「武士道と言ふは死ぬことと見つけたり」


 

 武士道精神を示した「葉隠」中、もっとも有名な一節。これを「大和武士は主君のためならいつでも命を投げ出すものだ」という意味にとる人は多い。
 この一節だけを見るとそう取れるし、事実、太平洋戦争中はこのフレーズをスローガンに多くの若者を戦地に駆り出した。そんな暗い記憶のため、現代ではこれは時代錯誤の言葉とされている。

 しかし、この言葉の本当の意味はまったく逆で、「武士は主君のために長生きして末永く奉公することが肝要である」と言っているのである。
 「死ぬことと見つけたり」と言うのは、「本当に死ぬべきときは過たず死を選ぶ覚悟を持って生きよ。見苦しく生に執着してはならない」という意味で、日頃からそうやって私心を捨て、覚悟して生きていけば、一つ一つの選択を誤ることなく、ついに天命をまっとうできる、という意味なのだ。
 参考がてら、この一節を全部引用しよう。
 
 武士道いふは死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて早く死ぬほうに片附くばかりなり。別に仔細なし。胸座って進むなり。
 図に当たらぬは犬死などといふことは、上方風の打上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるやうにすることは及ばざる事なり。我人、生くるほうが好きなり多分好きな方に理が附くべし。もし図に外れて生きたらば腰抜けなり。この境危きなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。
 これが武道に丈夫なり、毎朝毎夕、改めては死に死に、常時死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

 
 訳
 武士道というものは死ぬことであると悟った。生きるか死ぬかどっちかしかないときには迷わず死ぬ方を選ぶと、ただそれだけのことで、難しいことではない。肝を据えてやっていくだけなのである。
 天命も遂げずに死ぬのは犬死だ、などというのは頭でっかちの青びょうたんが考えそうな、のぼせあがった武士道である。生きるか死ぬかの究極の選択にあって、正しき道に従うのは容易なことではない。誰だって死にたくないのだから、どうしたって死ななくてすむような言い訳を考えてしまうものだ。それでもし天命に反してい生き残ってしまうと、あやつは腰抜けよと末代までの恥になる。しかし、死すべきときでないのに間違って死んでしまった場合、犬死だ、気違いだなどとは言われるかもしれないが、恥じることではない。しかし死を選ぶのは容易なことではない。
 武道を究めるためにはこのことが重要であり、朝に晩にことごとに死んだつもりになり、いつも死に体でいるならば、武道の真髄を究め、一生天命を見誤ることなく奉公を全うすることができるのである

訳 メトセラ