ギンライとキシーユ

1 始まり

 流れる汗を肩にかけた手拭いで拭う。空を見上げて、息をつく。

「そろそろ、昼飯にするかな…。」

 そう呟いた途端、腹の虫が騒ぎ出す。ギンライは、家の中へ入ろうと立ち上がった。

「ギンラーイッ。」

 畑の周りには柵がある。その柵に掴まり、キシーユが笑顔を浮かべていた。

「キシーユ。」

 微笑みを返しながら、ギンライはキシーユの元へと急ぐ。柵の外へ出ると、彼女が飛びついてきた。

「ギンライ、ギンライ!」

「元気だな、キシーユは。」

 ギンライは、キシーユの小さな体を抱き上げた。強く抱くと彼女が歓声を上げる。

「ギンライ、だあい好きっ。」

 ギンライは柵の側に座り、膝に座らせたキシーユを撫でた。彼女が彼の頬にキスをする。子供としては精一杯の愛情表現だ。彼女はギンライが好きで仕方がない。昔みたいにギンライと暮らしたい。今の彼は、農作業で汗臭いけど、村育ちのキシーユには慣れ親しんだ匂いだ。

 幸せ一杯の彼女を、ギンライは優しい眼差しで見ている。可愛い妹。今の彼には、キシーユは、懐いてくる可愛い妹。まさか遠い未来に、心が壊れる程に強く、彼女を一人の女として愛する事になるなんて、夢にも思っていない。

「キシーユ、お昼よ。」

 母が優しく呼びかけた。キシーユは、幸せな時間がぶち壊しにされた気分になったが、ギンライに悪い子と思われたくないので、

「はい、お母さん。」

 素直に良い子の返事をして、ギンライから離れた。「またね、ギンライ。」

「ああ、キシーユ。」

 可愛く手を振るキシーユに軽く手を振り返しながら、ギンライは空腹を思い出した。腹の虫が激しい抗議をしている。彼は軽く息をつくと、家の中へ入った。

 

 ギンライは町の子だった。普通の家庭で普通に育った。トゥーリナみたいに虐待されなかったし、ターランみたいに甘やかされなかったし、フェルみたいに悩まなかったし、ザンやネスクリみたいに辛い出来事もなかった。そう本当に普通のただの人だった。あの事がなければ、一般人として、歴史に埋もれていただろう。

 父は、日本のサラリーマンみたいに、仕事に出かけて給料を貰って帰ってくる。母は、妖魔界の殆どの既婚女性のように専業主婦だ。姉達や兄達も普通の人生を歩んでいた。妖怪だけど、人生にしておく。

 冗談はともかく普通の人達…。ギンライはその中でちょっと変わって…いなかった。その時は、ずば抜けた才能も特殊な性格もなく、普通に普通の大人になった。結果として第一者になったので、普通でない武術の才能はあったわけだが、その時はそんな事知らなかった。普通と違う人生選択さえしなければ…しつこいので止めよう。

 

 まず普通から外れる1つ目の道は…。

「俺、農家になりたいんだ。村人になって皆の為の野菜を作るって、素晴らしい事だと思うんだ。」

 ギンライのお父さんは、これを聞いた時、嬉しそうに微笑んだ。子供達に、人の役に立つ事をしなさいと教えていたからだ。妖怪は魔の生き物だが、だからといって悪い事がいい事とは思わない。人間より暗い部分が少し大きいだけだ。

 そう、お父さんは、自分と同じ人生を歩めとお尻を叩いたりしなかった。頭の固い人ならそうしたろうに。

 ギンライは農家になる為に、体を鍛えて、村へと旅立った。

 

 ある村のある家で、住み込みで農業を覚えた。その家族がキシーユの家族だった。その頃は、まだキシーユが生まれていなかった。キシーユが生まれる数年前から働き始め、彼女が親の手を離れるようになってから、独立出来た。10年はかかったのだった。

 村人は女性も子供も働く。時にはお尻を叩かれながら、作業する子供達をギンライは不憫に思いながら見ていた。自ら望んで働いている自分は、叩かれても当然だと思えるが、子供達はそうじゃないからだ。でも、子供達は、周りの皆がそうなので、自分が不幸だとは思っていないようだ。そのうちギンライも、そういうものなのだと思うようになった。

 キシーユにとって、ギンライは大好きなお兄ちゃんだったようだ。ギンライは、兄弟ではないから可愛がり、構ってやった。本当の兄弟愛には勝てないが、兄弟は、遠慮なく苛めたり、男の子なら邪魔にもする。ギンライにはそれがない。キシーユは、余計にギンライに傾いていった。親は微笑ましく見ているだけで、まさか幼いけれど本当の恋だなんて知るわけもなかった…。

 

 料理は、農家になると決めた時から母に教えてもらい、村を探す旅の時に本物になった。

 今度は消化で音を立てているお腹を撫でながら、ギンライは大きなげっぷをした。キシーユに見られたら、怒られるかもしれない。子供らしい可愛い声で、ギンライったらと怒るキシーユの表情を思い浮かべて、ギンライは笑った。彼の心にあるのは可愛い妹で、小さな恋人ではない。彼もキシーユの恋心にまだ気づいていない。

 

 午後の仕事を始める。隣ではキシーユも子供に出来る仕事をしている。ギンライの視線に気づいて、小さく手を振ると、またすぐ仕事に戻る。

 そうして永遠に幸せに生きていけると信じてたのに。二つ目の道はギンライの意思とは関係なくやってきた…。

 

「もうどうしようもないわ…。」

 女達が集まって喋っていた。妖魔界の女達も人間の女と一緒で、井戸端会議が好きだ。いつもなら、夫や子供が話題の中心だが、今回は深刻だ。野菜をお城へ売りに行った男達が帰ってこないのだ。村には、村を守る為に残っている僅かな男達と、戦闘能力のないと女達、子供達しか残っていない。このまま男達が帰ってこなければ、村は滅びるしかない。

「探しに行くしかないな…。」

 ギンライは言った。前回は売りに行く方についていったけど、彼は村を守る為に今回は残っていた。

 ギンライ、神父、その他の村を守る男達は、女達とも相談して、大いなる不安を抱きながら、村を出た。下手をすれば、帰ってきたら村がないなんて事も有り得るのだ…。

 

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