7月4日(月) “被爆60年 マスコミ取材の応対に追われる この機に皆さまの体験をまとめたい”
お元気ですか、お互いに忙しい日々をおくっているようですね。
第8回日本祭りには、長崎で一万人の署名運動をしている高校生・松尾美咲様(=6月17日付で紹介)が11日、日本を出て、この会場で平和運動の署名をされる事になっています。
それから芦原様(=4月27日付で紹介)が長崎から帰伯されました。
長崎に行って浦上川を見たとき総ての記憶が蘇ったそうです。
川の橋脚にひっかかっいた死体を引き上げる時、うまくしないと他の死体が流されるので汗だくになって苦労したと、おっしゃっていました。
其れを引き上げて焼いたりした時の臭いが忘れられなくて、その臭いもよみがえってと、喜びと、悲しみが同時に込み上げてきましたと話されていました。
また自分が乗って敵艦船に突っ込むはずだった4号艇なども見てきました、と。
あの当時訓練を受けたのは魚雷艇ではなく4号艇というもので、ベニヤ板で作った今でいうモーターボートだそうです。もう舟らしい舟はなかったそうです。けっこう重くて浜に上げたり下ろしたりが大変だったそうです。
その時の戦友はほとんど戦死されていたそうです。
今こちらでは、雑誌、テレビの取材で仕事が出来ない状態です。
これもチャンスですから多くの人達に被爆者の現状、被爆した当時の事を皆さんに話してもらっています。
また被爆した時の事を書いてもらっていますが、多くの方々が書いてくださっていますので、今年中には本にまとめたいと考えています。
ようやく皆様書く気がおきたようです。
(盆子原 国彦)