「第二次世界大戦から東京裁判までの経過」 |
1939年8月アルベルト・アインシュタインが新型原子爆弾製造のための資金の協力をルーズベルト大統領宛てに書簡が送られた。それがマンハッタン計画のはじまりであった。アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相によって第二次大戦下54万人が動員され、20億ドルを注ぎ込んだといわれるマンハッタン計画のもとで原子爆弾の開発が進められていった。 1945年の8月、原子爆弾は完成するだろうという見通しが立てられていた。 この爆弾は高空性能に優れた超長距離爆撃機B−29から投下できるといういままでにない最大の爆弾であった。 日本投下については1944年9月、第2回ケベック会談においてアメリカ大統領であるルーズベルトとイギリス首相チャーチルによって決定されたといわれているが、アメリカではケベック会談以前から日本投下を決定していたのである。 この世界大戦は日本軍を中国とインドシナから撤退させるため始まったのである。 ルーズベルトは1940年秋には鉄屑、1941年7月末には石油の供給を差し止めるという日本に対する圧力を強化してきた。だがこの措置は以前からアメリカは待ち望んでいたものであった。 アメリカ政府は、日本と対決を望んでおこなったのではなかったのだが、この措置によって日本は折れてくるだろうと思っていたのであった。 1941年6月と11月にアメリカは事態解決の為の基礎案を作成していた。 その内容は日本が中国、インドシナからの撤退と引き替えにアメリカは財政、経済、軍事的譲歩をすることが規定されていたのであった。 しかし、1941年12月日本軍はこの制裁措置に耐えきれず真珠湾攻撃を行なった。 これが太平洋戦争の始まりであった。 1945年3月、アメリカは東京に対しM69による焼夷弾の絨毯爆撃を開始した。 この作戦は都市全域が爆撃目標であった。 この焦土作戦によって日本の都市工業地域、そして推定で850万人の市民が家を失い死亡したのである。 イギリスの首相チャーチルは人名を奪うという表現は避け、日本の建物が紙と木の屑でできているのでドイツ時との燃えかたを比較してみるために行なわれた焦土作戦であるとした。しかし、この作戦は日本への報復として行なわれた無差別殺人であった。 1945年8月6日広島にウラン原爆(リトル・ボウイ)を投下、その三日後の8月9日、長崎にプロトニュウム原爆(ファット・マン)が投下されその年の8月14日日本は全面降伏した。日本は原子爆弾と焼夷弾によって焼け野原と化したのであった。 そして第二次世界大戦は終了したのである。7月26日ポツダム宣言から20日後の8月14日、日本はポツダム宣言を受諾、無条件で降伏したのである。 8月30日、連合国最高司令官であるマッカーサー元帥が厚木基地に下り立った次の年の1946年、GHQが日本国憲法を9日間で全面的に改正、新日本国憲法が誕生した。いわば日本として提出した松本草案は却下されたのであった。 新憲法誕生と同時に勝者であるアメリカとイギリスによって戦犯者を裁くための東京裁判(極東裁判)がおこなわれた。しかしこの裁判は最初から勝者に有利になるように仕組まれた裁判であった。 |
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