偽作・行殺(はぁと)新選組ふれっしゅ
『間者』編その2 自分の居場所(後編)



 副長助勤・野口健司を探っていた監察方の山崎雀だったが、島田が行方不明になり、芹沢が呼び出され、さらには山崎自身までが囚われの身となってしまった。彼らの運命や如何いかに?
 あれ、2行であらすじが終わってしまった。
 島田「ちょっと待ってくれ! 俺の活躍の場はいつなんだ?」
 山崎「私に聞かれても困ります」
 芹沢「自分でどうにかしたら? アタシもヤバそうだし雀ちゃんに至っては貞操の危機よ」
 山崎「そう、改まって『貞操』などと言われると・・・」
 島田「はっ! 今俺はミニスカ姿の山崎さんと二人きりでしかも相手は縛られている!(ニヤリ)」
 芹沢「自分も縛られてるくせに不謹慎な事を考えてるわね。ところでさ、雀ちゃん」
 山崎「何ですか?」
 芹沢「野口クンの財布、返してないでしょ? ドロボーよ、それって」
 山崎「ええっ!? 私、ドロボーなんてしてません!」
 芹沢「だってさー、原稿読み返してみても『財布返した』なんて記述ないんだもん」
 島田「そ、それで山崎さんの財布はあんなに重そうだったんだ・・・」
 山崎「む、無実ですぅ! 記述がないだけで、財布はちゃんと返しましたよ!(汗)」
 ・・・彼らの運命や如何に!?


 島田と二人きりになった山崎は、部屋のあちこちに目を走らせつつ、こう言っていた。
「近くに川があります。島田さん、覚えていてくださいね。音だけでも手がかりになります」
「え?」
 島田は間抜けな声で聞き返した。山崎はため息をついて、同じ言葉を繰り返した。
「えーと、覚えていろと言われても・・・俺、物覚え悪いんですよ」
 山崎がそれに対して何か言う前に、音をたてて戸が開かれた。
 さっきの浪人がいた。その背後に何人かの男の姿がある。
「戸は丁寧に開け閉めするように、教わりませんでしたか?」
 険しい顔と声で、山崎は先頭の男に聞いた。しかし彼らはそれを無視して部屋に踏み込んできて、縛られて転がっている島田を担ぎ上げた。
「おい、何をする気だ・・・」
「あー黙れや」
 彼らの一人がそう言った。そして島田に対して猿轡さるぐつわをかませた。
「むぐ・・・ぐふー」
「あ、そうや。目隠しもな」
「ふぁにを・・・うがめが」
「うるさいし、無駄にでかいし、ほれぐるっとな」
 別の一人がそう言った。そして島田に目隠しをした。山崎は少しあわてて聞いた。
「あなたたち、島田さんをどうするつもりです?」
 彼は顔を見合わせた。最後尾の一人がすっと姿を消して、まもなく松永を連れて戻ってきた。
「おう、おまえら行きな・・・村上、任せたぜ」
 松永は意味ありげに先頭の浪人に言う。村上と呼ばれたその浪人はやはり意味ありげにニヤッとして、仲間を連れて歩いていった。足音が遠ざかるより早く、松永は後ろ手に戸を閉める。
「どうするつもり、だと? わかってるくせに聞くなよ」
「・・・なるほど。『おまえの態度次第で、奴の命だけは助けてやるがよ』と言いに来たのですね」
「あんまり洞察されんのも、腹が立つ。『メチャメチャ』はもう少し先にしてやる」
 不愉快そうに顔をゆがめて、松永はさっさと戸を開けて出て行った。


「うぐ、むぐ」
 男たちに担がれて、島田は長持ながもちの中に入れられた。ちなみに『長持』とは、衣類などを入れておく長方形の木箱の事である。そこに用意されたのは、島田も入れる大きいサイズのものだった。島田が入れられた長持の他にも、一つか二つ箱があった。やや小さめの物だ。
 蓋が閉められる前に、松永がやって来て何か言っているのが聞こえた。目隠しされた島田には、松永や他の男たちがどんな顔をしているのかうかがい知ることはできなかった。
 少しの間、話し込んだ後で松永の声が聞こえてきた。
「島田。俺は優しい男だし、山崎にも言われたからおまえを『殺したりはしない』ぜ」
 一呼吸置いて。松永はゆっくりとした口調でこう言った。
「ただ、おまえを鴨川に連れて行って、ちょっと遊ぶだけさ。グルグル巻きで、おまえの顔を水面につけて遊ぶだけ。死ぬ、死なないはおまえの勝手だ」
「ぶ、ぐうう!」
 猿轡のまま、島田はうめいた。屁理屈もいいところだ。
“水面につけて遊ぶだけだと? 人間は息しないとどうなるか、常識で考えてもわかるはずだ”
「それから、山崎だが」
 とん、とん・・・長持の蓋でも叩いているのだろう、そんな音と共に松永の声が聞こえる。
「野口にも言われたから『殺したりはしない』さ。結構そそる身体してるし、可愛がってやるさ」
 一呼吸置いて。松永はゆっくりとした口調でこう言った。
「ちょっと激しく可愛がる、それだけさ。俺のあとにも可愛がる連中がいるかもしれねえが・・・可愛がられた後で死ぬ、死なないはあの女の勝手だ」
 島田は背筋が寒くなった。つまりはこの松永という男は・・・。
“山崎さんが悲観して自ら果ててしまう、かもしれない行為をすると。しかもリンカーン宣言!?”
 島田の頭が熱くなった。頭だけでは無かったが。ちなみに『リンカーン』は外国人の名前ではない。大勢の人間から(とりわけ、女性が)乱暴される事を表すものだ。
 必死に島田は身もだえするが、縛られて長持に押し込まれているのでどうにもならない。それに空腹で力が出ないというのもあった。
「最後は芹沢だ。あいつはバケモノ並みに強えから、人間並まで弱らせてドカン、粉々だ」
 愉快そうに、松永は言った。他者を痛めつけるのが気持ちよくてたまらない、そんな声だった。
「さ、蓋を閉めろ」
 大きな音がして、島田の世界が暗くなった。遠くから声がするが、もう聞こえない。
「うまくやれよ」
 松永は男たちに命じた。町人姿の男たちは荷車と共に去っていく。それを見送って彼は、旅籠はたごの二階には戻らず、荷車の連中とは別の道へ歩き出した。性欲の前にまず食欲だった。
“カネのほかにも多少の役得がなきゃ、やってられねえって事さ”
 旅籠で自分を待っている獲物のことを考え、頬がゆるむ松永であった。


 夕焼けに染まる鴨川。そのほとりに芹沢はいた。辺りには草がぼうぼう茂っていて、その陰に何かあっても近くまで寄って観察しないとわからない。
 野口は、数人の屈強な男たちを伴って約束の場所にやってきた。道は、土手の上に通っている。
「ずいぶんと、女を待たせるじゃないの」
 開口一番、芹沢は明るい声で話しかけてきた。すごい人だ、と野口は改めてそう思った。
「やっぱり野口クンだったわね・・・今更、『どうして?』なんて聞かないわ」
 芹沢は一人でうなずきながら、こう言葉を続けた。
「アタシも、何か『接し方』を間違えたのかもしれないしね」
 野口が何か言うより早く、男たちが芹沢を囲んだ。あわてて野口は声を出した。
「ちょっと待て。先に聞いておきたい事がある」
 男たちは一瞬、不服そうな顔をした。舌打ちさえ聞こえた気もしたが、野口は聞かなかった事にした。
「やっぱり、と言いましたね。どうして俺が来ると考えたんですか?」
 芹沢は、自分を囲む男たちに目を向けた。つまらなそうな顔をした。
「この中に、イイ男はいないみたいね」
 そして野口に目を戻した。
「同人誌よ」
「え?」
 野口は聞き返した。意味がわからなかったからだ。
「野口クンはさ、『ほんだらけ』に行く事ないでしょ?」
 こう聞き返されて、野口は首を縦に振った。芹沢も頷いた。
「よねえ。ほんだらけの店内には、おさとちゃんの趣味なのか、何かの芳香剤の匂いが充満してるのよ」
 野口の眉が僅かに動いた。それを満足そうに見やって芹沢が言葉をつなげる。
「だから、あそこの同人誌は例外なく、その匂いが染みついているのよ」
「・・・」
「でも、あの同人誌に挟まってた『ふみ』からは匂いがしなかった。犯行推定時刻から半日はたってるのに。だから、ああこの紙切れは、今この場所で挟められたものか・・・って思ったわけよ」
 心なしか、胸を張って芹沢は言った。
「だったら、それを挟めた人間て言ったら一人しかいないわよね」
 女性は総じて匂いには敏感だと聞いた事があった。野口はそう思って息を吐いた。
「そうですか。匂いとは思い至りませんでした。さすがですね芹沢さん」
「・・・ふーん。あれの差出人だって認めるわけね」
 え? と野口は思った。芹沢はにやりと笑った。
「アタシ、匂いの特性とか詳しくないしー。半日たっても同人誌から芳香剤の匂いがぷんぷんするかどうかなんて、全然知らないわよ」
“しまった・・・俺って奴は、また”
 野口はそう思った。昨日に続いて今日もまた、誘導に引っかかってしまったらしい。
「こないだの雀ちゃんの話術を参考にしたんだけど。結構うまくいくものねぇ」
 嬉しそうに言う芹沢の顔から目をそらして、野口は軽く頭を振った。自分では決して馬鹿ではないつもりだが、立て続けに似たような手に引っかかる事から考えて・・・。
「正真正銘の、馬鹿かな」
「む、それ誰のこと? アタシに言ってんの?」
 声に出てしまったようで、芹沢が眉間にしわを寄せて聞いてきた。野口は今の状況を忘れそうになる。この人は昔からそうだった。自分に関係ありそうな話だと思うと、執拗に絡んでくるのだ。
「え、いえ違います・・・」
 思わず昔のように受け答えしそうになって気づいた。もう今は、昔ではないのだ。
「野口さんよぉ」
 業を煮やした、暴行係の男の一人がこう声をかけてきた。
「しっかりしてくだせえ。あんたが計画の立案者なんだからよ」
「あ、ああ。そうだったな・・・じゃ手はずどおりに、まずは武装解除だ!」
 何故か野口は、大声を出していた。理由はわからなかったが。
「武器を捨ててください。刀も、鉄扇も何もかも」
 芹沢はおとなしく刀を捨てた。そして懐の鉄扇を出してこう言った。
「これは、野口クン。キミに渡すわ」
「別に俺じゃなくてもいいでしょう」
「・・・そう」
 芹沢は一瞬、悲しそうな顔をした。野口は何故か、罪悪感を感じてしまった。
「じゃ、俺が没収す・・・」
 仲間の一人がそう言って芹沢に近づこうとした。あわてて野口はそれを制する。
「いや、誰でもいいなら俺でもいいと言うことだ。俺が、預かる」
 早足で芹沢に近づいて、急いで鉄扇を受け取った。
「確かに渡したからね、その鉄扇」
“・・・没収したというより、託されたって感じだな”
 野口のその感慨を壊すかのように、仲間たちの野太い声が入ってきた。
「よーし、おめえら仕事の時間だぜ」
 彼らは口々に何か言いながら、芹沢との距離を縮めてきた。芹沢は反射的に身構える。当たり前だ。そうなるように、日々鍛錬してきたのだから。
「おっと芹沢さんよぉ。こっちには人質がいる事を忘れないでくれよな」
 一人がそう言った。芹沢の動きが止まる。男たちの一人が芹沢の刀を素早く拾った。
「芹沢局長、いや・・・せりざわ」
 野口は喉から言葉を絞り出す心づもりで話し出した。出ろ、と命令しなければ声が出ない気がした。
「一見、傍若無人の極みに見えるあんたには、実は人質が通用する」
 意識して、悪人らしい顔になるよう努めた。『悪人の笑み』を心がけた。
「獣のようなあんたは、容易たやすくはヒトに慣れたりしない。だが、一旦それと見込んで『情』を注いだ人間を見捨てるような事はしない。善悪を超えた『情の絆』を何より大切にしている」
 芹沢は黙って聞いている。野口は仲間の目を気にしながら、言葉を続けた。
「その『情を注いだ人間』を人質にした時、あんたは驚くほど弱くなる。これがあの芹沢かというほどに。これが長い間、俺があんたを観察して導き出した『必勝法』だ。結構当たっているだろう?」
 芹沢は微笑んだ。まるで、出来の良い子供を褒める母親のように。
「よく見てるじゃない。そう、アタシはね、ひとたび家族と認めた者は全力で守り抜く事にしてるの」
 そう言って、芹沢はじっと視線を向けてきた。まるで、その目の先にもその『認めた者』がいるのよ、とでも言わんばかりな視線。野口は息苦しくなって顔を反らした。
「あんたが大切にしている、島田誠は俺たちの手の内にある。抵抗すればあいつがどういう目に遭うか、わざわざ説明する必要はないな」
「島田クンは無事、なの?」
 それには別の男が(勝手に)答えていた。
「げっへっへ、それはおまえの態度次第だなぁ。しかも人質は男だけじゃないし」
 野口は思った。余計な事を口走るな、と。おしゃべりは、相手にどのような情報を与えてしまうかわからない。たとえそれが、口からでまかせの情報でもだ。
“さっきの今で俺が言える事じゃないが、迂闊うかつに喋るな”
 そう思った野口だったが、その思いは通じなかった。
「山崎、とかいったな。従順そうな、いじめがいのある娘だ。今頃はもう・・・ひひひ」
“馬鹿。何を喋っているのだ貴様は? 黙れ”
 そう言いたかった野口だったが・・・何故か声に出すことはなかった。いやできなかった。
「雀ちゃんね・・・卑劣な連中。アタシはともかく、あの子に何かしたら・・・」
 怒りの声を漏らす芹沢だが、何の動きも見せない。お喋りな男はますますお喋りになった。
「何かしたら・・・何なんだ? 他人の心配なんかしてる場合じゃないだろう? 自分の心配したらどうなんだ? いや心配しても無駄なのか・・・どうせ死ぬんだからなあ!」
 言い終えるなり、男は芹沢の腹部に蹴りを放った。不意を突かれた芹沢は、身体がくの字になる。
「ひゃっほー!」
「やっちまえー!」
 その蹴りを合図にしたかのように、男たちによる暴行が始まった。金の髪が無遠慮に鷲掴みにされ、豊満な身体は荒々しく地面に引き倒された。顔はまりか何かのように蹴り、殴られた。背中と言わず腹と言わず、足で踏まれて蹴られた。ボグッ、ボグッという鈍い音だけが河原にこだまする。
「・・・・・」
 野口は黙ってそれらの行為を見つめていた。視線を逸らすことなく、一心に。しかし・・・。
“何故だ?”
 野口は自分にそう問いかけた。
“何故だ?”
 待ちに待った光景だ。そのはずだった。芹沢を憎んだ。恨んだ。ギタギタにしてやりたいと思った。そのために、計画を練って今それは現実の光景として目の前に展開されている。それなのに。それなのに。
“何故・・・こんなにも苦しい? 望みが叶っているというのに。叶っているはず、なのに”
 見ているのがつらかった。芹沢が暴行を受けている『念願の光景』を、見ているのがつらかった。
“喜べよ。野口健司。おまえが待ち望んでいた光景だ! さぞかし満足感でいっぱいのはずだ!”
 そう、自分に言ってみた。けれど、満足感も達成感もない。ただ罪悪感ばかりが心に湧いてくる。
「野口さん、どうですあんたも」
 ふと我に返ると、男たちの一人がそう声をかけてきていた。
「その鉄扇で、芹沢をビシーッと。自分の武器でやられる屈辱ってやつでさあ」
 野口は眉間にしわを寄せた。意識してそうしたわけではない。自然と表情がそうなったのだ。遅れて、ああ俺は今、眉間に皺が寄ってるな。怖い顔だろうな。そういう思いが心に浮かんだ。
「結末は見えた。俺は帰る」
「へ? 憎いコンチクショウを痛めつけていかねえので?」
「五十人のならず者を三分で壊滅させたってえ伝説の持ち主を、仕留められるんですぜ」
“この人の伝説ならおまえより知っているさ”
 野口は答えずに、暴行を続けている連中に向けて叫んだ。
「おい! 適当に切り上げておけよ。芹沢の最後は、アレだからな」
 連中は周囲に散在する草むらのうちの一つに、ちらと目を向けて答えていた。草むらの中に、古い小舟が隠してある。弱らせた芹沢をその舟に押し込み、爆薬を使ってトドメを刺すのだ。
「がってんしょうち!」
 自信満々に言うほど、承知しているとは思わなかったが、野口にはどうでもよかった。一刻も早くこの場から離れたかった。でなければ自分は・・・ここで何をするか、何を言うかわからなかったからだ。


 さて島田を載せた荷車はあちらこちらと移動したので、島田にはどっちへどれだけ動いたのかわからなくなっていた。途中で一度、どこかの御店に寄ったのだが・・・島田にはもちろんそれがどこなのかわからなかった。その時、長持が一つ下ろされて別の長持が荷台に載せられたようだ。そして時が経過した。
「ここらで・・・」
 遠くで声がして、島田の世界が少しだけ明るくなった。川の音がする。先刻の話だと鴨川の近くだろう。島田は耳を澄ませて、他の情報を求めたが風の音しかしない。
『音だけでも手がかりになります』
 そう言っていた山崎の声がよみがえった。あの、従順で純朴そうな娘が今にも松永の毒牙にかからんとしているのを思うと、島田はいてもたってもいられなくなった。
“あれ? 風の音と水の音しかしないってことは、人家は近くにない? のかな”
 この水音だと、川の深さはかなり浅そうだ。そう、島田は思った。
“松永は確かに鴨川と言った。口は災いの元、というやつだな”
 どうせ殺す男だという油断があったのかもしれない。だが、死んでたまるか。俺はカモちゃんさんと山崎さん、二人を助けなければならない。いや、助けたいんだ。
“助けたら、二人とウヘヘ・・・はっ! こんな時に何を? 俺もしかして予想以上にダメ人間?”
 そう思っている間にも抱え上げられた。水音が徐々に近づいてくる。目隠しをされていても、何かの光を感じた。肌寒さとこの淡い光の感じからして、いい月夜の晩だろうなと思った。
「あんまりもたつくなよ」
 担いでいる男の一人がそう言った。別の一人が答える。
「まあ、だな。ここらは乞食や物乞いが時折うろつく場所だから」
 目隠しされたままの島田の耳に、そんな会話が入ってくる。
「さて、水遊びの時間だ」
 そう聞こえるが早いか、頭がぐいと押さえつけられて、顔面に冷たさを感じた。水面に顔をつけられ息ができない。後ろ手に縛られているので、暴れるに暴れられなかった。
「・・・ご・・・」
 島田はじたばたと身もだえする。男たちの声がした。
「暴れるなよ。どうせおめえは助からねえ」 ビシッ!
「じきに、なあんも感じなくなるからな」 バシッ!
 声と共に、腹や背中を二、三度殴られた。痛みと衝撃で呼吸が止まる。
「手間かけさせんな」
 そうして再び、顔面が水につけられる。抗うたびに、同じ事が繰り返された。
“く・・・このままじゃ俺は・・・”
 その時、島田はふと思いついたことがあった。
“そうだ! 俺の自慢の・・・肺活量の出番だ!”
 島田は、さりげなく抗う力を弱めていった。そして頃合いを見計らって・・・。
「・・・ぶく・・・く・・・」
 水面に顔面をつけられた格好で、ぐったりと身体の力を抜いていった。そしてそのまま横たわり続ける。もちろん芝居だ。死んだふりをして、連中の目を欺くつもりだった。
「・・・死んだか?」
「どうだろ・・・うりゃ!」
 ガス、ドスと頭や背中を何度も殴られた。しかし島田はじっと耐えた。バレたら終わりだ。
「うりゃ! おりゃ!」
「ふう・・・どうやら、くたばったらしいぜ」
 十回ほども殴ってから、やっと連中は安心したらしい。気配が少し遠くなった。
「手間ぁ、かけさせやがって」
 そう声がした。頭や背中から、手が離れていく。後ろ手には縛られたままだ。
“あれ? ほどいて・・・いかないのか?”
 島田はそう思った。目隠しも縄もそのままで、おまえたち帰るのか? と。不安になると、止めている息の苦しさが気になりだした。痛みに耐えている時にはあまり気にならなかったのに。
「で、こいつの縄と目隠し、このままで帰るのか?」
「こんな状態の死体が発見されたら、まずくねえか?」
 そんな声がする。
“そう、そうだろ。だから、とっとと縄をほどけ!”
 島田は心の中でそう主張する。死んだふりを続けたまま。
「浅い川で酔いもせずに溺れてるんだ。偽装工作するだけ無駄だって、松永の旦那が言ってた」
「じゃ、このまま」
「ああ。それより、現場からは一刻も早く離れる方がいい、とよ」
 男たちの気配は、そう言いながら徐々に離れていく。その気配の遠ざかり方がひどくゆっくりに思えて、島田はイライラしてきた。息もかなり苦しくなってきている。
“行くなら、早く行け! マジで死ぬ!”
 気配はどんどん離れていく。島田は、頭の中で数を数えながら、ひたすら待った。風が吹き、辺りの草むらを揺らしている。今夜は月が出ているようだから、結構見通しは良いと見た。離れた場所からでもこちらが見えるかもしれない。そう思うと、どれだけ待てばいいのか島田にはわからなかった。
“・・・く、くる・・・そろ、そろ”
 もういいだろう、と思って島田は顔を上げて身もだえした。夜の川に、バシャバシャと水音が響く。
「ぶはあっ! くそ・・・何とか、縄を・・・」
 そう言いかけて島田は動きを止めた。足音がする。何かが近づいてくる。
「・・・」
 あわてて島田は『死んだふり』に戻った。もしあいつらが戻ってきたのなら、非常にまずい事だ。
「・・・」
 何かの気配は確実にこちらに接近してくる。気配は一つのようだが、その動きはかなり速い。
「・・・・・」
 島田は懸命に『死んだふり』を続けた。
「・・・じょうぶ・・・しんして」
 声がした。聞き覚えが・・・というより、よく知っている声のようだ? と島田は思った。
「大丈夫だよ。奴らの仲間じゃないから、安心して」
 どことなく上品な感じがする水音と共に、気配が近づいてきて島田の目隠しを取った。月明かりに浮かび上がったのは汚い格好した、黒い髪の少女だった。その顔にはどこか見覚えがある。
“・・・あれ?”
 島田がそう首をかしげている間に、その少女は島田の縄を器用にするすると解いていく。そして相手の方も、こっちが誰なのかに気づいたらしい。
「あれー? まこと? どうしたの?」
「それはこっちのセリフだ」
 それは、情報収集活動を続けているはずの、藤堂とうどうたいらだった。ただ島田が気になったのは・・・
「その髪、何なんだ?」
 藤堂の髪は、普段の美しい金色ではなく、墨のように黒かった。
「何って、イメチェン(イメージチェンジの略)だよ」
 けろっと、藤堂は答えた。
「イメチェン・・・?」
「というのは冗談として、実は」
 藤堂は語った。金の髪とはそれ自体が大きな特徴であり、いくら身なりを汚くしてもその金髪で正体を見抜かれてしまう可能性があった。そこで、思い切って髪の色も黒く染めたのだと。
「ま、私も人に指摘されて初めて気づいたんだけどねー」
 明るく言った藤堂は、ふと真剣な目をして島田に聞いてきた。
「ところで、まことは何故、川でこんな事をしてるのかな?」
 島田は、素直に話すのはみっともないような気がした。だからつい、こう答えていた。
「俺もイメチェンだ」
“どんなイメチェン?”
 藤堂はそう思ったが、素知らぬ顔でこう切り返した。
「そっかー。イメチェンだったんだ。お楽しみのトコロ、邪魔してごめんねー。だったら私がまた縛りなおして、元の通り川に転がしてあげる」
「す、すいません。イメチェンていうのは嘘です。ていうか馬鹿言ってるばあいじゃなかった」
 そんなことされては大変なので、島田は急いで本当のことを言うことにした。
「一大事なんだ。カモちゃんさんが狙われて、俺がつかまって、山崎さんが危ないんだ」
「・・・もうちょっと、わかるように言ってくれるかな?」
 そう藤堂に言われた島田は、深呼吸してから話し出した。
「俺と山崎さんがつかまった。連中は俺たちを人質にして、カモちゃんさん抹殺を企てているんだ。うちの隊士の、野口さんと松永が首謀者だ。だけど、二人の思惑はかなり異なってる」
「どういうふうに?」
「野口さんは、カモちゃんさんに思うところがあって、あの人の命だけを奪おうとしている。俺たちを巻き込むのは本意じゃないようだ。でも松永は違う。あいつは、最後には俺たち全員を殺す気だ」
「芹沢さんと、山崎さんの場所は?」
「カモちゃんさんはわからない。野口さんがどこかに呼び出したようだ。山崎さんはどこかの旅籠はたごの二階につかまっている。急がないと、松永からどんな目に遭わされるか」
「二人の場所を特定する、手がかりはないのかな?」
 心なしか、藤堂の声に苛立ちが混じっている気がして、島田は脳内を必死に探った。
「山崎さんが、俺と一緒に捕まっている時『ここは川の近くだ』と言っていた。それと、松永が最後にこう楽しげに言っていた。『弱らせてドカン、粉々だ』と」
「・・・・・」
 目を閉じて、藤堂は考え始めたらしい。しばらくその格好のまま微動だにしなかった。やがて目を開けた彼女は島田を見ながら話し出した。
「私は昨日、今日と乞食さん達に混じって情報集めしてたんだけど・・・」
 それは、島田も知っている。
「乞食さん達が、妙な一団を見てるのよね。私のように『乞食になりすました連中』を」
「乞食になりすました連中?」
「そう。乞食さん達に言わせると『あげな、見てくれだけ変えたって無駄じゃい。あやつら乞食の匂いがせんからな。たかが乞食と思うて馬鹿にしくさって』らしいよ」
「・・・」
「あのおじさんが言うには、乞食の魂ってものがあって、それがない奴はすぐにわかるんだって」
「・・・」
「で、その変な乞食モドキさん達は、川のそばをあちこち検分してたみたいだよ。うち捨てられた小舟とかをとりわけチェックしてるように見えたって」
 島田は、聞きながら実は別のことを考えていた。
“へーには、あったのか? その、乞食の魂とかいうものが” 
「まこと、聞いてる?」
「ひゃっ? ああ、ああ、聞いてる聞いてる」
 思わず妙な声が出てしまった。島田は首を激しく縦に振って誤魔化ごまかした。
「ドカン、粉々だと言うのは、間違いなく芹沢さんを爆殺する気だね。そしてそういう事を楽しげに語る人間は、その爆煙が視認できる範囲にいるはず・・・そして乞食さん達の言っていた話と合わせると」
「と、特定? じゃあすぐに行こう!」
 島田がそう力強く言って立ち上がろうとした時だった。
 ぐう〜
 情けない音がした。島田が気の抜けた声を出す。
「俺、腹が減・・・何か食べ物ないか? いや、今はそんなこと言ってられない、急ごう」
「・・・いや、まこと。待って」 
 藤堂が頭を掻きながら、意味もなく手足をばたばたさせている島田をたしなめた。
「うん、決めた。まこと行くよ」
 藤堂はそう言って、先に立って早足で歩き出した。
「行くってどこへ?」
「八百屋さんだよ。ここからそう遠くない、二条法衣棚ころもだなの」
「八百屋・・・・いや、今は俺の腹の具合なんかどうでもいい」
「違うよ。いや、それもあるけど、違うの。とにかく急いで」
 強い調子で言われて、島田はおとなしく従うことにした。歩き出しながら、
“にじょう、ころもだな、やおや、はてどっかで聞いたような?”
 と思ったが、藤堂を見失うとまずいので、とりあえず考えるのをやめた。


 野口はゆっくりと歩いて元の旅籠はたごまで帰ってきた。すでに夜は辺りを包んでいる。
 旅籠の名は『吉田屋』。東三本木と呼ばれる、妓楼が立ち並ぶ一角にある割烹旅館だ。店のすぐ裏が河原になっていて、二階から上では足下に鴨川の流れが見渡せる。
 店の前で、どこかから戻ってきたらしい松永と出くわした。
「よお。早かったな」
 そう、松永は気安く声をかけてきた。野口は黙って松永を見つめ返す。
「そう仏頂面するなよ。これから同志としてやっていくんだ。仲良くしようぜ」
「どこへ出かけていた?」
 率直に野口は聞いてみた。
“こいつが嘘つきなのは、わかっている。俺を長く生かしておく気もないだろうさ”
「メシさ」
 松永はこう答えた。吉田屋の奥に向かって、酒くれ、と声を投げておいて言葉を続けた。
「腹が減っては戦はできぬと、昔から言うだろう?」
 空を見上げて松永は、ほうと息を吐いた。白い息が空中に散る。
「冷えるな・・・見ろ、月が出てるぞ」
 野口も見上げてみた。確かに、空にはほとんど雲がない。月がよく見える夜だった。
「いい月夜には、酒を飲む。常識だ。酒のさかなは何がいいかな」
 独り言か、野口に言っているのかわからなかった。野口は黙って相手の言葉の続きを待つ。
「雪が降っていれば雪見酒。月が出ていれば月見酒。そういうのも乙でいい」
「・・・!?」
 野口は一瞬、何かが頭に閃いた気がした。表情には出さずに、懸命に思い出そうとした。
「へい、酒です」
 男が一人、吉田屋から出てきて松永に酒の入った瓢箪ひょうたんを渡した。
「おう」
 松永はそれを受け取って、そのままそれを野口に差し出した
「?」
「ほれ。酒でも飲んで、嫌なことは忘れ・・・ほお、奴の鉄扇か。でかした」
 松永の声の調子が不意に変わった。野口は、瓢箪を受け取るべきか否か考えていたのだが、松永からそう言われて気づいた。手に鉄扇を持ったまま歩いてきていた事に。
「芹沢を仕留めたっていう証の品になる。よこせ。何だその顔は? 逆らう気か?」
「・・・わかった」
 機嫌を損ねないように野口は鉄扇を渡して、代わりにというわけではないが瓢箪を受け取った。その瓢箪は重かった。中に酒がたっぷり入っているのがわかる。
「たまには月夜の散歩もいいものだ。飲んで歩いて、気持ちを切り替えるんだな」
 松永はそう言い残して、吉田屋に入っていった。これから二階に上がって松永が何をするかと思うと、野口は胸が痛かった。無力な自分を再確認した。
“ああ言われたからには、散歩するしかないか・・・”
 そう、心で思って吉田屋に背中を向けようとする。背後で松永と、彼の配下らしい男の声がする。
「ところで、壬生みぶの様子はどうだった? 何か変わった動きはなかったか?」
 隊士二人に局長一人が失踪しているのだ。何か動きがあってもおかしくはない。
「昼間に八百屋の荷車が来ましたぜ」
「ああ、あれか。八百藤やおふじの」
 松永はそう言った。聞くともなく聞いている野口も知っている事だった。
 佐々木愛次郎の一件以来、彼の友人だった山野やまの八十八やそはちが、佐々木の想い人であったあぐりの実家の八百屋を時々手伝うようになっていた。八百藤でもありがたくそれに甘えて、日々が過ぎていたのだ。
「壬生の家々とは野菜の取引があって、時折やってきてるのさ。それにしても山野も律儀っていうか義理堅いっていうか・・・武士をやめて八百屋になるってわけでもねえだろうに」
「女と一緒でしたぜ」
「ああ、山野の女で・・・名は忘れたが茶屋の娘だ。あぐりと仲が良かったから同情してるんだろ」
「気にしなくて、いいんで?」
「ああ、時々そうやって愚直に手伝いに行くんだ。気にしなくていい」
“果たしてそうだろうか? ほかならぬ、計画の決行日と重なるとは”
 野口は思った。野口の見たところ、山野という男は『切れ者』だった。何を考えているか、その表情から読みとる事ができない男。平隊士でいるのが不思議なほど、腕が確かな男。
 たまたま同じ日になっただけかもしれないが、気になった。気になったが・・・。
“でもまあ、いいか。何が起こっても、もう俺にはどうでもいい。どうとでもなれ、だ”
 野口はそう決めて歩き出した。今夜はかなり冷える。手にした酒を飲めば身体が暖まるだろうと思った。とぼとぼと歩きながら、あれこれ思いをめぐらした。
“雪見酒、か。酒の肴に雪・・・”
『月! 雪! あと花! 何もなくたって、この三つがあれば楽しく酔えるわよ』 
「・・・はっ・・・!」
 景色が、音が脳内を満たした。野口は立ち止まって月を見上げた。こんな月夜の晩だった。


 あれは、そう、浪士組として京都に来るちょっと前の冬の夜だった。
 宴会と称して、みんなで大騒ぎした。芹沢、平山、平間、他にもたくさんいた。
 宴会の席では案の定、芹沢が暴れた。
 平山や平間はうまく自分が被害を受けないよう立ち回っていた。しかし野口は真面目に事態を収拾しようと動いたため、大変だったのだ。一番の被害者といっていい。
 宴会もお開きになって、野口は千鳥足で一人帰途についた。その夜はもう彼らと一緒にいる気分ではなくなっていた。かなり酔っていた。勧められる酒を、断るのは悪いと思って全て飲んだ結果の事だった。
「・・・え?」
 気づくと、何故か芹沢が後ろから来ていた。
「芹沢さん?」
「ふらふら一人で帰ると危ないわよ」
 そう言って、芹沢は近寄ってきて野口に触れようとした。
「平気ですよ・・・触らないでください」
 女性に触れられるのは苦手だ。しかも、こんな酔った状態で、芹沢さんから触られると・・・困る。
「平気だって言ってる酔っぱらいは、大抵平気じゃない状態なのよ。送ったげるわ」
「・・・・・」
 断るのは悪いと思って、野口は芹沢の好きにさせる事にした。川のほとりを二人は歩いていた、
「にしても、野口クンさ・・・」
 歩きながら、芹沢が話しかけてきた、野口は景色が揺れているような、頭が割れるような、とにかく気分がすごく悪かったのですぐには反応できなかった。二呼吸ほど遅れて返事をした。
「何ですか?」
「損な性格よねぇ・・・ああいう時は正気を失ったモン勝ちなのにさー」
「・・・」
「アタシが暴れて、怪我とかしてるだろうに黙って事態を収拾しようと駆け回って」
「・・・」
 野口は、返事するのもつらかった。地面が、世界が揺れてる気がしていた。
「アタシの暴れっぷり見て、むかついたよね? はっきり言っていいわよ」
 野口は実際少なからず腹を立てていた。だがそれをはっきり言ったらダメだろう、と思った。
「いえ・・・それほど、気にはしてませんよ」
「・・・」
 今度は芹沢が黙った。それを野口が訝しむ暇もなく・・・。
「こらー!」
 芹沢が背後から突然野口に襲いかかり、羽交い締めにしてプロレス技をかけてきたのだ。
「痛がれー! 怒れー! 泣けー!」
「!・・・?・・・!」
 目を白黒させる野口に構わず、芹沢は力を込めて締め上げてきた。
「たまには喜怒哀楽を素直に出せー!」
 しばらく時が経過して・・・芹沢は飽きたのか、野口を解放した。
「はぁ、はぁ・・・理不尽に暴力振るわれてるんだから、痛がるとか、泣くとかしなさいよ」
 そう、拗ねたように言う芹沢を前にして野口は身体があちこち痛むのを我慢して答えた。
「男子たるもの・・・軽々しく痛がったり泣いたりできません」
 芹沢はますます口を尖らせた。
「不快そうな顔しなさいよ。何か、こう、悟ったような顔しちゃってさ」
 野口はそれには反応しなかった。と言うより、芹沢から締め上げられて、耳元で大声出されて意識が朦朧としているのだった。酔いのせいもあって、立っていられるのが不思議なくらいだった。
「返事は?」
「意識が、目が回ってます」
 つい野口はそう答えていた。一瞬芹沢の顔がほころぶ。
「目が?・・・じゃあ、シャッキリしないとね」
 そう言うと、芹沢は野口の胸倉をつかんだ。間髪入れず、そばを流れている川に放り込んだ。
 大きな水音がして、野口は川に落ちた。すぐに野口は、真冬の川から上がってきた。
「・・・」
 川の水は痛いほど冷たい。震えながら、黙って野口は芹沢の近くまで帰ってきた。
「腹が立った?」
 芹沢の問いに野口は答えなかった。
「腹が立ったならお返しに、アタシを川に落とすとかしたらいいじゃん」
「いえ。そんなことは・・・」
 震えながら野口は答えていた。したいという思いはあるが、そんな事ができるとは思えない。
“酔って暴れるのは、毎度のことだし・・・酔い覚ましとでも思おう”
 確かに酔いは、かなり醒めた。ただ別の意味で頭がクラクラしてきた。
“真冬に・・・風邪ひきそうだ。いや、このままだと確実に風邪をひく”
「いい月・・・」
 不意に芹沢が言った。指を指して夜空を見上げた。
「野口クンも、ほら」
 仕方ないので野口は言われたとおり、夜空を見上げた。確かにいい月夜の晩だ。
「月! 雪! あと花!」 
 指折り数えて芹沢は叫んでいた。ぎょっとなって野口は芹沢の様子をうかがった。
「何もなくたって、アタシはこの三つがあれば楽しく酔えるわよ」
 野口は聞きながら、本当にヤバイと感じ始めていた。寒気がする。身体が半ば無意識に震えていた。
「ちょっと・・・聞いてる? 何か顔色、悪くない?」
「い、いえ・・・そんな事はありません」
 かなり無理してそう答える。芹沢は月から野口に移した視線を、また月に戻してから、
「ところでさー・・・」
 やけに神妙な(と野口には思えた)声で話を切り出してきた。
「こないだアタシ、流行に乗って鉄扇に『尽忠報国』って刻もうかと思ったんだけど」
「はあ」
 そう答えつつも野口、あまりしっかりとは聞いていない。
「実はアタシ、よく意味がわかんないのよねえ」
「・・・はあ?」
「忠義を尽くして国に報いる。そう聞かされたんだけど、ナニに忠義を尽くすわけ? 国ってナニ?」
「え・・・と」
「野口クンなら、アタシにもわかるように答えてくれるわよね」
 野口はますます寒くなった気がして、一刻も早く家に帰って寝てしまいたかった。絶対これは風邪を引くぞ、という気がした。肺炎になるかもしれない、とさえ思った。
「それは、ですね」
「それは?」
 だから、もっともらしい事を言って納得してもらおうと・・・そう思った。
「えっと、国というのは大きく言えばこの日本国ひのもとのくにの事です、が・・・」
 自分の状態を悟られないようにと気を配りながら、野口は平静を装って声を絞り出した。
「小さくは藩、いや町、いや俺やあなたが世話になった人々や土地のこと。尽忠報国とはすなわち」
 言っている野口の視界は、既にぐるぐる回っていた。それでも勢いで、一息にまくし立てた。
「そういった人々やふるさとの自然に感謝し、命がけでそれらを守る事です。人々を家族と思って、ふるさとの自然を大恩ある存在と思って大切にして、その恩に報いるべく持てる力を振るう事です。それこそが、真の『尽忠報国』の精神なのです」
 芹沢は、或いは酔っていたせいかもしれないが、感激したような声を出した。
「そうだったのね! わかった、アタシ、それで行くわ!」
 鉄扇を手に持つと、それを天空に掲げてこう言葉を続けた。
「この鉄扇に、今まさに『尽忠報国』の四文字が刻まれたわけよ。野口クンの信念と共に!」
 力強く、ここまで言って芹沢はいきなり声を和らげた。
「キミの思いもここに刻まれたのよ。いわばこれはアタシと野口クンの、絆の鉄扇てわけね・・・この鉄扇を振るって戦って良いのは、この世でたったの二人だけ。それを忘れないで」


 野口は月の光の中、呆然とたたずんでいた。思い出は、ようやく野口の中に戻ってきた。
「そうか・・・」
 どれほど、動きを止めていたのか。野口はゆっくりとそう声を出していた。
「俺の、居場所・・・・・・。島田君、山崎さん、君たちの言うとおりだったらしい」
 先ほど目にした、鉄扇を渡すときの芹沢の動作のすべてが、野口の脳裏に浮かんでいた。
「ふっ・・・それを俺は」
 鉄扇は、ついさっき松永に渡した。それを思うと妙に笑いがこみ上げてきた。
「正真正銘の、馬鹿ってことだな」
『む、それ誰の事? アタシに言ってんの?』という、あの時の芹沢の声が耳にこだました。 
 ちなみに、あの日の記憶はそこで飛んでいた。気がつくと自分の家で寝ていた。家族の話だと、どうやら芹沢さんが野口を背負って家まで連れ帰ってくれたらしい。
 案の定というか、野口は数日寝込む事になった。完治する前に京都行きという運びになったのだ。
「・・・・・・・・・」
 野口は目を閉じた。この後、自分はどう行動すればいいか考えた。
“・・・やめた”
 しかし野口はじきにそう結論を出した。あれこれ考えが浮かんできてわからなくなったからだ。そこで、一番大切な事だけを考える事にした。一番大切なのは・・・。
「・・・よし、行くか」
 野口はそう、声に出して歩き出した。後ろを振り返ることなく。
 野口健司、覚悟完了。


 ひとしきり暴行を受けた芹沢は、草むらの中に隠されていた舟に押し込められた。打ち捨てられた汚い小舟だが意外に頑丈そうに見える。中には乱雑にごみが積まれていた。
 芹沢が暴行を受けている間、残りの男たちは舟の準備を進めていた。舟の中に爆薬を置き、上からごみをかぶせていく。完全に爆薬が見えなくなるまで、大量にごみを積む。導火線の先端だけが僅かにごみの中から顔を覗かせている、といった具合だ。
 導火線に火をつければ、その火花はすぐにごみの中に隠れてしまう事になる。
 芹沢はうつ伏せに放り込まれてむしろをかぶせられたまま、考えていた。いざとなれば抵抗して、ここにいる連中くらい撃退できた。それをやらなかったのは、一つには島田や山崎の所在がわからないから。
 こいつらを叩きのめしたとして、二人の居所を吐かせるのは手間がかかるはずだ。じっと耐えていれば、さっき連中の一人が口を滑らせたように、情報が手に入るかもしれない。そう思ったのだ。
 そしてもう一つの理由。野口が芹沢を観察していたように、芹沢もまた野口を観察していた。そして野口が純朴で誠実な人柄なのを知っていた。その彼がこんな事をしたのには、おそらく自分にも責がある。そう芹沢は思って、連中からの暴行を甘んじて受けたのだった。
“ただ・・・ちょっとマズったわね”
 芹沢は小舟の中でそう思っていた。決して忘れていたわけではないが、身体は本調子ではなかった。にもかかわらず連中の攻撃を受け続けていたため、今更ながらそれが響いてきたらしい。
“あちこち妙な感じに痛いし・・・イマイチ腕や足が、思うように動かせないって気がするのよね”
 小舟の中は芹沢の身体とごみで一杯となっていた。筵からも悪臭がして、芹沢を包み込んでいた。
「後は火をつけて、舟ごと川に流すだけだ。もうじきこいつもおしまいだぜ」
 連中の一人が、傍らに立つ浪人に言った。その浪人・・・村上は頷いた。
「うむ。もうじきだ」
 村上は、松永から言われていた爆薬をある場所で受け取ると、ここに遅れて到着したのだ。村上のほかにも後から現れた男たちがいて、芹沢を囲む人数は二十に近い数になった。
「これだけの人数で暴行したんだ。いかな芹沢が化け物でも」
「ああ・・・野口の『人間並まで弱らせて、爆薬を用いて仕留める』案で、おしまいじゃい」
「特別に取り寄せた、南蛮の爆弾だ。もたもたしてると巻き添えを食う。さて、火をつけるぞ」
 そのならず者Aと村上は目と目を合わせて笑った。この二人のほかの者はいつでも走り出せるように、舟の方を遠巻きに見ていた。
 二人は導火線に火をつけた後、力任せに舟を水の中に押し出した。舟は鴨川の中に、ゆっくりと滑るように流れていく。雲が月光を遮って、辺りは急に暗くなった。
 その時足音が聞こえてきた。駆ける音。息せき切って何者かが走ってくる音に男たちは緊張して身体を固くした。薄暗い中、走ってきたのは・・・。
「何だおまえか」
 村上は拍子抜けした声を出した。さっき立ち去ったはずの男が戻ってきた事で、声に安堵と不審の色が混じる。おそらくそれは隠れている者たちの総意だったろう。
「どうした?」
 走ってきた男にそう聞く。その男、野口は荒い息のまま早足で近づきながら素っ気なく答えた。
「貴様、もう流したのか?」
「・・・?」
 村上も、そばの男も目を丸くした。野口の口から出たとは思えない、荒い声だったからだ。
「何でえ、その言い方・・・見てわからねえか」
 ならず者Aがそう言う間にも、野口は瓢箪ひょうたん片手に二人に近づいてきていた。
「そうか・・・なら、どけ」
 野口は言い捨てて、ならず者Aの頭部を手にした瓢箪で殴りつけた。
「貴様、どういうつもりだ!」
 村上が険しい声で言って、刀に手をかけた。この村上という男、腕は確かだった。神道無念流の使い手。だが刀を抜く事はできなかった。
「よせ。俺は無駄な殺生はしたくない」
 いつ間合いを詰められたのか。野口によって、刀を抜く手が押さえられ、睨みつけられていた。
「な・・・!」
「邪魔をするな。後で相手をしてやる。今はどいてろ」
 村上を押しのけるようにして、野口は早足で川に近づいた。水音がして野口の身体は川の中に消えた。泳いで舟まで行くつもりに違いない。
「この野郎」
 ならず者Aがそれを追おうとするが、村上があわててそれを止めた。
「待て、どうせ間に合いはしない」
 村上はそう思った。二人とも吹っ飛ぶ。それを見届ければいいだけなのだ。


“妙に、爽快な気分だ”
 野口は思っていた。多分、物心ついて初めてだ。言いたいことを、そのまま口にするのは。
“芹沢さんも、こんな爽快な気分が味わいたくて・・・いや、今はそれはどうでもいい”
 野口は小舟に泳ぎ寄ると、船縁をつかんで身体を舟の上に運んだ。瓢箪は川に入る前に、邪魔なので捨てた。服を着たままで泳ぐなんて初めてだったが、そんな事は言ってられなかった。
 身体から水を滴らせながら、野口は芹沢の身体を抱き起こした。
「間に合ってよかった」
「・・・野口、クン? そんな顔も、できたんだ」
 芹沢は目をパチパチさせた。嬉しさを隠そうともしない野口の顔、を見るのは初めてだったのだ。
「島田君は知りませんが山崎さんは吉田屋にいます。急いでください。彼女が危ない」
 野口は早口でそう言いながら、芹沢の身体の縄を刀で素早く斬った。そして、すぐ近くにあるごみの山を見た。埋まっているのは南蛮の爆薬だ。奥の方から火の爆ぜる音が聞こえてくる。計画では、川の真ん中で爆薬が破裂して舟は木っ端微塵となるはずだった。もう爆発してもいい頃合いだ。
“時間がない。爆発から、この人を可能な限り遠くへ”
 瞬時にそう判断した野口は、芹沢をぐいと抱き上げた。そしてお姫様だっこではなく、自分の頭の上まで抱え上げた。覚悟を決めた人間は強い。
「え? え? ちょ、野口クンなに? なに?」
 予想もしない事態に、芹沢はあわてた声を上げた。
“珍しい声だな。この人がこんな驚くなんて・・・はっ! おどろき、サプライズ!?”
 野口は気づいた。と思うが早いか、自然と言葉が口から出てきていた。
「ずっと、あなたをぶん投げてみたかったんです。あの月夜、川に落とされた仕返しにね」
 視線を川に向けた。絶妙な深さの所に投げなくてはならない。一瞬で狙いを定めた。

「これが俺のサプライズだー!」

 絶叫と共に、力の限り爆心地から遠くへと、願ってぶん投げた!
「の・・・!」
 芹沢の身体が宙を舞い、そして川のそう深くない場所に落ちた。野口も素早く身を翻して爆心地から遠ざかろうとした。そして・・・爆発は起こった。
 爆音。
 閃光。
 水に落ちて一旦沈んですぐに上がってきた時は既に、舟のあったそこは炎一色だった。
「野口クン!」
 縄を水面に捨てて、芹沢は大声を出した。懸命に泳いだ。
“野口クンは、急げと言ったわ。雀ちゃんが危ない、とも”
 芹沢は焦っていた。野口とは随分と長い付き合いになる。彼は物事を正確に捉えて、話に尾ひれなどつけずに話す人間だ。そう認識していた。彼が『危ない』と言うからには事態は相当深刻なのだ。
“一刻も早く岸に・・・近いのはどっち?”
 素早く目を向けて、何も考えずに近い方の岸を目指した。
 身体じゅうが痛く、何度も浮いたり沈んだりしたが、何とか河原に上がることができた。
 隠れている男たちにすれば、芹沢がこちらの河原に上がってきたのは幸いだと思ったに違いない。事実、村上は人数を半分に分けてあちらの河原に行かせることを考え、そう指示を出していだ。
「何が何でも死体にしちまえ!」
「囲め! 囲んで一斉にかかれば勝てるぞ!」
 遠巻きに一部始終を見ていた十数人の男たちは、芹沢が川から上がり、ふらふら歩き出すのを待ってから駆け寄ってきた。ほとんどは丸腰である。二、三人が角材や刀を持っているのが不思議だったが、とにかく殺気まるだしで芹沢を囲むように、口々に何かわめきながら群がってきた。
「ええい、こんな時に!」
 珍しく芹沢は苛立ちを込めて、吐き捨てるように言っていた。
“こんな連中と遊んでる暇なんてない、のにさー!”
 十数人が、ばらばらに攻撃してくる。芹沢は痛む身体でそれを避け、受けた。芹沢は素手だ。それに加えて集団暴行の直後という事もあった。さらには野口の言葉を受けて焦っていた。服は水をたっぷりと吸って重くなっていた。川を泳ぎ切ったすぐ後という事もあった。
 今の芹沢は敵が意図したとおり、まさに『人間並』の状態にまで弱っていた。
 何発か避け損なった、敵の拳や蹴りが身体を掠める。刀の一撃が服を掠める。角材の一撃が髪を掠める。腕や顔からはいつしか、幾筋もの血が流れ落ちていた。
「まさか間に合うとはな・・・だが、芹沢とて化け物ではない。殺せば死ぬぞ!」
 村上は自信ありげに仲間たちにそう言うと、河原に転がってきていたごみの一つを拾って芹沢に向かって投げた。固くて尖った何かだった。
「・・・!?」
 反射的に身をかわした芹沢だったが、隙が生じた。ならず者の一人が振るった角材が背中に当たってよろめいた。さらに別の浪人の刀が芹沢の頭部に振り下ろされる。
「舐めるんじゃ、ないわよ」
 その斬撃は身体をひねって避けると、その浪人の刀を奪い取ろうと手を伸ばした。しかし別の方向から振るわれた棒に邪魔された。その浪人は少しあわてた顔で刀を引いて間合いを取った。
“今の角材・・・ちょっとこたえた、、、、わねぇ”
 あらゆる方向から、入れ替わり立ち替わり攻撃が繰り出されていた。
「そのまま一気に攻めろ! 殺せ! 芹沢を殺せ!」
 村上の声も熱を帯びてきた。もっとも『焦り』という熱に浮かされているのは芹沢も同様だった。
「そこだ! 今だ! 血祭りにしろー!」 
 村上の興奮が最高潮に達した、その時であった。
 空気が揺らいだ。村上は悪寒を感じた。
“土手の方から?”
 それは剣客の勘だったかもしれない。
 芹沢のそばにいた浪人Aが、上から舞い降りてきた?何かの一撃で粉砕された。
「?」
 思わず芹沢も首をひねった。芹沢のすぐそばに突き立った物体に目をやろうとした直後、やはり空から今度はきらきら光る何かが舞い降りてきた。物体のそばに着地する。
「芹沢さん、大丈夫?」
 月光にきらきら光るは、金色の髪。小さな身体に溢れんばかりの闘志を秘めた立ち姿。
「何だ、てめえは!」
 そう叫んできた敵に、金髪少女は力強くこう答えていた。
「新選組、副長助勤。藤堂とうどうたいらだよ。それが何か?」
 その堂々とした名乗りっぷりに、男たちは知らず知らず一、二歩退いていた。
「へーちゃん・・・どうして?」
 芹沢はこう言った。一瞬、女神様みたいに見えた事は内緒にしとこうと思った。
「話は後だよ。急ぐんだよね?」
 藤堂は自分の腰の刀を抜いて、そのまま芹沢に渡した。それから先に投げた、でかい斬馬刀をよいしょと手にすると、やはり力強い声で言った。
「ここは私たちにまかせて、行って」
「わたしたち?」
 芹沢がそう聞き返す、までもなかった。土手の上から猛然と走ってきた誰かが、ならず者の一人と騒々しく戦い始めたからだ。
「うおー、腹が減ってさえなきゃ、俺だってー!」
 芹沢はその声をよく知っていた。だから大声でその名前を呼んでいた。
「島田クン!? 無事だったの!?」
「あっ、カモちゃんさん! はい俺はブゴッ、痛てってめえ、人が喋っている時に何しやが・・・いや俺は無事です! 大丈夫です! この、やったな・・・」
 戦闘中で忙しいのか、島田の声は聞こえなくなった。
 ほっとした芹沢だったが、大事なことを思い出して、そばにいる藤堂の服の袖を掴んだ。
「そうだ! 野口クンが!」
 芹沢は早口で、野口が自分を助けて爆発に巻き込まれた事を説明する。と藤堂は・・・。
「なるほど。それは・・・聞こえたー?」
 こう、どこか別な方を見て声をかけた。暗がりの中から、落ち着いた声が帰ってきた。
「了解です。そちらは私が対処します」
 芹沢は、どこかで聞いた声だと思った。が、すぐには思い出せなかった。
 そんな芹沢の疑問を感じ取ったかのように、相手はこう答えを返してきた。
「山野です、局長。はちじゅうはちと書いて、やそはちです」
「あ、山野クンか」
 そう返事をすると、山野の声は暗がりからこう続いた。
「野口君の方はお任せください」
「雀ちゃんの事はよろしく。全ての首謀者は、松永って隊士だよ。まことが言うには『殺したりしない』と『死ぬ死なないはおまえの勝手』が口癖の、ひどい男なんだって」
 藤堂が意図して軽い口調で言って、早く行けと目で促してきた。
「わかった・・・みんなお願いね。アタシは吉田屋に向かうわ」
 芹沢はそう言い捨てて、後ろも見ずに駆け出した。芹沢の進む方向に男が二人ほどいたが、一人は視線でもう一人は抜き身の刀で威嚇しただけで、あっさり道を空けてくれた。
 達人の視線や剣先は、それだけで恐ろしいものなのだ。
 芹沢を追おうとする男たちだったが、すぐに藤堂が立つ位置を変えて通せんぼしていた。
「追わせないし、逃がさないよ」
 何気ない感じだが、声には決意がみなぎっていて男たちは戦慄した。


 一階で大きな音がした。お楽しみの一歩手前だった松永は、部屋から顔だけ出して叫んだ。
「うるせえぞ! 何、遊んでんだ! ガタガタガタガタと・・・」
 部屋の隅には、破かれた服が散乱していた。時間をかけて、ねっとり獲物を剥いていたところだ。つまらない事で邪魔されたくはなかった。
「・・・!!」
 階段を上ってくる人間と、目があった。いるはずのない人間。死んだはずの人間がそこにいた。
「見つけた」
 その人間は、まさに獲物を見つけた獣のような目で、松永を見据えていた。
 松永はすぐに戸を閉めた。そして逃げ場を求めてきょろきょろして、ふと気づいた。
“人質がいるじゃねえか。山崎に、島田だ。島田がどうなってるか、あの女は知らねえから使える!”
 そう考えて山崎の身体を引き寄せてしゃがみ込み、床に置いていた鉄扇を手にした時。
「逃がさないわよ」
 戸が開けられて獣、いや芹沢が入ってきた。額には汗が浮き、身体は傷だらけだ。
「バケモノめ、近づくな! こいつの顔がどうなってもいいのか! えぐるぞ!」
 松永はそう叫んで、鉄扇の先を山崎の目に近づけた。半裸で縛られている山崎の顔にも身体にも、無数のあざがあった。暴力を振るわれたのは明らかだった。
「鉄扇・・・キミが、取り上げたわけね」
 芹沢の目が、さらに鋭さを増した。松永を見据えたまま、するりと部屋に入ってくる。
「こいつに、あと島田もまだ俺が預かっているんだぞ!」
 だから部屋から出て行け、こう言いかけた松永に芹沢はあっさりと答えた。
「島田クンならさっき会ったわ。階下の連中はオネンネだし、キミの手札はもう雀ちゃんだけよ」
 松永は一瞬愕然となったが、気を取り直すかのようにこう吐き捨てた。
「くそっ! 役立たずどもが。俺の計画は完璧だったってのに!」
 芹沢は、隙あらば山崎を奪い返そうと思っているのだが、今の体調今の状況で確実に救えるという自信はなかった。だから、とりあえずこう声をかけていた。
「あら、まるで自分が特別な存在だって言わんばかりね」
「ああそうさ、俺は特別だ。俺はおまえらとは違う。俺は馬鹿じゃない。俺の才能はもっと評価されていいはずだ。俺は俺にふさわしい場所で、すごい事をやるんだ。俺はすごい事ができる」
「アタシを襲わせたあいつらも消す気だったんでしょ? あの爆煙じゃみんな集まってくるしね」
「あんな下等な連中と一緒に仕事ができるか。俺はすべてを手にできる男なんだぞ!」
「・・・はぁ」
 芹沢はおおげさに、ため息をついて見せた。目の前の男は自分に酔っている。
「キミは、何も手にできないわ。キミは他人を利用して自分だけいい目を見ようとしてる、ただの腰抜け。他人を馬鹿にする事でしか自分の力を誇れない、虫みたいな人間よ」
「き、き、き・・・!」
「キミ、偉そうに語ってたけど何の覚悟もないでしょ? 覚悟のない人間は何もできないし、何も手に入れられない。そして、新選組ではそんなヤツが一番嫌われるのよ!」
「バケモノめ言わせておけばあ!」
 鉄扇を振り上げて松永は絶叫した。そして山崎の顔めがけて突いた。
 手応えがあった。だが鉄扇が当たったのは目ではなかった。山崎が咄嗟に頭を動かして目への一撃を避けたのだ。山崎のこめかみから血が流れる。にもかかわらず、彼女は悲鳴一つ上げなかった。
 血が流れる顔を振り向けて、山崎は松永を見上げた。真っ直ぐな目で見つめて、小声で言った。
不憫ふびんな人。あなたは誰からも愛されない、誰も愛そうとしない孤独な人です」
 その、山崎の言葉が果たして松永に届いたかどうか。
 芹沢の刀が一閃した。同時に山崎の身体が強く引かれて松永から離された。血が飛び散って、松永は悲鳴を上げて部屋を転げ回った。
「今のは、雀ちゃんのぶんよ。顔を斬られたくらいで騒がないの」
 冷徹な、芹沢の声がした。山崎がそちらに目を向けようと思った、時に上からふわりと羽織が被さってきて視界をふさいでしまった。一瞬、鉄扇を拾う芹沢の姿が目に映った。
「濡れてて気持ち悪いだろうけど、我慢してて。できれば耳もふさいでてほしいけど、無理よね」
 そんな芹沢の声がした。心なしか、声が震えている気がした。
「今日のアタシ、ちょっと自分を押さえられそうにないから、せめて見ないでてほしいの」
 声が終わるが早いか、ベキッという鈍い音が部屋に響いた。松永の悲鳴がまた聞こえて、転げ回る音がしている。そして芹沢の声が聞こえた。
「いちいち騒々しいヤツね。野口クンは昔、痛めつけた事あるけど悲鳴一つ上げなかったわよ」
 大げさに、ため息一つ。そして妙に明るくこう続けた。
「野口クン以下、決定。この二撃は、罪も無い駕籠かき二人のぶん」
 ベキリと音がして、また松永の悲鳴というか絶叫が響いた。山崎は、深く考えまい、と自分に言い聞かせる事にした。今起こっている事を真面目に考え出すと、怖くてたまらなかったから。
「た、助けて、く・・・」
 松永の声がした。芹沢はあっさりとこう返した。
「あの駕籠かき二人は、助けての『た』の字も言えなかったんじゃない?」
 圧倒的だった。サルやネズミがいかに猛ろうとも、怒れる虎の前に如何ほどの抵抗ができようか。
「島田クンにもさんざん非道ひどいことしたらしいわね。そして野口クンにも」
 二度、嫌な音がして松永の声もかなり弱々しくなってきた。
「アタシを殺りたかったんでしょ? だったらアタシにかかって来ればいいじゃん」
 数回、また音がした。松永の声は、もうほとんど聞こえてこない。
「し・・・た、くない。俺は、し、に・・・」
「大丈夫よ」
 芹沢は言った。山崎は、芹沢の次の言葉が予想できた。
「アタシもキミと同じで優しいから『殺したりしない』わ」
 何かが動く音がして、風が入ってきた。芹沢の声はこう締めくくった。
「ただ両手両足を折ってから川に蹴り込むだけ。『死ぬ死なないは、キミ次第』よ」
“化け物・・・”
 そんな単語が山崎の脳裏に浮かんで消えた。松永の頭にもその言葉は浮かんでいるかもしれない。
 水音がして、何か動く音がして風が止まった。辺りはしんとなった。
 山崎には、大分時間が経過したような気がした。実際は数秒だったかもしれない。
「ごめん。怖かったよね、痛かったよね」
 芹沢の声がした。さっきまでとは全く違う、弱々しい声だった。
「確かにバケモノだよね、アタシ。大切な家族を傷つけられたからって普通ここまでやらないからね」
 山崎は何も言わなかった。いや言うべき言葉を必死に頭の中で組み立てていた。
「今は、近づかないでおくわね。今のアタシ怖いでしょ? すぐ、へーちゃん来るから待っててね。あと、できれば今の事は報告しないでくれるとありがたいんだけど、ダメ、かなぁ?」
 山崎の中で言葉がまとまった。ゆっくりと言葉を発していった。
「教えてください。野口さんと島田さんは、無事なんですか?」
 芹沢が答えるまでに、かなり間があった気がした。山崎の気のせいだろうが。
「アタシが惹かれる男は、みんな強いからね・・・大丈夫よ」
 それを聞いて山崎はほっとした。途端に張りつめていた意識の糸が切れて気を失った。


 乞食姿に身をやつした藤堂は屯所を出てすぐ、近くの茶屋に立ち寄った。そしてそこにいた山野と彼の恋人・穂波ほなみと話をして、二条法衣棚にじょうころもだなの八百屋『八百藤やおふじ』を情報交換の場所に決めた。八百藤はあの事件以来、山野が時折立ち寄る場所として人々の意識に定着していたから怪しまれない、と判断したためだ。
 食べ物を扱う店なだけに、飢えた乞食がうろついても大丈夫、と思ったのかはわからない。
 山野たちは次の日には、やはり日常の光景と化していた『野菜の取引』を隠れ蓑にして、藤堂たちの武器などを密かに八百藤に運び込んでおいた。すぐにそれらが役に立つとまでは、思ってなかったが。
 島田と藤堂がやってきて事情を説明した時に、山野は穂波をいち早く医者の家へ走らせておいた。誰が怪我をしても即、運び込めるようにとの考えだったらしい。おかげで野口は一命を取り留めた。担ぎ込んだ先の医者の話では、もう少し手当が遅れていれば助からなかったとの事だった。
「もしもあれが無駄足だったら、私は土下座してお医者様に詫びなければなりませんでしたよ」
 後に山野は、糸のような目を僅かに開いて真面目に言ったものだ。
 野口自身が全てを隠さずに語った事もあって、彼は極刑となる可能性が高かった。新選組における極刑とはすなわち『切腹』か『斬首』である。武士としての最期か、無頼の者としての処刑か。
 土方は斬首を主張した。野口の行為は武士としてあるまじきもので、切腹など認めない。今はとても無理な事だが、動けるようになり次第、逃走する可能性もある。そこで処刑の日まで隊士に見張らせておいて、できるだけ早く斬首に処すべきだと。だが。
「あの人は武士です。いえ、最後に武士の魂を取り戻しました。武士には武士の作法があります」
 山崎は珍しく、真っ向から土方に反対したのだ。芹沢、藤堂はそんな彼女の意見を支持し、芹沢に促された形で島田がそれに同意した。
「土方さん、見張りとかいらないですよ。あの人はもう何もしない。危ない事なんて何もないですって」
「根拠が希薄ですね。もしもの場合どう責任を取るつもりですか?」
 島田ではなく芹沢を見て、土方は不機嫌な声で迫った。それに答えたのは芹沢ではなかった。
「切腹します。万一に野口さんが隊に害を及ぼした場合、芹沢局長とこの私、山崎雀が腹を切ります」
 間をおかず山崎は山野に目配せする。事前に示し合わせていたようだった。
「何でしたら島田君も入れて三人が切腹すると言うことで。その代わり、野口君が何の害も及ぼさなかった場合は副長に同じ覚悟をしていただきますが、それでよろしいですか?」
 物騒な事をあっさりと語る山崎と山野に、さしもの土方も呆気にとられた。
「斬ろうとする者は、斬られる覚悟をもするべきです。副長、それが士道というものでは?」
「野口は自分の罪を認めている。極刑になる事も受け入れている。どうしろというのだ?」
 それが問題だった。山崎は肩を落として言った。
「もう少し、怪我が良くなるまで待ってください。お願いします。あの人に、時間を」
「・・・ふん」
 間者だった松永は消息不明。表向き、脱走扱いとした。河原に残されていた瓢箪ひょうたんの中身は毒入りの酒である事が、後日判明した。


「そうですか・・・それほど時間がもらえたんですか」
 野口は、様子を見に来た山崎から事の次第を聞くと、うっすら微笑を浮かべた。
「別に、明日でも構わないんですけどね」
「野口さん、そんな事・・・」
 何か言いかかる山崎を目で制して、野口は言葉を続けた。
自棄やけになってるんじゃありません。残りの人生が一年でも一日でも俺には同じ事なんです」
 山崎が黙って自分の声に耳を傾けているのを確かめて、野口は続ける。
「俺の居場所がある事はわかりました。それだけで俺はもう何の迷いもないんです。いつ死ぬことになろうと、最後の時まで俺らしく生きるだけですよ」
 山崎は、その場に座ると野口の手を取って聞いた。少し冷たい手だと思った。
「教えてくれますか? 爆殺すると決めたのは、あなたですか? それとも松永さんですか?」
 野口は微笑を浮かべたまま答えた。
「両方ですよ。あいつは、松永は芹沢さんをただ殺すことでは満足しなかった。木っ端微塵という、誰もやらないような殺し方をして自分の力を誇示し、大物になりたいと考えた。俺は・・・」
 少し迷うような素振りを見せた野口だったが、すぐにこう言葉をつないだ。
「俺は、芹沢さんの死体が人の目にさらされる事に我慢ならなかった。いや正確には芹沢さんに勝ったモノがこの世に存在する事自体、許せなかった。俺が望んだのはあの人の死であって」
「敗北ではない。ならば一緒に消滅するモノにするしか・・・ですか」
 山崎が野口の言葉を受けて続けた。野口は否定も肯定もしなかった。
「負けて欲しくなかった・・・それほどあなたにとって、芹沢さんが特別な存在だったという事です」
 野口の手を握る、山崎の手に力がこもった。
「私は、先ほど芹沢さんに聞いてきたんです。どうして京都に来て、あなたを遠ざけたのかを」
 野口は興味を惹かれた、と言う顔で山崎の手に触れてきた。
「京都に来て、近藤局長や島田さんたちと会って、自分の性格がとても醜い物に思えてきたのだそうです。
他人に対する気遣いを忘れない彼らに比べて、自分は何と自己中心的なのだろう・・・と」
 野口は黙って聞いている。
「ですが、急に性格を変えられるはずもなく、また急に変えても受け入れてはもらえない。またそんな考えそのものがイヤで・・・ジコチューな自分を忘れさせてくれる人間と一緒にいようと思ったのです」
 野口がはっと気づいたような顔をした。
「ええ、そうです。悲しいことにあなたは、それを忘れさせてくれない人間なんです。あなたといると、どうしても不機嫌になってしまう。そうするとほかの人はいざ知らず、付き合いの長い野口さんは絶対その事に気がついてしまいますよね。そして絶対気を遣いますよね。悪循環です」
 一息入れて、山崎は残ったもう一方の手も野口の手に重ねてから言葉を続けた。
「それに、自分と一緒だと『気遣い体質』が治らないんじゃないか、そんな風に言ってました」
「確かに俺はある意味、常に他人に気を遣いながら生きてきた人間ですからね」
 野口は微笑を顔から消して、山崎の手を握っている力をゆっくりと抜いていった。
「俺は、一番大切な人の心情を思いやれなかった・・・馬鹿ですね、やはり」
 山崎はあわてて首を横に振った。
「ちょっと想いがすれ違っただけです。それほど想い合える絆って、うらやましいと思います」


 野口には、身体に力が戻った頃合いを見計らって切腹の日取りを伝えた。介錯には、敢えて事件のことを知らない隊士を充てた。野口の最期は武士らしい実に立派なものであったという。


 <後書きモドキ>
 これほど遅くなるとは思ってもみませんでした。ジャックスカです。
 何度もダメ出しされてしまった、ジャックスカです。
 お助けトリオ参戦シーンは、某・国民的時代劇を少し意識してみました。うまくできたかどうかはわかりません。(アレは何で、いつも絶妙なタイミングで来るの?)
 あれこれ野口を助ける手も考えましたが、結局こうなりました。
 芹沢「アタシの野口クンを死罪にするなんてさ・・・歳江ちゃん、ひどいじゃないの!」
 島田「隊規、隊規、隊規・・・土方さんはそれしかないんですか?」
 山崎「本当に惜しい人を亡くしました・・・心が、痛いです」
 土方「だから、野口が罪を認めた以上・・・ええい、何故私ばかりが悪者扱いされるのだ?」


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