偽作・行殺(はぁと)新選組ふれっしゅ
『間者』編その3 それでも俺は・・・(中)

 隊士・安藤早太郎はやたろうが捕らえられた。一連の出来事の背後に何者かの悪意を感じた監察方の山崎雀は、真実を求めて仲間たちと行動を開始した。彼らの運命や如何いかに?
 あれ、またしても2行であらすじが終わってしまった。
 土方「手ぬるい!(?) どうせなら1行で終わらせてみせろ!」
 島田「副長荒れてる。隊の評判が、その、アレだから。そもそも誰に難癖なんくせつけてるんだ?」
 安藤「俺が活躍する見せ場って、やっぱり無いんだよ・・・な?」
 山崎「今回のような状況では、どうやっても無理でしょうね」
 安藤「くっそー、弓と矢さえあれば俺だってなあ」
 山野「・・・・・」
 安藤「決めゼリフは『狙い撃つぜ』だ。これでお助けヒーローいけるのに」
 島田「狙い撃つ・・・それって、完全に時期を外した感があるな」
 安藤「仲間の危機に、こう颯爽さっそうと現れてだな・・・何だよ山野その目は。文句あるのか?」
 山野「・・・・・」
 斎藤「山野さん、ちょっと困っているよ。難癖つけるのはやめた方が良いと思うけど」
 山崎「新選組の危機なんです! 真面目にやってください!(怒)」
 ・・・彼らの運命や如何に!?


 土方に経過を報告するべく、副長室を訪れた山崎であったが・・・。
「山崎さん、お待ちしていました」
 副長室の少し手前で、ぼーっと突っ立っていた山野に呼び止められた。
「どうしました?」
 山野は、こう言った山崎の顔に視線を向けたままで話し始めた。
「お夏さんと、亡くなった駒吉は、以前は仲むつまじかったようです」
「手代と、主人の一人娘が・・・ですか?」
「ええ。身分の垣根を越えた関係と言えます。ですが、父親である信助さんと娘のお夏さんの関係がこじれたのと時を同じくして、お夏さんと駒吉の関係も悪くなったそうですよ」
「その二つの事柄に、関連があると?」
「そうは言っていません」
 そう返答したものの、山野がその二つの事柄につながりがあると考えているのは明らかだった。
「わかりました。それも副長に報告しておきます」
 そう言いながら、山崎は既視感のようなものを感じていた。
“なんでしょう、この感覚は”
「山野さん、お疲れ様です。今日はゆっくり休んでください」
 そう言い置いて、山崎は副長室へと向かった。
 そして・・・。
 一通りの報告を終えて副長室を出た山崎は、明日の行動について考えながら歩いていて、
「きゃ!」
 突っ立っていた山野にぶつかりそうになって悲鳴を上げた。
「すみません山崎さん、驚かせてしまいましたか」
“・・・この人、さっきからずっとここで私を待っていたの?”
「い、いえ。私こそ気がつかなくて・・・それより、私に何か?」
 山崎は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、山野の言葉を待った。
「はい。実は・・・」
 山野は辺りを慎重にうかがって、誰も通らないと判断したのか、緊張した面持ちで話し出した。
「渡したい物があって、お待ちしていました」
“・・・あれ? やっぱり、何処かで”
 山崎はそう思った。心臓がドクンとなった。
“こ れ は・・・ま さ か・・・”
「これです」
 山野が差し出した物、それは一通の手紙だった。
“ああ・・・やっぱり”
 山崎は思った。これは・・・あれだ。
 手紙の差出人を見た。そこに記してある文字を見た。ようやく『その言葉』が思い浮かんだ。
“昨日起こった事・・・これは、ゆ め か・・・”


 はっとそこで目が覚めた。朝だった。見慣れた、屯所の天井が目に入ってきた。
「やはり夢でしたか・・・そうでした。昨日の夕方」
 手紙を渡されて、山崎は屯所を出た。そして、一人になれる場所でその手紙を読んだのだった。どうして一人になれる場所でなのかと問われれば、答えにくいがこう答えるほかはない。
『あれを読んだ私がどんな振る舞いに及ぶか、わからなかったから』
 その判断は正しかったと言わざるを得ない。しかし、今は感傷にひたっている場合ではない。
“今日は、お夏さんに会わなくてはならない”
 急いで身支度を済ませた。副長と話して、すぐに出かけるつもりだった。
「・・・私は元気です。とりあえずは、大丈夫ですから」
 それは昨日も口にした言葉だった。同じ言葉のようでいて、昨日とは少し違う言葉だ。
「さて・・・行きますか」
 山崎はそう、声に出して歩き出した。しっかりと前を見据えて。
 山崎雀、覚悟完了。


 意外に辺りはもう明るかった。ちょっと遅い目覚めだったらしい。山崎は足早に副長室に向かった。
「副長」
 土方の部屋には、斎藤がいた。
 今日はお夏に会って、彼女と話をして情報を得るつもりだった。土方には、お夏の名は出さず単に危険な諜報活動を行うため、藤堂さんと同道したいとだけしか言ってなかったが。
「山崎。要望に応えられなくてすまんな。斎藤なら、充分にその任を果たせると思うが」
「斎藤さん、ですか」
 山崎は言葉を切って、二人の顔色を見た。昨日と今日とで理由が違うとはいえ・・・。
「どうした?」
「山崎さん、なにか問題でも?」
 二人の問いに、少し申し訳なさそうな顔で山崎は答えた。
「ぜひとも藤堂さんを、と申し上げたはずです。彼女は今どこに?」
 土方の目がちょっと見開かれた。斎藤は情けなさそうな声で小さく言った。
「僕では駄目という事でしょうか」
「そういうわけでは・・・」
 言いかけた山崎の声を土方がやや強い調子で遮った。
「今回はいつになくかたくなだな。その人選、理由はあるのか?」
「・・・」
 山崎は答えなかった。土方が目で、返答を促した。
“確かに・・・不審に思われて当然です。でも”
 答えるのは、躊躇ためらわれた。できれば本当のことは言いたくない。
「今日の諜報活動は、その任務の性質上、護衛の方には完璧な気配消しの能力が求められます。そうなると斎藤さんよりも藤堂さんの方が適任だと、こう考えました」
“ある意味、士道不覚悟ですが・・・”
 土方は、納得がいかないように鼻を鳴らした。それに対して斎藤は、納得したように肩をすくめた。
「なるほど・・・僕より藤堂さんの方が気配が消せるのは、隊内では常識ですよね」
「・・・ふむ」
 まだ納得してないような土方だったが、それ以上は何も言わなかった。
「して、藤堂さんはどこに?」
 山崎が重ねてそう聞くと、土方は困ったように鼻の頭を掻きながらこう答えた。
「実、は・・・藤堂には黒谷に行ってもらった」
 黒谷とは、もちろん『松平けーこちゃん様』がいる、金戒光明寺の事だ。
「今回の一件について、報告に行かせたのがつい先ほどの事だ」
「昨日のうちに報告を済ませてはいなかったのですか?」
「情報がある程度、まとまるまでは迂闊うかつに報告はできん。それに・・・」
 土方は山崎から目を逸らして、小声で付け加えた。
「中将様がお怒りなのは確実だ。そのような場所に、あまり行きたいとは思わなかった。中将様のお怒りを柳に風と受け流しながら、つ的確な報告が行える者・・・そう考えて藤堂に白羽の矢を立てた」
「そうですか」
 意外と副長も・・・と口にしそうで山崎はあわてて口を閉じた。
“しかし、それだと少し困った事になりましたね”
 お夏に語るのは、あの・・一件を知らない人たちに聞かれたくない話なのだ。
「山崎さん、どうしてもと言う事でしたら、僕が黒谷に行って伝えてきましょうか?」
 斎藤が提案してきた。山崎は内心で、藤堂さんは神出鬼没だから会うのは無理かもと思いつつ、
「そう、ですね。ところで芹沢局長はまだ大坂に?」
 さりげない風を装って聞いてみた。二人は揃って首を縦に振った。
 山崎はため息をついた。あの一件を知る芹沢・藤堂の二人がいないのは残念だが、仕方ない。
「それが何か?」
 斎藤に聞かれて山崎は、当たり障りのない答えを返そうと思って彼に目を向けて・・・。
“おや?”
 気がついた。よく見ると斎藤の頬が少し腫れている。
「斎藤さん、その頬はどうしました? 腫れてるじゃありませんか」
「さっき、島田を起こしに行ったんだけど・・・島田が寝ぼけて振り回した手が当たって」
「あ、それは・・・」
 山崎がどう反応していいか悩んでいると、斎藤はこう続けた。
「島田、寝言がすごいよ。『腐ったパンでいいから食わせろー!』と大きな声で叫んだんだ」
“腐ったパン? 一体どんな夢を?”
 山崎はちょっと気になった。後で本人に聞いてみようと、そう心に決めた。
「まったく島田の奴め・・・けしからん。散々こき使って、ボロ雑巾のように捨ててくれる」
 不愉快そうに土方はこう言った。山崎はまたも、どう反応していいか悩んでしまった。
「副長、島田はろくに食事も取らずに、その、財布を探していたんです」
「何? 財布を落としただと? ますますもって、けしからん」
“そういえば、言ってましたね”
 山崎は思い出した。食事をおごろうとして、財布が無いと言っていた彼の姿を。
“あれからずっと探していたんですか”
「山野さんにも、探してくれるよう泣きついていました。山野さんは快諾していましたが」
 斎藤のその言葉を聞いて、山崎はあわてて話に割って入った。
「斎藤さん。その山野さんですが・・・今どうしているかわかりますか?」
「え? いえ、昨日の夕方、島田と話しているのを見たのが最後ですけど・・・」
 山崎は考えた。斎藤が不安そうに山崎を見る。
「・・・いえ、何でもありません」
 そう答えておいた。今はここでゆっくりしている場合ではない。できれば山野に会って、手代の六の方を当たってもらえるよう頼むつもりだったが、仕方がない。それに・・・。
「パンで思い出したが、山崎」
 いきなり土方が言って、厳しい目つきで山崎を見据えてきた。
「最近、食欲がないそうだな。朝は何も口にせずに出る事が多いと聞いたぞ」
 山崎は思った。やっぱり言われますよね、と。
「食べる時もあります・・・が、無理に食べると」
 山崎は小声で答え、わざとそこで言葉を切って土方を見た。『吐く』などとは言えなかった。
「山崎さん、どこかお悪いんですか?」
 斎藤の驚いた声にかぶせるように、土方が大きめの声で答えた。
「まあ、人間誰しも好不調の波はある。だがあまり自分だけで抱え込むなよ」
「・・・はい。ご心配おかけして申し訳ありません」
 山崎は、その話は終了という意味を込めて、口調を変えて斎藤に声をかけた。
「斎藤さんは普通に巡回していてください。後で、力を貸していただく事になると思いますが」
「・・・了解しました。山崎さんも、お気をつけて」
 山崎は急ぎ足で、屯所を出る事にした。藤堂を探して、時間を無駄にしている余裕はない。
 敵が次に打ってくる可能性が高い『手』。それは証言者であるお夏と六、二人の口を封じてしまう『手』。自分はお夏に会って話をすると決めた。場合によっては、襲撃者の手から彼女を守らねばならない。
“六さんの方は・・・今は、山野さんをあて・・にするしかないですね”
 浜見屋に向かったのならありがたいのだが、もしかすると全く違う行動に出たかもしれない。
“あてにしすぎるのは問題ですけど・・・常に最良と最悪の展開を想定しておかなくては”
 万一の場合は、お夏の情報だけが頼りだ。だがそれだけではない。
 お夏が情報を持っているから守りたいわけではない。守りたいお夏が、情報を持っているのだ。


 目的の場所に向かう途中・・・。
「雀ちゃーん」
 何と! 山崎にとっては予想外なことに、藤堂と遭遇した。
「あ、とうど・・・」
 これ幸いと、同道してくれるようお願いしようとしたが、
「ちょっとだけ困った事になってる」
 藤堂は、あまりそうは聞こえない声なのだが、普段よりずっと落ち着かない雰囲気だった。
「どうしました? 何か問題でも?」
 だから、つい山崎はそう聞いてしまった。
「黒谷に報告に伺ったんだけど、けーこちゃん様が行方不明になってるんだよ」
 ちょっとだけ困った、どころの話ではない。
「探して欲しいと頼まれちゃった。雀ちゃん、何かと忙しいとは思うけど」
 会話している時間も惜しいと思ってか、言いながら藤堂は去っていく。
「気に留めておいて欲しいなー」
「・・・・・あ!」
 頼めなかった。そう気づいて山崎は肩を落とした。彼女の話の腰を折って、お願いするべきだったのか。そう思ったが、もう藤堂の姿はない。
“この流されやすい性格・・・一種の病気みたいなものでしょうね”
 諦めた、というわけではないが山崎は気持ちを切り替える事にした。
“黒谷は、上を下への大騒ぎなのでしょうね”
 山崎は歩き出した。人は、できる事しかできない。


 辺りの山に高く夕雲が覆って、京からそれを見れば、この坂から雲が生まれるように見える。だからその名がついたという話を、山崎はある町娘から聞いたことがあった。
 山崎がやって来たのは雲の母たる坂、雲母坂きららざか
 比叡山へ向かう勅使が通った事から勅使坂とも呼ばれているが、何よりここは・・・。
“ここは、お夏さんが信助さんと初めて会った場所”
 お夏は雲母坂の近くで、浜見屋のあるじだった信助に拾われたのだった。
 探していたお夏はそこにいた。正しくは金戒光明寺の北、曼殊院まんしゅいんにほど近い、滅多に人が通らないような静かな場所。道が明らかに険しくなっていく、その手前辺りだった。
“話によると雲母坂はかなりの急坂で、昼でも薄暗くて一人で歩くのは心細いそうですから”
 お夏は、坂への道標がある辺りで、一人何をするでもなく立っていた。声をかけにくい雰囲気だったが、山崎は周囲に気を配りながら、少し距離をおいて穏やかに声をかけた。
「やはり、ここでしたね」
「・・・何だ、おまえか」
 不機嫌そうな声が帰ってきた。邪魔だと言わんばかりの声だったが、山崎は言葉を続けた。
「あなたは『悪い事』をした後は必ずと言っていいほど、この場所に来るんです」
 周囲には怪しい気配は感じられない。もっとも山崎は、気配を探るのは得意ではないが。
「ここで、お父上に・・・」
「気をつけろ。このへん、マムシが出るぜ」
「えっ?」
 驚いて周囲を見まわす山崎に、お夏は向き直って真面目な顔で付け加えた。
「おまえ、注意書きは見なかったのか?」
「ちゅう、い・・・書き?」
 見ていない。見えていたかもしれないが、お夏と話す事だけを考えていたので覚えていない。
「近くにあったはずだ。赤い字で『マムシ注意』と書いてあるやつ」
「気づきませんでした」
 肩を落とし気味に答える山崎に、真面目な顔のままお夏は声をかけた。
「蛇の間合いに入りさえしなけりゃ平気だがな」
 そしてまた背を向ける。山崎は少し、お夏に近づいた。
「ご心配おかけして申し訳ありません」
「別に・・・おまえの心配なんかしてねーよ」
 背を向けたまま、無愛想な声でお夏は答えた。
「今日はお夏さんにお話があって参りました」
「オレは、ないよ」
 短い拒絶の言葉。しかし山崎は気にせずに話を始めた。
「まずは、安藤さんに関する話です」
「・・・ハゲの事はどうでもいい。オレはもう行くぜ」
「昨日、安藤さんが刀の件で黙秘した理由ですが」
 山崎はやはり気にせずに話した。お夏は自分で言ったくせに、立ち去ろうとはしない。
「何故なのか、お夏さんにはおわかりと思いますが、話しておきます」
 お夏は背を向けたままだ。周囲は気になるが、山崎はお夏に集中する事にした。
「お夏さんが幾度か安藤さんに金の無心をした事は調査済みです。複数回、金の無心をしたのが安藤さんだけだと言うことも調べがついています。安藤さんは大切な刀を質に入れてまで、お金を工面くめんしました。昨日あの場で安藤さんがそれを話せば、お夏さんに『傷』がつくわけです」
「金を借りて返さない女、か? 下調べご苦労ってトコだな」
 お夏が不意に声を出した。背を向けたままで吐き捨てるように言葉をつなげた。
「オレが悪女なのは世間のみんなが知ってるよ。それに、俺はハゲにそんな事頼んでない」
 山崎は聞こえるように、一つ息をついた。
「お夏さん。いつまでそうやっているつもりです? お父上が、どれほどあなたの事を・・・」
「説教なんか聞きたくないな。オレはおまえとは違う」
「どう違うんです?」
 すかさず山崎は聞いた。お夏の反応は山崎には予想できていた。
「オレは見ての通り、悪女。おまえは見ての通り、優等生。根本的に違う生き物だ。だからオレとおまえは合わないし、理解しあえない」
「理解し合えない、という言葉が出る時点で既に・・・理解して欲しい思いの裏返しでは?」
「上から目線で物を言う女だな。おまえ、自分の判断が絶対正しいとか思ってないか?」
「ご忠告ありがとうございます。覚えておきますね」
「忠告って、オレが人に・・・!」
 山崎はお夏の言葉を遮るように、ここまで穏やかだった声を鋭いものに変えて聞いた。
「楽になりましたか?」
「・・・!?」
 言葉に詰まるお夏に、山崎は鋭い声のまま続けた。
「そうやって、悪い女を演じ続けて、あなたの心は楽になりましたかと尋ねているのです」
「・・・」
「自分を偽り続けても、心が楽になる事はありませんよ。むしろますます」
五月蠅うるさい!」
 大きな声でお夏は叫んで、くるっと山崎に向き直った。
「そうやって何でも決めつけてんじゃねえ。おまえ、なにさまのつもりだ?」
「私は雀です。山崎雀」
「そんな事聞いてねえよ。オレになんか構ってないで、やることやってろ鳥女とりおんな!」
「私とあなたは違う、からですか?」
「ああ、違う。そんなのすぐわかるだろ」
 山崎はじっとお夏の目を見つめて、やおら今度は情感たっぷりに話し出した。
「同じですよ。私も、あなたも」
 お夏は呆気にとられた。一瞬の空白の後、
「は? なに言ってるんだ。オレは知っての通り、男をだまして生きている女だぜ」
「『仮面』をかぶってですか」
「かめん? まあ、うん、そうだな。男を騙すための『仮面』だな」
 山崎の言葉の意味を図りかねてか、お夏は見るからに不審そうな表情になった。
「私もそうです。仮面をかぶって他人を騙している『悪女』ですよ」
 お夏は思わず背を向けて立ち去ろう・・・とした。背中を向けたまではできた。のだが、それ以上足が動かなかった。まるで足が、石にでもなったように重たく感じられた。
「先日、ある人が隊の規律でその命を終えました」
 山崎の話が始まった。お夏は否応いやおうなくその声を聞く事になった。
「野口さんといって、一時は道を誤ったその人も、最後は武士として人間として立派な最後を迎えました。ですが私は納得いかないものがあったのです。何故、野口さんが死なねばならなかったのか? と」
 風が、周囲のちりを巻き上げた。
「隊にはもっとだらしない、駄目な人間がいるにもかかわらず、しっかり立ち直ったあの人がどうして死ななければならなかったのか? ずっとそう考えていました。隊規の生みの親たる人間を恨みました」
 お夏は背を向けたままだったが、山崎は気にせず話を続けていた。
「今回の、安藤さんの件ですが・・・死罪もやむなしという隊内での意見を耳にして、私は、反対する気がありませんでした。ある意味で当然の判断だと、支持するつもりでさえいたのです」
「そ・・・」
 思わず問いかかって、お夏はあわてて口を閉じる。山崎の様子をうかがおうとして、やめた。
「さきほどの、野口さんの処断の話に戻りますが、介錯をつとめたのが安藤さんです。安藤さんは何もわからずに野口さんの命を奪った人間なのです。しかも女好きでだらしない人間でした。私は、あの人ではなくこの禿頭の男が死んでいれば良かったのに、とさえ考えました」
 一際、強い風が坂を吹き抜けた。砂埃すなぼこりが舞った。周囲の木々から、鳥たちが音をたてて飛び立った。
「副長にそれを戒められて、私は一応平常心を取り戻しはしました。が・・・それがなければ、そしてもう一つの戒めがなければ、私は今ここにこうして立ってはいません」
 お夏は背中を向けたまま、動こうとしなかった。
「・・・話は変わりますが」
 そう言いつつ、さりげなく山崎は一歩、お夏に近づいた。
「お夏さんは、よく男の人と遊んでらっしゃるそうですね。怖くはないのですか?」
 この先に進むのは、勇気が必要だった。もし敵が潜んでいたら聞かれる事になるが、覚悟の上だ。所詮しょせんは赤の他人、新選組のみんなに知られるよりはマシだ。
「私は、怖いです。正確には、怖くなってました」
 声が、ともすれば震えそうになるのを我慢して、山崎は言った。
「もうかなり前の話になるのですが、私は任務中に不覚を取り、囚われの身となった事がありました。その時に随分とひどい目に遭いました。それ以来・・・私は、男の人が怖かったんです」
“こわ、かった・・・? 怖くなった、じゃなく? いやその前のも、こわくなってた・・・・、だった”
 お夏は疑問に思ったが、何も言わなかった。
「町を歩いていても、男の人が近くにいると緊張しました。すれ違う度に、声をかけられる度に、見られる度に、逃げ出したくなるのを必死に我慢してました」
 山崎は一旦目を閉じて、隊にいる何人かの男を思い浮かべてみた。昨日までは怖くて足が震えそうになるのが普通だった。しかし今はそれほど怖くはなかった。
「あの日以来、私はずっと『仮面』をかぶって他人を騙してきました。男の人が怖いなんて、とても言えない事ですし、監察方としての職務に障りますからね。騙した人の数なら負けてませんよ」
 風は、やんだ。しかしお夏の心の中の風は、やまなかった。
「寝ても覚めても、その夜の記憶が心をさいなみ食欲も失せて行きました。もしかしたらと思うと、仲間であるはずの新選組の同志にもそれは起こっていました。死のうと思った事もありました。ですが、すぐに決意は揺らぎました。こんな事で自分の命を投げ捨てるのが、とても惨めな事のように感じて、苦しい日々を過ごしていました。そんな時でした。あの人・・・野口さんが」
“さっき聞いた名前だ。なるほどそいつが心の傷を・・・って何でオレはこんな事考えてるんだ?”
 お夏は自分の心に浮かんできた言葉に戸惑っていた。
「野口さんは、事あるごとに私を気にかけてくれました。けれど・・・私は、ほどなく別の苦痛に苛まれる事になりました」
 いつしかお夏は、山崎の言葉に真剣に耳を傾けていた。
「野口さんが起こした事件。その調査に乗り出して、私は被害に遭いました。と、言うことは・・・私がこんなにも苦しんでいるのは、野口さんが元凶なのではないか? そう思った時、私は思わず錯乱してしまいました。それが間違っているのは重々承知していました。野口さんの狙いは別にあったのです。私が被害に遭ったのは、自分で事件に首を突っ込んでおいて不覚を取ったからで、野口さんのせいではないのだと」
“・・・・・”
「けれど、野口さんは私が襲われるのを承知していながら、何もしてくれなかった。それどころか、自分が殺害しようとしていた相手を助けに行ったんです。私を見捨てたんです!」
 山崎の声は、ここで叫びとなってお夏の心に入ってきた。
「わかってました。違うって事はちゃんとわかってたんです。でもあの人は、健司さんは私を助けてはくれなかった! それでいて、今度は私に優しくしてきて・・・それって非道いじゃないですか! 偽善じゃないですか! 私の心の傷を癒してくれた人が、その原因を作った人で、憎んでも憎みきれない人で、でも憎めるはずがない人で! もう自分の心が何処にあるのか、わからなくて・・・」
 お夏は気になる事があったが、もう少しだけ黙って話を聞く事にした。
「こんな嫌な気持ち、消したかったの! でも消えなかったの! 無くなってくれなかったの!」
 一旦言葉を切って、山崎は気持ちを落ち着けるかのように深呼吸した。
「こんな『素顔』誰にも見せるわけにはいきません。健司さんには特に、です。だから私はずっと『仮面』をつけて日々を過ごしてきたわけです」
 普段と変わらぬ声に戻って山崎は言葉を続けた。
「さて、私がここに来ていられる理由の、もう一つの指摘の事ですが・・・」
 そこまで言った時、お夏が鋭く声を上げて山崎をさえぎった。
「もういい」
「・・・え?」
「仮面をつけて、男を騙して・・・か。確かに、同じかもしれない」
 山崎は口を閉じて、お夏の言葉を待った。
「オレも、ずいぶん前からそうだった。『』の顔なんて見せてなかった。男が変われば、違う『仮面』をつけてた。どの男の『目』も、オレの上っ面だけを見てると感じてたよ」
 また、風が吹き始めた。さっきとは違ってそれは二人の間に静かに流れた。
「あのハゲには困ったさ。頼みもしないのに、こっちの『素』の顔を見ようとしやがるんだ。他の男どもとは違う視線を向けてきやがるんだ。その『目』が怖かった。だから、わざと借金重ねてあの『目』を変えてやろうとした。けど・・・あいつ、ちっとも変わらなかった」
「いつから、お夏さんは『仮面』を?」
 ちょっと不安だったが山崎は話に割って入る事にした。
「もう十年以上、だな。駒吉と身分違いの初恋をしてた頃までは、何もつけてなかった」
 意外にもお夏は何も言わずに反応を返してくれた。
「オレが拾われた子だって話は、それとなく耳に入ってたけど別にどうって事なかった。オレは浜見屋のお夏で、父親は浜見屋の信助。それは間違いないわけだしな」
「駒吉さんとは、何が?」
 さらに聞いてみた。安藤の行動が不快で偽証に乗ったとしても、お夏が駒吉の死に何も感じていないはずがない。二人の間にあった何か、が尾を引いているのではないか。
「言われた事があった」
 短く答えて、しばらくお夏は沈黙した。山崎は今度は辛抱強く待った。
「和菓子屋の家で育ったから和菓子屋になって、大工の家で育ったら大工になるのか?・・・ってね」
「・・・」
「グサッと来たよ。オレは本当に『和菓子屋になりたいと思ってる』のかなって。単に、和菓子屋を継ぐのが当然だって思いこんで勘違いしてやしないかなって。一生懸命考えたけどわからなかった」
「まさか、それで信助さんと?」
 山崎の問いかけに、お夏は小さくしかし確実に首を縦に振って答えた。
「オレはあんまり要領良くないから。一度頭を徹底的に切り換えてみようって思って、言っちまった」
「家業は継がない、と?」
「オレもバカだよなあ。もう少し、別の言い方があっただろうにさ・・・そんときの、父さんの顔は忘れられない。オレは、その初めて見る父さんの顔に動揺して、つい逃げちまった」
 お夏は背中を向けたままだったが、自嘲気味に笑ってるようだった。
「逃げて、何もしないで、駒吉が何かしてくれるんじゃないかって勝手に期待してた。結局、駒吉は何もしてくれなくて、父さんとの間には大きな溝ができちまった」
「・・・駒吉さんの事を?」
「おまえと同じだ。元はと言えばあいつのせいでこんな事になった。父さんとの仲を取り持ってくれてもよかったのに。あいつは責任も取らずに逃げた最低な奴なんだって、何もかもあいつのせいにしたよ。だから・・・今回のたくらみであいつを、駒吉を犠牲にするって話を聞かされても、へえそうか、て感じだった。別にいいかなって、そう思っちまったんだ」
「私と同じ・・・」
 山崎は、反芻はんすうした。お夏は手でピタピタ額を叩いて、肩をすくめた。
「オレは何を言ってるんだ? こんな事、今更言って何になるってんだ。オレの今までやってきた事が、こんな事で消えるってわけでもないのに」
 そして額に手を当てたまま、不意に時が止まったかのように動かなくなった。
「・・・?」
 奇妙に思った山崎が話しかけようとした時、お夏はいきなり振り向いた。
「おまえ、オレなんか相手にしてる場合じゃないぞ」
 お夏の言葉に、山崎はぎくっとなった。嫌な予感がした。
「夕べのうちに、手代の六は伏見に向かったよ。表向きは駒吉の不幸を家族に知らせに行くって名目だが、そのまま伏見から西国へ逃げる手はずになっている。竜三を含め、浜見屋うちの何人かがあんたらの敵さ」
“・・・迂闊うかつ。何故もっと早く気づかなかったのか”
 山崎はそう思った。山野さんが朝のうちから六の身柄の確保に動いていたとしても、一足違いで取り逃がしてしまった事になる。敵に、先手を打たれてしまった形だ。
狡猾こうかつですね。竜三さん・・・竜三、の指示なのでしょうか?”
 そうすると六さんはお夏さんの知らない情報を握っているかもしれないと、山崎はそう考えた。お夏さんの情報はこちらに漏れてもかまわない、という事だろうか。
 ただ、そうなるとお夏と六で後の始末が違うのが気になってくる。お夏は京都で口を封じるのに対して、六は伏見から西へ逃がす? いや逃がすと思わせておいてやはり口を封じるのだろうか?
 山崎はこの出遅れをどう取り戻せばいいか、懸命に考え始めた。そのせいで反応が遅れた。


“話したのか。お夏の裏切りは確定だな。指示に従ってあの二人を処刑する”
 物陰に潜んで、山崎とお夏の様子をうかがっていた者たちがいた。そのかしらたる浪人・青山は指笛を吹いた。それを合図にして、襲撃者たちがわらわらと走ってきて二人を取り囲んだ。
「な、なんだおまえたち!」
 お夏のこの言葉に、山崎は現実に帰ってきた。既に数人の男たちに囲まれている状態だった。
“重ね重ね、迂闊でした。これほどの数の人間の気配に気づかなかったとは”
「新選組の山崎雀。それに浜見屋のお夏だな。抵抗するだけ苦痛が増すぞ。おとなしく、死ね」
 青山の言葉に、山崎は動揺する素振りも見せずに答えを返した。
「やまざきすずめ? 誰の事ですか? 私の名前は奥野ですよ」
“おまえは何を言っているんだ?”
 お夏は思わず声に出しそうになった。いくら何でもそれはないだろう、と。
「とぼけても無駄だ。今日、浜見屋のお夏と新選組の山崎雀が二人きりで会う事は知っているんだ」
 青山は平然と言い返した。山崎は、相手のその言葉を待っていた。
「はい、確かに私は山崎ですが・・・誰の差し金で、このような事を?」
「言うものか」
「確かに」
 当然、そんな事を答えてもらえるとは思っていない。しかし答えが要らないのも確かだった。
「ところで、私が今日、お夏さんと二人だけで会うのをよくご存じでしたね?」
「それは・・・!」
 青山は口を開きかけて、自分が口を滑らした事に気づいた。 
「土方副長にも、その事は知らせてなかったんですよ。私が今日、二人きりでお夏さんと会うことを知っているのは、新選組の安藤早太郎はやたろうともう一人・・・」
 じっと見つめると、相手の浪人は目を逸らした。
「あなた方にこんな事・・・・を命じたのは、同心の木田きたですね」
 相手は答えなかった。その代わりに、周囲に満ちている気配がより険悪なものになった。
 最初に青山に出されていた指示は、事件についてあれこれ嗅ぎ回るであろう新選組隊士・山崎雀を密かに始末せよ、というものである。だが昨夜になって、木田から新たに付け加えられた事があったのだ。
 新たに付け加えられたのが、万が一お夏が情報を洩らすような事があれば『お夏と山崎の両名を殺せ』というものだった。ただし二人のやり取りを確認した上で、という条件がついている。
“ある意味、思惑通りなのは良い事なのですが・・・”
 お夏をかばうようにしながら、山崎は考えていた。確かに、早い段階で自分やお夏を始末する必要はあるだろう。けれどもこう露骨に、私のいた餌に飛びつくというのは妙だ。
“やはり、竜三とも木田とも違う人物・・・背後で何事かを画策している人物がいる”
 その人物の意思と、木田や竜三の意思とがそれぞれ微妙にずれているのかもしれない。
“恐るべき戦略家・・・といった印象の男、いや女の人でしょうか?”
 山崎が一連の事件の背後に感じた気配。それは繊細で緻密な思考の持ち主。非常に頭の回転が速い人物の気配だった。それは竜三とも木田とも違う気配だ。
「おい・・・」
 後ろでお夏の声がした。心なしか、不安そうな響きがあった。
「大丈夫です」
 そう言って山崎は両手を広げた。お夏をかばう、これ以上ないほどの意思表示だ。
「その女を庇うのか? 嘘をついてお前たちを追い詰めている、悪女だぞ」
 青山が挑発的に言ってきた。後ろでお夏が、かすかに息を吐いた。
「新選組の人間が、そんな女を守るというのか? お笑いだな」
「そんな女とは何です。私は、新選組の人間である前に」
 山崎は、チラリと後ろのお夏を見てから言葉を続けた。
「お夏さんと同じ、『そんな女』です」
 普通じゃないな、と言う顔を青山はした。周囲の男たちも皆一様に同じ表情にした。山崎とお夏の、先程からのやり取りは聞いていたはずだが、山崎の言葉を『理解できない』という顔になった。
「おまえ・・・」
 お夏は山崎の背中をじっと見た。そして幼い頃の記憶を思い起こしていた。
 もう十年以上も昔だった。誘拐されかかったお夏を、父・信助が必死に助けてくれた事があった。
「旦那様、それ以上はおやめください。『浜見屋ののれん・・・』に傷がつきます!」
 二人の誘拐犯を叩きのめす、屈強なあるじの姿に手代がこう制止の声を上げると、
「だからどうした。俺は浜見屋のあるじである前に、お夏の父親だ!」
 こう、信助は叫び返した。その背中を、幼いお夏はじっと見つめていたのだった。
「父さん・・・」
 思わずそう声が出ていた。一瞬だが、小柄な山崎と逞しかった父の姿が重なって見えた。
“今更・・・だな。もう、あの日には帰れないさ”
 考えをまとめた。そして目の前の背中に、声をかけた。
「おい、スズメ」
「?」
 意識を向けるよりも早かった。強く押されて山崎は男たちの中に倒れ込んだ。当然、複数の手から動きを封じられる。二人の男に強く掴まれて、山崎は顔をしかめた。
「お夏さん?」
「・・・ふん」
 山崎を見るお夏の目は冷たかった。と、言うより醒めているように見えた。
「よく考えたら、今更だったぜ。良い子ぶったって罪が消えるわけはないもんな」
 そう言ってからお夏は青山に目を向けた。ちょっとだけ目を細める。
「あんたが、かしらみたいだな・・・ものは相談なんだが、オレだけ見逃してくれないかな?」
「お夏、さん?」
 確認するように声をかける山崎に、ちょっとだけ視線を向けてお夏は答えた。
「お人好し過ぎるぜ・・・『仮面』だよ『仮面』。『仮面』に騙されてんじゃないよ」
 青山や他の男たちをぐるっと見ながら、お夏はニヤニヤした。
「言っただろう。男を騙す『仮面』をかぶって生きてきたって。簡単に他人を信じるなよ」
「・・・・・」
「そこの浪人の言うとおり、オレは嘘つきなのさ。いい勉強になっただろ? ところで」
 また、お夏は青山に目を戻した。
「どうかな? オレを見逃すって話」
 青山は考えている様子だ。
「オレは、まだまだ人生楽しみたいんだ。な、いいだろ? おまえだって楽しみたいだろ?」
 楽しみ、の言葉と共にお夏は手をニギニギさせた。思わせぶりに、自分の唇を尖らせた。
「む・・・うむ、しかし」
「もちろん、他の連中と一緒にだって・・・オレは、かまわないんだぜ」
「青山さん・・・」
 誰かが、掠れた声を出した。男たちはお夏の言葉に色々な想像をしているようだ。青山は山崎の顔を盗み見ながら、ため息をついた。
「お夏さん。信じたのに。馬鹿な事を。生命いのちが惜しいのですか?」
 ゆっくりと山崎は聞いた。お夏も同じような言い方で答えた。
「あのなあ。たまにはさ。利口になれよ」
 妙に抑揚をつけた声で言うと、お夏はチラリと青山に視線を移した。
「この女ムカつくんで、殴っていい? いいよな?」
 青山の言葉を待たずに、側から山崎を掴んでいる二人の男に普通の言い方で言った。
「おまえら、押さえてろよ。動くんじゃないぞ」
 握り拳を作ってお夏は二、三度腕を回して見せると、自然な感じで間合いを詰めてきた。その時になって青山は気がついたのだが、遅かった。
「おりゃ!」
 お夏が繰り出した拳は山崎・・・の隣にいた男の顔面に炸裂した。同時に反対側の男の鳩尾みぞおちには、山崎の肘打ちが決まっていた。
「ぎゃあ!」
 二つの悲鳴が重なる。山崎の身体が僅かに後方に下がって、男二人の身体をそれぞれ反対の方向に突き飛ばした。二人は体勢を崩して、他の仲間を巻き込んで無様にすっ転んだ。
「ぐおお!」
 攻撃を食らった二人は倒れてもがいている。辺りは混乱状態だ。
“すっ転んだ人間はみんなあんな感じで、もがくのでしょうか?”
 山崎の頭に、何故かそんな疑問が浮かんだ。
「スズメ!」
 お夏が大きな声で言った。山崎は思考の海から瞬時に浮かび上がった。
「ハゲは無実だ! 早く行け! オレの知ってる事は竜三も知ってるからそっちに当たれ!」
 山崎は、それには返事をせずにお夏の腕を掴んだ。
「お夏さんも一緒です!」
 力強く言い放つと、山崎は無理矢理にお夏の腕を取って走り出した。
「いや、オレは・・・」
「一緒に、です!」
 繰り返した。お夏は小さく、頑固なヤツ、とつぶやいた。
「ま、待ちやがれー!」
 ようやく落ち着いてきた男たちが、背後で叫んでいた。青山を含めると、全部で六人いた。
「俺たちを騙しやがったな! ふざけやがって!」
 そんな声に、首だけ振り向いてお夏が叫び返していた。
「バーカ! ちゃんと言っただろうが! オレの『仮面』は、男を騙すためのもんなんだって! あれだけ仮面、仮面と連呼してやってたのに聞こえてなかったのかよ!」
「お夏さん! 言い返してないで、ちゃんと走って!」
 二人は走った。二対六では勝ち目はない。何としても、仲間の目に止まりそうな、人通りの多い場所まで逃げ切らなくてはならない。


「いい加減に起きねえか!」
 大きな声。そして身体に走る鈍い痛みに安藤は目を覚ました。目を開けると、そこには見覚えのない景色が広がっていた。思わず間の抜けた声が出た。
「あれ? 俺はどこだ? ここは何だ?」
「いつまで寝ぼけてるんだ」
 間近で声がした。その時になってようやく安藤は、身体の自由が利かない事に気づいた。
「おい、こりゃどういう事だ。どうして俺は縛られてるんだー!」
 叫んだら、蹴られた。痛みに顔をしかめて安藤は、蹴った人間を睨み返した。
「あんた、本当に新選組の隊士なのかい? 何をしても起きそうになかったんで拍子抜けしたぞ」
 別の方向からも声がした。安藤はそっちを見た。今度は、見覚えのある顔だった。
「おまえは浜見屋の、たしか・・・竜三」
「いかにも、俺が竜三だ」
 竜三は偉そうに言って、目で周囲を示した。彼の他に、配下と思われる男たちが三人いた。
“どうも・・・どっかの蔵、か何かに入れられてるみてえだな”
 安藤は目だけを動かしながら、ぼんやりとそんな事を思った。
「安藤さんよ。このままじゃ、あんたは終わりだ。そのくらいはわかってるだろう?」
 安藤は黙って、竜三を睨みつけている。
「あんたらがよく使う・・・シドウフカクゴとかってやつだ。仲間から、斬られるんだ。ひでえ話だよな。昨日まで一緒に飯を食ってた人間に、首を落とされるんだ。こないだは落とした側だったのによ」
「何がいいたい」
「まあ話は最後まで聞くもんだ・・・いくらあんたが『やってない』と叫んでも、今の状況じゃ誰も信じはしない。無実の罪で殺されるのは御免だよな? そこでだ、俺たちがあんたの無実を証明してやる」
「無実を、証明?」
「ああそうだ。世間では、あんたはお夏お嬢様を襲って、うちの人間を斬って逃げた事になっている。その下手人げしゅにんが明らかになれば、晴れてあんたは無罪放免だ」
「おまえは何を言ってるんだ?」
「外側だけでなく、頭の内側まで薄っぺらい男だな。俺たちがその『下手人』を別に用意してやると、こう言ってるんだよ」
「誰がうすらハゲだって?」
「そんな事は言ってない・・・で、どうだ?」
 安藤は少し考えて、答えた。
「俺を連れ出したって事は、牢はどうなってる? こんな事がバレたら浜見屋は終わりじゃねえか。一介の商人あきんどが渡るにしちゃ、危な過ぎる橋だろ」
 竜三はその言葉を聞いて、意外そうに眉を動かした。
「馬鹿かと思えば、そうでもない時もある。掴み所のない男だ」
 周囲にいる男と視線を交わしてから、竜三は気を取り直したように話し出した。
「奉行所の方は心配いらねえ。身代わりを用意したからな。一日、二日なら誤魔化せるさ」
「あんたらは、どんな得がある? 俺に何をさせようってんだ?」
「なあに、難しい事じゃない。晴れて隊に戻った後で、たまにでいい、俺たちが望む情報をこっそり教えてくれりゃいいのさ。もちろんタダで働いてくれなどとは言わん。礼は充分に、はずむつもりだ」
 安藤は鼻を鳴らした。そして小馬鹿にするように言い返した。
「恩を売る代わりに、俺に『間者かんじゃ』になれってか。あいにくだが俺には間者はできねえよ。すぐにバレて、俺はもちろん首が落ちるだろう。おまえらだっておしまいさ。副長は疑り深い人だからな」
「なるほど」
 竜三はそう言って、意味ありげに安藤を見つめてから、ニヤリとした。
「だが案ずるには及ばない。人は一度探した所は二度は探さないものだ。たとえ探したとしても、その探し方は随分と甘いものになる」
 安藤がその言葉の意味を図りかねていると、竜三は安藤に顔を寄せて小声で言った。
「ある御方が、我々に知恵と力をお貸しくださっている。今のも、その御方が言われた言葉だそうだ」
「ある御方って誰なんだ?」
 安藤の質問に、竜三は顔から笑みを消した。
「そいつは言えねえな」
 その御方がどこの誰なのか、実はまったく知らないのだが、それを教えてやる必要はない。
「自分が先に口にしたってのに、言えねえって答えるのも妙な話ですぜ」
 三人の男のうち、一人が軽い口調で言った。ぎろり、と竜三が男を睨む。
「五郎、何だその口の利き方は」
「は、申し訳ありませんでした」
 五郎と呼ばれた男は神妙な顔になって、大げさに頭を下げて見せた。
「・・・浜見屋を預かる人間が、店の金を私的に使う気かよ?」
 安藤はこの場で可能な限りの情報を得たいと考えて、こう聞いてみた。返ってきた答えは、
「あんたに渡すのは、浜見屋の金じゃない」
 安藤は不快そうな顔になって、何事か考え出したようだった。竜三は再び笑みを浮かべて言う。
「まあ、何にせよだ。あんたは一度疑われて、その疑いが晴れる人間だ。そんな人間をまた新たな気持ちで疑う事のできる奴は滅多にいない。だから、良いんだ。間者としては実に良いんだ」
「・・・」
「どうだ? あんたの無実は保証される。その後の生活も保障される。あんたも本当は、今の野良犬みたいな生活に満足はしていないんだろう? 悪い話じゃないと思うがな」
 安藤は心なしか、気取った声でこう言い放った。
「仲間を裏切る事はできねえ。俺たちは野良犬かもしれねえが・・・おまえらはそれ以下だぜ」
「おまえ、この状況をわかって言ってんだろうな!」
 竜三の周囲にいる男たちが、そう叫んで猛然と安藤の身体を殴った。蹴った。安藤は縛られた状態で、その責めに耐えた。竜三は、しばらくその様を見物してから、制止の声を上げた。
「そのくらいでいいだろう。おまえたち、あまり手荒な真似はするんじゃない」
 それから安藤に目を向けて、もったいをつけるようにこう話しかけてきた。
「あんた、お嬢様が欲しくはないのか? 自分だけのモノにしたいんだろう、違うか?」
「!?」
「あんた次第では、俺たちがうまく取りはからってやるぞ。どうだ?」
「・・・まさか・・・俺なんかに」
「手はいくらでもある。あんたが無実の身体になりゃ、お嬢様とて世間の手前、態度を改めざるを得んさ。クスリを使うって手もあるしな・・・なあ? いい話だとは、思わんか?」
 意外とお夏はこのハゲの事を憎からず思っている節もあるし、と竜三は内心笑った。
「すぐに心を決めろというのも何だな。今後の人生に関わる話だから。ここでしばらく考えてから、答えを聞かせてくれりゃいい」
 竜三は配下の男たちを連れて、蔵から出た。戸を閉めてかんぬきをかける。そして、歩いて蔵の入り口から庭に出た。母屋に向かう途中で、雇っておいた浪人二人とすれ違った。
「何かありましたら、よろしくお願いしますよ先生方」
 二人の浪人の反応を見もせずに、竜三は早足で歩き去った。
「食い詰め浪人が役に立つとも思えんが、まあいないよりはマシだろうさ」
 充分に離れたところで、竜三は小声でそうつぶやいた。
 竜三とて『御店おたな』を愛する心は持ち合わせている。このたくらみが露見すれば、御店は確実に終わるだろう。しかし・・・木田の話を聞いて、竜三は賭けてみたくなったのだ。
“木田様は言っておられた。その方は、世を変える御方だと”
 この賭けに勝てば、御店はより大きく豊かになるだろう。ここで夢に挑むのも悪くはない。世がどう変わろうとも、力ある商人は必要とされるのだから。
“俺は京都一の、いや西国一の、いやこの国一番の商人あきんどになってやる”
 竜三は、浜見屋の番頭である前に、夢を追う男なのだ。




<後書きモドキ>後編じゃなくなってしまいました。分けないと、30P近くにもなったので、分割・加筆修正して中・後編へ。結果、前・中・後編な物語に・・・。


(おまけのSS・by若竹)
【土方】山崎、藤堂の代わりに斎藤を用意した。
【斎藤】『藤』しか合ってませんよ。
【土方】50%の一致だぞ。
【山崎】ぜひとも藤堂さんを、と申し上げたはずです。
【土方】声も似てるから、特に問題ないだろう。
【斎藤】そういう問題なんですか?


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