連載小説
[TOP][目次]
#19.アンダーグラウンド
 謀殺と巨大兵器から辛くも逃げ延びたアストライアーは、帰ってきて早々、予想通りサイラスからの罵詈雑言を浴びる事になった。
 だが彼女は、そんな整備主任を無視し、ガレージにヴィエルジュを預け、バイクを飛ばして帰宅していた。
 帰宅して早々、彼女は休む間もなく荷造りにかかった。
 外泊用スーツケースとバックパックに、必要最低限の衣類とラップトップ型パソコン、その他の私物を急ぎ押し込み、分解式ショットガンのパーツをボディスーツの随所に忍ばせる。12ゲージショットシェルもウェストポーチや弾薬帯に押し込む。常備品である父親の形見・黒百合以外にも、拳銃やナイフを数本、同様にしてコートやスーツに忍ばせる。職業柄、遠征の際の荷造りには慣れていたため、これらの作業は僅か15分程度で完了した。
 こうして暗殺者のような装備を自らに施すと、即座にドアを施錠し、逃げる様にしてマンションから飛び出した。これもBBによる暗殺行為を警戒しての事だが、暗殺者は勿論、企業戦力や治安当局を動かしてまで自分を亡き者にしようとするのではと警戒し出したのである。
 アストライアー自身、今までも何度か、刺客を警戒してこのように自宅を飛び出した事がある。今回の場合、恐らくBB抹殺までは戻れないだろう。
 彼女は何処に行くか、明確には決めていなかった。同時に、自分には行くべき場所はあそこしかないだろうと考えていた。
 ACから降りれば狙われる以上、AC――少なくてもそれを係留しているガレージならば、常に整備士や他のレイヴン達による出入りがあるし、ガレージには整備士達が仮眠を取る休憩室や簡易食堂、シャワー室と言った施設もある。
 必要ならパーツ用の地下倉庫やボイラー室に身を隠す事だって可能だし、最低限、食する事と寝る事には困らない。エレノアが戻って来ないのは気掛かりだが……しかし今は自分の身の安全を優先するべきだった。
 ただ問題は、そのガレージに向かう最中にBBの差し金が来ないかどうかだった。それから逃れるには、強引だが仕方ないと割り切り、全力疾走した。
 彼女の全力疾走は数分間にも及んだが、息を荒げる事はなかった。強化人間故の驚異的身体能力が成せる事だった。
 そうして暫く走った後、アストライアーはマンホールの蓋を強引に、力任せに引き上げると、まずスーツケースを投げ落とし、続いて彼女自身の細い体躯を地下へと滑り込ませた。此処まで捜査の手が伸びる可能性もあるが、それまでは時間稼ぎになる筈だ。下水道作業員に出くわさない事を祈りながら、アストライアーは周囲を見やると、体を沈め、蓋を力任せに引っ張り、地上への出入口を閉ざした。
 エレノアは戻って来るだろうか、そしてもし戻ってきた時自分がいなければ……エレノアは自分を探して放浪するのだろうか。泣ながら私の名を呼び、私を求めて当て所なく彷徨うのだろうか。一応警察機構にはエレノアの捜索願と連絡先として自分の携帯端末の番号を連絡してあるが……不安を抱きながら地下へと降りていく。


 梯子を降りて程なく、生活廃水から生じる濃密な湿気と激烈な悪臭がアストライアーの鼻腔を刺激し、一切の思考を中断させた。
 目の前では、トレーネシティの人間が垂れ流した出し殻が、水と混ざり合いながら押し合い圧し合いし、やがて一つの大きな川に集まって流れている。その両岸には、コンクリートで固められた歩道が、流れに沿って走り、他の下水道や地下道とトンネルで繋がっていた。下水道職員が行き来する目的で作られた連絡通路である。
 下水道内は一切の光から遮断され、また照明もない為に文字通りの暗黒が広がっていたが、暗黒程度など、アストライアーの行動の妨げにはなりえなかった。スーツケースを拾い上げ、瞳を閉じると、彼女はコートの内ポケットからヘッドフォンとヘッドバンドが一体となったような物を引っ張り出し、ヘッドフォンを装着するようにして取り付けた。
 装着後、ヘッドバンドは下ろされ、目隠しの様にアストライアーの両目を覆った。
 直後、閉ざされたはずのアストライアーの視界に動作確認を示す文字列が出現し、上から下へと流れていく。全てのメッセージが流れた直後、モノクロームの世界が目蓋の内側に出現した。
 ヘッドバンド型の装置は拡張型の複合感覚器官で、前方にパルスを発信し、その反射で地形や周囲の様子を察知する、要はコウモリと同じ探知能力である。モードを変える事で、熱探知やスペクトル探知、空気振動探知も可能である。
 一言で言えばサイボーグ専用センサーと言えるものであり、視界を何らかの理由で失った際の補助として用いられる器具である。
 サイボーグ達はこれを装着する事で、見たり、聞いたり、嗅いだり出来るが、アストライアーは、普段からこれを利用している訳ではない。近接戦主体と言う戦闘スタイル上、目視での戦闘も多く、普段から視界を最大限意識しており、したがってこの様な超視界不良状態でもなければ用いる事はなかった。
 しかし今は、視界の聞かない場所での行動の為、止む無く着用せざるを得なかった。探知領域は決して広いとは言えないが、パルスの反射によって認識され、ディスプレイも同然となった目蓋の内側に浮かび上がった通路の形状は手に取るように分かる。ただ、這い回る大量のネズミ、ゴキブリの大群、ムカデ、その他薄気味の悪い生命体までが探知されたのはいただけなかった。
 とは言え、意図的に襲って来ない生命体なのだから此処を進む上では何ら支障はない。そう心に言い聞かせながら、アストライアーは暗闇に浮かび上がった地下道を進んでいく。地下道に30センチを超える動体反応は今の所見当たらない。つまり、今此処を進んでいるのはマナ=アストライアーただ一人だった。
 ただ一つ困る点としては、方向が分かりづらいと言う事だった。
 目蓋の内側には東西南北が表示されているが、方角を知らせるのはそれだけだった。ACの様なマップ機能やナビゲーションシステムなどと言う都合の良いものは、アストライアーの擬体には登載されていない。
 したがって彼女は、記憶の中にある地上の様子を思い出し、「大体此処はこの辺だな」と予測しながら進むしかなかった。


 不気味で重く濃密な闇を進むアストライアーは、暗闇の中で自分自身の視野以外の感覚が、数倍に研ぎ澄まされているような感覚を覚えた。暗闇に身体が徐々に慣れていっているのだろうと、女剣士は満足げに頷いた。
 その中で彼女は、自分の足音をはじめ、周囲から発せられる音全てに聞き耳を立てながら、出来るだけ自分の足音は発さないように進んで行く。とは言え、若干だがブーツの音は僅かに響いてしまっている。
 そうして数分ほど進んだ所で、その静かな足音が止まり、静寂の中に溶け込んだ。
 アストライアーの前方に球状のメカが出現し、彼女の前方を進んでいたのである。その上部には円柱状の装置が据え付けられ、装備されたセンサーが円柱ごと左右に旋回している。アストライアーとその装備センサーは、前方を進む物体が、ミラージュ系列のセキュリティ会社が公的機関向けに開発した警備メカ「ドヴェルグ」と認識した。
 下水道は度々ホームレス等が住み着いたり、また無法者が息を潜める事も多く、結果として犯罪の温床ともなる為、配備された警備メカがこの様に定期的に巡回している。ただしドヴェルグ自体はそう珍しい警備メカではなく、アストライアーの場合、ミラージュの管轄する重要施設では必ずと言って良いほどこれを目にしている。
 警備メカであるドヴェルグは、前方の人間が何かしらの形で装備しているIDカード及びタグによって攻撃対象か否かを判断するが、基本的には前方の対象を動体探知・赤外線による熱探知センサーで走査し、対象を察知する。もし攻撃対象と認識されれば、レーザーやマシンガンによる射撃の生々しい傷跡が刻まれるだろう。
 攻撃対象となる事を警戒し、アストライアーは歩を緩め、音を立てないようにドヴェルグの後を進む。勿論周囲に首を振り、別の警備メカがいないかどうか確認するのも忘れない。
 幸い、ドヴェルグはアストライアーを先導するように進み続け、左手側のトンネルへと進んで行った。アストライアーの認知範囲上から消えた警備メカが、女剣士に気付いた様子はない。
 これは幸運とばかりに、アストライアーは歩くペースを速め、警備メカが入っていったトンネルに横目を向け、警備メカが去った事を確認すると、足音のピッチを更に速めた。
 途中、地上に通じる場所があった。センサー探知方式をパルスモードから肉眼モードに切り替えると、目蓋を開いた先、ブラインドの内側には肉眼そのままの様子が映し出された。ブラインドは透明アルミニウムの二重構造となっており、間には液晶が敷き詰められている。液晶モニターは各種センサーと連動しており、装備者の意のままに外界の情報を表示する。
 アストライアーの上には格子状の蓋が掛けられた孔があった。サイボーグならではの、並外れたジャンプ力で梯子に手を掛けると、力任せに腕と動体をスーツケース諸共に引き上げ、光の射す方向へと向かう。鉄製の格子を頭で数センチほど押し上げると、そこが公園であると分かった。以前クレストに包囲されたあの場所である。
 現在位置が分かると、アストライアーは頭を下げ、梯子を降り下った。下水道作業員でない人間が公園のマンホールから出て来ようものなら、素行を疑われかねず、治安当局に通報される事にもなりかねない。幾多の犠牲者の血で染め上げられたアウトローである自分が警察に捕まれば、それは死と同義になる。
 再び下水道に降り立ったアストライアーだが、しかしその直後、彼女の前方から警備メカが進み出てきた。再び視界を、天然色からパルス反射で浮かび上がるヴァーチャルな世界に変化させ、アストライアーはスーツケースを引っ張り、急ぎ脇のトンネルに逃げ込んだ。
 数秒もしないうちに、ドヴェルグは格子状のマンホールの蓋の下まで到達。即座に赤外線センサーでコンクリートの床を、続いて頭上の梯子を走査させ、人間――先程まで此処にいたマナ=アストライアーの痕跡を探した。
 赤いレーザーが床や壁面を走査し、1cm刻みに調べていくが、ついに人間の痕跡は発見されなかった。梯子に人間の痕跡はあったものの、ここは下水道職員や配管工が工事の為に頻繁に出入りする為、そこからアストライアーの残滓を見つけ出す事は難しかった。
 異常がないと判断すると、ドヴェルグは捜査モードから巡回モードに切り替わり、下水道を進んで行った。


 アストライアーが逃げ込んだ地下道の先では、先程と同様、コンクリートで護岸された生活廃水の川が広がっていたが、両側に人が歩けるスペースは無く、代わりに、下水の上には鉄製の通路が設けられていた。工事現場で見られる様なキャットウォークを3つほど並べた様な幅で、手摺と転落防止用の柵を兼ねた鉄骨が左右に走り、人一人が歩くには十分な幅があったが、通路としてはやや狭い印象がある。
 この足場の上にもまた、不快な害虫が徘徊していたが、アストライアーは気にする様子も無く、無機質な足音を響かせて駆け出した。時々、ブーツが鉄板や鉄の金網を叩く音に混じり、キチン質の外骨格が踏み砕かれる音が混じったが、気にはしていなかった――と言うより、それの存在よりも圧倒的に巨大な不安がアストライアーを支配しており、周囲の様子に注意するほどの思考が失われていた。
 この時、アストライアーの胸を縛っていたのはエレノアの存在だった。果たして何処に行ったのか、勝手に自分がいなくなった後、家に入れないと知ったらどんな顔をするのか。挙句、自分を追い出したとして、アストライアーを忌み嫌うようになるのだろうか。
 考えれば考えるほど、アストライアーの脳内はエレノアへの心配や懸念が黒雲の如く渦巻き、コアや心臓が締め付けられる様な、肉体的苦痛とは異なる苦痛が走る。
 実際は異常はないが、しかし心臓病を患ったかのようにアストライアーは心臓のある左胸を押さえながら、更に早く駆け出した。足を速めたのは、エレノアを思う事の苦痛や戸惑いから逃れたかったと言う部分もあったのかも知れない。
 アストライアーが人の声を察知したのは、そんなときだ。遠距離タイプのサイトを有するFCSの様に、パルスの発信域を前方に集中させる。4つの人影が、通路を歩いているのが分かった。部外者出る自分が見つかれば、不法侵入で罰せられるばかりか、其処から過去の刃傷沙汰も焙り出されかねない。
 すぐに身を隠す必要に迫られたが、左右に通路はなく、隠れられる場所も無かった。


 アストライアーが逃げるかどうかの選択肢を一瞬のうちに決定付けたのと同じくして、彼女の居た場所を4つの懐中電灯が照らした。
「死体の第1発見者は?」
「うちの若い職員だ」
 懐中電灯を掲げる4人の内訳は、2人の下水道職員と、紺色のスーツを纏った警官らしき男、そして手にアタッシュケースをぶら下げた鑑識官らしき科学者。懐中電灯の照らす先のみを頼りに進む彼等の何れもが、自分達の先にアストライアーがいる事は知らないし、彼女が目的でもない。
 職員は死体発見の通報後、警官と鑑識を伴って下水道入りし、死体発見現場へと急いでいた。彼等の視線は懐中電灯やヘッドライトが照らす、前方の僅かな領域へと向けられていた。
 しかしその中に、アストライアーの姿はない。
 当の女剣士は、天井近くを走っていたパイプに飛びつき、すぐにその裏に回ると、さっさと通り過ぎろと胸中で呟きながら、屈んだ自分の下を過ぎ去る様子を見詰めていた。緊張ゆえ、彼女の周辺は勿論、何時の間にやらコートの裾に這い登っている黒光りの害虫は全く眼中になかった。
 手にしている懐中電灯は前方を向くだけで、天井のアストライアーには向けられず、多少なりとも照らされはしたのだろうが、しかし誰もが死体の発見現場に急ぐ事に思考を奪われ、クモの如く天井に潜む女戦鴉に注意を向ける者は皆無だった。
 やがて懐中電灯の光は人影と共に消え去り、下水道は害虫の足音と汚水の流れが支配する暗黒の空間に戻った。自分に危害が及ばなかった事を知り、アストライアーは胸を撫で下ろすと共に、コートを這い登っていた害虫を素手で振り払いながら、パイプの裏を進んで行った。
 暫く進むと、前方に、地上から光が差し込む場所があった。
「……現状把握、と割り切るか」
 独り言と共にパイプから手すり、そして足場に降り立つと、アストライアーは光の下へと全力ダッシュを仕掛けた。其処にも、先程同様に梯子が設置されていた。
 左手に持ったスーツケースの重みなど意に介さず、アストライアーは梯子に飛びつくと、そのままよじ登り、頭でマンホールの蓋を押し上げた。


 マンホールの表側は、見慣れた路地裏だった。ホームレスやチンピラ、社会不適応者の類が闊歩しているが、別段恐れる場所ではなかった。カラスか野良犬当りが食い散らかしたのだろう、散らばった生ゴミの悪臭が漂っているが、臭気が漂う文字通りの異世界を駆け抜けて来たアストライアーにとっては、さしたる障害ではない。
 何回か通っている為に分かっているが、此処からならガレージは近い。歩いて行くにも十分な距離だが、自分が出てきたことを悟らせない為に、マンホールの蓋を閉めてから進む。
 だが進み出して幾らもしない内に、手首を何者かに掴まれた。
 そしてアストライアーの視線の先には、やはりと言うべきか、髪を染め、アクセサリーをごてごてと付け、ズボンを腰ではいていると、見るからに教育のなってない男が4人揃っていた。
「そんなに急いで、どうしたんだい?」
「一緒に遊ぼうよ」
「断る。蟲に生まれ変わってから来い」
 レーザーブレードの如く鋭い言葉が振り下ろされた。そして、それはアストライアーが、一瞬にして戦闘体勢に移行完了した事と同義である。
 チンピラ達はここで引き下がればいいものを、アストライアーからにじみ出る殺気を感じることが出来ないほど鈍かった。
「つれないなぁ、きっと楽しい――」
 続きを言い終える前に、アストライアーの右の鉄拳が鳩尾(みぞおち)に深々と突き刺さった。
「邪魔をするな!」
 最初の男が倒れこむ前に、今度は左腕が別の男の顎を直撃した。スキュラの時とは違い、今回は手加減なしである。最初に殴られた男もジャケットの上から内臓を破壊され、次の男も顎の骨が砕かれ、壁に叩き付けられたショックで頭蓋骨や脳も損傷しただろうが、しかし他の男は気にする様子も無く、アストライアーに狙いを定めた。
 チンピラが自分を暴行しようとしているのか気付く間に、男の一人が鉄パイプを振り下ろした。鉄パイプはアストライアーの頭に当るはずだが、咄嗟に回避しようとした彼女の動きもあって狙いが狂い、首に直撃。金属製フレームで構成される首が折れたように曲がった。
 普通の人間ならば、脊髄や気管が損傷するか、頚椎をへし折られて即死していても不思議は無かった。
 だが、サイボーグとなっていたアストライアーはこの程度では死なない。実際、折れたような首は、直ちに不快な金属音を発しながら元に戻った。
 直後、アストライアーはスーツケースを投げ捨て、コートも脱ぎ捨てると、これから狩られるであろうチンピラ達に漆黒の戦装束を披露した。混沌とした思考の中で浮かんでいたエレノアへの心配は、どす黒い殺意に飲み込まれた。その瞳には、最早殺意を放つ闇しか映し出されていなかった。目前の標的に対する、怒りと生理的嫌悪感から生じた殺意のみが――
 男もアストライアーのただならぬ様子に勘付いてか、再び鉄パイプを叩きつける。だがアストライアーは鉄パイプを左手で止めると、右腕を腰の高さに落とし、力任せに突き出した。
 チンピラは逃げる間もなく、胸を肋骨諸共一瞬で貫かれ、心臓が抉られた。一体この女は何者なんだ、心臓を失い、呼吸と循環が停止した男だが、疑問と死の恐怖だけは脳裏にまざまざと焼き付けられた。男が最期に見たものは、目の前の女が、自分の体から心臓を握った腕を引き抜き、果実の如くそれを握りつぶす様子だった。飛び散る血飛沫は漆黒の繊維に吸い込まれ、他の幾多の犠牲者の血と混ざり合った。
 仲間の惨たらしい最期を目の当たりにし、残る2人は恐怖に駆られた。だがアストライアーは黒百合を引き抜き、男の一人に投げつけた。刀は飛ぶ矢の如く逃げる男の首に突き刺さり、頚椎と延髄を生命反応諸共断ち切った。
 最後の一人は逃げられないと察してか、鉄パイプを拾い上げ、アストライアーに振り下ろした。だが彼女は鉄パイプを受け止めると、人ならざる力で奪い取った。男が逃げる間も許さず、鉄パイプは斬首刑に処すかの如く男の首に直撃した。
 先程のアストライアーと同様、男は首が折れ曲がって地面に転がったが、男が再び動き出す事はなかった。
 全ての敵反応を抹殺したアストライアーは、血塗れの自分の姿を見て我に返った。私がやったのか? 馬鹿な、エレノアが来て以来、こんな事は意識的に抑えていた筈だが……半狂乱になりながらも、アストライアーは逃げ場を探した。人を殺めた事で、警察に狙われる口実が出来ている。エレノアがいない事でも既に警察の厄介になっているというのに、この上自分の身まで厄介事に曝すのか。
 そして更に哀れなのは、エレノア本人だと言う事もアストライアーは分かっていた。この事が明るみに出たら最後、彼女には殺人者の娘と言うレッテルを着せられる事になるだろう。既に幾多の戦闘で多くの人間を殺めて来たが、それは「レイヴンとしての活動」と言う事で、超法規的に認められているから処罰されないだけである。だが今回はそれが一切ない、純然たる虐殺行為だった。
 これが表沙汰となれば、エレノアは自分を憎む筈。それだけは彼女の意図するべきではなかった。
 脱ぎ捨てられ、それ故返り血は浴びていなかったコートとスーツケースを左手で回収し、チンピラの骸に刺さっていた黒百合を血塗られた右手で引き抜くと、アストライアーは路地裏を迷走し続けた。戸惑いながらも私物は回収する当り、まだ冷静さは残っているようだった。
 暫くすると、彼女は再びマンホールの蓋――彼女が地上に出たときとは別のマンホールである――を押し上げ、地下へと逃げ込んだ。


 アストライアーが胸の悪くなる殺戮を繰り広げていた頃、ロイヤルミストとBBの密談を、ヘッドフォンを介して聞いている男が居た。暗い室内に溶けて行くディスプレイの光を正面から浴びるその顔は、吹雪の如き長い銀髪と翡翠色の瞳を有している。彼の横では、地底世界の住人の様な印象を漂わせる、長い耳と褐色の肌を有する男性が、ディスプレイと向かい合っていた。
 その様子は、さながら別世界から這い出して来た異邦人同士が、目的を持って密談しているようであった。
「全くおめでたいものだ……貴様等二流以下がアルタイルの娘を殺せるとでも思っているのか」
 全てを聞き終えた男は、蔑んだ口調と共にヘッドフォンを外すと、近場の男を呼んだ。室内は暗かったが、その際立った特徴を有する情報屋であるメタルスフィアの容姿は、暗がりの中でも確認出来た。
「そいつが昨日の分だが……何か得るものはあったのか、エースさんよ?」
「一応、とりあえず状況把握にはなった。ああ、それとそのワークシートとリストをプリントアウトしてくれ、そいつを買おう」
「まいどあり」
 銀髪の男性――エースは外したヘッドフォンをメタルスフィアに返却すると、ワークシート・ファイルにアクセス、印刷のタブをクリックした。用紙サイズやプリンター等を設定して暫くすると、部屋の隅に置かれたプリンターが唸りを上げ始め、セットされていたA4サイズの紙に、一言一句を見落とす事無くワークシートの内容をモノクロ印刷した。
 ワークシートには、BBと、彼の息が掛かっているランカーのデータが詳細に記されていた。
「A4容姿に印刷しちまったが……良いですかね?」
「ああ、構わんさ。それと、だ」
 エースは金と共に、メタルスフィアに一枚の光学ディスクを手渡した。
「あの下衆が来たらこれを売れ」
 メタルスフィアはディスクを受け取ると、それをしげしげと眺めた。
「中身は何だ?」
「私に関する情報を幾らか。何なら見ても良いぞ」
 エースが見ても良いと言う事は、多分彼にとってはどうでも良い事なのだろうなと察しながら、メタルスフィアはディスクをセット、700メガバイト容量のディスクの中を丹念に見て回る。
 内容はエースの搭乗機であるアルカディアのアセンブリに関する点と、数名のレイヴン達との練習試合の動画が10数本。中には直美が操るヴァージニティーとの戦闘の様子も収録されていた。
「……了解、BBが来たらこいつを売っときますぜ」
「頼んだぞ。それと、私が今日言っていた事も一言一句あの下衆に伝えておけ。私からの要求は以上だ」
 その後の長々とした会話と値段の交渉を終えると、エースはメタルスフィアが牛耳る暗がりから脱出し、外界へと戻っていった。


 暗がりから抜け出たエースとは逆に、マナ=アストライアーはまたも暗闇の中を進んでいた。マンホールの下はコンクリートと漆喰の迷宮で、何人かのホームレスが、巣穴で休眠するモグラのように体を丸めている。彼等は突然現れた侵入者に驚いたものの、うつろな瞳で彼女が過ぎ去るのを見詰めるのみだった。
 そうして地下数メートルの空間を、アストライアーは誰の邪魔も受けることなく、ブーツの足音を響かせて進み、地下鉄の跡に突き当たると、そこにあったマンホールを、やはり素手でこじ開け、梯子を伝って更に降りていく。
 その先では広大な空間が広がっていたが、そこを満たすのはあまたの音源をも押しつぶしそうな静寂と、人類の生理的嫌悪感を刺激する濃密な腐敗臭だけだった。先程の下水道とは違い、水の音も一切ない。
 マンホールの下に広がる空間は、先程通って来た下水道とはまた異なる雰囲気だった。梯子があるまでは先程のマンホールと同じだが、地下20メートルほどの地点に広がっていたのは文字通りの通路と言った印象のある巨大な溝で、天井までの高さは中量2脚AC1機ぶんは軽くある。形状は概ね半円形で、床はコンクリートで完全舗装。
 護岸された地下河川と言っても良い溝の左右には、人の歩くスペースが走っており、その端には、下に降りていく為の階段が見受けられた。
 もし此処が何かしらの光で照らされていたならば、梯子近くに書かれた表示によって、アストライアーは此処を、再開発に伴って閉鎖された地下水道の跡地と認識しただろう。だがそれを気にするでもなく、肉眼からパルス反射へと、バイザーの知覚方式を変化させていた彼女は、懐から分解したパーツを引っ張り出し、組み上げたショットガンを右肩に背負い、スーツケースを左手に持ち、暗闇の中を始めは恐る恐ると言った忍び足で、暫くしてからは逃げるような駆け足で進んでいた。
 ACが通過できそうなほど広大な地下空間は南へとまっすぐ伸びていた。地上の様子と地下通路の行く先を照合させると、このまま通路を辿ればガレージに辿り着ける筈だった。あとは適当な所で上がるのみだが、梯子が見当たらない為、地上への出入り口を探して走り回らねばならなかった。
 逃げるように、アストライアーは無人の地下空間を駆け出す。通路には彼女以外、動く物の存在は見当たらない。女戦鴉以外でこの空間で目に付くものと言えば、異界の住人を髣髴とさせるグロテスクな害虫、溝の片隅に広がるヘドロ、空き缶やプラスチックなどのゴミ位のものだ。しかし地下空間には一切の光源がなく、したがって普通の人間の目では、重苦しい暗闇が広がるだけでしかない。
 いや、普通の人間にとってはその方が良いだろう。ゴミに混じり、有機物が腐敗した残滓の中から生物の白骨が突き出ているのを目撃すれば、たちまち悲鳴を上げてパニック状態に陥りかねないからだ。しかし、アストライアーはそれを見た所で何も感じない筈である。
 言うまでもなく、アストライアーはアキラと遭遇して以来、死の恐怖と言うものを感じる様にはなったが、既に身を置いていた激戦の中で死は見慣れており、またBBへの復讐と言う事を前にしては、如何なる感情も憎悪で上書きされる。
 加えて言えば、彼女にとって、悪魔や死神の類、そして死体は珍しい存在ではなく、それに疑問を感じる事はない。
 そのアストライアーは、暗闇を恐る恐るの体で進んでいるのだが、もはや暗闇には全く恐怖心を感じてはいない。彼女が恐怖心を感じるのは、BBが送り込んだ刺客の出現と、先の虐殺をエレノアに知られる事、或いは彼女が自分を求め、泣きながら彷徨う事になる事だった。或いはそれら全てが渾然一体となっていて、女戦鴉の口からはどれなのかとも断言出来ないか。
 恐怖に駆られた様に暗闇を進む中で、アストライアーは何回か足を止め、スーツケースを床に置くと、左手で首筋――社会不適応者によって鉄パイプで殴られた場所――を抑えていた。殴られた場所が痛んでいたのだ。彼女の視界の右下に自分のコンディションがHUD(ヘッドアップディスプレイ)さながらに表示されており、自己診断プログラムさえ機能すれば、自分の状態を確認する事も可能である。
 コンディション表示には、首筋に「損傷」を示すオレンジ色のライトを浮かび上がらせていたが、同時に「自己修復中」との文字表示も出ていた。ナノマシンの働きによってとりあえず神経細胞と言えど修復・補強は出来るものの、先程の一撃で脳や神経の細胞が何百万と言う単位で死滅した事は間違いない。
 しかし同時に、自分から活力が徐々に失われていくのをアストライアーは感じていた。同時に、自分の体内で何億と言う数のナノマシンの群体が動いている事も。
「こいつ等に体力を取られているのか……」
 自分の体を治療しているのだから有り難い話ではないか、と思うだろう。しかし、今のアストライアーにとっては、非常に宜しくない話であった。
 彼女の中の治療用ナノマシンの活動にはかなりの量のエネルギーが必要であり、体表の5%を再生しただけでも、成人男子の3日分の摂取カロリーを消費するという結果が出ている。また再生中にはその部位の機能が低下する為、状況によっては再生しないほうが良い場合もあった。
 また再生を停止・抑制できないので、再生した結果、エネルギー不足となって行動不能に陥る場合もある。入院していたときも、彼女はこのナノマシンの活動によって体力を奪われ、木偶人形のような有様になっていた。逆に、常人の回復速度では考えられないほど早々と退院できたのもナノマシンの賜物だった。
 まあいずれにしても、放って置けばそのうち痛みは引くだろう。女剣士はそう割り切り、再び走り出した。
 しかし、自分の中の小さな生命維持システムに体力を奪われた事で、彼女の足は普通の人間の走るスピードまで低下していた。しかも首のフレームが自己修復に伴って動きを停止している為、首を動かす事すらままならない。それでも、呼吸・循環系は正常に機能している。
 そんな悪状況下で地下通路を進むうち、アストライアーの前方に奇妙な物が見えてきた。見たところ、細長い何かが積み上げられている様にも見えた。
 アストライアーはその物体を感知すると、足を止め、ショットガンの銃口を向けた。一見した限りでは、何かどのような形状か、までは良くは分からない。護岸の上からならその物体の大まかな形状が把握できそうだった。階段が近くにあった事を確認すると、階段を駆け上り、その物体に視線を移す。
 直後、アストライアーは固まった。
 彼女が目にした物体は、体長が3メートル、足を含めた総全長が7メートルはあろうかと言う、一見するとクモの様な形状をした、しかしそれにしてはあまりにも巨大な化物だった。
 アストライアーはギョッとして一瞬身を引いた。暗闇の中でも分かるその顎は、人間一人を容易く食いちぎれるほどのサイズだが、女剣士を前にしても怪物体はぴくりとも動かない。少なくても、アストライアーには停止しているように見えた。
 視界を赤外線モードに切り替えるが、一切の熱源がなく、また巨大なクモが動いていると言う形跡もない。一端足元に置いたスーツケースから懐中電灯を取り出し、バイザーの内側に広がる世界をパルス反射から光学探知方式に切り替え、懐中電灯のスイッチを入れる。無論、ショットガンを向け続けた上で。
 懐中電灯に照らし出された物体は、高度に硬質化して殆ど金属の鎧となっている、灰色がかった白い外殻に覆われた脚を持つ、巨大なクモの様な形状をした生命体だった。ただ、その体表は吹き飛ばされた上に焼け焦げ、所々炭化していた。様々な虫の類が周囲に群がり、宴を繰り広げた跡も見て取れる。そのいくつかはまだ現在進行形であった。それでも、生きていない事が分かっただけでも良かった。
 一息の後に周囲を見渡すと、アストライアーの周囲には同じデザインの怪物が何匹もいた。だが、ある個体は炭化し、またある個体は体の部位を失った姿となり、既に何者かによって死滅させられていた。周囲の壁や水路、天井や床には銃創がいくつも刻まれ、怪物の体液と、臓物の断片の名残と思しき染みも広がっており、此処でこの化け物と戦っていた様子が見て取れた。恐らく、シティガードか何かの依頼を受け、此処に来たレイヴンが駆逐して行ったのだろう。
「やはり“アレ”か? “アレ”なのか?」
 去年11月下旬――エレノアが出会う2ヶ月ほど前、同様の怪物がレイヤード第三層の産業区で目撃されていた事をアストライアーは思い出した。
 事の発端はキサラギ管轄下の下水道が異常な水位を観測した事だった。キサラギは原因究明のために調査部隊を派遣したが、連絡が途絶え、遂にレイヴンに調査を依頼した。
 幸いにも水位上昇の原因は制御システムのトラブルに起因するもので、レイヴンが愛機を介して制御パネルを操作する事で水位は低下、正常に排水システムは機能する様になった。しかしレイヴンはその途上、この巨大なクモ型生命体に遭遇、クモはビームを発射してACに応戦、レイヴンも反撃しながら進んで行くが、基幹部分でこのクモを生み出していた親玉に遭遇したと言う。
 勿論親玉は即座に撃破されたのだが、話はこれで終わりではなかった。その後も同様の怪物の目撃情報は相次ぎ、遂にキサラギは複数のレイヴンを動員し、本格的な掃討作戦を行うまでに至った。
 この地下道に転がっている化け物は、その作戦で駆逐された個体の成れの果てだろう。残党が現れない事を祈りつつ、アストライアーは水のない地下水道を駆け抜ける。
 だが進めども進めども、地上に通じる梯子は中々見当たらず、巨大な蜘蛛の死体ばかりが次々に現れる。アストライアーは段々、怪物の巣穴に迷い込んだような気分にさせられた。
 更に地下道を進むに連れ、輪をかけておぞましいものが見えてきた。それは一見、地下道内の到る所で死んでいる怪物と同様のものにしか見えなかったが、足を止めて良く見ると、微妙な差異があることに気が付いた。
 再びスーツケースを床に置き、懐にしまっていた懐中電灯を取り出すと、ショットガン上部に、応急手当セットから引っ張り出した耐水性粘着テープで括り付け、スイッチを入れた。勿論、バイザーを肉眼モードに切り替えた上で。
 確かに、それは巨大な蜘蛛の怪物だったが、その体表のあちこちでは、直径が70cmほどはある、臨月を迎えた妊婦の、膨れ上がった腹部の様な白い物体がいくつも発生していた。物体の表面は粘液で濡れ、臍を思わせる小さな穴が一つあり、息も詰まるような悪臭を発している。
 そしてアストライアーを恐怖させたのは、その物体が呼吸しているかのように、不気味に脈動していたことだった。
 生理的嫌悪感に駆られ、アストライアーはショットガンを発砲した。マズルフラッシュと共に物体は弾け飛び、破壊された無残な姿を懐中電灯の光の元に曝した。だがその中身は見るもおぞましい。不気味な形成されかけの器官と、いやらしい分泌液で満たされている。何かの卵か、繭か、サナギか、兎に角そういった印象はあった。
 そうして次々に怪物体を銃撃するが、10回銃撃した所で、アストライアーはこれが無駄な行為と悟った。数が多すぎる。丸1日かけて処理しても、多分3分の1も処理出来ない。それに、ショットシェルの無駄使いである。黒百合を所持してはいるが、それを振るった所で徒労に終わるのがオチだ。
 そう考えていた時、近くに残っていた怪物体の一つが不気味に震え出した。そいつの発する悪臭が生暖かい風となってアストライアーに押し寄せる。直後、“臍”からは濡れたようないやらしい音と共に、粘性の高い液体が流れ出した。
 本能的に危険を察し、アストライアーはスーツケースを拾い上げて全力疾走した。
 だが進むに連れ、怪物体の数はさらに増えて行く。アストライアーの左手側は、気がつけばそいつらでいっぱいになっていた。大きさはバラバラだが、何れも人間の頭よりは大きい。
「くそッ!」
 悪態をつき、アストライアーは更に駆け出した。此処から逃れなければ危険だと、己の内なる声が告げていた。気が付かないままに怪物体を踏みつけ、腐臭を放つ粘液が足に掛かったが、それには構わない。今や己の安全が最優先事項となっていた。
 怪物体を踏んづけ、粘液を引き摺りながら5分ほど走り続けることで、ようやく地上へと通じる梯子がアストライアーの前方へと出現した。怪物体で隠れてしまっていたが、職員用の案内表示が梯子のそばにあった事で、地上に通じると分かった。
 だが梯子にも、先程見た球状の物体がこびり付いていた。梯子に手を掛けるや、臍の様な部分から放たれた悪臭が生暖かい風となってアストライアーの顔面へと押し寄せる。ショットガンを背中に回し、生理的嫌悪感をダイレクトに刺激するその物体に触れないようにして、アストライアーは梯子を登る。
 床から離れた梯子の裏では、強化人間の接近を察知したかのように、怪物体が激しく、不気味に胎動し始めた。中で何かが蠢くたびに、湿った嫌らしい音が鼓膜を刺激する。到底気持ちの良いものではない。
 梯子を上る過程で、偶然、それに右手が触れた。人間の腹部と同様に温かいと言うより、少々熱いとも言っていいぐらいだった。粘液塗れの外皮はなめし革のような質感で、アストライアーが触れた瞬間、物体は内側から震えた。中に何かがいて、今にも皮を破って出て来そうな気配であった。
 その中身に喰われるのは御免だと言わんばかりに、アストライアーは梯子を上る速度を速めた。左手がスーツケースで塞がっている状態で梯子を上る以上、慎重に事を運ばねばならない。足を踏み外したら転落しないとも限らない――無意識のうちに、欄干を握る右腕に力が入る。それでも、彼女は何とか梯子を上りきり、別の地下道に手が届くと言った所まで達した。
 その時、妙な音が聞こえた。粘液塗れの何かが、力任せに引っ張られて開かれるような音。それが自分の足の下から聞こえてきたことはすぐに分かった。
 怪物体の臍の部分が大きく開かれ、粘液塗れの巨大な蛆虫が、身体を左右に振りながら這い出してきていた。アストライアーはその様子を、バイザーとの間に広がる暗闇越しであるが目にしていた。エイリアンやモンスターの類が人間に寄生し、腹部を食い破るような光景だった。これが明かりの下であったなら、グロテスク過ぎて到底見ていられないだろう。
 アストライアーは急いで梯子を上り終えると、そのまま地下道路に転がり込み、逃げるように全力疾走した。


 ガレージ周辺のアスファルトで、一対の軍用ブーツが舗装された地面を叩いていた。此処にACを置いているパイロット達が愛機に取り付いて整備を行なったり、あるいは何らかの事情で出払っている中にあって、彼は例外的に愛機から離れ、周辺を野良犬の如く、落ち着き無くうろつき回っていた。
 元々復讐を目的としていたこの男だが、これも乱世の成せる業か――既に彼の仇となるレイヴンは失われていた。信じたくない話ではあったが、しかし常人離れした外見の情報屋から得た情報を下に、それは紛れも無い事実となっていた事を彼は認識せざるを得なかった。
 仇が消え、目的は失われた。
 これから俺は何をすべきなのだろうか? そして、仇が使っており、自分の下を裏切った際、その左腕諸共に奪い取った左腕の銃を装備し続ける意味が、果たしてあろうか? 火傷の治療を負え、戦列復帰を果たしたばかりの彼――トラファルガーは当てのない思索を、その事実をまだ疑うかのように続けていた。
 その思考は、彼の脇のマンホールの蓋が動かされた事で出し抜けに中断された。何があるのかとトラファルガーは警戒しつつ、ロングコートの中に忍ばせていた拳銃を取り出した。一般的な9×19mmパラペラム弾よりも口径の大きい弾を撃ち出す、今でも極少数の者に好んで用いられるリヴォルバー型の大型拳銃である。オートマチック式の拳銃も所持しているが、トラファルガーはシンプルな構造ゆえに故障の少ないリヴォルバーを愛用する傾向にあった。
 そのトラファルガーは撃鉄を引き起こした拳銃を握り締め、銃口を向けながら見下ろす中、マンホールの蓋は押し上げられるようにして開かれ、穴の脇に押しのけられた。直後、アタッシュケースが地面へと持ち上げられ、続いてその持ち主が姿を現した。
「アスか……全く驚かせるな、何者かと思ったぞ」
 トラファルガーは撃鉄を戻し、拳銃を懐に戻した。目前の女剣士はショットガンを背負った、見慣れた濃紺のロングコート姿であった。地下道を走り回った末に、何とか此処まで到達した彼女の右手は赤く染まり、粘液も付着していたが、その理由は性格や境遇を考えれば大体察しが付くので口にはしなかった。それを知るのは容易な事だろうが、命やそれに値するものを支払ってまで知る理由は無いと判断していたからだ。
「どうした? 下水道職員にでも雇われたか?」
「……大体察しは付くだろう」
 左手にスーツケースを引っさげ、女剣士はガレージへと早足で歩いていく。トラファルガーは、その右手側を付いて行く。
「何があったか知らんが、随分とまた凄まじい匂いだな?」
「それは此方の台詞だ」
 バイザーを取り外したアストライアーは、僚機の顔から、それまでの彼の顔立ちとは異なる点を見出していた。別に顔立ちが変わっているわけではなく、表情に若干の差異が認められたのだ。
 以前に比べ、彼の顔にはどす黒い部分が無い。嘗ては復讐の為戦っている事もあり、戦闘的などす黒さが細かな表情から感じ取る事が出来たのだが、今はそれが殆ど薄れてしまっている。
 先のメタルスフィアの家で見た彼の姿といい、トラファルガーに一体何があったのかとアストライアーは疑惑を抱いた。
 だが冷静に考え、それは後からでも遅くはないとアストライアーは思考を切り替えた。BBが動き出しているであろう以上、自分の身に如何なる災難が降りかからないとも限らない。今はそれを乗り切ることにのみ、全力を挙げねばならなかった。それを怠る、あるいは放棄すれば、今、彼女の壊れかけた心を縛っているエレノアの姿を目にする事も、二度と叶わぬ話なのだから。
11/02/17 10:57更新 / ラインガイスト
前へ 次へ

■作者メッセージ
 この話に関しては「下水道で蟲絡みの話を書きたい!」と言う事ぐらいしか書く事がなかったりします(滅)。
 それだけにやる事が見えたので、執筆はスムーズに進みました。ただ、後半の蟲だけと言うのも展開的に微妙なので、追っ手から逃れる為に地下を移動と言う展開にしています。

 メインとなる下水道を進んで行く描写には力を入れました。
 手元にあったSF小説や「X-ファイル」のビデオ等を参考にして、AC3のミッションの舞台になった下水道の、陰湿かつダークな印象を損なわないように描写を心掛けました。
 また、原作に登場したクモ(の成れの果て)を出して、原作との接点も持たせています。

TOP | 目次

まろやか投稿小説 Ver1.50