“足のない幽霊”といえば、丸山応挙の幽霊画が大変有名で、足無し幽霊の創始者と言われています。応挙が幽霊図を描いているとき、うっかり絵に茶をこぼしてしまったが、それがたまたま妖艶で恐ろしかったからそのままにしたところ、それが一般化した、というもの。
しかしこれはまったくの虚説。応挙の幽霊図以前にも、例えば応挙誕生の60年以上前に描かれた“花山院きさきあらそひ”という浄瑠璃本の挿絵に足の無い藤壺の幽霊が描かれており、他にも“死霊解脱物語聞書”や近松門左衛門の“傾城反魂香”などの挿絵などにも足無し幽霊が出てきますが、いずれも応挙以前に描かれたものです。
応挙は徹底して写生にこだわった画家でしたが、竜虎や故人のように見ることのできないものについては、画本や人形を参考にせよと語っていましたから、自身が幽霊図を描くにあたってもこれら“足のない幽霊図”も大いに参考にしたと思われます。
では幽霊は昔から足無しとされていたのかというとそういうわけでもなく、江戸初期に描かれた“山中常盤物語絵巻”(岩佐又兵衛作 MOA美術館蔵)には足のある常盤御前の幽霊が出てきます。さらに4世紀頃に書かれた中国の怪異譚“捜神記”には幽霊に自分をおぶわせて“自分はまだ新米幽霊だから重いんだ”と騙してみせる話が出ています。間抜けな幽霊とはいえ、こんな言葉に簡単に騙されるところを見ると、人間と幽霊は見た目には変わらないということが一般に信じられていたのでしょう。
ではなぜ幽霊に足がなくなったのか。もちろん応挙の影響の大なるところですが、そもそもその発想はどこにあったのかということが問題になります。
足無し幽霊応挙創始説にいううっかり茶をこぼしてしまったという件ですが、応挙作といわれる幽霊図は三幅あるとされていますが(久渡寺・全生庵・カリフォルニア大学バークレー校美術館)、そのいずれにも茶をこぼした痕などありません。
これについては大きく3つの理由が考えられています。
一つには、反魂香というものの影響です。反魂香とは香の煙の中に亡人の姿が現れるとされた一種の降霊具で、日本の幽霊図の多くでも幽霊とセットで描かれています。この反魂香の中の幽霊は、当然香の煙に紛れて足が見えなくなってしまうということが第一の理由です。
第二の理由として“十王経”という経典が上げられます。この十王経によると、死ぬと十人の裁判官によって生前の罪を裁かれるとされ(閻魔王もその一人)、その3番目の裁判官“宋帝王”の宮殿に至る途上にある“業関”という関所では鬼が通行税を徴収していて、これを払えないと亡者の手足を斬りとって通行税の代わりとしている、とされています。また地獄絵図では手足を切りとられる亡者の姿が描かれることが多く、ここから亡者には手足がないと広く考えられるようになったと考えられています。
第三の理由として、阿弥陀来迎図や北野天神縁起絵巻などに見られるように、神仏などあの世の住人は雲に乗って移動しているという点が挙げられます。当然足は雲に隠れて描かれず、また彼らは足がなくても移動に支障をきたさない、と考えられ段々と幽霊の足腰が消えていったと考えられています。
さらに応挙の幽霊図に限って言えば、彼の幽霊図は足を消さなければ幽霊図たりえなかったということが指摘されています。普通、幽霊図というとおどろおどろしい幽霊が描かれます。しかし応挙の幽霊はむしろ気品が高く、一見して美人画と見間違うほどのものでした。そこであえて“足を消す”ことによって初めて人間でなくなり、幽霊図となったと言われます。そこには応挙の自負があり、他の有象無象の幽霊図と一線を画す原因たるところです。そのような創作への気概を無視して“茶をこぼしたら偶々よかったから”などとは、応挙に対する侮辱以外の何ものでもないといえます。