作業マニュアル 


 私は、定番品の椅子を作るときには、加工の手順を書いた書類を見ながら作業をする。製作要領書、つまりマニュアルである。

 マニュアルというと、すごく悪い印象を抱いている人がいる。血が通わない、大量生産の工程が頭に浮かぶからだろう。誰がやっても同じ製品ができるための要領書など、個性とひらめきを尊重する工芸木工家諸氏からは、邪悪な代物と受け取られかねない。

 しかし私の場合は、自分自身のために作っているマニュアルである。工房を訪れた人にその話をすると、たいていの人は驚きの表情となる。木工にある程度精通した人でも、それは珍しいことだと言う。たった一人でやっている工房で、マニュアルを見ながら作業をするなど、聞いたことがないと言うのである。

 私がマニュアルを整備している理由はただ一つ。書き物にしておかないと忘れてしまうからである。

 職人は体で覚えるくらいでないとダメだと言う人もいる。書いたものを見ながら仕事をするなど、ナマクラだと言うのだ。しかし、私の場合毎日同じことをやっているわけではない。定番品の椅子といえども、一つのタイプの椅子を製作するのは、一年のうち限られた回数でしかない。そのような仕事の工程を、完璧に覚えるのは大変だ。その定番品も数種類あるのだから、製作工程を書き物にして整理しておかないと、自分でも分からなくなる。

 作業の途中でミスを犯すことは、大きなダメージとなる。時間は確実にロスするし、場合によっては大切な材も無駄になる。ミスをいかに防ぐかが、この仕事の、いや物を作る仕事に共通した、重要な部分だと思う。私は自分を迂闊な人間だとは思わないが、信じられないようなミスをすることが、たまに有る。

 差し金を読み違えて、誤った寸法で切ってしまったとか、刃の出を間違えて、余計に切り込んでしまったなどのミスは、潜在的に必ず起こりうるものであり、完全に排除するのは難しい。それに対して、作業の手順を間違えるという類いのミスは、これも重大な損失に繋がるケースが多いのだが、対策を講じておけば、かなり防ぐことができる。私のマニュアルも、そのための手段である。

 書類を見ながらでは、作業に遅滞が生ずるのではないかとの疑問もあるだろう。しかし、曖昧な記憶で手順を間違えるよりは、マニュアルを見ながらやった方が、かえって早い。それに、マニュアルを見ながら作業をするというのは、図面を見ながら作業をするのと同じで、慣れてしまえば何ということもない。もっとも、同業者の中には、図面も使わずに仕事をしている人もいるが。

 そのマニュアル、始めのうちは、備忘録的に作業の勘どころを書き留めたものであった。ところが、断片的なものだとかえって全体が見えなくなる。そんなふうにして改善していくうちに、作業の流れに沿ったマニュアルとなった。それでも、一度出来上がったものが完璧ということはない。作業をする度に手を加えることもある。鉛筆書きのマニュアルは、訂正だらけでグチャグチャになっていく。あまりに見にくくなると間違いの元になるから、ワープロで打ち出すことにした。これなら訂正が簡単で、しかも見易い。

 ちなみにアームチェアCATのマニュアルは6ページ、作業工程は38番まである。

 書き物にしておくと、客観的に見られるという利点もある。何年も経ってから「あれっ、どうしてこんなやり方にしていたんだろう」などと思うことがある。過去に別の自分が居たように感じることすらある。そういう時は、新しいアイデアが生まれる瞬間でもある。記憶に頼っているだけでは、ここまできっちりと見直すことはできないだろう。「工芸に要領無し」などという言葉もあるようだが、私は要領を可視的に固定し、それを改善、発展させるというプロセスを大事にしたい。

 製作要領書と図面と木取り表。この三種類の書類が透明なビニール袋に入って、各々の定番椅子のために準備されている。もし同業者がこっそりこれを手に入れることができたとしたら、喜ぶだろうか、それとも呆れるだろうか。



(Copy Right OTAKE 2010.6.1)