三戸伸晃氏の航海日記を掲載いたします。 三戸氏は21歳でブラジルに移住、ブラジルで結婚し2人のお子様が生まれて、学齢期になったとき、子供の将来を考え日本に帰られました。廣島の被爆者です。ピース・ボートには奥様と2人で乗船されています。 長い日記ですが、人間とは何か、と回答のない人生を振り返りながらお読み下さい。 (盆子原 国彦) |
第1部 クリッパーパシフィック号
今朝の空の蒼さは まさに紺碧の青空である、 山路降ろしの西風は爽やかに吹き渡る。
世界中の人たちを喜ばせた今回の第29回北京オリンピックの祭典は、大盛況の中、昨夜の閉会式で無事終了した。 さすが人口13億人を擁す大国、中華人民共和国の威信を懸け 共産党の総力を結集して 世界中の人たちに 「どうだァー参ったか!」 と 言わんばかりに コレでもか!是でもか!矢次早に繰り広げられる 人海戦術による高度のイヴェントの数々に ワシ等日本人に限らず多分世界中のテレビ鑑賞者達の ど肝?を抜いた筈だ。イロイロ批判的に見ていた人たちも・・・今回の中国ーオリンピック大会に関しては さすがに 「参ったマイッタ凄かった 大成功・・オメデトウ!」の喝采を送るだろう。
お祭り騒ぎの後は・・・・ お祭り済んで 日が暮れて冷たい風が吹きはじめたら・・・ はて?コノ国の政治、経済、人権問題、国内の格差問題 その他 イロイロコノ国が抱え込んでいる途方もない多くの 大きな問題は 如何様に処理、処置、解決して行くのだろうか?・・・ それらの 解決方法如何に依っては お隣の国に住んでいる 我々日本人にも凄く重たい荷物(つけ)を背負わされる可能性が 「大」ナのである。
何しろ 世界人口の 5人に1人は中国人だから(計算上は 日本人1人に対し中国人10・2人になる)、可能性として中国国内で取り沙汰されている経済格差の底辺に「蠢いて生活している」 10億人の農民たちが 現体制に対し 一斉に蜂起を起こす可能性がない とはいえない。 現に辺境に居住している 少数民族が あちらこちらで大なり小なり反政府活動が 勃発し始めている・・・ 今は何とか武力で制圧している様子ではあるが 近い将来 必ず火山の爆発の如く 大噴火を起こすことは間違いない・・・(例え 中国といえど 歴史を止めることは出来ない・・・ソ連の崩壊、ベルリンの壁、ルーマニア、 ETC etc、) 別にワシ等如きがアレコレ心配したところで 世の中の流に何等影響するわけでもないのだが・・・ 大人しく自分の目の前の「ハエ?」でも 追っ払って ワシ等には もうそんなに残っても居ない時間を 有効に そして適当に?エエ加減に ウッチャッテ過そうか・・・
いよいよ 「ピースボート・世界一周証言の旅」 が始まる。 手続き等の出発準備はすべて 万端整った、・・・新聞に依ると 当初被爆者招待者は 100名とあったが 其の後 何らかの事情で増員になり 110名になった由、 パンフレットをツブサニ眺めてみたら 各寄港地での オプショナリーツアーが 実に盛り沢山 企画されている、・・・乗船申し込み時に事前にオプショナリーの希望を申告されたし との通達であったけれど・・・ワシに限らず 多分今回乗船する人たちの殆どの人は アレコレそれなりに忙しかった筈で 細かく深く、オプショナルツアーに関しては考えては居ないはずだろう と思う。
それらに関しては 先ず乗船してから ユックリ時間を掛けて(航海中はタップリ時間はある) 考えれば 良い と考えている。時間を まさに 湯水の如く 浪費して(これは最高の贅沢だ・・・) 来し方を想い起こし 「自分史?」の編纂を行う心算であります。
既に承知だとは思うけれど・・・・ピースボート(世界一周平和証言の旅)の ヨコハマ 出航日が 再度延期になった。
現在のところ出航日予定は・・・(9月 7日) になった 由。
昨日、夕刻の連絡 (ジャパン グレース旅行社)に依ると 現在就航中の「第62回世界一周旅行」(クリッパーパシフィック号)が 最終寄港地のアラスカ州の港で 再度 アメリカ沿岸警備隊に依る「臨検」を受けた結果 何らかの不都合を指摘され 急遽 出航を止められた由、指示事項は簡易、軽微 な改善、改良で?一日だけの停船で作業は終了したのであるが、何故か明確な説明も無いまま 三日間停泊させられた・・とか?
最初の 停船指示は ニューヨーク入港時 やはり沿岸警備隊の臨検で 不備(軽微な)を見咎められ ドック上架を命令されて フロリダの造船所まで 回航しドックに上架(半日の修理?)で 7日間も 旅程を狂わされた。 そして 今回の再度の臨検である。 合計・・10日の遅れになった。
明らかに アメリカ合衆国 (政府、CIA、FBI、?)に依る ピースボート(HGO)に対する、合法的な「嫌がらせ、イケズ、」以外のナニモノでもない!(N・G・O)ピースボートが平和活動の提唱の筆頭項目に挙げる 「核兵器全廃、廃棄!」 コレを アメリカ各地で公然と シュプレヒコールされるとアメリカとしても 国民の手前も、諸外国に対しても「メンツ」が 保てなくなる、・・・アメリカにとって 実に目障りな団体であることは 充分承知の上で コノN・G・Oは「平和活動」の御旗を掲げ 正面から乗り込もうとするから・・・アメリカ側の諸機関が 知恵を絞って 合法的に「上陸拒否」をするのだ!
と ダレの目にも明らかである。
上記のような事態は 別にハプニングとは思っていないから 出航が遅れる事にはわし自身あまり困りはしないけれど、 遠方より参加される諸氏にはイロイロ負担も増えるし 予定もかなり狂わせられる様子で 気の毒でありますが、 長ァーい一生のうち 10日程度の時間の無駄があったところで今後の人生に 何ほどの影響が有ろうことやら・・・慌てない アワテナイ・・(ナスがママ?なら キューリはパパよ!) 成るようにしかナランのである。
とりあえず お知らせまで・・・
9月 8日(月曜日)鹿児島沖太平洋上 晴れ 波高2〜3m、凪、・・・巡航。
ピースボート第63回世界一周「平和証言の旅」の出港がイロいろあれこれ手違い間違いああ勘違い?等々ありまして当初予定が大きく遅れ やっとこ昨日17時を以って なんとか出航の運びとアイなりました。
横浜大桟橋には早朝から多くの見送り人たちが 暑い中この船(クリッパーパシフィック号)の出港を 今か今かと待ち続けていたのだ、出航間際になって 一天俄かに掻き曇り投げ交わされた 五色のテープはゲリラ雨に吹き飛ばされ千時に乱れ千切れさる
加えて いきなり雷光、雷鳴轟きわたり ・・・実に劇的な自然が生み出す サプライズな 船出でありました。
今回のピースボート(PB)には約 700名の乗客と100名のスタッフ 計800名が乗り込んでいるらしい。何故か主催者側の(PB)幹部は ハッキリと正確に員数を発表しない様子である。
夕食時に大食堂で 形ばかりの「出発式」を行い 船長以下 讃辞を述べた後 乗客代表が挨拶を・・・なんと その人は 当年 92歳のご老人のヒトリ旅?だ・・とのたまう、その老人は自足でなんとか杖を頼りに歩けるが・・・よくぞ独りで参加したものである。今回の航海では一番若い乗客としては 4歳の幼児が居る、スタッフに聞いたところ 若い人たちも乗船はしているけれど 今航海の特徴は 男女を問わず高齢者が通常の倍近くも乗船しているらしい、 尤も今回の目玉は 私も含め「被爆者生き証人」として 100人を超える65歳以上の高齢者が乗船しているから・・・成るほど と納得、 昨夜はウエルカムショウで 「東京ギャングスター」バンドが 喧しくロック演奏をやっていたけれど・・・・・どうも盛り上がりに欠けていて 私は早々部屋に帰った、バンドの連中も 見回せば客の半数以上が「後期高齢者?」である たぶん気合いが抜けた筈だ。
本日は 救急避難訓練を一斉に行う、
天気は晴朗 波もなく 航海は順調であります。
9月10日 航海4日目 空模様は少し機嫌がよくない、風はあまり強くは無いのだが さすが太平洋のうねりは大きい、本船(クリッパーパシフィック号,22500t)は昼食時頃からゆっくりロウリング(横揺れ)が始まった、加えて小さく ピッチングも加わり 我が家のカミサンは「モウ ダメ!」と昼食をパスしてベッドにダウンであります(先が思いやられる)
元々本船は高速仕様ではないから 船としてはユッタリゆっくり航行で 今日現在(14時)まだ台湾沖を南下中であります。
最初の寄港地は ベトナムの「ダナン」港に13日早朝入港予定である、この日には地元の人たちとの交流が予定されている、交流会に参加するのは ピースボート招待者(広島、長崎、での原爆被爆者102名)ほか参加希望者 約100名 計200名以上。これら参加者を 4〜5グループに分けてグループ毎にそれぞれの地域に分かれ 交流を温める企画らしい、
翌日 14日は出航時まで各自 自由に観光する、私個人的には アメリカが歴史上初めて戦争に負けたきっかけになったダナンの激戦地跡を歩いてみたい希望を持っている、未だに不思議に思うのは圧倒的な物量と圧倒的な近代兵器を駆使出来たアメリカ陸海空三軍(他に国連軍)精鋭が 装備の貧弱なホーチーミン率いる北ベトナム軍に 一気にダナンで海に追い落されこの地で 勝敗が確定したらしいのだ、 当時の「敗軍の将?」達はそれぞれが安全な地に逃げ延びた後、自分たちの不甲斐無さを 棚に上げ? アレコレ「兵を語った!」と言われている?。
話変わり、当船の乗組員についてオリエンテーションによると 船長は北欧のノルウエー人、機関長はコスタリカ、事務長はホンジェラス、その他 世界19カ国(300人?くらい)の船員、アシスタントが 乗務していると謂う、なるほど船内をイロイロあれこれ探検?してみると どこの階層を歩いても何故か四六時中どこでも 白、黒、黄色、茶色、褐色の乗務員(男女問わず)と出っくわす、船長の教育方針なのか 此の人たちは必ず笑顔で挨拶をしてくれるのだ「オハヨウゴザマース」こちらも笑顔で「お早うございます」であいさつを返すのだが・・・午後になってもやはり笑顔で「オッハヨウゴザマース・」と挨拶されても ワシ等日本人乗客は一様に「ン?」・・・返答に困るのだ。
先にも書き送った様に 今回の航海の乗客は 若い世代の人は男女ともに20代前半の若者達が30%位だ。30、40、50、代の年齢層はほとんど見当たらず 定年退職者の60代、年金生活者60代後半、後期高齢者世代の70歳台が 全体の60%。 残り10%(約70人)は80歳台の高齢者。 その他には 最高齢92歳のご老人も単身で参加している。 遠路ブラジルから参加してきた ブラジル被爆者平和協会会長の 森田さん(83歳)等は 此の航海最長老だと思っていたらしいがナンノ何の92歳のじい様から見れば まだまだ元気な「若い衆?」なのだ、その森田さんから見られるワシら古希に近い年代はやはりたそがれ時の?「若い衆」なのかも知れない。
予報によれば 明日はお天気が回復し 穏やかな航海が期待できるでしょう 云々・・・
9月17日 航海10日目現在 南シナ海ホーチーミン沖南下中 天候は曇り 波高3〜4m。
最初の寄港地 ベトナムのダナン港にはほぼ予定通り9月13日16時(2時間遅れ)で入港、当日は地元ダナン市在住の「枯れ葉剤被害者協会」関係者他高校生、中学生等多数が港に出迎えて大歓迎して呉れました、早速用意された歓迎会にバスで乗り込み 待機していた大勢の「枯れ葉剤被害者」達に直接出会うことが出来た、
写真報道、テレビ画像等で見てかなり知っているつもりで有ったが 実際にこの人たちを「生?」で目前にすると我々日本人は一様に声を失う、米軍機による無差別にまき散らされた 枯れ葉剤オキシダントの後遺症は人間の「DNE」を破壊し あらゆる異形の人間を作り出す、世界的に知られている「ベトちゃんパクちゃん」の如き「2頭1身」の奇形体に似た様な子供たちが2代3代と生まれてくる可能性も 否定出来ないらしい。
短時間ではあったが平和証言の交流会も出来たけれど 現地が用意した通訳さん が日本語の語彙に乏しく ワシ等日本人側も参列のベトナム関係者諸氏・・お互いで「何を語っているのか?」残念ながら殆ど理解し合った とは思えなかった。 要は平和交流であるからお互いにニコヤカに握手を交わすことで平和集会は 大成功であった・・・と 謂うことだろう。
ダナン市は ベトナム第四位の都市(約80万人)の大都会で 戦後の復興は終わっている様ではあるがまだまだ都市機能社会資本整備の真っ最中らしく 例えば交通信号機が殆ど見当たらない、車の交通量が少ない代わりに ホンダ、ヤマハ、その他あらゆる国からの 小型バイク(50ccクラス)がまさに氾濫して奔流の如く道路を縦横無尽に走り回っている。この情景は我々日本人の目には50年昔の日本を彷彿させてくれる、この国にはバイクの定員が無いのか?3人乗りは当り前で4人乗りも珍しくはないのだ、ナント50ccバイクに5人乗りでヨタヨタ駆けているのも度々見かけビックラこいた。
案内人に 交通事故は多いのか?の問いかけに お互いぶっつけても警察は関与しないらしい、事故現場では其処ら辺りにいた目撃者たちがワイワイ話し合い 例えば 車、対バイク、の場合は文句なく金持ちと看做される車側に弁償させる採決を 野次馬たちが決める?らしい。 想像すると可笑しいけれど 理にかなった採決である。
ベトナム料理は 何れの料理にも香料の強い香草が使われている、慣れない人には全く手がだせないらしく特に女性方には人気がイマイチである、ヒンズー教徒が多いいせいか牛肉を食べる人はいないらしくて肉は豚、又はトリが多い、この国の第一産業の(輸出量世界第2位を誇る)米、は品質にムラがあってか?炊き方に違いが(日本と)あるのか妙に堅いゴハンが出てくる 文化の違いなのかイロイロおかずになる料理が次々出てくるのだが それらを何とか平らげた後に やっとゴハンがデーン大量にと出てくる、 ハテ何を?オカズにゴハンを食べればよいのやら 困ってしまう、
翌日から ダナン市内観光をしたけれど あまり観光の目玉はなくせいぜい 「旧日本人街散策」「博物館」「ハン市場」その他大した観光地は見当たらない、旧日本人街 とは言えそれは我が国が鎖国する以前の「御朱印船交易」の時代に交易に関係していた日本人たちが居住していた街並み(鎖国以降は日本人は居なくなり 現在は華僑系の商店街である)
その近くに 公設市場(ハン市場)があり 主にあらゆる生鮮食料品が販売されている 人も犬も猫も混然、幅1mの通路にバイクまで入り込み何が何やら訳もわからぬやかましく姦しく吐きそうになる魚の生臭い匂い充満 まさに混沌、人犬猫掻き分け進む、カエル、アヒルあれやこれや食えるものならナンでも来い鯉、どうもワシ等日本人にはこれ等のややこしい喧騒と異臭の文化には馴染めなくて 早々に退散(降参)で船に逃げ帰る、やはり口に馴染んだ船の「メシ」はうまい。
続く・・・
その日の夕刻、船内放送で「乗船客全員10分後集会場に集合されたし、重大なお話があります!」と何度も繰り返した、早速皆さんおっとり刀で集合した、JG(グレース ジャパン旅行会社)の最高責任者 曰く・・「この船の出港が遅れます、船長からの通達でありまして取り敢えず本日の出航は有りません!」 乗客からはブーイングが起きた、なぜだ!、WHY?ポルケ?・・船長に改めて聞いてきます、 暫くして 「船長にも良く分からないらしいが船会社からの指示だ」との答え、その後の回答によると この船(クリッパーパシフィック号 バハマ船籍)の船籍国を何らかの都合でバハマからマーシャル諸島に移籍する手続上の書類検査、船体検査の所為らしいのだ、・?通常船客を乗せ航海中の船舶を移籍させる行動は常識では考えられない行為・前代未聞・だとこの船の高級船員が言っているらしいが例え船長といえども 本社オーナーの命令、指示に逆らうことはできないらしい、お陰で思いがけず此の港に停泊が延長され 丸々一日再度観光が出来ることになった、斯様なハプニングはワシ等暇老人たちにとって大歓迎なのです、
翌日は急遽ツアー予定を拵え 多くの人たちは遠足を兼ねて隣国ラオスの国境の山中に18世紀に発見されたヒンヅー教遺跡「ミーソン遺跡」に行くことにした。
ダナン西方約80kmの山中まで観光バスで 約1時間40分 国道1号線を南下し途中から西に道をとる、のどかな田園地帯が続く、この地方では 3期作が可能らしく 今時期は稲刈り真っ最中で沢山の農民が収穫に余念がない、刈り取ったモミは天日干しが主流らしく 道路脇の農家では各自勝手に舗装道路にモミを広げ干している 場所によっては両側から道路を占拠しているから車道は1車線しか利用できない、農民も バスの運転手も 実におおらかで 運転手は全然文句ひとつ言はずそれらを避けながら走る、 最も田舎道だから 殆ど対向車に出会うことが少ない、
ミーソン遺跡は五世紀ごろから建造された 砂岩と日干し煉瓦での構造物で 見た目には全体が赤っぽい遺跡群である、ベトナム戦争のころは 北ベトナム(ホーチーミン)軍はこの遺跡地帯の構造物を利用し 戦闘基地化していたから 米軍の標的になり 空爆、ヘリコプターからの無差別銃撃で 殆どの歴史的建造物が破壊されたらしい、空爆の名残として現在も遺跡群のあちこちに大きな穴がそのまま雑草に覆われている、
この遺跡に祭られている主役は シバの女神像が多い、 あいにく浅学にして詳しくは判らないけれど、どうも解説してくれる現地案内人の説明の多くは 「性」の営みに関しての話が主流であった。 言われてみれば ヒンヅー教の盛んなインドの寺院、伽藍、では シバ神の寺院では もっとモット赤裸々に そのものズバリの偶像が祀られている と聞いた。
山中をめぐり歩き 意外に歩道がよく整備されている、ここには 我が国からの「ユネスコ基金」が投資されて 歩道の整備がおこなわれている。 現在も遺跡復興のための基金はかなり投入されているらしい まだまだ復旧されるまでには 膨大な時間、資金が 必要だろうと思はれる。
暑さと 山歩きでくたびれ果てて 帰路につく。
船に帰りついても・・・いまだ 出航の予定が発表されていない、・・・・この国、この港にも少々飽きた?
あすは出航できるだろう・・・たぶん。
森田、渡辺両氏 益々意気軒昂!
9月24日
シンガポール港滞在6日目になり やっと出航の許可(4日遅れて)が下りた。
なぜ斯様な事態になったのかいろいろ船主側からの説明、言い訳、が有ったのだが 端的にいえば明らかに船会社側の手際の不細工が原因である、航海途中の船の船籍国変更を行うこと自体 前代未聞の行為だそうである。 誰が考えてもこの行為は乗船客、及び雇い主PB(ピースボート)の了承なしで実行しょうとした船会社は 明らかに我々日本人を「嘗めた・小馬鹿にした・ないがしろにした」やり方であろう。会合で船長(船会社代理責任者)を追及しようとする動きもあったけど 反面、私たちのような「暇持て余し老人族」達の多くは 予期せぬ出航遅滞を喜んでいる人もたくさん居り、この余った時間をシンガポール観光、その他隣国マレーシア、インドネシア、どちらも(1時間で国境を越えられる)に行けたのだ。この船に居る限り ホテル、食事、等の心配はなく安心して観光が楽しめた、
この国(シンガポール)は南アジアでは最高の経済大国に成長している最中らしく 街中での買い物では ほとんどアメリカ弗が通用しない、当然日本円しかり、これは ドルの力が年々下落してこの国には既にドルが氾濫しているのだろう、物価は日本とあまり違いはないようだ、この国の経済を支えている 物流のモビメントは 港湾施設の充実を見ていれば私の見る限り モビメントはおそらく世界一位の港湾施設を完備している と思はれる。
この航海には途中乗り継ぎの ゲストが招待されていて此の港からは 秋山豊寛さん(日本人最初の宇宙飛行体験者)が乗船して来た。ここまで来る間いろいろなゲストの講演会があった、それぞれ学識豊かな人たちの素晴らしい講演を日々聴講させていただいた、この調子で毎日いろいろな学問的な勉強が続くと ワシ等ごとき不学なものでも 航海終了時には 立派な学識者になってしまうのではなかろうか? と少々錯覚が起きそうになってきた頃合いよろしく・・
秋山さんの 登場であります。 この人は元々TV記者(TBS)だった人で 現在は栃木県の田舎で本物の「百姓」で生計をしている、という 本物というのは生産物を農協を通じ年間 60万円以上出荷する農家を指す呼称らしい。
この人の講演題目は「鍬と宇宙」と題し 自分が体験した宇宙から見た地球と 現在自分自身で行っている農業をこの人なりの理屈、屁理屈、まじめ、不真面目イロイロこねまわし 3日連続面白可笑しく話してくれた。 この人の持論は 地球は見方によれば「宇宙船 地球号」である、と断言する、なるほどこの人特有の話術に魅了される乗客講習生一同 誰一人として反論する者なし、博識の豊かさはその膨大な知識をこの人の頭の引き出しから とめどなくあふれ出てくるが如し・・・口から出てくる知識はあらゆるジャンルであろうと それはとても広く、深い、
我が家のかみさんは すっかりこの人のお人柄に惚れ込み 彼女(かみさん)得意の手縫いバンダナを先生のために縫いあげ 講演最後の昨日 進呈し記念写真を写した、
9月25日 現在 マラッカ海峡を航行中、海はべた凪 風力ゼロ 明日夕刻には荒れるインド洋に入る。
航海 18日目 次はインドのコーチン港
インド洋 ベンガル湾横断中 航海20日目。
シンガポールで予想外に時間を浪費したけれど 当船はその遅れ(5日分)を取り戻すべく老体に鞭打ちフルスピードでインド洋に突入、しかしこの船の最大速度はせいぜい17ノット(約30km) 実をいうとNGOピースボートが チャーターしているこの船は建造(1976年)で既に30年以上駆使されているロートル船で 人間に例えると定年退職後の余生を未だに働いている様な 後期高齢者?の如きと形容される元豪華客船なのです。 若いころはきっと素晴らしい美人だった筈だけど さすが寄る年波には勝てず いくら化粧の上塗り重ね塗りで皺を隠しても「人三化け七」の元美人である。殆どの乗船客はそれを承知の上(他よりかなり安い)で乗り込んでいるから別に不満は言わない、
世界一周旅行をピースボートで何度も経験している人の話では 今回の航海は食事の味、量、質共に過去最高だそうである、成程この船の船長以下高級船員達は ワシ等と同じテーブルで同じものを食っているからその話も満更ウソでもない と納得できる、本来であれば客船の場合 高級船員達は一般客と同席して会食することはしない、一等船客と時折会席するときは双方何れも正装して豪華な晩餐を正統マナーでにこやかな笑顔を絶やさず ゆっくり料理を愉しむのが客船のシキタリだと聞く、確かにこの船の食事はおいしいけれど 毎日毎日美味しいものを食っていると人間とは贅沢な生き物で・・・時にはお茶づけ サラサラ?が恋しい。
船内生活は 過ごし方によってそれぞれで 企画されている行事は毎日15〜20実行されている。
自分が気に入った企画だけをこなして あとはひねもすノタリのたり食ったり寝たり 自分で好きなように自分の時間をウッチャテいれば良いのである まさに「時間の王様」気分になれる。
私の場合は いろいろなジャンルに生きている偉い人の話を聞くのが好きだ、面白い話にはみみを立てて聴き入る。 あまり面白くない話のときはそのお話がなぜか子守唄になり知らぬ間に甘〜いとろけるような眠りに溶け込んでいく、至福の時間であります。
夕食はなぜか午後5時半からであります。これは唯一私が不満に思う時間帯である、まだ空腹感もないし 空を仰げば赤道直下 ギラギラ太陽はまだ強烈に照りつけている、
これはそれなりに理由が有って 大食堂とはいえ500席しかないから 約800名を2回に時間差をつけて対処するのだ、二回目は7時半から食事開始である、
主催者側の選択で高齢者(60歳以上)の乗客を一回目にしている、彼らの考えでは「年寄りは早く寝るから早めし?組に」まァそれも一理あるナ。夕食後にあるイベントには参加しないようにして 食後の(腹ごなし)に上甲板をウオーキングする、一周すると約360m(平均470歩)反時計まわりで10周〜12周まわる、早朝にも10周してラジオ体操しているから 運動不足にはならない筈だ、
午後8時を待って(2回目食事)麻雀ルームに突入する、ここは唯一私が参加している「麻雀愛好会」の怪しい集会所なのである、その時間になると 自称ジャンプロ達がぞろぞろやってくる、それぞれ本名は知らずとも胸につるした名札には「ハコテンのやまちゃん」、「チョンボの松」、84歳の元医師「せんせい」等々・・ワシは自分を「バンダナおやじ」とつけている。
ここは会員制にしているのだが 全くズブノのど素人でも先に席に座った人を優先する、ただし 6卓のうち1卓だけはワシ等ベテラン専用にして 素人さんは?御遠慮させている、まったくの見ず知らずの連中でも2から3かい打てばほぼ腕の程度はわかる、ワシ等独断と偏見でベテランにも階級をつけて かろうじてワシはBクラスに残れた、好きこそ物の上手なれ、と自画自賛していたが ナンノナンノ自称プロを名乗る連中にはいまだ一度もかてない。
会員数が50名を超えたので 来週船内マージャン大会を開催することになった。 参加費無料・
10月 7日、現在 紅海を航海中、天気晴朗 波少々、絶好の航海日和なり、
本船の無線状況があまり芳しくなくて パソコン通信も なんとか受信は可能なれど 送信になると何故か 送信不可なる文面がシャシャリ出てきて通信が途切れるのであります。 ベテラン連中達も頭を傾げ 「何でやろ?」。当然船舶通信も途切れがちで 時折「運」が良ければ通話可能の時間帯もあるらしい(早朝、らしいが当船は現在日本との時差が6時間あるから やはり難しい)
一昨日 エリトリアのマッサル港に正午過ぎに入港、早速 この市の市長(女性)が友好交流に乗船して挨拶を交わし「平和交流]証しのサインを交換してお互いニコニコ笑顔で握手。
終了後 この国を観光する。
バスに乗り込み 2分で最初のスポットに到着(船から500m) 1990年独立3年前に宗主国であったエチオピア空軍に爆撃されて破壊された 当時の銀行跡地だ、そこからまたまた300m離れた 元エチオピア皇帝の別荘地跡(ここも同じ日に破壊された宮殿) またまた300m離れた場所に 独立記念碑として ソ連製のおんぼろ戦車が 3台展示されていた。観光スポット(目玉)としては それでおしまい・・・全部見て回るのに約20ッ分・・ウーン?ワシ等インドのコーチンから約6日もかけてやって来た所の観光名所は・・これだけかい?
その後街を抜けて 郊外に出るとたちまち乾燥した荒野になる、見渡す限り草木のない土漠の凸凹地が果てしなく広がる、人家はほとんど見かけない、この国のご厚意により 今は廃線になっている鉄道路線を ワシ等だけのために 約100年前の蒸気機関車を走らせることを計画したらしい。
荒野の中に崩れかけの駅舎がぽつんと残っていた、そこに約100年昔のイギリス製蒸気機関車が・・実に頼りない雄姿で?しょんぼり佇んでいた、なんと段取りの下手な連中だろうか?ワシ等の到着はまえまえから分かっていた筈なのに 蒸気用の水を給水中だ 加え袋詰めの石炭を積み込み中である、考えれば気が遠くなる話で・・石炭を燃やし水を沸騰させて蒸気を発生させなければ 機関車は動か無いではないか!待つこと1時間、やっとこ蒸気が出来たのか 情けない汽笛がヒィーと小さく鳴り動き始めた、 ギラギラ太陽は西の土漠に沈む、線路わきに点々とラクダの死骸が転がっている、約100m間で4頭の死骸を見た、考えるに これ等のラクダはたぶん「餓死」したのだろう。
日没後は 電気、電灯はなくて 全くの無灯火運転である、乗員乗客はみなさん体を固くして恐怖に耐えて・・・殆ど誰も黙ってしまった、暗闇の中汽車はゆっくり時速20kmくらいで走る、
同乗の現地人のおじさんが 暗闇のなか何かを言いながら指さして「ナントカカントカ、ソマリア」何度も左右を指示し「ソマリア!」を繰り返す、 目をこらして見ると星明かりにぼんやりと路線を挟み 無数の小さなテントがかすかに見えた、数千個にも及ぶ「ソマリア難民キャンプ」なのだ。
音を聞きつけたのか 子供たちが各テントから出てきてワシ等を黙ってみている、なんとなくワシ等は手ををふってみたけど・・・この連中はほとんど反応を示さなかった。 難民キャンプに暮らす過酷な生活に疲れ切った人々に対し 「平和の使徒」を標ぼうするワシ等平和ボケの旅人には彼らへの同情心は 軽々に示すべきではない・・・エリトリアの隣国 ソマリアは現在いまだに 無政府状態の混乱と貧困の国らしい、 21世紀になって益々激しく戦争、紛争は世界中いたるところで勃発して罪のない一般市民はただ逃げ惑うばかり・・・人類みな兄弟親類のはずなのに かなしいなー
精神的、肉体的にグッタリくたびれ果てて船に帰り着いたのは 出航マ近の午後8時すぎ。
エリトリアを出航して 2日後 エジプトのサファガ港に入港、
此の港から 陸路約260km西南に向かうとナイル河畔の「ルクソール」にたどりつくのである。
港で バス15台のコンボイを編成、先頭と最後尾に武装警官隊の車が 我々「平和の使者」?を護衛してくれるのだ、エジプト政府の思いやり警備らしいが 途中の砂漠地帯では時折「山賊?」が 出没する由、
港から5km進めばすぐに不毛の岩山に突入 曲がりくねりの山岳地帯も10km過ぎれば 草木一切見当たらぬホンマもんのサラサラ砂漠になって 延々2時間以上走ってクースの町に着く、此のあたりからエジプトきっての穀倉地帯に入る、ナイルから延々と用水路を引きみどり豊かな農耕地が広がる、ナイル河沿岸までの国道を60km一直線で走る両サイドは諸々の作物が見渡す限り整然と植えつけられている、2日前に見たエリトリアとは大きな隔たりが見られた、
ナイル河右岸側に「ルクソール宮殿遺跡群」を囲むように 街は発展していていまだ町のアチコチ至る所で 遺跡の発掘をやっている、カルナック神殿の規模の大きさに先ずド肝を抜かれてしまう、写真、映画、テレビ等々での基礎知識は有ったつもりだが・・実物の大きさ、重厚さ、圧倒される迫力に ただワシ等凡人は唖然として「感嘆詞の ホー!ウハー!・・」しか出ず 言葉をを失う。到着時間帯がちょうど 他の諸外国観光団体と重なった為か 神殿遺跡の回廊は大混雑で案内人のアナウンスはさっぱり聞き取れなかったが ワシ等は此処に現存する4000年昔の文化遺跡を触って確かめただけで充分感動出来たから 満足でありました、
ナイル河は世界最長だと聞いていたから 相当大きな川幅をイメージしていたけれど 河口から約1000km上流のルクソール付近では目測でせいぜい幅1500m程度か?意外にせまく感じた、最も一昨年前に 私はブラジル旅行の際に見たアマゾン流域のマナウスあたりで乾期にも関わらず川幅が6km以上あったのが記憶にあったからか? イメージが違ったのかもしれない。
ナイル河左岸側から5km西方に連なる岩山(砂岩)は「王家の谷」である、残念ながらそこまではワシ等のツアーは行く時間がなく 東岸のルクソール神殿を観光した、この神殿の規模は 先ほど見た カルナック神殿の2割程度の中型遺跡であった、頭上から照りつける太陽は 情け容赦なく ジガジガ痛くなる熱さに体力のないワシ等老人的日本人観光客たちには 耐えがたく・・・まだ見たい場所は沢山あったらしいが 体力の限界を優先して帰路に就くことと決まった、ワシはもう充分に堪能したから満足でありました。
(直射日光にやられて 脱水症状で倒れた西洋人も2〜3人いたらしい、他に日本人女性も・・)
旅人には 予期せぬハプニングが付き物だ 各人心して自衛しなければイカンのであることを肝に命じ・・・残りの80日の旅を無事に完墜させたいものだ。
明日はスエズ運河(172km)を通過して 明後日は地中海のポートサイドに入港予定。
(森田老、渡辺女子、いたって元気、)
10月 11日(土曜日)
昨日は午前10時より 西行きコンボイの10番目に位置取りが出来た、先頭から 番目までは 大型コンテナ船、ワシ等の船は「客船」であるからか 運河庁が優先させてくれたらしい、ちなみに当船の運河通行料金は(約 二千万円?とか!)
各船団は約1km程度の間隔で20〜30隻単位でコンボイ(船団)を構成する由、運河の総延長は172km 起点は地中海側のポートサイドを起点としているから 紅海側から運河に入ると100m毎に距離表示が両岸に標示されて 進む方向に 数字がどんどん減って行くから残距離が分り易い、両岸は実にわかり易くて左舷側は緑豊かな農耕地、右岸側は運河浚渫の土砂をポンプ船の吐砂管で陸揚げされはるか彼方まで不毛の砂漠になっている、右岸側はシナイ半島の地続きであるからか(中東戦争時イスラエルに何度も占領されていた土地柄でもある)エジプト政府も開発にチカラを入れていないのかも知れない。
徐行航行ではあったが 18時30分には無事地中海入口のポートサイド港に入港出来た、途中60km地点でスエズ運河唯一の横断橋の下を通過した、この橋は日本からの無償援助で3年前に架橋完成したらしい、施工「カジマ建設」、の看板が堂々と日本語で掲げられている、下から見上げると「日本、エジプト」両国の国旗が 大きく描かれていて ワシ等日本人乗客達からは思わず 拍手が湧きあがった、
本日 10月12日(日曜日)
早朝 4時起床5時集合、殆どの乗客は今航海最大の観光目的である「ギザの三大ピラミット」観光に出かけるポートサイドから首都カイロまで南に約250kmの距離を コンボイ編成のバスでぶっ飛ばすのだ、先導のパトカーがサイレンを鳴らしながらコンボイを誘導してくれるから 何だか偉くなったような錯覚を起こす、
カイロが近づくにつれ 気温はウナギ登りに上がる、カイロ市内に入ると徐々にピラミットの先端部が見えてくる、傍まで近寄るまでかなり時間がかかった、クフ王のピラミットを先頭に大、中、小三基の巨大な三角スイの直前までバスは行く、それでも停車スペースからは300m以上は離れているのにバスを降りて見上げてにてあまりの「大きさ!」に皆さん・・声も無く思わず・・笑ってしまうしかないではないか。
記念写真を写そうと あれこれアングルを考えてみても ワシ等持参の小型デジカメではこの巨大な三角スイの頂上部が画像に入りきらないのだ。 水平映像を映すとただの石垣(巨石の)にしか見えない。 案内人の説明によると 最大のクフ王のお墓とされるこの建造物は 4千年の昔に 3万人の労働者が20年の歳月をかけて約150センチ四方の岩を250万個積み重ね建造した といわれている、当時の偉大な「王」の権威の象徴であります!・・・と案内人の自慢げな話に大方の人々は納得してうなずいているのだが、どうも案内人の話を鵜呑みに出来ない部分もあるようだ、別の見方から・・「なんと馬鹿げたモノ」を 建造したのだろうか、と考える人もかなりいるはずである、 斯様な馬鹿げた権力の象徴を 汗水流して働かされた 延べ数100万人の労働者たちの人々達は本当に これ等王族を「神」と崇めていたのだろうか?。
巨大遺跡の周辺には数10か所のつくりかけ、半欠けのピラミットらしき建造物も見かけられる・何らかの事情で 建造を諦めざるを得なかったのだろうけれど・・ 私見で考察されるに・・当時の権勢が継続できなくなりあまりにも大きな経済負担、その他諸々の事情も重なり工事の中断を余議なくされたからに以外ない、中には何の役にも立たないこれ等建造物工事に あきれ果てて馬鹿馬鹿しくなって やめてしまった能力不足の「王」も居たに違いない。
その頃から随分の時代を経て 20世紀後半 この国を指導した権力者の「ガマール・アブドゥン=ナセル」大統領は 国力を結集して 国民のために「アスワンハイダム」を建設した。世界最長の ナイル河を堰きとめ「農業用水、灌漑用水、水力発電、淡水魚養殖、その他多目的ダム」を建設した。
当初は いろいろ他国からのクレームも有ったが 大統領の権限をフルに活用し 国民のために!をスローガンにして 当時の世界一のダムを完成させた偉業は 国民にとって大きな幸せを与えてくれた 偉人として 今も将来も 語り続けられていくであろう・・・「ナセルは(成せるは)エジプトの大統領!」
続く・・・
クフ王のピラミットの東側 約1km方向に スフインクスが鎮座している。正面方向から眺めると顔は人間の男がおで 体は多分ライオンを模した伏座姿勢でフク王の墳墓を守護している。
結構大きな石造なのだけど 背景のピラミットが余りにも巨大であるため 見た目にはかなり小さく見えてしまう、 ローマ帝国最盛期のころエジプトはローマの支配下に置かれた時代に統治していたろくでなしの提督の我儘から 美男子であったスフインクスの鼻の部分を壊してしまった。鼻欠けの美男子は なんともはや不格好な姿で現代人の目にさらされている、何となく物哀しい目線で長い年月をすごしているのである 日本のテレビクイズ番組(タモリの「トレビアの泉」)の中で・「あの有名なスフィンクスは 何を見ているのでしょうか?・・」と クイズが出された。??・・答えは 現地に行って初めて判った、 彼の目線の方向をたどると なんと300m離れた真正面にアメリカ資本のファーストフーズ、ハンバーガーの「マクドナルド」が開業しているのだ、出題者は腹を空かせた スフィンクスがハンバーグを 食いたい一心で?それを見つめていると言いたかったのだろう。 そのバカバカしい発想に笑ってしまう。
カイロの「考古学博物館」に行った、此処は大変警備が厳しくて館内撮影が「絶対禁止」である。入館前に 撮影機器類はすべて預ける、ボデイチェックで携帯電話も没収される。
ギザの遺跡から発掘された王家に関するすべての遺品、彫刻類、 同じようにルクソール遺跡からの発掘物、宝物、美術工芸品、等 無慮数百満点の発掘品を展示されているのだ、圧巻は黄金の「ツタンカーメン王」の寝姿及び副葬品の装飾品の細工ものであろうか、結構時間をかけてあれこれ鑑賞はしたつもりではあったが 多可だか2時間程度では全体の100分の一程度しか見ることは出来なかった、もし本気で 鑑賞する気になるなら最低一週間毎日泊まり込みで 頑張らなければ「エジプト通(つう)」には成れない。・・ ワシ等暇人とは申せ しがない老人の旅人には せいぜい2時間が限度であろうか。
観光地につきものの土産物売り達が 次々ヒツっこく付きまとう エジプトは日本人観光客の人気観光スポットらしく 物売り達の殆どがつたない日本語で「ヤスイよ安い、見るだけミルダケ!」と喚く、喧しくもあり実に鬱陶しいが・ポストカード3枚1ドルが ネゴ次第で10枚1ドルになってしまうはて?それで商売が成り立つのか こちらが気を使ってしまう程 おおらかさもあるのだ。
10月16日(木)トルコ国イズミル港より、
13日にはトルコ国エーゲ海のクサダシ港に入港、此の港はかなり大きな港ではあるが なぜか?私が持参している世界地図百科(2006)には記載されていない。
入港後ただちに観光バスに乗り込み、この国が世界に誇るエフェソス遺跡の観光に出かけた、この遺跡は東洋と西洋文明の交差位置のメソポタミア文明発祥地上流付近にBC−2からAC−4頃まで栄えた由緒ある遺跡だそうだ、
巨大構造物は残ってはいないが この古代都市中央を貫く道の両側の石柱はまさに古代の繁栄を彷彿させてくれた、大理石造りの歴史的価値のある石像の頭部はほとんど盗まれて首なしになっている
が、メビウス(女人の顔の髪がすべて蛇、)像はさすがに盗人共も恐れ慄いたのか 現在もきちんと警備、整備され歴史を伝えるがごとく保存されていた。
当日は偶然なのか ギリシャ正教の「法皇」様ご一行が此の遺跡参観に訪れて散策されていた。 「法皇」は 金の杖をついてゆっくり歩かれる、第一の子分?は三歩遅れて銀の杖、他の幹部達もそれぞれに位に応じた杖をつきエラッソウにぞろぞろ付き歩く、前後をSPが警護、テレビ、新聞、報道カメラたちひきつれて まるで大名行列・・・そうか、これが法皇行列なのであろう。(ナットク)
これ等ご一行と同じ速さで歩いて 2時間かけて遺跡の一部のみの観光で有ったが、充分堪能できた、
その日の23時にクサダシを出航した、
深夜の突然の艦内放送で船長声明が発表されて、曰く「本船はこれより航路を変更してエーゲ海を北上し イズミル港に入港する!」と言ったらしいが あいにくワシ等はすでにしら河夜船、まったく翌朝になるまで知らなかった、
14日午後乗客全員大広間に集合をかけられ 船長自らの声明を聞く、曰く、「世界船級協会トルコ支部の検査官から本船の安全航行に不備、不都合、を指摘され改善、改良なくして トルコ領海から出国することは許可出来ない!」との厳しい指示、命令をうけた結果 トルコ第三の都市イズミル港で指摘された不備施設の改善、修理等を行う・・・云々、乗客は騒然、この地中海に入る前にもベトナム、シンガポール、でいろいろ指摘され改善を繰り返し予定航海を大幅に7日もオーバーしている事に加え 「またかョー!」で不満爆発寸前、過激な発言では「船代えろー!」「金かえせー!」「船長やめろー」・まるでガキの戯言を叫ぶ馬鹿もかなり居た。ワシ等後期高齢者層の穏健派は「何をガタガタ騒いでいるか、ワイワイそれぞれが勝手に自分の都合で騒いだところで ナーンの解決にはならん、ともかく今は本船が出航できる様に修理改善を 最優先するべきではないか!・・それが我慢ならぬ輩は勝手にイズミルから自費で帰国せよ!」と言われたら それに対し返す言葉はナイ!最もワシ等の場合は永い人生のうちせいぜい10日や20日程度 予定が遅れてもそれが命取りになるような事態にはならないから あまり腹もたたない。かえって斯様なハプニングをワシ自身は期待し 愉しみにしているのだ、何故なら予定しなかった名所旧跡が たくさん見られるではないか、と不平分子に聞かせると一寸嫌な顔をされた。
修繕完了の予定は 17日18時である、らしいがこれはあくまで希望的観測であるから 如何なるやらいずれにしても 成るようにしかならんので有ります。(検査官のさじ加減が甘いかショッパイか)に大きく期待しよう。いろいろ予期せぬハプニングは ワシ等の冒険心をかきたててくれる。では 又。
10月17日・・(金)・・・イズミル港
昨日のメールにも書いたように やっぱり本船の修繕は今日中には無理なことを朝食時に船長が艦内放送を通じ 実に申し訳ないような情けない口調で 「本日の出港を断念します、鋭意 努力して明日には必ず出航できるよう総力をつくし頑張りまーす・・」云々・・・、回航を含めば丸々5日も時間を無駄にする計算になる。
同船者の中で話し相手になった一見紳士風オヤジとの会話から、その人は元「日本航空」の技術屋さんだったらしい。この人はあちこち外国の支店を渡り歩いたけれどサンパウロには出向したことがない由、ワシの甥っ子が日航サンパウロに在籍していた と話したら この人の同僚で「山口?山内?」とかの姓名の人が1990年頃〜2000年頃までサンパウロ支店長をしていたらしい。
その頃ならノリヒトはまだ其処に勤めて居た筈だが・・・・斯様な支店長をしっているか?
二日前から ワシも「地中海病?」に罹り往生している、
船医の談曰く 紅海をこえて地中海に入ると 大体3人に一人はこの病に罹るらしいのだ、その原因は地中海に面する都市での食事に起因する由、特に日本人の多くはオリーブオイルに慣れていないから 地中海料理に多用されるこのオイルに多くの日本人の胃袋その他の消化器官は対応できないらしい、で ある日突然猛烈極まる下痢がはじまる、隣近所の知人たちと観光に出かける寸前(5分前)用心のためにトイレに座ったままお祭り騒ぎがはじまった、お出かけは急遽取りやめ、それから暫くは便器から離れることが出来なかった、夕刻まで体中の水分が全部なくなってしまうくらいデルワでるは・・一瞬ワシのあらゆる内臓器官まで全部「溶けて流れて?ワシはミイラ化するのか?」と思うくらい我ながらに実に情けない体験でありました、幸い今日からは少し食欲も出てきたし 猛烈下痢も少々下火に落ち着いた様子、
イズミル停泊3日目にして初めて上陸、幸子婆同行して辻馬車に(2頭立て)乗りバザール見物に行った、馬車に乗ったのはワシがその昔 フェイラをやり始めた頃に仲間の馬車に乗せてもらったことがあった・・かれこれ45年ぶりになるか・・懐かしかった。
10月22日。水曜日 トルコ イズミル港停泊中、(なんと予定外滞在10日目!)
13日にクサダシ(トルコ)を23時に出航し 約1時間後に艦内放送で 本船(K、パシフィック号)の航路変更を発表、曰く、「本船は航路をイズミル港に変更する、理由は世界船級協会の指示による!」 ?詳細は明朝発表する云々・・・
翌14日から延々今日までイズミル港に停泊して、船級協会の指示される諸々の不良個所(噂によると60数か所?)の整備、修理、部品交換、等々作業に取りかかる、 作業完了の目途が立た無いため 出航の日取りが決まらない、乗客達はそれぞれに毎日 短い計画を立てて当市近郊の 名所旧跡を訪ね歩く毎日である、本来で有れば カッパドキア方面に行きたしとは考えたけれど 出航予定が全く測れない為に遠方には行けない。
そこで 「ワシもトルコで考えた・・?」
古い話であるが・・・昭和三十三年頃?に売春禁止法が制定され一年の猶予後に 施行されて日本中の街中から「赤線」「青線」の灯が消えてしまった事をよく覚えている。 その後3〜4年のちにその色街を中心に どこの誰が始めたのか?「トルコ風呂」なるいかがわしいお風呂屋さんが 雨後の筍のごとく毒々しいネオンをチカチカ輝かせ 軒を連ねた、明らかに風俗的に怪しい商売ではあったけれど 当時の行政、公安関係者はこの「必要悪的風俗業」を横目で見て見ぬふりをしていた 節があった。 昭和40年頃までは世間的にもある程度市民権を得た?かの感もあったらしい。 国会の婦人議員連中が 政党を超えて結束して このいかがわしい名称の「トルコ風呂」なる言葉は トルコ国に対し侮蔑している!などと訳のわからん イチャモンをつけて国会にクレームをつけた。 これを受けた各党の男性議員連中も 婦人議員の抗議に対し本気で審議する気にもならず?「あっ そうですね」とあっさり 野党も反対せず 国会を通過した。 当時の文部省も柔軟姿勢で すべての辞書からも「トルコ風呂」の言葉を日本語から末梢してしまった。
前置きが長くなった、
日本人が勝手に作った造語の「トルコ風呂」の 本家本元のトルコの国で思い掛けず時間たっぷりの余裕がある日々を過ごしているのだ、独りで行くには何となく面映ゆいこころになる、其の訳はやはり若かりし頃の妖しいけれど 妙に懐かしい言葉の持つ妄執がちらちら頭をよぎるからなのだろうか?(行った事もないのにナー?)
何はともあれ女房殿も参考のために?同行する!、とのたまうので 勇を決して イザ出陣!とばかりに乗船者10人ばかりぞろぞろ引け腰で 本家「トルコ風呂」屋さんに突入した(男子5人、女性6人)、男女別々の入り口から恐る恐る入場した、
以下・・・男風呂のいきさつである、入湯料金(25トルコリラ=約1800円)で フルコース?らしい。同行のオッサン連中は皆さん かなり緊張の面持ちである、 言葉は殆ど通じないけれど 身振り手振りで各々は個室に入り スッポンポンの丸裸にさせられる、隣の石造りの部屋は100平方m位の広間の中央に 大理石の台(3m四方高さ70cm)があり周囲が回廊になっている、 その周りを取り囲んでいる様に小部屋が(幅1m 奥行2m)ずらり30部屋位並んでいる、その各穴倉には 石製の低い腰掛けと径50cm位の水瓶があるだけ、天井はトルコ風の丸天井で明かりとりの小窓がぽつぽつ並ぶ、
全体の室温は45度〜50度cとかなり熱い、地元の客はサウナだけで来ているらしく穴倉で水をざぶざぶ頭からかぶりタオルで局部を覆ってはいるが まさにぶらぶら?歩き回っている、 ムスリムの国だけにその人たちは一様にむさくるしい髭面でワシ等と時折目が合うと なぜか照れ笑いで見つめる? ン?一寸何か違うんだけどー? ワシ等は中央の台に寝転ぶと瞬く間に発汗する それも半端ではない(日本でも岩盤浴があった) 頃合いを見て「アカすり兄さん」が足の指先から一方方向に手袋式アカすり布でガシガシこすり立ててゆくのだ、見ていると驚くほど垢が(表皮)落ちてゆく まさに一皮むける感じだ、
全身くまなく垢落としが済むと 冷水で洗い流す なんとも気持がよいものだ、 ま、ここまでは取り立てて特徴はないのだが次に バケツに泡立てた泡を 全身に厚さ20cm位もこんもりと盛り上げ見事ワシ等は「泡男?」になってしまう・この様子は遠い昔の青春時代に見た洋画の「7年目の浮気」で見せてくれたアワ風呂のシーン(マリリンモンロー主演)?そのままではないか、アカすり兄さんは そのアワアワに手を突っ込み全身くまなく指圧の要領でモミほぐしてくれるのである。
コースの最後の仕上げは 穴倉に座らされ冷たい水で汗がひくまで冷やしてくれる、最後の仕上げに冷たい水をコップに一杯・・・これがじつに美味い水で有った、一連の所要時間は 入湯から退場まで約2時間で まさに至福の時が過ごせた。その昔 日本で最初に「トルコ風呂」を始めた人は 多分自分が狙ったネーミングは 上記の如きトルコの泡風呂をイメージしたのだろう ナァー・・・それを妙な方向にねじ曲げて 怪しい意味合いを持たせる風俗業に 当時の心無い日本人たちが変えていったのだろう・・身をもって実体験した感想は 実に健康的で健全で 清く正しい「トルコ風呂」でありました。
本日の艦内放送では 船級協会の検査終了は明後日までかかるとか・そうなれば12日間の長期滞在になりなんだかとても得したような・・・(何しろエーゲ海で)2週間近くもヴァケーションを楽しめる人はあまりいないだろう。 ・・・(しかもロハで!)・本当に「時間」の王様になった様な錯覚を感じている。裸の王様気分のバンダナオヤジ
10月25日(土曜日)・・・本船はいまだにトルコ国イズミール港に居座っています。
此の港だけでも既に13日も居続けているのだ。
遅延の要因として 船主側の言い訳は世界船級協会に依る検査方法及び主観的な見解の相違に起因している如き責任回避を発表しているのだけれど 本音は・・・やっぱりこの船の老朽化に起因している としか思えないのだ、
素人目にも明らかであるが 上甲板の居住区を区切る薄板鋼板を見ても判るがペンキの塗り重ねで厚化粧はしていてもワシ如きか弱いゲンコツで「ゴン!」と叩くと明らかに酸化が進行しているような「ベコッ!」 と弱よわしい音がする、もしトンカチで叩いたら「ボコ!」っと穴が簡単に開くに違いない位 材質が劣化している。検査官がアチコチとランダムに叩いて回ったら 半分以上強度不足が判明するだろう、 今回の検査で何とか検査をクリアー出来たとしても 次の国(ギリシャ)でまたまた他の場所を指摘されたら 同じことの繰り返しになってしまう、やはりこの船は 船の寿命をかなり超えて酷使してきたツケが このトルコで払わされているのかも知れない、
今現在は本船心臓部の第三エンジンのオーバーホール中で 修理完了は明朝になる予定である由、しかし修理が完了したから 必ず「出港の許可」が出るという保証はないらしいのだ。 なんだカンダとヤヤコシイ日々が続きワシ等乗船客の皆さん方はかなり ストレスが溜まって来た・・・その頃合いを見測ったのごとく 主催者のピースボートは 面白い企画を発表した。
曰く・・・「エーゲ海の珠玉の観光地 ボドルム一泊二日の旅に行きませんか?」参加者全員「無料招待!」 うたい文句はなんと!
「五ツ星超高級ホテルでお泊り!・・高級料理の食べ放題!・・飲み物(一部を除き)すべて呑み放題! 憧れのエーゲ海でアナタ 思う存分泳ぎませんか〜・・・!費用はぜーんぶ P・Bが負担しまーす〜 ルン!」・・・こんなおいしい話に乗らぬはバカだ!ワシ等考える間もなく 「行くいくすぐ行く!」ですぐ申しこむ。
乗船客630名中なんと460名以上の人々が申し込んだ、ちょうど大型バス12台のコンボイであった、
22日早朝イズミル港出発、ボドルムは此処から南方に280km 高速道をガンガンぶっ飛ばす、トルコ内陸部は見渡す限り今を盛りの綿畑である、関東平野位もある平野は余す所なく豊かに耕作され やはりこの国は農業立国で有ることが実感できる、
出発から3時間半、目的地のボドルムに到着、ホテルはまさにエーゲ海に面し海岸線は約1kmの砂浜をサマワホテルのプライベートビーチとしている、沖合にはエーゲ海独特の低い小島が点在していて 景観としては これぞまさしくほんまもんの(絵でない)エーゲ海なのである。この景色にしばし感激、到着後
直ちに殆どの皆さんが「ビール、ビール、ビール!」の連呼でギンギンに冷えたビールで喉を潤す・・「プッハー・・」なんとビールの旨いのなんの・・・直ちに昼食、世界三大ばかウマ料理の?トルコ料理に突入、日本人の悪習で皆さん食べきれぬ量を次々取り込む、この悪習慣は 諸外国からバカンスで来ている人々から 何となく冷めた目線でみられている、自分で取り込んだ食べ物をすべて食べてしまえば問題ではないのだが 取り込んだ半分も残すのは 同じ日本人として ウーン 一寸見っとも無い気がする。
味は東洋系でもなく西洋どっぷり味でもない そこそこ日本人の舌に馴染む味で有った。ただしオーダーしなくても給仕がひっ切りなしに 生ビール、コーラー類、ジュース類をテーブル毎に回ってくるのだ、
昼飯に生ビールを3杯も呑みほした、
昼飯を終えて部屋に入ると なんとワシ等の部屋は セミスイートルームではないか、一室100平方m以上もある。最も二手に別れたとはいえ 一挙に250名の団体が押し寄せたのだ。シーズンOFFとはいえ 空き部屋すべて解放せねばならず偶然ワシ等にその部屋が当たった訳だ。 ベランダからは初秋のエーゲ海の素晴らしい景観を独り占めできる 思わず「ワオー」!の歓声・・・早速水着に着かえ イザ!・・・まさか此の歳ブラさげて憧れの エーゲ海で泳げるなぞと思いもよらぬ幸運に恵まれた事に感激!感動! 人の運なんて今回の世界一周旅行も幸運だと感謝しているが・・・加えて思わぬ船の故障で・・思わぬ幸運が舞込んだ事を誰に?感謝すればよいのやら・・・ワシ等夫婦に偶然 幸せの女神が間違って何度目かの幸運を授けて呉れたのだろう。言葉は悪いが・・呑みたい放題、食い放題、したい放題酒池肉林? まさに中世貴族の待遇であった。 何となく勘違いしてワシ等、今日だけはブルジョア階級人種にヘーンシンした錯覚をおぼえた。・・実はしがない年金生活者であることを一瞬忘れただけだった。
しかし 斯様な接待で 当分は船に対する不平、不満は当分沈静化するのではなかろうか・・・(P・B)の思惑にまんまと嵌った訳である。 しかし思いがけず それはそれは旨い生ビールにありつけただけでも ワシ等にとっては嬉しい事でありました。
指折り数え ギンギンに冷えたビールをこの旅で8杯〜10杯も呑んだ計算になる。いやはや良い旅であった。バンダナ親爺の三戸。
10月29日(水曜日)
早朝に起き エーゲ海に昇る旭日を拝む、 昨夜21時 やっと出航の(仮許可証)が発行され16日振りにイズミル港から脱出することが 出来た、 一安心で有ります。 ただしアクマデモこの許可証はお隣の国「ギリシャ」までの許可証であるから ピレウスまでの航海のみ許可されているのだ、・・・予定は午前11時到着ーー観光、−−23時出航!となっているが、?・・
取り敢えず・・・出航のお知らせまで。
10月30日(木曜日)
昨日正午過ぎに ギリシャ・ピレウス港に辿り着くことが出来ました、 やはりエンジンの調子が良くないのかべた凪のエーゲ海を 超スロースピード(10〜12ノット?)でヨタヨタ進む此のお年寄り船は 何だか痛ましくてこの調子ではマタマタ息切れを起こし 果たして出港して良かったのやら・・・と改めて老朽船の行く末が危ぶまれたので有りました・・・
ピレウス港はギリシャの玄関口にあたりB・C以前より栄えている時代的にも歴史の古い港湾都市である、港湾施設はよく整備されて さすが海運国の名にふさわしい立派な港である、海側から望むピレウス、アテネ、は なだらかな傾斜を利用して無数にたてられた家々は「白色」に統一されて エーゲ海の蒼にうかぶオモチャ箱の如き美しい街並みが しみじみ「異国」を覚えさせて呉れる、 ピレウス、アテネは境界のない隣接都市で行政上の分離だけで分かれている都市だという、人口は 首都アテネ(350万人)ピレウス(50万人)併せて400万を超える大都会である
到着早々 観光バスに分乗し 遺跡めぐりに行く、
先ず最初に「世界遺産登録のナンバーワン」のアクロポリス遺跡を見る。アテネの中心部の丘の上に建立された古代の神殿群の跡である。此処の代表神殿である「パルテノン神殿」は近世度重なる地震でかなり石柱の損壊が激しいため、石柱の自立が危ぶまれ 現在はそれら石柱の補強工事が始まった、本来ならば世界遺産登録に指定された遺跡は 「あるがままに保存!」が大前提なのだが この神殿群にのみ適用除外の特例が認められたらしい。・・・此の神殿は教科書での 絵画、写真、テレビ等々で子供の頃から慣れ親しんできた郷愁的な親しみが有っただけに 実物に触れる距離に眺められたことは ワシ等にとって実に喜びのココロであった。
ただし当日は何故かワシ等以外にも大勢の東洋系人種が(日本人、中国、台湾、韓国、ホンコン、ETC」 わんさか参詣に来ており こころしみじみ眺めて歴史を肌に感じようと思えども?周りに諸々の言葉が入り乱れ「沈思黙考」のココロはいずこやら・・・
アテネの街なかには至る所に旧所、名跡、遺跡があってバスの車窓からの眺めだけでも数十か所の遺跡を説明される、近年(2004)年アテネオリンピックに備え 都市交通整備の地下鉄工事路線掘削中に 全く予想だにしなかった石造の遺跡を掘り当て やむなく路線を変更したと謂う、その遺跡の時代考証はいまだ解析されていない様子で現在も発掘作業は道路の歩道すぐ傍らで行われて観光客の目を愉しませている。
観光案内人の受け売りではあるが・・・アテネsuとは古代ギリシャのいち都市でなく周辺に点在した集落、小都市、部落、等を総称した名称がアテネsuと複数が正式名称なのだそうだ。この周辺にはB・C40世紀頃から人類が住みついていた との物理化学的根拠が(炭素検査)で証明されていると謂う、 ただしその検査法での時代考証は100年単位でしか測れない。
この地に(ギリシャ神話的発想で解説)古代建造物の遺跡が順次発掘されて行くにつれ 時代考証は科学的にもかなりニヤピンに近ずいて来つつある由、
繁華街のギリシャ料理レストランで夜食を楽しんだけれど やはりオリーブオイルは うーん?一寸頭を傾げる味で有りました、
帰船して・・・やはり?予想通りで 本日の出港予定は「延期・・です!」・・・この予想は当たって欲しくは無かったけれど2度有ることは3度、4度、・・
曰く?「・・・エンジン調整に40時間を要します・・云々」 その手はもう古いよ!・・と 謂うことは明日は土曜日そして日曜、最速で11月3日(確か日本では文化の日)である。
10月31日
朝食の時 あい席者から聞いた話だけれど・・ギリシャ観光で団体客には被害はなかったけれど、少人数や個人で市内観光に行った人たちの中に4〜5件の置き引き、スリ、被害者が有ったらしい、 当然入港前に書面で「要、注意!」を知らされていたにも関わらず「平和ボケ日本人」は 「まさか自分に限って!」・「私は大丈夫!」と妙な自信が仇となって斯様な自信過剰人間が 被害に遭っているらしい、 幸いワシ等は元々小心者だから そして 当然外観的にも普段着そのままの貧しい?旅行者でありますヨ?的老人であるから スリ、詐欺、盗人、の悪者共も端っからターゲットにはして呉れないのかも?
被害を受けた人の中で・財布だけに限らず命の次に大事な パスポート、VISAカード、運転免許証、自宅のカギ?ETC・・すべて盗まれて・・ボーゼンとしている気の毒な御仁もいる由、 幸いアテネには日本大使館があるから 翌日には仮のパスポートを発給して貰ったと聞いた(2名居た)・・・ 治安の悪化はこの国に限らず世界的な経済の落ち込みに連動しているのだ、それを嘆く前に「自衛、わが身は自分で守る!」心がけが肝要であります。!「ふん!」
10月31日(金)・・・ギリシャ・ピレウス港。
エンジンの修理がまだ終了しないので またまた出港が延期になってしまった。修理用の部品が不足しているのが理由だ、最短でも 11月3日にならなければ出航の目途が立たない、 母はかなり心配をしている様子ではあるが 心配しても どうにもならないのだ・・・反面ワシは全く困ってはいない、ノンビリ何をしないでも 3度のメシには不自由ではないし、おまけに船内の各「4箇所ある」酒場(ショットバー)では定価の50%で何でも呑めるのだ。有り難いことです。
今日はショウトツアーで ポセイドン遺跡を観光してきた。
ギリシャ本土最南端の丘の上に悠然と石柱17本が立っている(紀元前5世紀頃の神殿である、)眼下のエーゲ海には無数(1200位)の島々が点在していて その島じまの周囲12海里領有域をを総計したら エーゲ海の90%以上がギリシャ領になるらしい、絵葉書の写真そのまんまの 美しい風景である、昼食にこの土地の「魚料理」が絶品で 母さん満足、ご機嫌も少し治った様子で有ります。
・・・・斯様な次第で 当初の予定はまったく狂ってしまい 予定は未定状態で はてさて
今回の63回ピースボート平和証言世界一周旅行、は完走するまで残り何か月罹ることやら誰にもワカヤんのである。ブラックユーモアーで ワシ等のピースボートはこのまま大西洋に出たら・・・ボートピープルに?成りかねない。と バカな老人たちは笑っている、 運が良ければ ワシの誕生日もこの航海中に祝えるかも知れんゾ・・!
やっぱり 電波の具合で パソコンメールの送信はうまくいっていない様子である。 ただし受信は殆ど届いている・
いまだエーゲ海上で 迷い船でフーラフラ♪♪〜 爺・婆
11月 1日・(土曜日) 現地時間(ギリシャ・ピレウス)22時。
日本から、ジャパン・グレース社代表が來船し 当船クリッパー号から 代替え船 「モナリザ号 28,000トン」に乗り換えることが決まりました。 船の諸用具、食糧品等々 一式の引っ越し作業を今夜より開始する。乗客の乗り換えは11月5日に行い 出航はその日の深夜になる予定。 明日からは3食オール「お弁当」になります。
メールはこれまで通りに受信可能。 今後の航海予定は 5日以降判明する。
取り敢えずお知らせまで。詳細は落ち着いてから 送信します。 三戸爺・幸子婆より
(追伸、・・森田氏は無事国連から帰船してきた。)
11月2日(火曜日)・・ギリシャ ピレウス港滞在5日目
昨夜日本から飛んできたG・ジャパン社代表取締役社長 からの重大発表が有るとの事で 乗船客全員集合をかけられた。
全員固唾を呑み代表の発言に 注目した、まず本旅行遅滞につき ルル 説明と お詫びの言葉に続き本題に入る。
「本船 K・パシフィック号での航海は此処ピレウスで打ち切りにして 此処からの航海は代替え船 モナ・リザ号に決定いたします!」云々・・の最中にタイミングを測ったかの様に満艦飾の電飾をともした そのモナリザ号が左舷沖合から入港してきた。(実に憎ったらしいクサい演出である) 談話をしばし中断し600人を超える乗客全員しばしその船に見入る。
感動した乗客のおばさんたちの中には 感極まりウルウル目で拍手パチパチに人もいた。K・ハ゜シフィック号は余りにも故障が多く 旅行日程が全く狂い予定がさっぱりたたなくなって 乗船客間ではかなり不穏な空気が充満して まさに爆発寸前状態で有ったらしい?(ワシ等老人クラブ的乗客は別に不満、不平、は無かったのだが・・・)
・・多分に 船主側と旅行社(J・G社)側との間で取り交わされている契約約款上の問題を丁々ハッシやりとりが有った由。ともかく旅行継続中の船本体に問題が多すぎて 船級協会に仲介を委ね 両社間の問題は国際間題として裁判で決着すること・・・云々。
会議終了後 直ちに船内荷物の引っ越し準備が始まった、G・Jが揃えた諸備品(炊事用機器、事務機器、その他あらゆる細々した備品を取り外し 代替え船に設置する工事を 11月5日までに終了させるべく 乗客も応援して昼夜兼行で作業を開始した、・・不平分子も何やら当初はグズグズ言ってはいたが 乗客たちが立ち働く姿に圧倒されたか?いつの間にやら 何処かに消えてしまった。
モナ・リザ号は排水トン、28000トン、L=201m W=25m・製造年月日はなんと40歳を超える超熟女?である。船籍港は ご当地ピレウス港らしい??・・ 今朝早朝に熟女のご尊顔を拝しに行くと なるほど元ギリシャ美人の面影と優雅な肢体にちょっとクラクラさせられる、ハテサテその原因は 船体中央の煙突側面いっぱいに描かれている 世界の恋人「モナリザ」が 妖艶な謎の笑顔でニンマリと微笑みかけて?いるのであります! 如何なる男と謂えど この笑顔には参る降参する筈で有りますナ〜・・・、
船体の外版を仔細に見分してみて気付いたのは 鋼板の張り合わせ接合がリベット接合で一寸驚く、 私、土木屋として最後にリベット接合を見たのは 広島市の大田川放水路最下流の「旭橋」のアーチ部の接合をリベット鋲で繋いでいた現場を一日中飽きもせず 眺めていた記憶が最後であった、(焼けた鋲の放り投げと受取り職人の微妙なタイミングに見とれて)・・思い起こせば 半世紀(50年)昔の工法であった。この工法も電気溶接の溶接棒の改良に伴い急速に時代の波に押し流されて 近年は強度的にもリベット接合技術は 建設、造船、分野の設計からは完全に消え去ったようだ、 斯様な工法で造られた船舶を見かけたことに驚くとともにその船に自分が乗り込める現実に少なからず複雑に たじろぐ が 今更あとには引けない、・・モナリザの微笑みを信じようか?
11月5日出航を決定とするなら 当初の予定を25日オーハ゛ーする 今後の行程を順調にこなして行くと・・・残りの日数は68日を足すと 来年1月11日若しくは12日あたりが ヨコハマ港帰着になる筈でありますが はてさて何さま船の旅では お天気、風向き、波次第・・加えて近年は原動機(エンジン)のご機嫌次第、と いろいろある上に おまけにピースボートは大敵「世界船級協会」の検査官のさじ加減?プラス アメリカ沿岸警備隊の気まぐれ次第、
アレコレとハプニングが有るから あくまでも予定はいつも未定、だから 改めて「船たび」は面白いのであります。