養老令より 『喪葬令 第廿六』

 大宝令は現存していませんが、この大宝令を基に作成されたとされ、大筋において大宝令と同じであろうとされている養老令を引用しておきます。

(十)几三位以上及別祖氏宗、並得営墓。以外不合。雖得営墓、若欲大蔵者聴。
 
(書き下し文)
几ソ(およそ)三位以上及ビ別祖氏宗ハ、並ナ(みな)墓ヲ営ムコトヲ得。以外ハ合ベカラ不(すべからず)。墓ヲ営ムコトヲ得ル雖モ(いえども)、若シ(もし)大蔵(たいぞう)セント欲フ(ねがふ)者ハ聴セ(ゆるせ)


 
(現代文訳) 官位が三位以上の者と一族の宗祖は、誰でも墓を営んでよい。それ以外の者は認めない。もし墓を営むことができる者が合葬を求めた場合は認めてもよい。
<訳 メトセラ>

 
(解説)
 三位以上の者とは、当時の官位制度で最高級の高官たちです。具体的に三位以上の者に与えられる官職は太政官(中央政府の事務官)では太政大臣(一位)、左大臣・右大臣・内大臣(二位)、大納言(正三位)、中納言(従三位)と、弾正台の長官である弾正尹と近衛府の長官である左右近衛大将、大宰府の長官である太宰師だけということになります。
 それぞれの役職を現代風に言えば、太政大臣とは内閣総理大臣、左右大臣・内大臣は内閣官房長官、大・中納言とは副大臣ということになります。弾正台は今でいうところの国家公安委員長(公安組織の最高位で、警視総監の上の警察庁長官のさらに上)、左右近衛大将は皇宮警察本部長ということになります。大宰師は現在相当するものはありませんが、『大宰府においては太政大臣と同格の権限を持つ地方官』とでも言えばいいでしょう。
 
 『一族の宗祖』は現代では“分家の宗祖”程度のニュアンスですが、当時は新たな一族として認定されるには天皇による勅定がなければならず、そう簡単にはなれるものではありませんでした(例 高望王が平家の勅定を得た場合など)。