妖魔界村
1
トゥーリナは起きた。昨日、飲み過ぎたのか、少し頭が重い。寝室から出ると、ソーシャルが人形遊びをしていた。百合恵とリトゥナはいない。
「お父さん、おはよう。」
「…ああ。」
トゥーリナは棚に向かうと、煙草を取り出し、口に咥えた。シュボッ。ライターで火をつけると、思いきり吸い込んだ。煙を吐き出しながら、冷蔵庫を物色する。昨夜の余り物しかない。今朝は何を食べたのか。
「お父さんのご飯なら、テーブルに有るよ。でも、お酒は…。」
ソーシャルが言い淀む。ここから出て、お父さんから離れたいと顔に書いてある。
「飯食うから、今はいらねえ。」
「そう。」
ソーシャルは、ほっとした。「お父さんは、ソーシャルならぶたないから。」とお母さんに言われて、仕方なくここに居たんだけど、不安で仕方なかったのだ。
トゥーリナは食事を済ませ、外へ出た。お昼を過ぎたらしく、小さい子供は畑仕事から開放され、外を走り回っている。大きい子達はネスクリの屋敷で勉強しているのか、畑には、大人しか居ない。
普通、子供は教会で勉強する。だが、この村では、教会と孤児院が一緒になってる事から、ネスクリの屋敷で、彼が授業を行っていた。リトゥナもそこに行っている筈だ。
トゥーリナはネスクリが気に入らない。百合恵に畑仕事と召し使いをさせて、給料という形でお金をくれるネスクリ。端から見れば良い人なのだが、トゥーリナには下心があるように思えるのだ。彼の妻すとーむは派手な女なので、控えめな百合恵で自らの欲望を満たしているのではないか…と。
…そんなに心配なら、働いて、百合恵を楽にしてやれば良いものを、ただ疑うだけで、当然のように百合恵から給料を巻き上げる最低男が妖魔界村のトゥーリナだった。
「気持ちいいかなー?」
シーネラルは微笑みながら、オムツを取り替えていた。傭兵としてネスクリに雇われた彼だったが、今ではすっかりジオルクの助手として、子供達に好かれていた。酷い孤児院出身の彼は、ここの子供達が、少しでも幸せな記憶を抱いて、巣立って欲しいと願っていた。
オムツ替えを終えて、一息ついていると、
「チ(シ)ィー、チィー。」
最近歩き始めた子供がシーネラルを呼んだ。
「お、あんよは上手か? よし、今行くからな。」
いそいそと子供の側へ行くと、床に座り、「あんよは上手♪ あんよは上手♪」
歌いながら手を叩く。その子がよたよたシーネラルの側へ歩いていく。他の子供達も見守る中、その子は無事にシーネラルの元へ辿りつき、だっこと沢山のなでなでを貰った。
「うー、可愛いなあ。大きくなれよぉ。」
満面の笑みを浮かべる。そこに、戦いに明け暮れ、血にまみれていた男は居ない。
がちゃと扉が開いた。そこへ、村の嫌われ者が姿を現わした。
「……何だ。ターランは居ないのか。」
「お、トゥーリナ……だったか。ターランなら、ジオルク神父様や他の子供達と一緒に、畑仕事を手伝ってるぞ。」
「そうか。」
トゥーリナは礼も言わずに出て行く。シーネラルは、ここに来て日が浅いので、何故、あの蛇こうもりが村中から嫌われているのか、分からない。
「有難うも言わなかったな。皆は、何かして貰ったら、有難うを言うんだぞぉ。」
シーネラルはおどけながら言った。
教会の脇を通り、畑へ向かった。妖魔界では、仕事は午前中までと決まっているが、教会の畑は大きく、子供達はまだ畑仕事から開放されないらしい。しかし、別に子供達が重労働をさせられているわけではない。皆、仕事をすればするだけ、美味しいご飯が食べられると分かっているので、頑張って手伝っているだけだ。
ターランも額に汗しながら、一所懸命に働いていた。
「ターラン。」
「あ、トゥー……リナさん!」
ターランにとって、トゥーリナの名前は呼びにくいらしい。
「こらっ、ターラン!」
駆け寄ろうとしたターランは、ビクッとして足を止めた。
「神父様……。」
「仕事をしないなら、教会へ戻りなさい。トゥーリナと喋るんじゃない。」
「……はい。」
ターランは、しゅんとなって、手に抱えていた薪を地面へ置くと、裏口から教会へ戻って行った。
「トゥーリナ、ターランを諦めろと言ってるだろう。」
「あ? うるせえよ。ターランは俺に懐いているんだ。いつまでも邪魔出来ると思うなよ。」
「いい加減にしないと、シーネラルに追っ払ってもらうぞ。」
「けっ。あんな若造に何が出来る? 返り討ちにしてやる。」
「お前が盗賊だったのは何百年前だ? ザン姫様と互角だからって、そんななまりきった体で、現役に勝てるつもりか?」
「吠えてろよ。ターランはもう俺側なんだ。お前みたいな偽善者が、いつまであの羽を持っていられるのか、見物だぜ。」
トゥーリナの顔は、悪人そのものだ。幼いターランは優しい仮面に騙されて、神父様が許してくれさえしたら、自分にも家族が出来るんだと思っている。
「俺が偽善者だと? その言葉は、そっくりそのまま返す。不愉快だ。もう消えろ。」
「言われなくても消えてやる。」
トゥーリナは、すたすた歩いて行った。
「……神父様。」
いつも優しいジオルクが恐ろしい顔と言葉で喋っていたので、子供達は怯えきっていた。
「ああ、済まない。トゥーリナにターランを渡したくなくてな……。」
ジオルクは優しい顔に戻ると、「疲れていないか? 大丈夫な子は、続けようか。」
どんっ。
「気をつけろ、こののろま! 何処見て歩いてんだよ!」
ジャディナーとぶつかったトゥーリナは、怒鳴った。
「済みませんねぇ……。汚物が視界に入るのは、耐えられないもので。」
「んだと、こらぁ!」
「わたしは急ぐんですよ。子供達が待ってますからね。」
「ふざけんな、待てっ。」
「言っておきますけど、わたしに何かあったら、アスターニ王が出て来るのをお忘れなく。」
「くっ。」
「……では。」
ジャディナーがさっさと歩いていくのを、トゥーリナは顔をしかめながら見ていた。ザンと結婚するまでは、こそこそしながら歩いていたのに……。今ではすっかり大きな顔をしている。
「遅くなりまして、済みませんでしたね。」
教会の扉を開け、ジャディナーが入ってきた。彼は畑仕事が終わった後、教会に出勤してくる。
「あ、ジャディナーさん。」
シーネラルが笑顔を向けた。
「どうですか? 子供達に変化はありませんか?」
「皆いい子にしてるっすよ。」
「大分慣れてきましたね。」
「今は皆が可愛くて……。」
「ネスクリさんも、いい方を雇って下さった。」
ジャディナーは微笑んだ。「さあて、ジャディナーお兄ちゃんと遊びたい子は居るかな?」
「ちっ。ネスクリの奴……。」
トゥーリナは顔をしかめながら、ぶらついていた。ネスクリが教会の為にと、シーネラルを雇わなければ、ターランを誘拐することも出来たのに。ターランは自分を信じ切ってるし、あの堕天使の羽根で、好きなだけ酒と煙草を買えるし、百合恵も側においておける。
ジオルクの前で虚勢を張って見せたものの、彼の言う通り、シーネラルに勝つには、相当鍛え直さないと無理だ。昔、自分と同じく盗賊をやっていただけあって、ジオルクの目は確かだ。何故改心して神父になったのかは知らないが……。
「百合恵、少し休め。」
ネスクリの屋敷。畑仕事を終えた後、百合恵は召し使いになる。
「あ、でも、もう少しでお掃除が終わりますから……。」
「……俺に逆らうのか?」
百合恵はビクッとした。彼女はネスクリが怖かった。
「い・いえ……そのような事は。」
「なら、休め。」
「……はい、そうさせて頂きます。」
百合恵はぺこっと頭を下げると、使用人用の休憩室へ向かった。
「……ネッスィーたら、意地悪。」
すとーむが微笑んだ。
「仕方ないだろう。ああ言わなきゃ、百合恵は言う事を聞かん。」
ネスクリは諦め顔で言った。「好意でしてるのに、こき使ってるみたいで嫌なんだがな。」
「お尻をぶたなきゃ良かったのに。」
「使用人の失敗に、罰を与えるのは、主人として当然の行為だぞ。」
「そうなんだけど……。百合恵の性格を考えたら……。」
「あの時はそこまで分からなかったからな。」
「まあね。」
すとーむはネスクリの膝に座る。「わたしはあんな風に出来ないわ。もっと気楽に生きればいいのに。」
「百合恵は過去から色々ありそうだからな。じゃなきゃトゥーリナに捕まらないだろう。」
「誘拐されて、そのまま結婚しちゃうなんて、信じられない。」
「そんなことはない。ザン姫様が似たことをして、ジャディナーのハートを捕らえたぞ。」
「あれは押しかけ女房でしょ? 意味が違うと思うけど。」
「いや、トゥーリナも百合恵に自分の意見を押し付けて、彼女が肯定したから、ここに連れて来た。」
「えー?そうなのぉ?」
「無理矢理誘拐された上、暴力を振るわれているのなら、ああはならないだろう。百合恵はあれでも幸せなんだ。だから、一所懸命やってる。」
「わたしにはとても真似出来ないわね。」
「する必要がない。お前は俺の可愛い妻だろ? 苦労なんてさせはしない。」
「うふ。そうだけど。ネッスィーたら、いつもわたしをとろけさせるんだから…。」
すとーむは自分の唇を使って、ネスクリの口を塞いだ。
「ふぅ…。」
百合恵は息を吐いた。召し使いの一人が皆で飲むのに入れてくれたサーナニネ(妖魔会のお茶)を飲んで、一息ついた所だ。
ネスクリ夫婦の前に出ると、とても緊張する。大物の醸し出す雰囲気に圧倒されてしまうからだ。百合恵の身近にいた人物は、立場は偉いけど、器の小さい者ばかりで、大人物と言える人なんていなかった。まあ、普通の家庭の娘が、そんな凄い人物と知り合う機会もないわけで……。
ネスクリは本当に立派な人物らしい。表向きは素晴らしいけれど、裏で何かやってるなんて事もなく、村の為に尽力を尽くすなど、力を持っているのに、村長を立てている。どうやったらそんなに立派になれるのか、疑問だったりする。
初めて仕事でミスした時に、下着まで下ろされてお尻を叩かれたので、貧弱な自分の何処に魅力を感じて、そんな下劣な行為に及んだのかと思ったのだが、妖魔界では当たり前だと知って、ますます混乱する百合恵だった。
まあ、百合恵に同情して、生活費を何の見返りもなくくれようとした人物に裏があると思うなんて失礼だ。とんでもないと何回も断ったら、じゃあ働きなさいと仕事をくれた。最初は、召し使いだけだったけれど、後の為にと頼み込んで畑仕事もやらせてもらっている。
別に働くのが好きなわけではない。ただ、借りを作りたくないだけだ。子供達には少々寂しい思いをさせているけれど、トゥーリナの嗜好品を買えなくて、とばっちりで殴られるよりはマシな筈だ。
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