先ほど紹介した怨霊信仰とは関係なく、学問に長けていた菅原道真公にあやかろうと、多くの受験生がこのシーズンは参拝に訪れる。 「合格祈願」とかかれた絵馬に志望校などを筆で書いて参拝する受験生とその家族が並んでいた。


 話は変わるが、ちょうどこの写真の鳥居がある裏側は御土居の史跡が残されている。梅林が開園する時期にはこの御土居も散策できるので、行かれてみるといい。
 御土居とはあの豊臣秀吉が天正十七年に豊太閤皇居を造営し、ついで京洛の区域を定め、その境界並びに水防のため諸侯に命じて京都の四囲に築造した大土堤の一部である。秀吉も晩年は朝鮮へ兵を出したり、常人には解せぬ事をしでかしている。その一つがこの御土居である。
 迷信だと今の人は笑うかもしれないが、当時は本気で怨霊が信じられていた。これは道真に始まったことではなく、オオクニヌシから国を奪ったアマテラスとその子孫(天皇家)は、オオクニヌシのために大神殿(出雲大社)を建て、幽事(カクリゴト)の神という幽界での支配権を認めた。
 その伝統に則って、平安朝の人々は菅原道真にまず高い官位(最終的に正一位太政大臣)を贈り、ついで天神という称号を与えて大神殿(北野天満)を建立したというのである。

 最近読んだ「逆説の日本史 井沢著」で、この辺りの詳しいことを改めて知った。 源氏物語や伊勢物語、また太平記も、この怨霊信仰が書かせたものとされている。
 このHPを公開して、京都の庭園を訪ねるうちに歴史に興味を覚え、最近はいろいろな歴史資料を読みあさっている。



 紅白梅はまだ一部を除いては蕾が硬いが、蝋梅と呼ばれる黄色い梅が一足先に花を咲かせていた。
 
 東風吹かば にほひおこせよ 
   梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

 あの有名な道真公の歌を思い出した。 この日は天気のいい暖かい日だったので、紅梅もところどころで蕾に混じってほころび始めていた。もうすぐ春がそこまで来ているかと錯覚したが、京都では例年なら、まだこれから何度か雪が降るはずである。

 北野天満には境内に二千本の梅が植えられている。
 梅花祭は二月二十五日に梅をこよなく愛した道真を偲んで例年行われる。この日には近くの上七軒の芸舞妓さん達が、野点の茶会に華を添える。
 
 写真の紅梅は東門を入った長五郎餅を売る店先に咲いていたのを撮った。 この写真では見えにくいですが、その脇には南天の赤い実が成っていた。
 まだ早いがもう少しすると楼門までの参道脇にある梅林が開園され、梅を見ながら梅茶などを飲むことができる。
 
 菅原道真公を祭り、九州の大宰府天満宮とともに天神さんの総社として信仰を集めている。平安時代の延喜三(903)年、右大臣だった道真が大宰府に左遷されたのちに亡くなってから、京都では相次いで災害や疫病が流行した。人々は道真のたたりと恐れ、怨霊を鎮めるために創建したのが始まりである。

 親戚の家が近くにあるので、25日の縁日や正月に行くことがあるが、参道に露店がたくさん並び参詣の人も多い。 今年(2002年)は白と黒の午の絵馬が楼門の両脇に飾られていた。
 今年のNHKの大河ドラマは「まつと利家」だが、これを模った人形が正月を祝って境内の一角に三が日だけ飾られていた(3枚目の写真)。


 道真は宇多天皇にその才能を見出されて、異例の出世を遂げ、右大臣にまでなった。しかし、これに危機感を抱いた藤原基経の息子の左大臣時平が宇多天皇が上皇となり醍醐天皇が位を引き継いだ後、醍醐天皇に巧みに取り入って、これを陥れた。無実の罪で道真は突然、大宰府に左遷される。
 醍醐天皇を廃し、道真の娘をきさきとする斉世(トキヨ)親王を擁立しようとしたという理由であった。道真は幼い息子だけをつれて、大宰府に向かう。

 大宰府での道真は、宿舎に閉じこもる日々を送り、健康状態も急速に悪化し延喜三(903)年、淋しく大宰府の地で亡くなった。
 延喜二三年、醍醐天皇の皇太子保明(ヤスアキラ)親王が二一歳で急死、道真の怨霊のなすところという噂がひろまる。
 醍醐天皇はただちに道真に正二位を贈り、左遷の詔書を破棄させたが、そのかいもなく二年後に、保明親王と時平の娘とのあいだに生まれた幼少の皇太子が亡くなる。それから五年後に、今度は宮中の清涼殿を雷が直撃し、大納言をはじめ数人の死傷者が出た。前後して時平が三十九歳の若さで急死、醍醐天皇は恐怖のあまり発病し、それから三ヵ月後に譲位して没する。道真の怨霊を恐れた人々は、北野の地に道真の御霊を祭る。 これが北野天神のおこりである。

北野天満宮













 お土産 /北野天満宮近くのラーメン店