「長月雨中宵闇に遭う」
夕刻より降り始めた雨は止むことを知らず、夜道はいつも以上に闇が濃かった。
「ふふ〜ん、ふんふ〜ん♪」
上機嫌な鼻歌が通りの向こうからやってくる。
新撰組局長カモミール芹沢その人である。
角屋に招待された宴会でたらふく美味い酒をかっくらい、気持ちがよい。
傘を叩く雨音が小気味良いリズムで芹沢を楽しませる。
「あ〜、今日は久しぶりに思いっきり呑んだなぁ」
端から見ればいつも思いっきり呑んでいるように見えるのだが、本人はアレでも一応遠慮しているらしかった。
「どうせなら島田くんもお持ち帰りすれば良かったかな?」
一年目の平隊士を思い浮かべて、くすくすと笑いをこぼす。
名はたしか島田誠。
入隊面接のときの彼は数いる隊士の中でも傑作だった。
当時の新撰組といえば、まだまだ知名度も低く、一般には素性の知れない不審集団であった。
今でこそコツコツと隊務に勤しんだ(芹沢自身がだいぶフイにしている分を差し引いても)成果が出ているが、あの頃の新撰組は別の意味で殺伐としていた。
その中にまるで一夜の雨乞いでもするように入隊してきた彼に対し、芹沢は少なからぬ関心を抱いている。
「明日、襲っちゃおっかなぁ☆」
そんな冗談とも本気ともとれないつぶやきを漏らした刹那。
飲んだくれてはいても、局長に就いたのは伊達ではない。
重い鉛弾のような殺気を感知した。
「誰っ!?」
そう叫びながら、身体が無意識に横に流れる。
つい先ほどまで芹沢の胴があった場所を、風を切り裂いて擦過音が通り過ぎた。
音はそのまま地面に激突するやと思いきや、盛大に水溜まりを撒き散らして踏みとどまる。
「アンタは……」
世にも知られた新撰組局長を襲った暴漢は、しかしかつて見た顔だった。
「たしか……おまちとかいう町娘……。どういうつもり!?」
芹沢の一喝に動じる様子もなく、その刺客、おまちはただ黙って見据えてくる。
どうも様子がおかしい。
先ほどの殺気は一介の町娘に出せる代物ではなかった。
その上こうして対峙してみると殺気というか、意思のようなものがまるで見えない。
冷たく、本当に自分を見据えているのか疑問に思えるくらい不確かな、そんな双眸だった。
それ以上に不審な点。
どうも衣類の類を一切着ていないように見える。
(ついに露出狂にも成り下がったのかしら?)
もちろんそんな予想はすぐに捨て去る。
なぜなら両腕と額に淡く光る「何か」が目に入ったからだった。
それに先ほどの一撃。
脊髄を悪寒のようなものが走った。
同時に、おまちの口元が冷ややかにつり上がったのが視界に映る。
言いしれぬ不安を振り払うかのように、芹沢は叫んでいた。
「ナメんじゃないわよっ!!」
「カモちゃんさん、どこかなぁ……」
平隊士・島田誠は、雨の夜道を急いでいた。
角屋で開かれた宴会は、いま一番盛り上がっているに違いない。
それなのに島田がここにいるのは、変な胸騒ぎがしたからだった。
雨は止めどなく降り続いており、時折弱まりはすれど一向に止む気配はなかった。
秋分を過ぎ、雨ともなれば冷え込みも厳しくなってきた季節柄だ。
酔いに任せてこの雨の中をそぞろ歩けば悪い風邪でもひきかねない。
そんな気配りのつもりだったのかも知れない。
ともかく跳ねる泥水も気にかけず、ひたすら屯所への帰路を芹沢求めて走っていた。
「ん? ……なにか聞こえたか?」
この雨音の中、重いものが金属にぶつかるような、そんな音が聞こえたような気がして、ふと立ち止まった。
耳を澄ませてみる。
「また……あっちか?」
どうやらそれは進む先から聞こえてくるようだ。
ということは……。
胸騒ぎが島田の中で急速に広がる。
弾かれるように足が走り出していた。
これ以上ないというくらいの速さで。
「カモちゃんさんっ!?」
「し、島田くんっ☆」
芹沢の笑顔が島田を迎えた。
しかしそこで繰り広げられていたのは、島田の想像を完全に超えていた。
「君は……おまちちゃん!?」
そう、かつて恋路をともに歩みながら、擦れ違いもあって喧嘩別れになっていたあの娘が、いま目の前で芹沢に襲いかかっていた。
それもどう見ても人間の動きじゃない。
あの芹沢が圧されている。
「ちょっと待っててねっ。すぐ片づけるから!」
そう叫んだ芹沢だったが、贔屓目に見ても劣勢は否めない。
自慢の鉄扇は軽々とあしらわれ、相手の拳撃は皮一枚でようやく躱すのが精一杯だった。
すでに擦過傷らしき痕が芹沢の顔と言わず腕と言わず、ところどころに出来ている。
「もうっ、ウロチョロするんじゃないよっ!」
また、躱された。
見るからに芹沢の一撃に力が失われている。
このままでは……。
そう思った瞬間、島田は飛び出していた。
「カモちゃんさん、加勢します!」
「だ、ダメよ! キミじゃとても……ぐぁっ!」
一瞬気を取られた芹沢が、避けきれずに一撃を喰らう。
吹っ飛び、地面で一度跳ね、転がる。
「がッ! かはッ!」
「か、カモちゃんさんっ!?」
気を散らせた己の軽挙を痛切に悔やみながら駆け寄る。
「カモちゃんさん、しっかりしてください!」
「ははっ……ダメだゾ☆ せっかく……楽しく遊んでるのに……邪魔……しちゃぁ……」
力無い笑みを見せながら、なおも強がる。
しかし今の一撃は、致命傷ではなくとも相当の痛手だった。
「……新撰組……殲滅シマス……」
抑揚のない声が背後から迫る。
「おまちちゃん! いったいどうしたんだ!?」
「顔、声、確認、新撰組、平隊士、島田、誠……滅殺指令受信……了解……実行シマス……」
その瞳を見て、島田はゾッとした。
生気がない、とはこういう目を言うのだろうか。
本当におまちなのだろうか?
自己チューなまでに強引で、他人の迷惑も何のそのだったが、快活で天真爛漫だったおまち。
短い間だったが、共に過ごした日々は決して悪い記憶ではなかった。
だから、自分の目を疑った。
「おまちちゃん、本当に君なのか?」
「…………」
おまちは答えない。
無言で、じりじりと距離を狭めてくる。
このままでは、やられる。
「……逃げなさい」
「えっ?」
島田の腕の中で、芹沢が言った。
「なにすっとぼけた顔…してるの……キミは早くここから……逃げなさい」
「な、何言ってンすか!?」
「あら……局長命令に逆らうなんて……士道不覚悟でセップクだゾ?」
おどけようとしつつも、時折顔を歪ませるのはどこか骨をやられたのだろうか。
そのままよろよろと、おまちから島田を隠すように立ち上がった。
「カモちゃんさんっ、駄目ですよ! 動いたらケガが……」
「一つ、敵に背を向けるは士道にあるまじき事に候……へへ、ここで逃げたらアタシ……セップクしなくちゃいけなくなっちゃうしぃ……」
「何を言ってるんですか!? 俺が防ぎますから、カモちゃんさんこそ逃げて下さい! そんなケガで勝てる訳ないでしょう!?」
「それに……」
言葉を途切れさせ、島田の方に向き直る。
「アタシ……島田くんが危険な目に遭うの……絶対に我慢できないもん」
そう言うと、にこっと笑って見せた。
痛みからか、肩が細かく震えている。
島田は、言うべき言葉を失っていた。
「さ、ひとっ走りして……トシちゃん達、呼んできてちょうだい……」
ドンと島田の肩を押した。
その勢いで数歩よろめく。
芹沢の背中が、無言で島田を拒む。
「そんな……カモちゃんさん……俺……俺……」
「だーいじょうぶよ……アタシを誰だと思ってるの? そのくらいの時間稼ぎは……朝飯前よっ!」
鉄扇を握り直し、力の入らない足を踏ん張る。
「さぁ! 第二ラウンドと……行こうじゃないかっ!」
自分を鼓舞するように叫ぶ芹沢が、とても、とても遠くに感じられた。
いまここを離れたら……。
その予感が、島田の身体を突き動かしていた。
「うわあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
なんだか、とても気持ちが良かった。
頬に触れる、柔らかく暖かいものを感じる。
身体は不思議と動かない。
まるで金縛りに遭ったかのように。
なのにそれが全く不快ではなかった。
(なんだろう……俺……)
朧気な意識の中で、霞む記憶をたぐり寄せようとする。
(なんだっけ……? たしか角屋で飲んでて……それから……)
そこまで思いを巡らせてから、島田はハッと飛び起きた。
「あイタっ! くぅ……」
「あら、起きた?」
「…………」
芹沢が、いた。
体中に湿布やら包帯やらが巻かれている。
笑おうとして「イタタ……」などとしているところを見ると、昨夜のあれは夢ではなかったらしい。
見直してみれば、自分の身体もミイラ状態だった。
「どうしたの?」
「カモちゃんさん……俺は……?」
「なに? 覚えてないの?」
呆れ顔で島田を見る。
当の島田は、そうは言われてもあの後どうなったのか、記憶がなかった。
「あの……おまちちゃんは……?」
「……逃げられちゃった」
テヘっと舌を出しながら、あっさりと答えた。
その答えを聞いて、ひとまず安堵した。
思いもかけぬ再会で変わり果ててしまっていたおまちだったが、とりあえず生きていることだけでも分かったからかも知れない。
ふぅ、とため息一つ。
「ね、島田くん」
「あ、はい、何でしょうか?」
「何で……あのとき、逃げなかったのかな?」
いつもとは違い、真剣な表情で問いかけてきた。
「なんで、って……」
「キミ、死んでたかも知れないんだよ? 分かってるの?」
口調に怒りのようなものが混じっていると感じられるのは錯覚だろうか?
ズキズキと痛む節々をいたわりながら、答えを探す。
「だって……あのまま俺が逃げたら……」
「アタシがやられる、と思ったワケ?」
「……はい」
正直な気持ちだった。
そしてそれは島田にとって絶対に防がなければならないことだった。
たとえそうすることによって自身がどうなろうと。
掛け値なしにそう思った。
だから逃げなかった、のだと思う。
「そっか……」
「……すいません」
「あはは、なに謝ってるのよ。でも、キミに心配されるなんて、アタシも焼きが回ったなぁ……」
あーあ、と大げさにため息をついてみせ、背伸びをした。
「あ、イタタ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「あはは、大丈夫、大丈夫。なんとか、ね」
苦笑を返しながら、ひらひらと手を振ってみせる。
「でもね……」
「はい?」
「ううん、いや、ほら、ありがとね、って」
はにかむようにして言った。
島田の顔を見ないのは照れ隠しだろうか?
「えへへ……」
「……なんですか、にやけて。気味悪いなぁ」
「あ、言ったなぁ。そんな口の悪い子は……こうだ!」
不意をついて島田の頭を掴んで引っ張った。
「うわ、わっ!?」
重心を崩し、倒れ込む。
「ふふ、ご褒美に、特別席にご招待〜☆」
頬が柔らかいものに触れる。
芹沢の、膝枕だった。
(あぁ、そうか、さっきのは……)
夢うつつの中で感じていた心地よさ。
「今日はトシちゃんの許しももらってるし、ゆっくり休みなさい」
島田の頭をなでながら、優しくそう言った。
照れくさいことこの上ないが、その手が心地よくて、情けなくも離れるに離れられなかった。
その日は結局、夕方までそのままだった。
<了>
感想は、椎名ひなた様まで〜。