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    旗振り通信ものがたり     


2004年2月15日〜4月17日 柴田昭彦作成 
2020年9月23日 内容の更新
2021年2月22日 お知らせ



(2021年2月22日、お知らせ)
2021年1月18日、筆者の『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版)発売。
価格は3300円(税込)です。

神戸新聞(2021年2月13日、土曜日)の17面(文化欄)に、この本の紹介記事(井原尚基記者)が掲載されました(「旗振り山」50カ所を紹介)(コースタイムやルートなど解説)。




月刊エアライン3月号(2021年1月30日発売)の167頁の「BOOK&MEDIA」欄に、この本が紹介されています(最大時速750kmの伝達スピード)(失われた「航空灯台」を訪ねて)。

<主な内容>
第1章・・・「旗振り山」(2006年)発行以後に発見された旗振り場の紹介とコースガイド。
第2章・・・「戦前の航空灯台」の跡地の紹介とコースガイド。
第3章・・・「戦前のラジオ塔」の紹介とコースガイド。
参考文献
参考資料・・・最新の旗振り通信ルート図。旗振り場一覧表。航空灯台一覧表。現存ラジオ塔一覧。
※ 写真・図版などの資料満載です。


  『旗振り山』(ナカニシヤ出版)を出版したのは、2006年(平成18年)5月でした。
  2019年には在庫がなくなり、絶版となりました。各地の図書館等でご利用ください。
  出版後、相当の年数が経過し、その間に、新たに発見した旗振り場の数も多数になりました。
  そこで、『旗振り山』に収録した「旗振り場一覧表1〜10」の補遺を作成しました。

    「旗振り場一覧表1〜10(省略)」・・・154カ所 (『旗振り山』300〜309頁に収録)
   
    「旗振り場一覧表(追加分)(2019年修正)(掲載)・・・(新規)49カ所+(再掲)2カ所

  通信ルートについても、大幅に修正が必要になっています→ 通信ルート図(省略)

  (※) 一覧表および通信ルート図の最新版は、『旗振り山と航空灯台』に掲載。


1.旗振り通信 Q&A


(Q1)旗振り通信ってなあに?

(A1)江戸時代中期から大正時代中期まで、大阪堂島の米市場(取引所)では米相場がたち、現在の株式や先物取引と同じように、米の値段の上下によって差金決済を行い、莫大な利益を上げようとする人々で賑わっていた。
  各地の米市場の米取引はその堂島の米相場によって大きく左右されたから、その米相場をできるだけ早く知る必要が生じた。江戸時代には米飛脚によって伝えられたが、いかんせん、時間がかかる。
 そこで、一刻も早く米相場を知って、利益を上げようという人々によって考案された方法が旗振り通信であった。旗振り人夫が見通しの良い山の上で望遠鏡を用いて、旗振り信号を確認し、山から山へリレーし、堂島の米相場を遠方まで伝えた。
飛脚が長い時間かけて走る距離を、旗振り信号は短時間で次々と伝えていき、西は九州北部、東は江戸まで伝わっていったのです。


(Q2)旗振り通信はいつ始まったの?

(A2)元禄時代(1688〜1704)、江戸で紀伊国屋文左衛門が色旗で相場を伝えたという話が残っていますが、事実かどうかわかっていません(近藤文二「大阪の旗振り通信」)。元禄当時の大阪に旗振り通信があったかどうかについても伝えられていません。

   宝永3年(1706)7月の『熊谷女編笠』一の二、「商いは千里を見透かした遠目鏡」には、角屋与三次(すみや・よそじ)が人夫を雇い、暗峠の目印の松に立ちそい、左右の手を動かして合図させて、郡山の問屋の二階から遠眼鏡で見て、相場の上下をいち早く知り、利益を上げて、見通し与三次と呼ばれたという(「旗振り通信の初まり」、1929年。南方熊楠全集第四巻)。この人夫は赤頭巾をかぶり、赤布の小手を差しており、挙手信号であった。ある日、人夫が酒を飲まされ、でたらめの信号をしたため、与三次は大損をしたという。

  『日本戯曲全集』四九冊、『大門口鎧襲(おおもんぐちよろいがさね)』序幕に遠眼鏡で旗振で相場を知らすことがあり、この戯曲は解題に寛保3年(1743)板とその名題が見えるという(「旗振り通信の初まり」)。従って、1743年には旗振り通信が行われていたことがわかる。大門口とは、遊郭への入口をいう。

 延享2年(1745)頃、大和国平群郡若井村の住人源助なるものが、その配下を大阪にやり、本庄の森(北区)より信号によって堂島の米相場の高低を表示せしめて、これを自ら十三峠より望遠鏡で眺めたのが、旗振り通信の起源であるという(近藤論文、前出)。最初は煙、次は大傘、後に旗を用いるようになったという。後になると、大阪駅近辺の墓地が信号場所となった。

  大阪堂島の米市場が幕府によって公許されたのは、享保15年(1730)である。その後、急速に旗振り通信が発展し、米飛脚の生活権を脅かすようになったため、幕府は安永4年(1775)に旗振り信号禁止のお触れ書きを出している。当時、相当、広範囲に旗振り通信が行われていたことがわかる。


(Q3)旗振り通信はどこまで伝えられていったの?

(A3)厳密に言うと、年代によって、伝達地域は異なるので、年代別のルートを示す必要があるが、ほぼ、山陽道と東海道に近い沿線にルートが設けられ、西は九州北部、東は江戸までというのが、大まかな範囲と言えるでしょう。通信地点は、『旗振り山』を参照。

(Q4)旗振り通信ルートを具体的に教えて。

(A4)旗振り通信ルートの概略は従来からわかっていましたが、全国の通信ルートの調査は、行われたことがありませんでした。
  より正確なルートがわかったのは、平成12年〜14年以降のことです。

  具体的なルートは、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)を図書館等で、ごらんください。

  なお、『旗振り山』発行後の新発見のルートについては、「歴史と神戸」263号も参照のこと。


(Q5)旗振り場はいったいどこにあったの?

(A5)具体的な旗振り場の悉皆調査が行われたのは、平成12年から14年にかけてのことで、筆者が実施しました。

  その結果は次の文献に公表しています。平成14年以降も調査は継続して実施し、成果を上げてきています。

  1.「米相場を伝えた旗振り山の解明」(「歴史と神戸」234号、p.2−17)(平成14年10月)
  
2.「兵庫県内の旗振り山について」(「歴史と神戸」240号、p.1−16)(平成15年10月)
  3.「旗振り山と瓦屋山正法寺」(「歴史と神戸」243号、p.18−25)(平成16年4月)

  4.「旗振り通信の研究1〜23」(「新ハイキング別冊関西の山」57〜79号、平成13年3月〜16年11月)
  5.「旗振り通信の研究24」(「新ハイキング別冊関西の山」82号、平成17年5月)
  6.「旗振り通信の研究25〜30」(「新ハイキング別冊関西の山」84〜89号、平成17年9月〜18年7月)

 
以上の研究の成果は、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)に収録しています。以下はその後の新発見の報告です。

  7.「金比羅山(のべぶり岩)と小牧山」(「新ハイキング別冊関西の山」90号、平成18年9月)
  8.「旗振り通信の新研究 @〜B」(「新ハイキング別冊関西の山」91〜93号、平成18年11月〜19年3月)
  9.「旗振り通信の新研究 C〜F」(「新ハイキング別冊関西の山」95〜98号、平成19年7月〜20年1月)


 10.「兵庫県内の旗振り山の解明」(「歴史と神戸」263号、表紙裏、p.27−34)(平成19年8月1日発行)
 
 11.「旗振り通信の新研究 G〜R」(「新ハイキング関西」107〜118号、平成21年7月〜平成23年5月)
          

        伊賀市の旗振り山の情報は、110〜113号に掲載しています。

 12.「米相場の旗振り山について−赤穂市における解明−」
                           (「歴史と神戸」288号、p.12−19)(平成23年10月1日発行)


 13.「米相場の旗振り山について−淡路・徳島ルートの解明−」
                            (「歴史と神戸」302号、p.1−14)(平成26年2月1日発行)

 14.「旗振り山と航空灯台(補遺)」    (「歴史と神戸」315号、p.11−15)(平成28年4月1日発行)


                 ・・・問い合わせは、「歴史と神戸」編集部(072−783−1670)(FAX兼用)まで


 全国の旗振り地点については、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)をごらんください。


新ハイキング関西の記事の入手方法について(2014年9月9日記載) 

 1.「新ハイキング別冊関西の山」「新ハイ関西」のバックナンバーの入手方法について

   
現在、『新ハイキング別冊関西の山104〜115号』『新ハイ関西116〜8号』のバックナンバーは新ハイキング社あてに申し込めば、
   入手できるとのことである。
新ハイキング社あて、
メールseki@shinhai.netにて申し込まれたい。

 2.国会図書館の複写サービス利用について

   国会図書館には1〜118号まで全号が所蔵されているので、以下のサイトでバックナンバーの確認や記事の検索を行った
   うえで、国会図書館の下記のサイトをごらんいただいて、該当記事の掲載号数と掲載タイトルを指定して、複写を申し込むとよい。

   「新ハイキング別冊関西の山」と「新ハイ関西」の記事の検索→バックナンバー記事の検索へ

   国会図書館の「新ハイキング別冊関西の山」と「新ハイ関西」の所蔵状況→NDL-OPAC - 書誌情報1 NDL-OPAC-書誌情報2

   国会図書館への複写申し込み方法→
複写サービス

 3.新ハイキング別冊関西の山 1〜103号のコピーサービス(新ハイキング社)について

   希望の記事が特定できる場合、1篇につき100円にてコピーを送ることが可能とのことである(郵送料が別途、必要)。
   コピーサービスを希望する場合、「掲載号数と記事名」をメール(新ハイキング社・在庫担当 関根茂子seki@shinhai.net
   にて知らせれば、実際にその記事が、掲載されているかどうかを確認の上、代金等を知らせるとのことです。


 「新ハイキング関西」「新ハイ関西」(新ハイキング社、隔月刊)について
  ・関西の山歩きの情報誌。「新ハイキング別冊関西の山」のタイトルで、115号=2010年11・12月号まで市販された。
  ・筆者は、「旗振り通信の新研究」を連載していた。また、筆者によるコースガイドも投稿していた(山ものがたり参照)。
  ・116号(2011年1・2月)から、「新ハイ関西」のタイトルとなり、「新ハイキングクラブ関西」の活動誌として再出発した。
   会員のための会報誌となり、書店には並ばなくなった(B5版)。代表の村田智俊氏が亡くなられたため、新ハイ関西は、
   118号(2011年5・6月)をもって、廃刊となった。
  

  ◎『旗振り山』発行後の新発見の詳細については、以下のとおり、「新ハイキング関西」で公表しました。
           91〜92号・・・@A愛知県内ルート
            93号・・・・・・・・B岐阜県内ルート
           95号・・・・・・・・C岡山ルートの資料・・・・・・赤穂市の「黒鉄山」が旗振り場であったことを解明
           
96号・・・・・・・・D生駒山系・萬塾・時計・旗振り山
           
97号・・・・・・・・E腕木通信・旗振り通信の文献
           
98号・・・・・・・・F九州の旗振り山・総索引

          
107号・・・・・・・・G旗振り通信・堂島米市の文献
          
108号・・・・・・・・H旗振り通信の情報発信  ・・・2009年8月20日発
          109
号・・・・・・・・I旗振り通信の起源と資料 ・・・2009年10月20日発売

          110号・・・・・・・・J伊賀市で新発見の旗振り山T・・・2009年12月20日発売
                         (大山田地区のケント山とケントヤマ(見当山)の発見)

   
      
          111号・・・・・・・・K伊賀市で新発見の旗振り山U・・・2010年2月20日発売
                         (熱中時間出演の話題と伊賀市での旗振り再現実験


          112号・・・・・・・・L伊賀市で新発見の旗振り山V・・・2010年4月20日発売
                         (長田の見遠山で旗振りした島ヶ原ケントウの家の発見)


          113号・・・・・・・・M伊賀市で新発見の旗振り山W・・・2010年6月20日発売
                         (長田の百田地区の権平山(見当を振った場所)の発見)


          114号・・・・・・・・N江戸ルートについて      ・・・2010年8月20日発売
                         (常滑市・武豊町六貫山・浜松市北区の旗振り場の発見)

          115号・・・・・・・・Oテレビで紹介された旗振り通信T ・・・2010年10月20日発売(市販最後の号)
                         (NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」について)

          
116号・・・・・・・・Pテレビで紹介された旗振り通信U ・・・2010年12月15日配布(会員向け)
                         (「タイムスクープハンター」「ふるさとにQ」について)


          
117号・・・・・・・・Qテレビで紹介された旗振り通信V ・・・2011年 2月15日配布(会員向け)
                         (姫路ルート・岡山ルートの再現実験について)

          
118号・・・・・・・・Rテレビで紹介された旗振り通信W ・・・2011年 4月15日配布(会員向け)

                         (神戸ルートの再現実験について)



(Q6)旗振り信号はどのくらいの距離まで届いたの?

(A6)旗振り信号の届く距離は、通常、二里(8キロ)から五里(20キロ)が多く、平均は三里(12キロ)程度であった。 立地や見通しなどから、二里より短い場合もあった。見通しがきく場合には、六〜八里、まれに十里という場合もあったが、見通せる限界ぎりぎりであったようである。通信時間の短縮のためには、五〜六里というのは、最適の距離であった。視力の優れた旗振り通信員が裸眼で受信したように想像した人もいるが、実際にやってみればわかるように、裸眼では読み取りは不可能で、江戸時代の頃から、望遠鏡を用いて信号を読み取ったものであった。


(Q7)旗振り信号の発信地は、大阪堂島だけだったの?

(A7)堂島が一大中心地であったけれど、桑名の夕市も有名で、桑名の相場が堂島の相場のもとになった時期もあったという。 また、各地の米取引所の相場情報も相互に伝達されたりしたことであろう。


(Q8)旗振り山の標高はどれくらい?

(A8)旗振りさんは麓に住んで、毎日、旗振り場まで往復しなければならないから、仕事場まで、片道1時間以内で歩いていけるような立地条件が大切であった。多くは、30分ていどで到達できる場所が選ばれているようである。従って、麓との標高差が100〜300メートルぐらいが目安であろう。標高としては、おおむね、800メートル以下であった。


(Q9)通信にかかった時間は?

(A9)熟練した旗振りさんが、相場を一回分、送信するのに1分程度かかったという。従って、送信の所要時間は、中継地点数から算出できる。たとえば、大阪から京都まで四回の送信なので所要4分である。主要な所要時間の例を掲げると、下のとおりである。通信に要した時間については、興味を持たれるケースも多いので、すべての出典を添えておくことにしよう。
ここでは、文献に掲載された時間に限ったが、中継地点数から推定すれば、和歌山まで5分、神戸まで3〜4分が妥当かもしれない。
なお、通信時間は、送信する4つの数字の多少や、間違い防止の合印の有無にも左右されるので、かなりのゆれ・幅が想定される。あくまでも比較のための目安と考えたほうがよいだろう。実際、昭和56年の再現実験では、スモッグの発生や中継地点の倍増といった不利があったとはいえ、大阪・岡山間で27地点を結んだ26回の送信に2時間を要している。再現に取り組んだ旗振り手がボーイスカウト団員で練習を重ねたとはいえ、明治時代の熟練した旗振りさんが再現に協力して同じ区間を同じ26回で送信すれば35分ぐらいで届いたと考えられ、はるかに及ばないのである。職業として従事した意味は大きいように感じる。送信は早いほうがよく、まさに「時は金なり」であった。

 (旗振り通信のための、堂島からの所要時間)(平成17年9月10日、大幅に改訂)
  ・和歌山(約3分間)・・・・「旗振り信号の沿革及仕方」(『明治大正大阪市史 第七巻 史料篇』昭和8年)
           ・・・・近藤文二「大阪の旗振り通信」(『明治大正大阪市史 第五巻 論文篇』昭和8年) 
 
  ・大津(5分くらい)・・・・青山菖子(大津の町家を考える会)による。<景観セミナー議事録(要旨)>(新ハイキング関西82号参照)

  ・神戸(7分)・・・・古谷勝「火と馬と旗(十二)」(近畿電気通信局文書広報課編『近畿』第18巻第3号、昭和51年3月)

  ・三木(約10分間)・・・・「三木の眼がね通信」(山田宗作『東播タイムス』昭和30年)
                  (『歴史と神戸』第22巻第6号、通巻121号、昭和58年12月)

  ・桑名(約10分)・・・・平岡潤(桑名市史の著者)による。
         <川合隆治「旗振り通信について」(「三重の古文化」第48号、通巻第89号、三重郷土会、昭和57年10月)>。

  ・岡山(15分ぐらい)・・・・岡長平『岡山太平記』(宗政修文舘、昭和5年)

  ・広島(40分足らず)・・・・樋口清之『こめと日本人』(家の光協会、昭和53年)
  ・広島(わずか27分)・・・・樋口清之『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史1−庶民の時代・昭和→大正→明治』(祥伝社、昭和61年)(文庫本、平成6年)・・・・これは、上記と大きく異なるが、最短時間の記録と考えられる。
   大阪から岡山まで約170〜180キロで、約11〜13ヶ所を中継して所要15分、早ければ11〜13分ぐらいと推定できる。
   岡山から広島まで約160キロだが、山が多く中継地点は播磨平野より増えるものと推定され、およそ15〜17ヶ所を経由したと想定すれば、所要20〜25分、早ければ15〜17分ぐらいと思われる(あくまでも筆者の推定だが、的外れではないと思う)。
   従って、大阪・広島間は、標準的には35〜40分ぐらい、早ければ26〜30分の可能性がありうる。27分は妥当な数値だろう。

  ・江戸(8時間ちょっと。飛脚区間を含む)・・・・樋口清之『こめと日本人』  (箱根八里は一里ずつ早飛脚が走った。箱根山は三島から小田原まで走る。飛脚は特別の鑑札を持ち、真夜中でも関所が通れた。)
  ・江戸(1時間40分前後)・・・・樋口清之『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史1−庶民の時代・昭和→大正→明治』
  (箱根では人間が走って伝えたとある。同じ著者の上記の8時間と著しく異なるが、1時間40分は飛脚区間を除いた時間だろう。)


(Q10)通信の道具を教えて

(A10)旗、望遠鏡(三脚等で固定)、時計、相場付帳、暗号表などを使用した。これらは昼間用で、夜間の通信では、火の旗といって、松明を利用して、旗と同じような動きで通信した。夜間には、大阪近郊では提灯、岡山では火縄も使ったという。
のろしや、色かがり(のろしで色を変えたもの)も使ったというが、経済的とはいえず、実際には松明を用いたはずである。旗振りが確立するまでは、煙を上げる位置、大きな傘を広げる位置などで、相場の上下を知らせたが、具体的な相場の数値の伝達はできなかった。大正時代はじめ頃には、一部の地域では、望遠鏡のかわりに、双眼鏡も用いたようである(高安山、四日市市の神明山)。
また、山上の旗振り場には、雨露を防げるような粗末な作りの小屋が設置されることが多かった。公認された明治時代には、建物の屋上などに櫓が組まれて、旗振り場として利用された。時計は送受信時間の管理のために不可欠であった。詳しい記録は残されていないが、当時の実情から考えると、江戸時代には小型の和時計、明治時代には懐中時計を用いたようである。


(Q11)どんな旗を使ったの?

(A11)最初の頃は木綿製だったが、後には金巾(カナキン)製となった。大きさは、小旗は「横61cm・縦106cm」または「横98cm・縦152cm」、大旗は「横91cm・縦167cm」または「横121cm・縦197cm」であった。つまり、半畳から1畳半ぐらいの大きさであり、時には2畳のもの(182cm×182cmぐらい)も用いられた。昭和56年の再現実験(大阪・岡山間)で用いられた旗の大きさは、「横113cm・縦208cm」であった。いずれにせよ、旗は振りやすくて手頃な大きさで、望遠鏡で確認しやすいものであればよいわけである。竿は2.4m〜3mぐらいの長さのものが用いられたという。  (近藤論文・新ハイキング関西75号を参照)
 原則として、晴天時は小旗、曇天時には大旗を使用した。背後に樹木・岩石等の障害物があって影となって暗い時や櫓台・低地では白旗、それ以外や山上では黒旗を使った。また、伊勢(三重県)では、白旗と赤旗を用いたという。旗の色の、近江(白黒)と伊勢(白赤)との違いは、組織が異なるためだといわれている。


(Q12)望遠鏡について教えて

(A12)旗振り通信に用いた望遠鏡は各地で見つかっているが、時代の経過とともに、処分されたり、行方不明になったりして、今日でも、実物に接することのできるケースはごく少ない。明石市の黒田家の望遠鏡3本が明石市立文化博物館に寄贈されて常設展示されている。下記の写真は、黒田家で家宝として大切に保管されている望遠鏡(長さ93cm)である。フランス製で倍率は約25倍、重さ900グラム、真鍮製、最大直径5.5cm、伸縮自在となっている(2002年8月24日、取材)
 残念ながら、黒田実三郎さんは、平成17年8月2日になくなられた。88歳であった。ご冥福をお祈りしたい。
 この他、備前市日生町、野洲町(現野洲市)、鈴鹿市のものが知られている。
 桑名市にはドイツ製の望遠鏡があったが現在の所在は未確認である。

                     
    黒田家の旗振り通信用望遠鏡の写真・・・『旗振り山の本』をごらんください。


(Q13)どんな人が旗振りをしたの?また、その料金や給料は?

(A13)江戸時代には非公認であったので、旗振りは抜け商いであった。明治期には立派な職業として認められ、特殊な技能を有するものとして、優遇されたという。電信電話よりはるかに安い料金であったので、長い間、職業として継続されたが、さすがに大正6年で、ほぼ消滅することになった。生活に困って、旗振りによって生計を立て直したという話もあるので、当時としては、けっこう、良い給料であったことであろう。通信機関に雇用されて通信員として活躍した。日当で支給されたという。黒田さんにうかがったが、お米が給料がわりであったということであった。日当がいくらであったかは、もうわからないとのことだった。

(2010年9月5日、追記)尼崎市の吉井正彦氏によると、加古川市志方町広尾の久保田家への聞き取り調査では、旗振り師の給料は小学校の校長と同じぐらいであったという。明治時代の小学校の校長の月給は、学歴によって差があったが、通常、15円〜30円ぐらいであった。明治時代の1円の価値は換算が難しいが、現代の貨幣価値で8000円〜12000円とされており、仮に平均値10000円として換算すると、15円は15万円、30円は30万円である。平均20円とすれば、旗振り師の月給は現代の20万円ということになろうか。


<明石市の黒田実三郎さんの家に残された旗振りに用いた望遠鏡の発見を伝える新聞記事>
 ・・・・
神戸新聞・明石版(昭和56年8月4日)・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載

<岡山県日生町の岡里美さんの家にある、旗振り通信に曽祖父が用いた望遠鏡を紹介した新聞記事>
 ・・・・オカニチ
(昭和56年12月4日)・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載


(Q14)旗振りでどうやって相場を伝えたの?間違って通信したら?通信回数は?

(A14)米相場は、米一石の値段であらわされ、江戸時代には一石は金で一両、銀で60匁であった。この相場は日々変動し、たとえば、「米一石につき代銀67匁8分9厘」などと示した。また、明治期には、「米一石あたり39円28銭」などとあらわした。旗振り通信においては、これらの「十位、一位、十位、一位」の数字の順、すなわち前者は「6,7,8,9」、後者は「3,9,2,8」の四つの数字を「右側、左側、右側、左側」の順に、からだの脇で数字分だけ回転させて、信号として送信したのであった。
 実際には、そのままストレートに送信すると、相場が簡単に盗まれてしまうので、あらかじめ、郵送しておいた表で、実際の数字とは一定数を増減させるようにして、容易に盗まれないような工夫がなされたという。その増減も、毎回、変更されていたという。
 また、間違いを防ぐために合印を用いることもあったが、この場合、上等と称して、通信料金が高くなったという。すなわち、相場の「十位、一位」の数字を送った直後に、それに対応する合印の数字(1桁か2桁)を送り、さらに、次の「十位、一位」、続いて、合印の数字を送った。間違いがわかった場合、旗を強く上下にしばき、次に左右水平に振って、その誤りを指示した。
 通信の回数は、一定したものではなく、必要度に応じて、各地で異なっていた。1日に4回以上行うなど頻繁に通信した場合も多いが、地方などでは、週に数回といったケースもあった。通例、前場や後場など、相場の立つ節目ごとに伝達したことが多かったようである。
一般的に言うと、一日に5回〜10回ぐらいの通信が行われていたという。
 旗振り通信では、イロハ信号も可能で、イ(2)、ロ(3)、ハ(4)、ニ(5)、ホ(6)、ヘ(7)、ト(8)、チ(12)、リ(13)、・・・・・・セ(65)、
ス(66)、ン(67)のように、数字に変換して、文を伝えることができた(近藤文二)。濁音は数字の後に右側で2回上下に振った。


(Q15)夜間の通信はどうやったの?

(A15)「火の旗」といって、松明の火を、旗と同じように操作して、相場を伝えた。大阪近郊では提灯を用いた。また、岡山では、火縄を使ったともいう。「のろし」を用いたという言い伝えが各地に残るが、相場の数値を伝えるには不向きであり、実際には、松明が用いられたものと思われる。おそらく、通信方法についてよく知らないために誤解して言い伝えられたのであろう。


(Q16)相場情報は盗まれたりしなかったの?

(A16)金儲けにつながるため、各地で、米相場を盗むものが続出したようである。日生町の天狗山の近くの色見山では、天狗山での信号を盗んで大儲けをした人がいたという。また、龍野では、米相場を盗眼したものが捕まる事件が起こったそうである。
相場を盗まれないように、実際の数値とは違った数字に変換して相場を送る方策がとられた。


(Q17)幕府から禁止されていた江戸時代の状況は?

(A17)禁止されていた地域は、大阪三郷、河内、摂津、播磨の地域に限定されていたらしく、この区域外にルートを設けて送信した。また、禁止されていたのにもかかわらず、金儲けのため、旗振りを行うものはあとを絶たなかったようである。
江戸幕府が禁止した理由は、米飛脚の生活権を保護するためであったという。安くて早い旗振りは米飛脚の仕事を奪いかねないものであった。

(注記)平成26年3月12日追加
森平爽一郎先生の講義と宮本又郎先生の著書に鼓舞されて執筆された、
高槻泰郎『近世米市場の形成と展開』(名古屋大学出版会、2012年)は幕府司法と堂島米会所の発展を綴った好著である。この中で、旗振り通信の話題も取り上げられ、筆者の得た成果も紹介されている。筆者が江戸幕府が旗振り通信を禁止した理由として、米飛脚の生活権を保護するため、と述べていることに対して、疑問を呈されている(同書338頁)。筆者の説明は、自説ではなく、中島伸男「滋賀県内の旗振り通信ルート」 (『蒲生野 20』八日市郷土文化研究会、昭和60年12月)の中で示された中島氏自身の「幕府のお触書」が出された理由を説明している記述文である「米飛脚(状屋)の生活権を守るため」という一文をそのまま引用したものであり、筆者(柴田)の解釈ではなく、中島伸男氏の見解に従っただけであることを補足しておきたい。ただ、中島氏の見解を筆者自身も同意した上での記述であるので、その責任は負わねばならないと思う。
 高槻氏の批判文は次の通り。
「柴田昭彦はこれを米飛脚の生活権を守るためであったとしているが、公許を与件としない米飛脚の営業を幕府が保護する積極的な理由は見当たらない。営業保護以外の観点から、幕府が飛脚による相場報知のみを認めたとすれば、先格・先例もなく、精度も疑わしい手品がましき手法によって相場を報知することを取り締まる意図があったと考えるのが妥当ではないだろうか」(同書338頁)
 しかし、この高槻氏の批判は妥当であろうか?「旗振り信号の沿革及仕方」(大阪市役所編纂『明治大正大阪市史 第七巻 史料篇』昭和8年)に引用された天明三年の御触及口達には、
「米市場え堂島米相場の高下を飛脚に而取来候処、抜商ひと唱、右高下を記し」と飛脚以外の方法(身振り、色品、合図、手拭い、鳩)で米相場を通信することを禁止しているのである。手品まがいで不埒であると手拭いによる通信を行った相模屋又市を召し捕らえてはいるが、要するに、米相場は、本来、米飛脚が通信するものなのだから禁止すると述べているのであり、この点から、「米飛脚の生活権を保護するため」とする、中島氏の見解は必ずしも不適当とは思われない。もちろん、「手品まがいの行為の取り締まり」の側面があったことも事実であろう。このあたりは、両面の理由があったと考えればよいのではないだろうか。

(Q18)旗振りが幕末期に公認されたきっかけとは?

(A18)慶応元年(1865年)9月、英仏蘭の公使等が軍艦に乗じて条約勅許を求めて、兵庫に来港したのを尼崎か六甲山上で旗振り通信手がいち早く沖合いに発見して、旗振りでその急を時の所司代に報じたことがあって、京都米会所の会頭北條某なる者が、これを機として、急報の功績に免じて従前の禁止を解くよう嘆願に及び、遂に、禁が解かれたという。


(Q19)雨や靄の日にはどうしたの?

(A19)江戸時代には、米飛脚に頼るしかなかった。また、明治中期には、高価だが電報、明治後期には、つながるのに時間を要したが、電話も使った。高価な電報でも、利ざやによっては充分、もうかったらしい。
また、雨がやむのを待って、見通しが良くなったら、まとめて旗振りで送信したということである。


(Q20)旗振りで伝えた情報は米相場だけだったの?

(A20)江戸時代には一部で金銀相場、明治時代には時には油相場、明治12年以降は株式相場なども伝えられた。株式相場の通信では、米相場とはまったく別の信号を用いたといわれている。


(Q21)通信業者について教えて

(A21)江戸末期には、生駒山系の十三峠を経て、伏見・京都方面、大原野・大津方面、和歌山方面に通信する源助系統の業者があった。その他、千里山経由で京都に通信した大勝こと青木某なる業者もあった。明治期には、十三峠線は廃止されて、千里山線が競合するようになった。彦根方面、伊賀上野方面、桑名方面への通信もなされた。神戸方面、和歌山方面には西政こと西尾政七が通信を行った。兵庫・姫路への通信は沖宗・灰為等の店が営んだという。大津方面への通信は源助系統の齋木勘兵衛によって維持・管理され、京都ルートも大勝によって後まで維持された。
 幕末期、飛脚屋であった坂本屋は相場通信を始め、明治7年には「飛報社」と改めて、諸相場を報じた。明治26年には和歌山線の通信権を得て、「報知社」と改め、兵庫方面に発展することによって、西政・沖宗・灰為が明治25年に合併して作り兵庫へ通信していた三共社は、同33年に廃業に追い込まれた。つまり、報知社は堺・和歌山・奈良・大和高田方面の通信を担当したわけである。


(Q22)旗振り通信の行われた山に名前はあったの?

(A22)通信を行った山に昔からの名前がある場合は問題ないが、まったく名前のない山のことも多かった。その場合、相場を旗振りで伝えた山ということから、「相場山(相庭山)」「相場振山(ソバフリ山)」「相場取山(ソバトリ山)」「旗振山」「旗山」「高旗山」と呼ばれることが多かった。「相場ヶ裏山」「相場の峰(むね)」と呼んだ例もある。その他、漢字表記が変化して、「畑山」「高畑山」となった場合も見られる。こういうケースは、命名の由来が忘れられたことによるのであろう。


(Q23)旗振りでどうやって利益を上げたの?

(A23)今日の株式取引における空売り・空買いと同じような仕組みで、保証金による信用取引によって利益を得たもので、運用に失敗すれば、夜逃げ同然、うまくいけば、大金持ちというように、悲喜こもごもの人生ドラマを生み出した。商品相場による先物相場とも仕組みはほぼ同じといってよい。米会所の取引業者は取引の際の手数料によって利益を得る。一攫千金を夢見る人々は、旗振りによる情報を有効に活用して、取引を行ったのであった。


(Q24)旗振り通信が廃止された時期と理由は?

(A24)大阪で電話が最初に用いられたのは明治26年3月のことであったが、旗振りに電話が用いられたのは明治36年からである。電話よりも安くて早い旗振りは、明治30年代まで盛んに利用された。明治40年ごろには市内に高層建築が増えたことから、見通しが悪くなり、明治42年に北区大火が起こり、櫓が消えたことによって、市内の通信はすべて電話に切り替えられた。ただ、市外電話は、呼び出しに相当の時間を要したので、しばらくは、旗振りが利用された。大正3年9月に予約電話規則が発布されて、12月に実施されたことにより、相場通信に電話の予約ができるようになって、旗振り通信は自然消滅に至った。
 兵庫県の一部の地域では、大正6年ごろまで旗振りが行われたという。これは、旗振り通信員の職業維持のためであったという。
大正7年には、旗振り通信はすっかり姿を消してしまったのであった。


(Q25)旗振り山に、その痕跡を示す遺跡はあるの?

(A25)旗振り通信を行った痕跡の残る場所は、ごく少ない。滋賀県野洲市の相場振山に残る「旗差し穴」、東近江市・安土町の岩戸山には、通信方向を示す「岩場に刻まれた矢印2ヶ所」、岡山県備前市・瀬戸内市の西大平山にある「旗振台」、などが目に見える形での遺跡といえるだろう。また、茨木市の石堂ヶ岡のクラブハウス前の記念碑や姫路市横池の石碑に旗振りの事実が刻まれている。
 加古川市・高砂市境の城屋敷には、「米相場中継所跡」の案内板が見られるが、設置者は立地条件を確認しないで設置したらしく、この地点から姫路方面に通信することは不可能である。本当の米相場中継所は、城屋敷の西方400mの北山奥山にあった。
(この事実については、「新ハイキング別冊関西の山」72号、「歴史と神戸」163号の木谷幸夫氏の論文を参照のこと)
 この他、木造の小屋、木造の旗振り台、などが設置されていた地点も報告されているが、その痕跡は跡形もなく消滅している。
旗振り地点に盛り土があったケースもいくつかあるが、土取りで消滅したりして、残されているものはごく少ない。京都市西京区小塩山の山頂には、アンテナが林立しているが、旗振り地点には土盛りをしてあったということである(大原野南春日町の安井庄次さんによる)。

<相場振山の旗差し穴の写真>・・・『旗振り山』の本をごらんください。                      

 野洲市の相場振山にある旗振りの旗を差した穴 (山名の「かぶと山」は角川地名辞典の間違いで、田中山が正しい。)


<岩戸山の矢印岩>・・・・・・岩戸山・太郎坊山・・・・・・コースガイドをごらんください。


<各地の記念碑・石碑・木柱・案内板・旗振台>

   昔の旗振り場を示す案内板が、古老の証言に基づいて、各地で、人知れず建立されています。

    たとえば、ながたの旗振り山「正法寺」にも、2004年6月19日に、案内板が設置されています。

    また、2004年11月には、四日市市川島町の大門山(標高91m、別所谷)から、米相場を鈴鹿の野登山や神前(かんざき)の
  大日山(標高64.0m、寺方町)へ伝えたという案内板(http://akira10032002.fc2web.com/daimon1702/H17022106.jpg)(あきら
  ちゃんの自然散策のHP、2005年2月21日の散策写真集を参照。)が設置されている。
    このことについては、2005年2月19日の中日新聞の記事(大門山の黄金伝説を追え)と同2月28日の中日新聞の記事
  (大門山と大日山との間の「のろしリレー」、大門山の黄金探しなどのイベントの紹介)がある。
    2005年2月27日に行われたイベントは、ニュースエリア便(http://www.cty.co.jp/tv/20ch/news/data2005/050228.html)で
  見られる。ただし、大正時代に行われたという米相場の通信は昼間の旗振りや夜間の松明振り(火の旗という)であり、赤や黄色の
  のろしは費用が高くつくので、伝承の誤りではないかと思われる。火振りによる相場通信を「のろし」と誤解して伝えた例は西日本
  各地にも数多く残っている。


  あなたの市・町・村に、もし展望の良い丘があったら、こういった案内板がないか確かめてみてください。   


(Q26)通信廃止後、旗振りが再現されたことはあるの?

(A26)西宮市の会社員、吉井正彦さんの尽力によって、昭和56年に大阪・岡山ルートの再現実験が実行されました。その時の状況は、多数の新聞記事に紹介されています。そのひとつを下に紹介しておきます。なお、「新ハイキング別冊関西の山」71号でも詳しく紹介しておきました。

<旗振り通信の再現を伝える毎日新聞の記事>
・・・・・・・・・・・・・毎日新聞大阪本社版・社会面(22)(昭和56年12月7日)
     ・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載



(Q27)旗振り通信の文献を教えて

(A27)旗振り通信についてのバイブルとされる文献は、次の近藤文二氏の論文です。これ一編で、基本事項は網羅されています。

(文献1)近藤文二・小島昌太郎「大阪の旗振り通信」
 (大阪市役所編纂『明治大正大阪市史 第五巻 論文篇』昭和8年; 複刻版、清文堂出版、昭和41年)(p.359−380)


近藤論文は、旗振り通信ルートについては、概略のみで、山名の表記にはあいまいな点が多い。それを解決したものが、次のような筆者の研究である。他の多くの文献は、この中に網羅しているので参照されたい(特に、57号、58号、74号に掲載している)。

(文献2)柴田昭彦「旗振り通信の研究」 (『新ハイキング別冊関西の山』57〜89号、平成13年3月〜18年7月)

筆者が、旗振り通信ルートに興味を抱くきっかけとなった論文は中島伸男氏の次の2編である。地元の古老から多くの聞き取りを行い、近藤論文が曖昧にしかふれていない旗振り地点を解明した労作である。参考になる点が非常に多い。
     (ただ、不注意な誤植があるのは残念なことである。)

(文献3)中島伸男「滋賀県内の旗振り通信ルート」 (『蒲生野 20』八日市郷土文化研究会、昭和60年12月)
(文献4)中島伸男「三重県向けの旗振り通信ルートについて」(『蒲生野 22』同上、昭和62年11月)


筆者はこの中島論文をもってしても、謎のままになっていた「二石山」「桜山(菩提寺山)」「三ッ阪山(野洲町の相場振山)」といった旗振り地点を、中島氏の意向を受けて、すべて解明したような次第である(文献2の58号参照)。

この他、筆者のまとめた、上掲(A5)で示した、『歴史と神戸』の論文単行本の『旗振り山』次の論文も参考にされたい。

(文献5)柴田昭彦「旗振り通信の新研究」 (『新ハイキング別冊関西の山』91号〜118号、平成18年〜23年)

(Q28)旗振りの記録が飛脚情報に比べて著しく少ないのはなぜ?

(A28)旗振り通信は、江戸時代には「抜け商い」として、飛脚業の優遇のために、幕府によって禁止されていたので、当時の記録は、ごくわずかしか残っていない。その一例としては、茶静編『俳諧職業尽』(天保13年、1842年)の中に、「火振」という一文があって、大坂から伊勢へどのように相場を伝えたかにふれている(文献2の60号の記事を参照)。これは、幕府の禁止区域外にあったために、公刊されても大丈夫だったのであろう。
 明治時代には公認されたが、飛脚との比較では、利用頻度の違いが大きく、旗振りは、ごく一部の関係者のみに用いられたこと、とりわけ、旗振りは、民間の業者が行ったものであり、資料の残存度は、著しく、小さいものとならざるを得なかったのである。飛脚業のほうは、全国的に展開されており、江戸時代以来、公認のものであり、資料のほうも多数、残ることとなった。


(Q29)外国に似たような通信方法はあったのか?

(A29)フランスで、クロード・シャップ(Claude Chappe,1763-1805)によって1793年に開発され、1794年に実用化された「腕木通信」(うでぎつうしん)という類似の通信方法があった。日本の旗振り通信より、かなり遅い時期である。以後、スウェーデン、イギリス、ノルウェー、フィンランド、デンマーク、ドイツ、ロシア、スペイン、ポルトガル、アイルランド、ベルギー、オランダ、イタリア、アルジェリア、アメリカ、南アメリカ、インド、エジプト、カナダ、オーストラリアなどの各国に広がった。この腕木通信も19世紀半ばに急速に電信が普及すると、衰退していった。フランスでは1855年に腕木通信は全廃されたが、アルジェリアでは1859年ごろまで利用された。
 中野明『腕木通信』(朝日新聞社、2003年)は、この分野における最初の本格的な解説書であり、大変、参考になる労作である。


(Q30)山頂に立つマイクロ無線の中継所が、かつて、のろし台、見張り台(城跡)、旗振り山として利用されていた場所と重なることが多いという話をよく聞きますが、本当でしょうか。

(A30)マイクロ無線の中継局が、中世の城跡に多く設置されていることを最初に指摘したのは、渡辺久雄氏(「のろし山」)(『忘れられた日本史』創元社、昭和45年、所収)です。そして、その城跡は、古くはのろし場でもあり、のちには旗振り場ともなったというのです。
この話題については、次のような資料があって、よく参照されているようです(ただし、あまり厳密な内容ではないので注意)。

(1)「旗振山」(兵庫探検総集編<12>)(昭和55年5月27日、神戸新聞)・・・この記事は、次の(2)に、一部増補して再録。
(2)『兵庫探検・総集編』(神戸新聞出版センター、昭和56年)
(3)「のろし台復活!? 城跡に立つ第二電電中継局」(昭和61年4月7日、朝日新聞)
(4)「第二電電マイクロ波網で復活した弥生・中世のろし網」(朝日新聞WEEKLY  AERA No.10 1988.7.26)

長距離電話用のマイクロウエーブ(極超短波)は、直進する性質があるので、相互に見通しがきく場所でないと中継できない。従って、のろし場や旗振り場と立地条件が同じということになる。また、見張り場を必要とする山城の立地条件ともいくらか一致してくるのである。ただし、立地条件が同じということと、現実に、設置された地点が一致することとは、別問題である。上記の記事を読んでも、実際に、その一致しているという具体例の記述はほとんどない。それは旗振山(須磨)と高取山だけである。その理由として、
(1)のろし台の場所が今日でも必ずしも明確ではないこと
(2)記事の書かれた当時に知られていた旗振り場の具体的な地点についての資料が乏しかったこと
の2点が考えられる。

筆者は、平成17年8月に、『旗振り山』の本を準備するために、「旗振り場一覧表」を最新のものに改訂し、米市場を除いた旗振り場154カ所をリストアップしたが、そのうち137カ所がほぼ確実な旗振り場と思われる(最新のリストは『旗振り山』で公表している)。→(注)
確実な旗振り場137カ所のうち、山頂に設けられた旗振り場は約110カ所であるが、その旗振り場に電波塔が設置されているのは、2万5千分の1地形図によれば、次の21カ所である(ボンデン山にも電波塔があるが、旗振り地点が不確実なので除いた)。

畑山(西宮)、高取山、旗振山(須磨)、金輪山(たつの)、天下台山、赤穂高山、熊山、遙照山、雨乞山(小郡)、火の山(下関)、皿倉山、神於山(岸和田)、向谷山(島本)、小塩山(大原野)、比叡山、荒神山(彦根)、多度山、相場山(岐阜)、長谷山、高峰山、高安山

山頂にある旗振り場といっても、標高が低いことも多いので、条件は単純ではないが、山頂の旗振り場5カ所について、その中の1カ所にだけ電波塔があるという比率になる。これが多いか少ないかは、判断の分かれるところだが、従来、漠然と期待されていた比率よりは遙かに少ないのではないだろうか。のろし台、城跡については調べていないが、やはり、それほど多くないようである。見通しの利く山頂であれば、どこであっても、のろし場、山城、旗振り場としての利用が可能なのだから、それらが重なることがあり得るのは当然のことである。ただし、「旗振り山の位置が、マイクロウエーブの電波塔の位置とほとんど重なっている」というような記事は、実際の旗振り場のことを全く知らないで書かれた「間違った情報」であることをはっきりと指摘しておきたい。「旗振り山のうち、マイクロウエーブの電波塔が山頂にあるケースは、5分の1ぐらいである」というのが筆者の結論である。

→(注)その後の新たな発見によって、平成19年3月現在、旗振り場は172ヶ所をリストアップしている。
     そのうち、ほぼ確実な旗振り場は、145ヶ所である。
      また、山頂に設けられた旗振り場は、114ヶ所である。  (平成19年3月9日、記)。



(Q31)森平爽一郎『物語(エピソード)で読み解くデリバティブ入門』(日本経済新聞出版社、2007年)に載せてある「旗振り通信に関する記述」を読んだのですが、曖昧な内容や、人名・地名の間違いが気になりました。 どう思われますか? (2008.6.13)

(A31)内容は興味深く記述してあるのですが、細部を読むと、確かに、曖昧であったり、明らかな間違いも見つかります。正誤表を作ってみましたので、ご確認ください。私の『旗振り山』の本の内容、このホームページの内容を参考にしてください。

        <森平爽一郎『物語(エピソード)で読み解くデリバティブ入門』の正誤表>

備考
67 一四を示す五 一四の合い印の五 旗信号の送り方について、合い印の説明がないので、理解不可能な記述になっています。
(A14)参照
67 三五を示す四一 三五の合い印の四一
67 二回同じ信号 合い印の信号
71 標高二三〇〇メートル 標高二、三〇〇メートル
71 「旗振岡」 (削除) 「旗振岡」と呼ばれる場所は、実在しない
71 11 五郎池 神戸米穀取引所 正法寺からは、五郎池方面には、途中で遮られて通信できない。
71 11 旗を振る人が立つ鐘楼の礎石跡 旗の掲揚塔の基部 残っているのは、鐘楼の礎石跡ではなく、旗の掲揚塔だが、相場振りとは無関係である。
71 14 手旗り通信 旗振り通信
72 中島一著『四季のうつろい彦根日記』 中島一著『彦根日記−四季のうつろい』 72頁1〜7行の文章は、中島一氏のこの著書に収録されていません。
72 11 土谷 土山
72 13 本朝一丁目 本町一丁目
73 柴田昭彦「兵庫県内の旗振り山について」『歴史と神戸』42(5)2003年 柴田昭彦「米相場を伝えた旗振り山の解明」『歴史と神戸』41(5)2002年 図2−11の出典が、まったく間違っている。
74 五里(二〇〇〇メートル 五里(二〇キロメートル
74 五里離れたところと米相場の信号をやりとりしたことから 五里四方が見晴らせたことから 五里山の呼称は、米相場とは無関係である。
74 12 樋口清之『と日本人』 樋口清之『こめと日本人』 書名を間違える人が多い。
74 15 (鑑札)なしに走った (鑑札)を持って走った 関所通過のためには、特別の鑑札が必要であった。
74 16 大坂の米相場 旗振り速報』 大阪の米相場 旗振り速報』
75 二一分くらい 一分くらい
75 柴田は指摘 渡辺久雄氏は指摘 私(柴田)は、むしろ、旗振り通信の経路はマイクロ通信とは一致しないことが多いことを指摘していることに注意(A30参照)
75 11 岡山の桑島一男氏 西宮の吉井正彦氏 桑島氏は、主宰者の吉井氏に協力した人である。
75 12 昭和五六年一二月二六日 昭和五六年一二月六日
75 13 当時と同じ二六中継基地をそのまま使い、これまた当時とまったく同様に 昔とは倍増した二六中継基地を使い、 昔の中継地点数を二倍にして再現したもので、当時とは異なる。
76 黒澤比佐子氏 黒岩比佐子氏
208 (12)黒澤比佐子著 (12)黒岩比佐子著
208 (15)樋口清之著『と日本人』 (15)樋口清之著『こめと日本人』
208 二〇〇三年八月 二〇〇三年十月
208 大手の米相場 大阪の米相場
208 10  『旗振り通信』ナカニシヤ出版 『旗振り山』ナカニシヤ出版
208 10 ホームページ「旗振り通信物語 ホームページ「旗振り通信ものがたり
208 15 (19)中島一著「彦根の旗振り山」『彦根日記−四季のうつろい』所収 (19)中島一著「彦根の旗振り山」『彦根日記−四季のうつろい』未収 「彦根の旗振り山」は、ホームページにあった記事である。中島一著『彦根日記−四季のうつろい』には掲載されていません。




2.求む! 旗振り場情報!

 筆者は、「旗振り通信の研究」で、今まで、知られているすべての旗振り場の情報を集大成してきました。しかし、旗振り通信が過去に行われたことは間違いないにもかかわらず、まったく、旗振り場所が発見されていない地域が、相当、広域にわたって存在します。

<いままでに、筆者が行ってきた、旗振り場の捜索の方法>

(1)市町村の役所・役場・教育委員会等あてに問い合わせる。
(2)書店・図書館等で文献資料(ハイキング関係・郷土資料など)を調べる。
(3)郷土史家、登山家、本の執筆者などに問い合わせる。
(4)しかるべき人に依頼するか、または筆者自らが、地元で、古老から聞き取り調査を行う。

このうち、(1)は、今後、市町村合併の動きも加速していくので、困難になっていくし、筆者の調査でほぼ発掘し尽したものと考えている。(2)の文献資料は、古い郷土資料やタウン誌など、見逃しているものに未発見のものがあるかもしれない。
(3)についても、まだ、資料をお持ちのかたがいることだろう。
(4)は、古老の情報が刻々、失われつつあるが、関係者は、子や孫に、旗振りの事実程度は伝えているもので、曾孫であっても、語り伝えていることが多い。立地条件に着目すれば、まったく未知の旗振り場が発掘できる可能性がある。当事者でなくても、目撃証言を伝承しているケースも考えられるのである。この方面の調査は、魅力的といえる。地理学生などによるフィールドワークとしても有効ではないかと考える。学校での地域学習活動としても有効なのではないかと思う。

 そこで、具体的な、新しい旗振り場の発掘方法について述べて、協力してもらえる人を募りたいと思う。


<未知の旗振り場を発掘するための手順>

(1)筆者の『旗振り山』の本の「通信ルート・旗振り場一覧表」を見て、未発見の地域を掌握する。

(2)未発見地域の地形図(5万分の1、2万5千分の1)をもとに、旗振り通信に最適な山を仮に設定してみる(予測)。

(3)関連資料(郷土資料)がないかどうか調べる(図書館・資料館・自治体)。

(4)資料が見つからない場合、自治体等で、地元で昔のことに詳しい人を紹介してもらう。

(5)地元のことに詳しい人に、聞き取り調査を行う(迷惑をかけないように注意する)。

(6)地元のことに詳しい人に紹介してもらって、芋づる式に聞き取り調査を継続する。

(7)フィールドワークもよいが、無差別にあたっても徒労に終わりやすいので注意。当りをつけること。


<未知の旗振り場の発見の見込みのある地域について>具体的な事例の紹介

筆者の今までの悉皆調査から、未知の旗振り場が発掘できる可能性の高い地域を列挙して、調査を試みる人の参考としたい。

  ※なお、その後の調査で判明した内容については、→以下で注記した(2007年1月現在)(2009年8月追加)

(1)鈴鹿市西庄内町上野(かみの)の西の山で旗振りが行われたというが、その正確な地点は不明。野登山という伝承もあるが、どの地点で旗振りをしたかを証明するものはまだ、見つかっていない(上野の坂口和夫氏の母、ひさへさんがご存知であったが、具体的な地点の情報は残されておらず、いまだに不明である。「西の山頂」としかわからない。「鈴鹿市史第3巻」参照。新ハイ関西59号参照。

(2)伊賀市の高旗山から、柘植・旗山を経て、布引山地を通り、長谷山(津市)に通信したというが、
布引山地の中継地点が不明。
筆者は「摺鉢山」ではないかと推定しているが、裏づけ証言は得られていない。調査が必要である。
 
→大山田地区の下阿波ケント山と上阿波ケントヤマの発見で高旗山〜ケント山〜ケントヤマ〜長谷山〜津ルートが判明。

     ※ケント山(見当山)とケントヤマ(見当山)はまさに「布引山地」である。米相場の見当を振った地点であった。

 →旗山からは、津市河芸町上野の本城山と中継が可能な立地にある(裏付け資料は見当たらないが可能性はある)。
 

(3)知多半島には、岸岡山(鈴鹿市)と八ッ面山(西尾市)の中間地点に旗振り場があったはず。それはいずこ?
  
→知多半島では、大府市の観音寺山が旗振り場であったことが判明。ただし、中間地点ではなく、江戸時代の旗振り場は不明。

(4)津市の倉田正邦氏が元福井大の杉本壽氏に聞いた話として、旗護山(敦賀市・美浜町)が旗振り場であったというが、地元では愛宕山と呼ばれていて、旗振り伝承は見つからない。その真偽のほどは?

(5)岡崎市鶇巣町のネムリ沢(ネムル沢)は江戸時代に旗振り場だったというが、その旗振り場は309m峰でよいのかどうか、まだ検証はできていない。また、宮崎へ送信したというが、その地点は額田町宮崎でよいのかどうか、確定できていない(新ハイ関西62号)。
  
旗振り場は309m峰(山名は「北原山」)であることが判明(古い「点の記」に記載があったことで確定できた)。
    ただし、送信地は宮崎かどうか不明のまま。


(6)愛知県岡崎市から、豊橋・浜松・静岡・三島・小田原・江戸と伝達(箱根越えの三島・小田原間は飛脚が走った)したというが、岡崎以東の東海道沿線には、旗振り場はまったく伝えられていない。筆者は、航空灯台のあった、浜名湖の西の神石山(湖西連峰)などが候補地ではないかと思うが、裏付けは得られていない。静岡県・神奈川県・東京都域での旗振り場の発掘を希望する。ただし、江戸にまで、通信を行っていたのは三井家で、文化・文政期(1804〜30)のことであり、明治時代には静岡あたりにとどまっていたようである。
  
→愛知県・静岡県境の旗振り場は、豊橋市嵩山(すせ)の山上という資料が見つかったが、旗振りの裏付けは得られていない。
  
→2010年4月、愛知県・静岡県境の旗振り場(江戸時代)が発見できた。中山峠の南南東の三角点(標高392m)が米相場の
    旗振り山として、浜松市北区の三ヶ日地区の平山の古老に語り継がれていたのである。徳川時代というから、この山が、
    三井家の用いた中継所の一つに違いあるまい。次の送信場所は気賀だという。中継地点は、12〜16kmおきにあったようだ。


(7)西宮市のごろごろ岳、神戸市中央区中尾町北方の中尾東山で、旗振りが行われたかどうか、はっきりしていない。
  
→中尾東山での旗振りについては、HPに、地元での伝承を物語る一文があり、裏付けられたと言える。ごろごろ岳は伝承不明だが、実際に行なわれた可能性がある。。

(8)淡路島・徳島では、岩屋・志筑・洲本・市村・福良・撫養・徳島で明治9年当時、相場通信が行われたというが、その旗振り場がどこであったのかは、まったく知られていない。いったい、どの山で中継されていたのだろうか
。→筆者の「歴史と神戸」302号での「淡路・徳島ルート」の記事参照。

(9)三田から丹波市氷上町成松の霧山をつなぐルートがあったというが、篠山付近にあったらしい旗振り場はどこにあったのか。

(10)西宮市山口町の畑山、三田市香下のさんしょう山、三田市小柿の感応寺山(三国ヶ嶽)を経て、多紀連山、日本海へ抜けるコースがあった。多紀連山から日本海へ抜ける地点についてはまったく資料が見つかっていない。篠山市、綾部市、福知山市、舞鶴市付近での調査が必要であろう。

(11)姫路市豊富町豊富の畑山では、桶居山の信号を受信したといい、麓の太尾地区に旗振り伝承が残る。ここから、どこへ通信したのか不明で、落合重信氏の研究では、但馬方面への通信が行われたというから、畑山から生野経由での通信が想定されるが、資料はまだ見つかっていない。はたして、豊岡方面まで通信する必要があったのかどうか、皆目、見当もつかない。

(12)朝来市生野町に高畑山がある。高旗山の可能性もあるが、旗振り山かどうか不明である。

(13)小野市の来住の学校前の山上での旗振りの目撃証言が残るが、具体的に、どの山のことなのか、確定できていない。
南の安場山(156m)か南東の138mの山の可能性が高いが、確定したいものである。   

(14)赤穂高山で旗振りが行われたと落合重信氏は記載しているが、地元の裏づけ証言の発掘を希望する。また、赤穂市の黒鉄山は旗振りの再現実験で用いられた山であったが、旗振り山であるのかどうかについて、筆者は資料を持ち合わせていないが、調査を希望したい。
  
→須磨岡 輯『新・はりまハイキング』(神戸新聞総合出版センター、2006年10月)では、黒鉄山は「旗振り山」とある。
   旗振り情報の出典は、赤穂市役所発行の
「広報 あこう」No.639(2005年3月号)の「山とひと No.3 黒鉄山」
   である。

  ※「旗振り通信の新研究 4」(「新ハイキング別冊関西の山」95号、平成19年7月)で「黒鉄山」の資料を紹介。


(15)岡山県赤磐市(旧熊山町)の熊山では、旗振りが行われたというが、どこの集落の人が旗振りをしていたのか不明になっている。旗振り場の地点もわかっていない。

(16)津山への旗振り通信も行われたというが、その中継ルートはまったく不明である。どこから中継したのだろうか?

(17)岡山市の芥子山(けしごやま)で旗振りが行われたという一説があるが、裏づけ証言は得られていない。

(18)岡山市操山旗振台古墳と遥照山とを中継する地点が倉敷付近にあったというが、不明である。日差山ともいわれるが、裏づけはとれていない。筆者は立地から仕手倉山ではないかと考えるが、確認できていない。

(19)備前市大平鉱山(三石大平山)で旗振りが行われたというが、地元での確認がとれていない(西大平山との混同か?)。

(20)児島半島に高旗山があるが、旗振り山かどうか不明である。

(21)笠岡市城見の皿山(95,8m)は169.8mの三角点の南1.1kmにある山で、旗振り場という説があるが、地元での調査では、旗振り場ではないという結果であった。この付近に旗振り場があったはずであるが、それはいずこ?

(22)広島県下に旗振り場はあったはずであるが、その地点はひとつも見つかっていない。調査を希望する。

(23)山口県下で判明している相場通信の山は萩市三角山、山口市小郡町雨乞山、下関市火の山のみである。その他の地点の明確化を希望したい。

(24)筑紫野市冷水峠(ひやみずとうげ)からどこに通信したのか不明である。

(25)「筑後の箕山」で旗振りが行われたと伝承されているが、箕山という山はどこにも存在しない。筆者の推定では、久留米市の耳納山(みのうやま)と考えているが、裏づけはとれていない。耳納山での調査を希望したい。

(26)薩摩(鹿児島)まで旗振り通信で伝えたという俗説があるが裏付けはとれない。本当だろうか。事実を確かめる必要がある。
  
→鹿児島県立図書館で実施してもらった調査(2006年)では、通信が行われたという資料は全く存在しない。ガセネタらしい。



★旗振り山の本を一読した感想のお便りの一部を紹介します(H18年5月)★

・御内容につきましては参考になりました。重ねて御礼申上げます。
             池田 末則 (奈良市、日本地名学研究所所長)
故人

・全国の旗振り通信ルートを解明した貴著「旗振り山」は学術上価値の高いものです。
             綱本 逸雄 (向日市、京都地名研究会事務局長)


・柴田さんのお仕事は「旗振り学」とでも呼びたくなる完成度を示しているように感じました。
             中島 伸男 (東近江市、八日市郷土文化研究会事務局長)


・「新ハイキング関西」誌に連載当時から、いつかはまとめられて出版されるべきだと
 思っていましたが、とうとう実現され、心から喜んでいます。
             慶佐次 盛一 (大阪市、『北摂の山』の著者)

・歴史と山を絡ませた本では、今まで出た本の中で出色のものでしょう。
             中庄谷 直 (池田市、『関西の山 日帰り縦走』の著者)


・いい本ですね。表紙の写真もよろしいが、帯紙も表紙の一部ですから、アイデアに感心。
             藤井 昭三 (神戸市、『神出むかし物語』の著者)

・当家においては、今後大切に蔵書致します。ありがとう御座いました。
             黒田 三代子 (明石市、旗振り通信の望遠鏡の保管者)


・大変いい本をありがとうございました。大事に使わせていただきます。
             岡 里美 (備前市日生町、旗振り通信の望遠鏡の保管者)


・徹底した調査と、膨大な資料の収集にもとづいた『旗振り山』に感服しました。
             吉田 節雄 (岡山市、操山公園里山センター・ボランティア)

・「旗振り山」の広い全体像、厳密な考証には驚き、かつ敬服の至りです。
 歴史的な書だと思います。
             原水 章行 (西宮市、西宮明昭山の会・代表)

・この本によって、旗振り山が歴史に残り、旗振り通信が解明されたと思います。
             村田 智俊 (『新ハイキング関西』・代表)
故人



★新聞における紹介記事

「東京新聞」(中日新聞東京本社)(2006年7月2日 発行)に書評が掲載される

  (本の紹介記事) 「江戸期のインターネット?」
   ハイキング誌掲載記事をもとにしたこともあり、旗振り山の史跡探訪ガイドという
   体裁をとっているのが惜しまれるが、本書は、それら遺構のありかを文書記録や
   現地調査、古老からの聞き書きなどによって検証した空前絶後の研究書である。
   (評者:永瀬唯 ながせ ただし、評論家、科学史・技術文化史研究家、
    ジャーナリスト、SF史家。〉)

・「伊勢新聞」(2007年9月16日 発行)の(7)に短評が掲載される

  (本の紹介記事) 「三重の本 読む聞く」 ■短評■
   
全国の旗振り山と中継ルート十六本を日本で初めて解明。
   県内では「桑名」「四日市・津」「伊賀」の三ルートを扱う。


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