子年の風景


 年の瀬というのは、坊主も警察も区別無く、怒涛の忙しさへと突き落とす。
 ここ、港署も例外なく ―― というよりも例年通り、目も回るような忙しさの真っ只中にあった。
 忙しさというのは降り積もって苛々を誘発し、空気中に刺々しさを散布していくのだが、現在の港署は少々様相が違っている。
 刺々しいのではなく、喉が干上がるような緊張感が捜査課を中心に渦巻いているのだ。
 もっと正確に言えば、ただ一人の人間が発する空気が、周り全てを緊張させていた。

「…いー加減にして欲しいわね、アレ」

 うんざりとした心情を、ひっそりと呟いたのは少年課の薫だ。
 塗り直す暇もなく剥がれたままのマニキュアを気にしながら、長い髪の毛をかきあげて原因の相棒を小突いた。

「…って言われても…俺も何であんなになってのか、分かんねーんだもん」

 理由が分からなければ対処のしようもないと肩を竦める大下に、薫の盛大な顰め面と溜息が突き刺さる。

「あーなっているタカさんを何とかするのは大下さんの役目でしょ!」
「無茶言うなって…」

 二人の視線の先、港署全体を緊張のどん底に叩き落している鷹山はといえば、ここ数日はサングラスを外す事すらせずに、酷い仏頂面で煙草をふかしては消していた。

 ヤクザが居座っているようだ、とは誰の言葉だったか。

 外へ行こうが、署内に戻ろうが同じ調子で不機嫌なものだから、どうにもこうにも原因が分からない。原因が分からないから、何処で地雷を踏むか不明で、港署全体が緊張に包まれているという事態に陥っている。
 かといってこのままでは ―― 犯罪者たちの歳末バーゲンセールも佳境に入った所で、その忙しさに加えてこの緊張感では署員の精神が持たない。

「本当に、心当たりないの。大下さん?」
「そーゆー薫こそ、しつっこく借金の催促したんじゃないの?」
「クリスマスに、女に振られた…くらいじゃ、あーはならないですよね、鷹山先輩」
「とすれば、銀星会絡みか…」
「いや、でもナカさん。最近は奴らも大人しいモンだよ」
「僕らが知らないだけで、変なヤマ追ってたとかじゃないんですか?」

 こそこそとお互いを突付きあっていた大下と薫の側に、引き寄せられるように他の捜査課員が集まってくる。
 そうして、何だかんだと勝手な推論を並べ立てては、ほんの少しずつ大下を鷹山の居る方へと押しやっていった。
 無言のうちに行われた見事なまでの連携プレイに、大下は抵抗の空しさを悟る。
 味方は誰もいないらしい。
 せめてもの情けは、大下が抱えていた強盗事件が片付くまで待ってくれた、という所だけであろうか。
 やれやれ、と心の中だけで呟いた大下は、期待はするなとばかりにもう一度肩を竦めてから自席に戻っていく。
 不機嫌な相棒を出来るだけ刺激しないよう、そっと椅子の背もたれを引いて、ふと妙な感覚を覚える。
 静かに椅子に座り、キシ、と背もたれに軽く負荷をかけて首を捻った。

(な〜んか、変な感じ)

 確かに、鷹山は不機嫌に見える。
 眉間は固まってしまってるのかと思わせる程ガチガチに深い溝が刻まれているし、濃いサングラスの奥からは凄い気迫が放出されている。煙草は火を点けては消してを繰り返し、殆ど吸ってはいない。
 ぱっと見の情報は、これ以上に無いくらい不機嫌であると示しているのだが、大下には何か足りない感じがしていた。
 恐らく大下以外の人間には、分からないような違和感。

 迫力は、ある。
 あるのだが、怖くはない。

(何かに、怒ってるワケ…じゃあ、ないのか)

 周囲の空気の緊迫感とは裏腹に、鷹山の気配には怒りがない。
 よくよく考えてみれば、鷹山の殺気に近い怒気はここまで近付くまでもなく分かるものだ。
 充満している鷹山を囲む緊迫感に気を取られて、鷹山本人にまで気が回らなかったのはうっかりといえばうっかりな事態である。

(ま、原因が分からないのは変わらないケド…)

 怒っている訳ではない、とはいえ、不機嫌の理由が分からないのは同じで。
 さて、どうしたものか。
 と思案しつつ、大下が背もたれを更にきしませた、その時 ―― 鷹山の小さな呟きが、大下の耳に飛び込んできた。

「…あと…三日……」

 鷹山の声につられて、大下の目がカレンダーへ向けられる。
 三日後は、松の内の終わりだ。

(……ま、さか…ねぇ)

 一つの可能性に思い至って、大下はそろり、と後ろの鷹山を振り返った。
 思い当たれば、そこかしこにあるモノが目に入る。

「…た〜かやま、サン…出かけましょー」

 原因と結果が結びついて、どっと疲れた大下が、それでも何とか気力を振り絞って相棒をパトロールへと連れ出そうと声をかけた。
 ぎくり、と身体を竦ませた相棒に、大下はさり気なく呟く。

「アレが無い喫茶店、知ってるから……」

「OK」

 大下の言葉に、鷹山は一も二もなく立ち上がった。
 その姿にハードボイルドの面影は ―― 少なくても大下の目には、欠片も残っていなかった。


 二人が連れ立ってパトロールに旅立った後、つかの間の平和を謳歌する和やかな空気が署内を包んだ。
 そのあちらこちらに、干支のネズミが飾られていたのは、言うまでも無い。



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