協会のあゆみ

〜 森田隆(会長)、綾子(事務局長)夫妻の回顧録
『ブラジル・南米被爆者の歩み』より 〜

1・協会の設立

2・活動の記録

1・協会の設立

 1980年代のはじめまで、ブラジルに移住した被爆者のほとんどは、その頃すでに日本で施行されていた被爆者援護施策の存在を知りませんでした。
 それがわかったのは、ある邦字新聞(=日本語新聞)の誤報がきっかけでした。
 被爆者援護のための法律があることを知ったブラジルの被爆者は、39年の沈黙を破り、ここに集結しました。海外に住む被爆者すべてに日本からの援助の手が差し伸べられることを目的に、当協会を設立したのです。
 協会設立に至る経緯を、森田会長夫妻の記録を中心に紹介します。

 ― @ 依頼 ―

 1983年12月。
 広島より、海外移住家族会連合会 広島支部の東(あずま)理事がブラジルを訪問されました。

 ◇ 海外移住家族会連合会 会長・田中龍夫(当時、元通産大臣)

 東理事は
「広島、長崎での被爆者がブラジルに移住している」
「日本には被爆者援護の法律があるのに、ブラジル在住の被爆者には援護が及んでいない」
との事実を知りました。

 〜 通称「被爆二法」=「原爆医療法」は1957年、「原爆特別措置法」は1968年に制定されていた。
   「原爆医療法」は被爆者に対する健康診断の実施、医療費支給など、
   「原爆特別措置法」は被爆者への各種手当支給など、
   を定めていた。

  東理事は海外移住家族会 ブラジル駐在員の田村徹理事と面会され、
「ブラジル在住の被爆者にも、被爆者援護の道が開かれるよう、協力してください」
と田村理事にお願いをして、日本に帰国されました。

 〜 田村理事は、日本では恩給局に勤務。56年ブラジルに移住。田中龍夫氏とは縁戚関係にあった。

 ― A 誤報 ―

 1984年1月。
 ブラジル都道府県人会連合会が
「原爆被爆者への日本政府による年金支給制度がまだ生きており、移住者にも適用されているので、該当者は日本国総領事館に届け出るように」
と呼びかけていると、『日伯毎日新聞』が報道しました(1月25日付)。

 ◇ ブラジル都道府県人会連合会:1966年に創設された、サンパウロの都道府県人会による連合組織。
   ブラジル日本文化協会、サンパウロ日
伯援護協会、ブラジル日本商工会議所とならび
  サンパウロの主要日系4団体と称される。
   なお各団体ともに現地日本人移住者による組織で、日本政府による外郭団体ではない。

 ◇ 『日伯毎日新聞』:サンパウロ市に本社を置く現地発行の日本語新聞。日刊。1949年創刊。
   当時はサンパウロ市で発行される日刊の日本語新聞として、このほかに
  『サンパウロ新聞』(1946年創刊)、『パウリスタ新聞』(1947年創刊)があった。
   なお『日伯』紙と『パウリスタ』紙は1998年合併、『ニッケイ新聞』と名称を改めている。

 〜 実際には、この新聞報道は誤まりであった。
   このような情報の行き違いがなぜ生じたのかはわからない。
   しかし結果として、ブラジルの被爆者が名乗りをあげたのは、この誤報が契機となった

 サンパウロ市に住む森田隆、綾子夫妻はあの日、広島市内で原爆に遭った者たちです。
 隆さんは爆心地(グラウンド・ゼロ)から1.3q、綾子さんは1.2kmの場所で原爆に遭い、
九死に一生を得たのでした。

 2人はこの年、ブラジルに移住してすでに28年が過ぎていました。
 新聞を読んだ夫妻は驚き、記事を持って在サンパウロ日本国総領事館を訪れました。
 しかし窓口の職員は、
「けさから被爆者と名乗る人たちが来ていますけど、あなたは被爆した証明書のようなものをお持ちですか?」
と問い返しただけでした。
 記事内容に関する説明はありませんでした。

 〜 森田夫妻はその時、すでに2人の子と3人の孫に恵まれていた。
   移住以来、生きてゆく家族の将来のために、被爆した事実は口にせずにいた。
   ほとんどの被爆者は、そうして暮らしていた。
   被爆者への偏見は、ブラジルにも存在していたからだ。
   「原爆症は伝染する」「放射能を浴びた者と娘を結婚させるわけには行かない」など、
   偏見は孫子の幸せまでも奪いかねないものだった。

 〜 『日伯』紙、続報。
   「年金制度は確かに存在するが、
  海外での受給手続はこうしたらよいという(公文による)指示は本省から来ていない。
  手続きを指導、世話したケースはいまのところ一件もない」
  とする総領事館のコメントを紹介(2月3日付)。

 森田夫妻はその頃、日本国内では
「被爆者健康手帳」が交付されていること、
「原爆二法」により被爆者への援護が行われていること、
を知ります。

 〜 日本国内ですでに援護が実施されていたことを、この時点でほとんどの移住被爆者は知らなかった。

 思い余った森田夫妻は海外移住家族会 ブラジル駐在員の田村理事に相談をします。

 〜 田村理事は森田夫妻と、ブラジル移住の同船者(ぶらじる丸=2代)だった。

 相談を受けた田村理事は
 「夫婦ともに被爆者であるあなた方が、ブラジルに住む被爆者に呼びかけて、協会を設立するように」
と森田夫妻に勧めました。

 3月。
 森田夫妻は声を上げました。
 ブラジル日本都道府県人会連合会 事務局を訪問し、
「広島、長崎の被爆者よ。団結して被爆者年金を獲得しよう」
と訴えたのです(『サンパウロ新聞』3月13日付)。

 ― B 集結 ―

 〜 ブラジル広島県人会の猪原事務局長、広島県庁被爆者対策課に国際電話を入れ、
    「海外在住被爆者に対する健康管理手当の支給」
   について問い合わせをする。
    県 対策課長の回答。
    「外国人被爆者は認定専門医が認定し、日本国内に在住する場合のみ実施されるもので、
   海外への送金制度はまだ実施されていない」。
   (『パウリスタ新聞』6月2日付)

 7月15日、サンパウロ市内 上田照明氏(故人)の自宅に16人の被爆者が集まり、第1回の懇談会を開きました。
 この日、「在ブラジル原爆被爆者協会」の設立が決まりました。
 (顧問・田村徹、会長・森田隆、事務局長・森田綾子)  →「本会の目的」を参照
 この時点で、協会は70人のブラジル在住被爆者の存在を確認していました。

 8月、役員を選出し、定款を作成しました。会としての基盤を固めました。

 1985年5月29日。
 協会はブラジルの連邦政府から、法人として正式に認可を受けました(番号54527.627/0001-24.)。 ブラジルにおける在外被爆者の団体として、国家から認められた形でスタートを切ったのです。

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