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2024年4月7日 礼拝メッセージ
『仕える者になりなさい』 マルコの福音書 10章35節〜45節

 主イエスの弟子たちは、主イエスの受難の意味を理解できなかっただけでなく、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、主イエスの御許に来て、自分たちの願いをかなえてほしいと言いました。主イエスはやさしく彼らに「何をしてほしいのですか」と尋ねられました。すると彼らは「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにして下さい。」と願いました。分かり易く言うなら、主イエスが王座に即かれた時、私たちを右大臣、左大臣にして下さい、ということです。この二人は、以前にも問題を起こしています。主イエスの名によって、悪霊を追い出した人々をやめさせようとしたり(マルコ9:38)、主イエスを受け入れようとしなかったサマリヤ人を見て「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカ9:54)」と言い、主イエスに叱られています(ルカ9:55)。この時の二人は、主イエスから「汚れた霊を制する権威を授けられた(マルコ9:7)」ことによって、その権威を振りかざし、人々の上に自分を置いて、人々をさばくようになっていたようです。そして彼らの願いは、他の弟子たちを抜けがけすることでした。ですから、彼らの願いを聞いた他の十人の弟子たちは「腹を立て始めた」のです。しかし、腹を立てた弟子たちもまた、彼らと同様に、栄誉と報いを求めていたのです。ですから、彼らに先を越されたので腹を立てたのです。確かにヤコブとヨハネは、ペテロと他の弟子たちと同じように、すべてを捨てて主イエスに従って来ました。しかしいつのまにか、自分の栄誉と報いを受けることだけを考える者になっているのです。しかも彼らは、他の弟子たちを出し抜いて、自分たちを、右大臣、左大臣にして欲しいと願っているのです。他の弟子たちと同じにという考えではなく、他の弟子たちより、自分の方がよくありたいという思いが強くなっていたのです。

 主イエスは、おそらくため息をつきながら言われたのではないかと思います。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」と。「杯」とは、ゲッセマネの園で、主イエスが「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われれますように。(マルコ15:36)」と三度も祈られた、人間の罪の贖いのための十字架の死を意味します。 「バプテスマ」とは、「浸す」という意味ですが、「溺死させる」「滅びる」という意味もあります。そしてパウロが「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。(ローマ6:9)」と宣べているように、十字架の死を意味します。

 彼らは、こともなげに「できます」と答えます。主イエスの仰ったことの意味が分かっていないからです。そして、主イエスの十字架の受難のとき、彼らは主イエスを見捨てて逃げ出したのです。彼らは、自分でも気づかないうちに、高慢になっていたのです。

 しかし主イエスは、そのことをお責めにならず、「確かにあなたがたは、私が飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました。

 後にヤコブは、弟子たちの中で、最初の殉教者(使12:2)となり、ヨハネは、ペテロと共に投獄され(使4:3)、晩年には、パトモス島に流されます(黙1:9)。しかし彼らが、勇敢な伝道の戦士となったのは、彼らの勇気ではなく、聖霊の働きによります(使2:1~)。そして主イエスは、「しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」と言われました。主イエスは、彼らへの天の報いは、今、彼らが知る必要のないことであり、父なる神の御心にゆだね、父なる神にまかせなさい!あなたがたに悪いようにするがないでしょうと言っておられるのです。

 そこで主イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められて者たちは、人々に対して横柄にふるまい。偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。」と。続いて主イエスは言われました。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」と。

 いつの世も、世の権力は上から支配します。しかし、主イエスは下から仕えよ、と言われました。キリスト者の世界では、世の常識とは逆なのです。力ずくでは、真の支配はできないし、してはならないのです。武力も、財力も、政治力も、世俗的な力も行使してはならないのです。また、教会的、霊的権能であっても、その権威を笠に着て、信者を従わせることはできないのです。

 さらに続いて、主イエスは言われました。「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」と。主イエスの教えは、「しもべ」になること、「仕える」ことです。「しもべ」とは、奴隷のことです。自分の自由をもたず(自分を主張せず)、主人のためにだけ働く者です。しかし、「皆のしもべ」ですから、主イエスにだけではなく、兄弟姉妹のしもべとなりなさい、ということです。キリスト者は、徹底的に「謙遜」でなければならないのです。他の兄弟姉妹の助けとならなければならないのです。しかし、現実には並大抵のことではなく、例えば、奉仕すれば、その奉仕によって高慢になりやすいのが、私たち罪人の現実です。ですから、御霊の助けが必要です。御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」だからです。

 最も注目すべきことは、主イエスが「偉くなりたい者は」「先頭に立ちたいと思う者は」と言っておられ、彼らの願いそのものを否定しておられないことです。「偉くなる」ということを「尊敬される」という言葉に置き換えるなら、理解できます。力ずくではなく、すなわち、上からではなく、下から慕われるということです。キリスト者の証しとは、「尊敬される」こと、「慕われる」ことです。そして、現実においても、真に「仕える人」すなわち「謙遜な人」は尊敬されます。しかし、自分を主張し、自分の権威を振りかざす人は尊敬されません。力で屈服されていても、心の中では従っていないからです。

 本当に仕える人を見たなら、本当に謙遜な人を見たなら、誰でも尊敬したくなります。

 何故主イエスは「仕えなさい」「皆のしもべとなりなさい」と命じられたのでしょうか?何故なら、主イエスは、ご自分がそうされたからです。主イエス・キリストご自身がその模範を示されたからです。ですから、私たちは「謙遜」を身に着けるべきです。

 何故なら、今日、全世界で最も尊敬され、多くの人々が従っているその人、主イエス・キリストご自身が、ご自分のためにではなく、私たちのために仕える者となられ、しもべとなって、私たちに愛を与えて下さったではありませんか。主イエス・キリストが、私たちのために何をして下さったのかが本当に分かったのなら、私たちは、感謝に溢れて、人のために、何かをせずにいられなくなります。

 「仕える」という、具体的なこの愛が、教会に満ち溢れる時、その教会(兄弟姉妹)は、どれほどこの世に影響を及ぼすでしょうか。キリストの教会は、キリストの十字架(受難のしもべ)の恵みが、高らかに賛美され、主イエス・キリストを模範とする「しもべ」たちの愛が実践されているところです。主イエス・キリストの愛の模範に倣う者となれますように、熱心に、聖霊の助けをいただくことを願い、祈って行きましょう。