連載小説
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#40.悲愴
 継母が生きるか死ぬかの瀬戸際にある中、エレノアはそんな非情な現実を知る芳もなく、クレヨンを片手に、鼻歌しながら落書き帳に向かっていた。
 室内の時計は午後1時を回っていた。昼食時を過ぎていたが、アストライアーが予めサンドイッチを用意してくれていた為、エレノアが飢えに晒される事中なかった。そもそも、自分不在の際は冷蔵庫の中身は勝手に食べて良いというお達しがあり、それに従っただけの事である。
 そんな中で突然ドアが開錠されたので、エレノアは驚いた。
 アストライアーが帰って来たものと思っていたが、ドアから現れたのはブルーネージュことアレクサンドラ=グレイアムである。後事を他のレイヴンに任せるや、プレーアデスを全速力で飛ばし、ガレージに帰還後は車に乗り換えて法定速度ギリギリで飛ばし、幸いにもスピード違反の切符を切られる事無く無事に戦友の家へと辿り着いたのである。
「あれ? ブルーネージュのおばちゃん……? おかあさんは?」
「……病院だ」
「え!? どこかわるいの!? けがしたの!?」
「待て、落ち着くんだ」
 ブルーネージュはエレノアの肩に両手を置いて、何とかなだめるように続けた。
「マナは生きてる。大丈夫だ……」
「だいじょうぶなの?」
「多分……私も聞いたばかりだから……」
 詳しい事はまだ分からないが、それでもエレノアを騒がせたり泣かせたりしてはならない一身で何とか言葉を紡ぐ。
「……おかあさんにあえる?」
「ああ。私も会いに行くつもりなんだ。一緒に行こう」
 ブルーネージュは急ぎエレノアを連れ、早足で駐車場へと向かった。


 レイヤードの都市区画に点在する病院は、内科・外科・歯科・小児科・産婦人科と言った分野による区別の他にも大きく2つに分けられる。
 患者が人間に限定されるか、人間以外も患者として受けれているかである。
 前者の場合は特に言う事はない。後者の場合、地上にまだ国家が存在していた頃の話では獣医を意味していたが、現在ではそれが意味するのは獣医に限らない。何らかの理由で人間を辞めた、所謂強化人間専門の病棟を持っていると言う意味も含まれている。
 アストライアーがしばしば世話になってきたセントアーク病院もまた、そんな強化人間専門病棟が存在している。
「すみませーーーーん!!」
 その、病院の受付に猛ダッシュして来た女がいた。
「看護婦さん! お姉さま――じゃなかった、アストライアーさんの病室はどこ!? ねえ!!」
 まだ少女と言ってもいい外見の彼女は、息を荒げ、白髪を振り乱しながら受付の看護婦に尋ねた。
「ちょっと、落ち着いて下さい」
 本来、セントアーク病院の受付は手が空いているとは言え、容姿端麗かつ清潔な看護婦が受け持つ場合が多い。今回もその例外ではなかった。
「それどころじゃないの!」
 半ば殺気立った形相で少女はまくし立てる。彼女はミルキーウェイなのだが、いまやアリーナの勝利者インタビューで見られた、可愛さを振り撒くアイドルランカーの面影はどこにもないし、当人もそんな事に拘っている場合じゃない事を知っている。
「落ち着け」
 そのミルキーウェイを、遅れて駆け込んで来たガラの悪い青年が抑える。無論、この男はストリートエネミーである。
「アストライアーの病室はどこなんだ?」
 刈り込まれたリクルートカットに黒いジャケットと、チンピラ同然のいでたちをした男を前にしても、この看護婦は肝が据わっているのか、たじろいだり異様に思う様子はない。お見舞いの方だと判断すると、即座にコンピュータが弾き出した入院者リストの検索結果を伝えた。
「アストライアーさんは7階、特殊身体患者用病棟の7907号室よ」
 レイヤードにおいては、サイボーグなど人ならざる身体を持った者は、医療区分上においては「特殊身体患者」と呼ばれ、専用の医療設備とスタッフを擁する病院の専用病棟に搬送されるのが常である。しかし人ならざるものとなったレイヴンの数自体が少ないので、そうした強化人間を受け入れられる病棟は実の所あまり多くない。
「サンキュー!」
 ミルキーウェイは全速力でエレベーターに向かったが、3基あるエレベーターのうち1号は3階から4階へと上昇中。2号は7階から8階へと移動していた。
 3号に至っては9階の標示を点灯させていたが、それが消え、新たに10階の標示を明るくしていた。
「ああもう!!」
 ミルキーウェイは遅れて来たストリートエネミーに構わぬ様子で階段へと駆けていった。
「おい、待てよ!」
 ストリートエネミーは追いかけるが、既にミルキーウェイは階段を駆け上がって中2階の空きスペースへと移動していた。
「早く! お兄ちゃん!!」
 しょうがないなと呟くと、ストリートエネミーも階段を駆け上がり始めた。細身とは言え鍛えられている身体なので、1階から7階まで駆け上がるのはさほど苦とはならず、途中で息が切れ掛かっていたミルキーウェイを追い越す形で歩を急ぐ。
 7階に到達し、エレベーターホールを過ぎってストリートエネミーとミルキーウェイが廊下を進むと、待合室にて待機しているエレノアの姿があった。
「おや? あれエレノアじゃない!?」
「だな」
 二人が見る限り、エレノアは待合室でひとり待っているだけだった。
「おーい、エレノアー」
 待合室の窓を軽くノックして注意を向けさせる。
「あ、このあいだのおにいちゃん」
 既にガレージにいた所を目撃したり話し掛けたりで顔見知りの部類となっているので、いくらスラム生まれの薄汚い溝鼠とは言え、エレノアも警戒心は抱いていなかった。
「一人だけかい?」
「ううん、ブルーネージュのおばちゃんもいっしょ。あたしはここでまってろって。おかあさんとおとなのたいせつなはなしがあるから、あたしはいたらダメなんだって」
 エレノアの言葉どおり、廊下の先にはブルーネージュの姿があった。だが、そのブルーネージュは病院の通路の壁に背もたれ、落ち込んでいる。待合室近くにあった案内板に記されていた「7901〜7910」の標示と、部屋にある7907と記された札を見ると、ブルーネージュが佇んでいる目の前の部屋がアストライアーの病室だった。部屋のドアは閉められている。
 戦場や極悪環境下に居たわけでもないのに、ブルーネージュの顔からは憔悴しきったように生気が消えていた。
「おい……」
 声をかけつつ歩きながら近づいていくが、ブルーネージュは全く気付いていない。気付いているのかも知れないが、いずれにせよブルーネージュからの反応はない。流石にストリートエネミーも彼女の落ち込みようを感じ取れた。
 そもそもストリートエネミーも、アストライアーが直美との決闘に敗れたのは現場で知った所だし、彼自身も極貧のスラム街で過ごした幼き日のたった一人の友人と生き別れになった過去を持っている。新米時代からの股肱の友に端を発するブルーネージュの悲しみは、分からないわけではない。
 しかも、ひょっとしたらまた会えるかも知れない自分の友と違い、アストライアーは瀕死なのである。詳細は不明ながらも、相当酷くやられたとはストリートエネミーも現場にて聞いていた。
「おい、お前まで死に体になっちまってどうすんだ!?」
 ストリートエネミーが声を張り上げ、らしくもない状態のブルーネージュもやっと声に応じて顔を上げた。
 だが、その反応は鈍い。普通なら怪しむ所であっただろうが、今は状況が状況である。
「お姉さまは!?」
「アスの奴はどうなってんだ?」
 2人で聞いてはみたものの、ブルーネージュは再び俯き、力なく床に腰を下ろすと、体育座りの姿勢のまま黙り込んでしまった。
 もはやアストライアーどころかブルーネージュまで重体であった。このまま病院に居させたら、ブルーネージュの精神的容態は更に悪化してしまう事をストリートエネミーは危惧し始めた。
「おいおい何なんだよ一体!? と言うかそもそもだ、あんな小さいのひとり放置して何考えてんだ!?」
「あんな……」
「何なんだよ、はっきり言え!」
 子供を放置している上に煮え切らない態度を取るだけのブルーネージュに、ストリートエネミーは段々怒りを覚えていた。
「あんな姿はとてもエレノアに見せられん……」
 ブルーネージュの声は震え、顔は苦悩に歪んでいた。そして、そのまま黙りこくってしまった。
「あんまり深く考え込んでたら身体に毒だよ?」
「そうだぜ。一度帰ってメシ喰って、着替えなり何なりでもしてるうちに状態が好転してるかも知れないぜ?」
「……エレノアに何と話せば良い?」
 2人で一度帰宅を促すが、ブルーネージュは俯いたまま微動だにしない。いよいよ以って精神的損害が大き過ぎるだろう事は、決して頭の出来がいいとは言えない2人にも分かって来た。
 当のエレノアは何も知らされていないまま、待合室で子供向けの絵本を読み耽っていた。ブルーネージュからの言い付けを守ってくれているのだ。
「おい、少し黙れ……何だ、お前等か」
 病室のドアが不意に開き、病室からトラファルガーが現れた。彼もまた、ストリートエネミーと同様、決闘を見届け終えたその足で病院に急行したのだ。ただし、ミルキーウェイを呼びに行ったストリートエネミーと違い、トラファルガーは決闘後に直行して一足先に到着していたのだった。
「……貴方達もアストライアー嬢の見舞いですか?」
 トラファルガーの後ろにはテラの姿もあった。一応なと、ストリートエネミーは頷くように返す。
「そうですか……ですが、あの状態をお目にかけるのは好ましいとは……」
「……そんなに酷いの?」
 ミルキーウェイが訊ねた。
「最早酷いなんてレベルではない……不謹慎で済まないが、あの様ではもう死んでいるも同然だな」
「どうしても入る場合は覚悟した方が宜しいですよ」
 嘆くようなトラファルガーの後ろでは見なければ良かったとテラが呻いていた。テラからは溜息が微かに漏れ、表情に蔭りが生じていた。眉間にも皺が寄っている。
「……私は用事があるので、此処でお暇させて頂きます」
 テラはそう言うと、早足でその場を去って行った。
「ねえ、死んだも同然って……」
 ミルキーウェイが恐る恐る問いかけてくるが、ストリートエネミーは何も答えられなかった。
 直美に敗れたと言う話は聞いているものの、アリーナの外にて警護を担当していたので、ストリートエネミーにはそれ以上の状態が分からず、一体どういう状態になっているのかは全く以って見当がつかなかった。両手足がなくなっているのか、あるいは原形を留めたままの状態で包帯に巻かれているのだろうか。
「兎に角、確かめねぇと……」
「止めておいた方がいいかも分からんぞ……?」
 トラファルガーの忠告を無視し、ストリートエネミーは扉をノックしてからドアを開け、中の様子を窺った。
「アストライアーさんのお家族ですか?」
 病室には、白衣に身を包んだ中年の医者と、見るからに看護婦ではないと分かる科学者風の女性がいた。2人はシリンダーの前に立っており、病室内のベッドには誰も寝かされてはいない。
「友達というか……同僚だな」
 とりあえずアストライアーの関係者であると伝え、入室しようとするが、医者に制止されてしまった。
「アストライアーが此処に搬送された、って聞いたんだが?」
「はい。ですが今はとてもお見せ出来るような状態では……」
「お願い! 容態を知りたいの!」
 ミルキーウェイはそう訴えると、医者の脇をすり抜け、科学者風の女性が向き合っているシリンダーの前に躍り出た。
 そして、あまりの事に愕然となり、目を背けた。
「そんな……」
「嘘だろ……」
 遅れて入室してきたストリートエネミーも目を疑い、そしてシリンダーから目を背けた。犯罪と暴力沙汰の絶えぬ世界に身をやつしていた彼でも、シリンダーの中は見るに耐えなかった。
「お気持ちは分かります。ですが……」
 シリンダーの側面には「マナ=アストライアー」と記された札が貼り付けられ、ここに搬送されたと言う情報が正しかった事を暗に示している。しかし、肝心のアストライアーの様子は無残そのもので、嘗ての面影は微塵も残っていない。
 まず、端麗な部類に当るであろうその顔が見るも無残に潰れ、部分的に焼け焦げて内部組織が生身・機械部分問わず剥き出しの状態になっていた。眼は両方とも瞼から焼け、右目に至ってはボイルされた魚の如く白濁している。左の頬は完全に消失しており、口の中が見えているが、それさえも歯が何本も砕けている。その、損傷の激しい生身部分から見える機械部品には、生命維持装置から伸ばされているケーブルやチューブが接続されていた。
 一糸纏わぬ身体にも、随所に火傷や外科手術の跡等、数に傷が付けられており、機械化した胸郭も一部が破損して内部機構が露出している。ヴィエルジュが滅茶苦茶に破壊された際、拉げたコックピットブロックに挟まれて潰れたらしく、右腕は上腕から下がなくなっていた。
 そして極め付けとして、人間で言う所のウェストやヘソの部分から下が、そっくりそのまま無くなっていたのである。シリンダーを満たす液の循環に合わせ、露出して既に機能を失っていた臓器――アストライアー本来のもの、人工物を問わず――が揺られて動いていた。
 テラが言っていた事は間違いではなかった。目の前にあるのは最早、アストライアーだと言われなければ誰なのかさえ分からないほどに破壊された肉体でしかなく、常人なら死んでいない方がおかしい状態であった。
 しかし、脳波計は微弱ながら反応を示しており、アストライアーの脳だけは、この状態にあってなお生存している事を暗に伝えている。しかしながら、それすらもいまや頭脳として正常に機能しているのかどうか、全く分からない。
「確かにこれじゃエレノアには見せられねぇわな……」
 ストリートエネミーは納得した。
「生きているのか……?」
「脳は生きています。しかし身体の方は……少なくとも、サイボーグとしてはもう機能していません」
 医者が説明し終えたタイミングで、ドアが開かれて白衣に身を包んだアーサーが姿を現した。白衣の下にパイロットスーツを着込んでいる所を指摘する者はいなかった。
「ドクター、遅くなった」
 アーサーはそこで、部屋に入っていた同業者達の姿に気がついた。
「……あんた達は、あの時の」
 ストリートエネミーの中では相変わらず“嫌味なヤロー”に分類されるアーサーの声だが、しかし今は個人的感情由来での争いをしている場合ではないと分かっていたので、殴ってやろうかと言う考えは抑え込む。
「なぁ、アスはどうなんだ……?」
 アーサーと医者は顔を見合わせ、視線で現状の容態を言うべきかを同意した上でストリートエネミーに向いた。
「どうもこうもない。正直、酷い――百歩譲ったとしても、何でこの状態で死んでないのかが不思議だよ。それ以外に適切な言葉はないね」
 アーサーの話では、もはや独力での生存は不可能であり、特殊なリンゲル液に満たしたシリンダーに入れ、生命維持装置に繋ぐ事で辛うじて生命を繋ぎ止めている状態だった。このままでは最早これ以上の回復は望めず、脳と中枢神経とコアを新たなサイボーグボディに移植するしか、助かる道はないとの事である。
 だが、新たなサイボーグボディの存在もアストライアー生存の希望と呼べるには心許なかった。
 まず、アストライアーの生命自体が大変危険な状態であり、しかもそれを乗り切ったとしても脳や中枢神経には何かしらの障害が出るであろう可能性が極めて高い事にあった。
 更に、新しい身体に、アストライアーの脳神経が果たして適応できるかどうかと言う問題もあった。仮に適応出来なかった場合、アストライアーは唯一残るであろう脳と中枢神経に起きる拒否反応によって死ぬ。何しろ脳と中枢神経と言う、生命活動にダイレクトに必要な部分が他の生体組織による保護や補助・仲介もないまま、全く別の身体に移植されるのだから。
 アーサーもその当りは理解しており、ナノマシンと当人の細胞から培養した細胞で作り出した生体素材を仲介材として、神経などの組織を接続させている。やがてナノマシンは増殖し、神経と身体を接続維持するようになれば身体を動かす上で問題はなく、実際にアーサーも多くのレイヴン達のサイボーグ化には成功している。
 ただ、これとて技術的に完成しているとは言えず、不安定な部分がまだ多い。特にアストライアーのような「脳と中枢神経だけになってしまった」人間を移植するとなると、ナノマシンの働き如何では重篤な生命危機や、術後に障害が出る可能性があった。
 それどころか、移植手術前後に死ぬ可能性さえ否定出来ない有様である。しかも、万一それを突破したとしても、撃破された際、脳に受けていたダメージが原因で四肢の麻痺や半身不随となる可能性は窮めて高かった。
「ドクター……お姉さまはレイヴンに復帰出来る?」
 ミルキーウェイとしては、また以前のように剣を振るう勇猛果敢な女傑としてのアストライアーが戻ってくる事を期待していた。レイヴンデビューの時期の関係から、ミルキーウェイは若いながらも冷徹さを含む強い女性であり続けたこの女剣豪に、同性として憧憬の念を抱いていただけに、きっと復活してくれるに違いない――そう思っていた。何しろ、レイヤード地下遺跡でイレギュラーに撃破され、半死半生の深手を負いながらも見事に復活してのけたのだから。だから、同じ様にして復活してくるだろうとも思っていた。
 だが、アーサーは首を横に振った。
「中枢神経がダメージを受けているから……復活してもレイヴン復帰は出来ないだろう。普通に歩く事ぐらいは出来たとしても……」
 アーサーが返した言葉は非情そのものだった。
「と言うか、そもそも、現状じゃ移植手術をしたとしても、マトモに動けるのかどうかさえ怪しい。それどころか……」
「なんでよ!!」
 アーサーが表情を渋らせた事が何を意味するのか、ミルキーウェイにはすぐに分かった。
「医者なんでしょ!? 脳の異常ぐらいどうにかならないの!?」
 胸倉を掴み、涙目になってアーサーを揺さぶって訴えるミルキーウェイだったが、しかし答えは好転しない。
「脳の異常は手術の無効性が確認されているものも多いし、それを治そうとして更に事態が悪化してしまう可能性も高い。ナノマシンによる脳神経の強化でさえ、人によって効果ムラが出易く安定していないのに……」
 アーサーは強化人間関連の技術に関わっているがために医療機関及びレイヴン業界に出入りしているとは言え、あくまでも科学者であり、本業の医者という訳ではない。強化人間手術の際、ナノマシンを介して被験者の脳を弄っていたとは言え、それはあくまでも研究の段階に過ぎず、本格的な脳外科の分野に関しては技術不足であり、知識不足でもあった。
 医療関連技術者として、人体の構造は言うに及ばず、外科手術やナノマシン投与による怪我人の治療に関しては既に確かな所であるアーサーだが、しかし一度破損した脳を直すとなると怪しい所であった。
 そして、それを誰よりも自覚しているのがアーサー自身に他ならない。医療技術者としてアストライアーは助けたい、しかし今ここで彼女に手を加えようとすれば、一体どうなってしまうのか分からない。
 強化人間となった身分とは言え、ミルキーウェイの気持ちが分からなくはないだけに、倒れたレディ・ブレーダーに何も出来ないのは歯痒い限りであり、辛い所だった。
「そんなに酷いのか?」
 ストリートエネミーの言葉に、アーサーは頷いた。
「あまり言いたくはないんだが……」
「言ってくれ」
 部屋に入って来たブルーネージュが殺気を込める様な視線を伴って睨んで来たので、折れる形となったアーサーは渋々ながら口にした。
「このままだと、二度と朝日は拝めないね。しかも、もし意識が戻ったとしても重度の障害が残る危険性が高い」
 レイヴンの全員が絶句した。
「申し訳ないけど……良い話は一つも出来ないな」
 余りにも現実離れした、しかし残酷過ぎる現実を誰も呑み込めなかった。
「ちくしょう……!」
 ストリートエネミーが悪態をついた。同じ気持ちだろうと、さすがに今回ばかりはアーサーも毒を吐く気はなかった。
 だが、その悪態が意味するものは、他の2人とは違っていた。
 ブルーネージュとミルキーウェイは、あくまでもアストライアーに対する好意や敬意から悲しんでいる所だったのだが、ストリートエネミーは今、喜びと悲しみと安堵とが内面において無秩序に入り乱れていた。
 彼にとって、目の前で死につつある女剣豪レイヴンは戦友であり、商売敵であり、恐るべき相手であった。同じ依頼を受けながら、彼が稼いだ以上の報酬を懐に収めた事も珍しくはないし、獲物を横取りされた事もある。アリーナで敗北した事も脳裏に焼き付いている。
 貧しかった己の境遇を嫌い、窃盗や暴力に身を染め、依頼を報酬の額だけで決めて成り上がって来たストリートエネミーにとって、アストライアーは本来憎くて仕方がない存在であった。
 だが彼が、そのアストライアーと共に戦い、生還し、時に命を助けられたのもまた事実。しかも彼女は、それを、我が身を焦がし尽くさんばかりの、損得抜きの復讐感情にのみ従い、血反吐を吐きながら腕を上げ、実行して来たのだ。出世欲で成り上がって来た自分とは訳が違っていた。なぜ報酬に因らないのにそれが出来るんだと妬んだ事もあったと、ストリートエネミーは思い出した。
 同時に、BBへの憎悪に導かれる形ですべてを投げ打ち、エレノアの為に自身のすべてを捧ごうとしていたその姿勢は、清々しくもあり、羨ましくもあった。そして、このままではエレノアは孤児に逆戻りを余儀無くされてしまう。
 それらを分かっていたがために、アストライアーが死ぬのを素直に喜べなかった。そして、そんな浅はかな自分が情けなく、腹立たしく、苛立たしかった。
 ストリートエネミーは病室から出ると、良心の呵責から逃れるかのように、近くの柱に握り拳を打ちつけた。そしてその姿勢のままズルズルと崩れていき、「クソッ」と呟くと、ブルーネージュがそうだったように、壁に背をつけてうなだれた。
 トラファルガーはそんな一同に、次いで病室に目をやってから、溜息をついてどこかへと歩み去って行った。


「やはり死に掛けているのか……」
 アストライアーが死んだも同然の惨状を呈している事を認めない者は、トレーネシティ郊外の小さなバーの一角にも、エースと言う形で存在していた。
 そのエースを取り巻いているのは、秘書のアディリスと、偶然ながら集まっていた同志であるベクター、ブリッツスター、ハンターフライである。少し前までセントアーク病院に居たテラは、彼等と合流してすぐに、アストライアーの容態に関する情報を、自分が把握している限りで洗いざらい吐き出していた。
 エースとしてはアストライアーの所に向かう心算ではいるのだが、いかんせん搬送先が分からないので安易に動けない状態だった。だが幸運な事にテラから搬送先の情報が得られ、詳細を聞くためにエース一行はバーで合流する事となったのである。
「なんて事だ……折角生きる目的があったってのにな」
「まあ、レディ・ブレーダーらしい最期かも知れないが……」
 ベクターが呟く隣で、ハンターフライは以前自分を試合を演じたアストライアーの勇姿を思い返していた。
「死んだみたいに言わない方が良いと思うけどね」
 ブリッツスターが呟くが、彼等の話はエースの耳に届いていない。届いていたとしても、テラに彼是訊くのに意識が傾いていて、顧みる事はなかったであろう。
「……アストライアーはまだセントアーク病院に居るのか?」
「はい。恐らく、死ぬまであのままかと……」
「どれぐらいの猶予がある?」
 それが何を意味しているのか、テラはすぐに察して取り、恐る恐るの体で答えた。
「……今日一日持つかどうか」
 ただし、これはあくまでも医療技術者達の見解であり、場合によってはそれが数秒後になってしまう可能性もあるとテラは念を押した。
 エースは分かったとだけ返すと、次いでアディリスに視線を転じた。
「セントアーク病院へ。一刻を争う」
「分かりました」
 アディリスは車のキーを探し出すと、急ぎ地下駐車場へと向かった。
「エース殿!」
 アディリスの後を追おうとしたエースだが、テラが声を張り上げた事で不意に足が止まり、反射的に振り返る。
「セントアーク病院に行って何をなさるおつもりで?」
 医療関係者でもないのに行った所で最早どうしようもないとテラは思ったのだが、エースは気にも留めない。
「アストライアーを強化人間にした科学者も居るのだな?」
「はい」
 テラの記憶が確かなら、アーサーはナノマシンによる治療のためにセントアーク病院に呼ばれ、以後缶詰になっている筈であった。
「しかしどうするおつもりで?」
「アルタイルからの頼みでな……」
 エースはそれ以上は口を噤んだが、テラとしてはそれだけ聞けば十分だった。
「……テラ、お前も来てくれ。その科学者に紹介して欲しい」
「仰せのままに」
 アストライアーとテラ、双方を強化人間にした科学者は同一人物だと言う事は、顔こそ知らぬもののエースも知る所であった。故に彼は、テラを伴うと足早に地下駐車場へと向かった。
 少し留守にする、と戦友達に言い残して。


 アストライアーの病室の前で、ブルーネージュとストリートエネミー、ミルキーウェイの3人が項垂れていた。あれから、既に死体同然となったアストライアーは何の処置も施されずに生命維持装置に接続されたまま、いつ消えるとも分からない生命を繋ぎ止められている。
「新たなサイボーグボディに移植して生き長らえさせるか、それとも……あんた達でそれを考えてくれ」
 アーサーが数分前に告げた事が、3人の胸中で渦巻いている。
 アストライアーに対する姿勢も印象も異なる3人が数分前に話し合った結果では、一応新たなボディに移植する方向で話は進んでいた。しかし、既に呼吸器系は完全に死んでおり、独力での回復はおろか、生存すら怪しい所にある。
 まだ、3人――特に女2名には信じられない事だった。
 つい先程まで、レディ・ブレーダーは勇猛果敢にイレギュラーに挑んでいたのだ。
 さらに、つい先日まではエレノアを伴ってガレージに現れ、本当の親子のように中睦まじい様子を見せている。
 そんな彼女が、今は下半身を失い、残された上半身も滅茶苦茶にされて死の淵を文字通り漂っている。勿論、まだ何も知らされていないまま待合室にて待機しているエレノアの事も心配ではあったが、いつ死ぬか分からぬアストライアーに思考を奪われてしまう。
 既に味わっている事であったが、ミルキーウェイとブルーネージュにはショックが大き過ぎてどうしたら良いのか分からず、ストリートエネミーも掛ける言葉が見つからない。立場上、依頼さえ無ければ24時間いつでも傍にいる事は出来るが、3人揃って自分達の存在が何のプラスにもならない事を自覚してしまっている。
 第一、彼らは医療に携わる人種ではない。人を殺し、物を壊す事にかけては確かなものがあるが、所詮その程度。消え往く生命を救う事など出来る筈がない。現状における自分の無力さが、痛いほどに思い知れる。
 しかも、そんな事を考えている間にもアストライアーの生命の残滓は確実に失われていく。しかし、レイヴン達はどうする事も出来ぬまま、うなだれるばかりであった。
 そんな御面相ばかりなので、目の前を男が過ぎった事に対して、全く関心を払わなかった。ブルーネージュが何かと思ったときには、2人の後姿は彼女を一顧だにする事無くドアを潜っていた。そのうち、後ろに見えた方はカーキ色のジャケットに白い頭髪と言う姿だった。
 その姿がテラである事に、ブルーネージュはすぐに気がついた。
「どうしたんだ?」
「アストライアーは?」
 何故また戻ってきたのだろうか――そんな事を考えている間にもアーサーは上ずったような声を上げている。
「どう言う風の吹き回しでエースが此処に来たんだ?」
 エースと言えば、レイヤード第3アリーナで、バルバロッサやアキラとトップを争っていたと言うアレかと一瞬思ったブルーネージュだったが、まさかそんな事はあるまいと割り切る。恐らく、どこかの団体の主将格なので、彼はエースと呼ばれているに過ぎないのだろう。
「……予備のボディはあるか?」
「何でそれを聞くんだ?」
「ドクター、今はそれどころではないのでは?」
「そうだ、アルタイルの娘が死んでる時に悠長に話などしてる暇は無い筈だ」
 アルタイルの娘――確か、以前アストライアーをそう呼んでいたなとストリートエネミーが思ったときには、彼はよろよろと立ち上がって病室の様子をドアから窺い出した。
 ブルーネージュも暫くしてその姿に気付き、やはり病室を覗き込む。しかしエースの声は、そんな事をせずとも廊下に居る面々まで届いている。
「もう一度だけ聞く。予備のボディか何かは有るのか?」
「僕の研究所に何体か同型のサイボーグ用ボディはある。だがそれを聞いてどうするんだ?」
 エースは当然のように言い放った。
「助かって貰いたいに決まっているからだ」
 レイヴン全員は耳を疑った。
 元々エースは、強敵の到来を夢見ている、禁欲的で気高き武人と言うパブリック・イメージがあり、それゆえイレギュラーであるアキラや直美、同じトップの地位を争うバルバロッサなど、ライバル達に強い関心を抱いているものの、それはあくまでも彼等が図抜けた存在であるが故の話。まさか、一介のレイヴンに過ぎないであろうアストライアーに関心を払う事などないだろうと、この場に居合わせたメンバーは思っていなかったのだ。
 そして、それはアーサーも同じ事であっただけに、次の言葉が中々出て来なかった。
「……アストライアーは助けられるのか? 新たなボディへの移植は出来るのか?」
「あ、ああ、出来る。僕は手が空かないが、必要ならスタッフに連絡してすぐにでも可能だ。だが――」
「何か問題でも有るのか?」
 エースは気圧されっぱなしのアーサーを睨んだ。
「移植してもその後は保障出来ないぞ? レイヴン復帰が出来るかどうかどころか、マトモに動けるようになるかも怪しいんだ」
「構わん」
 言えば適うだろうとばかりに、エースは放った。
「……この際、生命だけは助けてやってくれ」
「エースの言う事は山々なんだが、問題は他の御面々がどう言うかなんだよ。もっともアストライアーは天涯孤独だから、この場合はあの面々になるけど」
 アーサーは、視線でブルーネージュやストリートエネミー達が集まっている区画を示した。
「それに、今回は大手術になる。しかも、二度と以前の身体には戻れないばかりか、一体どうなるか分からないんだぞ?」
 しかも、その苦労が徒労に終わり、半身不随でアストライアーに更なる絶望をもたらすばかりか、無事に終えても植物人間状態になってしまう可能性すら考えられた。
 彼女の戦友達も、恐らくはそれを感じているだろう。
 そして、ならばと言う事で安楽死も視野に入れているかも知れないとアーサーは考えていた。
 レイヤードでは末期治療に伴う苦しみに晒されてでも生き続けるぐらいならばと、安楽死も選択して穏やかに逝くと言う選択肢も認められている。地底に閉ざされた都市は有限であり、そこで生活出来るスペースも限られているため、人口調整の一環として管理者が許可しているのだ。
 しかし、こうした生命倫理、特に個人の尊厳に関わる領域ともなれば常に賛否の嵐があり、アーサーも安楽死に対してはあまり良い目をしていない。形はどうあれど、生き続けてナンボと言う価値観が彼にあるためだ。身体障害者の支援を最終目的として強化人間技術に関与しているのも、その為である。
 アーサーとしては、安楽死も選択肢の一つとは考えているが、彼本人の心情的には実行したくない所であった。とは言うものの、私情と戦友達の意向は必ずしも一致しない。意見は聞くべきであるし、もし戦友達が安楽死を選択したら、従わなくてはならない。
「構わない」
 アーサーの懸念を振り払うが如く言い放ったのはブルーネージュだった。
「色々考えたが……他に選択の余地は無さそうだ。結局助からないかも知れないが……」
 言葉が濁りかけていた事に気がつき、是正する。
「それでも、ただゆっくりと死んで行くのはマナ――失礼、アストライアーの為にはならないと思う。そんな死に方は、彼女とて望んではいない筈だ……異論は無いな?」
 ブルーネージュは居合わせたストリートエネミーと、ついでミルキーウェイに目をやった。
「……貴女達にとっては商売敵かも知れんが、私にとってはかけがえのない戦友だし、継母としてエレノアを守っている立場だ。アストライアーの手術に文句があるなら言え。アリーナ未参戦だが決闘には応じてやろう」
「そのつもりはねぇ」
 ストリートエネミーが低い声ながらも返して来た。
「……大体、今となっちゃエレノア残して死なせるわけにもいかねぇだろ」
 待合室に向けてストリートエネミーが視線で促すが、テラは何もしなかった。そこにエレノアが待機しているであろう事は容易に想像出来たからだ。
「お姉さまを……助けてあげて」
 それが、ミルキーウェイが現状で言える唯一の言葉だった。ここでもしストリートエネミーの肩を持てば、ブルーネージュから何を言われるか分からない。最悪、決闘を吹っかけられる可能性だって考えられた。
 ブルーネージュの腕前はミルキーウェイにとっては未知数ではあるが、アストライアーと長らく組んで戦って来た仲だけに、技量の面に置いて確かな所があるのは薄々感じている。ゆえに、彼女と戦うのは得策ではないと見ていた。
「……分かった。全力を尽くそう」
 戦友達の意思をしかと認め、すぐさまアーサーは携帯端末を取り出し、研究所のアドレスを入力した。
「研究所に連絡してスタッフとサイボーグボディをここまで搬送させる。手術室が使えるかどうかも確認しなくては。少し待っててくれ」
 手術室が開いていればいいのだがと呟きながら、アーサーは早足で病室を去った。


 エースが去って暫くの後、ハンターフライも所用と称してその場を去り、ブリッツスターと酒を酌み交わしていたベクターだったが、ぼんやりとした頭ながらもアディリスが近くに残っていた事に気がついた。
「……ミス・アディリス」
「いかがなさいましたか、ベクター様」
 この際だからと、ベクターは感じていた疑問をぶつけてみる。
「……エースは何故アストライアーに拘っていたのだろうか?」
「何故私に尋ねるのです?」
 質問に質問を返されるとは思っておらず、かつ若干苛立ちを感じたベクターだったが、確かに同志とは言え他人がいきなりエースの身内に、しかも当人が一番疑問に思っている事を吹っかけても当惑するだけだなと自省、この場は下手に甘んじる事とする。
「長年、エースに付き従っていた立場のあんたなら分かるかも知れない、と思ってな……どうも、アストライアーに拘る様子が解せないんだ」
「なるほど、そうで有られたのですね」
 確かに、アディリスは外見こそ少女であるが、実際はエースの従者として、主に出る事こそないながらも、長年彼を支えていた立場である。少女なのはあくまでも外見だけだ。
「……エースがアルタイル様の御友人であられた事はご存知ですよね?」
「ああ。何度か依頼で共闘したのを見た事がある。アリーナで戦いたいとも言っていたな」
 アルタイルがアストライアーの父で、彼の搭乗ACアクィラのアセンブリがヴィエルジュの原型となった事は、既にベテランの域に差し掛かっていたベクターには良く分かる事だった。そして彼が、その卓越した操縦技術と格闘スキルを以って勝ち上がった事も知っている。
 しかし、アルタイル自身はその腕に奢らなかったし、性格的に何か問題を起こすような男にも思えなかった。アリーナに無駄な秩序は不要という価値観も持っており、それ故エースとは心情的に共感している事もベクターは分かっており、その為良き友人にしてライバルであり続けられたと解釈している。
「だからってその娘にまで関心を払わんでも良いとは思うんだよな。俺の勝手な意見で悪いが」
「ところがそうでもないのです」
 ベクターの顔色が変わった。
「御友人であるからこそ、と言う事もあるのですよ」
「そんなもんかなあ」
 まさにその通りとアディリスが頷く。
「アルタイル様はしばしば、娘に何かあった時は頼むとエース達に仰っていました」
 そこまで聞けばベクターには十分だった。そして、それ以上の詮索と介入も無意味であると決め込んだ。大体、死んだ友人の頼みとあっては仕方ない。レイヴンとしてどうなんだ後ろ指を指されそうな気がしてならないが、人間的に言えば間違いではあるまいとの認識が彼にあるからだ。
 しかし、それでも疑問はある。
「うん? “達”?」
 亡き戦友がなぜか複数形になっていた事を、ベクターは聞き逃さなかった。
「はい。エース以外にも、オライオル様にも頼んでいました。もっともオライオル様はレイヴンからミラージュの軍人へと転身されましたが……」
「何故に転身?」
「……アストライアー様の蛮行を見て、居たたまれなくなってしまったそうです」
 この場にアストライアーが居たならば、オライオルがミラージュAC部隊長ラルフ=グローサーと同一人物である事はすぐに理解し、またそれを話していた事だろう。
 だが、嘗てアストライアーを鍛えた恩師は、教え子が「復讐」を面目にサイボーグとなり、血で血を洗うレイヴン同士の争いの中で人の心を捨て去った事、結果としてそれを助長してしまった事に引け目を感じ、レイヴンを引退しミラージュに就職してしまった。
「で、そのアストライアーと戦いたいってワケ?」
 ベクターと入れ替わるようにしてブリッツスターが聞いてきた。彼女もまた、死した友人から頼まれていた娘に刃を向けるという行為が理解できないと言うのだ。幾ら人を捨てた強化人間とは言え。
「……流石にそこまでは分かりません。腕に注目し、対戦を待ち望んでいた事は明らかですが、彼女に対する真意に関しては、私も存じていません」
 アディリスも理由は聞いていないと言う。
「やっぱり、分からないものは分からないか」
 溜息をつくブリッツスター。
「仕方あるまい。後でエースに直接訊けば良い事だ」
 ベクターはその隣で立ち尽くし、やはり溜息をついた。
「その時には、全てが手遅れになってそうな気がするがな。そうでない事を祈るばかりだ」


「……吉報だよ」
 ベクターとアディリスが言葉を交わしていたちょうどその頃、苛立ち気味の一同の前に、アーサーが早足で戻って来た。
「今、女性用のサイボーグボディが届いた。手術室も既に開けて貰えたから、すぐにでも移植手術可能だ」
 皆の顔からは辛気臭さが消え、一筋ながら希望が戻った。エースでさえ、ほんの微かにではあったが口元が緩んだほどだった。
「では、すぐに掛かってくれ」
「分かった」
 成功を祈っててくれとエースに返すと、アーサーはアストライアーの病室に駆け込み、スタッフに命じた。
「アストライアーを第2手術室に! 一刻を争う!」
 スタッフ達が慌しくなり、アストライアーの病室で物音が続いた。シリンダーを外しに掛かっているのだろうかと一同は察した。
「ん? おかあさんになにかあったの?」
 待合室から顔を出すエレノアだったが、ストリートエネミーの手で目を隠された。
「エレノア、見ちゃダメだぞ」
 大人でさえ見たらヤバイ有様だけに、子供には絶対見せられない一心であった。そんな成り上がりの小悪党の配慮のうちに、アストライアーはシリンダー諸共大急ぎで病室より搬出された。
「なに? どうしたの?」
「ごめんな。ちょっと見せられないんだ」
 シリンダーがエレベーターのドアの向こうに消え、もうアストライアーの惨たらしい姿は見えないだろうと判断してストリートエネミーはエレノアから手をどけた。
「あの、手術が終わりましたら連絡しますので……」
「分かった。ここの待合室で待つ事にするよ」
 一人残っていた看護婦とブルーネージュが言葉を交わす横で、ミルキーウェイとストリートエネミーも話し合っていた。
「どうする? ここで待つ?」
「ここは待合室行きだな」
 帰るのは気まずいものがあるとストリートエネミーは言う。
「その方が無難だね。帰ったとしたら、その事を誰かがお姉さまにバラしちゃうかも知れないし」
「当たり前だ。薄情者だと後ろ指を指された挙句、喉元にムーンライト突きつけられるのはゴメンだからな」
 ストリートエネミーとミルキーウェイの会話が丸聞こえで、そう言うのはもっと聞こえない様に話せと呆れつつ、テラもエースに耳打ちする。
「エース殿、私はアストライアー嬢の御友人方と共に此処に残ります」
「分かった。私は一度戻るとしよう」
 何かあったらすぐに頼むと言い残し、エースはエレベーターに乗り込んだ。彼を載せたエレベーターのドアが閉まると、すぐに一同は待合室へと入って行った。ただ、ストリートエネミーだけは部屋の入り口近くで足を止めたまま。
「おい、ブルーネージュ」
 呼び止められて不意に足が止まる。
「お前はエレノアを連れて戻った方がいい。待合室に缶詰ってのは不憫な気がしてならねぇ」
「そうか……済まんな」
「良いから良いから、さっさと行け」
 やはりこの男、依頼を報酬の額だけで決めたり悪事に身を染めて成り上がって来た事でドブネズミ扱いされているとは言え、本当は言うほど悪人ではないのではなかろうか――そんな事を考えながら、ブルーネージュは一度エレノアを連れて一度帰宅する事にし、待合室を後にした。
「終了の連絡は私からしますので」
「ああ、頼むよ」
 テラに後の連絡を任せ、ブルーネージュはエレノアと共にエレベーターの前に移動した。ストリートエネミーが、その姿を無言で見送る。
 もしここでアストライアーが手術に失敗して死ねば、ストリートエネミーとしてはライバルが減った事を喜ぶ理がある。だが、そうなればそうなったで残されたエレノアはどうなるのか。そして、そんな幼女を抱えるアストライアーの死を、笑って歓迎出来る境遇にあるのか――スラム育ちから成り上がるべく、形振り構わず、そして幾多の悪事に身を染めてきたストリートエネミーであったが、女子供に手を出したり巻き込まないと言う彼のポリシーが、そしてアウトロー上がりながらも人間として決して譲らぬ最後の一線であるそれが、彼の心を苛んでいた。
 とは言え、アストライアーが目の上の瘤である事は否定出来ない。実際、報酬の額が期待出来るミラージュからの依頼となると大抵彼女に出くわして戦果を持って行かれたり、取り分を減らされたり、そもそも良い依頼自体を優先的に回されて自分は依頼にありつけず、なんて事もあった。とは言え以前の実働部隊襲撃の事もあり、助太刀してくれるならば心強い存在である事にも異論はない。
 アストライアー自身もまた、エレノアを伴うようになった事で、人間的に一皮剥けた事をストリートエネミーは察している。依頼では相変わらず冷徹だが、ACから降りるとそうとも限らなくなっている。そして、そんなアストライアーに一目置く者は自分の周囲にも多い。ミルキーウェイがその筆頭である事は疑う余地がない。
 そんな、すぐ傍に居る強大なライバルとその人間模様を考えるに、彼女が居なくなる事はまず良い事ではない。しかし、自身の事を考えると素直に喜べず、かと言ってそれを表沙汰にするのも最善とは思えなかった。
 ストリートエネミーにとって、アストライアーは非常に複雑で、かつ微妙で、色々な点で厄介な存在となっていたのである。
「チッ、死ねば良いと思ったくせに死なれたら困ると思ったり、ガキに手間を割いちまったり……俺もつくづく甘いな」
 葛藤を振り切るように、ストリートエネミーが自傷気味な、誰にも聞こえない小声で呟きながら入室したのを最後に、待合室のドアは静かに閉じられた。
 程なくしてエレベーターが到着し、ブルーネージュとエレノアも帰途に着いた。ストリートエネミーの胸中など知る芳もないままに。
16/09/15 13:09更新 / ラインガイスト
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■作者メッセージ
 気がつけば、AC3LBもこれで第40話にまで達してしまいました。
 此処まで続けられた事を誇るべきなのか、あるいは此処まで続いたのに物語のゴールに達していない事を恥じるべきなのか、難しい所ですが……。

 この話は当初、アストライアーが死へと向かう為の被撃破と言う事を先行して書いていたものです。
 最初はこの後アストライアーが手術の末何とか一命を取り留めるも、半身不随になりレイヴンとして戦う事は不可能になり引退、さらに既に死んでいたエレノアたんの敵も直美さんにやられて復讐を果たす事もできず、最後は自害と言うプロットで、そのつもりで投稿すらもしていました。
 しかし、アストライアーを殺すに殺せなくなった為、結局プロットを全て破棄。同時に投稿していたものも削除の上で全部書き直しました(期待していた方は本当に申し訳ないです)。
 と言っても、この部分は死ぬ事自体なくなったエレノアたんを追加した位で、後はそのままです。

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まろやか投稿小説 Ver1.50