策略(7)

 

ステージの中央で、全裸にアイマスクだけという状態で、

白濁した精液に塗れたまま磔にされているロビン。

客席を埋め尽くした大勢の犯罪者達が固唾をのんで展開を見守る中、

ジョーカーの手がロビンのマスクに掛けられようとしていた。

最後に残されたマスクまで剥ぎ取られてしまったら、

隠してきた正体が、テレビ放送を通じて世間にまで晒されてしまう。

ジョーカーの手が、ゆっくりとロビンの正体を隠すマスクへと伸ばされる。

 

静まりかえる客席は、固唾をのんで展開を見守っている。

ついにジョーカーの両手がロビンのアイマスクに触れた。

マスクを剥がされてしまうということは、正体が明かされ、

ヒーロー、ロビンの終焉を意味していた。

抵抗しようにも、気怠い体には全く力が入らない。

(このまま・・終わっちゃうのか・・・・)

あきらめにも似た感覚が、苦く重くロビンの心中に広がった。

今夜の出来事が走馬燈のようにロビンの目の前をよぎっていく。

ウエイン邸でのやり取りが、遙か過去の様に、だが鮮烈な記憶となって蘇った。

(ブルース、俺・・・)

 

唯一人の家族であり、最も敬愛する兄であり父親、

一番頼りになる相棒のブルース=バットマンの顔が

ロビンの心の中に一筋の光となって差し込んだ。

そして、ごく自然に口を開き、助けを求めて叫んでいた。

「バットマン、助けてーーーッ!!」

 

とうとうロビンが我慢していた言葉を口にした。

自尊心も独立の意志もかなぐり捨てて、

最も尊敬する先達であり絶対的な保護者でもある男に、助けを求めて叫んだ。

そうするのが当然だったのに、なぜ今まで出来なかったのだろう?

マスクの下で、止めどもなく涙が溢れた。

 

その瞬間、天窓を突き破って黒いものがスタジオに飛び込んできた。

会場にいる全員の視線が集中する。

スローモーションのように、天井のガラス窓が粉々に砕け、

ゆっくりと黒い人影がスタジオの床に着地した。

しゃがみ込んだ姿勢から、黒く長いマントを翻してすっくと立ち上がったその姿は、

二本の尖った耳をした黒いマスクが口元以外を覆い隠し、

大きく隆起した大胸筋の中央にコウモリのエンブレムの付いたコスチュームに

身を包んだバットマンだった。

素早くベルトに手をやると、ジョーカーの手下達の足下に向けて、

幾つものカプセルを次々に転がしていく。

カプセルは目眩ましの強烈な閃光を発し、煙を吐き出して瞬く間に煙幕を張った。

手下達が次の行動に移る前に、敵の動きを止める手際の良さは、

歴戦の勇士のバットマンならではだった。

 

もうもうと煙の立ちこめるスタジオは大混乱だった。

キッチンコロシアムのセットのあちこちで銃が乱射され、

叫び声や怒号が飛び交い、悲鳴や呻き声であふれていた。

 

スタジオの中央で磔にされたロビンに駆け寄るバットマン。

「来てくれたんだね・・・」

アイマスクの下、涙に霞む瞳で頼もしい相棒の姿を見上げるロビンは

安堵の溜息をついた。

若い相棒に近寄ると、バットマンは四肢を固定する拘束具に手を伸ばした。

「無事の様だな?」

バットマンは、そう言いながら革のバンドを次々に外していく。

拘束を解かれたロビンは、倦怠感を振り払いながら、

震える両足でなんとか立ち上がった。

「歩けるか?」

バットマンの言葉はただそれだけだったが、若き相棒を安心させるには十分だった。

黙って頷くロビン。

 

「よし、脱出するぞ!」

バットラングを取り出したバットマンは既に脱出の体勢に入っていた。

バットマンにしがみつこうと体を寄せたロビンは、

精液に塗れ汚れた自分の身体を恥じて一瞬躊躇した。

「何してる!しっかりつかまってろ」

力強いバットマンの言葉によって、ロビンの迷いは完全に消えた。

どんな目に遭わされてもこの頼もしい相棒はいつも側にいてくれる、そう思った。

 

バットマンの顔、口元だけが露出したブルース・ウェインの顔を見上げるように

太い首に両腕を回すと抱きつく様に体を寄せるロビン。

バットラングを投げるため左手を高く上げたバットマンは、

もう一方の手でマントの裾を掴むとロビンの背中に手を回し、

剥き出しになった全裸のロビンの身体を自分のマントで包んだ。

カーボンケブラーで織られたマントで覆えば、

剥き出しのロビンの身体を敵の銃弾から守ることが出来るのだ。

そして、それはロビンの裸身を包み隠し、これ以上の恥辱から守る事でもあった。

バットマンに包まれるように守られながら、ロビンは愛する家族の温もりを感じていた。

 

天井に向かってバットラングを投げベルトのモーターでケーブルを巻き上げながら、

上に向かって登っていく二人。

破った天窓から屋上へと抜け出すと、

バットマンは自分のマントを外してロビンに羽織らせた。

そして二人は屋上に停めたバットウィングに乗り込み、

低く雲がたれこめる上空へと舞い上がると、旋回しながら猛スピードで飛行しはじめた。

 

* * *

 

バットウィングの操縦席では、赤く灯る計器類の光だけが、

ロビンの隣に座るバットマンの輪郭を浮き上がらせている。

顔の上半分を覆う蝙蝠のマスクのせいで、

全くと言っていい程に表情を読みとることは出来なかった。

自分がバットマンの警告を聞かなかったせいで、こんな事になってしまった。

ロビンは、そんな後悔の念で押しつぶされそうだった。

 

「怪我はないか?」

いつもと変わらない口調で尋ねるバットマンの問いかけに、

ただ首を縦に振ることしかできないロビン。

屈辱と恐怖から解放されたロビンには、それがやっとだった。

アイマスクの下で目を閉じ、

深く息を吸い込んで今夜の屈辱的な出来事を振り返るロビン。

(みんな俺のせいだ・・)

大勢が見つめる中で痴態を晒し、

そうした状況にすら興奮し欲情してしまった自分を思い出すだけで、

屈辱と悔しさで体は震え、目には悔し涙が浮かんでしまう。

「一人でよく頑張ったな」

バットマンの言葉に、再び押し黙ったまま頷くロビン。全身の震えが止まらない。

隣に座るバットマンになんとか言葉で応えようとするが、

胸の内から思いの丈が込み上げて、口を開くことが出来ない。

 

バットウィングは程なくしてバットケイヴへと帰還した。

 

* * *

 

深夜のウェイン邸。

汚れたコスチュームを脱ぎ、シャワーを浴びて身体を清め、

濡れた髪を無造作に後ろへ流して真っ白いローブに身を包んだディック。

赤いガウンに着替えたブルースに向かって話しかけた。

「今日のことで、バットマンとロビンの名前を汚したんだ。

 だから、俺・・・

 ロビンを辞めようと思う・・・」

思い詰めたその声は、緊張のためか僅かに上ずっていた。

二人の間に暫しの沈黙が流れた。

ベッドサイドに置かれたスタンドだけが暖かい光を放っている。

 

おもむろにブルースが口を開く。

「今夜のことなら気にする必要はない。ヒーローにピンチは付き物だ」

「じゃあ、怒ってないの? 俺がロビンとしてあんな恥ずかしい姿を晒したのに?」 

「二人で危機を支え合ってこそのバットマンとロビンだ」

ブルースの優しさが、傷ついたディックの心に滲み渡った。

再び沈黙が訪れた。

 

澄んだ青い瞳で真っ直ぐにブルースを見つめるディック。

「もう、無茶なまねはしないよ」

「そうだな」

マグカップに入ったホットミルクを手渡しながら、頷くブルース。

「ゆっくりお休み」

ドアを開け部屋を出ようとするブルースに向かって、背後からディックが呼び止めた。

「ブルース」

「うん?」

「今日、よく分かったよ。

 俺、ブルースがいないとダメなんだ」

開きかけの扉の隙間から漏れる光が、

ブルースの横顔をシルエットとして浮かび上がらせた。

「そうか」

そう一言だけ呟くと、振り返ることなくブルースは静かに部屋を出た。

 

ディックの私室を後にしたブルースは、照明の落とされた暗い廊下を書斎へと向かった。

扉を開け、壁のスイッチに手をかけると明かりが灯る。

部屋に二人の人物が浮かび上がった。

 

一人は紫のスーツを着た長身の男、もう一人は赤と黒のピエロの扮装をした女。

ジョーカーとハーレイ・クインだった。

 

落ち着き払ったブルースが口を開く。

「ご苦労だったな、アルフレッド、バーバラ」

二人が仮面を外すと、見慣れた顔がマスクの下から表れた。

ジョーカーはウェイン邸の全てを取り仕切る執事のアルフレッド、

ハーレイ・クインはバットガールであるバーバラ・ゴードンの変装だったのだ。

 

アルフレッドがいつもの調子で口を開いた。

「旦那様、後始末は全て終わりました。

 スケアクロウの神経ガスを改良した記憶喪失ガスで、

 手下役や観客役のギャング達は会場で眠らせました。

 ゴッサム警察に通報しましたので、

 明日の朝、彼らが目を覚ました時には全てを忘れ、

 警察の留置所に居ることになります」

「そうか、良くやってくれた。

 相変わらず手際がいいね、アルフレッド。

 セットも上出来だったよ」

満足そうにブルースが頷いた。

 

「ですが、旦那様、本当にここまでして良かったのでしょうか?

 ディック様には少々薬が過ぎたのでは?」

「そうよ、ブルース! なにも、あそこまでする事なかったんじゃない?」

アルフレッドにバーバラも加勢した。

バーバラは、明らかにブルースの準備したシナリオを非難していた。

 

「二人とも、今日の件はディックのためにした事だって分かってるだろう?

 あいつはまだ半人前だ。それを分からせてやるのが後見人の役目だと思わないか?」

落ち着き払ってブルースが答えた。

「おっしゃる通りでございます、旦那様」

主に従い、無表情に戻って頭を下げるアルフレッド。

まだ釈然としない表情のバーバラに向かって、ブルースが続けて言った。

「それに、バーバラ、君は結構楽しそうに演じていたようだが?」 

ハンサムな顔に冷たい笑みを浮かべたブルースは辛辣だった。

「私は、ただあなたの準備した脚本通りに演じていただけですっ!」

顔を赤らめながら反論するバーバラ。

「他ならぬ君に相手をしてもらえたと知れば、ディックもまんざらではないと思うがね」

ブルースのこの言葉には、さすがのバーバラも言葉を失った。

驚きのあまり雪のように白い顔でただ立ち尽くしていた。

全てを見通す冷たい瞳でバーバラを見つめるブルース。

 

バーバラ・ゴードンとディック・グレイソンが

互いに淡い恋愛感情を抱いていることに、だいぶ前から気付いていた。

その二人の感情すら、策士ブルース・ウェインにとっては

自分の計画を成功させるための道具に過ぎなかった。

 

今夜のシナリオは、独り立ちしたがるディックを諫めるために、

ブルースが計画した策略だった。

バーバラの変装したハーレイがロビンを捕らえ、

港の倉庫の一つに準備した大がかりなセットで、

ジョーカーに扮したアルフレッドとバーバラが大勢の前でロビンを陵辱する。

限界まで追い詰められたロビンが助けを求めた所で、

バットマンが救出に現れるという筋書きだった。

スタジオに集められた悪人達は本物のギャングや指名手配犯だが、

番組自体はニセで、本当の『料理の達人』は普通に放送されているのだった。

 

「今夜の番組は、ディック様は放送されたと思っておいででしょうが、

 もちろんテレビ放送はされておりません。

 このビデオテープも処分してよろしいですか?」

アルフレッドの手には、キッチンコロシアムで撮影されたビデオテープが握られている。

それを目にしたブルースの瞳に、一瞬、妖しい光が煌めいたが、

直ぐに感情を押し殺したいつもの冷静な色を取り戻した。

「いや、それは私が処分しておく」

「左様でございますか」

恭しくテープを差し出しながらも、ほんの僅かに片方の眉を上げ、

無表情な顔に微かに感情が見え隠れするアルフレッド。

いつもと変わらない執事としての慇懃な態度に、さすがのブルース・ウェインも、

アルフレッドが主人の本当の意図に気付いていることを知る由もなかった。

 

今日の出来事の一部始終を録画したビデオテープを受け取ると、

ブルースは努めて無造作にデスクの上に放りだした。

「とにかく、ご苦労だった」

ブルースのこの一言は、ここでの会話の終了を意味していた。

若き大富豪の言葉が絶対であることは、バーバラもアルフレッドもよく知っていた。