三戸伸晃氏の航海日記を掲載いたします。 三戸氏は21歳でブラジルに移住、ブラジルで結婚し2人のお子様が生まれて、学齢期になったとき、子供の将来を考え日本に帰られました。廣島の被爆者です。ピース・ボートには奥様と2人で乗船されています。 長い日記ですが、人間とは何か、と回答のない人生を振り返りながらお読み下さい。 (盆子原 国彦) |
第2部 モナリザ号
11月4日、引っ越し前日(クリッパー・P号から 微笑みの「モナリザ号」へ・・)の戯れ話・。
いきなり笠木シズ子調の ブギウギ歌謡から話は一方的に始める。
「今日は朝から ワシ等の御船は てんやわんやの 大騒ぎーィ 盆と正月一緒に来たよな てんてこ舞いの忙しさ、 ♪〜 なーにが何やら あれがどこやら 誰がドレやら・・・・ソレラがごっちゃになりまして ワテ ほんまによーいわんワァ アテ、ホンマに よー云わんワ〜・・・」アホかいな? フン!ふん!・・で、
何は ともあれ お仕事はじめに よめはん5階に行きよったァー・・・ ところが鼻歌なんぞ歌っている場合ではないのだ、
明日11月5日、ピレウス出港決定である。
なにしろ今日中にすべての装備品、食料品、、イス、机、鍋釜茶碗、皿、箸、お玉、各部屋の金庫、箪笥長持、洗面道具一切合財、乗船客の荷物一式、一品残らず 麗しの微笑みの「モナリザ」号に移設しなければ為らないのだ。 そうやけん ワシ等の冗談にも付き合わず・・・目も合わせず
関係者一同マナジリ引きつらせ 悲痛な形相で「ワシ等必死で頑張る!」との真面目な姿勢で作業に取り組んでいる。
我が家の代表取締役の?嫁さんは すでに3日前から引っ越し準備のお手伝いを ボランチアで始めているのである。この忙しい時は傍から見ていても真実「猫の手も借りたい」時なのが良くわかる、片附け作業は手慣れた 婆さまの手が 重宝される、 うちの奥さんはこの難局を黙って見ていられない性格もあって 実によく手伝っている。やっぱり猫の手より 婆の手のほうが役に立つらしい。(斯様な場合は 孫の手も 爺の手も 全く役に立たないのだ!・・)
主催者側の責任者からは場内放送で 何度も引越しのお手伝い人の要請があり 機械の利用の出来ない作業であるから人海作戦で荷物の手渡しリレーで運び出すしか方法がないのだ、老いも若きも作業の応援に駆けつけ頑張っている。
ところが 心ない多くの乗船者たちは此の緊急事態を 知りつつも 見て見ぬふりで 仲間を誘い物見遊山にでかけて行く連中もいる、彼等のいい分は(高い旅費を支払って世界一周の旅に来ているのだ、旅の中断は全面的に企画者側の責任で処理するのは当然である!・・フン!) その主張は決して間違いではないし 判らぬ訳ではないが・・どうも同じ日本人として 「ウーン?」 と少なからず頭を傾げてしまう。 同じ日本人が困っている時・義侠心は湧かないのだろうか、他の外国人ならばどうするだろう? 一寸考えさせられる文化の違い・・・?
ただし 作業初日に乗船客のお年寄りが男気を発揮して作業開始直後 重量物を抱え上げ・・いきなり「グギッ!」とギックリ腰になり「イタタたた !・・」それっきり動けなくなった爺さまもいる。 お気の毒ではある・・だからワシ個人的には イロ男(金もチカラもない)の部類で?あるから 口も出さぬし、手も出さず 作業の邪魔にならぬ様にヒッソリとオナラもせず?外の喧騒に参加もせずに部屋の片隅で大人しく 婆さまの帰るのを待っているのである。ワシに出来る仕事は 疲れ果てて帰室してきた婆さんを労わりの言葉で?迎え、凝った肩、腰、関節、を優しく揉みホグシ、そして明日も頑張って働いてちょうだいネッ・・・と言って 二人で大笑いをしているのであります。
一寸 情けないのは 3日前から 朝、昼、晩、毎回の食事がすべて同じなのです、何故なら船内の炊事用具がすべて取り外されている為に ゴハン(米のメシ)が炊けないのである、やはり日本人には何はなくても ゴハンさえあれば塩、海苔、梅干し、おかかオカズに3・4日は我慢できるのだが・・毎回毎食、同じトマト味のまずいパン食には参る、降参である、 それも我慢をして三回目には 空腹であっても もう食欲をなくしてしまいグッタリしてしまう。 それを 愚痴ると婆さまにこっぴどく叱られる・・食欲不振が続いても なれど喰わねば 腹は減る・・・そこで一曲、
♪♪〜・・「腹はスクスク 出るは溜め息・・泣きつーくあてもなし ほほホーイ ホイ♪」の歌を繰り返し大笑い!
ノー天気人間がアホな歌を歌っている内は・・・まだまだ大丈夫で有りますから 御安心のほどを・・・
旅はまだ 折り返し点にも達していないのに、ここらあたりで草臥れていたら到底 世界一周は達成出来ないと思う、たとえ カラ元気であっても 毎日アホな歌を歌っていれば 結構これが元気のみなもとになっているのです。
11月4日
ギリシャピレウス港にて グアンバル前期高齢者代表・三戸のぶ、&幸子 です。
11月6日(木曜日)
予定遅れの本日14時過ぎに やっとギリシャのピレウス港を出港出来た、ひとえに乗船者各位の協力(一部を除く)のたまものであろう、無欲の善意の人たちの人海作戦なくして出航は無理であった と思う・・何はともあれ目出度い。
船は(モナリザ号)一路 次の目的地 マルタ・バレッタ港を目指しフルスピード(残念ながら16ノットがリミット)で 地中海を微笑みながら?ヨタヨタ駆けるのである。 船旅の途中で船本体を乗り換える!という突拍子もない手を考えた ピースボート関係者の決断に驚く・・・ところが何年か昔 やはりピースボートはアフリカ南部の国で交換船の経験があった由、・・この連中は ハプニング、サプライズ、アクシデントその他何が起っても 驚かない訓練が出来ているのであろう、 まさにこの道のベテラン(プロフェッショナル)である、(よく飼い馴らされてもいる?)
昨日の 午後の散歩で広い岩壁を歩いている時 遥か彼方に巨大船を見た、近付くとなんと「クイーンエリザベスU世号」である。
かれこれ40年昔ロサンゼルスに行った折、初代のエリザベス号は アメリカの企業に買い取られ ロス郊外の 海岸で海上ホテルとして余命を永らえていたことを聞かされた、ジョンブル(イギリス野郎)はその頃 E、女王二世号を建造、 当時の造船技術の最大にして最高の傑作を作り出した・・・と海運大国を自任する頭の固いジョンブル達は胸を張って大喜びしたものである、 世界一周旅行の度に何度も日本を訪れている、その船見たさに数万の日本人たちが集まりその巨大さと豪華さに 惜しみない感嘆詞を連発させていた・・・
今回ギリシャで見た E・女王二世号は 確かに巨大でスゴイ貫禄を感じたけれど、・・さすがに老齢は隠せない、噂話によると 近々に引退が囁かれている、 丁度この女王号の北側約1kmの岸壁に ワシ等が今回乗り換える 「モナリザ」号が見えていた、その煙突全面に描かれた「モナリザ」が 例の不可思議な笑顔で斜めに構え 「ふん!アタシが先輩だよ!」とでも言っているかの様に Q・E女王二世号を見ている様な気がした、 老嬢?と熟女の見栄っぱりは?何れにグンパイが上がることやら。・・・?
余談で有るが「モナリザ」は見る角度を変えてもどの方向から見ても 必ず見る人の「目」を見つめながら「ニヤリ」と微笑んでいる?から気味悪がってこの絵の嫌いな人も多いいらしい、 (モノは試しに その絵をじっくり眺めて見るも一興。)
此の船に乗り込んで 残り3万キロmを16ノット(約時速30km)の速さで駆け抜けるのである。単純計算で 走るだけでも 最低45日を費やす、残りの寄港地は まだ13カ国を数える、 果たしてこの熟女「モナリザ」はそのスタミナが有るのだろうか、 笑顔を眺めながら当人に聴いてみたいが 多分笑っているだけで何も答えては呉れないだろう。
明後日には マルタ島に到着する予定。
11月 8日 マルタ共和国バレッタ港
A・Mー10時入港 港入口の両岸に 厳めしい中世の城砦が海岸線からそそり建っている、何となく攻撃的な港だ、
早速、上陸してツアー観光に出かける、ガイドの説明案内によると この国の独立は 1965年 当時の英国から分離独立をしたらしい、現在の人口は40万人、国土は4〜5の島から成り全部を合わせても 日本の淡路島程度しか無いらしいが、地理的には地中海の「ヘソ?」的な要素があって、有史以前より近年にいたる迄周辺諸国からの侵入が繰り返し行はれた、という悲しい定めの国家である、AC−5世紀頃からはフェニキア(現レバノン)国の属国として海運で栄え、ローマ時代はローマの属国になり、オスマントルコ隆盛のころはオスマンの属領を続け 近年になり英国領、スペイン領、ナポレオンの時代にはフランス領、戦前まではイタリア領、第2次大戦後は再度イギリス領、地中海での戦争の度に 強い列国の支配下に置かれた・・と謂う。 実にヤヤコシイ国の歴史を 一挙に語られてもワシ等ごときカボチャ頭では到底理解しがたい話である、 各時代を反映してか実にいろいろな文明の遺物、建造物が残っているが はてさてそれら古代からの遺跡を説明されても 頭がこんがらがって「フーン?」程度で一応判ったフリをしただけでお終い。
ただし・・この国で頂いた昼食は 実に旨かった、肉料理よりも 地元のパン窯の焼きたてパンをツマミに頂いて飲む赤ワイン (うれしい事に飲み放題で)の旨さに 酔いしれ3〜4杯もやってしまった。
ほろ酔い気分で漁師まちにゆき、地元の漁船を見にゆく。此処の港に停泊中の大多数の小型漁船の舳先部両舷に、まるで日本神話に出てくる恵比寿様の、 笑ったたれ目が彫りこまれているのである、 正面から眺めると何となくどの船も可笑しそうに「笑って」いる様に見え、ついついワシ等もつられてエビス顔になり、ニコニコ笑ってしまった。
この情景は・・確か何かのテレビ番組で見たような記憶があって妙に懐かしかった。 船を眺めている多くの人々もやはり同じきもちに成るらしくて、 優しい笑顔が多く見られ 平和な港でありました。
この国には基幹となる産業は見当たらないが 葉野菜、オレンジをオランダに輸出していると自慢気に言っていた。
夜、P・M−23時 バレッタ港出港、 モナリサは次の寄港地、伊太利ーシシリア島パレルモに向け ヒタ走る。
11月9日 伊太利ーシシリア島、パレルモ港 A・M−9時半 入港。
さすがイタリアの海の玄関口らしく 超大型客船がズラリ着岸している。 我が「モナリサ号」28000トンも近頃の超大型客船(8万トン〜11万トン)クラスの中間に挟まれ停泊すると さすがのモナリサの微笑みもさみしい笑顔になる、
私の拙い記憶をたどれば 元々シシリア島は アメリカン「マフィア」のルーツであったと記憶している、入港前に此の島の地図をつぶさに眺めていて・・地名で「コルレオーネ」という町を見つけた、 映画「ゴッド ファーザー」の主役は別称 ドン・コルレオーネ と地名で呼称されていた筈だ、映画大好き人間のワシは この地名を見ただけで途端に嬉しく成ってしまうのである。(最もこの映画は全編ビデオを持っているから繰り返し何度も観ている。)
その町に行ってみたいとも考えたが 時間的に無理があって断念、 ちなみにパレルモの南方50kmにその場所がある由。
ガイド氏に 近頃の地元「マフィア」の状況を尋ねたら、
マフィアの発祥地はこのパレルモ港港湾荷役の荷揚げ労働者の手配をする元締めの手配師、此の利権を巡り 発生した。
組織の親方連中を指して「マフィア」が誕生したとか、なるほど其の、歴史を遡ると千年を優に超える昔から「暴力的な」民間組織はあったはずである、・・わが国でも随分昔から荷役人足の手配師(親方たち)なくしては
港湾荷役作業の使役人夫は集められなかったから?此の利権は違法ではあっても「必要悪」として「官吏達」も見て見ぬふりで容認していた時代もあった・・・ しかし最近は機械化が進み それに伴い人手の多く要する荷役仕事も少なくなって 地元の手配師達の出番も減少の一途である、との由、 映画等で見るド派手な「マフィア」の時代は遠い過去のものであって暴力的なアウトロー達の殆どは、転職?または刑務所入りしてしまって この港町パレルモでは殆ど見かけなくなったとか・・・
もっとも我が国でも最近は「暴力団員、侠客?」サンの肩書では世間から爪はじきされて 唯一 柴又の「フーテンの寅」的 ?な嘲笑いの対象にしか見られない生き方も無きにしも非ずか?・・
大きなビル建物は少ないが 地中海沿岸地域の諸々の文化的石造建造物で 落ち着いた街並みが美しい、気候風土に合った外来の植物、特に オーストラリアから120年前に移植された「ユーカリ樹」が素晴らしい成長を見せてこのイタリアで繁殖している。 在来の西洋松はどうも見た目にも幹からくねくね曲がり 多分日本の松程の利用価値もないようである、
初秋ではあるが「緯度的には38度であるから仙台市とほぼ同じ」街中では まだ沖縄あたりで咲くブーゲンビリア等も見られる、やはり地中海気候は温暖であると思はれる、しかし イタリア料理は日本でも日常的に食するものが多く ワシ等には 日本で食するイタリア料理の方が「美味い」と感じた、特にホテルの軽食的な名物コロッケで 見た目は旨そうな形状であったが かぶり付くと・・米めしのおにぎり?をチーズ混ぜしてオリーブオイル揚げ?・・一口食べて?「マッズー!」
元々西洋料理は ワシ等日本人(老人?)の味覚には合わないものです。 通ぶって「オイシイ〜」なんて言いたいオバサン達も モグモグさせていたが 妙な顔で頭傾げ?・・次の一個には手がでなかった。人種によって味覚の基準は大きく違っていることを 改めて自覚させられた。 よくよく考えてみたらワシ等ごとき日本人ほどの美食人種は他に見当たらない事に気付いた、他国の食生活習慣を見ると食材の種類が日本ほど豊富な国は見当たらない、例えば各港付近のスーパーマーケットに入り込み 生鮮野菜類のコーナーを見回るとその差が歴然とする、かなり大規模スーパーでも 野菜コーナーはほんの申し訳程度の野菜類、トマト、きゅうり、なす、しなびたホーレンソウ、キャベツ、類・・が何となく人目を避けて片隅に置かれている程度、 さすが肉類の種類と量は豊富であるが 鮮魚は殆どなかった、(魚市場には売られていた)日本人ほど野菜類を多く(種類も多く)消費する国は無いのだろう、 当然四季折々の季節に応じ 食材、調理、料理、の数も増えてそれらに対応する調味料も数知れず開発、発売されているから・・・当然「舌の味覚」も肥えてしまい 単味、単食材、の同じ食事が3日も連続すればウンザリして飽きてしまう・・・ワシ等日本人種は実に軟弱で? ひ弱い民族に成り下がってしまったのだろう? なんて しょうもない 戯言を考えている。
昼寝の合間の時間つぶし話。
11月13日(木曜日) ジブラルタル海峡
一昨日の早朝に スペインのバルセロナ港に入港、
此の船に乗船前から楽しみにしていたガウデイの「サグラダファミリア」見学、観光、であったが 急遽 地元の「平和団体」との交流会に駆り出されることが決まり、万やむなく観光を断念して交流を優先することにした。
選出された会員(折り鶴会)20名はバルセロナ北方50kmの「グラノイエ市」の高校生との平和交流の一環で いろいろ話し合う会合で 学生の授業時間内を 交流に充てていたらしい。 15歳〜17歳のまだ幼顔の少年、少女達を前にして ワシ等平均年齢75歳の爺婆の「平和証言」がこの子供たちに どの程度伝わるのか少々心配で有ったが 同年齢層の 現在の日本人高校生たちと比較しても 意外にも?真剣に当方の小難しい話を真面目に聞いていた様子であった。 質問等も物怖じせず 的を得た質問で有ったから 多分当方の受け答えもかなり理解してくれた感触を得られた。 ただし授業時間内での交流は 時間に制限がある為 おしゃべり好きの爺、婆さまたちには 物足りなかった?やも知れず?。この子供たちと交流して何となく久しぶりにココロ?が洗われたような 清々しさを感じ取った。 ハテ 何故だろう?〜
ワシ的には 近頃の日本の一部・少年、少女たちの生活態度、姿勢(一部除く)に大きな不満を持っている。人はそれを年寄りの「偏見!」だ、と言うけれど・・・独断、偏見、であろうとも見た目に醜い姿勢、態度、服装は 決して寛容に認めたくないのだ。
それら許せない態度、姿勢、格好等を 列挙すると・・・
その1)−馬鹿面さらして「半ケツ割れ目」をこれ見よがしにする女子校生たち・・ソレを見て良いものやら?悪いものやら?
その2)−中高生男子の 垂れ下りズボン、膝あたりが股上になって超短足のヨチヨチ歩き? アホかこ奴らは?
その3)−若者のファッションなのか?男女を問わず 刺青、タツーの彫り物(肩、二の腕、腰、手首、)を見せ歩いている
洟垂れガキたちが意気がってこれ見よがしに 見せ付けられた一般の善男善女は一様に目を逸らし 嫌な顔をする。
反社会的行為だと 判らんのか? よほどこ奴らは バカなのだろう。
その他、やたら体中に(耳、鼻、唇、瞼、眉、乳首、お臍、舌、ETC)ピアスをぶら下げている自虐的な 変態男女等々・・なんだか 個人の自由?を履き違えている 面々を見ると無性に腹立たしくなって?真実其のバカたちの親の顔を見たくなる!
グラノイエ市で出会った若者たちの清純でハツラツとした姿勢、対応を見ると・・・・ヨチヨチ歩きで阿保面の日本の子供たちが本当に将来のニッポン国を背負って呉れるのだろうか?と 少なからず心配で背筋が寒くなってくる。
話が横道に逸れてしまったが・・結局念願の ガウデイ建築は見られなかったけれど それはカミさんが替わりに見てくれた・と言うことでココロの折り合いをつけ、生まれて初めての?平和活動を自主的にこなした事で一応満足シタことにする。
本日早朝 モナリサ号はジブラルタル海峡を粛々と通過した。
ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の境界の最峡海部は僅か14キロmで 右舷のロック島はイギリス領(5km四方の岩半島)、左舷はモロッコ(名作。カサブランカ、ハンフリーボガードと女優イングリット・バーグマン主演)を想い浮かべつつ 感慨に浸る、この一作で大スターの座を得たハンフリーボガードも 其の後ははまり役に恵まれず(キーラーゴー・マルタの鷹・アフリカの女王)等二流作品ばかりで 生涯大根役者のままに終わった・・・
この海峡を不法に渡ろうとして、アフリカの無数の労働者達が数え切れない程の犠牲を今現在も 後を絶たない現実を日本で情報として知っていた、この海峡の潮流は密航者たちにとっては真実命懸けの渡航であろう。発展途上国,つまり後進国と ユーロ経済圏との経済格差は それぞれ生まれた国によって とてつもないイノチの格差ともいえる。
しみじみワシ等は「よくぞ日本に生れける!」・・・を実感するも
ノー天気に 世界一周旅行をしている日本人の一人として 一寸後ろめたいココロでの 海峡通過でありました。
ラスパルマス(スペイン領カナリア諸島)〜サントドミンゴ(ドミニカ共和国)
11月23日(日曜日) 晴れ時々シャワー、波静か、
カナリア諸島のラスパルマスを出港して早5日目である。モナリサ号は大西洋を西南西に17ノットで航行中である。この5日間航行中に 全く一隻の船にも出会っていない、当り前ではあるが360度見渡す限りすべて水平線以外何も見えない、フト考える、直径60kmI3500km=210万平方キロの中に 僅かモナリサ号の乗客、乗員含め850人をキロ平方あたりの人口密度を計算すると・・・0、04人になる、兎も角途方もなく広い無人の海面を実感する、航海途中アレコレハプニングは有ったにしても日本を出てから早くも航海73日目で 未だ世界一周の約半分の距離しか稼いでいないのである、
水平線を眺めながら ラスパルマスを思い出した。
ラス・パルマス(スペイン領)では素晴らしい交流と観光が出来た、港南部の小さな町に「ヒロシマ、ナガサキ広場」と称される小さい公園があって、この公園に スペイン語で「日本国憲法第九条」を顕彰する記念碑が掲げられていた。
何故?斯様な地球の果て的田舎町に 遥か東洋の島国ニッポンの憲法(一部分)が顕彰されているのか 摩訶不思議?である、ワシ等大人(一部を除き)はこの憲法の重さを理解しているけれど 日本の街を闊歩する若者(バカ者)達に この憲法九条の内容を問えば 多分 これ等若者達の半分以上から「憲法九条って ナニ??・」と逆に問い返されるはずである。 ま それはさておき この記念碑の前で ワシ等自称「平和の使者」達は全員で ベートーベン作曲の 「第九」を日本語で合唱した。これは只単なる語呂合わせであったけれど 何となく胸にジンとくる合唱であった。
その町の議会場に招かれ 地元の民謡、舞踊、等で接待され ワシ等お年寄り日本人たちもその踊りに加わりあしこしガクガク ゼイゼイ肩で息を弾ませて・・・楽しい文化交流が出来た。
そのあと 此の島の内陸部の山岳地帯の 渓谷にある石器時代からの古代人住居跡の、岩窟レストランに招かれた。砂岩をくりぬいた 洞窟が無数に存在、その中の一部を利用し ほら穴食堂で昼食であった、イス、テーブル、すべてくりぬきの岩で大体小部屋に10名が座れる、メーン通路の左右にその小部屋が15部屋くらい掘られている。ここも例の如く 郷土料理(イベリコ豚ステーキ、他この地方の郷土料理のオンパレード)と 地酒(赤ワイン)の飲み放題食べ放題。 ワインが程良く冷えていて なんと日本人ご婦人方の 飲む量の多さ(只だから?)にワシ等 紳士?諸氏は 黙るしかない。・・余談ではあるが 我が国の高齢のご婦人たちは食事はあまり摂らないけれど 呑むほうはもしワイン呑み放題となれば どんどん注文して・・呑みきれない残量は持参の水筒にたっぷりお持ち帰りされるのだ、・・・・ワシ等小心者の紳士達は 横をむいて見えないフリするしかないではないか・・・(注意すれば後が怖い?)
大西洋は 予想外な好天に恵まれ 日々穏やかな航海が続いています。
そこで・・一句・・ モナリサは 妖しき微笑を浮かべつつ カリブの波に ゆらり揺られつ・・。(駄作)
モナリサ号は大西洋から カリブ海に進み穏やかな波にゆられゆっくり11月23日早朝 ドミニカのS・ドミンゴ港に入港、 コロンブス像が遥かバルセロナを指さしている。
話によると S・ドミンゴの要塞、港、街、の建設はコロンブスの兄貴が造成したといわれている、1950年代の大統領トルヒーヨ(独裁者で後年暗殺された)は当時の日本と少なからず関わりがあって、独裁者の独断で(考えもなく)日本人移住者の受け入れを日本政府に申し出た・・
曰く、・「勤勉な日本人農業者をドミニカ共和国は1000?家族受け入れる用意がある、農地は無償で提供します。」云々・・ドミニカ共和国はカリブ海の楽園で・・云々、(この文言は何処かで聞いたセリフで?)この話にその当時の 日本政府要人たちはよく調査もせずに 飛びついたのである。 時代背景を思い起こすと当時の日本国内ではまだ終戦後の混乱もまだ収まらぬ頃で有ったし 海外から大量の帰国者(旧満州、台湾、朝鮮半島、等)引揚者が国中にあふれ食糧不足、職場不足、住居不足、ETC・・政府もその対応に苦慮していた時代でもあった、 当然外交交渉のできる大使館、領事館、の公使の設置もまだ出来ていなかったのであろう、外務省外郭団体の「海外移住事業団」の下級職員の調査書類を鵜呑みにしただけで、移住行政の一環に「ドミニカ移住」を加え全国の県庁窓口に政府広報として応募者を募ったのである、ただし移住の条件として 当時の金額で自己資金二十万円を用意すること、と言う事は・用意が出来ない人は応募できなかった人も沢山いたらしい。
当時の外務省が示した諸条件を クリア出来た家族達は意気揚揚とドミニカにやってきた・・・所が割り当てられた土地は全く農地ではなく正に使い道もない「荒地」だった、植物も生えない塩害地だったらしい、「耕地」と思い込んでいた土地は同発音の笑い話にもならん「荒地」だったのだ。
多くの移住者たちは早々に日本に帰国したり、ブラシルやボリビアに再移住したが 政府の援助は殆どなかった由。40年後の現在 ドミニカに残り艱難辛苦して生き延びた日本人一世は 日本政府に対し謝罪を求める訴訟を起こして裁判に持ち込んでいるが 日本政府は「ワシ等知らん!」の態度で全く話を聞く姿勢もない様子である。 国相手の訴訟は 主導政権が変わる度に最初からやり直すから 何年過ぎても解決に繋がらない、まさに「隔靴掻痒」であろう。自ら選んだ道だからとは云えど 一世の人達は全員高齢であり・・さて生きている間に解決するのか(10名以下に・・なってしまった由) お気の毒である。
ベネズエラで考えさせられた事
11月25日早朝 ベネズエラのラガエラ港に入港、同時刻当船(モナリザ号)後方にロシアの艦隊五隻が遊弋中である、
当船の大型望遠鏡でそれらの装備を仔細に眺めていたら 旗艦の艦橋からも当直士官達が当船を双眼鏡で 監視している。
私は個人的に ロシアが大っキライ?だから 目線をはずし相手に向かい「あっかんべー」をしてやった・・判ったらしく若い士官が笑いながら此方に向け中指を立てて応えて?呉れた!・・・
ベネズエラのチャベス大統領は大の反米政策を公表しているから・・そのご機嫌伺い?にロシア艦隊が表敬訪問に表れた日が我々の寄港日と偶然に重なったのだろう。
アメリカ政府は 可愛げのないチャベス大統領が大っきらいである、ロシアも嫌いだし 加えてニッポンのピースボートも今回は100名もの原爆被害者を乗船させて「核廃絶」の旗を世界中で振り回すから大っきらいなのだ、 私見ではあるが偶然とは謂え同じ日に まるで申し合わせたように チャベスのお膝元に集合した事実に「CIA」はかなり神経を苛立せているだろうナーと思った。
ワシ等平和の使者?はカラカス市差し回しの小型バス5台に分乗し パトカー先導で港からカラカス市までの道程を「VIP」並みの猛スピード信号無視でぶっ飛ばした 途中警官がすべての交差点を閉鎖・・運転手連中もお調子に乗ってガンガンぶっ飛ばしお陰で乗っていたバス同士3台が玉突き事故を起こした・・幸い大きな怪我は無かったけれど・・・平和の使者(もどき?)が事故ったのでは「シャレ」にもならん。
乗客の負傷者・・・骨ヒビ入り−1人、ムチウチ8人、転び擦り傷軽傷−10名。
カラカス市営オペラ劇場で 首都の市長を筆頭に州内の各市町村長25名がズラリ参加で歓迎してくれた、何故斯様な大歓迎を一民間団体の(ピースボート)「NGO」にしてくれるのか? あまり良くは理解出来ないけれど、・・・・やはりこの場所には日本の公使館員の影は無い。仮定ではあるが もし今回の自動車事故が人身事故(大惨事)だったとしたら在ベネズエラ日本大使館は如何様な対応をしただろうか? 慌てフタメキ自己保身に躍起になっただろうとの姿勢が想像できる。 外務省の「意」に沿はない「NGO」には一切「無視」を指示されているのだろうと思えるふしを感じた。
例えば カラカス市長とピースボートの両者間で(友好姉妹都市提携等)の「友好関係を謳う?」文書、条文にサインをしても 何等効力があるものではない、斯様な場面に公館員が列席したとしたら 多分本国外務省から厳しいお叱りを受ける事になる筈、小利口な官僚は当たらず障らず 見て見ぬふりをしていれば「NGO」は勝手にこの国から出て行く・・・
歓迎会は大盛況であったけれど 参加者に事故が発生したために その後の予定をすべて中止にして 少々しらけ気味にまたまたパトカー先導でぶっ飛ばし(反省の色もなく?) 帰船した、
怪我人は ムチウチ7名、膝ギブス1名、当船の船医判断で旅行続行に大きな支障「無し」・・・
首都カラカスは海岸山脈の盆地に発展した都市である、 市内からいずれの方向を眺めても小山が連なっている、その山丘の麓から頂上にかけて、まさに隙間なくびっしりとスラム化した貧民窟が張り付いた様子が見える、私が58年昔に眺めた風景と 現在の状況は似てはいるが、スラムの形体は超肥大化、拡大化して まさに首都を呑みこむ勢いだ、見ているだけで息苦しくなる気がする、有識者にスラムの 肥大化の話ををすると・一寸首を傾け おもむろに両手を広げ・肩をすくめるしか 為す術がないらしい、
この国の経済は近年の石油ブームで凄く潤っているらしいのだが、現体制は内政にあまり重きを置いて居らず、 そとずらの良い外交政策(反米、社会主義)で汎 ラテンアメリカの主導権を握る姿勢を掲げている様子である。(友好国キューバにはオイルを無償給与しているとか?) 内政で目立つのは「医療費、教育費」免除であるとか、噂話によればスラム住民の最貧困層には政府から金銭的な援助もある由(真贋は不明) 一見良い政治、行政、とも見られがちではあるが 考えてみたら 国民の勤労意欲を意図的に喪失させている としか思えない、極々近い将来・・豊富と謂われている地下資源も枯渇して来る筈である、 人気取りの独裁政治は歴史的にも証明されているごとく必ず綻びがくる。 スラムを見ていて「この国の将来に大きな期待はもてない ナ〜・・」と 大きなお世話的に思った。
この都市での平和交流にも 我が国の外務省公官は 誰一人姿を見せず・・・ロシア艦隊の水兵達に手をふって 出航。
40年昔 パナマ運河を2度目の通過をしている。
その時の船は「アルゼンチナ丸」(10,000t、貨客船)で、南米航路(定期船)最終便であった。
今回はモナリザ号(30、000t)、型は古いが一応「豪華客船?」である。
アメリカは運河経営権及び運河両岸10km幅の占用権を併せパナマ共和国に10数年前に 返還してしまった。 大西洋側からは一気に3段の閘門で上昇してしまう。(24m昇り ガツン湖の水準) 前回は気付か無かったがドックの注水、排水、が随分短時間で処理できる。 やはりポンプの性能が左右するのか? 一段通過に20分以下の時間で通過可能である。 運河開通以降最大の艦船では アメリカ海軍の戦艦、「ニュージャージー」(4年前退役)が丸々二日かけて通過したと謂う。その時の余り幅両側僅か5cmずつであった由、
この運河開通から既に1世紀以上過ぎた、 土木屋の目にも明らかであるが ドックの側壁老化は痛々しいくらい劣化している。 強国米国が撤退した今、この小国 パナマ国に 維持修繕できる能力があるのだろうか?・・・第二パナマ運河建設の計画は、40年昔から出たり、消えたり、しているが・・・この地の地形からみても 新規運河開削には 途方も無い金、時間、技術力、が要求されて 例えば日本一国ではとても「歯」が立たない・・・と思う。
大西洋側の街、クリストバル(コロン市)は 40年昔のまんま・・昔の建物そのままで残り、街の治安はソマリアに匹敵するくらい「最悪!」らしい。 我々観光客たちは、車窓見物だけで・・・一切コノ町の路上にさえ立たせてくれなかった。 独裁者「ノリエガ将軍」(アメリカ、CIA により逮捕、監禁中)の時代より以上に治安は悪化している様子であった。
大西洋側の首都「パナマ市」は海上からの眺めではあったが・・・旧市街は殆ど昔と変わらない、しかし隣接して 新市街地には巨大高層ビルが立ち並び、 あたかも「シンガポール」を彷彿させる如き超近代都市の繁栄を思はせる・・・その格差にしばし考え込む。
コノ国の ガイド君の自慢話に・・・ 「パナマ国では 太陽は西から昇り、東に沈む・・・場所もある!」 と 宣もう、・・???乗客全員頭を傾げる。ワシも暫く考えた。 かいとうらしき事は謂ったけれど 通訳氏の語彙の乏しさで・・分らず終いであったが。 帰船後 若者、中年(現、元)、の各学校教師たちが集まって 世界地図を取り囲み、 上、下、裏表、を仔細に検討したけれど 誰一人「ワカラン」のでありました。
ハテナ?あたまの侭のワシ等600余人の 乗船者を乗せ モナリザ号は 一路大西洋を南下し 次の「ペルー国」目指し航海は続く。
12月3日・・23時 カヤオ港に着岸。
パナマ運河を通過して 太平洋に入り4日目である。 赤道直下とはいえ フンボルト海流の(寒流)影響で、直射日光を避け日陰に入ると、体感温度はかなり下がり、夜間のデッキでの散歩には長袖のシャツが欲しい、
赤道(エクアドル)通過時に船長から何かコメントでもあるのか?、と 期待していたが、日本の船と違い 外国籍の船では何等「赤道越え」には関心、感動は無いのだろう。 40〜50年昔の船は必ず「赤道祭り」 で 海神ネプチューンを祀り航海の無事を祈った・・(当時ワシ等はスッポンポンで裸踊を?した記憶がある)
カヤオ港は南米大陸の太平洋側では 最大規模を誇る港湾施設を充実させている。 何故か岸壁(埠頭)からは警備が厳しく散歩にも行かせて呉れない。警備員のおじさんに ? 何故港内散歩ができないのか?と問うと、 渋い顔で「安全の為だ!」 剣もホロロの返事である、治安上の問題でも?と考えたがじつは 交通安全のためだった由、 デッキから港内を眺めていたら、なるほど、埠頭道路はひっきりなしに大型貨物車が走りまわっている。 納得した。
首都、リマ市内観光に出る。
十数年前の「日本大使館乗っ取り事件」現場跡を見る。 事件当日から決着がついた約一週間は 我が国のテレビ、メディアは終日このニュースで 持ちきりであった、まさに「血湧き 肉踊る!」様な 大事件で ワシ等如き血ノ気の多い日本人の多くは、仕事等 すべて投げ出し?テレビに齧りついて刻々と事件の経緯を見ていた。 結末は まるでアメリカの活劇映画そのものを 再現していた様相であった。(終り良ければ 全て善し!)建物はいまだ当時のまま残っているが、近々に取り壊す予定の由、
中央広場に面して、スペイン統治時代の古い教会を見学する、カトリック文化を象徴するかのような 「宗教裁判所遺跡」の迷路的な・・地下室での 異様な展示物、(無数の人骨)に我々は 声をうしなう、 教育実習なのか低学年の小学生の一団が教師に引率されて 人骨の山?を前にして・説明されていた、・・・ 文化の違いとは謂え日本では考えられない教育である。
この街では男女を問わず 異様に警察官の姿を多く見る、 何か有ったのか?と ガイドに問うと 「否 そうではなく 就職する企業が少ないので 摂りあえず警察官になっている人が多いのです。」・・質問に対する答えにはなっていないが、警官の給料は凄く安いらしい・・・で不足分は 交通違反、で稼ぐのだ!と笑って言っている。 違反キップを見逃せば罰金の50%位の「袖の下」で アゴをしゃくる由。 日本以外のどの国も一緒か。
ペルー在住の 日系人の「日ぺ文化協会」で 歓迎レセプションに招かれた。 協会の敷地は リマ市から 元ラグビー競技場跡地をそっくり寄贈されたと言う。現在 日系ペルー人は 約8万人余り在住している。 農業従事者は減少して 首都近辺の都市部での商業が増えたとか、その他多くの出稼ぎ(日本へ)が盛んである由、 日系人社会での 文化交流は盛んで 、何故か 沖縄県出身者が目立つ、交流の中心である 「日ペ文化協会」会館は ナント!9階建ての新築ビル、1000人以上入場可能な劇場、日本式庭園、池には大きな鯉がたくさん、・・・(サンパウロ市のガルボンブエノ通りにある日伯文化協会は完全に負けとる!?)
敷地内の芝生広場に超大型仮設テントを 今日の為に 設置したと言う、 開催はやはり南米時間らしく かなり遅れて開催、 聞くところに依ると「大使様」?のご到着を 待っていたらしい、 在ペルー日系の人たちは 「日本大使」を呼称して 「大使様」と 崇めて?いるのだ。 ピースボートで世界一周旅行中のワシ等日本人たちは コレまでもこの先も一切外務省のお世話になったことも無く、 「大使とは そんなに凄く エライのかい!?。」 と ダジャレ川柳。
もっとも イロイロな寄港地で 平和交流してきたけれど 一度たりとも日本の外務公官が 接触してきた前例が無かったから ワシ等のテーブルに「大使様」が 挨拶に来た時も 如何様に対応していいのか?・・・(同席の日系人たちは一斉に起立、直立、礼!・・?) ワカランから コップを渡し 「マァ・一杯!」
舞台では日系人の若者たちがイロイロな、踊や民謡を演じてくれるのだが、時間の経過に従い 気温が下がってゆく、・・ご当地のご馳走を美味しく頂くのだが寒さに体が固まり、・・・・終了を待ってスグにバスに乗り込み早々に退散。
イヤハヤ ペルーの夜は寒かった、
2008/12/12
南太平洋 諸島群の最東端に位置する離れ小島である、南米チリー領とはいえ本土から3000kmも離れた絶海の孤島だ、 此の島は火山の隆起で海面上に盛り上がった古い火山島で ここの住民たちは 此の島を「地球のお臍」と思っているらしい。 此の島には大型船の接岸できる港、岩壁はない 広い砂浜も見当たらない、大型船は湾内の泊地に投錨し2〜3トンの船外機船「テンダーボート」(8〜9人乗り)で上陸する、 波が高い日には上陸不可なのである、
幸いにも当日は好天気に恵まれ 波も静か、全員救命具着用で上陸許可が出た、(話によると寄港する約半分の客船は上陸できない由)
テンダーボートに乗り込むにはかなりの危険が伴う、波静かとはいえ船外機船は1m以上上下するからタイミングを測り補助してくれる船員に体を預け「ヒョイ」と放りこまれるように巧く乗り込む、約10分位で上陸出来た。(2名海中に落ちた?)
上陸地点には観光客目あての露天がびっしり並んでいる・・・殆どが石、又は木彫りの「モアイ像」である、
小型観光バスに分乗し モアイ を見物に出かける、此の島は周囲50km程度の小島で 南北に走る山並みはあるがせいぜい標高500m程度の山が3〜5峯見える程度である、どの方向を眺めても深い森林が見当たらない、やせ地に牧草が風になびく ばかりで 耕作地をみかけなかった。 人口約1万人の人々は何を喰ってくらしているのやら?
海岸線に沢山の「モアイ像」」が 一様に不細工な顔をして?一列に「整列」してはるか彼方を眺めている ハテ?何をみているのだろう? 周辺にはたくさんの壊れたモアイがごろごろ寝ころがっている、 これらのモアイ像を憐み?・・・日本のレッカー車製造業「タダノ」k・k の社長の大英断で 大型クレーン車をタダ? で持ち込み 散らばっていたモアイを整理整頓・ 「起立!」の姿勢を?させたらしい。 重機の輸送、設置、設立その他もろもろの作業、工事等すべて「タダノ」は無償、無報酬の「タダ?」で施工した!・・・と聴く。 うーん 日本人の中にもエライ奴らがいるものだ・・・(西北西に向かい拍手を送る!)
石切り場に向かい斜面を登ると・・・斜面に無数のモアイも上半身(顔だけのもいる)だけ地表からだして ハテナ?顔で海を眺めている・・大きいのは頭だけで5mを超えるヤツもいた。 大体モアイは四等身位だから全身を現せたら20m以上の巨人であろう。 地元の言い伝えによると、ウルウ満月になるとこ奴らが「ムクムク」っと地面から抜け出て足音響かせ島じゆうを歩き回る? という。・・(これは見ものだゾ!・・) 現在発見されているモアイは此の島内で1000体を超えたらしい。
島中は 大体どこに行ってもモアイに出会えるから 上陸時のようなトキメキが薄れてくる。 大阪万博に出演した小型のモアイは モアイ仲間ではリーダー格らしく(何しろ唯一の海外旅行経験者?)別格扱いで一番見晴らしの良い場所に立っていた。
島の南部に 十数年前に 延長3300mの滑走路を アメリカ・ナサ宇宙開発局が建設した。 此の用途はスペースシャトルが 何らかのアクシデントが発生した際に 緊急着陸用の滑走路であるらしいが、しかし幸いな事に建設以降 いまだ 一回も使用された事態は発生していないと聴く。
此の島に住む住民の 表情は明るい、言葉は殆はスペイン語である、
12月18日22時、タヒチ(フランス領ポリネシア)のペパーテ港を出航。
南太平洋は パナマ運河過ぎてから 殆ど毎日が 天候に恵まれ穏やかな航海日和が 続いている。 タヒチ出航後もウネリはあるけど波は穏やかである。船内の生活にもすっかり馴れて 乗船客達もそれぞれに 自分の時間の遣い方に一定のパターンが出来て タイクツをしなくなった様子である。
ある日の私の行動パターンを記す、
…………………………
朝、― 6時に起床、― 6・30から後部甲板デッキでの 「ラジオ体操・第一、第二」柔軟体操20分。 終了後、8階 オープンデッキで「紅茶タイム」 此処で 船友たちと 朝のバカ話10〜20分。
― 7時過ぎから4階の「リゾレストラン」で朝食。バイキング方式で「和食主流」 お粥を2杯、梅干し、海苔、炒りたまご、塩さば焼き、漬物、ミソ汁、
― 9時からは仲間誘って 二階(船底)のスポーツジムへ、先ずジャグジー(アワ風呂)で寛ぎ、乾式サウーナで15分を2回繰り返す。程よく汗を出して中央の海水プールに飛び込み 20分程度泳ぐ、このプールは(幅7mx長さ10m、深さ1・5〜2m) 結構泳げる広さである。 ちなみにこの船には3箇所のプールが設備されている。 午前中は 若い娘さんたちもこの船底プールが賑わうから・・ワシ等も目の保養になってヨロシイのである。
プールの帰りに「図書館」に寄って いろいろなジャンルの本の 漢字の数を数えているうちにウトウトする。
― 11時30分 になると 4階リゾ レストラン入り口が解放され 「昼食タイム」である、 メニユーはほぼ毎日同じの バイキング(洋式)で、 鶏肉、豚肉、の唐揚げが出る、 但し毎日同じ味の料理に 皆さん辟易していた。 パンも焼置き(5日位)であるから 飽きてしまう。
午後になると イロイロな催しが イロイロな場所でやっているから 自分の「お気に入り」の企画に参加する。 私は「俳句会」に参加して下手な駄句を捻る。
「水先案内人」として ペルーから乗船してきた 俳人・「宇崎 冬男 宗匠」が主謀する 「船上俳句会」の 臨時門下生にしてもらい 師匠に選句をしてもらうのだが、ワシ等素人門下生達の発句は 宗匠いわく・・・アンタ達の句は・・・川柳である!。 と毎回しかられるのだ。 いい年コイタ爺ババ達は 毎回宗匠のお叱りが嬉しくて 大笑いで時間無制限で喜ぶのだ。
その他諸々の「水先案内人」が絶え間なく 講演会を開催している。 それ等をアチコチと覗き、時には真面目に? 「憲法第九条について」、「国連軍縮会議報告」、「世界平和」、「格差社会」ETC・・等々に付いての 討論、講義、を見たり聞いたり、ウトウト眠ったり。・・・・
― 午後5時30分 から一回目の夕食である。・・・夕食は二回に分けて入場制限している。 ワシ等高齢者(50歳以上)は殆ど一回目の夕食である。給仕の案内で順次奥側から詰めるように席を 埋めてゆく、 食前酒は各自呑み放題(払い放題?)で ワシは毎食「アサヒ本生」・・・ 料理は本格的な 洋食、和食、・・・毎日シェフが工夫をこらし愉しませてくれる。(時には フォグラやキャビアなどもある。(ホンモノは生来初めて?で旨かった)。
夕食後は 週に2〜3回 仲良し船友(戦友ではない!)の部屋で パーティーを開催、(寄港地で買い込んだ酒、果物の持ち寄り) 深夜近くまで大騒ぎで 近隣に迷惑をかけるのだ。・・・若しくは 毎夜上映する劇場映画(500席)観賞に出かける。 20時30分開演のナイトショウである、
船内には 酒場1ヶ所(17時〜25時まで)、バー4箇所、(1ヶ所は AM8時〜25時まで、他の3箇所は17時〜AM3時まで) 営業している。酒場では にぎり寿し、サシミ、うどん、ラーメン、焼酎、酒、ビールの 飲み放題、食い放題、・カード使用であるから 後で 払い放題?になっている。
(船内では 全く現金は使えない規則である。・・但しマージャンの負け清算は即刻「現金」!。 (ワシはかなりヤラレタ〜・・唯一本航海での 後悔だった?)
…………………………
斯様な日々を飽きもせず 繰り返しているから 全くタイクツする暇もない・・・バカバカしくも楽しい航海の日々である。 だから船旅は最高の旅である。
タヒチを出航(12月18日)して 暦の上では7日目(12月25日)に オークランド入港日となっているのだが、実際には6日目に到着しているのである。
船側の通達に依ると・・・本船の航海日誌には12月21日、 この日は1時間しかなくて 20日に25時?まで過ぎれば 次は22日になる・・つまり その1時間内に 日附け変更線を越える?と言う訳なのである。 本船には御老体が多いから・・・その説明がなかなかムツカシイ。何度も説明するのだが・・・ フン、フン、と 返事はしても・・・「デ・・21日は何処に行くのか?」 この繰り返しにかなり草臥れた。
25日はクリスマスであった。 オークランド港は市街地に隣接しているのだが、街中は妙に森閑としている。 繁華街の商店街も軒並み閉鎖していて散策しているのは 殆ど観光客みたいである。
予定通りに 「マオリ族文化村」観光に出かけた。 オークランドの街並みは超高層ビル街を抜けると意外に市街地はミドリの多い 平屋館の木造住宅地が点在する、 各家の植木が繁っているから屋根が見え難く 宅地面積が広く木陰に建つ住居は、やはり我が国と比較しても 住居に関しては格段の豊かさを感じる。 宅地面積が広いだけに平屋の住居で充分生活空間が作れるのだろう。
港から約2時間位 整備された自動車道をブッ飛ばす、緩やかな丘陵地の牧場が見渡す限り続く、日本の食肉の30%はニュージーランドで飼育されている「牛、羊」が 群れをなして豊かに整備された牧草地で 育っている。(いまだにアメリカ産牛肉は日本では人気が無い!
マオリ族の文化村では マオリの民族衣装で(殆ど男は裸、入れ墨、短パン姿、女子はハワイと同じような アッパッパ?姿)・・マオリの民族衣装は全体に簡素であるが 彼らの風習は いまだになかなか「頑な、奇抜、威嚇的・・風習を守っている様子である」。 文化村に入るには 男一匹(ワシが演じた?)
1人で「門」をくぐり 正面をむいて厳しい顔で立つのだ。 正面の大きな集会場(社殿)から 槍を構えた「戦士」が大仰な格好で出てくる、外で立ち並ぶマオリのオババや娘たちが 甲高いマオリ民謡モドキ?「戦い?」の唄や囃子で盛り上げる。・・戦士は羽飾りで飾り立て お囃子に合わせ槍をクルクル回しながら 徐々にワシに近付居てくる 顔中ペイントで色彩を凝らし 大きくメン玉ひん剥いて なにやらワメキながら、 恐ろしい表情で近くまできて槍で突くフリをする。その時に怖がったり、好戦的な態度をしてはいけないから、 ワシは怖いのを我慢する。 戦士はワシの目の前まで大きく 「アッカン・べー」をして 持っていた「シダの葉っぱ」を ワシの足元にポイっと投げ落す、・・・その葉っぱをワシが拾い上げて 「裏返す」・・・ことに依って ワシに「戦意」はアリマセン。という友好の証行為となって、初めて 彼らの集会所(神殿)への入門が許されるのである。 その儀式が終了して ワシの後ろに待っていた130名余りの観光客たちは ゾロゾロ神殿に入り込む。
マオリの挨拶は 男女を問わず 先ず、お互いの肩を軽く抱き合い・・・オデコを合わせ 次にお互いの「鼻」を触れ合わせて相手の吐く鼻息を吸いあうのである。 この挨拶方法は老若男女すべからく同じであるから一回上手くやれば、 相手が何人代わろうと全く違和感無く 実にスムースに 挨拶の交換会が出来るようになった。 実感として これは実に「平和的交換会」であった。
マオリ族の民族舞踊、や民謡をたくさん見せてくれた・・・・最終的に 有名な 「HA KAMATA!」を 男衆全員で 演じて呉れた。 この「ハ カマタ」はラグビー競技(旧イギリス植民地、ニュージーランド、オーストラリア、カナダ、トンガ、等々)の国技になっていて・・試合前、中間タイム、にニュージーランドの選手たちが 相手側の ダッグアウト(休憩所)前に整列して この「HA KAMATA!」踊りで 相手に対し凄い「脅し踊り」を見せて威圧するのである。
全員 中腰蟹股になって足を鳴らし、囃子唄に合わせ 両手で腿を打ち、腕を打ち、胸を打ち、最後に大きなギョロ目で相手を睨みつけ「アッカンベー」・・・これは凄いプレッシャーになって 観客、観衆、敵味方区別無く 大喜びの演出なのである。
最近では この「ハ カマタ」は オーストラリアのラグビーチームの連中が海外試合の度に イギリス、欧州各国、日本、韓国、でも 演じてみせるから、 日本でもこの「ハカマタ」見たさに ラグビーファンが随分増えて 競技場に足を向けてきた由、 書く申す ワシもラグビー競技には余り興味はないのだが、・・テレビで見せてくれる「ハ・カマタ」は大好きである。
(「ハ・カマタ」踊りを お調子者の爺さま連中で 練習して 後日船内「紅白歌合戦」の応援で 舞台で披露した。)
オークランド市の繁華街に戻り・・・開業している店舗を見つけアレコレと 品定めしてみても この国特有のみやげ物も無く、店員さんたちも余り商売気もない様子で あった。(もっともクリスマスの夜には 誰だって早く家に帰りたい筈だものナ・・・ オマケに何故かこの国では 米ドルが使えなかった。ちなみに 当日の1米ドル相場は・・・日本円・91円?までドル安であった。
この旅では 米ドル人気の無さに「戸惑っている・・・」
オークランド出航後 モナリザ号は 北北西に進路をとり 一路オーストラリアを目指す。 南太平洋の「うねり」は大きいが 風も起こらず波も立たず。今航海で 初めて「鯨」の飛躍を一度だけ望遠した。 その幸運に出逢ったのはワシ等を含め 5〜6名のオシャベリオババたちだけであった。 小型の イルカの群れには何度もお目にかかっている。
12月29日(月)
シドニー港入港時は 早朝4時前から上甲板に多くの乗船客は集まっている。 何しろ「世界三大美港」の中でも NO−ONE!の景観を誇る港である。事前に宣伝文句を 散々聞かされていたからか、 前夜から寝ずに待っていた人たちも居たらしい。 船は予定より早めに近海に着いた様子で、時間調整の為に5時ごろから徐航運転でパイロット船を待つ、 夜明け間際に入港準備が整い 水先案内船に誘導されながら入港してゆく、此処の港は天然の要塞の如く 絶壁のいわ山が外洋の波を防ぐように海洋に突き出ていて 内側に入れば大洋の「うねり」さえ 遮られて湖の如くさざ波さえ 立たない。岩山を回り込むと シドニーの高層ビル群が 旭日を浴びて まさに「黄金色に・・」キラキラ輝いて見える。 自然と人工の織り成す「美」の競演であった。
海側から眺める「オペラハウス」は 旭日に反射して「ピンク色」から徐々に「真っ白」に変化してゆく。 観衆のワシ等乗船客はただ「感嘆詞!」を発するだけで・・・ ベイ ブリッジ下を通過するときに見上げれば、早朝というのに早くも数百人の人々がアーチの上を(橋の上ではない)歩行していた。
船は シドニー中心街に近い岸壁に着岸した。・・・(興奮して朝食を摂ることも忘れていた。) 入港時に 船友?達と・・・「ワシ等は何をさておき ベイ ブリッジの アーチを渡ろう!」 と 鼻息荒く約束していたから、上陸後直ちに「ベイ ブリッジ」に徒歩で向かう。 途中で中年の東洋人に出会い 日本語で「ワシ等アノ橋のアーチを渡りたいのだが・・・云々」と問えば・・・???その男は中国人で?身振り手振りで会話をすると、その人も同じく アーチを渡りたくてその入り口を探していたとか・・・ なんとか入り口にたどりつき 受付に申し込むと・・・英語で・・・何日を希望しますか?と問われる、・・「ん?当然今日である!」 と 答えると、 本日、明日、は満杯で予約なら明後日分しか受付不可!アーチ歩きは ご当地観光スポットの目玉であるらしく・・・ちなみにアーチ歩きのお値段を 尋ねると 受付嬢はニコリともせず?値段表を「指差す」・・・・・大人お1人・・・200豪州ドル(約15、000円也) 幅60cm、距離 約2000m、高さ60m〜180m、(往復 徒歩)、所要時間2時間未満? 歩くのも怖いけれど その代金の標示にも・・「オー怖ァ!」・・ワシ等の豪州滞在期間は明日30日の17時までしかない。(だから、諦めるしかないのダ!?)その場での 「思いつき的行動集団」(ワシ等如きノンビリ船旅人達?)の無計画では、何事も 思い通りにはことは進まない。
やはりオーストラリアも この時期(クリスマス〜正月三が日頃まで)は クリスマス休暇中であるから 市内の中心部でもあまり人出は多くない、 官公庁も通常の勤務ではないらしい。 但し観光スポットの 海水浴の砂浜ではバカンスを愉しむ家族連れで 人があふれていた。 おのぼりさん的観光客の我々ピースボート乗客のご老人たちも 解放的な炎天下の砂浜で アチコチカメラを向けて勝手に撮影していたら、・・・いきなり大男のポリス達に取り囲まれウムも言わせず カメラを取り上げられた。 悪気があった訳ではない!・・・と 繰り返し言い訳をしても ソレはその国の 「社会的常識」である。 通訳のお詫びの繰り返しで 何とか解放された。
カメラ撮影の際の 「注意事項」は乗船時から何度もレクチャーされている筈なのに、余り本気では受け止めていなかったのだろう。 オーストラリアでは 公衆秩序違反の 罰則は他国に比較してもバツグンに厳しいと謂う。
大方の日本人が感じ取っている オーストラリア人に対する評価は、 親切で、陽気、オ人好し、大らか、・・その他プラス面の多い国民性?と 思い込む、そして 殆どの国民は親日的? と感じている様子ではあるが、・・・やはりこの国の歴史は アングロサクソン(イングランド)の末裔が大多数を占めている、経済的な国際交流は 親密、親日的であっても、政治的には必ずしも親日的とはいえない部分が見え 隠れ?していて 国民性にも反映している面もあるのでは? (あくまでもこれはワシの個人的感想である)。
この国でもやはり 米ドルでの買い物は「拒否された人」が多かったらしい。
シドニーからは 諸事情により船から離脱して帰国した人も20有余名居たが、 出航時間に遅れて乗船できなかった 老人(80歳)を残し 船は出港。 その老人と行動を共にしていた人の話では、耳が少々不自由で、市内観光中に行き逸れた由、(他人の話を聞かずドンドン独り歩きで行ってしまった由)領事館、地元警察、に事情説明・捜索を依頼、 の結果その夜 シドニー市〜空港間の 路側で発見(草臥れはてていたらしく)・・・本人の意思で翌日日本へ 無事に送還したとか、安心した。
船は 北へ・・・船上で大晦日を迎えた。
思いがけずも 航行の遅れでの洋上のカウントダウンである。
その前に 日本で大晦日の恒例になっている「紅白歌合戦」を 若者たちの企画で開催することになった。 この企画は既に2週間前から若者たちが練習を積み重ね(夜寝ず徹夜練習だった由?)。 男女それぞれ10組の競演で、唄自慢がバックコーラス、ダンス振り付けつきの本格的な ショウを披露してくれた、 ワシ等お調子者オヤジ軍団の爺達はそれらショウの合間に 男子チーム応援で 日頃練習を積み重ねていた?「HA・KAMATA!」を 舞台で 披露したのであります。(大喝采を浴びた?)
最後にやる 目ん玉ひん剥いてやる 「アッカンベー」の威嚇は どうも迫力不足であった由。(一寸残念)
この晩の夕食には・・・「年越しそば」(モドキ)が提供されたけれど、 大量の汁ソバの 作り置きは 汁が冷めてしまい、しかも 麺が伸びてしまって、・・・不味いのなんの!がっかりであった。
歌合戦終了後・・・乗客、乗員殆どの人々は「満艦飾に点灯」された上甲板に参集して、「カウントダウン」を合唱した・・・感動的であった。 それぞれが周りの誰彼かまわず・・・「ハグ!」で挨拶を交わし、・・・新年を祝ったのである。
初日の出は 水平線から昇る旭日は 実に美しく力強く 感動的でありました。それぞれの人たちは、航海の無事と、家内安全、孫の高校入試合格?加えて・・・「世界平和?」を ココロから祈ったのであります。
午前 10時から上甲板に於いて 「新年お餅つき大会」である。 本格的な石臼2台が用意されている。・・(よくぞ K・パシフィック号から移設したものだ)腕に覚えの 力持ち連中が変わりばんこに杵を搗く 奥さん連中はモチ丸め役、アンコロモチ、黄な粉モチ、砂糖醤油モチ、・・・出来る端から行列で並ぶ人々に ひと皿(3個)を配る、 ワシ等力のない老人たちは周りからヤイノヤイノの野次を飛ばす、見ていると 餅つきの「こね役」のアンチャンは 臼に覆い被る格好で ひっくり返そうと頑張っているのは好いのだけれど・・・・何しろ赤道直下・・真昼間の重労働である。彼の額から滴り落ちる「汗」は・・全てモチに・・・振り注ぎ?塩味?の旨いモチになっているのだ・・・。 ソレを見ていた連中は誰もモチに手がでなかった。
船側の好意で 「菰かぶり四斗樽」の「鏡割り」が行われ・・・全員に配られた、 運良く柄杓娘がワシ等夫婦の「船内家族」の娘であったから 上手く員数(数合わせ)してもらい 四合位も呑めた。 ヤッパリお正月は日本酒に限る!・・? モチは140kgも 搗いたらしいが その日のうちに 「汗味モチ?」はすべて 皆さんのおなかに入った?らしい。 ヨカッタ、実に 目出度い!。
船は 北上し 日々暑くなってゆく、
次の寄港地は パプアニューギニア領 ラバウル島を目指す。
南太平洋は 今が盛りの真夏日が続いている、 デッキにいると眩暈がするほどに熱い、
1月3日 AM 9時・・・後部デッキに於いて「南太平洋・戦没者慰霊祭」 を自主企画で開催する。
この慰霊祭を行いが為に 今 クルーズに参加したホンモノのお坊さんが、主催して企画実施をしたと謂う、 折角祭壇を設け、オーストラリアから持参してきた「生花」を飾ったのだが、突然スコールに見舞われ急遽屋根下に退避するハプニングも有ったが、・・・袈裟掛け坊主の読経は南太平洋上に粛々と流れる。
自主企画といえど参加者300余名が 厳粛に頭を垂れてお経に聞き入っていた。 各自焼香の後 それぞれに飾りの生花をj海に散花する。 トランペットの吹奏で・・・全員で 「海行かば〜♪〜」を 何度も繰り返し 合唱した。 この哀しい メロディーの繰り返しにワシ等高齢者諸氏は、しばし黙祷、 落涙しきりでありました。
ラバウルは 太平洋戦争勃発当時、日本軍の「南太平洋軍管司令本部」が 設置されていた重要基地であったらしく、ラバウル周辺海域の島嶼部には、軍隊、軍属、民間人、を含め大凡(およそ)30〜40万人の日本人が 居住していたらしい。(正確な記録は残っていない)
陸戦、海戦、病気、飢餓、自爆、等々で亡くなった人は、優に25万人以上に達するといわれている。
洋上祭 合わす両手に 夏の雨、・・・
1月4日、夜明け前 沖合いからラバウルを見る、
1994年、ラバウル市から2kmはなれたアララカ(?)山が突如大噴火をおこし その火山灰で市街地全域が 埋没(2〜3m)してしまったと言われている。 但し噴火の規模が大きくなかったのか、叉は風向きが良かったのか、幸いにも地元住民に死亡者が1人も出なかった。
2009年1月現在 噴火口は海岸寄りの標高400mの山に移って、 常時小噴火を続け猛烈な勢いで噴煙を吐き出している。
本船の入港航路は 火口部からせいぜい3km程度の近くを通過するからデッキから 全員息を呑む光景が眺められたが、風向きが変わり タチマチ火山灰が デッキに降り注ぐ、大慌てで船内に逃げ込んだ。
船上から眺めると 噴火口から約10km位の範囲の山並みは 殆ど「灰色」で占められている。 平地から山岳地にかけて 無数の椰子の木は葉枯れして無惨な様相で立ち枯れている。・・・・ ワシ等戦前、戦中派の連中がイメージしていた ラバウルは ワシ等の諸先輩が歌っていた 「ラバウル小唄」からの想像で・・・( ミドリ滴る南洋の島・・。美しい砂浜。・・椰子の木陰。 あま〜い果物、咲き乱れるブーゲンビリア、・・・その他美しい現地の娘たち、?)
しかし 現実に見るラバウルは・・・全員黙って息を呑む光景であった。 政府は港周辺の住人に「避難勧告」を呼びかけているらしいのだが・・行き場のない住民はいまだに 数千人規模で港周辺に居住を続けて居る由。
周辺の市町村から集められた マイクロバス(10人乗り)に分乗して観光?に出かける。
国道は港周辺のみ土砂の除去はされているが、街並みを外れると 火山灰道路になりモウモウの砂煙である。
先ず「戦争博物館?」を見る。旧日本軍の兵器類が無数に展示されていた。 旧式戦車(2トン)が雨曝しで錆び付き放置されているのは・・・哀しい。
山本五十六大将(戦死後に元帥)の 司令部跡地はかろうじて「防空壕」が残っていた。 日本軍が人力で造成した「ラバウル飛行場、滑走路跡地」には戦後 米軍が接収して「椰子林」にしたらしく、見渡す限り今は枯れ椰子の林になっている、 現地の人たちが観光の目玉にしようとして 火山灰を堀興し旧日本海軍の爆撃機 「飛龍?」の残骸の一部を見せてくれた、 枯れ椰子林のなかで見る無惨な残骸に、声もない。
戦後 1980年代になって 日本政府厚生省は この地に 「戦没者慰霊碑」を建立した、大金を投入した慰霊碑も(山の中腹に建立) 途中の道路に火山灰が降り積もり 余程天気のよい日にしか車は上がれない、 幸い この日は好天であったから何とか10台位のマイクロバスは 行くことが出来た。
参拝できた人々は、献花、焼香、で慰霊の祈りを捧げられた。
この場所に来て 眺め下ろすラバウルの復興は不可能であると思えた。 この近辺の山肌は 3mを越す火山灰に覆い尽くされている。 降雨の度に融けた灰は街に流れこむようだ。 この山にミドリの植生が戻るには 数世紀以上の時間が必要だろう、・・・と思える。
ホコリまみれになって・・・言葉少なく帰船した。
出航時に 有志一同最上階デッキに集合し、トランペット演奏付きで 「ラバウル小唄」を 何度も何度も繰り返し 合唱・・・合掌・・・疲れた一日であった。
今航海 最後の寄港地・・・コロール港(パラオ共和国、旧アメリカ領パラオ自冶統治区)に 入港、今日もお天気は上々である。
パラオ島には 接岸する岸壁はない。 環礁内に隆起した島である。 環礁の入り口からは航路はかなり複雑に曲折している。 ユックリ航行しながら、内海の投びょう海域まで 大凡2時間ほど掛けてヤットコ碇を落とす。途中のサンゴ海はイロイロ太陽光の加減で 様ざまの色の変化を愉しませてくれた。
この島も 上陸する為には小型の、テンダーボート(20人乗り)に乗り換え上陸する。 船つき場は「JALホテル」のプライベート浮き桟橋である。ピースボート事務局からは、この地に在住する 元、「平和活動家」と称する人たちとの、 「平和交流会」 があるとの 「お達し」は有ったのだが、ワシ等はこの会合をキャンセルして 夫婦だけで上陸した。(理由は・・・この地の活動家、即ち独立運動家、達は既に活動を停止、解散して幾久しい・・からだ、)
ホテルからコロール市内中心部(ANAホテル)まで 終日運行のシャトルバスで 20分。 途中の景色は熱帯植物の繁み・・椰子の樹間から見渡せる、珊瑚海のエメラルドグリーンが眩しい、 メーンストリートの両側に点在する商店街の 看板に驚く、中国語、ハングル語、日本語、等々の文字看板がやたら目に入る、・・・「美登寿し?」(音読みならワシと同じではないか?)を 見つけた。
ANAホテルから徒歩10分の場所にある 「パラオ博物館」に行った。
道端には オレンジ、パパイヤ、バナナ、マンゴなど手の届く高さに たわわに実っている。 博物館の入場料は意外に高くて お1人様・・・5米ドル。いろいろな民芸品や 原住民(パラオ人)の民族衣装、生活用品等は展示されてはいるのだが その他は殆どみやげ物の商品が並べられている。 この南海の名産品といえば 貝殻細工、木工細工、雑な木彫人形、・・・・ミヤゲ品の売り物が目的であるなら・・・入場料は何故取るのだろう?ヨクワカラン!
表通りをひとつ入ると 長閑な民家が続く、壁、垣根類がないから凄く 開放的である。 草葺小屋で座っている住民と目が合って・・目で挨拶を交わすと、その大男が「入ってきな!」と手招きをする、・・・・庭から入っていくと その男の母親がニコニコしながら「コンニチハ!」と日本語で挨拶された。 日本語とブロークン英語と 身振り手振りでしばらく歓談した。 息子は54歳、お袋さんは77歳、その婆様の弟も会話に参加して 結構話は盛り上がった、
パラオは太平洋戦争当時は 日本領であったから、 老人たちは今でもかなり日本語が喋れるらしい。 息子の年代では英語しか使えないと言う。
昔、この周辺を統治していた日本人統治官は 原住民を日本人の「第三等国民」としての扱いをして、 学校では子供たちに「日本語」を教えた。ちなみに。・・・・・当時 第二等国民と位置ずけされていた 「韓半島人」「台湾人」には 「宗氏改名」を強いたらしいが 南洋諸島では ソコまでは強要しなかった・・と謂われている。 (結構、昔の日本人指導者連中も 何を勘違いしてか多民族に対して 驕り、昂ぶり、の圧制をしたものだ!と呆れる)
一頃は パラオも「独立運動」を活発にしていた時代も有ったらしいが、 「タヒチ島」 同様に独立しても アメリカの庇護なしでは 国家としての経営が成り立たない 現実的問題を思案した時 島民の殆どは現行のアメリカ統治を「望む」 側に票を投じた・・・らしい。
(※編者中:パラオは1994年、国防と安全保障の権限を2044年まで米国に委ねた「コンパクト(自由連合盟約)」を発効して独立した=出典:外務省ホームページ「パラオ共和国」の項)
後日、写真を送る約束をして ジャンさん宅を辞す。
昼食には、 先ほど見つけていた「ミト寿し」に入り 、ウドン定食(マグロのニギリ5貫付き)を頂く、店員さんは全員フイリッピンからの出稼ぎで何とか日本語が通じる程度で、・・・オーナーの日本人は二日酔いとかで
不在であった。・・・久し振りの和食に満足、満腹でありました。 他のお客さんは殆どが地元住民、皆さん 上手に「箸」をつかって・・・日本酒を飲んでいたりする。 不思議な事に地元の男衆(パラオ人)は、一様に椰子の葉で織った小型の「籠」を持参しているのだ、その籠に、携帯電話、財布、その他 諸々の小物を入れて持ち歩くらしい。(女性のハンドバックみたいに・・・) 我が家のカミサンがその小物入れ(籠)を気に入ったらしく、店員に「あの籠は・・何処で買えるのか?」 と問う、 店員が地元のオジサンに尋ねていたが・・・この籠は 特殊な民芸品であるから土産物屋では売っていない、! 民芸編み物工房で注文生産している工房へ行って 「注文」したら如何なりや。 とその場所を教えられた。
徒歩20分くらい探しまわり、 やっと其れらしき大きな「椰子小屋」を見つけた。 中に地元の老人たちが4〜5人 愉し気に会話をしている、 入場を請うと爺、婆さまたちは 快く入れてくれた。 若手のオバサン1人だけが 籠を編んでいるだけで・・・・他の爺、婆たちはナント大騒ぎをしながら 「花札」?に興じているのだ。 「猪の鹿チョウ・・・なな丹、アカ丹、青丹、月見で一杯、おおざん、こざん、その他の役も 全部が日本語であった。」 可笑しいから暫く見物した。この連中は 毎日花札遊びをしている由。 花札は日本人の船員さんに頼んで日本から持ってきてもらう・・・らしい。? この爺、婆さんたちの話す 妙なニッポン語に「イッノシッカッチョウ!・・・ツッキミィーデェイッパイ!・・・なんだか とても ココロが癒された。
花札パッチンは面白いのだが、 このご老人たちは「小銭」を賭けて勝負?をしているから、お仲間になることは出来なかった。作業所の奥に 民芸品「籠」の展示場があって、 希望すれば購入する事も出来ると言う、椰子の葉を乾燥させ 地元のお婆さんたちのいろいろな編み方で、模様入りの「物いれ籠」が並べてある。 同じ形状のモノでも作り人により、作柄、織形に微妙な違いがあってみて回るだけでも結構楽しい。
管理人のオバサンに アレコレ選んだ籠をカウンターに並べ・・・「ハウ・マッチ?」と問えば・・・キョトンとして 頭を捻る。 値段の違う品物をイロイロ沢山並べられて 「コレ全部で ナンボですか?」 と問いかけられても・・・オバサンの顔から判断すれば「ワタシニ判るわけナイジャン!」・・の顔であった。身振り手振りで「計算機」を出してもらい 品物ひとつを持ち上げて 「コレナンボ?」と問い その値段を計算機に打ち込む。「OK?」・・オバサン「OK」この繰り返しで商品を 6個分 足し算した、・・・トータルで 端数が出るから、端数を指差し「コレは切っても良いか?」とオバサンの目に問いかけたらオバサンは一寸困った顔をして 「NO!」と言う。 自分は留守番であるから権限がないし、 加えてワシたちが選んだ6ヶの籠の作者が それぞれ全部違うから値引きは出来ない!・・と言われれば 「なるほど」と納得できた。 此処に展示してある品物は全て作者のオババが勝手に値段表示しているから 「気に入ったヒトが買えばよい」のであって 値切るようなヒトには買って貰はなくてもヨイ!」 という 強い意志を感じた。 だから一般の土産物店では見かけないし 売れないのであろう。 この島の島民は意外と「頑固」で「プライド」が高いのだろう、(だから現地人の商人は見かけない)。
商店街の店主、店員、の殆どは 「華僑」「韓国」「台湾」「ニッポンジン」「アメリカン」・・・時々「屋台で果物売りの現地オババ」程度であって 原住民は商売に 向いていないのだろう。 話に依ると、近頃は日本の観光開発業者たちが この「パラオ」をダイビングの「スポット」にしようと企んでいると聞く。
既に 俗化してしまった ハワイ、グワム、サイパン、東南アジア諸国のリゾート地、混雑を避けて、この「パラオ」を本格的にリゾート化しよう・・という傾向で 動き始めているらしい。 既に「JAL」「ANA」その他有名な日本資本によるホテルがアチコチに目立ってきた。 と聞く、 今度の航海でアチラこちらの島々で 結構現地の人々と 接して来たけれど・・・此処の島ヒトたちが 最高に穏やかで接しやすいココロの持ち主が多かった・・・様に思えた。
自分で評価するのもおこがましいけれど、 ピースボートが計画している「現地との交流」は、余りにも「平和活動」の押し売り的「マニュアル」(独りよがり的)とも見受けられる面が 少々ワシの{勘}に触ったところもあった。 形に囚われず、 各人が各人の特徴を生かして 時に自由に地元との交流をさせたら多分、もっとイロイロな平和交流が出来るのではなかろうか?・・(招待して呉れた P・Bには悪いが)
ワシは今回の寄港が 最高に面白かった。
日が暮れる前に曲がりくねりの環礁を抜けて 太平洋に出た。
この島には機会があれば また来たい・・・さようならパラオ!
船は順調に北へ、 黒潮にのって北へ。 天気晴朗、波は立たずもさすが太平洋のうねりは大きく ローリング、ピッチングを続ける、 乗船当初はかなり船酔いした者もいたようだけれど、 日々祖国が近づいて来ると、それぞれの帰り支度に追われて 船内は荷物の整理で 何かと気忙しくなってきた。やはり 130日の船旅は長かった、けれど ワシ等 毎日が日曜日族の 後期、中期、前期、高齢者たちには 実感として この楽しくて、幸せな日々が モットもっと続けばいいのにナァ〜・・・が本音だったのである。
1月13日 トウキョウの晴海ふ頭に「モナリザ号」は 無事着岸。 船上から西方にクッキリと 旭日に映えた 「真白き 富士の雄姿」が我々を迎えてくれた。
ワシ等が念願の「世界一周船の旅」は おわった。
THE END