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邪馬台国ものがたり

                                            (2004年10月10日 柴田昭彦 作成)
                                         2006年11月3日(文化の日) 一部修正、初公開(Q1~Q5)

                                         2019年10月 2日 Q6(女王国の場所、朝倉市付近) を追加


 邪馬台国の問題については、長きにわたって、膨大な研究がなされ、今日でも、多数の著書・論文が公表され続けている。その理由としては、その存在した場所については専門家の間でも意見が分かれることから、アマチュアでも新発見ができるのではというチャレンジ精神が生まれやすいことにあると言えるだろう。いわば、知的好奇心をくすぐられる謎解きゲームとなっているのである。
 邪馬台国問題の取り扱いについては、専門家でも、スタンスが大いに異なっている。その位置論は最重要であると考える立場から、位置論は文献史学の分野であるからと考古学的な発見を重要視する立場、その両方をバランス良くとらえる立場など、さまざまである。

 筆者も、邪馬台国問題には、高校生になってから興味を抱き、高3の時に手にした、魏志倭人伝に記載された邪馬台国と周辺の国々の比定を試みた研究家の著書(子田耕司『邪馬台国二千文字の謎』エール出版社、昭和52年)を書店で見つけて購入し、私見を著者宛に手紙で知らせたこともあったことを思い出す。「邪馬壹国(しめいつ国)は島原半島南部にあった」という子田氏の推論は到底、受け入れることのできないものであったが、周辺諸国が佐賀県・福岡県・大分県に分布していることには大きく心をゆさぶられたものである。

 邪馬台国に関する膨大な著書群を前にして、いったい、専門家が長年にわたって研究しても答えがでないのは、どうしてだろうか、と常々、考えてきたが、もう、すでに、正しい答えは出ているように思う。邪馬台国は九州北部に存在していたとしか考えられないのである。あとは、確信犯で、いつまでも、畿内大和説の立場をとり続けて、マスコミの注目を引くような形での成果を公表し続けざるを得ないような状況にある人たちを、マスコミから解放してあげることである。つまり、考古学的な発見を何でもかんでも邪馬台国に結びつけることによって、注目を浴びるような方法は、邪道であることを認識することである。そして、一般の読者も、邪馬台国であれば、すぐに飛びつくような野次馬根性を捨てるべき時期が到来したことを理解しなければならないだろう。

 邪馬台国については、専門家がしっかりとした地道な研究成果を発表しているにもかかわらず、それを安易に覆すような意見が飛び交い、それにマスコミが飛びつき、著書がベストセラーになるというようなことが繰り返されてきた。ベストセラーには、真に良いものも一部はあるのだろうが、多くは、アイデア勝負の、センセーショナルな内容を盛り込んだもの、それも、実際には後の考証に耐えないものが多いのである。多くの読者は、およそありそうもない、刺激的なものに惹かれる傾向があるから、たくさん売れるのだが、実際には、奇想天外な内容に終わることが多い。

 その最も典型的なものが、F氏が著書で提起された、「邪馬壱国(邪馬一国)」が正しく、「邪馬台国」はなかったという主張であろう。たちまち、マスコミの寵児となり、マルクス主義歴史学者たちにもてはやされたが、今では、全く説得力が失われ、ほとんど従う人はいなくなっている。当人が文献史学の重要性を唱えながら、文献の成立過程を全く考慮することがなかったためである。そして、証明することすら要しないほど明々白々な偽書『東日流外三郡誌』を支持したことは、学者としての力量を露呈したと言えるだろう(筆者は、客観的な事実関係について述べているだけなので、他意はない。誤解のなきように願いたい)。

 さて、邪馬台国問題に、今までのところ、確たる解答はないというのだが、実際には、専門家の手によって、解決されていることがらが多く存在しており、それを、整理しておくことは、大事なことだと感じる。このページに限っては、筆者自身が、どのように邪馬台国問題を理解しているのか、このあたりで、まとめておきたいという気持ちに発しており、メモランダムと思ってもらってよい。それにもかかわらず、一問一答の形式をとっている理由は、自問自答の言語化であると、受け取っていただきたい。あくまでも、筆者自身の理解を表現したものであり、これを、人に押しつけるつもりは全くない。先人に対して失礼な表現があれば、ここでご容赦を願うものである。


Q1 邪馬台国でなく、邪馬壱国が正しいという話を聞きますが、本当でしょうか?

A1 現存している『三国志』の最古の版本(12世紀中頃、南宋の紹興年間、1131~62年)の『魏志』には、「邪馬壹國」とあるので、そのまま訂正せずに「邪馬壱国(邪馬一国)」とすべきだという主張が1969年になされ、各方面に影響を与えました。しかし、『太平御覧』に引用されている『魏志』、および、『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』の諸刊本には、「邪馬臺國」とあるので、10世紀以前の版本に「邪馬臺國」とあったものが、後の版本作成時に「邪馬壹國」と誤刻されたと考えられるのです。江戸時代以来の学者が「邪馬台国」と訂正してきたことには、正当な理由があると見なければならないでしょう。「邪馬壱国(邪馬一国)」説は捨て去るべきかと思われます。

Q2 邪馬台国が正しい表記だとすると、それは何と読むべきでしょうか?

A2 邪馬台国は通常、「やまたいこく」と読んでいますが、これは、便宜上の呼び方で、漢字の表記に従ったものです。実は、この言葉は「やまとのくに」と読まれるべきものであることがはっきりしています。「やまど」とする人もいますが、「山門」「大和」といった地名が背後に信仰の山を望む戸口・場所であることを表す「山戸」「山処」の意味で発生したものと考えられることから、「やまど」は「やまと」と同一でしょう。それにもかかわらず、「邪馬台国(やまとのくに)」としないのは、邪馬台国が謎の国であるためです。耳で聞いた場合、畿内大和と区別できなくなってしまうためです。邪馬台国の呼び名は、その比定問題が解決しないと確定できないことになります。

Q3 卑弥呼は、どのように読むべきでしょうか?

A3 卑弥呼は通常、「ひみこ」と呼ばれています。シャーマンとか巫女(みこ)といったイメージから、「日巫女」「日御子」ととらえられて、そう呼ばれていると考えられます。「弥」の字は、日本の古典の中では、「み」または「め」と読まれるのですが、「比弥」については、例外なく「ひめ」と読まれています。一方、「み」と読むのは「弥己等(みこと)」の場合だけです。「ひめ」は「姫」、「みこ」は「皇子」、「みこと」は「命」となります。つまり、卑弥呼とは「姫子(ひめこ)」であり、「姫御子」「姫皇子」「女王(ひめみこ)」の意味と考えられます。

Q4 卑弥呼の宗女の名前は、壱与か台与か、そして、どのように読むべきでしょうか?

A4 現存している『三国志』の最古の版本の『魏志』に「壹與(壱与)」とあるのに対して、『太平御覧』に引用されている『魏志』、および、『梁書』『北史』には、「臺與(台与)」とあります。「邪馬台国」が「壱→台」であるのと同様な誤刻と考えられるのにもかかわらず、こちらのほうは「台与」としてしまわずに、「壱与(台与)」のように併記していることが多いようです。しかしながら、日本の古典に「いよ」が人名に出現する例はごく少なく、「伊予都比子」など男性名の例は少数ながらあるが、女性名は皆無である。一方、「とよ」のほうは「豊」を含んだ女性人名に頻繁に出現する。このことから、この人名は「壱与」である可能性はほとんどなく、「台与」である可能性が極めて高いのです。いまだに未練を残して、「壱与(台与)」といったように、どっちつかずの表し方をしていることが多いようです。「台与」と表記して、「とよ」と読むのが妥当ではないでしょうか。

Q5 邪馬台国は、ずばり、どこにあったのでしょうか?

A5 『三国志』の『魏志』の倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)に記載された邪馬台国(山処の国)は、当時、置かれた東アジアにおけるさまざまな状況からとらえると、九州北部にあったと考えられます。女王(卑弥呼=姫子)を共立した時代は、弥生時代の後期~末期に当たる西暦185年ごろ~248年ごろであり、考古学の成果から見る限り、当時は九州北部は先進地域、畿内大和は後進地域であり、その大和に女王の宮殿を置きながら、伊都国という朝鮮・中国との窓口を設けて九州北部諸国を支配下に置きながら、西日本を宗教的権威によって統合していたなどという荒唐無稽な話を認めることは難しい畿内の政権が北九州から畿内にかけての広域を支配に置いたという時代は、どんなに早くとも、西暦350年以降であると見なければならないのではないだろうか。邪馬台国問題は、政治史における、支配構造の発展時期の解明と密接に関係しており、大和朝廷が九州を支配下に置いた時期(4世紀後半)を考えれば、おのずと答えの出るはずの問題ではないだろうか。邪馬台国時代(2世紀後半~3世紀)は、まだ、宗教的権威によって九州北部のみでゆるやかな共立を見た時代であって、その支配地域は、九州中部の狗奴国(熊本県域)にすら及んでいなかったのである。女王(台与=豊)を共立した時代(西暦250年ごろ~270年ごろには、おそらく、遷都も行われて(豊の国であろうか?)、西日本の各地へと広がりを見せるようになったものと思われるが、そのころの資料はほとんどなく、畿内大和に政権基盤が出来上がるまで、100年にも及ぶ空白の時を埋めることが必要になる。これが、邪馬台国時代から大和政権への移行期間の実態であり、邪馬台国問題の本質を示すものに他ならない。女王「台与」の時代は、弥生時代が終末を迎え、古墳時代の萌芽を見せ始める時期に当たるだろう。畿内大和に早期古墳が発生するのは、西暦280年ごろ~320年ごろのことと考えられている。畿内の古式の大型前方後円墳である箸墓古墳は340年ごろ、崇神天皇陵は360年ごろと考えることによって、大和王権の勢力の拡大が説明でき、多くのことが符合することになるのである。もっとも、これらの年代については、多くの異説があり、最近は、年代を邪馬台国時代に近づけようとする傾向がある。畿内大和を邪馬台国と考えたいからに他ならない。しかし、その場合でも、西暦200年ごろに畿内の女王が九州北部を支配下においていたことを証明することができなければ成立しない。その証拠は考古学的には全く見られないのである。



Q6 邪馬台国の女王のいた「女王国」は、どこにあったのでしょうか?

A6 この質問に対しては、従来は、「九州北部のどこかにある」という以上の具体的な答えが得られないままになっていた。しかし、孫栄健『決定版 邪馬台国の全解決』(言視舎、2018年)の導き出す仮説「邪馬台国は三世紀の九州北部三十国の総称であり、女王の都した所は奴(な)国だった」との結論(同書161頁)にインスピレーションを得た。この考え方は、古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(1971年刊行)(角川文庫、1977年)の提案に一致することになる。ただし、倭人伝を読む限り、女王国が奴国であるという結論は首肯できない。「現在の福岡市から春日市のあたりが、女王国、女王連合三十国(邪馬台国)の中心となる国だった」(孫同書201頁)という結論にも同意できない。ただ、国王のいた伊都国(福岡県糸島市前原町付近)に隣り合う奴国(福岡市付近)の土地が弥生時代で最大の遺跡地であることは言うまでもないが、福岡県の春日市から南東に抜けて、筑紫野市を通り、朝倉市、小郡市、そして、佐賀県のみやき町、吉野ヶ里町、神埼市が、弥生時代後期、卑弥呼のいた時代の遺跡地として大いに隆盛であったことも事実である。私自身は、孫栄健の女王国=奴国説ではなく、安本美典が長く唱えてきた「卑弥呼=天照大神説」 「『古事記』での天照大神の居た高天原「天の安の河」(福岡県朝倉市付近)説」を支持したい。女王国は福岡県朝倉市付近ということになる。

以下に概要を示す。


方400里
は、孫栄健や古田武彦が、東西400里+南北400里=800里として計算しているが、筆者は東西のみとして扱った点が従来説と大きく異なる。
魏志倭人伝において、100里は、5キロに相当すると換算すると、実距離に近くなることがわかる。

帯方郡~狗邪韓国  7000余里
狗邪韓国~対海国  1000余里
対海国         
方400余里・・・実距離は、東西18キロ(360里)、南北(北島:40キロ、800里)(南島25キロ、500里)
対海国~一大国   1000余里・・・実距離は、60キロ(1200里)
一大国         
方300里・・実距離は、東西14キロ(280里)、南北16キロ(320里)
一大国~末盧国   1000余里・・・実距離は、40キロ(800里)
末盧国~伊都国    500里・・・実距離は、25キロ(500里)
伊都国~奴国     100里・・・実距離は、20キロ(400里)
        (以上、総計10600余里+
方700余里=11300余里)

(伊都国または奴国から)
東行して不弥国  100里

帯方郡~女王国  12000余里

奴国~女王国  12000余里-11300余里=700余里



対海国  1000余戸  ・・・対馬
一大国  3000許家  ・・・壱岐
末盧国  4000余戸  ・・・松浦(末羅県)


伊都国  1000余戸  ・・・糸島(怡土郡)・・・王がいて、女王国に統属している
奴国   20000余戸  ・・・博多(儺(な)の県(あがた))
不弥国  1000余家  ・・・宇美
          (奴国を中心として、すぐ近くに伊都国と不弥国が位置する様子が見える)


奴国(博多)~女王国(朝倉)・・・700余里(35キロ)・・・地図上の実距離はおよそ30キロ(600里)  

              (※ 魏志倭人伝では、100里は、実測上、約5キロに相当することが知られている。)



邪馬台国 70000余戸 ・・・九州北部(女王連合)・・・女王国を中心とする三十国連合体
狗奴国            ・・・九州中西部、球磨?・・・女王国と隣接していて対立している(官は、菊池彦か?)
投馬国   50000余戸 ・・・九州南部、薩摩(さつま)?
 九州の「つま」さきの国 (官は、みみ(耳))

          (魏志倭人伝の記載する倭国の主要な世界が、九州島に収まることを示唆する。)