策略(1)

 

フロントガラスの向こうには、遙か下方にゴッサムシティーの街の灯りが

雲の隙間から暗闇に煌めく宝石のように見える。

バットウィングの操縦席、赤く発光する計器類だけが、

バットマンとロビンの二人の顔を下から照らしていた。

いつものコスチュームを身につけたバットマンが操縦桿を握る隣で、

バットマンのマントを羽織っただけのロビンは、

震えながら、マントの隙間から素肌を覗かせている。

目の周りだけを黒く覆い隠すアイマスクの下で目を閉じると、

深呼吸をしながら今日の屈辱に満ちた出来事を振り返るロビン。

(こんな事になったのも、みんな俺が悪いんだ)

始まりは数時間前だった・・・

 

* * *

 

夜の帳の降りたウェイン邸。

手入れの行き届いた木々に囲まれた広大な敷地に佇む巨大な屋敷だったが、

今は僅かに数個の窓にのみ明かりが灯っている。

その中の一室、壁一面が本で埋め尽くされた書斎は暖かな間接照明で照らされ、

赤いシルクのガウンを着たブルース・ウェインが一人デスクに向かっていた。

扉をノックする音と共にディック・グレイソンの声がする。

「ブルース、ちょっといいかな?」

「ああ、入ってくれ」

その言葉を待ちかねていたように、扉を開けて若者が入ってきた。

白いTシャツと黒いトレーニングパンツ姿のディックは、

たった今トレーニングを終えたらしく、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

Tシャツは汗で体に貼り付き、発達した大胸筋がクッキリと浮かんでいた。

10代後半のディック・グレイソンは、決して筋骨隆々という訳ではないが、

鍛えられ絞り込まれたプロスポーツ選手並の肉体を、

悪人との闘いとバットマンとの訓練によって獲得していた。

 

書斎に入ってきた若者に顔を向けることもなく、

デスクに向かい書類に何かを書き込んでいるブルース。

重厚なマホガニーのデスクの上の真鍮製のスタンドの光が、広げられた書類に反射し、

ブルース・ウェインの整った顔を下から照らしている。

落ち着いた雰囲気のその表情には、

従業員数万人の巨大財閥ウェイン・エンタープライズの総帥としての責任感が宿り、

まだ20代だというのに年齢に似合わないほどの風格があった。

この、世界有数の大富豪であるブルース・ウェインに、もう一つの顔、

ゴッサムシティーの凶悪な犯罪者達が恐れるバットマンとしての一面があることを

知っているのは、ディック・グレイソンを含め、僅かに数人だけだった。

 

デスクの正面に立つディックには、

今夜は他人を魅了する人なつっこい笑顔はなりを潜めている。

めずらしくブルースの様子を窺いながらおずおずと話しかけるディック。

「今夜のパトロールなんだけど・・」

「ああ、もうそんな時間か。すまん、ちょっと待ってくれ。

 これだけ目を通してしまいたい」

書類から目を上げもせずに答えるブルース。

年下の相棒がいつになく真剣な眼差しで見つめていることになど気づかない。

 

「俺に任せてくれないかな?」

「うん?」

予想外の言葉に、書きかけの書類から目を上げると、正面に立つディックを見上げる。

目の前に立っている少年は、同世代の少年達と比べれば遙かに大人びており、

トレーニング用のウェアの上からも、鍛えられた肉体を窺うことが出来た。

だが、幾多の闘いを共にしてきたとは言え、体格も経験もバットマンには遠く及ばない。

この未だ若いひよっこが、バットマンからの独立を求めているのか?

そう言いたげに、ブルースが口を開いた。

「今、何と言った?」

「俺たち、コンビを組んでからもう5年だ。

 パトロールぐらい、そろそろ一人で行かせてくれないかな?」

その率直さが、何事にも真っ直ぐに取り組むディックらしい発言だった。

 

外からは何も読みとることは出来なかったが、

感情を押し殺した表情の下では、ブルースは考えを巡らせていた。

「ね、いいだろ?」

ディックはブルースの思考がまとまらないうちに畳み掛けた。

「ダメだ! この前みたいになったらどうする?」

以前、単独行動を取ったロビンは、

ポイズン・アイビーの巨大食虫植物の罠に落ち、蔦に絡みつかれて全身の自由を奪われ、

溶解液によってコスチュームを解かされてしまい、危うく命を落としかけたのだった。

「この前って言うけど、あれはもう1年も前のことだよ!

 俺、あれから経験を積んだんだ。

 今日だって、バットケイヴのシミュレーションファイトで

 3人を相手に最高得点を取ったんだぜ。

 早く一人前のクライムファイターとして悪と闘いたいんだ!」

保護者からの自立を求めるディックの純粋に正義を愛する姿は、

ブルースにはまぶしく輝いて見えた。

 

ディックの真摯な表情を見て、今の自分が失ってしまったかつての自己の姿を重ねるブルース。

目の前に立っている少年には、悪との闘いを決意した頃の自分と同じ情熱を感じた。

 

溜息をつくと、再び手元の書類へと目を落としながら、

若いパートナーに向かってに口を開いた。

「今日のパトロールコースはB-13だ」

「じゃあ・・・ いいんだね?」

「ああ」

「ありがとう!」

緊張を解いた少年は、いつもの表情豊かで快活なディック・グレイソンに戻った。

「くれぐれも軽はずみな行動は取るなよ、ディック」

「分かったよ」

駆けだしそうな勢いで踵を返したディックに向かって、

ブルースは更に釘を刺すのを忘れない。

「危ないと思ったらすぐに連絡するんだぞ」

「分かったって言ってるだろ!」

(いい加減に相棒を信頼してくれよ!)

そう言いたいのは山々だったが、気まぐれな後見人の気が変わらないうちに、

ディックは軽い足取りでバットケイヴへと向かった。

 

屋敷の玄関ホールから食堂へと延びる廊下の一角、

銀の食器が陳列された飾り棚の裏にある秘密の通路を通り、

ケイヴに辿り着いたディック。

Tシャツとトレーニングパンツを脱ぎ、白いビキニ一枚になると、

コスチュームに袖を通した。

鍛え抜かれたディック・グレイソンの身体をピッタリと覆うコスチュームは、

引き締まった美しい肉体を惜しげもなく呈していた。

 

抑えた色調のメタリックレッドのコスチュームには、

左に「R」のマークが描かれた胸には張りのある大胸筋が、

引き締まったウエストにかけては6個に割れた腹直筋が浮かんでいる。

隆起した三角筋から弧を描くような上腕筋へと続く逞しい両腕と、

大腿四頭筋が構成する力強く伸びる両脚は、

暗い色合いのメタリックグリーンのコスチュームが包んでいる。

 

アイマスク、ブーツ、グローブを付け、マントを羽織り、

ユーティリティーベルトを嵌めると、そこにはディック・グレイソンではなく、

クライムファイターであるロビンの姿があった。

 

ロビンは、バットサイクルに跨るともの凄い勢いで夜の町へと飛び出した。

バットケイブのコンピューターに直結したモニターの指示どおり、

パトロールコースを駆け抜けていく。

普段よりも長いコースが指定された巡回先をほぼ周りきり、あとはベイエリアを残すだけだった。

 

ダウンタウンの高層ビルが立ち並ぶ海へと続く広い道路を走り抜け、

港の倉庫群にさしかかった頃、バットサイクルのモニターに異変を知らせる警告信号が点灯した。

(事件発生か! 今夜は俺一人で片を付けてやる!)

ロビンはパトロールコースから外れ、信号の示す現場へと向かった。

 

ゴッサムシティーでも殊更に夜間の治安が悪いとされているベイエリア。

まばらな街灯に照らされた薄暗いひとけのない道路、

港に面した巨大な倉庫が建ち並ぶ一角で防犯ベルが鳴り響いていた。

警察や警備会社のコンピューターからの情報を映し出すバットサイクルのモニターに、

付近の地図と共に事件を告げる赤いシグナルが点滅している。

 

破られたシャッターの隙間から、懐中電灯の光がチラチラと漏れている。

ピエロの様なコスチュームを着た人物が、高く積み上げられたコンテナを物色していた。

頭にかぶった頭巾から伸びる2本の突起、

赤と黒のチェック柄のコスチュームが包む身体は、

膨らんだバストと括れたウエストの緩やかな曲線が女性的な体型を示している。

それは、白いメークに目の周だけを黒く塗ったハーレイ・クインだった。

 

「そこまでだ、ハーレイ!」

 

目的のコンテナに手をかけたその瞬間に背後から自分の名前を叫ばれ、

ギクリとして振り返ったハーレイ・クインが見たのは、

破られたシャッターを背にした、逆光に浮かぶロビンのシルエットだった。

後方からの光を受けて、逆三角形の上半身とスラリとした下半身が浮かび上がっている。

 

ハーレイが逃げ出すよりも早く、ロビンがバットラングを投げた。

バットラングに結ばれたケーブルがハーレイ・クインの体をグルグル巻きにしていく。

「大人しくするんだっ! アーカムに逆戻りだな、ハーレイ」

ハーレイの体を拘束するケーブルを掴んだロビンは、倉庫の外へ向かって歩き出した。

(バットマン、俺一人で十分だって言ったろっ♪)

思いの外、順調な展開に上機嫌のロビンだった。