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六甲山の話  (付:ラジオ塔について)

2013年1月7日 柴田昭彦 作成(1月19日修正) 六甲山の話題・地名
2013年2月8日 「ラジオ塔遺構について」(歴史と神戸296号)の紹介
2013年2月11日 昭文社「六甲・摩耶 2013年版」について
2013年2月24日 戦前の六甲地図の「ルシヤンドラフ」の謎について
2013年12月31日 白川の夫婦岩(雄高座、雌高座)の位置について
 

2014年3月10日 「ラジオ塔遺構」の記事を追加(「2.旗振り通信」から移動)
2014年3月21日 昭文社「六甲・摩耶 2014年版」について
2014年3月22日 「アーサー・ヘスケス・グルーム」を「ヘルケス」と間違えた理由
2014年3月23日 白川の夫婦岩(雄高座、雌高座)の資料・地図を追加し、構成も修正
2014年4月6日 白川の夫婦岩について、一部の記事を修正
2014年5月5日 「ガベノ城」の語源(画餅の城砦説)、地形図の地名表示について
              (直木重一郎氏と竹中靖一氏のプロフィールについて)
2014年5月25日 一部修正(大西雄一氏のプロフィールについて)
2014年7月17日 芦屋市の岩場(扇岩)などの位置について
2014年7月25日 扇岩・四ツ目岩関係の地図・資料を追加 
2014年7月26日 「十三間四方岩」はどこにあるのだろうか?
2014年7月29日 大西雄一氏は「十三間四方岩」を実際に確認したのだろうか?
2014年8月9日 扇岩・十三間四方岩・四ツ目岩関係の地図・写真・資料を追加
2014年8月13日 「六甲・摩耶」(昭文社)に「十三間四方岩」が載せてある理由とは?
2014年8月13日 「六甲全山縦走マップ」(平成26年発行)で「扇岩」の位置に誤って「十三間四方岩」が載ってしまった!
2014年8月18日 「十三間四方岩」は十三間四方の範囲に巨岩が分布する岩場と考えることはできるのだろうか?
2014年9月10日 芦屋市基本図に「十三間四方岩」が載せてあることについての芦屋市都市計画課からの回答
2014年10月4日 神戸市市民参画局文化交流部に対して「六甲全山縦走マップ」の改善点を伝えたこと
2015年3月7日 「六甲・摩耶」2015年版における修正内容について
(「十三間四方岩」の削除が行われた)

2019年9月5日 「2012年以降に発見されたラジオ塔遺構」の追加

2019年10月3〜10日 ラジオ塔遺構の資料を追加・修正

2020年6月2日、脇坂俊夫(1931〜2019)先生(西脇市、郷土史家)の業績について[追加](白川の夫婦岩)
2020年11月2日、竹中靖一の生没年(1906〜86)についての確認を実施
2021年1月14日、「旗振り山と航空灯台」(2021年1月18日発売)掲載のラジオ塔記事の紹介
2023年1月8日、「ガベノ城」の「ガベ」はかつての地元の方言で「カベ(壁)」の意味という意見の紹介





2023年1月8日記載

 筆者は、以下の「(2014年5月5日)「ガベノ城」の語源(画餅の城砦説)について」の記事で、赤松滋氏が、直木氏と竹中氏から教示されたという、「ガベ」とは、「画餅」で、「絵に描いた餅」に等しい城(一見、城のように見えるが、実際は城砦ではない)という伝えの説を掲載している。最近では、この伝えの説が、インターネットでも紹介されるようになっているが、あくまでも、伝承されているというものであって、真偽は不明である。
 2022年6月12日(日曜日)の読売新聞阪神支局版(27面)に<Q.六甲山系の「ガベノ城」って?>と題した記事が掲載された。佐藤直子記者が取材した記事で、筆者自身も、問い合わせを受けたこともあり、ここに内容を紹介したい。
 掲載された概要をまとめると、次のとおりである。

○2016年に現地を確認した元西宮市文化財課長で、関西大博物館事務室学芸員の合田茂伸さん(日本考古学)は「土塁、竪堀などの構成要素がなかった。山城の可能性は低い」と指摘する。古地図にも山城として記載されたことは一度もない。
○合田さんは、山頂周辺にある石垣を巡っては「六甲山系の各所で見られる。治山工事のため、近代になってつくられた石積みだろう」と話した。
○西宮市の地域情報紙「宮っこ」の2012年5・6月号の苦楽園地域版に
「『ガベ』は画餅で、ガベノ城とは絵に描いた餅同然の城砦、という皮肉な言い伝えもあるようです」とある。
○山頂から周囲が見渡せることや石垣があることから、一見すると山城のようだが、実はそうではない。確かに、「絵に描いた城」という由来にはうなずける。
○「西宮明昭山の会」の名誉会長の原水章行(たかゆき)さんは、「ガベ」は「壁」を意味すると推測する。西宮ではかつて「壁をガベ、カニをガニ」などと濁って発音するなまりがあったといい、「切り立った地形で、下から見ると壁のように見える。壁がガベになり、城壁のようだという意味で『ガベノ城』と名前がついたのでは」。

 筆者は、画餅説より、城壁説のほうが説得力があると思い、『日本国語大辞典第2版』や『日本方言大辞典』(小学館)を調べてみて、「壁」「蟹」「亀」の方言として「がべ」「がに」「がめ」が掲げられていることを知り、確かに、「画餅ノ城」よりも、「壁ノ城」のほうが、命名の由来としてはわかりやすく明快であると考えるに至った。

 一方で、「画餅の城」という伝えの説も興味深いと思う。真実を追究すれば、最後には「壁ノ城」であろうが、直木氏や竹中氏が伝えた「画餅ノ城」もまた、「一つの側面」を伝えるものとして、尊重して語り継いでよいのではないだろうか。


(2015年3月7日)「六甲・摩耶」2015年版における修正内容について

 3月7日に書店に「六甲・摩耶」2015年版が発売されていたので、さっそく内容を確認してみた(本来、3月9日が発売日らしいが)。


2014年9月に昭文社編集部へ要望した内容に対する
修正結果は以下の通りであった。

(1)観音山付近のルート表示は、赤線ルートは修正されたが、観音山の展望台である521mピークには、黒点だけが追加された。
(2)ガベノ城への登山口付近の道路表示については、車道のない所に表示された
車道は削除され、正しい表示になった。
(3)苦楽園付近のルート表示については、わかりにくいルートから、
わかりやすいルートに変更された。
(4)ごろごろ岳への登山道表示は、柿谷コースと前山公園コースの
赤線ルートが修正された。
   (表地図はほぼ正しく修正されたが、裏面「ロックガーデン」の図には、旧版のときの西側への突出部分が残り、修正が不十分)
(5)弁天岩・城山付近のルート表示については、消されていた
芦屋川沿いのルートが復活された。
(6)「蓬莱峡」バス停の表示については、
誤植が訂正された。
(7)十三間四方岩について(裏面「ロックガーデン」)・・・
「十三間四方岩」は削除された。「扇岩」は記載されなかった(予想通り)。

この結果から、次のような編集方針がうかがえる。
(1)明白な地名の誤植については修正を実施する。
(2)明白な登山ルートの誤りについては作図上で可能な方法で修正を行う。
(3)国土地理院の25000分の1地形図に記載されていない標高表示は採用しない。
(4)いろいろな資料から、明白な誤りと認められる岩などの表示は、削除を行う。
(5)編集上、岩などの表示の新規追加は、それがどうしても必要であると認められない限り、行わない。

つまり、疑わしいものは、ばっさりと削除し、新たな表示の追加は必要でない限り行わないということである。
まあ、方針としては妥当と思う。

「扇岩」は追加してほしかったが、多分、無理と思っていたので仕方ないだろう。

疑わしい点で疑惑のオンパレードであった「十三間四方岩」が、ばっさりと削除されて、すっきりしたので良かったと思う。

みなさん! もう、「十三間四方岩」は、存在しないと考えて良いのですよ! よろしく、頼みますよ!


↑「六甲・摩耶」2015年版(昭文社)より  
(※)2014年版(↓)にあった存在の怪しい「十三間四方岩」が消えた!


(2014年10月4日)神戸市市民参画局文化交流部に対して「六甲全山縦走マップ」の改善点を伝えたこと

 2014年9月中旬に、神戸市コールセンターを通じて、「六甲全山縦走マップ」の改善点について、神戸市市民参画局文化交流部に伝えてもらったところ、文化交流部の代表者から電話連絡があり、「伝えてもらった改善点については、実際のマップ作成作業を担当している武揚堂に伝えておきます。全てが採用されるとは限りませんが、こういった改善点を具体的に連絡してもらえるのは大変ありがたいので、気の付いたことがあればまた連絡ください」とのことであった。次回の改訂版は2017年頃であるが、その際には反映する材料にしてもらえることだろう。
 ちなみに、今回、3回にわたって伝えた改善点の内容は、「十三間四方岩の削除」「四ツ目岩の位置」「天狗岩の位置」「扇岩の位置」「ナマズ石の位置」「八畳岩の削除」「柿谷コースの道の追加」「阿弥陀塚の位置」「大松の削除」「三枚岩の位置」「白川の夫婦岩への登り口の追加」「ノースロードの道の屈曲の間違い」「消された芦屋川に沿う道の復活」「社家郷山の表示の間違い」である。


 2014年9月14日、昭文社編集部に対して、「六甲・摩耶」2014年版について気づいた点を知らせて、9月27日に届いた返信にて「改めて確認の上、修正の検討をいたします」との連絡をいただいた。
 知らせた内容は次のとおりである。
(1)観音山付近のルート表示について(赤線ルートの改善。観音山の展望台である521mピークの追加表示の要望)
(2)ガベノ城への登山口付近の道路表示について(車道のない所に表示された車道の削除)
(3)苦楽園付近のルート表示について(わかりにくいルートの変更の要望)
(4)ごろごろ岳への登山道表示について(柿谷コースと前山公園コースの赤線ルートの修正)(表地図と裏面「ロックガーデン」ともに)
(5)弁天岩・城山付近のルート表示について(消された芦屋川沿いのルートの復活)
(6)「蓬莱峡」バス停の表示について(誤植の訂正)
(7)十三間四方岩について(裏面「ロックガーデン」)・・・(「十三間四方岩」の削除、「扇岩」の追加記載)




(2014年9月10日)芦屋市基本図に「十三間四方岩」が載せてあることについての芦屋市都市計画課からの回答

 2014年8月12日に芦屋市に対して、芦屋市基本図に載せてある場所に「十三間四方岩」が存在しないことをメールで知らせて、調査をしてもらった結果、次のような回答メールが芦屋市 都市建設部 都市計画課の代表より届いたので、お知らせしておこう
(結論は、2015年版=平成27年版の芦屋市基本図から「十三間四方岩」の記載を削除する予定とのことである)

「芦屋市基本図につきましては,地形・地物の変化に対応し,適宜修正をいたしておりますが,土地の状況に変化が見受けられない部分については,変更を行っておりません。「十三間四方岩」は,過去からの記載を引継いで表記してきたものと考えられますが,調査いたしましたところ,当初記載の経緯が現在では不明でございます。当該地物の名称につきましては,基本図への記載を特に必要とするものではないこと,および市が発刊する他の地図と一定の整合を図るため,
次回基本図の更新(来年度予定)より削除する方向で調整したいと考えております。以上,よろしくお願いいたします。」
-----------------------------------------
芦屋市 都市建設部 都市計画課
659-8501 芦屋市精道町7番6号
TEL : (0797)31-2121(代表)


(2014年8月18日)「十三間四方岩」は十三間四方の範囲に巨岩が分布する岩場と考えることはできるのだろうか?

 昭文社の「六甲・摩耶」2014年版の「十三間四方岩」の記載(下図)をそのまま信用していると思われる方から、直木氏の大正15年の新聞記事の「十三間四方岩」の記載にぴったり合う場所を探し求めたら、「六甲・摩耶」の記載位置と一致する場所となり、そこは展望がよく、岩が十三間四方の広さに分布し、扇岩から少し下であることなども一致するので、そこが「十三間四方岩」であろうと考えたというような主張をいただいた。確かに、その場所は、巨岩が「十三間四方」の広さに分布していることに関しては間違いなく受け入れることができるのである。
 私自身も、同じような考えが何度も去来したことがあるので、今一度、考察しておきたいと思う。



 もし、「十三間四方岩」がひとつの巨岩ではなく、十三間四方の広さにわたって巨岩(数b以上)が分布する地帯を表しているのならば、直木氏が「十三間四方岩」と呼んだ場所は、「扇岩」の南60m付近の巨岩の多く分布する場所ではないだろうか、という疑いが生じる。

 直木氏は大正15年の新聞記事で次のように記述している。

 十三間四方岩
 弁天岩の西方数町、荒地山の中腹にある。以前この附近は石切場で南方に急斜したこの巨岩は広さ十三間四方あったとのことから呼称せられたものである、この岩に上ると眺望千里、芦屋一帯から茅(ちぬ)海を隔てて遙かに金剛、葛城の峰々まで一望中に集むる事が出来る
 扇岩 十三間四方岩から少し登った所にある。その形扇を開いて立てたような奇形を呈している


 この中で考えるべき「争点」はひとつ。巨岩は単体か複数体かということである。

 そして、何度、読み返しても、この巨岩が、巨岩の集合体、巨岩が十三間四方にわたって分布している様を描写しているとは、読み取れないからである。「この巨岩は広さ十三間四方あった」とはっきりと書いてあるのである。

 この点が直木氏の書き間違いで、実は、十三間四方の広さの場所に巨岩が密集する地帯を「十三間四方岩」と呼んだのだとすれば、そのほかの記述は、一致しているのである。

 「南方に急に傾斜している」ということも、「その岩から眺望千里であること」などは、一致点として、推奨できよう。

 「附近が石切場であった」という点も、石切場跡からそれほど離れた場所でなく、一致点とすることができる。

 しかし、何度も言うように、この巨岩が単一のものである点については一致しない。ここがポイントである。

 もし、仮に、「十三間四方岩」が巨岩の多数の分布地帯を指すのであれば、「十三間四方岩」という呼び方はふさわしくないのではないだろうか?すなわち、「十三間四方岩石群」といった呼び方でなくてはならないのではないだろうか?この点は致命的であろう。

 「十三間四方岩」と呼ぶ限りは、ひとつのまとまった岩でなければ、ふさわしくないと思うのである。

 「扇岩」の南60m付近の岩の群れている地帯は、弁天岩の真西2.6町の場所であり、直木氏の「弁天岩の西方数町」という記述とも完全に一致する場所である。また、直木氏の昭和9年の六甲地図には、北尾根上にあるように描かれていて、この点も一致する。

 以上をまとめると、直木氏が「十三間四方岩」と呼んだ場所は「扇岩」の南へ60mの岩の多く分布する地点である可能性があるが、直木氏自身が、「十三間四方岩」がひとつの巨岩であると述べている以上、その岩は幻であると言わざるをえない、ということになる。



(2014年8月13日)「六甲全山縦走マップ」(平成26年発行)で「扇岩」の位置に誤って「十三間四方岩」が載ってしまった!

 「六甲全山縦走マップ」が発行されたのは3年前の平成23年(3月発行)のことなので、もうそろそろ改訂されるかと思っていて、チェックしてみたところ、なんと、今年6月から改訂版(平成26年3月発行)が販売されていることを知り、急遽、JR三ノ宮駅東口南側(1F)の神戸市総合インフォメーションセンターで購入(1部400円)してきた。
 開いてみて驚いたのは、「扇岩」が鎮座している展望台の場所の注記に「十三間四方岩」が追加されていたことである(下図)。


六甲全山縦走市民の会・監修「六甲全山縦走マップ(六甲山系ハイキング)」
(神戸市市民参画推進局文化交流部、平成26年3月発行)   ※「十三間四方岩」が載っているが本当は「扇岩」である。


 この縦走マップ最新版に載せられた「十三間四方岩」なるものは、実在しない可能性が高いことについては、7月26日の記事で述べた通りである。
 また、この縦走マップの「十三間四方岩」と記載された展望所(望遠鏡を見る記号の地点)にある4mほどの巨岩(下の写真)が、実は昔から「扇岩」と呼ばれてきた岩であることについては、7月17日の記事で証明したとおりである。やまゆき会の大津陸郎氏および宮本信夫氏におたずねしたところ、この4mほどの巨岩が「扇岩」であるとの裏付け証言を得ている。


道畦谷北尾根の頂部の東のテラス(標高460m)にある長さ4mほどの巨岩(2014.6.8筆者撮影)。
従来、この岩が「十三間四方岩」として紹介されることが多いが、正しい名前は「扇岩」である。


 さて、縦走マップの改訂作業が行われたと思われる平成25年(2013年)当時は、本来「扇岩」と呼ぶべき巨岩が、間違って「十三間四方岩」としてインターネットなどで書き込まれて拡散し、「六甲連山バイブル(滝・奇岩・磐座編)」(2013年12月発行)105頁においても「扇岩」が堂々と「十三間四方岩」として間違って掲載されてしまい、インターネット情報と合わせて、縦走マップ(平成26年、2014年)にも掲載される典拠となってしまった可能性が高い。

 本来、「扇岩」と呼ぶべき岩が最新版縦走マップにおいて、「十三間四方岩」と誤って掲載されたことについては残念としか言いようがないが、筆者と「六甲岩石大事典」の作者とのメールのやりとりの結果、従来「十三間四方岩」「盾岩」と仮称していた巨岩が「扇岩」に他ならないことが確定したのは、やまゆき会のメンバーの証言を得たあとの2014年7月10日ごろのことであるから、縦走マップの記載が間違っていても、仕方ないと言えよう。
 縦走マップ(平成26年版)では、23年版で間違って記載されていた「立合峠」は削除されており、譲葉山が本来の位置である縦走路の北側に表示されるなど、まんざら改良されていないわけではないが、四ツ目岩、天狗岩、ナマズ石、扇岩の記載ポイントについては、23年版同様に、合格点は出せない。また、昭文社の「六甲・摩耶」では、実在しないために削除された「八畳岩」が、縦走マップでは依然として掲載されるなどの間違いも残っている。次の図のように改良することが必要である。今後、3年後に行われるであろう再改訂版(2017年ごろ?)では、正しい修正が行われることを期待したい。


展望台(東のテラス)にある4mの巨岩は「十三間四方岩」と間違えられたこともあるが、本当は「扇岩」である。
この地図では、「扇岩」「四ツ目岩」「天狗岩」「ナマズ石」の位置がずれた場所になっていることに注意が必要。



(2014年8月13日)「六甲・摩耶」(昭文社)に「十三間四方岩」が載せてある理由とは?

少なくとも、2014年現在においては、「十三間四方岩」が実在しないことについては、先の7月26日の記事をお読みいただくとして、それでは、昭文社の山と高原地図「六甲・摩耶」2014年版の裏面図「ロックガーデン」に、堂々と「十三間四方岩」が掲載されているのは、どうしてなのだろうか、と疑問を持たれるに違いない(下図)。


出典:「六甲・摩耶 2014年版」(昭文社、山と高原地図)の裏面図「ロックガーデン」
      (内容は、2011年版〜2013年版も同じ)  

 実は、この「十三間四方岩」の記載は、もう少し古い版では「十二間四方岩」と誤記されていたことは、ご存じであろうか。これは、インターネットでも話題になったようで、大西雄一「六甲山ハイキング」(創元社)に「十三間四方岩」と記載されていることが指摘されて、2011年版以降は、「十三間四方岩」に改められている。古い版の記載は下図のとおりである。


出典:「六甲・摩耶 2003年版」(昭文社、山と高原地図)の裏面図「ロックガーデン」
     (内容は、2002年版、2004年版〜2010年版も同じ)


 それでは、この「十二間四方岩」のルーツはどこにあるのだろうか?

 それは、「六甲・摩耶」が2002年版から名前も版も、大きく改められて一新するのだが、その旧版の裏面図にあるのである。

 その旧版をご存じの方も多いことだろうが、私が所持している最も古い版は、古書で見つけた1978年版である。


出典:「六甲・摩耶・有馬」(昭文社、山と高原地図)1978年版(第6刷)の裏面図「ロックガーデン」
(この記載内容は、荒地山の東に「巨岩上の”トカゲ”をきめこめる」というコメントが後の版で
消えるだけで、その他の記載は「十二間四方岩」も含めて、2001年版まで同一である。)



 さて、この1978〜2001年版「六甲・摩耶・有馬」の裏面図に登場する「十二間四方岩」は何に基づいて記載されているのだろうか? その答えは、おそらく、昭文社が原図として用いたと思われる芦屋市作成の地図に記載されていた「十三間四方岩」をどういうわけか間違って「十二間四方岩」と誤植して掲載してしまったと推定される(調査執筆者はその記載には関わっていない可能性が大である)。

 その根拠としては、7月26日の説明で紹介したように、神戸市の2500分1基本図「ロックガーデン」(昭和57年)に「十三間四方岩」が載せてあり、その典拠地図は芦屋市の2500分1基本図(昭和48年)であることが明示されていること、また、その表示位置は、標高400m地点であり、昭文社の1978年版の「六甲・摩耶」の「ロックガーデン」の地図の「十二間四方岩」の位置と完全に一致することが挙げられる。
 芦屋市の2500分1基本図「黒越谷」(平成23年)における「十三間四方岩」の記載位置もまた、昔の記載を踏襲しているため、標高400m地点にあり、昭文社の1978年版と同じ場所である。

 ここで、昭文社の新版「六甲・摩耶」(2002〜2010
年版)における「十二間四方岩」の位置が、旧版の標高400m地点から標高450m地点に変更されていることに気づくことだろう。
 さて、この変更は、どういう理由で行われたのだろうか?
@「十二間四方岩」の場所が標高450m地点であることがわかったので変更した。
A旧版の「ロックガーデン」の図を、新版の「ロックガーデン」の図に作り直すときに、記載地点を「岩場記号の多い地点にした」だけで、特に岩の場所について特定したわけではない。

 @であったらよいのだが、私にはAであろうと推論できる根拠がある。どの巨岩が「十二間四方岩」であるかを特定せずに、「道畦谷北尾根で岩場が一番密集している地帯」をとりあえず「十二間四方岩」として表示したというのが真相と思われるのである。
 「六甲・摩耶」の地図における表記方法は、黒丸で表してある地点が、等高線で裏付けされる実際の地点からは、ずれた場所に表示してあることも多いという困った特徴があることである。真の位置にこだわらず、概略で大体の位置に示すという特徴があるのである。これは、使う人もそういう表記であると理解した上で使う必要がある(真の位置と思っていると裏切られる)。ナマズ石の位置の変更はそれを裏付ける好例である。(筆者は、そういう方針は誤解を招くので、真の位置に表示するように改善をお願いしてきて、近年版では、かなり真の位置に表示されるようになったと思うが、まだ不十分なエリアも目につく。)

 インターネットのサイトでは、新版「六甲・摩耶」(2011〜4年)の「十三間四方岩」の表示位置を信用した上で、「この辺りが十三間四方岩だろう」という判断に基づいて、山行記録を綴っているが、何度も言うように、一時期、誤解されていた、東のテラスの4mほどの巨岩は「扇岩」という正式の名前を持っており、また、道畦谷北尾根に巨岩の広がる地帯は、あまた存在するが、少なくとも、2014年現在において、一辺が十三間(23.6m)もあるような方形の巨岩は北尾根付近には実在せず、「十三間四方岩」という名前を冠することのできる岩は存在しないと考えてよいと思われるのである。

 なお、蛇足ながら、「十三間四方岩」を、都合良く、四辺の長さを合わせると「十三間(23.6m)」になる岩(つまり、一辺が6m弱)と考えることで、実在の岩に当てはめやすくしようと考える人もいるだろうが、それは、直木氏の大正15年の記事(下記)によって否定されるし、日本語としての辻褄も合わない。「十三間四方」は、「一辺が十三間である方形」を表すことは揺るがないのである。

 従って、「六甲・摩耶2014年版」に記載された「十三間四方岩」の記載は、無用の誤解をさけるため、削除が望ましいと思われる。この提案については、2015年版に反映されるように昭文社編集部へ申し入れを行った(2014年9月13日付の手紙で連絡し、9月27日に、「改めて確認の上、修正の検討をいたします」との返信をいただいた)。


(2014年7月26日)十三間四方岩」はどこにあるのだろうか?

     (※注意:
通常、各サイトで紹介されている「十三間四方岩」は、実は「扇岩」である!) (7月17日の記事を参照)

 「扇岩」(その実在場所は、下記の7月17日記事参照)は、一時期、「十三間四方岩」と誤解されていたことがあったが、直木重一郎氏の大正15年11月19日(金)の大阪朝日新聞神戸版の記事「六甲山の『岩』巡礼(二)」には以下のように紹介されていることが筆者の資料発掘で明らかとなり、本当の「十三間四方岩」の位置は、現在では、わからなくなってしまっている。

 十三間四方岩 弁天岩の西方数町、荒地山の中腹にある。以前この附近は石切場で南方に急斜したこの巨岩は広さ十三間四方あったとのことから呼称せられたものである、この岩に上ると眺望千里、芦屋一帯から茅(ちぬ)海を隔てて遙かに金剛、葛城の峰々まで一望中に集むる事が出来る
 扇岩 十三間四方岩から少し登った所にある。その形扇を開いて立てたような奇形を呈している




 直木氏の作成した六甲地図(昭和9年)には、「十三間四方岩」は扇岩の東南東100mぐらいの地点に描かれているが、その場所には、十三間(約23.6m)四方の巨岩は存在しない。 (※)一間は6尺=1.81818・・・m。十三間=23.63636・・・m。


直木氏の六甲地図: 直木重一郎著『六甲_摩耶_再度山路図』(関西徒歩会、昭和9年)(筆者所蔵)より


そもそも、一辺24mぐらいの四角い巨岩などというものが存在している場所があれば、それは、相当に目立つ顕著な所でなくてはならないはずである。一般的に言っても、24m方形の岩など、そうそうあるものではない。たとえば、ナマズ石は長さ8.6mである。

 芦屋市作成の1:2,500芦屋市基本図「黒越谷」(平成23年測量)(芦屋市のサイト芦屋市地図「黒越谷」で閲覧可能)には、「十三間四方岩」が記入されているが、それは、扇岩の位置(460.7m地点の少し北)の南南東150m(道畦谷北尾根の途中の標高400.3m地点)の辺りを指している。しかし、この辺りは岩のベンチの近くで、24m四方の巨岩は言うまでもなく、大きな岩場自体が見当たらない場所である。

 神戸市作成の2500分の1国土基本図「ロックガーデン」(昭和57年3月修正)(兵庫県立図書館所蔵)(下図)には、上記の基本図(「黒越谷」平成23年)と全く同じ位置に「十三間四方岩」が記載(標高400.5m地点)されていることがわかる。
 この国土基本図「ロックガーデン」には、「昭和48年測量芦屋市1:2,500都市計画図より編集」という注記(下図参照)があり、「十三間四方岩」の記載は、芦屋市の昭和48年測量版以降、連綿と、同じ「間違った地点」に記載されてきたことがわかる。


 

 推定であるが、「十三間四方岩」の記載は、直木重一郎氏作成の六甲地図(昭和9年発行)が唯一であり、その地図の記載(北尾根の登山道上に記載)から読み取って、基本図作成者が北尾根上にあると考えて記入したものと考えられる(ただし、現地踏査で確認して記入したものとはとうてい思えない)。

 芦屋市の基本図でさえ、記載が間違っている「十三間四方岩」はどこにあるのだろうか(あるいは、どこにあったのだろうか)?

 直木氏は、「弁天岩の西方数町」とする。素直に考えれば、弁天岩の西方2町(220m)〜3町(330m)ぐらいということになる。真ん中をとれば、2町半(275m)である。直木氏の地図では、扇岩と弁天岩を結ぶ線上のわずかに南側に十三間四方岩は描かれている。扇岩は十三間四方岩から「少し登った所」にあるという。「少し」がどのくらいなのか、見当もつかないが、半町(55m)ではどうだろうか?感覚的に「少し」と言えるのではないだろうか。

 なお、扇岩と弁天岩西端との直線距離は、約300mである。弁天岩は四つの岩から構成されていて、西側の一つの岩(山道の上側)と東側の三つの岩(山道の下側=二つの巨岩「夫婦岩」と間に挟まった「子岩」からなる)の総称である。一般的には、下の車道側の目立つ巨岩だけを「弁天岩」と呼ぶことが多いが、弁天様を祀るのは西側の岩。また、東側の巨岩のてっぺんには石工ののみのあとが残るが、石工は熱病におかされて死んだと伝えられている。(道路拡張に邪魔な巨岩を取り除けようとして、たたりに遭い、そのまま残したという話は各地に残る。)
六甲岩石大事典1−1(弁天岩ほか)


1:2500芦屋市基本図「黒越谷」(平成23年測量)による  ※地図下部に「十三間四方」がいかに大きいかを示した。
※筆者がこの基本図の「十三間四方岩」の記載が不審であることを芦屋市都市計画課に知らせた結果、調査が行われ、掲載の経緯は不明だが、2015年(平成27年)版では、削除する方向であることが示された(2014年9月10日付メールによる回答)。


 さて、話を戻すと、扇岩の東へ半町の場所は、実は「石切場
跡」なのである。そして、直木氏は、十三間四方岩の附近は石切場であったと述べている。しかも、「現在も十三間四方ある」のではなく、「十三間四方あった」と過去形で述べていることに注目しよう。すなわち、直木氏の紹介記事を「素直に読めば」、昔は十三間四方もある岩があったので、十三間四方岩と呼んでいるが、今では(石を切り出したので?)残された巨岩は、十三間四方の大きさではなくなっている、ということになる。

 扇岩の真東へ50mのあたりは、扇岩から弁天岩へ結ぶ直線の上にあり、長さ4〜5mくらいの長方形の巨岩が斜めに傾いて特異な姿を見せている(白く輝いて見える岩である)(下の写真)。


出典:六甲山系アラカルート 2111弁天岩〜北尾根
 (平坦な道の西側。この辺りが石切場跡であり、この方形の巨岩は目立つ。)
 (一辺5.5mなら、「三間四方岩」と呼べないこともなさそうだが、さて? 大きさはもう少し小さいようだ。)

 その巨岩の場所のすぐ下側は石切場跡で、いくつかの切り出した岩がころがっている。また、道に沿って、その北側には、高く切り立った4〜5mくらいの屏風のような巨岩が二つほど並んでいるように観察される。この石切場跡一帯にかつてあった巨岩を「十三間四方岩」と呼んでいたのではないだろうか。

 従って、現在では、十三間四方の大きさを持たない岩しか残っていないので、「十三間四方岩」と呼ぶに「ふさわしい」岩はもうすでに早くから存在していない、というのが真相ではないだろうか。

 もし、十三間四方もある岩が、昭和前期に存在していたのなら、やまゆき会創立者の木藤精一郎氏が、その存在を見逃すと言うことがあるだろうか? (木藤氏の本にも、地図にも、「十三間四方岩」なるものは、一切、登場しないのである。)


木藤精一郎『六甲北摂ハイカーの径』(昭和12年初版)の附図「六甲山登路図」(筆者所蔵)より
 (一般に知られている附図は、改訂版のほうであるが、こちらは初版の附図である。比べると、
  「扇岩」が尾根の分岐点にあり、四ツ目岩のそばの「石島池」が未記載であることがわかる。)


 
木藤精一郎『六甲北摂ハイカーの径』(昭和15・16・18年改訂版)の附図
 である「六甲山登路図」(筆者所蔵の昭和16年4月改訂五版の附図)より
     (※筆者所蔵の昭和15年12月改訂四版の「六甲山登路図」の内容も同一である。)
 (「扇岩」と「四ツ目岩」の位置が明確に示されていることに注目。「十三間四方岩」は記載がない。
  初版になかった「石島池」と「天狗岩」が追加されていることがわかる。)


筆者は、木藤氏の伝統を引き継ぐ、やまゆき会の元副会長の大津陸郎氏、同会員の宮本信夫氏に「十三間四方岩」についておたずねしたが、「初耳です」とのことであった(2014年7月9日の返信メールによる)。やまゆき会では、「十三間四方岩」の探索は行われたことがないことがわかる。20m以上の巨岩が本当にあるのなら、やまゆき会メンバーが知らないということがあるだろうか?

 筆者は、扇岩の直下、50m東方にある石切場の、ひときわ目立つ方形の岩が、「十三間四方岩」の名残りの一部分ではないかと考えているが、いかんせん、「十三間四方」ならぬ「三間四方」程度の大きさゆえ、「三間四方岩」という名称なら許されるのでは、ということに落ち着く。直木氏は、命名にあたって、各地で古老に聞き取りをしているが、あるいは、「十三間四方岩」などというとてつもなく大きい岩は幻想に過ぎず、かつて存在したこともなく、古老のほら話に幻惑され、本当は「三間四方岩」と呼ぶべきではなかったのでは、と筆者は推定するものである。今となっては、確かめるすべもなく、現在、残された、現物に基づいて、適切な修正に向かうのが妥当ではないかと思うのである。

 なお、「三間四方」(三間=5.454・・・m)というのが能舞台の広さを表し、よく使われる言い回しであるのに対して、「十三間四方」という表現は一般にお目にかかることはまずない。

 直木氏の六甲地図(昭和9年)の上に描かれた岩のイラストの大きさは、弁天岩>扇岩>十三間四方岩の順に小さくなっている。これは案外、実際の大きさを反映した記載と見てよいのではないだろうか。扇岩は4mくらいであるから、十三間四方岩は4m以下であった可能性がありえる。仮に4mの岩であろうと、立地さえ良ければ、その上に立って、好展望を得ることはできるはずである。

 筆者は、一時期、ナマズ石を東へ300mも転がした「ナマズすべり」の場所(扇岩の南東方向30mあたり)を「十三間四方岩」のあった場所と推定したこともあったが、昔の空中写真(国土地理院のサイトで閲覧可能)を見ても、「24m四方の巨岩」の存在は確認できず、「ナマズすべり」は埋もれていた岩盤部分が地震で崩壊したもので、「十三間四方岩」とは「無関係」であろうという考えに達した。

 今のところ、以上のような考えであるが、とりあえず、仮説と言うことで公表しておこう。

 いずれ、現地踏査を重ねて、裏付けをとることができればと考えている。


(2014年7月29日) 大西雄一氏は「十三間四方岩」を実際に確認したのだろうか?
 大西雄一『六甲山ハイキング』(創元社、昭和38年)の34頁の地図には「十三間四方岩」が載せてあり、荒地山の東方8ミリ、弁天岩の西方8ミリに記入してあり、北尾根が北西から西へ向きを変える場所の右肩付近である(下図)。



 この図は同書の一番最後に出版された第4版第6刷(1993年)の30頁でも同一の内容であり、一切、修正されていない。
 また、本文(5.鷹尾山・荒地山・芦屋谷)にも一切、十三間四方岩の説明は見られない。

 筆者の推測では、この「十三間四方岩」の記載は、直木氏の昭和9年の六甲地図を転載したものに過ぎず、大西氏は、現地で「十三間四方岩」の同定作業を行っていないものと思われる。つまり、机上の作業によって記載したものらしい。その理由としては、直木氏地図に独特の記載である道瘠谷の支流「中ノ谷」の記載を大西氏がこの地図で踏襲していること、大西氏が「道瘠谷の右俣」を「三倉谷」という独特の名前で記載しているのは直木地図の「道瘠谷(三ッ合谷)」をうっかりと「道瘠谷(三倉谷)」と誤読したと思われること、という2点である。「中ノ谷」「三ッ合谷(三倉谷)」の記載は、他の六甲地図では一切出てこないのである。
 従って、大西氏の著書の地図に「十三間四方岩」が載せてあることによって、その実在を主張することは無理があると思われるのである。人によっては、次のような道標に「十三間四方岩」の記載があるので疑問に思うかも知れない。筆者の推定では、これは芦屋市が設置した道標であるので、芦屋市の基本図(2500分1地図)に載せてある「十三間四方岩」の記載(上掲記事参照)を信用した上で設置したものと思われる。芦屋市では、その記載が正しいかどうかはともかく(間違いなのだが)、北尾根の標高400m付近が「十三間四方岩」であるということになっているので、それに従っただけであるというわけである。この道標もまぎらわしいといわざるをえない。


出典:
六甲山系(荒地山)2010.1.10


 直木氏の地図(昭和9年)において、扇岩は荒地山の東方17ミリ、弁天岩の西方15ミリに記載され、一方、十三間四方岩は荒地山の東方22ミリ、弁天岩の西方10ミリに記載されていることから見ても、大西氏が地図に記載した場所に示すべき岩は「扇岩」であった可能性が高い。なぜなら、扇岩は荒地山と弁天岩の中間点に位置するものとして直木氏の地図に記載されているからである(ただし、実測すれば、中間点ではない)。当時は兵庫県観光連盟の「六甲地名選定委員会」の調査検討(昭和31年)により、「扇岩」の記載は「抹消」することに決定した(中村勲『六甲とその周辺』朋文堂、昭和35年、75頁参照)(下の抹消一覧表)ため、その決定に従った大西氏としては、「扇岩」を載せず、かわりに「十三間四方岩」を載せることにしたのかもしれないが、今となっては真相はわからないとしか言いようがない。


(2014年7月17日)芦屋市の岩場(扇岩)などの位置について(同25日、追加)


 「六甲全山縦走マップ」(神戸市市民参画推進局文化交流部発行、2011年=平成23年)は、ハイキングルートの経路表示が的確で、わかりやすいので重宝しているが、岩場の表示に関しては、大体の位置に表示してあるだけで、真実の地点からは、かけはなれた場所に点が打ってあり、ほとんど当てにならないことについては、ストレスを感じさせられる。

 筆者は、縦走マップの、芦屋川周辺に分布する岩場などについて、「六甲岩石大事典」(岩文献1−1)の作成者と情報交換をしながら、その真実の地点(対象となる岩などの位置する場所)を捜索してきたが、ようやく、一定の成果を得ることが出来たので、その結果について、お知らせしよう。個別の岩の詳しい紹介については、「六甲岩石大事典」で確認いただきたいと思う。なお、その場所の確認のヒントの多くは、竹中靖一『六甲』(昭和8年)の記述にあることを申し添えておこう。
 ここで、まず、『六甲』の「扇岩」についての記述部分を抜粋して紹介しよう。

竹中靖一『六甲』(朋文堂、昭和8年)(復刻版、中央出版社、昭和51年)394頁、393頁      『六甲』347頁(第14篇)
     
『六甲』の上記部分(第14篇、第15篇)は、古市達郎氏が調査してまとめたものである(昭和2年10月脱稿)。



古市達郎調査『六甲山の地名と登路 』(昭和8年3月発行『六甲』の附録地図=原図)
(『六甲』の凡例によれば、古市氏が大正13年に製作し、翌年改訂したもので、
古市氏没後、昭和2年12月に清書され、昭和8年伊賀信夫氏が校閲して発行)



「六甲全山縦走マップ」(平成23年)より     (※記載された位置と正しい位置の食い違いに注意!)

                    ※烏帽子岩(芦屋川)については、六甲岩石大事典1−2を参照。

1立会峠・・・『六甲』354頁(ごろごろ岳の「三角点の所在する所は昔は立会峠の頭とも云われた」)

立会峠(立合峠ともいう)は、六甲地図において、ごろごろ岳の北方や南東に記載されていることが見られるが、実際は、ごろごろ岳の三角点付近を指しているのである。北方や南東の記載は、誤解に基づくものであろう。


2扇岩・・・『六甲』393頁(発電所の導水路から対岸のスカイラインに「扇岩がその名の通り扇を開いた形」)
 インターネットの「六甲岩石大事典」で、かつて「十三間四方岩」「盾岩」と仮称されていた岩である(標高460mにある)。六甲岩石大事典1−1(扇岩ほか)
 北尾根を登り、頂上近くで、右へ入る踏み跡に入ると、展望が大きく開ける。その展望所にある巨岩。弁天岩の真西300m地点の真北70m地点である。
その直下が「ナマズすべり」である。

扇岩(2014.6.8筆者撮影) 

扇岩 (北尾根の山頂・標高460m付近で、右=東へ分岐する道をたどると東側の展望所に出て、そこに鎮座している。)
      (一時、「十三間四方岩」「盾岩」と仮称されていたが、実は、この巨岩が「扇岩」であった!)

★この岩が扇岩であることを裏付ける資料★
(1)この岩が扇岩であることは、木藤氏の創立したやまゆき会の元副会長である大津陸郎氏におたずねして、会員の宮本信夫氏を通じて確認している。すなわち、やまゆき会の2007年1月21日の山行で、大津氏は同行した宮本氏に、この岩が扇岩であると教示したということである(宮本氏からの2014年6月27日の筆者あてのメールによる)。

(2)この岩が扇岩であることは、やまゆき会の元会長である石上隆章氏の著書「六甲の谷と尾根」(昭和60年)の20頁に、道痩谷(道畦谷)北尾根の登山道の説明において「右へ少し登る小道に入れば扇岩へ出られる。好憩場である」とあることからも裏付けられる。

(3)筆者が森林植物園の事務所で2012年2月25日、福本市好氏に依頼してコピーさせていただいた直木重一郎氏の遺品の2万分の1地形図「有馬」(明治43年測図、明治44年製版・印刷・発行)には、弁天岩の岩記号の真西15ミリ(距離300m)地点の真北3ミリ(距離60m)の地点(標高460m)の岩記号に対して「扇岩」と書き込んであった。この地点はまさに、この岩の鎮座している地点に他ならない。直木重一郎氏が、この岩を扇岩と呼んでいたことが、自身の地形図への書き込みによって裏付けられる(下図)。


 弁天岩(道の西側であることに注意)の北方の登山口から扇岩を経て、荒地山(548.3m)へ至る登山道も
  直木氏によって書き込まれている(線が鮮明だが、もとの地形図「有馬」には記載されていない道である)。
   ※この地図は、森林植物園所蔵の直木重一郎氏遺品の一つ(複写については園職員の福本市好氏の協力を得た)。

直木氏は、昭和9年に詳細な六甲地図を完成させるまでに、大正14年1月〜昭和5年3月に5回にわたって、六甲地図を神戸徒歩会から会員用地図として発行している。そのうちの、大正14年6月増補2版と昭和5年増補5版の地図では次のとおりである。


「六甲_摩耶_再度山路図」(大正14年6月増補2版)より


「六甲_摩耶_再度山路図」(昭和5年3月増補5版)より


 
扇岩(2014.7.12筆者撮影)
 中央が扇岩 
  (※扇岩の東方の芦屋川の東側の導水路から、西方向へ扇岩を眺めると、北尾根の山頂部に扇の形の扇岩が見える。)


3天狗岩・・・『六甲』附録地図に場所が明確に示されている。芦屋川右岸の岸壁。六甲岩石大事典2−1(天狗岩ほか)

  「水車谷堰堤」東側の「奥山浄水場・前処理施設(円形)」の北北西200mの「芦屋川取水口」南側。

4四ツ目岩・・・木藤精一郎『六甲北摂ハイカーの径』(昭和12年)119頁に「四ツ目紋章の刻印の岩」の記載がある。岩に四ツ目刻印があるから「四ツ目岩」と呼ぶ。付近には同様の四ツ目刻印の岩が複数あるが、木藤氏の述べる「四ツ目岩」は、473mピーク(地形図で475m)の西側にあるものを指している。

 『芦屋市文化財調査報告 第12集』(兵庫県立図書館蔵)の8頁(I地区の刻印石、下の解説文)、27頁(奥山刻印群の刻印石分布図、下の地図)参照。
 従って、「四ツ目岩」は縦走マップ記載の「夜景の岩場」(石島池の北東80m地点。縦走路の途中)の地点でなく、石島池の南南西70mの473mピーク(地形図で475m)の西側にある。
六甲岩石大事典1−2(四ツ目岩ほか)


『芦屋市文化財調査報告 第12集』8頁より  
 ※I地区の岩山にあるNo.3の刻印石には、四ツ目と団子の印が刻まれ、木藤氏の述べる「四ツ目岩」と思われる。



『芦屋市文化財調査報告 第12集』27頁(奥山刻印群の刻印石分布図)
  (※ I 地区の岩山にあるNo.3の刻印石が、木藤氏の述べた「四ツ目岩」と考えられる。)
    (※ A地区のNo.10が石島池の中の刻印石を表し、団子が刻印されている。)

(2014年7月19日、補記)
 東充「六甲連山バイブル(登山道編)」(2013年)と東充「六甲連山バイブル(滝・奇岩・磐座編)」(2013年)は、上記の岩についても紹介しているが、膨大なデータを、既刊書とインターネット情報によって、玉石混淆にまとめたものであるために、かつて流布していた間違った情報によって記述されたものも混じり、混乱をもたらすことになってしまっていることについては、残念というほかはない。
 ここでは、東氏の記述内容と、正しい情報に基づく記述を併記して、読者の注意を促しておきたいと思う。

  東充(あづま みつる)『六甲連山バイブル(登山道編)』(2013年12月、自費出版、問合せ先:神戸アーカイブ写真館)

 東充「六甲連山バイブル(登山道編)」  東充「六甲連山バイブル(滝・奇岩・磐座編)」  正しい情報(2014年7月に確認できた内容)
 100頁:弁天岩の西方に「扇岩」の表示があるが、道畦谷北尾根道の北方という大体の位置表示のみで、写真の紹介はない。「十三間四方岩」の位置表示は見当たらない。  105頁:「十三間四方岩(道畦谷北尾根道)」が写真で紹介されている。
(※2013年当時のインターネット情報の「六甲岩石大事典」の誤った記述に従ったもので、実は、この巨岩が「扇岩」であった。)
 「六甲岩石大事典」において、かつて、「十三間四方岩」として紹介されていた巨岩(のちに「盾岩」と仮称されていた)は、実は、やまゆき会(木藤精一郎氏創設)において、「扇岩」と呼ばれてきている巨岩であることが判明した。
 104頁:「四ツ目岩」が「夜景の岩場」と呼ばれていた場所に表示されている(「六甲全山縦走マップ」に従ったもの)。呼称の由来として、「複数の岩が四ツ目に見えたためであろう」と推定して述べてある。  93頁:「四ツ目岩」が写真で紹介されている。
(岩の場所は「六甲全山縦走マップ」に従ったもの)
 「四ツ目岩」は、木藤精一郎氏が、「六甲北摂ハイカーの径」(昭和12年)で初めて紹介したもので、石島池の南南西のピークにある「四ツ目紋章を刻印した岩」を指す。他にも同様の紋章の岩はあるが、木藤氏の紹介した岩だけが「四ツ目岩」と呼ばれており、「六甲全山縦走マップ」の表示は間違いである。また、複数の岩が四ツ目に見えたから命名されたという説も間違いである。
 58頁:「三枚岩」が鉄塔の北側あたりに記入されている。  123頁:三枚岩(新穂高道)の写真が紹介されている。  紹介されている写真は「天狗岩場」と呼ばれてきた場所とわかる。本当の「三枚岩」は、もっと広域の3枚の岩場である。詳しくは、「六甲岩石大事典」の「天狗岩場」と「三枚岩」を参照。石上隆章「六甲の谷と尾根」(昭和60年)の162頁に具体的に解説され、西裏六甲の章に「新穂高三枚岩」の写真があり、岩場の姿が山上ドライブ道から眺められることがわかる。
 92頁:旗振り通信塔    「六甲・摩耶」(日地出版、1999年)(ゼンリン、2001年)の29頁の記述によれば、この塔は旗振り通信塔ではなく、昭和初期の「火の見やぐら」の跡である。また、旗振り場があった場所は、ここより南方である。詳しくは拙著「旗振り山」(ナカニシヤ出版、2006年)の39〜42頁参照。火の見櫓跡が旗振り通信塔と誤解されるのは「本山村誌」の誤った記述によるもので、それに基づく解説板が鉄塔に吊ってあることも影響している。


(2014年5月5日)「ガベノ城」の語源(画餅の城砦説)について  (※ 2023年1月15日、一部の資料を修正)
天気が良いので、以前から気になっていた「ガベノ城」(標高483m)に5月4日に登ってきた。この謎めいた山名については、いろいろと取沙汰されているが、一部では、ほぼ決定版と思える語源説が提示されているにもかかわらず、検索の網にかかることも少なく、参考となる資料の提示も不足しているように思える。筆者は、このサイトで、その語源説を紹介している(六甲山の話題)のだが、ほとんど知られていないようなので、ここで、あらためて、語源説を紹介しておき
たいと思う。参考になれば幸いである。

★登山地図における「ガベノ城」の表記の変遷
ガメノ城・・・「六甲_摩耶_再度山路図」(大正14年1月初版、昭和5年3月増補第5版)(神戸徒歩会々員用)(摩耶杣谷以東 直木重一郎氏 以西 米澤牛歩氏 実地調査)
ガメノ城・・・「最新踏測 神戸附近山路図」(大正14年11月発行、赤西萬有堂):上記の地図から編集したもの
ガベ
・・・「六甲山の地名と登路」(大正13年古市達郎氏製作、翌年改訂、昭和8年伊賀信夫氏校閲)(竹中靖一『六甲』昭和8年、附録)
ガベノ城・・・「六甲_摩耶_再度山路図」(昭和9年8月発行、第一版)(直木重一郎著、関西徒歩会発行)
カメノ城・・・「最新六甲山附近図(最新六甲登山地図)」(大阪和楽路屋、昭和10年6月発行)
ガベノ城・・・「六甲山登路図」(木藤精一郎『六甲・北摂ハイカーの径』附録、昭和12年4月初版、阪急ワンダーホーゲルの会発行)(昭和12年10月再版の第二版は、地図も本体も初版と同一内容である。
カベノ城・・・「六甲山登路図」(木藤精
一郎『六甲・北摂ハイカーの径 改訂版』附録、昭和15年2月改訂三版昭和15年12月改訂四版、昭和16年4月改訂五版、昭和16年12月改訂六版、昭和18年12月七版、阪急ワンダーホーゲルの会発行)
カベノ城・・「六甲山登路図」(木藤精一郎『ハイカーの径 第1輯 六甲連山』附録、昭和22年9月発行、宝書房)(従来版を第2輯北摂山群とに分離別冊にしたもので、事実上の第八版と著者は「はしがき」で述べている。附録地図は改訂版の縮小版で内容は同一
(木藤氏の本の初版の附録地図では「ガベノ城」で正しかったのが、なぜか、改訂
版の附録地図では「カベノ城」に誤植された。その後、地図は修正されることはなかった。一方、ガイドブック本体のほうは全て「ガベノ城」で統一されている。なぜ地図を修正しなかったのか不思議である。おそらく読者からの指摘もあったであろうに・・・。)

ガグノ城・・・1:25000「宝塚」(昭和22年第3回修正測図)(昭和23年12月28日発行)(地理調査所)
(地形図に記載された一番最初の山名は「ガグノ城」であるが、その出典は全く不明である。西宮市の資料にその記載があったのだろうか?それとも、直木氏の地図に「ガベノ城」とあるのを読み間違って記載したものだろうか。)

ガベノ城・・・「六甲連山登山図」(昭和34年12月作図)(中村勲『六甲とその周辺』朋文堂、昭和35年、付録)
がべの城・・・「六甲山地区図」(国立公園六甲山地区整備促進協議会)(昭和36年発行)(地名表記標準資料)
ガベノ城・・・「六甲・摩耶」(中村勲調査・執筆)(昭和36年初版)(登山・ハイキング)(日地出版)
カベノ城・・・1:25000「宝塚」(昭和42年改測)(昭和44年3月30日発行)(国土地理院)
ガベノ城
・・・「六甲山」(赤松滋調査・執筆)(昭和44年第5版)(山と高原地図シリーズ)(昭文社)
カベノ城・・・1:25000「宝塚」(昭和52年第2回改測)(昭和53年10月30日発行)(国土地理院)
カベノ城・・・1:2500「鷲林寺」(平成6年測量、平成11年修正、平成16年修正、
平成28年修正)(西宮市役所)
(西宮市の地図では、現在でも「カベノ城」の記載が継続されており、地形図の記載の根拠となってきた。)

ガベノ城・・・1:25000「宝塚」(平成29年6月調製)(平成29年10月1日発行)(国土地理院)
ガベノ城・・・西宮市全図(西宮市役所、総合案内所にて配布)(おおむね令和2年8月1日現在の資料で作成)


登山界において、初期には「ガメノ城」の呼称が使用されていたが、昭和9年以降は「ガベノ城」の表記が定着する。
一方、木藤氏の六甲地図の表記「カべノ城」がめぐりめぐって、なぜか西宮市の地図で採用された結果、西宮市の資料に忠実に従った国土地理院の表記「カベノ城」が長く使われて、混乱をもたらした。元をただせば、木藤氏の地図の誤植が原因とみてよいだろう。(誤解のないように述べるが、国土地理院は、独自に地名調査を行うのではなく、地方自治体の作成する地名調書と自治体発行の地図表記に基づいて、地形図に記載を行うのであり、地形図の表記は、自治体公認の表記であるということである。また、市民からの地形図の間違い等の指摘があった場合、地方自治体の担当者に照会することで、確認作業が行われるのである。場合によっては、文献を豊富に持つ指摘者とは対照的に、地方自治体に地名に詳しい職員がいるとは限らないので、山の山頂の位置、呼称などについて、その指摘内容の真偽を地方自治体の担当者が適切に判断できるかどうかは未知数というほかはない。以上のような状況が、地形図における少なからぬ誤記の生じてきた原因の一つといえるのである。残念なことに、地形図の記載には上記の原因ではなく、地図作成者の勘ちがいとしか思えないミスも存在する。たとえば、西お多福山が本来の位置の北北東方向の全く別の場所に誤記されてきたケースである。これには標高の近似、その場所がお多福状の地形になっているということも地形図作成者が惑わされた要因の一つではないかと思う。この点は、筆者も、空中写真の判読において似たような勘ちがいを経験しており、それで同情するわけではないが地形図作成者が間違えた理由もむべなるかなと妙に納得できるのである。といっても、長年月、間違いをもたらしたことを免罪するわけではないのだけれども・・・。)

さて、竹中靖一『六甲』(昭和8年発行)の351頁には次のように記載されているのみである。

ガベ 剣谷の左岸、標高四八一米を有する丘(尾根の端)。
ガベツト ガベの南麓で、栢堂の山手に当る。


また、大西雄一『六甲山ハイキング』(創元社、昭和38年第1版第1刷、平成5年第4版第6刷)は31年間(1963〜93年)にわたって発行されつづけた名著だが、「ガベノ城」の語源にはふれていない。

その理由が、有井基『ひょうごの地名を歩く』(神戸新聞総合出版センター、1989年)の14頁の記述によって、大西雄一氏(1911〜94)の考えが示されて、次のように判明するのである。

「さて、ルーツは何かいな。カベノ城ちゅうのは、阪神間から見て、高台に砦(とりで)のようにあるからと違いますかなあ」六十年余も歩きつくした六甲全山縦走市民の会会長・大西雄一さんですら分からない地名は多い。

この本で六甲山の地名のルーツがかなり解き明かされていて興味深いが、その内容は、実際に読んでいただくとして、大西氏はもちろん著書で
「ガベの城」(昭和59年の第4版では「ガベノ城」に変更)と明確に記載しているので、ここに「カベノ城」になっているのは有井氏の勘ちがいだが、「カベノ城」「ガベノ城」の違いは、語源の解明の際に、はっきりさせておかなければならない。


六甲山歩きの間では、今日、「ガベノ城」または「ガベの城」がよく用いられ、「カベノ城」「カベの城」は間違いと認識されており、また、標準地名として採り上げられた「がべの城」の表記は全く用いられていない。

さて、これから、「ガベノ城」の語源の解明に入ろう。


山岳大阪172号(2007年(平成19年)4月1日発行)の記事「六甲山系 地名変遷 ==永遠のナゾを語る==」において、赤松滋氏は、次のように述べる。

◆カベノ城が地理院の記載、登山者伝承「ガベノ城」。濁点の相関ミスではない。「ガベ」はガベイ画餅、絵に描いたモチ同然の砦城と皮肉られたが伝えの説。古来登山案内精書数々は「ガベの城」でとおす。あながちミスプリや鵜呑みの伝承ごとと済まされまい。拙著は併記としている。

この記述だけでは、語源について、説得力が見られないので、2011年(平成23年)10月に赤松氏に
手紙を出して、画餅の根拠をお尋ねしたところ、次のような内容の返信はがきをいただき、納得することができたのであった。(筆者の指摘で、その後は併記を中止し、正しいほうの「ガベノ城」のみ記載の方針に転換された。なお、直木重一郎・竹中靖一両氏が六甲山研究のエキスパートであったことはいうまでもないだろう。その語源説に素直に耳を傾けてもよいのではないだろうか。)

【ガベノ城】:生前の直木氏、及び竹中氏は大学退官の昭和54年にお会いし伝授されているものです。両人ともご自宅での談話です。

そもそも、「ガベ」の呼称を史上初めて公開したのは竹中靖一『六甲』(昭和8年)の本文と付図であり、その呼称の採集者は六甲をくまなく巡って付図「六甲山の地名と登路」を作り、直木氏と共に六甲地図の基盤を作った古市達郎氏であろうと推定できる。
直木氏はそれまでの聞き取りで得て神戸徒歩会会員用地図(大正14年)に記載していた「ガメノ城」の呼称を捨てて、竹中氏の友人、古市氏の採集した「ガべ」を採用して、自分の「○○ノ城」という呼び方とミックスして、昭和9年に発行した六甲地図で歴史上初めて「ガべノ城」の呼称を確定したと推定できるのである。一般に藤木九三氏の命名とされる「芦屋ロックガーデン」は、直木氏自身は「小生が命名」と書いているし(直木重一郎「保久良の思い出」、『保久良登山会創立三十周年記念誌』昭和53年、41頁所収)、直木氏は、また、ロックガーデンのいろいろな奇岩に私的に名称を付けて楽しむということもあったという。もっとも、川上弘一「直木重一郎さんのこと」(『保久良登山会創立六十周年記念誌』平成20年、37〜8頁)には「直木さんの仲間たちでロックガーデンという名前を付けた」とあり、RCC創設メンバー(藤木九三、富田砕花、直木重一郎)が名付けの当事者であった。「ガベノ城」は最初に地図に記載したという意味において、直木氏自身が名付け親であると言えるのではないだろうか。その当事者たる直木氏と竹中氏(「ガベ」の採集者の古市氏の友人)が、二人とも、「ガベ」は「画餅」であると語ったというのであるから、信ぴょう性は高いと受け止めることができよう。

私の知る「ガベノ城」の語源説は以上ですべてであるが、根岸真理『六甲山ショートハイキング77コース』(神戸新聞総合出版センター、2011年初版)の98頁には「中世の山城の跡だという説もあるが、はっきりした文献などはないようだ」と曖昧な記述になっていたので、お知らせしたところ、同書の2012年第2刷において、次のような記述が採り入れられた。

山城跡に見えるが実はそうではなく、絵に描いた餅=画餅という説を、赤松滋氏がかつて直木重一郎・竹中靖一両氏から聞かれたそうである。

ガベノ城の頂上付近は、平地部分も狭く、中世の城跡に見られるような人工的な削平地も見られない。見晴らし台のような利用はあったかもしれないが、「周辺から過去の遺物が発掘されたことはない」
(ガベノ城 完結編)ので、中世の山城・砦であったという可能性は否定されている。

ガベノ城の直下の東側や、西へ向かう登山道の両側には、治山工事による石垣が見つかるが、それが「ガベノ城」の語源とつながるとは考えられない。なぜなら、六甲山の治山工事は至るところで実施されており、ここの治山石垣だけが「ガベノ城」の命名に影響したとは思えないからである。

筆者は、登山道から離れて、ガベノ城のほうへよじのぼる途中の、
山頂直下の北西側斜面(山頂から南へ踏み跡をたどった途中にもある)での自然石による造形が石垣に似ているので、それを「画餅の城砦(石垣)」と呼んだのではないか、あるいは、遠くからガベノ城を見た際に、突出した城砦のような立地にあることも、「画餅の城砦」にふさわしいのではないかと感じさせられるのである。人による命名は「直観」によるのであるから、皆がそう感じるのなら、共感できると思うのである。実際、先に述べた六甲山のエキスパートの大西雄一氏のコメントが生きてくるのである。

なお、「ガベノ城完結編」のレポート者が見た「ガベノ城」なるものは、本物の「ガベノ城」の西北西方向、上方へ300mほど離れた場所の展望岩であろう。本物の「ガベノ城」と偽物の「
偽ガベノ城(展望岩)」を参照されたい。また、2014年2月のレポート
(ガベノ城・展望岩)にもガベノ城と展望岩が紹介されているので参考になるだろう。なお、2014年5月の探訪の際には、従来とりつけられていた木々の山名札は取り払われていた。

膨大な写真・資料の収録で注目を浴びた、東充(あづま みつる)『六甲連山バイブル(登山道編)』(2013年12月、自費出版、問合せ先:神戸アーカイブ写真館)には、各種文献とインターネット情報をもとにまとめられた「六甲連山にかかわる由来・謂れ・伝説・民話な解説一覧表」があり、ガベノ城については次のようにまとめてあるが、「ガベ」の意味にはふれていない。治山工事の石積みが「ガベノ城」の命名と関連するかどうかは不明と言わざるをえない。

ガベノ城 剣谷の左岸の尾根端をガベと称され中世の砦があったと伝えられている。実際には城はなく、江戸から昭和初期の治山工事の跡の石垣が埋もれるようにして顔を出しているところから「ガベ城」跡といわれるようになった。

ガベノ城付近の治山工事がいつ行われたものなのか、具体的な地域別資料は調べていないので不明だが、近代における石積み工事によるもので、ガベノ城付近に見える石筋段積工については昭和初期以降の工法とされているので、おそらく、そのころのものではないだろうか(『六甲山災害史』平成10年、68〜71頁)。いずれにせよ、六甲山で治山工事が始まった明治時代を遡るものではないだろう。

上の「六甲連山バイブル」の記述の出典らしきものが、
ガベノ城に見える。次のとおりであるが、想像で描いた仮説であり、真実とは思えない。

六甲山は江戸時代から昭和初期にかけて土砂流出が著しく、その為、差し迫って治山工事を必要となった。六甲東側の広範囲を対象に行われ、数段の石垣を組み上げて、そこに樹木の苗を植林し、東六甲の山容が変貌する程の大規模土木工事だったと言う。この石垣が山のあちこちに表土に埋もれるように顔を出しており、それがガベの城跡と呼ばれるようになったと思われる。


なお、筆者の情報提供に対して、2013年(平成25年)8月5日付の国土地理院近畿地方測量部の担当者より、「六甲山系自然地名の地形図表現等について」という文書が示され、次のような地形図での修正が行われることになったという返答を得ているので、結果のみを一覧にして、紹介しておこう。このような地道な作業こそが、地形図の内容の改善につながるものと確信している。(→は、左の表記を、右の表記に訂正する処置を行うことを示す。)
1 カベノ城→ガベノ城
2 皷ヶ滝→鼓ヶ滝
3 蟇滝→七曲滝
4 蟇滝の位置修正(刊行図の注記位置の北西約100m地点の滝)
5 白石滝の位置修正(刊行図の注記位置の西方約100m地点の滝)
6 西お多福山→西おたふく山(神戸市の国土基本図に従う)
  その位置修正(878mのピーク→同じ山体の南東約200m地点の高台・標高867m地点)
  あわせて、東お多福山→東おたふく山(芦屋市の国土基本図に従う)
7 鷹尾山の位置修正(山体全体→標高数値272mの山体)
8 金鳥山の山頂の電波塔記号を削除
9 落葉山の位置修正(標高562m→三角点533.0m)
10 仙人窟の位置修正(刊行図の注記位置の東方約250m地点の尾根)
11 瓢箪池の位置修正(瓢箪池が特定できない注記位置から特定できる位置に修正)
12 又ヶ谷→ヌケ谷
13 分水領越→分水嶺越
14 碇山→錨山、「碇山」の注記位置に「市章山」と注記、「碇山」の注記位置の南方の高台に「錨山」と注記
15 鉢伏山の航空燈台の記号を削除
16 譲葉山の位置修正(標高514m地点→近畿自然歩道を挟んで北西の山体=標高524m地点)
17 三枚岩の処置は保留(調査継続中のため)
18 柿木塚の注記と記念碑記号は削除(自治体からの強い要望がないため)
19 阿弥陀塚の注記の削除(自治体からの強い要望がないため)
20 天狗塚の記念碑記号を削除し、天狗塚を陸域自然地名として注記する
21 アゴニー坂・・・神戸市水道局施設北側の尾根沿いの道は立入不可の道で削除し、本来の正しい位置に道を表示
22 猪ノ鼻滝の位置修正(刊行図の滝の位置→猪ノ鼻小橋のすぐ西下の滝)

以上のとおりの処置が国土地理院の地形図表記において反映されることになった次第である。
なお、その変更の根拠については、このサイトの2012年1月、2013年1月の記載を参考にされたい。
そのほとんどが、近畿地方測量部の担当者によって裏付けられた(三枚岩を除く)ことがわかる。

直木重一郎(1895〜1979)について・・・(1893〜1979)とする資料もあるが誤りであろうと思われる。
『ヤマケイ関西 六甲山』(別冊山と渓谷、2001年)の六甲登山史の112〜3頁(棚田真輔執筆)に直木氏の昭和9年に作成した六甲地図が掲載されてから、その業績が広く知られるようになったと思うのは私だけであろうか(もちろん、ずっと以前から、森林植物園の展示コーナーにおいて、直木氏の業績が紹介されてきてはいるが)。その改訂版である『六甲山』(ヤマケイブックス、2003年、山と渓谷社)の135頁にも直木氏の地図が紹介されている。直木氏の足跡は棚田真輔『神戸スポーツ草創史』(昭和56年、道和書院)や棚田真輔『プレイランド六甲山史』(昭和59年、出版科学総合研究所)においても紹介されているが、名前が見えるというのみである。
○直木氏製作の昭和9年発行の「六甲_摩耶_再度山路図」は、今日の六甲登山地図の基盤となったが、その現物は神戸市立中央図書館に所蔵されており、神戸市立森林植物園で掲示されているのを直木氏の遺品の数々とともに見学することができる。
○直木氏の略歴は神戸市立森林植物園の展示で知ることができるが、文献としては、『山岳 第74年(通巻132号)』(日本山岳会、1979年12月)の182〜4頁に、津田周二氏(1903〜81)によって書かれた、日本山岳会の会員であった直木氏の追悼記事を掲載している。
『山岳 第74年(通巻132号)』の写真頁にはザイルを結んでいる「直木重一郎氏 
Juichiro Naoki
(1893〜1979)」として紹介されているが、『ペデスツリヤン』誌に大正13〜14年頃に投稿した直木氏は自身のサインとして「S.Naoki」を用いている。一方、例外として、同誌第74号(大正13年2月)にJ.Naoki Naoki Juichiro(岡田秀定によるもの)が見える。『近畿の登山』(大正13年)に「なおき じういちろう」のふりがなが見える。『保久良登山会創立60周年記念誌』(平成20年)に「直木重一郎さんのこと」(川上弘一)という記事があり、直木家の隣に住み、かわいがってもらったという。川上さん(昭和15年生れ)に電話でたずねると「なおきじゅういちろう」で間違いないという。赤松滋氏に尋ねると「なおきじゅういちろ(口をすぼめる)」ですとの返答であった。
○一方で、森林植物園の直木氏の遺品では、S.NAOKIと記載したものばかりである。園職員の福本市好氏にお願いして直木氏の遺品を見せてもらい、スクラップブックの新聞記事を確認したところ、
「しげいちらう」が2件、「ぢゆういちらう」が1件あることを見つけた。また大正13年1月2日の切り抜きに「なほき じういちろう」とあることがわかった。展示コーナーの遺品に藤木九三(1887〜1970)がロンドンから直木に宛てたハガキに
Mr.S.Naoki kobe JAPAN とあった。
○以上のことから、直木重一郎の読み方は、
本人の自称の場合、「なおき しげいちろう」であり、目上の人からも「しげいちろう」と呼ばれていたように思われる。一方、あらたまった公式の場や、後輩からは「なおき じゅういちろう」と呼ばれて親しまれていたことがうかがえる。「山岳」での表記が「Juichiro Naoki」であるのもそれを裏付けることになろう。

○『山岳 第74年(通巻132号)』の津田周二氏による直木氏の略歴は次のとおりである。一方、森林植物園の展示コーナーに見える経歴には、1895(明治28)年11月21日生れになっている(昭和53年発行『保久良登山会創立三十周年記念誌』106頁の会員名簿掲載の生年月日によるもの)。理由は不明だが、山岳の記事には錯誤が混じっているようである。

  
直木重一郎(1893〜1979) 略歴   (※正しい生年月日は1895年=明治28年11月21日と思われる。)
明治二十六年十一月二十六日
、神戸市兵庫区匠町に生る。入江小学校、神戸二中を経て、
大正九年、大阪高等工業(現阪大工学部)船舶機械科卒、合資会社高田商会に入社。戦時中浪速工業学校の講師となる。
大正七年五月 日本山岳会入会(会員番号六○五)。昭和五十二年復活。
大正十三年、藤木九三氏等とRCCを創立。
岡本に居を移し、戦後は保久良山の同人となり、九千回登山賞を受く。
昭和五十四年六月十二日、八十六才をもって逝去せらる。妻栄子さんと二人暮しであった。


『山岳 第74年(通巻132号)』本文より一部を抜粋)
「直木さんの生家は神戸で最も古い、兵庫港近くの匠町で、代々雑穀の回船問屋を営んでいた旧家であったが、直木さんが十才のときにお父さんが亡くなり、その後は店をたたんで母の手で育てられたと聞いている。神戸二中から大阪高等工業の機械科を卒業し、大阪の貿易商高田商会に勤めたが、間もなくその会社が不況の為解散したので、その後は何処へも勤務することなく、もっぱら六甲を歩きまわることになった。」
「根が技術屋であるので、陸地測量部の地図上に丹念に赤線を入れ、後に神戸徒歩会が発行した神戸背山の地図は、殆んど直木さんの手によって作られたものだ。」
「直木さんは自宅の岡本の北方の小高い保久良山に毎日登山を行い、昨年(昭和53年)には九千回登山の表彰を受けられた。」
「人に親切で物柔らかく温和な彼は誰にも好かれ尊敬された。戦前には菊作りで有名であり、戦後はもっぱら木彫に力を入れて、木彫のお弟子が多く出来ていた。京都、奈良と足を運ぶのを楽しみにしておられた。」

直木重一郎(1895〜1979)の経歴(森林植物園に掲示されている資料その他によるもの)
1895年11月21日 神戸市兵庫区匠町12(現・本町公園北部付近)生まれ、神戸二中(現・兵庫高校)卒。
1914年 神戸二中在学当時、六甲山を歩き始める(最初は摩耶山)。
1918年 日本山岳会に入会する。
1920年 大阪高等工業学校(現・阪大工学部)卒。
1924年春 藤木九三氏、富田砕花氏(詩人)らとRCC(ロッククライミングクラブ)を創設。
1924年秋 芦屋ロックガーデンの名は、直木氏が命名したという(直木重一郎「保久良山の思い出」:『保久良登山会三十周年記念誌』41頁所収、昭和53年4月発行)。
1925年 六甲山脈大縦走(須磨浦公園〜宝塚)を完走(神戸徒歩会の会員T.パワース氏、田中与一氏)〜世間に公表された最初の縦走〜
1925年1月 「六甲_摩耶_再度山路図」(初版)(神戸徒歩会会員用)(神戸徒歩会)(非売品)
1925年6月 「六甲_摩耶_再度山路図」(増補第二版)(神戸徒歩会会員用)(神戸徒歩会)(非売品)
1927年5月 「六甲_摩耶_再度山路図」(増補第三版)(神戸徒歩会会員用)(神戸徒歩会)(非売品)
1928年9月 「六甲_摩耶_再度山路図」(増補第四版)(神戸徒歩会会員用)(神戸徒歩会)
(非売品)
1930年3月 「六甲_摩耶_再度山路図」(増補第五版)(神戸徒歩会会員用)(神戸徒歩会)(2色刷)(摩耶杣谷以東 直木重一郎氏 以西 米澤牛歩氏 実地調査)(神戸徒歩会遠足部増補)(六甲外人村之池略図付き)(非売品)
1934年8月 「六甲_摩耶_再度山路図」(第一版)(関西徒歩会発行・印刷)(3色刷)(定価金参拾五銭)〜独自で六甲の表も裏もくまなく歩き十数年かかって調査したもの
〜のちの六甲登山地図の基盤となった。
昭和の始め、兵庫から北畑の住所(東灘区本山北町6−6−26)に転居する。
1976年(昭和51年)4月9日(金)付け神戸新聞夕刊のシリーズ掲載記事「六甲山 自然の中の社交場 4」として
、直木重一郎(80歳)の紹介がある(慶山充夫記者)。大正3年(1914年)から山に出かけ始めたこと、やがて、地形図の不備に気づき「ぼくが六甲の地図を作ってやろう」と思ったこと、老人に言い伝えや地名を聞き出したこと、十数年の調査で昭和9年(1934年)の地図として日の目をみたこと、ふだん着のままの保久良山登山があと一ヶ月で九千回に達する予定であることが紹介されている。当時、80歳と明確に記載されており、1895年11月生まれであることが裏付けされる。
1977年 日本山岳会の会員に復活。
1978年 戦後、自宅(東灘区本山北町)近くの保久良山〜金鳥山へ毎日登山を行い、9千回表彰を受けた。
(昭和53年4月発行の『保久良登山会三十周年記念誌』の登山会番付に「9560回(S52.12.31現在)」とある。
1979年6月12日 没(83歳)(夫婦のみで暮らしていた)

★竹中靖一 【たけなかやすかず】(1906-86)

デジタル版 日本人名大辞典(2001年発行の『講談社 日本人名大辞典』のデータを更新したもの)より
竹中靖一(たけなか やすかず)1906.6.9−1986.12.19)
昭和時代の経営学者。明治39年6月9日生まれ。山口高商教授を経て、昭和24年近畿大教授。石田梅岩の石門心学の研究で知られ、昭和30年心学の講舎明誠舎を復活させた。昭和39年「石門心学の経済思想」で学士院賞。昭和61年12月19日死去。80歳。大阪出身。京都帝大卒。
※国会図書館の『六甲』の書誌情報には、以前の確認では、竹中靖一(1903〜86)になっていたが、2020年11月2日に改めて確認したところ、ミスであったらしく、竹中靖一(1906〜86)に修正されていたので、食い違いは一掃された。
※改めて、2020年11月2日、『日本人物レファレンス事典 商人・実業家・経営者篇』(日外アソシエーツ、2017年)の470頁で確認を行なった。

☆大西雄一(1911〜94)
明治44年神戸市に生まる。昭和7年神戸高商卒。神戸市各局長を経て、会社役員、団体役員等。神戸芸術文化会議常任委員。日本山岳会会員。神戸市山岳部、稜線山岳会OB。「太陽と緑の道」専門委員。徳川道調査委員長。六甲全山縦走市民の会会長。六甲については60年余にわたって登り続けた。平成6年10月1日死去(83歳)。
<著書>
「えのあるずいひつ(絵のある随筆)」(みるめ書房、1961年)
「六甲山ハイキング」(創元社、創元手帖文庫、1963年)(第1版)
「はなしの歳時記:大西雄一対談集」(のじぎく文庫、1964年)
「六甲山ハイキング」(創元社)(第2版、1970年)(第3版、1975年)(第4版、1984年)
「火の見やぐら」(明石豆本らんぷの会、らんぷ叢書:第8編、1971年)

「ぶらりヒマラヤ」(豆本”灯”の会、灯叢書:第10編、1979年)
「ぶらり旅日記」(神戸新聞総合出版センター、1990年)
「六甲山ハイキング」(創元社、第4版第6刷、1993年7月20日発行)(1963年初版以来、満30年、通算第25刷目)


(2014年3月21日)
昭文社「六甲・摩耶 2014年版」が3月18日に発売された。
筆者のリクエストで、2013年版の内容に対して改良された点をまとめて報告しておこう。
(地図のメッシュ表示で位置を示す)
(B6)西鈴蘭台駅からイヤガ谷東尾根を目指す途中の南五葉でのルートを修正。
(B6)鈴蘭台駅から菊水山へ向かうコースの表示の改善。
(B8)ひよどり道の入り口ルートの表示の改善。
(D4)谷上駅と上谷上バス停の位置と付近のルートの改善。
(E3)花山駅から石楠花谷へのルートで大池中・大池小付近の入り口の修正(立入禁止箇所を避ける)。
(DE5)ヌケ谷のルートの改善。
(E5)桜谷分岐の表示地点の改善(間違って北側に表示されていたが、南側の正しい位置に移動)。
(E7)天神谷東尾根および北野道の入り口の位置とルート表示の修正(ずれた位置になっていた)。
(F3)古寺山へのルートで荒れた東谷道に加えて、観音道(名前は示されていない)のルートも追加。
(F5)「摩耶ロープウェイ山上駅」→「摩耶ロープウェー山上駅」
(F6)「史蹟公園」→「摩耶山史跡公園」
(F6)六甲観光茶園の位置が間違っていたが、修正されて正しくなった。
(G3)猪ノ鼻滝の位置がやや西寄りになっていたが、神戸市地図記載のとおり、小橋のすぐ下に修正された。
   (※旧版地形図では、もっと西方に、かつて「猪ノ鼻雄滝」と呼ばれた滝が「猪ノ鼻滝」と表示されていたが、かつて「チョロチョロ滝」と呼ばれた小橋のすぐ下の滝が「猪ノ鼻滝」と呼ばれるように変更されている。)
(G5)「ロープウェイ駅跡」の表示があった(ただし正しい地点の北東方向5ミリ地点)が、削除された。
(G5)「八畳岩」がドライブウェイの工事でできた新しい切通しの崖に表示されていたが、削除された。
   ※本来の正しい八畳岩は、直木重一郎や中村勲の六甲地図を参照すれば、2014年版地図の「新六甲大橋下」の文字の「下」の右へ1ミリの地点にあったと判断される。2013年版の「八畳岩」の位置の南東3ミリの地点にあたり、切通しの「八畳岩」の下方の道路のさらに下の崖斜面にあたる。その下はヘアピンカーブの手前の道路となり、すぐ下方が信号交差点である。現在でも、ヘアピンカーブの道路で挟まれた崖斜面には五畳ていどの岩崖が残るが、上部は道路工事で削られ、いまさら「八畳岩」と表示できるようなものではないので、表記の削除は仕方あるまい。

(G5)「弁天滝」の位置が北側にかたよっていたが、正しい位置に修正された。
(H5)渦森台からの登り口が修正されている。
(I 3)「西お多福山」→「西おたふく山」 (神戸市・国土地理院の最新の採用表記に従ったもの)
(I 5)荒神山の東の東谷橋から北西へ向かうルートが従来デタラメであったのが、今回やっと正しく修正された。
(J2)船坂谷ルートの表示の修正。
(J3)「東お多福山」→「東おたふく山」 (芦屋市・国土地理院の最新の採用表記に従ったもの)
(LM1)「譲葉山」の位置は、すでに縦走路の北に正しく修正されているが、標高「524」が削除されたのは改悪。
(MN1)甲子園大の南方の縦走路の表示が曖昧であったのが、道路が書き加えられて正しい表示になった。

(裏面図「六甲山上」について)
アイスロードの途中に、「水呑茶屋跡」の表示が間違った位置にあったが、まぎらわしいので削除された。
(※旧版地形図によると、「水呑茶屋」は、2014年版地図の「方角注意」の文字の「意」の文字付近にあったことが読み取れるが、現在、現地では、その痕跡ははっきりせず、茶屋跡の表示も見当たらない。従って、削除はやむを得ないだろう。)

(小冊子について)
(4頁)アーサー・ヘルケス・グルーム → アーサー・ヘスケス・グルーム
   (※再三、修正を申し入れていたが、ようやく、反映されて、正しい綴りとなった。)


(42頁)『六甲全山ハイキング』 → 『六甲全山縦走マップ』

☆地図には、以下のような修正も見られる。
・石楠花山山頂の表示地点が南側のピークに修正された(E4)。
・仙人窟跡の登り口に「奥山川ポンプ場」が追加された(H3)。
・ナマズ石から南へのルートが削除された(K4・5)。


(2014年3月22日)
★なぜ
「アーサー・ヘスケス・グルーム」をアーサー・ヘルケス・グルーム」に間違えたのか?
山と高原地図48「六甲・摩耶」(昭文社)の2002〜2013年版の小冊子4ページにおいて、一貫して、アーサー・ヘルケス・グルーム」と間違えていたが、それには、理由がありそうである。今日、アーサー・ヘルケス・グルーム」でインターネット検索すると、Wikipediaアーサー・ヘスケス・グルーム「ヘスケス」と正しく表示するものの、相当数の「アーサー・ヘルケス・グルーム」という書き込みが現れる。

その
アーサー・ヘルケス・グルーム」という不注意な名前のルーツは、次の2つの著書にありそうである。

山下道雄『新しい六甲山』(山と渓谷社、昭和37年)38頁
  「明治の中頃よりこの西六甲を開いた恩人といえる英人ヘルケス・グルーム氏の貢献を讃えて・・・」

赤松滋『ワンデルングガイドU 六甲山』(岳洋社、昭和59年)12頁
  「その人、
アーサー・ヘルケス・グルームは、六甲山上の開祖として語り残されている。」

ちなみに、山と高原地図57(後に53)「六甲・摩耶・有馬」(昭文社)の1978年版(第6刷)〜2001年版(第45刷)の小冊子12ページには、「アーサー・S・ヘスケス・グルーム」とあり、「S」は余分だが、少なくともヘスケス」は正しい。なぜ2002年版では誤記されたのか、理解に苦しむところである。

「アーサー・ヘスケス・グルーム」が正しいことは、Wikipediaは言うまでもなく、次の根源的資料2点で確認できる。

○西村貫一『日本のゴルフ史』(昭和5年初版、文友堂;昭和51年復刻版、雄松堂書店)
  20頁:「日本最初の神戸ゴルフクラブを開いた人は英人Arthur Hesketh Groom氏であります。」

○岸りう「父アーサー・ヘスケス・グルームのこと」(『神戸ゴルフ倶楽部史』神戸ゴルフ倶楽部、昭和41年、5〜15頁)
   5頁:「日本を愛し、神戸を愛し、六甲山を愛しとおした、父、アーサー・ヘスケス・グルームのこと。」





(2013年12月31日)(2014年4月6日修正)

最近、白川の夫婦岩について調査を行い、雄高座と雌高座の現地表示(場所)が間違っていて入れ替わっていたことに気づいたので報告しよう。


<東の雄石(雄高座)、西の雌石(雌高座)であることを示す文献>

田辺眞人編著「神戸の伝説」(昭和51年)の152ページの「高座岩の寿命水」によると、二つの高座岩である雄石・雌石は次のように紹介されている。
(「神戸の伝説」「神戸の伝説散歩」の二冊をまとめなおした「神戸の伝説 新版」(1998年)と「神戸の伝説 新装版」(2011年)にも再録された。)

@東〜雄石〜六十畳〜寿命水(縦30p、横10p)がある
A西〜雌石〜四十畳

「すまのむかしばなし ー伝説をたずねてー」(須磨観光協会・須磨区役所、昭和50年)の46〜47ページは、次のように「白川の夫婦岩(みょうといわ)」を紹介している(田辺氏による)。(この内容は、現地の「白川の夫婦岩案内板」にも掲載されている。後で紹介)
また、この本の改訂新版として新たに作られた、田辺眞人『伝説の須磨』(須磨区役所、平成16年)の6ページにも「白川の夫婦岩」が紹介されている。



正しくは、雄石(40畳)、雌石(30畳)、寿命水(長さ約170cm、横幅50〜70cm)(後述)

「西摂大観 郡部」(明治44年)の19ページには、高御座山の高座岩(雄石・雌石)が挿絵(下図)つきで紹介され、縁起文(活字で引用)もある。この記述が、今日の高座岩の紹介の直接の出典である。この図と縁起文は、この山を所有する白川の藤田氏がかかわって作成したものと思われる(あとで紹介する、太田陸郎氏の「コウベ新風土記」の記述に、下図中の句を賀茂季鷹が藤田家に来て詠んだこと、この図と縁起の版木を藤田氏が所有しているとあること、による。)。

「西摂大観 郡部」(明治44年)の19ページの図(上)と縁起によれば、次の通りとなっている。
@東〜雄石〜六十畳〜寿命水がある。脇に覆い舎が描かれている。(左側の岩)
A西〜雌石〜四十畳〜「雌石すこし淡路島へかたむきし」(右側の岩)(南側の方向に向かって少し傾斜して下がっている。明石、淡路島に近い側である)


「摂陽奇観」は浜松歌国(1776年〜1827年)の著したもので、明治42年に知られるようになったが、その中に、白川の夫婦岩(雄石・雌石)の挿絵による紹介がある。「浪速叢書 第一 摂陽奇観一」(名著出版、昭和52年)の111ページに挿絵がある(下図)。

田辺真人「須磨の歴史散歩」(須磨区役所、平成9年初版、平成10年第2版)の18ページには、下図のうちの下半分が転載され、解説されている。「須磨の歴史散歩」(平成19年改訂版)では、編集上のミスのため、出典が『西摂大観』となっていて、明らかに間違っている。

白川村藤田氏持山 高御座山岩之図  賀茂季鷹 (1754-1841)(京都の歌人)
おのづから 御かさの松も 生にけり 名におふ岩の 高みくら山 (自づから御笠の松も生にけり名におふ岩の高御座山)
雌石四十畳   雄石六十畳   禁裏献上楊梅         (※禁裏=禁裡=禁中=宮中)

@東〜雄石〜六十畳〜深い窪みの水が寿命水。脇に覆い舎が描かれている。(左側)
A西〜雌石〜四十畳(右側)

二つの種類の挿絵はよく似ている。少しタッチが違うが、雌石は道がそのまま岩面につながり、雄石が雌石からの道筋からでは岩崖になっていることをよく示している。

したがって、東側に雄石(雄高座)、西側に雌石(雌高座)があることは、以上の文献により裏付けられる(現地の岩の形と対応させて確認できる)。


雄高座が60畳、雌高座が40畳というのは本当なのか?>

『明治百年記念号 神戸市内町名由来記(下)ほか四篇』(故福原会下山人の郷土史話シリーズNo.20、福原源九郎清書・発行、昭和43年)の13ページには、次のような数値が、雄岩(雄コウザ岩)と雌岩(雌コウザ岩)の広さとして示されている。

@雄岩〜四十畳(66u)〜松が生えており、その下の岩の凹みに清水がある
A雌岩〜三十畳(50u)

この畳の広さの換算は、基本の畳の大きさ3尺×6尺(910o×1820o=1.6562u)の寸法によったものである。(40畳=66.248u)(30畳=49.686u)

一方、関西間(京間、本間)の大きさ3尺1寸5分×6尺3寸(955o×1910o=1.82405u)の寸法なら、(40畳=72.962u)(30畳=54.7215u)となる。

また、同書13〜14ページには、次のような記述が見える。

「・・・行くと目的の高御座岩に到着する。雄コウザ岩、雌コウザ岩と二個の大平岩があつて
雄岩は四十畳(六六平方メートル)雌岩は三十畳(五○平方メートル)敷ほどの平岩であるが、高御座岩という伝説が、なかなかに興味ぶかい。神代の昔、イザナギ、イザナミの二柱の尊(みこと)が高天ケ原から天降られたとき、この岩を御座とされて淡路嶋を生まれたので、この雌雄の岩は淡路島の方へ傾き、雄岩の上には自然に松の一木が生(お)いて千代の緑がかわらない。また松の下に自然の凹(くぼ)みがあつて清水をたたえ、この水で疱瘡を洗うと、たちどころに癒るという。京都の歌人、加茂季鷹(※)が、この地に遊んだとき、
    
のぼるさへ かしこかりけり 松蔭に   をためる 高御座山
    
おのづから 笠の松も 生にけり   名におふ岩の 高御座山      (※)正式には賀茂季鷹だが、姓は加茂とも書く。
また季鷹の門下である藤田玉児の歌に
    
代も からぬの 神跡に   人(※)をつけよ のぼるもろ人      (※)たぶん「人」は間違いで、下記の「心」が正しいと思われる。
    海原も 山路も同じ 秋の色   
らす御影の 高御座山
まつたく、この地は山中の幽境であつて里人は陽春三月の節句(せつく)には、ここで遊ぶのを常とした。
今では風化作用によつて岩角は、おいおいくずれて、昔のままの広さはないが、郊外の清遊地として、捨てがたい景勝地であるから、やがて神戸市名勝の中に入る資格はじゆうぶんに備えている。
[附]楊梅のこと。高座谷には当地名産の楊梅(やまもも)の木がたくさんあつて、白色と赤色の大つぶの実(み)のもので、この地の楊梅は、とくに禁裡(宮中)へ献上したので、新勅撰和歌集の中に
権中納言定家(※)の歌として                   
    
の 道行く人に ことつて   やまももおくれ 白川の人
とあり、雲上人まで、この地の楊梅は知られており、この地は二条家の領地であり、献上楊梅については、つぎの記録がある。・・・(以下略)」



   (注記)「西摂大観 郡部」の19頁には次のような句になっていて、若干、表記が異なる。
           (※)
上記の「玉桙の道行く人に・・・」は新勅撰和歌集になく、定家の句でもない。縁起文の原文の紹介のあとで、あらためて後述)
    のぼるさへ かしこかりけり 松蔭に  いはをためる 高御座山
    
づから 笠の松も 生にけり  名におふ岩の 高御座山
    
代も からぬの 神跡に  をつけよ のぼる
    海原も 山路も同じ 秋の色  
らすのかげの 高御座山
    玉
ほこの 道行く人に ことつて  楊梅おくれ 白川の人


   (参考)
藤原定家(注釈付き)千人万首  夏の2首目  柿本人麻呂(柿本人麿)千人万首  東大古文サークル すずのやさみだれ

        さみだれの心を
   玉鉾(たまぼこ)の道ゆき人(びと)のことづても絶えて程ふる五月雨の空 (新古今和歌集 232番) (藤原定家 1189年作
    (たまぼこの道行びとのことづてもたえてほどふる五月雨のそら)
    (玉桙のみちゆき人のことづてもたえて程ふる五月雨の空〉(藤原定家『拾遺愚草』四二八)
    (たまぼこの みち行人の ことづても 絶えてほどふる さみだれの空)
     【通釈】あの人が通りすがりの人に託す伝言も絶えて久しい、長く降り続ける五月雨の空よ。
         「恋しいあの人が旅人に託した伝言も来なくなってから久しい。長く降り続ける五月雨の空よ。」
     【語釈】◇玉鉾の 道の枕詞。「みち」にかかる枕詞。 ◇道ゆき人 道をゆく人。◇ことづても 伝言も。本人からの直接の連絡が無いので「ことづても」と言う。
          ◇程ふる 「ふる」は、(時間がたつという意味の)「経る」と(雨が)「降る」の掛詞。  (この歌は下の歌の本歌取りとなっている)
     【補記】文治五年(1189)春、慈円の「早率露胆百首」に和した百首歌『奉和(ほうわ)無動寺 むどうじ)法印(ほういん)早率(そうそつ)露胆(ろたん)百首』、二十八歳の作。本歌の恋情が余情となり、降り続く雨の季節の憂鬱な情趣に奧行を与えている。一見平明な表現のうちに、さりげない掛詞の技巧も効いている。定家が若年にして本歌取りの技法を自家薬籠中の物としていたことが知られる一首である。
     【他出】定家八代抄、百番自歌合、拾遺愚草、六華集、題林愚抄
     【本歌】 恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙(たまぼこ)の道ゆき人にことづてもなき (拾遺和歌集15番) (柿本人麻呂)
          「恋死なば恋も死ねとや玉鉾の道行人にことづてもなき」

          (【通釈】恋い死にするものなら、いっそしてしまえと言うのか、わが家の前を通りかかる人に、あの人からの伝言もありはしない。)
              
 「恋焦がれて死ぬというのならいっそ死んでしまおう。あの人からの旅人への伝言も来ることはない。」
     【本歌の原歌】恋ひ死なば恋ひも死ねとや
玉桙の道行く人の言も告げなく(万葉集11-2370)(人麻呂歌集歌)
             【通釈】苦しい恋で死んでしまったら、その恋自体も死んで無くなってしまうというが、そこまで
                  苦しい俺の気持ちを誰か道行く人が俺の代わりに彼女に伝えてくれるのだろうか?


したがって、昔には、今よりも平坦面の広さが大きかった可能性があり、それによって、文献に見えるそれぞれの広さ(60畳、40畳)が現状とは異なる理由のようである。実際、現地において、平坦面の周辺には、岩塊が転がっている様子もうかがえる。ただ、昔の実際の大きさはわからないというほかない。

筆者は、この二つの岩の実際の広さを確認するため、2013年10月6日・13日・20日(日曜)に、現地に行って、測定してみた。

すると、私の実測(メジャーによる簡易計測)で、次のような結果となった(誤差はあろうが、大幅に違うことはないだろう)。

  

@東〜雄石(雄高座)〜
四十畳(約73u)〜寿命水(長さ約170cm、横幅50〜70cm)がある
  A西〜雌石(雌高座)〜
三十畳(約55u)


この数値は、福原会下山人の示した広さの数値とほぼ一致している。やはり、現地調査は、大事である。机上の空論であっては困るのである。

(会下山人は基本の畳の広さで換算しているが結果として、少し小さい。筆者は、神戸市は関西地方であることから、関西間の広さで換算した。)

基本の畳で73uを表せば44畳分であり、55uは33畳分となる。いずれにせよ、畳の広さに種類があるのだから、概数とみるのが妥当だ。)


実際は「雄石が40畳、雌石が30畳」であり、昔の文献の数値「60畳、40畳」の「67%、75%」である。


もう少し厳密に言えば、東の雄石(雄高座)を、一枚岩の部分だけに限定すれば、8u(約4畳)減って、65u(約36畳)となる。この数値の場合なら、

より厳密に「平坦な一枚岩の広さ」だけで言えば、実際の大きさは、「雄石が36畳、雌石が30畳」である。

つまり、現地に行っても、二つの平坦な一枚岩の広さは、あまり大きく変わらないので、東西の岩の広さが逆転していても、感覚的には見分けにくいのである。

このことが、東西の岩の位置の同定を勘ちがいしていても、明確に間違いだということを認識することができない原因となっているように思われる。


<ほかの文献における夫婦岩の大きさの表現>(2014.3.30追加)

 神戸大学電子図書館の新聞記事文庫 都市(12−118)には次のような高座岩の記述がある。
 
「コウベ(カウベ)新風土記」(太田陸郎著述)(神戸又新日報、1934年(昭和9年)5月1日から8月3日)より

高座岩

高座山上に二つの巨巌があり
一を雄高座といひ広さ十五坪余り、他を雌高座といひ十坪余、各巌上には老松が生ひ雅趣深いものがある、昔、伊弉諾、伊弉冊の二尊此処で鵲鴒のなす何事かをみそなわした場所だとか巌のくぼみに水溜があり昔は疱瘡によくきくと称されたが今ではその必要はなくなつた、別図には歌人賀茂季鷹が藤田家に来て詠じたと云ふ「おのづから御かさの松も生にけり名におふ岩の高みくら山」と掲げられ図ならびに縁起の板木は今も藤田氏が所蔵されて居る

※太田陸郎(1896−1942)は民俗学者(兵庫県社会課勤務、近畿民俗学会幹事)

ここには、雄高座の広さ十五坪(49.59u)、雌高座十坪(33.06u)とあるが、実際の広さ(雄高座73u、雌高座55u)よりも小さい見積もり(それぞれ68%、60%)である(一坪=3.306u)。

実際、73uは22.08坪、55uは16.64坪であるから、「雄高座は二十二坪、雌高座は十六坪半」というのが正しい広さの表示となる。太田陸郎氏が現地で実測したかどうか、疑わしい。

文中に紹介されている図と縁起は先に掲げた「西摂大観 郡部」(明治44年)19ページの高御座山岩之図とその本文中にある縁起文を指す。

筆者は、2013.11.26に、この高御座山岩之図と縁起の刷り物を入手できたので、紹介しよう。高御座岩山之図は「西摂大観 郡部」掲載図と同一だが、縁起の文章は、「西摂大観 郡部」の活字文と一部が異なり、活字文では末尾の一部分も省かれているので、次の刷り版(筆者蔵)を紹介することにしたい。

解読文は、「西摂大観 郡部」(明治44年)19ページを参照しつつ、その一部を修正したものを下に紹介する。一部が不明であったが、兵庫県西脇市在住の郷土史家で古文書解読の専門家の脇坂俊夫先生(筆者の恩師)の協力を得たので、まず間違いないものと思う。なお、修正を要する個所にお気づきの場合は、筆者までメール(「ものがたり通信」トップページ参照)でお知らせいただければ幸いである。
(2014.4.6、脇坂先生の協力により、解読文を一部修正)

(2020年6月2日、追記)
脇坂俊夫(1931〜2019)先生について
 地域史研究者。1953〜91年、公立中学校教諭、中学校教頭、小中学校長を歴任。
 退職後、西脇市郷土資料館に勤め、2017年3月退任。2019年6月に亡くなられた。
 多可郡地域(西脇市・多可郡)における近世の地方文書に関する研究を推進した。

 主著:「近世村落の研究:北播地方における」(1970年)、「三草藩村明細帳」(1972年)
    「多可西脇の農民一揆」(1973年)、「大屋博多と高野豆腐:八千代町産業発達史」(八千代町、1974年)
    「多可西脇の一揆と騒動」(1978年)、梅渓昇・脇坂俊夫「西脇あれこれ:その歴史と民俗を語る」(西脇市、1980年)
    「写真集 明治大正昭和 西脇」(国書刊行会、1980年)、「村役人日記:天領と三草藩領」(1986年)
    「八千代の地名」(1989年)、「西脇の地名」(西脇市教育委員会、1990年)
    「炬燵:行火とその周辺」(1995年)、八千代町史編纂室編「八千代町史 本文編」(多可町、2007年)
     脇坂文庫として、史料集、著書を多数発行(1992年〜2016年)


「西摂大観 郡部」の文と異なる(または省かれている)個所は、赤字(筆者の解読文)で示した(「西摂大観 郡部」の元字は青色)。黒字は脇坂先生による解読


   摂津國矢部郡白川村   
      高御坐岩縁起

抑高御[座]岩は伊弉諾伊弉册二尊此豊[蘆]
中津國ひらけし時、此岩上より北星を望み給ひ、
鵲鴒を見そなはしませし神代の古蹟にて、雌雄の
高御くらの名は女神初(め)てめぐり給(ひ)しにより、雌石
すこし淡路島へかたむきしは、神代(の)巻に見[江]
則ちあは路[アハヂ]島は眼下に見[ゆ]、されば神功皇后御幸
おはしまし[ ]且福原遷都のをりには安徳天皇
及建禮門院御幸の景地にて、岩上の[御]水は
壽命水とて子なき夫婦此岩上に一七日参
籠して北星に祈れは、貴き子をまうくと昔より

いひ傳へたり、又薬水に用ひ疱瘡をあらへば
つヽが
[よ]きのみか跡も[つか]ずとぞ、且此山に楊梅
おのづから生じみのるをむかしより、とし[年]毎に
大内[に]奉れり、[モ]は百歳をたもつてふこヽろ[心]
なるべし上にのべし如く、病人小児にあたへて益
すくなからず此楊梅をよみ給ひし宮家の歌
とてむかしよりいひ傳ふる
哥(うた)
   玉ほこの 道行く人に ことつてヽ
      やまもヽ[楊梅]おくれ 白川の人


※「玉ほこの・・・」の句の出典は、レファレンス事例(たまほこの) で不明とされているが、この「高御坐岩縁起」が出典と思われる。

 ただし、この句を「新勅撰和歌集」で権中納言定家の詠んだものとしたのは仲彦三郎編「西摂大観 郡部」(明治44年)であって、縁起文では、作者を示していない。「西摂大観 郡部」の編纂者が資料を収集した際に、白川村の古老(おそらく藤田氏など)の間に、定家の歌であるという俗説が存在したのだろう。編纂者である仲彦三郎は、白川村の旧記について「古老が筆せるものなれば確かなる事とてはなけれども、地方の口碑伝説を聞くがままに記せり」と書いているのである(「西摂大観 郡部」19ページ)。「新勅撰和歌集」に、この句はなく、レファレンス事例にあるように、定家の句ではなく、後世の人が、定家によせて詠んだ句である可能性が高い。

『神戸開港百年記念号 神戸開港秘史(青年の意気)ほか三篇』(故福原会下山人の郷土史話シリーズNo.17、福原源九郎清書・発行、昭和42年)の91ページには、次のような、同シリーズNo.20(上述)とは異なる何とも不注意な数値が、雄高坐と雌高坐の広さとして示されている。

@雄高坐〜四十畳(35〜36u)
A雌高坐〜二十畳(18u)


雄高座の畳数での広さの表現は正しいが、換算数値が半分ぐらいになっている。また、雌高座の広さを小さくしすぎているし、やはり、換算も間違っている。

しかし、数値を2倍に換算すれば、雄高座は40畳(70〜72u)、雌高座を正しい30畳にすれば、30畳(54u)となり、筆者の実測値により近くなり、関西間での換算に近くなっているのは興味深い。

「「切りが坂」の西の手前から、尾根伝いに西へ行くと、白川の高坐巌という奇勝地に着く。谷の東西に平盤な巨巌がある。雄高坐、雌高坐という。一つは四十畳敷(三十五、六平方メートル)、一つは二十畳敷(十八平方メートル)もある岩盤である。神代に諾冊(イザナギイザナミノミコト)の二尊が天降つたとき(オノコロシマ)を生まれたところと伝う。また、福原の都の時、建礼門院に畑弥兵衛がお供して、ここへ遊幸になつたと口碑(いいつたえ)が残つている。僻陬(へきすう)の地とはいえ、現今では、神戸市内に、このような奇勝があるのも忘れられている。」(『神戸開港百年記念号 神戸開港秘史(青年の意気)ほか三篇』91ページ)


野の花のお気楽日記 の「ご年配の方々との自然散策を楽しんできました♪(2012.9.28)」という記事に次のようにある(定家の歌ではないのは既述のとおり)

ヤマモモは、別名として楊梅(ようばい)、山桜桃などと呼ばれ、古代から和歌などにも詠まれています。
  玉ほこの 道行く人に ことつてて 楊梅(ヤマモモ)おくれ 白川の人   藤原定家
この歌は、このゆうゆうの里からもそんなに遠くない、神戸近在(白川)から、かつてこの地方で産出される楊梅(ヤマモモ)を、禁裏(京都御所)に献上していたことから、歌われたものと思われます。一つ興味深い資料があるそうで、高倉天皇の妃・建礼門院徳子のお供が、平家都落ちの際に、白川に一月ほど滞在したと記されているそうです。実は定家は、1181年に「初学百首」を詠んで以降、高倉天皇の妹・式子内親王の所に頻繁に出入りするようになっていたそうだ・・・定家と白川がつながって、都の記録にない定家の和歌が、地元に残っているという。・・・ということは、定家ゆかりの人が白川に来て和歌を詠んだ?・・・そう思うと浪漫がありますね♪ヤマモモの「もも」は「百々」に通ずるため、百歳の長寿を祝うために、献上されたものと考えられています。


<現地の表示プレートは、西の雄高座、東の雌高座となっていて、間違っていた!>
 
ここで、不審な点に気が付いた(2013年10月6日)。現地の案内表示が、古来の文献の示す位置と異なっていたのである!

  
西の「雄高座」プレート(2013年10月6日、筆者撮影)      東の「雌高座」プレート(2013年10月6日、筆者撮影)
(正しくは、西にあるので
「雌高座」のはず)          (正しくは、東にあるので「雄高座」のはず)


インターネットサイトで調べてみると、以下のように、2006年(平成18年)以来、東西が間違ったまま放置されている。


2006年(平成18年)2月13日の写真を写すスライドでは、雄高座と表示する写真において、しあわせの村が見えており、すでに、本来は雌高座である岩に、雄高座の表示があったことがうかがえる。日だまりハイク 藍那〜白川、徳川道

そして、次の二つのサイトの写真によって、2006年9月当時、樹木に、雄と雌が逆になった表示看板が取り付けられていたことがわかる。

  
雄高座と現地で表示する岩(西側にある)              雌高座と現地で表示する岩(東側にある)
  
(本当は、雌高座)(30畳)                   (本当は、雄高座)(40畳)
       (※ここから東側にしあわせの村が見える)
(出典:高御座山の高座岩 2006年9月8日)


   
雄高座と現地で表示する岩(西側にある)         雌高座と現地で表示する岩(東側にある)
  
(本当は、雌高座)(30畳)              (本当は、雄高座)(40畳)
(※ここから東側にしあわせの村が見える)

(出典:白川〜しあわせの村 2007年1月14日)   



次の
雄高座の「雌高座」プレートは、2009年までは樹木にあり、2011年には別の木にあり、2012年1月には岩上、同年11月には岩の下側にあった。

  
樹上 神戸 白川峠 夫婦岩 2009.5.20       白川の高座岩(タカミクラ) 2011.2.20
   岩の上 白川の夫婦岩 夢の古民家 2012.1.28  
 
雄高座への入り口                雄高座を見上げる                雄高座の岩の上に雌高座のプレート


           
西側の「雌高座(30畳)」の北側に置かれた「雄高座」のプレート        東側の「雄高座(40畳)」の南側に置かれた
「雌高座」のプレート
(出典:
てくてくにっき 2012年11月11日)  


○現地の白川にある案内看板(須磨区役所)のイラストに描かれた雄高座と雌高座の位置関係は、田辺氏の本に従っており、正しい表示であり、西に雌高座、東に雄高座が描かれており、疑問の余地はない。現地のプレートはなぜ、この事実を無視して、間違った表示にしていたのだろうか?




(出典:アルクノのブログ 2012年8月8日)


○結局のところ、実際の現地看板プレートだけが、雄と雌が入れ替わって間違った位置に置かれていたのである。 


○正しくは、西側の岩に「雌高座」、東側の岩に「雄高座」と表示されるべきなのである。

     
     雌高座(30畳)(西側)                     雄高座(40畳)(東側)                  雄高座の寿命水 
(出典:山ウォッチング(六甲岩石大事典)
 山ウォッチング 民話2 )


      
        雌高座 (南東方向を見る)    
      雌高座 (東方向を見る)                  雄高座  (奥のくぼみが寿命水) 
(出典:白川の里 2009年12月6日)


神戸市発行の2500分の1地図「しあわせの村」「白川」に、その正確な場所をポイントすれば、次の通りであり、位置関係が明瞭になることだろう。
また、西に雌高座、東に雄高座と表現しても間違いではないが、厳密には、南西(南南西)に雌高座、北東(北北東)に雄高座であることが読み取れる。




(作図:柴田昭彦)(2013年10月作成、2014年3月修正)(上下とも)        (※雌高座と雄高座の距離は約60m)


(まとめ)


以上の資料をよく吟味すれば、次のように整理することが正しいとわかるだろう(岩の広さは概数でも表示した)。


  @東(北東)(北北東)〜雄高座 〜四十畳(73u)(約70u)〜寿命水(長さ約170cm、横幅50〜70cm)がある
  A西 (南西)(南南西)〜雌高座 〜三十畳(55u)(約50u)


※寿命水の大きさについても、文献の数値(縦30p、横10p)ということはなく、もっと大きい(長さ約170cm、横幅50〜70cm)。


○裏付けとなる補助資料

「六甲全山縦走マップ」(神戸市、平成23年)(下図)を見ると、西に雌高座、東に雄高座、と表示されていて、位置関係は正しく、須磨区役所の案内板と一致し、現地の案内プレートだけが「雄高座と雌高座の表示位置」が間違っていたことがわかる。

※ 上の精密な地図と比べるとわかるように、地図上の表示位置については、精確でなく、この地図に雌高座と表記されている地点にはいくつかの岩塊があるだけで、場所がずれている。この地図に雄高座と表示している場所に存在するのは、なんと雌高座である。雄高座の存在する位置は、「雄」の文字の記載場所の少し上である。場所のポイントは、ずれているが、東西の位置関係については正しく表示されていることがわかる。

※ 
雌高座と雄高座の端どうしの最短距離は、私が歩いて95歩ぐらいであった。今までの簡易計測の実績から、1歩が平均60〜70cmとして大きな誤差はない。従って、およそ60〜65mぐらい離れているとみてよいのではないだろうか。
(インターネットでは、その距離を20m白川地区探訪記と述べたり、200m
白川の里 高御蔵山と述べたりと、デタラメである。人間の距離感覚ほどあてにならないものはない。もっとも、妥当な距離に近い40〜50mとするサイト 日だまりハイク・藍那〜白川 徳川道 もある。)



<東西の間違いは、知られていなかったのだろうか?>

○現地で、雌高座と雄高座の看板表示が逆に置かれていたため、根岸真理「六甲山ショートハイキング77コース」(神戸新聞須郷出版センター、2011年第1刷、2012年第2刷)の28〜29ページでも、雄高座と雌高座の表示が反対になってしまっている(「雄」と「雌」を入れ替えれば正しくなる)。

○よほど注意していないと気が付かないものなのだと思われるが、それでも、インターネットで調べると、雄雌の東西の間違いに気づいていた人が何人かいて、次のサイトは、逆であることを指摘していたのであった。

   白川の里   てくてく日記

白川の夫婦岩 では、西(東とあるが誤解らしい)へ進みながら、雄高座(本当は西側の雌高座)を見つけたあと、さらに先(西)にあるはずの雌高座を捜し回ったが見つからず、引き返して、反対側(東)へ行ったら、雌高座(実は雄高座)が見つかったというような事態が起きていた。

 この迷子になる理由は明快である。
案内板に、西に雌高座、東に雄高座、とあるのに、現地の案内プレートが、西に雄高座、東に雌高座、と逆に表示されていたからなのである。こんな恥ずかしい現地表示プレートがあるだろうか?


白川地区探訪記 では、次のように書いている。

最初に着いたのが雌高座である。 資料によると40畳大の大きさ、後で見る雄高座が60畳大とあったが、実際はさかさまというのが実感だ。 同行者曰くやはり神代の昔も夫人の方が偉大だったのだと。 どちらの岩もテーブル状に平面である。 

雌高座と雄高座の大きさがさかさまになっていると気付いていながら、表示の間違いに気付かず、むしろ、女岩のほうが男岩より大きいのだ、と納得している。看板の設置者も、そのような思い込みがあった可能性がありそうである。

それにして、岩の広さの表現とは、それほどつかみにくいものなのだろうか。ひとつの手掛かりとして、60畳、40畳の広さというのが、平らな一枚岩に立った時に、どのぐらいという実感がわかないということに尽きると思う。それほど、広さの感覚というのは、距離感覚と同様、実測でもしない限り、正しい数値に近づくことが難しいものだとわかるのである。


○筆者は、以上のような現地の案内板の雌高座と雄高座の設置場所の間違いを放置すべきではないと考え、本来の位置に表示板を置きなおした(2013.10.13)。
 

   
  西側にある雌高座(約30畳の広さ)(2013.10.20筆者撮影)             東側にある雄高座(約40畳の広さ)の南端に設置(2013.10.20筆者撮影)


○インターネット検索すれば、雄高座と雌高座の表示板が反対に置かれていたときの写真が多数出てくる。それをうっかり信じる人も多いことだろう。

 もし、筆者の雌高座、雄高座の場所の同定が間違っているのなら、過去の文献による裏付けも含めて、指摘していただきたい。

 今後も、混乱は続くだろうが、悪貨が良貨を駆逐することのないことを願う。



<須磨観光協会のホームページの記載について>

 
須磨観光協会―古代の須磨
 では次のように紹介され、東の雄岩は六十畳、西の雌岩は四十畳 となっている。
 (※『須磨の歴史散歩』平成19年版の記述に基づき、「西の雄岩は六十畳、東の雌岩は四十畳」とあったが、筆者の情報提供により、2014年3月に訂正された。)

○白川の高座岩

白川峠の北方の小高い峰を高御座山(たかみくらやま)といい、その頂に東西に並ぶ二つの巨岩「高座の岩」があり、両方とも上が平らになっており、東の雄岩は六十畳、西の雌岩は四十畳の広さだといわれています。
伝説では、イザナギノミコトとイザナミノミコトが日本の国を作られた時に、景色の良いこの岩の上で休息されたといい、神功皇后や安徳天皇・建礼門院もここからの景色を楽しまれたと伝えられています。

<アクセス>市営地下鉄「名谷駅」下車 「名谷駅前」バス停から市バス79系統「東白川台」下車 北東へ徒歩約20分



<現地の表示プレートに東西の入れ替わりが生じた理由とは?>

田辺眞人著『須磨の歴史散歩』(須磨区役所、平成19年改訂版)の64頁に「西の雄岩」「東の雌岩」と誤っており、添えられたイラストは本来『摂陽奇観』の図なのに、『西摂大観』という注記が付けられていて、明らかにどちらも記述が間違っていることに気付いた(2014年3月28日)。

同じ本の旧版である、田辺眞人著『須磨の歴史散歩』(須磨区役所、平成10年
の18頁では「東の雄岩」「西の雌岩」とあり、イラストの注記は『摂陽奇観』とあって、どちらも正しい。

つまり、最新の改訂版(平成19年)のときに誤りが初めて生じているのである。

平成19年(2007年)当時は、現地の表示プレートが樹木に設置されていて、西に雄高座、東に雌高座と誤って表示されていた時期である。

『須磨の歴史散歩』(平成19年3月発行)よりも、東西の間違った現地表示プレートのほうが早く設置されている。

つまり、『須磨の歴史散歩』の平成19年の改訂の際に、誤った現地表示プレートの存在によって、おそらく現地調査をした際に、過去の文献の記載を無視して、安易に、東西を入れ替えてしまったのではないだろうか。

ハイキングコースの途中に立つ案内板は東西の表示が正しいのだから、現地表示プレートの設置者は、迂闊であったというほかない。

もしも、雄岩よりも雌岩のほうが大きいのが当然という思い込みで設置したのなら、困ったものである。

東西の表示が一度でも逆に表示されれば、文献にも拡散し、歯止めがかからなくなる。

ちょっと反対にしてみた、では済まないミスと言えよう。

結果として、実際
『須磨の歴史散歩』平成19年版根岸真理『六甲山ショートハイキング77コース』に誤って掲載されてしまっているのであるから。


現地に表示プレートを設置する人は大きな責任を負うことを自覚しなければならないと思う。



(2013年2月24日)
 戦前の六甲登山ロープウェイが出していたパンフレットの「六甲山案内図」に
「ルシヤンドラフ」の地名が見える。
 同じ地名は「六甲山頂明細地図」(昭和3年、昭和11年)、「六甲山頂記念碑附近明細地図」(昭和6年)にある。
 その記載されている場所は、星野池の南方である。現在の地図で、丁字ヶ辻の南南東200〜300m付近である。
 この不思議な地名の最初の出現と思われるのは、直木重一郎「六甲・摩耶・再度山路図」(神戸徒歩会、会員用、
 大正14年1月)である(「なだ 灘神戸市編入五十周年記念誌」昭和54年、89ページ)。ただし、直木氏は、なぜ
 か、
「ルミアン トラブ」と記載している。一方、竹中靖一「六甲」(昭和8年)の古市達郎作成地図には「ルシアン
 
ドラフ」と記載され、その表示場所は同じである。若林泰は「なだ 灘神戸市編入五十周年記念誌」90ページに
 おいて
「ルミアンドライブ」と修正して紹介している(「灘・神戸地方史の研究」235ページ)。
西村貫一「日本の
 ゴルフ史」(昭和5年)の310ページに、ロシヤの領事が家からアイスロードまで道をつくり、グルームがその道を
 「ロシヤン ドライブ」と呼んでいたとあり、同書313ページの六甲山上図に Russian Drive の記載がある。
 その
「ロシヤ道」の記載地点は、丁字ヶ辻の南西300m辺りで、三国池バス停から丁字ヶ辻への車道に相当する。
 「神戸ゴルフ倶楽部史」(昭和41年)132ページに
大正初期「ロシヤン・ドラィブ」(六甲山上、最初の車道)の
 紹介がある。以上の材料から、場所の食い違いはあるが、「ルシヤンドラフ」は
「ロシヤン・ドライブ」の誤記だろう。

(2013年2月11日)
 「六甲・摩耶」2013年版が発売された。
 下記の「六甲山の話題・地名」が反映された内容になっているので、確認されたい。
 主要な修正箇所は「石楠花山」「一里塚」「阿弥陀塚」「柿木塚の削除」「三枚岩」「譲葉山524m」などである。
 森林植物園のバス停、新穂高付近のルート、千石摺→千石ズリ、老ヶ石・太鼓滝の位置などの修正もある。
 あと、さりげなく、赤線ルートが修正されているので、より改善されたのではないかと思う。
 まだ課題も残るが・・・。ぼちぼちリクエストして良くなるようにしていきたい。



<ラジオ塔について>

(2013年2月8日)
 「歴史と神戸」(296号、平成25年2月1日発行)に筆者の「ラジオ塔遺構について」の記事が掲載された。

 記事の掲載はよかったのだが、残念なことに、印刷所の手違いで、著者へ校正刷が届かず、校正ができなかった
ために、次のミスが生じているので、紹介しておきたい。今まで校正刷が来ないことはなかったのだが、残念である。

○41ページと42ページのラジオ塔の写真が入れ替わっている。完全な編集ミスである。
 ・41ページ写真のラジオ塔・・・明石市役所の北にあるもの
 ・42ページ写真のラジオ塔・・・諏訪山公園のもの(2011年9月24日撮影)

○43ページの地図の注記が「ラジオ塔(明石市役所の北)」になっているが、41ページの写真用の注記である。
  この地図の正しい注記は次のとおりである。利用者は、修正していただければ幸いである。


  ※「歴史と神戸」(297号、平成25年4月1日発行)の49ページに訂正記事が掲載されている。

  43ページ地図の注記
        錦江ホテル付近の地図(昭和12年当時)

 
      (『兵庫県明石市土地宝典』(昭和12年)所収の「明石市全略図」(1:7200)より)
  44ページの一覧表
        「23 上田市上田城」・・・現存ラジオ塔は信越放送が昭和30年に設置したもの(戦前のものは不明)

 2011.9.24 諏訪山公園のラジオ塔遺構を、私が初めて発見

  旗振り場のビデオ撮影の副産物として、偶然に「ラジオ塔」を発見
 
2011年9月24日(土)、2012年1月21日の講演(六甲山を活用する会の主催)のための資料として、旗振り場と伝えられてきた「諏訪山・中尾東山・金鳥山」の3ヶ所を踏査し、ビデオ撮影を行なった。
 
9月24日の午前、諏訪山公園(金星観測記念碑のある場所)を訪れた際、西側の隅に、ラジオ塔のような建造物があることに気づいた。ビデオ撮影と写真撮影を実施した。24日夜、諏訪山公園にラジオ塔があることが知られていないことをインターネットで確認する。10月2日、写真のプリントが出来た。
 10月4日(火)、ラジオ塔研究者の吉井正彦さん(旗振り通信の再現実験の主宰者)に携帯メールと写真で、諏訪山公園にラジオ塔らしい建造物があることを問い合わせの形で知らせる。
 10月6日(木)、吉井さんから返信メール届く。スピーカーを納めるスペースがあり、ラジオ塔の可能性ありとのこと。
 10月16日(日)、吉井さんからメール。現地調査の結果、まず間違いないとのこと。 
 10月26日(水)、吉井さんから、連絡した新聞3社から取材を受けたとのメール。
 
10月27日(木)読売新聞神戸版、サンケイ新聞神戸版、神戸新聞夕刊、各HPに
           
「神戸市で最初のラジオ塔遺構発見」の記事が掲載された。
 〔新聞に、私の名前は出ず、情報提供者は「研究者仲間」「知人」と紹介されている。〕

 
※ラジオ塔:公衆用聴取施設。昭和5〜17年に全国約460ヶ所に設置された。
   (その他、
鉄道主要駅262ヶ所に構内公衆用ラジオ聴取施設が設置された。これはラジオ塔には数えないようだ。)
   ラジオ放送の普及を目的に設置。人々は、ラジオ体操やスポーツ中継を楽しんだ。


(2012年1月13日作成)  
(2021年1月14日)・・・現在の総計は、45カ所となった(台湾の3基を含む)。
               (「旗振り山と航空灯台」の巻末の遺構一覧と番号を一致させた)。


現存ラジオ塔遺構一覧 (設置年・・・S:昭和) (赤文字:設置当時の呼称)

 1.群馬県前橋市るなぱあく(前橋公園)(S8)・・・2007年、国の登録有形文化財に指定。
 2.神奈川県横浜市西区
野毛山(のげやま)公園(S7)
 3.新潟県新潟市中央区
白山(はくさん)公園(S7)
 4.石川県金沢市
兼六園
兼六公園)(S8)
 5.石川県小松市
(能美
{のみ}郡小松町芦城(ろじょう)公園(S15)
 6.島根県松江市
城山公園(S8)(松江市灘町のNHK松江放送局前に移設)
 7.徳島県徳島市徳島中央公園
(徳島公園
(S8)・・・2009年、市民遺産に認定。(1983年改修。)
 8.京都府京都市東山区
円山公園(S7)
 9.京都府京都市北区
船岡山公園(S10)
10.京都府京都市上京区
橘児童公園(S14)
11.京都府京都市左京区八瀬駅付近の林の中(民有地)
八瀬公園(S14)・・・ケーブル八瀬駅付近
12.京都府京都市左京区
萩公園
(S16)
13.京都府京都市北区
小松原公園
(S15)
14.京都府京都市北区
紫野柳(むらさきの やなぎ)公園(年代不明)
15.京都府京都市中京区
御射山(みさやま)公園(年代不明)
16.大阪府大阪市住之江区
住吉公園(S8)・・・現存のものは1993年(平成5年)の再建。
17.大阪府大阪市
中央区大阪城公園
(大手前公園)(S13)
18.大阪府大阪市北区
中之島公園(年代不明)
19.大阪府堺市
大浜公園(S8)・・・2011年、堺市により、複製が設置された。
20.兵庫県明石市
中崎遊園地(明石市役所北側)(S12)・・・2013年、国の登録有形文化財に指定。
21.兵庫県神戸市中央区
諏訪山公園・・・(S15設置の再度山公園ラジオ塔か?):2011年9月24日、筆者(柴田昭彦)が現地で遺構発見

22.大阪府豊中市大曾公園
豊中市小公園)(S14)・・・(塔の下部のみ残存)
23.長野県上田市上田城(
上田市公園広場)(S30)(信越放送)・・・戦後の設置。
24. 岡山県岡山市北区
最上稲荷奥之院 龍王山一乗寺(高松町稲荷神社境内)(S14)

25.東京都品川区聖蹟公園(品川聖蹟公園)(S13)
26.埼玉県さいたま市浦和区
調(つきのみや)公園(浦和市調官公園・・・昭和16、17年ラジオ年鑑での表記)
(S15)
27.静岡県静岡市葵区清水山公園(清水公園)(S8)

28.岡山県岡山市北区(上伊福津倉町)上伊福西公園(S16前後ごろ)(昭和18年ラジオ年鑑に記載あり)
29.
岡山県岡山市北区桑田公園(現地ラジオ塔右脇の竣工記念碑には「昭和十四年三月建之」とある)(S14)
   
(岡山市下石井の大藤公園から移転してきたものと判明『ラヂオ塔大百科2017』
参照。)
30.徳島県徳島市別宮(べっく)八幡神社(戦後設置)
31.台湾・台北市中正区、二二八和平公園(博物館の裏側)(台湾広播電台放送亭)(台湾放送協会が設置)(文化遺産)(S9)
32.台湾・台中市北区、台中公園(放送電台拡音台)(台湾放送協会が設置)(文化遺産)

33.台湾・屏東県、屏東公園(年代不明)

34.愛知県名古屋市北区
志賀公園(S17)
35.愛知県名古屋市中村区中村公園(年代不明)
36.愛知県名古屋市中川区松葉公園(年代不明)
37.愛知県名古屋市道徳公園(S15)(現在、土台のみが残る)
38.大阪府箕面市箕面公園瀧安寺(S14)
39.大阪府寝屋川市
成田山大阪別院明王院(香里成田山公園)(現地ラジオ塔に「昭和拾五年拾壹月拾日」とある
(S15)
   
(2019年10月7日に現地調査実施。「奉納 紀元二千六百年記念」とあることから、頭頂部の鳥は「金鵄」と思われる。)

40.大阪府東大阪市
大和公園
   
(2019年10月6日に現地調査実施)(背面の区画整理についての銘板に竣工年は「皇紀二千六百一年」とある)(S16)
41.香川県三豊市仁尾町塩釜神社(三豊郡仁尾町遊園地)(S10)
42.長崎県長崎市
長崎公園(諏訪の杜)(諏訪公園)
(S11)
43.長崎県西海市崎戸町崎戸本郷(旧)崎戸小学校(崎戸島の南東端付近)
44.埼玉県川越市初雁公園野球場(川越市グラウンド)(S15)
45.香川県さぬき市長尾町長尾寺境内(S16前後ごろ)(昭和18年ラジオ年鑑に記載あり)

(参考資料)
(1)吉井正彦『忘れられた「ラヂオ塔」を探し歩く』・・・戸倉信吉『放送とは何か?3SCREENS era〜スリー
   スクリーンズ時代〜』(2009年度版、サテマガ・ビー・アイ株式会社)45頁。
(2)吉井正彦『「ラヂオ塔」を探し歩く旅』・・・「女性とくらし Matureマチュア vol.02 2009年夏号(7月1日)」
   (株式会社女性と暮らし社編集・発行)16頁。
(3)三好吉彦:京都新聞記事(2009.4.9)(7.8)(10.19)(2010.1.8)
(4)日本放送協会編『昭和九〜十三年 ラヂオ年鑑』(日本放送出版協会、昭和9年 6月〜昭和13年 6月)
   日本放送協会編『昭和十五・十六年 ラヂオ年鑑』(日本放送出版協会、昭和15年 1月、昭和15年12月)
   日本放送協会編『昭和十七・十八年 ラジオ年鑑』(日本放送出版協会、昭和16年12月、昭和18年 1月)
   (※)昭和13年版の次には、昭和15年版が発行され、昭和14年版は存在しない。

(5)インターネット情報。
(6)吉井正彦『「ラヂオ塔」を知りませんか』
             (歴史と神戸、271号、平成20年12月)
(7)吉井正彦『「ラヂオ塔」が神戸・諏訪山と豊中にも残っていた』
             (歴史と神戸、291号、平成24年4月)
(8)中塚久美子「ますます勝手に関西遺産 ラジオ塔」
             (平成24年5月16日、朝日新聞夕刊、3)
(9)日本放送協会編集『放送五十年史』(昭和52年)82頁。
(10) Wikipedia「ラジオ塔」(2019年7月16日更新)
(11) 近所にあるかも?戦前の街頭ラジオの痕跡「ラジオ塔」(2019年10月2日)
(12)一幡公平『ラヂオ塔大百科2017』(タカノメ特殊部隊・発行、2017年8月)
   (巻末資料に「ラジオ年鑑のラジオ塔一覧」465カ所がリストアップされ、2017年6月までに
    一幡さんによって現地確認できたラジオ塔の有無が示されている。)
(13)柴田昭彦「旗振り山と航空灯台(ナカニシヤ出版、2021年1月18日発売)・・・ラジオ塔のコンパクトな紹介記事を掲載



(2013年1月7日作成(1月19日修正)
◎六甲山の話題(地形図記載の地名について)

以下の記載事項について、★記号を冠したものは国土地理院HPの地形図で訂正済み。
 (○事項 : 2013年8月、近畿地方測量部で、自治体への確認が済み、確認された変更措置を実施)

25000分1地形図「神戸首部」(平成15年更新)について

○柿木塚・・・地名であり、土盛りの塚は、ずっと昔から存在しないという(地元の古老から聞き取りを行い、現地調査
も行なった森林植物園の福本氏の証言による)。したがって、記念碑マークであるが、実際には石碑もなにもない。
旧山田村と神戸の村々との間で山論(慶長9年・明治9年)が起きた中一里山と奥一里山の境界を示す地名の一つ。
(昔の土盛り塚の有無について具体的な情報が全く残っておらず不明。植物園開設時に工事で消滅の可能性は?)

○阿弥陀塚・・・黒丸の点の打ってある地点より3ミリ(70mほど)北に位置する。山火事防止看板の立つ峠地点。
ドライブウェイのNo.61のプレートとその右のガードレールとの間の山道を北西に上り詰めた峠に塚が残っている。
これも、中一里山と奥一里山の境界に設けられた塚の一つ。塚の上に明治44年の阿弥陀塚と刻んだ石碑が立つ。
「峠の南西方向の「↑六甲山牧場」道路標識のすぐ手前の地点」から山道を北東へたどり、東へ向うと峠に着く。


△三枚岩・・・609mピークの西方4ミリ(100m)付近を中心とする三枚の岩壁をいう。1万分1地形図「摩耶山」には
荒地記号で、東西に細長く、3つの部分が明確に見える。石上隆章「六甲の谷と尾根」の西裏六甲の写真・記事参照。
石楠花山の南尾根がドライブウェイを横切るあたりで、送電線の直下から眺めると、その全貌を見ることができる。
地形図には、南西尾根の岩場記号に対して三枚岩と記入してあるが、場所の同定が間違っている。1万分1地形図
に記入された三枚岩は、2.5万分1地形図の示す場所と異なる岩場に対して記入され、誤記内容にも一貫性がない。

○又ヶ谷・・・正しくは、「ヌケ谷」である。現地の道標にはすべて「ヌケ谷」と表示されている。昭和42年改測の地形図
「神戸首部」(昭和44年)に「又ヶ谷」と誤記されたのが間違いの始まり。「ヌ」を「又」と誤読したことで生じたミスである。
「徳川道 西国往還付替道」(神戸市、昭和53年)の26ページで、大正2年の地図に「ヌケ谷」とあることがわかる。
その報告書の付図はもちろんのこと、神戸市作成の2500分1地図「黒岩尾根」(平成10年)も「ヌケ谷」である。


★分水領越・・・正しくは「分水嶺越」。単なる誤植である。信用する人は皆無だろう。

○天狗塚・・・大きな岩のことで、岩の上には四等三角点の石柱があり、長峰山の山頂でもある。天狗塚と表示する
木の道標はあるが、石碑などはない。地形図には記念碑マークで表示するが、やはり、岩記号にするべきだろう。


○碇山・・・表示された地点(292m)は、市章マークの直上にあり、市章山の山頂に相当する。「碇山」は「錨山」の
古い時代の表記であり、現在では廃止された表記。錨山の山頂は、錨マークの直上であり、市章山の南方に位置する。
「六甲・まや101の大疑問」(2007年)の7ページに、
「碇山」と名付けられ、その後「錨山」と表記、と紹介されている。

●一里塚・・・今の地形図にないが、昭和22年修正の「神戸首部」(昭和24年発行)には載っていた。その場所は、
石楠花山の三角点の南西18ミリ(450m)の地点にある。鉄塔から南に向うとすぐ分岐点がある。左の黄蓮谷道の
ほうへ南下せずに、右の旧道(送電線鉄塔巡視路)に入り、西へ30m進むと、道の右手(北側)に、横幅3〜4mの塚
があり、これが一里塚である。小部峠〜柿木塚〜一里塚〜阿弥陀塚〜三国岩と結ぶラインが、中一里山と奥一里山
の境界であった(「神戸の史跡」の「三国岩」と「口・中・奥一里山」の記事、神戸市の「徳川道」報告書40ページ参照。
柿木塚地点の南西9ミリ(230m)の丘の上に、「争論の松」跡があり、説明板(森林展示館開館時に設置)もあるので
参照されたい。説明の図の「中一里山境界図」(大蔵省地図)は
追記参照。森林植物園の沢の池の西側に入り口表示
がある。この松は、森林植物園の福本氏によると3〜4年前(2008〜9年頃?)に枯れたという。切り株のみが残る。
なお、森林展示館の開館は昭和59年(1984年)5月26日で、説明板は、2013年1月で、28年余の経過である。
境界図には、中一里山と奥一里山の境界は、法眼堀切〜杉木塚〜争論松〜柿木塚〜小米塚〜黒岩塚〜三国岩、
中一里山と口一里山の境界は、法眼堀切〜高座松〜横尾塚〜立岩〜摩耶山〜三国岩となっている。小米塚とは、
ドライブウェイのヌケ谷への降下点からドライブウェイにそって少し南に歩くと右手にある土盛り塚を指す可能性が
あるが確定は難しい。鍋蓋山の東尾根付近に横尾塚と推定。立岩は「六甲」附図に見え、「三笠岩」と同一と思われる。

(2013年2月24日、追記)大蔵省地図については、「補修 神戸区有財産沿革史」(1941年)に収録されており、
同書の「神戸区有山林全図」に「争論松」「柿木塚」「小米塚」で境界を示す。同書の「中一里山境界図」(大蔵省所蔵
原本に拠る)には「争論松」「柿木塚」はなく、かわりに「奥横尾塚」とある。したがって、
争論松の説明板の紹介して
いる大蔵省地図は、
同書の「中一里山境界図」と「神戸区有山林全図」から編集しなおした地図であることが判明。
同書の大蔵省地図を引用した「国際港都の生い立ち(その二)」(1964年)の記事・地図もあるが誤記に注意が必要。
なお、
同書の大蔵省地図には、黒岩塚と阿弥陀塚の両方が記載されており、位置関係にも不審な点が見られる。
争論松の説明板の地図は、大蔵省地図(原本)の不審な点を、矛盾の無いように、編集しなおしたものといえるだろう。



25000分1地形図「有馬」(平成11年部分測量)について

★落葉山・・・526m地点に記載されているが、正しくは、歴史上から言って、妙見寺および533m地点付近である。
戸田静治編
「有馬温泉誌」(大正五年、有馬町役場発行)の「名所旧蹟」の妙見宮の説明に次のように見える。
妙見宮 駅より約六丁落葉山の頂上古城址にあり開運妙見と称す眺望佳絶なり」 その「有馬温泉誌」の裏面には
多数の写真に囲まれた「有馬温泉遊覧地図」があり、神社マークの山頂に、
「落葉山 妙見宮」と記載されている。

○皷ヶ滝・・・「」は「鼓」の異体字。戦前は、この「皷」が正式な表記であった。今日では一般的に「鼓ヶ滝」である。

★仙人窟・・・場所が間違っている。正しくは、「窟」という文字の「ウ」の中心から右へ10ミリ(250m)の位置にある。
その地点の標高は760mであり、針葉樹林記号のわずかに右のあたりである。現地には、大きな岩が累々と重なる。
かつて、修験道の行者が修行を行なった岩窟があったものと思われる。今では、その岩窟は崩れてしまっている。

○阿弥陀塚・・・上述のとおり。

○猪ノ鼻滝・・・地形図では鍋谷ノ滝(昭和8年発行の「六甲」で「猪ノ鼻雌滝」とも呼ぶ)の南東8ミリ(200m)に記載
されているが、これは「六甲」において「猪ノ鼻雄滝(猪鼻滝)」と呼ばれていた滝である。昭和31年、この滝の上流5ミリ
(120m)に位置する「チョロチョロ滝」の名称が抹消され(中村勲「六甲とその周辺」昭和35年、75ページ)、かわりに
「猪鼻滝」と命名された(山下道雄「新しい六甲山」昭和37年、104〜6ページ)(大西雄一「六甲山ハイキング」昭和
38年、60〜1ページ)。神戸市の2500分1地図「古寺山」(平成13年現地調査)では、山下氏と大西氏の見解に
従って、猪ノ鼻小橋のすぐ下流に「猪ノ鼻滝」と記入されている。従って、地形図の猪ノ鼻滝と、神戸市の猪ノ鼻滝の
位置が食い違うという状態になっている。地形図の猪ノ鼻滝は上流5ミリ(120m)に位置修正することが必要である。



25000分1地形図「宝塚」(平成15年更新)について
(手元に「白石滝・蟇滝」の「誤記版」と「修正版」の両方がある。修正版は増刷だろうが、「発行1刷」のままである。)

★蟇滝・・・その地点にある滝の正しい名前は「七曲滝」(ななまがりだき)である。古い地形図から誤記されてきた。
      一方、蟇滝(がまだき)の正しい位置は、その北西4ミリ(100m)で、川の合流点の北側にある。

★白石滝・・・正しい位置は、その表示地点の西方4ミリ(100m)で、堰堤の西側にある。

○西おたふく山・・・878mに表示されているが、正しくは、南東8ミリ(200m)方向の鉄塔(右)のすぐ北の山頂であり、
標高は、866.6mである。神戸市の2500分1地図には「西おたふく山」とあり、この場所で昔から一貫している。
それにもかかわらず、今まで、地形図のほうには、一度も正しい位置に表示されたことがないという不運な山である。
878m説は、過去の六甲登山地図で採用されたことは一度も無く、直木重一郎氏(S9)、木藤精一郎氏(S12)、
中村勲氏(S35)、六甲山地区図(S36)、中村勲氏(S36初版、S42増補新版)など、すべて、
標高866.6m地点
(鉄塔のそば)
で一貫している。神戸市作成2500分1地図「六甲最高峰」(平成10年)が、「西おたふく山」の表示を
866.6m地点につけていることで裏付けできる。
長年にわたって地形図に間違った位置(谷を隔てた北北東方向の865mピーク)に記入されてきた「西お多福山」の
位置を、各方面からのリクエストに従って修正する際に、作業者は、神戸市の地図を確認することを怠り、「山の位置
は山塊の最高地点」という思い込みによって、866.6m地点でなく、北方の878m地点に記載してしまったのであろう。

★カベノ城・・・「ガベノ城」が正しい。「ガベ」は「画餅」で、一見、山城跡に見えるが、遺跡はなく、絵に描いた餅である。
この語源説は、直木重一郎(本名:しげいちろう、通称:じゅういちろう)氏と竹中靖一氏が唱えられたものだという。
(根岸真理「六甲山ショートハイキング77コース」2012年4月5日発行の第2刷、98ページに紹介されている。)

 (出典:赤松滋「山岳大阪」172号、3頁、2007年。インターネットで閲覧可能。)(下記の記事も参照ください。)

○譲葉山・・・地形図に514mピークに表示されているが、宝塚市の2500分1都市計画図に間違って記入されたこと
が原因で、古来からの表示地点とずれてしまっている。平成24年12月、宝塚市都市計画課では見直しが行なわれ、
平成25年度から、譲葉山を524mピーク(昔の登山地図で、521mと記入され、ずっと「譲葉山」と同定されていた、
石祠の存在しているピーク)に移すことが正式に決定された。
その地点は514mピークの北西8ミリ(200m)である。
(宝塚市教育委員長の田辺眞人先生には、大変ご尽力をいただきました。深く感謝申し上げます。柴田 拝)
(今後は、記載位置が、昔の登山地図の位置に戻されます。登山者の皆さん、ご安心ください。)


○皷ヶ滝・・・上記に同じ。


25000分1地形図「須磨」(平成15年更新)について
★鉢伏山・・・回転展望閣の場所に「航空燈台」が消されずに残っているのはおかしい。なぜ削除しなかったのか?

25000分1地形図「西宮」(平成15年更新)について
★金鳥山・・・鉄塔記号が残っているが、撤去されている。

(2012年1月2日記載)(2013年1月17日追加・修正) 
◎いくつかの謎とされてきた六甲付近の山名・地名について、その由来を紹介しよう。
 ・千石ズリ
・・・千石スリ、千石ずり、千石摺、千石摺り、千石擂、千石擂り、(誤植では、千石擢)など、多くの表記が
      存在し、どれが正しいのか惑わせられてきた地名。譲葉山の南側の砂防工事の施された急斜面を指す。
      「近畿の山と谷」(昭和7年)の78頁(
千石ずり)や「六甲」(昭和8年)の371頁(千石摺、千石ズリ)に説明
      されているように
「日に千石の土砂がずり下がった」
のが由来であり、「ずり」下がるに対する漢字は「無い」
      (参考)
「宝塚市史第一巻」(昭和50年)105頁の写真30に「逆瀬川の禿赫地 千石ズリ」との注記あり。
      
「たからづかの伝説と民話」(その1、1973年、3頁)と(その2、1974年、28頁)に「千石ズリ」の記載
      「たからづかの伝説と民話」(その2)の29頁に「山が崩れることを『ズリ、ザリ、ガレ』等とよぶ」とある。


 ・ガベノ城・・・画餅(絵に描いた餅)の城の意味。
      現地は一見、城砦に見えるが、実際には城跡遺構が存在しないために言う。
  (出典:赤松滋「山岳大阪」172号、3頁、2007年。インターネットで閲覧可能。)
  
(2012年8月15日追記)赤松氏によると、「ガベ」が「画餅」であるということは、六甲の地名について綿密な
    調査を実行された、生前の直木重一郎氏、昭和54年に大学退官の際の
竹中靖一氏に、それぞれ自宅で
    伺っているとのことである(赤松氏から筆者への2011年10月の返信による)。この両氏による証言のことは
    上の「山岳大阪」の記事の中では述べられていない。本来なら、信憑性を高めるため、述べるべきであった。

 ・
学校林道・・・『近畿の登山』(大正13年、111頁)に「学校林路(がくこうばやしみち)
      布引瀧の下方丸山(一四七米)の側[がは]より右に入り、摩谷本堂[みち](青谷)
      又は天狗路に入りて摩耶山に登る」とある。南麓には、複数の学校が並ぶ。
      
「学校林(がっこうばやし)」は、学校の背後の林だろう。「路」は「みち」。
   (参考)『近畿の登山』は国立国会図書館HPの「近代デジタルライブラリー」で閲覧可。

 ・
油コブシ・・・油コボシの訛った山名。昔、菜種油をこぼしたからという(インターネット)。他の異説もあるようだ。
      筆者は、油をこぼしたような地形から名付けたと考える。いずれにせよ、
「油こぼし」からの転訛であろう。
      油コブシの語源については、公刊文献の中ではふれたものがない。異説もあり裏づけできないからだろう。

 ・
キスラシ山・・・地元では由来不明とされている。誰も語源は知らないということである。
      京都北山の「惣谷山」の別名「キズラシ」は、「
木滑らし」の意味という。同じ意味だろう。

 ・
なかみ山・・・荒地山から西へ、中身が飛び出したような尾根上のピークである。山頂付近に「なかみ岩」がある。
      中身山(仙台市太白区)は萱ヶ崎山から南西へ飛び出した尾根上のピーク。
  
(参考)「六甲」(昭和8年)398頁に、郡村境を示すラインとして「花原〜大谷〜中見山〜桜ヶ株〜高座谷川」
   とある。東灘区・芦屋市境の「東お多福山〜大谷乗越〜高座谷」と一致し、中見山は「なかみ山」を指している。
   ちなみに、全国で見ると、中見山島根県浜田市金城町久佐にあり、標高637m、旧那賀郡に属する。その
   山名の由来は不明とされる。その中見山もまた、主要な山塊から北へ飛び出したようなピークである。
   おそらく、「中見」では意味不明であり、「中身・中味」の意味の当て字と考えるのが妥当ではないかと思われる。
   ただし、
中見ごろ(真ん中に見えている)の山という意味もありえるかもしれない。考慮の余地を残しておこう。

 ・逢(ほう)ヶ山・・・平安時代、烽火を上げて情報を連絡した山(有野町誌、156頁)。
         烽火(のろし)山が「逢ヶ山」に当て字されたものという。

 ・
堂徳山・・・山中にお堂、お寺のある山(道徳山、堂床山と同じ意味)(『三省堂日本山名事典』を参照のこと)。

 ・
金鳥山・・・明治期に「金長山」と命名され、昭和期に金鳥山に変わった(本山村誌)。
       「金長」は謎とされているが、筆者は「
金帳(黄金のとばり)」と考える。
       金鳥山の稜線は美しく、山々は、黄緑色、黄金色のカーテンを下ろす。
       「金鳥」とは「夏季の雉の雌」で、その黄褐色の体はあたかも黄金色風である。
       「金長」は意味不明なので、同音で同じ形容を持つ「金鳥」に変えたのだろう。
    (「金帳」説は、
筆者の完全にオリジナルの新説であるが、説得力はあると思う。)
   
(追加)「本山村誌」にあるように「金長山」は保久良神社境内地付近にあった中世廃寺の山号である。
     したがって、その山号には明確な謂れがあるはずであるが、現在では忘れられ、伝えられていない。