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2024年3月31日 礼拝メッセージ
『本物の復活』 ローマ人への手紙 6章5節〜8節  小野寺和俊 伝道師

 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

イースターおめでとうございます!

イースターって、毎年日にちが変わりますよね。春分の日から、最初の満月の次の日曜にあたる日がイースターになるわけです。言わずと知れた、イエス様の復活をお祝いする日です。

しかし、これは聖書には書かれていないのです。僕の持っている分厚い、新聖書辞典を見ても、イースターの所には「復活祭」と一言書かれているだけです。このイースターという言葉はゲルマン人の神話から出ている言葉で、春の女神「エオストレ」EOSTRE=イースター。豊穣の神、この女神の事を指していています。また、イースターといえば、ウサギです。ウサギは沢山子供産むので、豊穣のシンボルになっているわけです。また卵(EGG)も生命が殻を割って出て来る。そんな所からイースターのシンボルになっています。各国の教会によっても日にちが違います。これなんかに似てるなぁ、、と思いました。クリスマスです。本当は12月25日にイエスキリストは産まれていないけど、時の権力者によって、いわば政治的な都合によって日にちを決められている。でもいいと思います。その日はイエス様の事を想いめぐらす日、プレゼントも貰えて、とてもムードのある楽しい一日。僕は一年の中で一番、クリスマスのシーズンが好きです。心がワクワクします。イースターも同じです。暖かい春の陽気を感じ始めると共にイエス様の復活を祝う。

しかし、神様は明日の事は明日が心配する、今日は今日で十分な労苦がある。すなわち今日を生き抜く私たちクリスチャンにとって極論を言うと、毎日がクリスマスであり、毎日がイースターであるべきなのではないでしょうか。日々イエスキリストの誕生、復活を祝う。喜ぶ。そして感謝する。

イースターは復活祭です。私達の罪の為、十字架にかかり死んで下さったイエスキリストの復活、、、。

私たちは色々な場面で、この復活という言葉を聞き、自分でも使う事があるかも知れません。
「ちょっと具合悪かったけど復活したわ」
「失恋したダメージから復活した」
「ボロボロだった車がレストアによって復活」
「解散していたグループが再結成して復活」
とか色々あります。
でもどれも、また元に戻ったり、同じ事になったりしてしまう。上がったり落ちたりするわけです。

イエスキリストの復活とは一体どんな事なのでしょうか。また私たちはイエス様が復活され、今もなお生きておられる事を心から信じているでしょうか。

復活、、ここで僕自身の最近の復活劇というのでしょうか、一つの証しをさせて下さい。先日、私達逗子福音教会が所属している団体JECA(日本福音キリスト教会連合)の教職審査を受けて、無事にJECAの教職者として相応しいという認定を受ける事が出来ました。本当に感謝です。以前お話しした事があると思いますが、教職審査を受けたのは2回目なのです。一回目は約一年前に受けました。その時はまだ認定を受ける事はできませんでした。その一年前の時のお話をします。審査に向け、事前にレポートを提出しました。「聖書」「聖霊」「教会」についてです。また神様を信じた時の「証し」を提出しました。そして審査の当日を迎えたわけです。舐めていたワケではないのですが、僕は何も準備をしていきませんでした。自分で提出していたレポートの内容も忘れかけていました。とんだ勘違いですが、その日は楽しく、神様の話をする時間なのかと思い、少しウキウキしながら教職審査が行われる川崎にある生田めぐみ教会という教会に村松牧師と二人で行きました。教会に到着し、中に入ると、僕の他にもう一人教職審査を受ける人がいました、僕より大分若い男性でした。その方が審査を行う部屋に入ってまず一人目の審査が始まりました。15分位で終わるのかなぁと思っていたんですが、30分、40分経っても部屋から出てこないのです。随分長い間話すんだなぁと思っていたら、やっと終わって出てきました。その若者を見ると、暗い表情、うつむき加減で僕たちには目もくれず、そそくさと帰って行きました。そう見えたんです。

嫌な予感がしました。。いよいよ僕の番になり、名前を呼ばれて中に入ると、5〜6人の牧師先生達が座っていて、その先生方から色々な質問を受けました。あまりの予想外の雰囲気に圧倒されながら、質問に答えていくわけなのですが、僕は何も準備していません。自分で出したレポートの写しすら用意していない。酷いです。村松牧師もご自身がJECAに入った当時は教職審査というものはなくて、何をするのか全く分かりませんでした。どんな理由があるとしても、普通はちゃんと準備して行くのが筋です。質問に対して答える事ができたものもあったのですが、全くスムーズにはいきませんでした。例えば「ここに書いてある「神の霊」とは何ですか?」という質問に対して、ちゃんとした答え方をできなかったのです。'ちゃんとした答え方'というのは、初めて教会に来る人や、子供に説明するような説明ではなく、簡単に言うと、神学的な用語を用いての説明を求められているのです。例えば「三位一体」についてとか。勿論理解しているし、信じているんだけど、神学的用語を使って、体系的に説明する事ができなかったのです。そんなに難しい話ではないし、皆さんも理解されている事です。しかし、準備していなければ即座に答える事はできません。でもこの事は神様を伝える仕事をしていく上でとても大切な事なのです。

そして審査が終わり、審査委員会の委員長を担当されていた牧師先生から、もう少し(後半年位)学んで、レポートを書き直してから再度、審査を受けるよう告げられました。

その時僕は、まず頭にきてしまったのです。あの人達は何なんだ、、なんか偉そうにして、、同じ神様に愛されている仲間、ましてや神を伝える同士ではないか。それを質問責めにして、なんて愛のない連中なんだと、これではクリスチャンは増えない、JECAはイメージ通りの頭の固い、ガチガチな団体だと。俺は合わない、こっちから願い下げだと。散々言いました。まぁ毒吐いたわけです。でもね、自分が悪いです、、ハッキリ言って逆ギレです。色々思うとこがあったとしても、だって何も用意してないんだから、、

その後、数日が経ち、祈り、様々な事柄が日々過ぎ行く中、神様の介入があったのです。僕の心が変わっていったのです。 兎に角、しっかりと学んでいこう。これから伝道師として歩んでいく中、一生涯学んでいくのが主の道である。JECAがどうこうとかではなく、本格的に学んでいこうと決心したのです。もう怒りや憤りのようなものは心から消えていました。

すると正にそのタイミングで、村松牧師に一通のメールが届きました。それは、佐久間章先生という、厚木緑ケ丘キリスト教会で牧会をされている牧師先生からのメールでした。教職審査の最中、何も質問をされず、僕の事をジーッと見ている方がいたんです。強烈なインパクトがあったので、覚えていました。その先生が佐久間牧師でした。メールの内容は、「小野寺さんとの面談で感じました。小野寺さんはいい牧師になる人だと思います。一定期間学び、準備をしてから、是非もう一度審査を受けて下さい。」こういった内容でした。佐久間先生は僕の何かを、神様を通して見て、そう判断して下さったのです。本当に嬉しかったです。これはもう再度チャレンジする以外ありません。1年間かけてもう一度、基本的な事から勉強をしました。そして先日の二度目の教職審査でJECAの教職として認められたのです。今回は全ての質問に答える事ができました。 全ての事に神様の導きを感じました。しかも今回の審査員長はなんと佐久間先生だったのです。これは偶然では片付けられないと感じました。神様は全てを計画されます。僕には学びが必要だったのです。勿論これからも。そしてJECAに関わらせてもらうことも必要な事なのです。

本当に嬉しくて、認定を受けた瞬間、「やったー」と叫んでしまいました。その後は村松牧師と逗子に帰って来て、二人でトンカツを食べて祝杯をあげました。

一度駄目で、不貞腐れて、落ちて、そこから復活したんです。これは最近起きた僕の復活です。

そして、、そんな良い事があった翌日。仕事中に素晴らしいお天気の中、利用者の皆さんを乗せて、海にドライブに行った帰り道、職場の車をポールにぶつけて、、ベッコリといってしまいました。完全な自爆です。幸い、乗っていた人達に怪我はなかったのですが、修理費を考えると、会社にとっては大きな損害になってしまいました、、。

再び落ちたわけです。僕の復活は良くなって駄目になっての連続です。先程冒頭でもお話しした通りです。

しかし今回の事で分かった事、神様によってハッキリと示された事があるんです。

それは「感謝」です。JECAの一件から、村松牧師と智恵子さん(牧師夫人)は僕の為に祈り、寄り添ってくれました。二人は僕よりこの事を祈ってくれていたと思います。学び方から何から何まで親身になって助けてくれました。忙しい中、時間をさいてくれました。受かったのは僕の力ではありません。謙遜でもなんでもない事実なのです。教職審査の最中、村松牧師に教わった事が自分の口を通して発せられ、その言葉が審査をして下さっている先生達を納得させているのが分かりました。認定を受けた時、抱き合って喜びました。村松牧師は涙を流されていました。僕より喜んでくれたかもしれません。

連絡をくれた佐久間先生、再び僕の為に時間をさき、審査の為に集まって頂いた牧師先生達、この事の為に祈っていてくれた教会の兄弟姉妹、家族に対し、感謝の気持ちが溢れてきたのです。ハッキリ言って自分なんかどうでもいいのです。

そして職場での事故、その事によって一緒に働く仲間がフォローしてくれる、上司が事故後の手続きなどのケアをしてくれる。本当に感謝です。

私達がどうしようもなく、辛い、なかなか抜け出すことのできない苦難、試練にあう時、近くて支え、祈り、励ましてくれる人がいる筈です。この教会に集う一人一人がお互いに祈り合う神の家族なのです。苦難には感謝が伴い、そして復活に繋がっていくのです。

イエスキリストの復活。

イエス様は復活する前に十字架にかけられ殺されます。どれほどの苦難なのでしょうか。体の痛みだけではありません。人々から罵倒され、弟子達に裏切られ、、想像を絶します。何故?罪のないイエス様が、、。それは私達の罪の為です。そして、復活した。死に打ち勝ったのです。「本物の復活」です。再び死ぬ事はないのです。今も生きている。私達はイエス様と会う事ができる。

人生において、死という最大の難関。人はどこから来て何処へ行くのか、その事に777パーセントの答えを示して下さったのです。
今日の聖書箇所、ローマ6:5
「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」

キリストの復活と同じようになる、、

私達は死んでも生きる、永遠の命を得させてもらったのです。「人が自分の友の為に命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」とヨハネは言っています。

この事を感謝しましょう。

第一テサロニケ5:16〜18(新約413ページ/新改訳2017)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

もし、今何かで悩み、苦しんでいる方がいるかもしれません。しかし、そんな時こそ感謝しましょう。できなくても感謝するのです。今まで、乗り越えて来た苦難、苦しみ、悲しみを共に歩んできてくれた、私達の罪の為に十字架にかかったイエス様を見上げ感謝しましょう。

苦難の先を神様が必ず用意して下さっています。逃げ道を必ず用意してくれています。本物の復活。その時を期待して待つ者でありましょう。