とかくこの世は悪ばかり
天は弱きを助けてくれず
この世も弱きを助けてくれぬ
晴らせぬ恨みを金で買い
この世にはびこる悪人どもを
闇に裁いて仕置する
口外法度の仕置人
暗闇の中を慌てて走る男が二人。彼らの顔面は青白く、何か、とてつもなく恐ろしいものから逃げているように思えた。普通、京都では夜中に出歩く者などいない。凄惨な事件があちこちで起きているからである。しかし彼らは走るしかなかった。
ふっ、と、彼らの目の前に人影が降りた。
「お前たちは、奉行所に目を付けられた」
その人影は、抑揚のない声でそう言った。ひい、と悲鳴を上げる男たち。しかし、もう遅かった。風を切って、二つの鎌が舞う。二つとも、男たちの首へと突き刺さり、鮮血が周囲を染めた。人影は男たちの死体の側へ寄って鎌を回収した。戦いが終わったというのに、この者の顔色は晴れない。
「ご苦労だったな」
辰蔵は、その言葉とは裏腹に、しかめっ面のまま、煙管から煙を吐いた。この事について怒っているのではない。辰蔵が一番憎む、ある者たちが自分たちの縄張りへ入ってきたらしいという報告を、数日前に隣国から受けたからだ。
外道、と呼ばれる者たちである。すなわち、金を払えば誰でも殺すという連中だ。闇の仕事師たちは、「自分たちは悪人しか殺さない」という自負がある。だからこそ、自分たちの掟を外れたものを「外道」として憎んでいる。辰蔵もそうだった。そう思わなければ、彼らは自らの行いを「罪」と思い、やがて自滅してしまうからだ。
江戸から京へと入ったとされる、「荒馬組」という三人の外道仕置人…彼らは事もあろうに、京都東町奉行所の岡引、倉吉と組んでいるらしいのである。龍の会の情報は彼らに漏れてはいないだろうか。それだけが、辰蔵の心配事であった。
「しばらく、龍の会をやらねえ方がいい。普通の俳句会にしちまおう」
「承知しました」
そう呟いて、赤目は頭を下げた。
第五話 正義無用
「んな阿呆な!!」
いつものように烈の店に入っていった山崎と如月は、烈の説明を聞いて愕然となった。
「嘘やろ!?」
「だから嘘じゃねえって言ってんだろが。おおっぴらに俺たちが動いたら、龍の会がばれて捕まっちまうんだぞ!」
そう言うと、山崎は黙ってしまう。如月は顎の辺りに手を当てて、
「倉吉っつうのは…まあ、十手を武器に、あちこちで悪さを働く典型的な小悪党だが、そういうつながりがあったとはな…。まあ、とにかくだ、しばらく俺たちは会わねえ事になるな」
確かに、仕事が無ければ特別な用事などない。それ以上何も言わず、如月はそそくさと出て行った。山崎も帰ろうとしたが、やはり踏ん切りがつかないのだろう、烈の居るところに戻ってきて、
「そうや、倉吉と荒馬組ちゅうのをうちらで殺れば、また仕事が…」
「馬鹿言うなよ。龍の会を通さないで勝手に仕置すれば、殺されるのは俺達の方だぜ。分かってるだろ?赤目に首斬られて死んじまうよ」
「…」
そう言われては、山崎は何も言えない。
むしゃくしゃした気持ちで屯所に戻ると、伊東甲子が一人で本を読みながら、ぶつぶつと何か言っている。山崎は無視しようとして通り過ぎようとしたが、
「あ、山崎はん、ちょうど良かった」
そう言われてしまったため、作り笑いを見せてから、伊東の前に山崎は座った。伊東はにこにこしながら、山崎の目の前にお茶を置いて、
「ちょっと聞きたい事があるんやけどな」
「ん…?何?うちに分かる事やったら、何でも聞いて」
伊東が不思議な関西弁を使うため、山崎は自然に口調が砕けてしまう。
「仕置人ちゅう噂知ってはる?」
ぶっ、と、山崎は茶を噴出しそうになった。
「げほげほ」
「大丈夫?」
「いや…ちょいまち…なんやって?」
「いや、仕置人いうの知ってはるかな、と思うて。江戸じゃあ有名やからね」
まあ確かに、江戸にも闇の連中はいるはずである。が。
なぜ伊東がこんな事を聞くのだろう?
「ああ…え〜っと」
「知らないはずはないと思うわぁ。山崎はんは変装の名手やし」
う、と言葉に詰まる。また、嫌な質問をしてくるものだ。なぜだか、山崎のプライドが燃えた。ここで「知らない」とは言えない。
「ま、まあ…噂ぐらいは聞くわな」
「あ、やっぱり」
「…なんでそんなこと聞くん?」
そう山崎が呟くと、伊東は少し真剣そうな顔になって、「実は…」と呟いた。その瞬間、山崎の後ろのほうから足音が聞こえてきた。それを聞くと、伊東は慌てて、
「あ、うち市中見廻り行ってきますんで、ほな、よろしゅう」
そう言って伊東は山崎の前を通り過ぎ、歩いていった。何が言いたかったのかいまいちわからへんな、と山崎が思っていると、伊東が座っていたところに一枚の紙が落ちている。
「夜、祇園社で待つ 伊東」
そう書かれていた。すぐさま山崎はその紙を懐に入れた。
夜。
山崎は夕食を早めに済ませて、すぐ席を立った。隣に座っていた島田が「あ、早食いすると太りますよ」と呟いたが、すぐさま島田を蹴倒すと、「ちょっと、用事あるんで、祇園さんの方に行ってきますわ」と呟いて、足早に屯所を後にした。島田は首を傾げたが、土方は意味が分かっているような顔で、ずずず、と、味噌汁を飲んだ。
夜の祇園を抜けて、山崎は祇園社へと入る。その日は雲も無く、例の赤い拝殿が月明かりを受けて光っていた。その下に、伊東が物憂げな表情をして立っている。山崎を見つけると、慌てて駆け寄ってきた。その顔は焦っているように見える。
「どうしたんですか伊東さん。屯所では言えんことでもあるんですか?」
真剣な表情をしたまま伊東は動かない。
「あ、もしかして愛の告白ですか?ごめんやけどうち、女の子はちょっと…」
そうボケてから一人で笑い出したが、伊東はやはり動かない。何か自分がとてもいけないことをしてしまったような気がして、山崎はうつむいた。
「…昼間聞けんかった事、教えてもらお思うて…」
「…昼間?」
「仕置人」
二人の間を冷たい風が流れた。
「やから、うちは名前聞いたことあるて…」
「山崎はん。そうとぼけたいのは分かるがな、一つ忘れとるで」
「…何?」
「裏稼業の人間にとっちゃ、山崎雀という名前がめっちゃ有名やってことをな」
また、沈黙が走った。すぐさま山崎は頭に付けていた簪を抜き取り、伊東の額へ突き刺そうとする。伊東はそれを持っていた扇子で受け止めた。キィン、という金属音がする。伊東の扇子は仕込み扇子で、細い刃物のようなものが扇子から出ていた。針のようではなく、少し平べったい形をしている。それが山崎の金色の簪とぶつかったのだ。山崎は驚愕の表情で伊東を見つめている。
「…あんた…まさか」
「うちも、裏稼業の人間や」
伊東は、自嘲気味の笑みを見せた。
祇園社の石段で、伊東はぽつりぽつりと、今までの経緯を語ってくれた。
伊東が江戸に入ったのと、仕置人となったのはほぼ同時期であるという。不合理な世の中に我慢が出来なかった、と彼女は熱弁した。そのうち仲間が増えて三人組となったが、あるとき仲間の一人、弥蔵が裏切り、金を奪って逃げた。噂によれば京へ逃げたのだという。伊東はそれを追おうと思っていたが、道場を持っている自分としてそんな事は出来ない。その時ちょうど江戸に来ていた近藤と会い、共に上洛したのである。
「うーん、妙な偶然もあるもんやなあ」
山崎の言葉に、伊東は少し笑った。
「運が良かったんか悪かったんか分からんけどな」
少し笑った後で伊東は真剣な表情へと戻り、
「山崎はんに、龍の会へ紹介してくれへんかと思って。それが認められれば、弥蔵も捕まえられるし…」
その言葉に、山崎は間が悪かったと思いつつ、荒馬組の一件を話した。伊東も、山崎と同じような難しい顔になる。
「うちの話どころやないって事か…」
「そういうこっちゃ。しばらくは新選組の一人としてやっといた方がええ」
龍の会の縄張りで勝手に仕事を行えば、龍の会から当然目を付けられてしまう。同じく京へ来ているという、弥蔵を探すのは少し待った方がいい、と、山崎は言った。伊東もこの意見には賛成であった。敵も討っていないのにまだ死にたくはない。
だが一応、烈に話だけはしてみようか、と山崎は思った。
次の日の昼、見廻り中に、友人の辰巳大二郎と昼飯を食っていた如月は、同じ店で倉吉が飯を喰っているのを見つけ、ちょうどいいやと思い、倉吉を呼びつけた。別に龍の会の肩を持つわけではなく、とりあえず探りを入れてみようと思ったのである。
倉吉は驚いて如月の目の前に立ち、誰が見ても「作り笑い」だと分かるような笑顔をする。
「こ、これは如月様、どうかなさいましたか?」
「いや、最近変わった事はないかと思ってな」
「特に何も無いようですな」
倉吉はかすれたような笑い声をあげ、にやりと笑った。辰巳が露骨に嫌な顔をする。如月は倉吉の懐へ、すっ、と紙に包まれた金を入れた。倉吉は近づき、
「…例の仕置人の事で、ちょっと」
そう如月の耳元でささやいた。如月は平静を装いつつ、
「またこの前の話か。それ自体が嘘のような話なのに、そいつらの隠れ家を探している、というのは、お前が嘘をついて仕事を怠けているんじゃないのか?」
「そんな、滅相もありません。確かに…」
「ああ?てめえ、その話をどこで手に入れたんだ?」
思わず感情的になり、倉吉の胸倉を掴んだ如月の肩を、いつ見ても不機嫌そうな顔の辰巳が叩いた。そして、首で外に出て話すよう指示する。如月は頷き、倉吉の胸倉を掴んだまま外に連れて行き、草むらで倉吉の顔を睨みつけた。
「怠け者のてめえがそういう情報を取ってくるってえのはおかしな話だ、って俺は言いたいんだよ」
如月がそう呟くと、倉吉は言い知れぬ殺気を感じ、ぶるぶると震え始めた。如月は普段はあまり感情的な面を見せないが、今は恐らく、自分たちの地位、そして命に関わる事なので、知らず知らずに感情が出てしまっているのであろう。
「お、俺が使っている連中です」
「本当か?そいつの名前は」
「弥蔵といいます」
それを聞くと、如月は手を離した。
「…そいつらにもう一度探索させておけ」
倉吉が震えながら逃げるように去っていく。如月は空を向いて「弥蔵か…」と呟くと、己の顔を触ってみて驚いた。
酷く汗をかいていることに気づいたからだ。
…さて、その日の夕方、伊東の事を話しに行った山崎と、昼の件を話しに行った如月が、同じ目標地点である烈の家に着いたのは、ほぼ同時だった。
「その、伊東って奴の話は後で元締に言っておく」
烈はそう約束した後、ちらりと如月のほうを向いた。
「さっきの話と、その倉吉が手下だと言ってた男の話。名前は通じるな」
伊東を騙して逃げた男=荒馬組の一人、の可能性が高い、と烈は見ていた。烈の目つきがいつになく鋭い。それは、そうだろう。裏稼業の人間たちは、外道ともう一つ、裏切り者を嫌う。伊東に一度も会った事が無いにもかかわらず、烈は伊東に同情していた。
「それじゃ、うちは戻るわ」
山崎がそう呟いて去ろうとしたのを見て、烈は慌てて立ち上がる。
「おいおい待てよ、まだ話は終わっちゃいねえぞ」
「いや、もしかすると、荒馬組の連中が金欲しさに事を起こすかもしれへんからな、ちょっとうちの連中使って見回っとこと思て」
山崎はそう呟いて、勝手に歩いて行ってしまった。
「なんだありゃ?まったく…」
頭をがりがりと掻き回しながら、ふくれっ面の烈が呟くと、如月は少し笑って見せた。
「まあ、山崎の言う通りだな。それに、連中の尻尾をどうしても掴みたいんだろ」
烈はふくれっ面のまま、黙って側にあった炒り豆をかじる。
「それに、俺たちゃ、もう仲間を失いたくはねえ。そうだろ…?」
その如月の呟きに、ふっ、と、烈の顔から笑みがこぼれた。
数日後、龍の会開催日。
無論、ただの句会であった。依頼はいくつか来ているものの、その依頼を処理できない。辰蔵にとっては苦しい俳句会である。人から慕われている者にとって、その期待にこたえられないほど嫌なものはない。
それに、句会と呼べるほど、マトモな俳句の作り方を彼らは知らない。
句会が終わった後で、烈は辰蔵の部屋へと入った。辰蔵は口をへの字に曲げてキセルを咥えている。とても、声をかけられそうに無い雰囲気だった。烈は意を決し、伊東という江戸から流れてきた一人の仕置人の事、そして、伊東が追っている弥蔵という男が、どうやら荒馬組の者らしい事、などを恐る恐る語りだした。
辰蔵という男は人情に篤い性格なだけに、このような場面は弱いのである。伊東の話を聞いたとき、彼は、どうしても彼女を助けてやりたいという気になった。
「…しょうがねえ。埒があかねえんなら、こちらから仕掛けるしかねえな」
そう呟いてから、辰蔵はちらりと赤目の方を見た。赤目は何も言わず頷いた。それを見て辰蔵は烈の方を向きなおして、
「おい烈、てめぇに全部任せるぜ」
辰蔵は近くにあった金子を取り出し、烈に渡す。数えるとちょうど四十両。一人十両ずつという計算で渡したのだろう。
烈は思わず、辰蔵の手を握った。辰蔵は烈を睨みつけ、
「いいか…ここで、外道な仕事をしたらどうなるか…連中に思い知らせてやれ」
暗闇の中、明かりを灯して、山崎は一人、針を研いでいた。長く太い針を砥石に置いて、それを研ぐ。ときたま、どのくらい研がれているか、光にかざす。この繰り返しである。既に、烈から弥蔵たち三人と、倉吉を仕置する事が決まったと聞かされた。それから山崎は血眼になって隠れ家を探し、今日、ようやく見つけたのである。仕置は三日後と決まった。そのせいもあり、山崎は一心不乱に針を研いでいた。
「山崎はん」
不意に、後ろで声がしたので、山崎は思わず振り向くと、そこには伊東がいた。
「なんや…もう。びっくりさせんといて」
その山崎の言葉に微笑みながら、伊東はゆっくりとその場に座る。この前祇園で出会ったときと違って、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。弥蔵を仕置する事が決まったからであろう。それに、伊東はこの仕置を成功させた後、正式に龍の会に入会する事が決まっている。また江戸での生活に戻れるのだ。…掟を破らなければ。
「ほんま、山崎はんには感謝してるわぁ。…ほんま、ありがと…」
畳に手をついて、伊東は頭を下げた。こんなに謙虚な伊東を見るのは初めてだ。
なぜか、山崎はいつも疑問に思っていた事を口にするべきだ、と思った。
というのは、伊東甲子という人間の人となりについて、山崎が理解できない面が多々あったからだ。例の、仕置人になった理由について、である。
だが、先に喋ったのは伊東の方であった。
「…うちな、竜之介って奴と組んで仕事してた」
「うん…」
「弥蔵の奴、町方に垂れ込んだんや。金を全部持って…巷で噂の仕置人がここに隠れてますと…」
「…」
「ちょうど、うちは道場の稽古で留守やった。いたのは、もともと無宿者の竜之介だけやった…竜之介は町方で酷い拷問を受けても、うちの名前は吐かなかったそうや…。そして、竜之介は逃げて、道端で力尽きて、ずたずたに斬られて…まるで犬みたいに死んだ…うちのせいや。うちがもうちょっと早く、助けに行ってれば…」
伊東は手を震わせ、目から大粒の涙をこぼしている。山崎は伊東を見たまま、動かなかった。
「…それから、うちは仕置で使ってた刀を封印した。助けられなかったこの刀を決して仕置では使わん。そう決めたんや。それから…もう、体の半分がなくなったみたいになって…ずっと、何も出来んかった」
「伊東はん…」
「その時抜け殻みたいになってた自分を、へーが訪ねてきた。それから先は、あんたの知ってる事や。でもな、うちは…ずっと、抜け殻のまんまやった。心の中ではな。正義というもんについてずっと考えてた。でも。あんたから仕置の話聞いて…うち、ずっと竜之介を忘れてた事に気がついたんや」
「…え?」
「あいつは、うちが亡くしたうちの片割れや。裏稼業も、うちの片割れの一つだったんやろな…もう、キンノーも幕府もどうでもええ。うちは自分の信じることをやって行こうとな…」
三日後の夜、烈、山崎、そして伊東の三人は、荒馬組の隠れ家の近くに潜んでいた。
「それじゃ、まずうちが…」
山崎はそう呟いて、隠れ家の戸の前に近づいていく。
「伊東さん、だったな」
烈は伊東に小声で呟いた。烈はただ「宜しくな」と呟いただけだった。伊東はしばらくしてから烈に、
「烈はんって、何で仕置してるんか…教えてくれまへん?」
伊東がそう呟くと、烈はしばらく考えていたが、
「仕置っつったって、殺しは殺しだな」
と、即答した。伊東がぎょっとすると、烈はにやりと笑う。
「銭の為とか、人情の為とか、悪い野郎を裁くとか…そんな事言っててもしょうがねえだろ。そんな事言ってると深みにはまっちまうよ。殺しは殺しだ」
そう呟いて笑う烈に、なんだかいろいろ悩んでいた自分が馬鹿に思えてきた、と、伊東はため息をつくのだった。
山崎は扉の前までたどり着くと、突然扉をがたんがたんと叩いた。
「すんません、新選組のもんやけども…」
そう扉の前で呟き相手の反応をうかがう。がた、と音がして一人の男が顔を出した。どうやら弥蔵ではないようだ。
「…何か用か」
「いや、こっちにキンノーの連中が来たっていう話聞いて飛んできたんやけど…」
「…何?いや…」
男が何か説明しようとしたのだろう、外に身を乗り出したその瞬間、山崎は懐に忍ばせた針で、男の延髄を貫いた。「うっ」という小さなうめき声をあげ、男が倒れる。
「よし。いいか、あんたは裏へ回れ」
その呟きと共に烈が走り、それにつられて伊東も走った。山崎は伊東の援護として伊東の後方に回る。
烈が部屋に入ると部屋の中が騒がしくなった。叫び声、がたがた、という足音。烈の前に男が一人走ってきた。弥蔵は後ろに逃げたらしい。男は烈を睨みつけて、
「てめえ!まさか…」
「おうよ。…わりぃが、外道の居場所は地獄だけだ」
「龍の会だな!…ぶっ殺してやる!」
男は懐にあったドスを抜いて襲い掛かる。とはいえ、男はドスで烈をただ闇雲に突くだけであった。殺し屋としての経験が足りないのだろう。
(なんだ。つまらねえな…)
悔しがっても始まらない。烈は薄ら笑いを浮かべながら、左手で相手のドスを持っている手を押さえ、いっきに引っ張る。強烈な引きにバランスを失い、男は前に倒れてしまった。烈は右手の関節を、べきべき、と鳴らして、その手を相手の右肩に当て、左手で曲げる。
「ぐぎゃあああああああああ!」
べきべき、という音と共に、異様な叫び声が響いた。男の右手が変な方向に曲がっている。これでもう、ドスは使えまい。烈は両手を自分の目の前で握った。男は、先ほどの勇ましい顔がどこかへ行き、今は、もう恐れしかない。顔面が硬直し、体はがたがた震えている。陳腐な表現だが、蛇に睨まれた蛙。命乞いをするしかない。同時に、烈にとってはもっとも楽しい時間である。
「た、助け…」
そう男が呻いたのを、烈は首を振って、左手で首を押さえつけ、右手を男の腹部に押し込んだ。べき、という音がして、男がぐったりとなる。息が絶えたのを確認して、
「さて…あっちの方は大丈夫かな…」
烈は立ち上がると、ゆっくりと背伸びをし、そして大きなあくびをしてからそう言った。
ここで死ぬわけにはいかない。弥蔵は刀を抜き、裏口に向かって走っていた。裏の戸を蹴って開けると、そこには、以前見覚えのある顔があった。
伊東甲子は扇子を右手に持ち、弥蔵に向ける。扇子の先から刃が飛び出した。
「馬鹿な…お前は死んだはず…!」
「うち、悪運が強うてな。どうやら、そう簡単に死ねないみたいや。…これも、業かもしれんな」
その言葉に何も答えず、弥蔵は無言で近寄ると、刀で突きかかった。伊東は左に避けて、仕込み扇子で一閃する。しゅん、と小さな風が起きたかと思うと、弥蔵の頬が裂けていた。
「ぐっ…!」
弥蔵の脳裏をこれまでの事が過っていく。
野良犬のように暮らしていた事。裏稼業という事に足を踏み入れた事。いつの間にか、自分は外道と呼ばれるような所業を繰り返していた。
何故だろう?
はじめは、何か大きな目標があったはずなのだ…。
何か大きな…。
「うるせええええええ!」
弥蔵は吠えると、自分でも信じられないような力で伊東を押し倒した。不意をつかれ、呆然とする甲子の柔らかな首を、弥蔵は両手で絞め始めた。
「くっ…」
「もっと苦しめよ。苦しめよおお!お前も竜之介ん所に送ってやるよ!」
伊東は精一杯反抗を試みたが、首を絞められては力が上手く出せない。もう駄目か、死ぬのか…と思ったその時。弥蔵の背後に小さな影が見える。その影が一瞬動いたかと思うと、弥蔵がうめき声をあげた。弥蔵の両手の力が弱まる。一瞬を狙い、伊東は仕込み扇子で弥蔵の首を一閃した。血が雨のように、伊東の顔に降りかかる。
「伊東はん…大丈夫?」
伊東が弥蔵の体を倒すと、その後ろの方で山崎が人懐っこい笑みを見せた。山崎は弥蔵の背中に太い針を突き刺したのである。
(そうか…うちに止めを刺させるために…)
自分で殺そうと思えば殺す事も出来たろうに、と、伊東は思う。いや、しかし、それでは山崎の美学が許さないのだろう。
「山崎はん…ありがと…」
伊東は血だらけのまま、山崎に抱きついた。
倉吉は現場に向かって、鴨川の近くをある男と一緒に歩いていた。
倉吉はその夜、一人の男と居合わせ、偶然一緒に飲む事になった。話が弾み、その相手の男は不意に、こう言ったのである。
「どうやら今夜、切り合いがあったようだ」と。
そして、その男はこうも言った。現場を教えてやるから、お前の手柄にしろ、と。
そう言われて黙ってられないのが倉吉の性分である。倉吉は、その男…如月に道案内をお願いし、現場に向かって歩いていたのである。
「夜は少し冷えますねえ、旦那」
提灯を持った倉吉は、そう如月に声をかけた。
「まあ少し季節も変わってきたからな。ところで倉吉…事件の次第を聞きたくないか?」
「へ、へえ」
前を歩いていた如月は立ち止まり、川のほうを向いた。思わず倉吉はその脇へ寄る。
「殺されたのは岡引だ」
そう呟いて、如月はゆっくり倉吉の背後へと進んだ。倉吉は、自分の仲間が殺されたらしいという話にうろたえたのか、立ち止まったままである。
「どうもこいつがあちこち嗅ぎ回っていたのを、キンノーたちが、許せねえ、と、後ろから一撃で切り倒した。死体はもう少し先で浮かんでるぜ」
倉吉は、体をがたがたと震わせながら、出ない声を絞り出すようにして、
「だ、誰なんですか…殺されたのは…」
「お前だよ」
その如月の声と同時に、振り上げた刀が倉吉の後頭部を直撃した。骨を砕く音がして、倉吉は「あっ」と声をあげると、川に転がった。如月は、「ちッ」と舌を鳴らすと、刀を鞘に収めて、その場を去った。落ちた提灯が静かに燃え広がり、やがて、消えた。
「そんで、結局裏稼業から足を洗うんだな、あの女は」
烈は卓袱台にもたれ、煙管を吸いながら言う。
「まあ、吹っ切れたんやろな。それに、その方が龍の会にとっても都合がいいと思うで。うちらの事目ぇ瞑ってくれるやろしな」
山崎は座布団にぺたんと座って、同じく煙管を吸いながら答えた。烈の顔はなぜか不満そうで、むっとした顔をしたまま、煙管を吸っている。
「どしたん?」
「いや、いい女だなと思ってな」
「え?うち?」
「いや、あの女が」
山崎は立ち上がると、煙管に残っていた灰を烈の頭の上に落とした。
(おまけのSS by若竹)
【原田】 山崎が伊東と付き合ってるらしいのよ。
【永倉】 こそこそ隠れて会ってるもんなあ。
【近藤】 あの2人がそんな関係だったなんて・・・。
【島田】 証拠の書状を見つけました!
「夜、祇園社で待つ 伊東」
【藤堂】 伊東先生がそんな・・・。
【原田】 2人はデキてるわね。
【近藤】 うう、甲子ちゃんが・・・・。
【山南】 山崎君を高台寺党に潜り込ませてスパイさせるという歳江さんの計略じゃないか?
【斎藤】 それは僕の役目なんですけど・・・・。