(Q1)旗振り通信ってなあに?
(A1)江戸時代中期から大正時代中期まで、大阪堂島の米市場(取引所)では米相場がたち、現在の株式や先物取引と同じように、米の値段の上下によって差金決済を行い、莫大な利益を上げようとする人々で賑わっていた。
各地の米市場の米取引はその堂島の米相場によって大きく左右されたから、その米相場をできるだけ早く知る必要が生じた。江戸時代には米飛脚によって伝えられたが、いかんせん、時間がかかる。
そこで、一刻も早く米相場を知って、利益を上げようという人々によって考案された方法が旗振り通信であった。旗振り人夫が見通しの良い山の上で望遠鏡を用いて、旗振り信号を確認し、山から山へリレーし、堂島の米相場を遠方まで伝えた。
飛脚が長い時間かけて走る距離を、旗振り信号は短時間で次々と伝えていき、西は九州北部、東は江戸まで伝わっていったのです。
(Q2)旗振り通信はいつ始まったの?
(A2)元禄時代(1688〜1704)、江戸で紀伊国屋文左衛門が色旗で相場を伝えたという話が残っていますが、事実かどうかわかっていません(近藤文二「大阪の旗振り通信」)。元禄当時の大阪に旗振り通信があったかどうかについても伝えられていません。
宝永3年(1706)7月の『熊谷女編笠』一の二、「商いは千里を見透かした遠目鏡」には、角屋与三次(すみや・よそじ)が人夫を雇い、暗峠の目印の松に立ちそい、左右の手を動かして合図させて、郡山の問屋の二階から遠眼鏡で見て、相場の上下をいち早く知り、利益を上げて、見通し与三次と呼ばれたという(「旗振り通信の初まり」、1929年。南方熊楠全集第四巻)。この人夫は赤頭巾をかぶり、赤布の小手を差しており、挙手信号であった。ある日、人夫が酒を飲まされ、でたらめの信号をしたため、与三次は大損をしたという。
『日本戯曲全集』四九冊、『大門口鎧襲(おおもんぐちよろいがさね)』序幕に遠眼鏡で旗振で相場を知らすことがあり、この戯曲は解題に寛保3年(1743)板とその名題が見えるという(「旗振り通信の初まり」)。従って、1743年には旗振り通信が行われていたことがわかる。大門口とは、遊郭への入口をいう。
延享2年(1745)頃、大和国平群郡若井村の住人源助なるものが、その配下を大阪にやり、本庄の森(北区)より信号によって堂島の米相場の高低を表示せしめて、これを自ら十三峠より望遠鏡で眺めたのが、旗振り通信の起源であるという(近藤論文、前出)。最初は煙、次は大傘、後に旗を用いるようになったという。後になると、大阪駅近辺の墓地が信号場所となった。
大阪堂島の米市場が幕府によって公許されたのは、享保15年(1730)である。その後、急速に旗振り通信が発展し、米飛脚の生活権を脅かすようになったため、幕府は安永4年(1775)に旗振り信号禁止のお触れ書きを出している。当時、相当、広範囲に旗振り通信が行われていたことがわかる。
(Q3)旗振り通信はどこまで伝えられていったの?
(A3)厳密に言うと、年代によって、伝達地域は異なるので、年代別のルートを示す必要があるが、ほぼ、山陽道と東海道に近い沿線にルートが設けられ、西は九州北部、東は江戸までというのが、大まかな範囲と言えるでしょう。通信地点は、『旗振り山』を参照。
(Q4)旗振り通信ルートを具体的に教えて。
(A4)旗振り通信ルートの概略は従来からわかっていましたが、全国の通信ルートの調査は、行われたことがありませんでした。
より正確なルートがわかったのは、平成12年〜14年以降のことです。
具体的なルートは、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)を図書館等で、ごらんください。
なお、『旗振り山』発行後の新発見のルートについては、「歴史と神戸」263号も参照のこと。
(Q5)旗振り場はいったいどこにあったの?
(A5)具体的な旗振り場の悉皆調査が行われたのは、平成12年から14年にかけてのことで、筆者が実施しました。
その結果は次の文献に公表しています。平成14年以降も調査は継続して実施し、成果を上げてきています。
1.「米相場を伝えた旗振り山の解明」(「歴史と神戸」234号、p.2−17)(平成14年10月)
2.「兵庫県内の旗振り山について」(「歴史と神戸」240号、p.1−16)(平成15年10月)
3.「旗振り山と瓦屋山正法寺」(「歴史と神戸」243号、p.18−25)(平成16年4月)
4.「旗振り通信の研究1〜23」(「新ハイキング別冊関西の山」57〜79号、平成13年3月〜16年11月)
5.「旗振り通信の研究24」(「新ハイキング別冊関西の山」82号、平成17年5月)
6.「旗振り通信の研究25〜30」(「新ハイキング別冊関西の山」84〜89号、平成17年9月〜18年7月)
以上の研究の成果は、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)に収録しています。以下はその後の新発見の報告です。
7.「金比羅山(のべぶり岩)と小牧山」(「新ハイキング別冊関西の山」90号、平成18年9月)
8.「旗振り通信の新研究 @〜B」(「新ハイキング別冊関西の山」91〜93号、平成18年11月〜19年3月)
9.「旗振り通信の新研究 C〜F」(「新ハイキング別冊関西の山」95〜98号、平成19年7月〜20年1月)
10.「兵庫県内の旗振り山の解明」(「歴史と神戸」263号、表紙裏、p.27−34)(平成19年8月1日発行)
11.「旗振り通信の新研究 G〜R」(「新ハイキング関西」107〜118号、平成21年7月〜平成23年5月)
伊賀市の旗振り山の情報は、110〜113号に掲載しています。
12.「米相場の旗振り山について−赤穂市における解明−」
(「歴史と神戸」288号、p.12−19)(平成23年10月1日発行)
13.「米相場の旗振り山について−淡路・徳島ルートの解明−」
(「歴史と神戸」302号、p.1−14)(平成26年2月1日発行)
14.「旗振り山と航空灯台(補遺)」 (「歴史と神戸」315号、p.11−15)(平成28年4月1日発行)
・・・問い合わせは、「歴史と神戸」編集部(072−783−1670)(FAX兼用)まで
全国の旗振り地点については、『旗振り山』(ナカニシヤ出版)をごらんください。
新ハイキング関西の記事の入手方法について(2014年9月9日記載)
1.「新ハイキング別冊関西の山」「新ハイ関西」のバックナンバーの入手方法について
現在、『新ハイキング別冊関西の山104〜115号』『新ハイ関西116〜8号』のバックナンバーは新ハイキング社あてに申し込めば、
入手できるとのことである。新ハイキング社あて、メールseki@shinhai.netにて申し込まれたい。
2.国会図書館の複写サービス利用について
国会図書館には1〜118号まで全号が所蔵されているので、以下のサイトでバックナンバーの確認や記事の検索を行った
うえで、国会図書館の下記のサイトをごらんいただいて、該当記事の掲載号数と掲載タイトルを指定して、複写を申し込むとよい。
「新ハイキング別冊関西の山」と「新ハイ関西」の記事の検索→バックナンバー記事の検索へ
国会図書館の「新ハイキング別冊関西の山」と「新ハイ関西」の所蔵状況→NDL-OPAC - 書誌情報1 NDL-OPAC-書誌情報2
国会図書館への複写申し込み方法→複写サービス
3.新ハイキング別冊関西の山 1〜103号のコピーサービス(新ハイキング社)について
希望の記事が特定できる場合、1篇につき100円にてコピーを送ることが可能とのことである(郵送料が別途、必要)。
コピーサービスを希望する場合、「掲載号数と記事名」をメール(新ハイキング社・在庫担当 関根茂子seki@shinhai.net
にて知らせれば、実際にその記事が、掲載されているかどうかを確認の上、代金等を知らせるとのことです。
「新ハイキング関西」「新ハイ関西」(新ハイキング社、隔月刊)について
・関西の山歩きの情報誌。「新ハイキング別冊関西の山」のタイトルで、115号=2010年11・12月号まで市販された。
・筆者は、「旗振り通信の新研究」を連載していた。また、筆者によるコースガイドも投稿していた(山ものがたり参照)。
・116号(2011年1・2月)から、「新ハイ関西」のタイトルとなり、「新ハイキングクラブ関西」の活動誌として再出発した。
会員のための会報誌となり、書店には並ばなくなった(B5版)。代表の村田智俊氏が亡くなられたため、新ハイ関西は、
118号(2011年5・6月)をもって、廃刊となった。
◎『旗振り山』発行後の新発見の詳細については、以下のとおり、「新ハイキング関西」で公表しました。
91〜92号・・・@A愛知県内ルート
93号・・・・・・・・B岐阜県内ルート
95号・・・・・・・・C岡山ルートの資料・・・・・・赤穂市の「黒鉄山」が旗振り場であったことを解明
96号・・・・・・・・D生駒山系・萬塾・時計・旗振り山
97号・・・・・・・・E腕木通信・旗振り通信の文献
98号・・・・・・・・F九州の旗振り山・総索引
107号・・・・・・・・G旗振り通信・堂島米市の文献
108号・・・・・・・・H旗振り通信の情報発信 ・・・2009年8月20日発売
109号・・・・・・・・I旗振り通信の起源と資料 ・・・2009年10月20日発売
110号・・・・・・・・J伊賀市で新発見の旗振り山T・・・2009年12月20日発売
(大山田地区のケント山とケントヤマ(見当山)の発見)
111号・・・・・・・・K伊賀市で新発見の旗振り山U・・・2010年2月20日発売
(熱中時間出演の話題と伊賀市での旗振り再現実験)
112号・・・・・・・・L伊賀市で新発見の旗振り山V・・・2010年4月20日発売
(長田の見遠山で旗振りした島ヶ原ケントウの家の発見)
113号・・・・・・・・M伊賀市で新発見の旗振り山W・・・2010年6月20日発売
(長田の百田地区の権平山(見当を振った場所)の発見)
114号・・・・・・・・N江戸ルートについて ・・・2010年8月20日発売
(常滑市・武豊町六貫山・浜松市北区の旗振り場の発見)
115号・・・・・・・・Oテレビで紹介された旗振り通信T ・・・2010年10月20日発売(市販最後の号)
(NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」について)
116号・・・・・・・・Pテレビで紹介された旗振り通信U ・・・2010年12月15日配布(会員向け)
(「タイムスクープハンター」「ふるさとにQ」について)
117号・・・・・・・・Qテレビで紹介された旗振り通信V ・・・2011年 2月15日配布(会員向け)
(姫路ルート・岡山ルートの再現実験について)
118号・・・・・・・・Rテレビで紹介された旗振り通信W ・・・2011年 4月15日配布(会員向け)
(神戸ルートの再現実験について)
(Q6)旗振り信号はどのくらいの距離まで届いたの?
(A6)旗振り信号の届く距離は、通常、二里(8キロ)から五里(20キロ)が多く、平均は三里(12キロ)程度であった。 立地や見通しなどから、二里より短い場合もあった。見通しがきく場合には、六〜八里、まれに十里という場合もあったが、見通せる限界ぎりぎりであったようである。通信時間の短縮のためには、五〜六里というのは、最適の距離であった。視力の優れた旗振り通信員が裸眼で受信したように想像した人もいるが、実際にやってみればわかるように、裸眼では読み取りは不可能で、江戸時代の頃から、望遠鏡を用いて信号を読み取ったものであった。
(Q7)旗振り信号の発信地は、大阪堂島だけだったの?
(A7)堂島が一大中心地であったけれど、桑名の夕市も有名で、桑名の相場が堂島の相場のもとになった時期もあったという。 また、各地の米取引所の相場情報も相互に伝達されたりしたことであろう。
(Q8)旗振り山の標高はどれくらい?
(A8)旗振りさんは麓に住んで、毎日、旗振り場まで往復しなければならないから、仕事場まで、片道1時間以内で歩いていけるような立地条件が大切であった。多くは、30分ていどで到達できる場所が選ばれているようである。従って、麓との標高差が100〜300メートルぐらいが目安であろう。標高としては、おおむね、800メートル以下であった。
(Q9)通信にかかった時間は?
(A9)熟練した旗振りさんが、相場を一回分、送信するのに1分程度かかったという。従って、送信の所要時間は、中継地点数から算出できる。たとえば、大阪から京都まで四回の送信なので所要4分である。主要な所要時間の例を掲げると、下のとおりである。通信に要した時間については、興味を持たれるケースも多いので、すべての出典を添えておくことにしよう。
ここでは、文献に掲載された時間に限ったが、中継地点数から推定すれば、和歌山まで5分、神戸まで3〜4分が妥当かもしれない。
なお、通信時間は、送信する4つの数字の多少や、間違い防止の合印の有無にも左右されるので、かなりのゆれ・幅が想定される。あくまでも比較のための目安と考えたほうがよいだろう。実際、昭和56年の再現実験では、スモッグの発生や中継地点の倍増といった不利があったとはいえ、大阪・岡山間で27地点を結んだ26回の送信に2時間を要している。再現に取り組んだ旗振り手がボーイスカウト団員で練習を重ねたとはいえ、明治時代の熟練した旗振りさんが再現に協力して同じ区間を同じ26回で送信すれば35分ぐらいで届いたと考えられ、はるかに及ばないのである。職業として従事した意味は大きいように感じる。送信は早いほうがよく、まさに「時は金なり」であった。
(旗振り通信のための、堂島からの所要時間)(平成17年9月10日、大幅に改訂)
・和歌山(約3分間)・・・・「旗振り信号の沿革及仕方」(『明治大正大阪市史 第七巻 史料篇』昭和8年)
・・・・近藤文二「大阪の旗振り通信」(『明治大正大阪市史 第五巻 論文篇』昭和8年)
・大津(5分くらい)・・・・青山菖子(大津の町家を考える会)による。<景観セミナー議事録(要旨)>(新ハイキング関西82号参照)
・神戸(7分)・・・・古谷勝「火と馬と旗(十二)」(近畿電気通信局文書広報課編『近畿』第18巻第3号、昭和51年3月)
・三木(約10分間)・・・・「三木の眼がね通信」(山田宗作『東播タイムス』昭和30年)
(『歴史と神戸』第22巻第6号、通巻121号、昭和58年12月)
・桑名(約10分)・・・・平岡潤(桑名市史の著者)による。
<川合隆治「旗振り通信について」(「三重の古文化」第48号、通巻第89号、三重郷土会、昭和57年10月)>。
・岡山(15分ぐらい)・・・・岡長平『岡山太平記』(宗政修文舘、昭和5年)
・広島(40分足らず)・・・・樋口清之『こめと日本人』(家の光協会、昭和53年)
・広島(わずか27分)・・・・樋口清之『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史1−庶民の時代・昭和→大正→明治』(祥伝社、昭和61年)(文庫本、平成6年)・・・・これは、上記と大きく異なるが、最短時間の記録と考えられる。
大阪から岡山まで約170〜180キロで、約11〜13ヶ所を中継して所要15分、早ければ11〜13分ぐらいと推定できる。
岡山から広島まで約160キロだが、山が多く中継地点は播磨平野より増えるものと推定され、およそ15〜17ヶ所を経由したと想定すれば、所要20〜25分、早ければ15〜17分ぐらいと思われる(あくまでも筆者の推定だが、的外れではないと思う)。
従って、大阪・広島間は、標準的には35〜40分ぐらい、早ければ26〜30分の可能性がありうる。27分は妥当な数値だろう。
・江戸(8時間ちょっと。飛脚区間を含む)・・・・樋口清之『こめと日本人』 (箱根八里は一里ずつ早飛脚が走った。箱根山は三島から小田原まで走る。飛脚は特別の鑑札を持ち、真夜中でも関所が通れた。)
・江戸(1時間40分前後)・・・・樋口清之『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史1−庶民の時代・昭和→大正→明治』
(箱根では人間が走って伝えたとある。同じ著者の上記の8時間と著しく異なるが、1時間40分は飛脚区間を除いた時間だろう。)
(Q10)通信の道具を教えて
(A10)旗、望遠鏡(三脚等で固定)、時計、相場付帳、暗号表などを使用した。これらは昼間用で、夜間の通信では、火の旗といって、松明を利用して、旗と同じような動きで通信した。夜間には、大阪近郊では提灯、岡山では火縄も使ったという。
のろしや、色かがり(のろしで色を変えたもの)も使ったというが、経済的とはいえず、実際には松明を用いたはずである。旗振りが確立するまでは、煙を上げる位置、大きな傘を広げる位置などで、相場の上下を知らせたが、具体的な相場の数値の伝達はできなかった。大正時代はじめ頃には、一部の地域では、望遠鏡のかわりに、双眼鏡も用いたようである(高安山、四日市市の神明山)。
また、山上の旗振り場には、雨露を防げるような粗末な作りの小屋が設置されることが多かった。公認された明治時代には、建物の屋上などに櫓が組まれて、旗振り場として利用された。時計は送受信時間の管理のために不可欠であった。詳しい記録は残されていないが、当時の実情から考えると、江戸時代には小型の和時計、明治時代には懐中時計を用いたようである。
(Q11)どんな旗を使ったの?
(A11)最初の頃は木綿製だったが、後には金巾(カナキン)製となった。大きさは、小旗は「横61cm・縦106cm」または「横98cm・縦152cm」、大旗は「横91cm・縦167cm」または「横121cm・縦197cm」であった。つまり、半畳から1畳半ぐらいの大きさであり、時には2畳のもの(182cm×182cmぐらい)も用いられた。昭和56年の再現実験(大阪・岡山間)で用いられた旗の大きさは、「横113cm・縦208cm」であった。いずれにせよ、旗は振りやすくて手頃な大きさで、望遠鏡で確認しやすいものであればよいわけである。竿は2.4m〜3mぐらいの長さのものが用いられたという。 (近藤論文・新ハイキング関西75号を参照)
原則として、晴天時は小旗、曇天時には大旗を使用した。背後に樹木・岩石等の障害物があって影となって暗い時や櫓台・低地では白旗、それ以外や山上では黒旗を使った。また、伊勢(三重県)では、白旗と赤旗を用いたという。旗の色の、近江(白黒)と伊勢(白赤)との違いは、組織が異なるためだといわれている。
(Q12)望遠鏡について教えて
(A12)旗振り通信に用いた望遠鏡は各地で見つかっているが、時代の経過とともに、処分されたり、行方不明になったりして、今日でも、実物に接することのできるケースはごく少ない。明石市の黒田家の望遠鏡3本が明石市立文化博物館に寄贈されて常設展示されている。下記の写真は、黒田家で家宝として大切に保管されている望遠鏡(長さ93cm)である。フランス製で倍率は約25倍、重さ900グラム、真鍮製、最大直径5.5cm、伸縮自在となっている(2002年8月24日、取材)
残念ながら、黒田実三郎さんは、平成17年8月2日になくなられた。88歳であった。ご冥福をお祈りしたい。
この他、備前市日生町、野洲町(現野洲市)、鈴鹿市のものが知られている。
桑名市にはドイツ製の望遠鏡があったが現在の所在は未確認である。
黒田家の旗振り通信用望遠鏡の写真・・・『旗振り山の本』をごらんください。
(Q13)どんな人が旗振りをしたの?また、その料金や給料は?
(A13)江戸時代には非公認であったので、旗振りは抜け商いであった。明治期には立派な職業として認められ、特殊な技能を有するものとして、優遇されたという。電信電話よりはるかに安い料金であったので、長い間、職業として継続されたが、さすがに大正6年で、ほぼ消滅することになった。生活に困って、旗振りによって生計を立て直したという話もあるので、当時としては、けっこう、良い給料であったことであろう。通信機関に雇用されて通信員として活躍した。日当で支給されたという。黒田さんにうかがったが、お米が給料がわりであったということであった。日当がいくらであったかは、もうわからないとのことだった。
(2010年9月5日、追記)尼崎市の吉井正彦氏によると、加古川市志方町広尾の久保田家への聞き取り調査では、旗振り師の給料は小学校の校長と同じぐらいであったという。明治時代の小学校の校長の月給は、学歴によって差があったが、通常、15円〜30円ぐらいであった。明治時代の1円の価値は換算が難しいが、現代の貨幣価値で8000円〜12000円とされており、仮に平均値10000円として換算すると、15円は15万円、30円は30万円である。平均20円とすれば、旗振り師の月給は現代の20万円ということになろうか。
<明石市の黒田実三郎さんの家に残された旗振りに用いた望遠鏡の発見を伝える新聞記事>
・・・・神戸新聞・明石版(昭和56年8月4日)・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載
<岡山県日生町の岡里美さんの家にある、旗振り通信に曽祖父が用いた望遠鏡を紹介した新聞記事>
・・・・オカニチ(昭和56年12月4日)・・・紙面は『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年5月発売)に掲載