教会広前の変遷
☆ 和田岬教会の成立
1895(明治28)年春、大木清太郎が、明石教会初代教会長安藤みね師の願いを受けて、兵庫区新在家町36番屋敷(現在では、兵庫区中之島町1丁目 兵庫県水産会館あたり、下図の中の島と明記されている「中」部分あたり)に一室を借りて布教に出たことによります。その翌年の1896(明治29)年4月に、「神道金光教会新在家仮説教所」として認可されました。その後、二代教会長が生活していた兵庫区和田崎町(下図の郵便局のマーク付近。西向きのお広前であったということです)に、1908(明治41)年からは現在の兵庫区和田宮通3丁目(下図の和田神社と記されている上あたり)に移転しました。
2004(平成16)年3月、和田岬教会と改称いたしました。
教会施設は、1945(昭和20)年3月の神戸空襲により焼失しましたが、1948年11月に復興いたしました。その後、度重なる台風による高潮被害、1995(平成7)年の阪神大震災をも乗り越えて、今日にいたっています。
☆ 奥城の整備
1930(昭和5)年、二代教会長上野瀧蔵師のお墓を、神戸市夢野墓園に建立をしたのに始まります。そして三代教会長、信奉者納骨碑と順次整備してまいりました。その後1970(昭和45)年、神戸市の都市計画によりひよどり越公園墓地に移転し、教会長教師の墓碑を1988(昭和63)年に建立しました。2004(平成16)年5月、かねてからの願いでありました信奉者納骨堂の全面改修を行いました。併せて鳥居と玉垣の前部分を撤去しました。
毎月16日を奥城参拝日と決め、春秋の彼岸の日に墓前祭が仕えられています。
☆
前教主 金光鑑太郎君のみ教え
開教90年を迎えるにあたって
80年90年という年は、ほうっておいてもやってまいります。より大切なことは、自分の信心の動向がどのようになっているのかを知ることです。
人を教えよう導こうとすることはせぬことです。伝えるのではなく、伝わるおかげをいただくことが肝要であります。
おかげをいただくには、順序ということを忘れてはなりません。御礼を先に申し上げることが信心の基であります。おかげ、おかげといいますが、どこまでがおかげということですか。勝手ばかりして、人がついて来るわけがないでしょう。
孫が三つになったら自分も三つになるのです。よいお祖父さんになることが大切です。自分の上におかげをいただいていることをしっかり分からせていただかなければなりません。そのことに力がはいらず、他の方にばかり気をとられているようです。
よい手本になる信心になることが大切です。他人のことより自分の方によい信心の稽古をさせていただきましょう。自分の手元のところが狂っていてはどうにもなりません。力の入れどころがどうなっているかを見つめることが大切です。
80年、90年といいますが、どこまでがありがたいのですか。
90年の間、お世話になっていることを御礼申しつつ、今日を大切にいたしましょう。
(1986〈昭和61〉年3月17日にいただく)
☆ べっちょない
五代教会長 石河晴夫の口ぐせでありました。言葉としては明石地方の方言です。その意味するとこはろは、別状なしという意味です。
このことばを、常に語っておりました。そういうときは、不安が頭をもたげ、先行きの不安にかられることがあったのではないでしょうか。そのために、神様に心を向けているかぎり安心の道が開けると言い聞かせていたようです。戦後復興以来、自らが歩んできた道のりを顧みて揺るぎない信心の賜物として、このことばに集約して表していました。
このことばを、ハンドブック等のタイトルに使用し
ています。