2024年11月17日 礼拝メッセージ
『悲しみの道』 マルコの福音書 15章16節〜33節
死刑の最終判決が下された後、主イエスは精神的にも肉体的にも、様々なかたちでの辱めを受けていました。総督官邸で全部隊(約600人)が招集され、主イエスは兵士達に嘲笑されます。「ユダヤ人の王様、万歳(18)」と。敬っているのではなく、紫の衣(王の着る服ですが、もちろん本物ではなく、主イエスの惨めさを際立たせるため。)、茨の冠(王のしるしですが、茨であるので被ると血が出ます。)を被らせ、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫び、敬礼し、葦の棒で主イエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んで、からかったのです(17~19)。
この情景はいったい何でしょうか!選民イスラエル、神の民は、神から与えられた、自分達の救い主を、占領軍とは言え、異教徒であるローマ兵の手に引き渡した結果、主イエスはなぶり者にされたのです。人間が神を弄んでいるのです。人間の自由が、ここまで忍耐されているのです。人間のエゴがここまでとどまることを知らないのです。神を知らないとはいえ、神を弄ぶという大変なことを平気でしてしまうとは。人間の、自分が優位にたって人を弄ぶ快楽を知った時のいじめの恐ろしさを感じます。
父なる神は、ご自身と同じ、大切なひとり子が、ここまで弄ばれるのを忍耐しておられ、主イエス・キリストは、この精神的な屈辱の前に、すでに肉体が支えきれないほどの、肉体的苦痛を受けておられました(15:15)。鞭打ちは残酷な拷問です。その鞭は、金属あるいは骨付きの革であり、打たれた時、当然身体から血が流れます。死の一歩手前まで行われるのです。さんざん、主イエスを嘲弄した後、主イエスを十字架につけるため連れ出しました(20)。 十字架を立てる場所、ゴルゴダの地に至る道は、ヴィア、ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれます。十字架に至る道です。主イエスは、その十字架を背負わされましたが、すでに肉体は限界に来ており、何度もその道で倒れたのです。それで兵士達は、そこにたまたま通りかかった、田舎から出て来たクレネ人シモンに無理矢理、その十字架を背負わせました、クレネ人シモンを、アレクサンドロスとルフォスの父と、わざわざ記してあるのは、おそらく、彼が誰であるかを分かるために記したのではないかと言われています。彼が後にキリスト者になったのではないか、と。ローマ人への手紙16章13節に「主にあって選ばれたルフォス」とあるからです。
クレネ人シモンは、それまで、主イエスとは何の関係もない人でした。しかし突然、十字架を負わされたのです。この十字架は、本来、主イエスご自身のためではなく、すべての人間、すなわち罪人のためです。クレネ人シモンのため、そして、私達のためでもあります。私達罪人がこの十字架に架けられなければならなかったのです。ですから勘違いしてはならないのです。クレネ人シモンが主イエスの身代わりとなって十字架を負わされたのではなく、主イエスがシモンの身代わり(私達の身代わり)となって下さったのです。
ゴルゴダの地に着くと、主イエスは十字架につけられました(24)。多くの人々が、主イエスを罵りました。第一に、通りすがりの人々は、頭を振りながら「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ(29〜30)」と罵っていることを見ると、大祭司の法廷での偽証を知っているので、祭司長達から、神への冒涜罪を吹き込まれたか、その意見を聞いて付和雷同した人々でしょう。
第二に、祭司長、律法学者達は、おそらく最高法院の議員達か、その賛同者で、主イエス抹殺論者です。彼らは「他人は救ったが、自分は救えない。(31)」と罵っています。しかし、彼らは自分達の言っていることの矛盾に気がついていないのです。「他人を救った。」ことを、その事実を知っており、認めているのです。「それなのに何故」と言わず、主イエスがご自分から十字架での死を選ばれた(第一ペテロ2:24〜25)ことなど思いもよらない人々であり、実際に、主イエスに十字架から降りられたら困る人々です。何故なら、彼らは主イエスに嫉妬している(15:10)からです。
第三に、主イエスと一緒に十字架につけられた二人の強盗(27)も同じように罵ったとありますが、福音記者ルカによれば、一人の犯罪人が「おまえはキリスト<救い主>ではないか。自分とおれたちを救え(ルカ23:39)」と罵っていますが、もう一人の犯罪人は「おまえは神を恐れないのか」とたしなめ「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だが、この方は、悪いことを何もしていない。・・・イエス様。あなたが御国に入られたときには、私を思い出して下さい。(ルカ23:40~43)」と懇願しています。そして彼は、主イエスと一緒にパラダイスに行くという救いを得ています(ルカ23:43)。
ののしった人々の共通点は、今日の主イエス・キリストに対して、世の人々が抱く疑問と同じです。もし、主イエスが神の御子であるのなら、何故自分を救えないのか?主イエスが神の御子であるのなら、何でもできるはずではないか、です。
主イエスは、公生涯の始めから、このサタン的な論理を否定して歩まれたのです。サタンの荒野での誘惑を思い出して下さい。(マタイ4:1~10参照)主イエスは、ご自分を誇示するために、決してご自分の力を行使なさらず、父なる神の御心に従ったのであり、サタンの誘惑に対して、徹底的に神の御言葉(聖書)によって、サタンを退かせたのです。主イエスは神であられるのに、徹底的に人として歩まれたのです。
しかし、他人を救ったではないか? 癒しの奇蹟を行ったのではないか? 神の力を行使したのではないか? という質問が聞こえてきます。確かに神の力を行使なさいました。しかし、ご自分のためにではなく、神のあわれみの愛故です。しかし、その癒しは、一時的な癒しです。永遠の癒し、罪の死からの解放ではないのです。主イエスは、その一時的な癒しのために、世に人として来られたのではありません。主イエスは、永遠の癒しの奇蹟を行うために来られたのです。私達罪人のために。
もし、主イエスが十字架の死を拒否なされたのなら、十字架から降りて来られたのなら、それは、神の愛に限度があったことになります。
神の愛の中に、人間のために苦しむ忍耐がないことを意味します。神の愛がおよばない一線があることになります。神に限界があることを意味します。しかし、主イエスは、全生涯を、ご自分のためにではなく、人間のために、罪人のために、実に私達のために、歩まれたのです。その極みが、十字架上の主イエスのみことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)」神の愛には、制限がありません。無限の愛です! どこまでも赦そうとする永遠の愛です!
神の愛の極みは、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された(ローマ8:32)」限界のない愛、恵みです。十字架の死の愛! このことなくして、私たちに救いはないのです。そして、主イエス・キリストの十字架の罪の贖いと、罪の死からの勝利である復活を信じる者にとって、どんなものも、「主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない(ローマ8:38〜39)」のです。すなわち、神の愛には限界がないのです!
悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)は、主イエス・キリストの苦しみを思い、悲しみ、同情することではありません。悲しむべきことは、私たち、罪人自身です。主イエス・キリストを、これほどまで苦しませなければならなかったほど、救いがたい自分達の恐ろしい罪の姿を悲しむべき道です。しかしまた、その悲しみ、苦しみをすべて、ご自身で負って下さった、主イエス・キリストの忍耐の愛、無限の愛に、大いなる恵みに感謝する道です。