです。

 バルティマイは確かに、心の盲目をも、開いていただいたのです。彼は必死で、惨めな自分の肉の盲目と、霊の盲目(罪)の救いを願っていたのです。何故なら、当時の、盲目は罪の故だという考え方(ヨハネ9:2)に支配されているユダヤ人社会において、彼の心も苦しめられていたに違いないからです。そして、物乞いに屈辱を味わいながらも、それに依存しなければならない、その自分の惨めさに、神を呪い、他人をうらやみ、憎んでいたのです。その心の闇からの解放を願っていたのです。その切実な救いの求めこそ、主イエスに「あなたの信仰があなたを救いました。」と宣言された所以なのです。

 そして、見えると言って、自分の本当の必要を見ようとしないパリサイ人、自分の欠陥に気づかない人こそ盲目なのです(ヨハネ9:39~41)。

 主イエスは、なりふりかまわず、自分の盲目が開かれること(罪の救い)を求めるように願っておられます。そうすれば必ず、あなたの目が開かれる(救いを受ける)からです。主イエスは神の国を求める者達<救いを求める者達>に命じておられます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)」と。  

 主イエスは、素晴らしい生き方とか、有意義な人生とかのために「神の国の福音」を宣べ伝えているのではありません(もちろん、それも大切なことですが)。「神なしでは、あなたがたは真に生きることもできないのだよ。わたしから離れた状態では、永遠のさばきによる滅びの死に向かって行くだけだよ。わたしと共にいるのなら、神の国、永遠のいのちが与えられるのだよ。」と宣べ伝えるために、神であられるのに、この地上に人としてお生まれになり、私たちの罪の贖いのために、私たちが罪のさばきを受けるはずの身代わりとして、十字架で死なれたのです。(ピリピ2:6~8)

 そして、バルティマイの願いは、求道者の方の求め方を示しているだけではなく、主イエスが、弟子達の目の前で盲人の願いを聞き、癒されたことを通して、弟子達に、すなわちキリスト者に「何を求めるべきか。」を示しておられるのです。弟子達のように、まず第一に報いや栄誉を要求するのではなく、それどころではない、自分がなんと罪深いものであるか、盲目であるかを知り、ただ、主のあわれみを求めることしかできない者であり、ただ、主の恵みによって生かされている者であることを徹底的に知ることです。

 主イエスはその人たちを祝福してくださいます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ5:2)」と。主イエスを信じたいと思っておられる方も、主イエスを信じておられる方も共に、「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16) 」