3月2日(木) “旅から帰り…。 被爆地の県議会と、クリチバーノスの鐘の音と”

 長い間ご無沙汰していますがお元気ですか、今年初めてですよね。

 1月は13,14,15日とパラグアイの一農場主の本部で、ブラジル、パラグアイの大学教授、パラグアイ政府の農業担当者、農業技師、自然環境保護のNGOなど40人が集まり3日間、泊まり込みで集中講義、地球温暖化炭酸ガス放出の問題など意見交換など行いました。
 日本人は私を含めて3人、ブラジル生まれの日系人が4人招待されました。
 言葉はスペイン語、グワラニー語、ポルトガル語。
 主題は急速に進んで居る森林伐採、地球規模で起こっている天候異変、汚染が野放しになっている世界の水資源、砂漠化が進んでいるブラジルの現状、などなど今後我々小さな力が寄り集まったとしてもどれだけの事が出来るか、その現実を見据える検討会でした。

 2月は18日から21日までパラナ州、サンタ・カタリーナ州を回ってきました。
 今日はその時お会いしたクリチバーノス(※注1)にお住まいの小川和己様から聞いた話をお知らせ致します。

 旅に出る前に、広島高裁で判決の決まった、いわゆるブラジルの時効問題に対する裁判を上告しないよう、広島県知事、広島県議会議長などに、これ以上國から差別されている在外の年老いた被爆者を苦しめないように、とFAXとかメールでお願いして行きました。
 旅から帰ってきた22日、広島県議会は賛成多数で上告に踏み切ったとのニュースを聞き、唖然としました。世界で初めて原爆の惨禍を受けた広島市を統括する広島県議会が、はっきりと在外の被爆者に差別をつけ、年老いた在外の被爆者をもっと苦しめる判断を下した! この上告に賛同した多くの県議会議員のいたことを私は忘れないでしょう。

 サンタ・カタリーナ州のクリチバーノス、ここに長崎から移住された7人の被爆者が居ましたが、お亡くなりになったり、日本に帰国されたりで、今は3名の方が梨を主にして果樹栽培をしていらっしゃいます。
 この移住地の小川様の働きで長崎県から「平和の鐘」(※注2)が贈呈されて来た時点で、サンタ・カタリーナ州の、前アミン州知事は、この事を議会に諮り全員の賛成で、この鐘を平和のシンボルとしてクリチバーノス市の小川さんの農場に鐘をつるす塔を作り、この地から世界に、党派をこえ、国境をこえ、人種をこえ、宗教をこえ、核兵器を無くし、世界に平和を求める発信地とするべく、平和公園を建設することを決議し、すでに鐘をつるす塔の建設は終わり、現政権になってもその意志は引き継がれ、今はクリチバーノス市から平和公園までの約30キロメートルの道路の建設が急ピッチで行われていて、今年8月までには完成するでしょう。この議会での長崎の鐘の贈呈式にはサンパウロから被爆者協会の森田会長夫妻、向井副会長夫妻も招待され、出席されました。
 このような外国で、党派を超えて平和のために尽くす人々の居ることを聞き、心暖まって帰ってくれば、広島県議会議員の小さな心にふれ本当に悲しく、今我々を支援して下さっている方々の心がどんなに崇高なものか改めて感じました。

 以上まとまりのない内容となりましたが、広島県議会の議員のうち、何人が賛成され何人が反対したのでしょうか?チョット気になります。
 ではまた

(盆子原 国彦)

※注1:サンタ・カタリーナ州クリチバーノス市
 州都フロリアノーポリス市から内陸部に向け350km(サンパウロ―フロリアノーポリス間は705km)に位置する、標高987mの高原都市。人口36,681人(1991年国勢調査より)。
〔参考="Guia Brasil '96"Editora Abril 1996〕

※注2:クリチバーノスの「平和の鐘」
 1998年、長崎県国際親善協会の武藤為一会長が、「ラーモス移住地原爆被爆者の会」(小川和己さん代表)に寄贈した。鐘は、小川さんの農場に建設・整備中の「平和公園」内のモニュメント「平和の塔」に設置され、2002年10月、伊藤一長長崎市長ら県南米親善訪問団の出席のもと、公園の第1期工事完成祝典が開かれた。
 小川さんは長崎市出身。1929年生まれ、45年長崎市内で被爆。
〔参考=『長崎新聞』2002年7月20日付、10月17日付、『サンパウロ新聞』2002年2月20日付〕

(注釈=ホームページ管理者)

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