第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―
21(最終回)
~ 船内の風景 ~
森田会長が部屋で寛いで居られます
キャビンがずらーっと並んでいます
バー、と 海賊の大きな人形がおいてあり、最初は人が居るとびっくりしましたが、その後は挨拶をし触っていました
娯楽室です
船の先端です
執筆者挨拶
2009年12月24日
ブラジル被爆者平和協会
会長 森田隆
私の人生で記念すべき、ヒバクシャ世界一周船旅のレポートは最終回になりました、約一ヶ月間私は訪日し11月15日ブラジルに帰りました。留守中船は進行を続けていました。
129日の船旅 ピース・ボートの快挙でヒバクシャ103名が世界を廻り被爆体験を伝え核廃絶を目指した航海は終わりました。
私と共にブラジルより参加の渡辺淳子理事に改めて厚くお礼を申し上げます、
自分では大丈夫と思えども85歳の老齢は争えず常に助けて頂きました、感謝の気持で一杯です。
あれから約一年、私の人生は大きく変りました。
62年苦楽を共にした妻 綾子の死です。
綾子は素晴らしい妻でした、原子砂漠で実った美しい花です、ヒバクシャ同志です、
終戦11年 再起をブラジルに求めた私に 二人の子供と移民として42日の船旅でした、
綾子の努力と家族の団結で異国にて、子供は結婚し孫にも恵まれました。
私は還暦60歳 の時、ブラジル移民のヒバクシャの苦難を知り「在ブラジル原爆被爆者協会」を作り 私は会長、
綾子は事務局長となり、要請書など書類一切を手書きで作成し綾子無しでは協会存続は有りませんでした。
その綾子が脳出血で倒れ 一年五ヶ月の意識不明が続き 遂に 今年7月13日 天国に召されました、
残された私は綾子の意思を継ぎ、在外ヒバクシャの救済と世界平和と核廃絶を目指し頑張ります。
≪右・写真=内藤達郎さん提供≫
船内にて最後の乾杯を乗船者全員で涙ながらの場面でした
執筆者挨拶
2009年12月24日
ブラジル被爆者平和協会
理事 渡辺淳子
全ての船内企画は終了し、2009年1月13日の晴海帰港に向けての荷造りをする頃、海は大荒れで左右に揺れながら作業をしたのを思い出しています。
その最中にも晴海寄港の際、船体横につける
「Stop the killing ~ Listen to the Voices of the World ~ 」
ガザへ平和を求める声を届けよう!
と 言う 横断幕作成の為に奔走されている皆さんが沢山居られました。
私は親の反対をおして25歳でブラジル移住し、13年後初めて日本に帰った時、黒い雨に罹って居る事を知らされました。
2人の証人も生存されていた為、被爆者と認められた訳です。
日本国内に居れば被爆者としてのいろいろな援助が受けられる訳ですが、在外にいる被爆者は近年まで、その対象外とされ続けて来ました。
話し合いでは全然進歩がなく裁判によりのみ、少しずつ援助が受けられる様になりましたが、今もって、来日すれば被爆者として援助しましょう!と言う事が根本になっています。
在外にいる被爆者は約4300人、日本人だけではないのです!
ブラジルにて森田隆会長のお手伝いをはじめて7年目になります。それまでは原爆、被爆者と言う事に対して殆ど無と言っていい程認識は有りませんでした。
その日をきっかけに被爆者として森田会長のもと勉強させて頂き、あくまでも被爆国日本、被爆者と言う事をもとに平和活動を続けて来ました。
今回の「ヒバクシャ地球一周証言の航海」にての経験は多くの事を学びました。
世界には、大勢の被爆者がいます、現在も被爆者が出続けて居るのです。
枯葉剤の後遺症、
核実験の被害、
原爆や原発に使うウラン採掘、
平和的利用と言われている原発の事故、
原発で働いている人、
病院などで使っている医療機器のセシュウム137による事故、
……それらの放射線は何十年経った今も何代にもわたって健康に害をおとしています。
そう言う事実を知ったら世界の人々はそれを使わないでしょう!
何時も苦しんでいるのは弱い人々です。
余りにも世界の人々は原爆が投下されたこと、それがどの様な物であったかを知りません!
誰しも、又 何時の世も、平和な毎日を絶やしたくないと望んでいるはずです。
高齢化した被爆者が話せる時間は少なくなっていのが現状ですが、今回の航海で、如何に被爆者本人が証言すると言う事が大切であり、相手に伝わるかが解りました。
私は原爆投下時は小さかったので記憶に無いため、平和活動を続ける中、被爆者の思いを伝える事が出来ず、ずーともどかしさを感じて来ました。
協会の手伝いをするうち、膨大な資料と、証言をされる被爆者の方達と行動を共にして証言されるその事を何度も聞いているうち、それを、私の中に受け取ることでその気持ちを正直に伝えることでいいのではないかと思えるようになりました。
そして、今回の航海で若い世代の被爆者は、これから被爆者として証言し、それを次の世代に伝えて行く為にどの様に行動して行けば良いか見えはじめた様に感じました。
誰もが、記憶に無い為どの様に証言すれば良いか解らなかったのが今回の航海で見えてきたのです。
私達はヒバクシャとして記憶のある方の後を受け、それを次の世代に伝えて行く立場にあると思います。
現に、私は、つらい思いをされた先輩から
「あんたー、あの日を知らなくて良かったよ! あの匂いといったらそりゃーすごいもんじゃった、、、、、、」
と 半ば怒った言葉で私になげつけられました。
その時は情けなかったけれども、今になれば、まだまだ 地獄をあじわった方達の気持ちの受け止め方が足らなかったのではと思える様になりました。
老若男女を交えた、戦争、憲法9条についてのディスカッションでは、戦争を経験した者とそうでない者との考えの違い、自分も含めた憲法9条の意味の理解度はまだまだ皆に伝わっていないと感じました。
憲法9条は日本だけでなく沢山の国で高く評価されている事も知りました。
近代史の講座も何回かに渡ってありましたが、興味深いものでした。
戦争、原爆投下を真から解ってもらえるには近代史を教えなければその事実も悲惨さも伝わらない!
今、現在でも世界で戦争、核、大量破壊兵器などなど威力も量も広島・長崎より遥かに強い物が蔓延している!
ひとつの地球と言う星の中に居ると言う事を忘れないで世界中の人々が真の平和を考えて欲しいと願います。
ブラジル在住被爆者は現在、約130人居ますが実際に活動出来る人はほんの僅かです、
これから今回の航海で得たものを基に核の無い平和な世界になる様活動を続けてまいります。
103人のヒバクシャを、世界と人に、歴史の事実を再認識させた「平和船」クリッパー・パシフィック号とモナリザ号、そして、それを 動かせて下さったピースボートに心から感謝します!
何もかも初めてだらけの拙い文章ですが最後まで読んで下さった皆様に心からお礼申し上げます、
どうも有難うございました。
最後に「おりづるプロジェクト」で 絶えず流れ、我々の心を癒してくれて居た、バンド・FUNKISTの
「こどもたちのそら」
の歌詞の一節を記します。
どんな爆弾にだって できない事がある
君を優しく笑わせる事
どんな爆弾にだって できない事がある
君と僕の間を引き裂く事
君にしかできない事がある
僕を優しく笑わせる事
僕にしかできない事もある
君をずっと思い続ける事・・・・・・・・・・・・
≪左・写真≫
森田会長と渡辺が12月26日に協会事務所で皆様への感謝と御挨拶として写真を撮り感謝とお礼の気持ちと致します
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