壊れたラルスが生きている世界

20話

「もっと違う物を見ようよ。ほら、あの水溜りは変な色じゃないから人殺しじゃないし、そんなに大きくないから、お父さんが出てこないかもしれないし。ね?」
 ラルスは武夫を止めようとする。しかし、二人でこの世界にいるのなら手は打てたかもしれないが、ラルスは武夫に寄生しているだけらしいので、話しかける以外は、何も出来なかった。
「り、り。りゅ。」
 武夫がハミングしながら、本人はスキップと思っているらしい動きで部屋に近づいていく。
「何楽しそうに歌ってんのさー。それだって、けっこうグロいよ? 僕の目玉が取られちゃったり、二人の妖怪をばらばらにしたりさー。細切れだよ? それまで何回か殺してきた僕だって、吐きそうだったのに……。君じゃ吐くどころか、何日も夢に出るかもよ?」
 透明な扉の前で武夫は立ち止まった。「思い直してくれたんだよね。ね、違うの見ようよ。」
 武夫が目を閉じた。それを迷いととったラルスはさらに言葉を続ける。


 監視室。
「ラルスの様子がおかしい。」
 シーネラルが呟く。
「うん。汗かいてるね。武夫ちゃん、見つけたみたいだね。」
 ザンは何処となく楽しそうだ。彼女はラルスにそれほどいい感情を抱いていないので、人の不幸は蜜の味という気分なのだ。
「俺、怖いからもう見ない。」
 ペテルが部屋の隅に座って、耳に手を当てた。
「これからが面白そうなのに。」
 ザンの言葉にシーネラルは呆れた。彼はモニターを無言で眺めながら、猫の爪をそっと撫でた。トラウマに触れられた怒りで、ラルスが暴れるかもしれない。シーネラルは覚悟を決めた。


「駄目っ、それに触れないでっ。」
 ラルスは叫んだ。武夫が目を閉じたのは、扉のない透明な部屋への進入方法を探すためだった。ペテルを地下牢から出した時のように、彼の体から手が出て、部屋を撫で始めた。「駄目だってば。止めてっ。」
 武夫の口に一瞬、残酷な笑みが浮かんだ。
「やーっ。るるちめっ(訳=嫌だっ。苦しめっ)。」
 ぱりっ。部屋にひびが入った。ラルスは目を閉じた。ひびが塞ぎかける。しかし、武夫の力の方が強かった。透明な部屋は大きな音を立てて壊れてしまった。
「うああああぁぁーっ。」
 ラルスが絶叫する。手は鍵穴に入り込んだ。実物なら紐を引きちぎるか、はさみで切れば良いが、紐は封印のイメージなので、鍵を開けるしかないのだ。
 かちゃ。
 鍵が外れた。雪は無防備な姿を晒している。武夫が飛び、雪の中に入り込んだ。


「<うわああああぁぁぁーっ。>」
「また叫んだよ。鍵を開けたね。」
 ザンはじっと見入る。先程までの嬉しそうな表情は消え去り、不安と恐れが浮かんでいる。彼女は、ラルスみたいな軽い奴にはそんなに深刻なトラウマなんてないだろうと思っていたのだ。しかし、この反応は……。武夫を止めるべきだったのかもしれない。
 ペテルは部屋の隅で震えている。
 シーネラルは無言で部屋を出て行った。武夫を止めてくれるのだろうと思った彼女は、城内放送のスイッチを確認した。もし手に負えなかったら、トゥーリナか、ターランにでも来て貰おう。


 狐が目の前に立っている。あの農機具のような武器を携えて。少し後にラルスに細切れにされるなんてこれっぽっちも思っていない狐は、笑みを浮かべてラルスを見ている。
 そして、悪夢が始まった。
 狐とラルスが戦っている最中に父がうめく。振り返ると、皮一枚で繋がっている腕、腹に大きな穴、半分がつぶれた顔、といった酷い状態の父が心臓を抉り出されて……。ラルスの叫びも空しく、猿は心臓を握りつぶす。目の前が真っ赤になったラルスは、目を貫かれた痛みも、耳を切り飛ばされた痛みもろくに感じず、狐と猿に襲い掛かる。
 あの時は、動くものがないと気づくまで、ほぼ何も感じないまま暴れたつもりでいた。しかし、客観的に見ている今は、自分が復讐の喜びに口を歪ませながら、命乞いをする猿と狐をいたぶっているのが分かる。父が殺されたから記憶を消そうとしたのではない。汚れた自分が見たくなくて、暴れた記憶を消そうとしたのだ。それに気づいたラルスは愕然とした。まだ壊れてはいなかったのに、あんなにも楽しそうに自分は……。
 だからなのか。父が、霊体になった父がなんとなく怖がっているような顔で自分を見ていたのは。ぶちきれて暴れた挙句、死んだ二匹をさらに砕いていたから、父の視線が冷たいんだと思っていたのに。それだけではなかったなんて。
 父が無残に殺されたから、この記憶はトラウマだと思っていたのに。
 ラルスはみたび、叫んだ。


 記憶が繰り返し再生される。狐と対峙。戦いが始まり、父がうめく。猿が懇願するラルスを無視して心臓を握りつぶす。父が倒れる。時間が戻り、狐と向かい合う。戦いの最中に父がうめき……。時々ゆっくりとした巻き戻しが入る。父が起き上がり心臓が猿の手の中で膨らみ、猿が父の胸に手を入れ、うめき声がして、剣と農機具が打ち合い、動きが止まる。その永遠に続くかと思われる記憶の再生と巻き戻しの中で、ラルスにとって不幸中の幸いだったのは、武夫が、シースヴァスが殺されるシーンがラルスにとって一番辛いと思ってくれたことだった。笑顔で二匹を殺すシーンを見たのが、一度きりで済んで良かった。
「あれ?」
 ふと、我に返る。「何で僕の顔が見えたの?」
 シースヴァスと川で背中を流し合った記憶、神父に頬を打たれた記憶、シースヴァスにお尻を叩かれた記憶、そして今も続いている父が殺されるシーンのエンドレス再生……どれも自分の顔は見えなかった。
「う?」
 武夫が雪から出てきた。記憶の映像が消え、雪が浮かぶ暗い世界に戻った。「らに(訳=何)?」
「あー……何でもない、独り言だよ。」
 笑顔で猿と狐を殺す記憶、それだけが自分の表情を見せた。テレビや映画の回想シーンのように。本当は、自分の記憶だから鏡でも置いていない限り、自分の顔なんて見えない筈なのに、だ。理由を武夫に訊きたかったが、それを最悪の記憶だと知られたくないので、黙っていることにした。
「うー……。」
 武夫が探るような顔になった。しかし、本来、一度に一つのことしか出来ない彼は、ラルスを拘束しつつ、この世界を維持し、さらに目の前のラルスの心の中まで視るなんて芸当は無理だった。前の二つと記憶のリピート再生は3つでセットなので続けるのは楽だが、ラルスの隠した感情を探るのは全く別の仕事になる。
「もうあの記憶は見なくて良いのかな? 良かったー。精神的にきついよ。これ。」
 この言葉が武夫を作業に戻らせるきっかけになった。そういう意味でも言ったのだが、実際にきつかった。後で二匹を楽に殺したのを知っている今となっては、より。どうして父が死ぬ前にあの二匹を始末できなかったのか、考え出すと苦しい。


 シーネラルは居間に入って武夫とラルスを見ていた。武夫の黒い気は、一部は手となってラルスの頭と胸に入り、残りは彼の体を拘束している。ラルスが非常に苦しそうな表情を浮かべている。シーネラルは近くに行くのをためらった。行けば、邪魔をされたことに怒った武夫が今度は彼に襲い掛かるだろう。思い出したくない記憶が3つもあるシーネラルは、はっきり言ってそれが怖かった。戦いなら怖くない。肉体的苦痛も怖くない。歳を取った今では死すら怖くない。だからこそ、長年戦いの中で生きてきた。でも、心を攻撃されるのは辛いし、慣れないことだから怖い。
「……まだ何事もおきていない。」
 言い訳だと分かっている。だから、あえて口に出してみた。自分の強さに絶対の自信があるわけではないが、それでも弱さを認めるのはなかなか骨だった。なら側へ行って武夫を止められるかと訊かれたら……。
 ラルスが暴れるか何かして、武夫に手を出しそうになったら止めよう。シーネラルはいつでも飛び出せるように構えながら、座り込んだ。



08年10月6日
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