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2024年10月6日 礼拝メッセージ
『ゲッセマネの祈り』 マルコの福音書 14章32節〜42節  

 ユダの裏切りの預言、ペテロを始めとする弟子達のつまづきの預言の後、主イエスの一行は、ゲッセマネの園に来ました。  いつも主イエスは、弟子たちと離れ、一人で祈っておられました。しかし、この時の主イエスは、弟子達を伴って行かれました。しかも、主イエスは弟子達から離れても、石を投げて届くほどの所に行き(ルカ22:41)、ひざまづいて祈られたのです。そして、主イエスのすぐ近くには、ペテロとヤコブとヨハネが伴っていたのです。ですから、弟子達にも主イエスの祈りが聞こえていたのです。また、弟子達にも祈るように命じられました。何故でしょうか?苦しみの主イエスの心境を察し、傍らにいて、同じ意識で目を覚まし、祈りを共にして欲しいとの願いがあったからではないでしょうか?何故なら、主イエスは、深く悩み、もだえ始め、弟子達に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。(34)」と言われ、弱さをさらけ出しておられるからです。

 それから主イエスは、ペテロ達から、少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られたのです(35)。主イエスの驚くべきこの祈りは、さらに続きます。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。(36)」と。何故、主イエスは「この杯をわたしから取り去ってください。」と祈られたのでしょうか?主イエスは、過越の食事において、救いの契約として聖餐を行い「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。(マルコ14:24)」と宣言されたではありませんか。しかも、主イエスの周りの情況、ユダの裏切り、祭司長達のたくらみ等、主イエスご自身がはっきりと知っておられたではないでしょうか?それなのに何故、今さら!それほど避けたいと思っておられるのは、いったい何なのでしょうか?

主イエスの祈りのご様子をもう一度、注意深く見てみましょう。
33節、主イエスは深く悩み、もだえ始めます。
34節、主イエスは、悲しみのあまり死ぬほどであると弟子達に訴えます。
35節、主イエスは、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られます。
36節、主イエスは、どうか、この杯を去らせてください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように、と祈られます。

この祈りによって、ただ避けたいという祈りから、父なる神の御心に必死に近づこうとしておられるお姿を見ます。39節~41節、主イエスは、同じ祈りを三度繰り返されました。福音記者ルカは、御使いが天から現れて、主イエスを力づけなければならないほど弱っておられ、苦しみもだえて、切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた(ルカ22:43~44) と記しています。この主イエスのご様子は、弟子達が頼もしく思うお方として、奇蹟を行い、敵に対して敢然として立ち向かわれた英雄のお姿ではありません。 「父よ、何故なのですか」と、困窮の極みから、何とか抜け出そうとしているお姿です。しかし、その中で、その弱さの中で、父なる神への従順を全うされたのです。

 ヘブル人への手紙の著者は、この主イエスのお姿の意味を記しています。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができるお方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。(ヘブル5:7~10)」と。そして、この大祭司は「私たちの弱さに同情できない方ではありません(ヘブル4:15)」と宣べています。

 では、主イエスが「この杯を去らせてください」と苦しみ、祈られたのは、私たちの弱さに対して、安心させるためなのでしょうか?確かに、私たちが弱さを見せて良いということも言えるかもしれません。何故なら、神の御前に、格好の良い祈りは不要だからです。弱さをさらけ出し、神の御前に訴える祈りに、神はむしろ、それを喜んでくださるに違いありません。何よりも、神は全能なるお方です。主イエスご自身も、「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。(36)」と言っておられます。十字架さえも避けさせることのできるお方です。 

 しかし、主イエスが「この杯を去らせてください」と言われたのは、単なる人間の弱さを持たれたということだけではではありません。もっと、深い、主イエスの苦しみ、悲しみ、恐れです。私たち人間にはとうてい計り知れない、苦しみ、悲しみ、恐れを経験しておられたのです。それは、主イエスが十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコ15:34)」と叫ばれたみことばによって理解できます。神の御子である主イエスが、父なる神と離れることなど、一瞬たりともあり得ないことであり、底知れない恐怖だからです。主イエスの「この杯を去らせてください」という願いは、人間的な苦しみを避けたいなどという次元ではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神、三位一体の神(マタイ28:19)である主イエスが、その交わりを失うということなのです。父なる神との交わりから、断ち切られるという、神の御子主イエスにとってあり得ない苦しみを避けたいという悲痛な叫びなのです。しかし、主イエスはその恐れの中にあっても、ご自身の願うことではなく、父なる神の御心に従うことを選ばれたのです。その選びの目的は、弟子達、私たち人間、すなわち罪人に対する究極の愛(ヨハネ13:1)です。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と言われた、主イエスの私たちへの究極の愛です。

 そして注目すべきは、主イエスがこれほど切に、ご自分の弱さをさらけ出して、「この杯を去らせてください」と願い祈っておられるのに、父なる神が沈黙しておられることです。このことから、神の御心を知るとはどのようなことかを、主の導きの中で考えたいと思います。 私たちは、何とか主の御心を知りたいと願い、祈ります。しかし、時には、くじのように、選択のため、判断のために、自分の願いを正当化するために、安心のために、主の御心と軽々しく口にしてしまうことがあります。ですから、私たち自己中心的な人間は、簡単に「主の御心」などと口にしてはならないのです。

 主イエスのゲッセマネの祈りのお姿を、再度、注目しましょう。主イエスの願いは、その情況からして、神の御心に反することでした。すでに、ユダの裏切りによって、主イエスの十字架の死は迫っていました。もちろん、英雄として敵に立ち向かうこともできたでしょう。しかし主イエスは祭司長達に差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆に向かって、剣を持って立ち向かおうとした弟子(ペテロ)に、「剣を取る者はみな剣で滅びます(マタイ26:52)」と剣を収めさせ、「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことができないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。(マタイ26:53~54)」と言っておられます。主イエスは父なる神の御心が十分に分かっておられたのです。それでも必死に「この杯を去らせてください」と祈られたのは、それほど、神の御子として主イエスが、神から離れることなど日常的な罪人である人間には計り知れない、父なる神から見捨てられるという、苦しみ、悲しみ、恐怖であったからです。

 私たちは、神の御心を尋ね、主に聞くと言いながら、結局、自分に都合の良い聖句を探し出して、自分の願いを主の御心としまうことがあります。もちろん、みことばによって、神の御心を知らされることは必ずあります。しかし、そうではないことの方が多いのです。何よりも、御心を尋ねるために必死に祈ることもせずに、ある程度祈ったら、具体的な解決に走ってしまうことが多いのです。

 私たちは、主イエスが父なる神の御心を尋ねた方法を習わなければなりません。主イエスには、父なる神の御心は分かっておられたのです。私たちも本当は、聖書から、みことばの中から、うすうす分かっていることが多いのです。

 父なる神が沈黙しておられる、その意味は何でしょうか?それはすでに、父なる神が主イエスに答えておられるということなのです。すでに聞き入れられているということなのです。(参照;ヘブル5:7~10)
 
 父なる神は、沈黙の中で、主イエスの従順、すなわち、父なる神への信頼を期待しておられたのです。私たちも、神からの答えがなく、たとえ未解決であっても、すべてを主に委ねることを第一にすべきです。神は決して、弱い私たちを、苦しみの中に捨て置くことはなさらないということを、みことばによって、主に信頼しましょう(信じましょう)。(参照:第一コリント10:13)

 主イエスのゲッセマネの祈りは、神が沈黙の中で、私たちに従順と、主に信頼することを学ばせようとしておられるのです。それが、神の御心なのです。主の御心に対し、決して自分で判断してはならないのです。 ケセラセラという歌があります。なるようになるという意味です。主にすべてを委ね、待つことです。

 私たちは、主の御心を知ろうとする時、自分の置かれた苦しい情況から逃れたい一心で、自分の願いによって、主の御心を尋ねるフリをしてしまうことがあります。そんなことを言われても、具体的な解答を知りたいというのが、私たちの正直な気持ちであることは否定できません。しかし、主イエスのゲッセマネの祈りは、神の沈黙による、神の御心の再確認であったのです。

 ですから、主イエスは「もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。(41〜42)」と、十字架の死への道、すなわち神の御心の道に踏み出す勇気と従順を勝ち取ったのです。父なる神への絶対的な信頼によって。

 私たちは、自分の願いを確認するためではなく、主への信頼を勝ち得ることこそ、主の御心を知る最も重要な鍵であることをしっかりと心に留めたいと思います。主に信頼して、祈って「待つ」こと、決して自分の判断に頼らないことです。主の御心を知るということは、主にすべてを委ねる、信頼することの喜びを知ることです。

 そして言うまでもなく、確かに、裏切りの預言とつまづきの預言の後、緊張の中にあった弟子達に同情を禁じ得ませんが、目を覚まして祈ることをしない者が、主の御心を知ることはできないのです。否、私たちも弟子達と同じです。弟子達のように、自分の不安の思いに囚われていたり、自分の願い(思い)に囚われている限り、主の御心を知ることはできまません。

 私たちが、私たちの弱さを、主の御前にさらけ出して、必死に祈るならば、神の沈黙の中においても(具体的なものが見えなくても)、主の御心を知ることができるのです。主イエスが、ゲッセマネの祈りで、それを示しておられるからです。

 主に委ねること、主に信頼すること、それこそが、主の御心を知る鍵です。そして、このことも自分の努力によるのではありません。主イエスでさえ、御使いが天から現れて、力づけられ、助けられたのです(ルカ22:43)。

 私たちは、祈りの中で、心の奥の深いところで、神と真に交わる経験の中で、自分の心が変えられ、いつのまにか、神の御心に添った心になって行く経験を願おうではありませんか!