← 「在アメリカ被爆者協会名誉会長 倉本寛司氏の逝去に寄せて」
「手を取り合い闘ってきた親友を失った。本当に悲しい」。在ブラジル原爆被爆者協会の森田隆会長(80)=サンパウロ市=は涙声で語る。協会を結成してから二十年、日本政府への支援要請などを共に続けてきた。 (『中国新聞』2004年10月6日付) |
訃報
米国原爆被爆者協会の倉本寛司(くらもと・かんじ)名誉会長が4日未明(現地時間)、心不全のため入院先の米カリフォルニア州北部オークランド市の病院で逝去されました。
享年78歳でした。
(写真=2004年4月23日、東京・国会第2会館での「在外被爆者と連帯する中央集会」に出席された倉本名誉会長)
倉本名誉会長は1926年、ハワイ・ホノルル生まれ。
5歳で訪日し日本人として成長。立命館大工学部在学中の1945年8月7日、学徒動員先の山口県光市で広島への原爆投下の知らせを受け、8日広島に入市。家が焼失した跡の市内・牛田に仮設の小屋を造り母、弟とともに、行方不明となった父(その後死亡が確認)を捜し歩きました。
1948年米国に帰国。
カリフォルニア州大中退。
原爆や被爆を公言できない環境の中、ロサンゼルスで発足した在米原爆被爆者協会(南加被爆者協会)に在籍する知人の勧めで、1974年サンフランシスコに北加被爆者協会を設立し、会長に就任されました。
76年、南加と北加の協会が合同して全米組織としての在米原爆被爆者協会が誕生(のちに米国原爆被爆者協会と名称変更)し、会長に就任。州、連邦政府公認の慈善救済福祉団体である同会の代表として活動を続けられました。93年から名誉会長に選出されましたが、近年は体調を崩しておられました。
このほか米国日語協会、日米会などの役員を歴任。
カリフォルニア州道路局に34年間勤務、89年退職。
著書に『在米五十年 私とアメリカの被爆者』(発行:日本図書刊行会、発売:近代文芸社、1999年)。
以上、『在米五十年 私とアメリカの被爆者』
「共同通信」配信2004年10月5日付
「中国新聞」2004年10月5日付 ― を参考にさせていただきました。
倉本名誉会長の著書
『在米五十年 私とアメリカの被爆者』
定価1500円+税
もくじ - 父を探して
協会設立と組織
検診医師団
加州議会での法案
ワシントンへの働きかけ
沢山の支援者
医師法
表敬訪問
協会分裂
被爆者と将来