ものがたり通信

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地名の話
                                         2014年8月11日 柴田昭彦作成(小島「ソビエト」について)
                                         2014年8月18日 「イチゴ谷・ミゴ谷について」作成
                                         2014年8月18日 「品谷峠の位置について」作成
                                         2014年8月24日 「ソビエト」についての紀伊民報記事紹介
                                         
2014年8月31日 「ソビエト」についての産経新聞記事紹介
                                         2014年9月21日 「新潮45」2014年10月号の記事紹介
                                                 2014年12月31日 品谷峠・八丁付近の地形図(明治26年)を掲載
(1)日本の小島「ソビエト」についての考察
(2)イチゴ谷・ミゴ谷の語源について
(3)品谷峠の位置について


(1)日本の小島「ソビエト」についての考察

 2014年8月1日のニュースで、日本領土の従来、公式の名前がなかった小さな島々に、公式な命名がなされたという話題があり、その中でも、とりわけ、和歌山県すさみ町の「ソビエト」という小島(岩礁)
(沖の黒島の南西。国土地理院のWeb地図に掲載されているので閲覧できる)について、大きく報じられたことはご存じだろう。その中で、「ソビエト連邦」と関係があるというようなテレビ放送があり、地元では「由来は全くわからないが釣り人の間で以前からそう呼ばれてきている」というのが公式見解だが、テレビ報道の中で、「危険なところだから、ソビエトと呼んだのではないだろうか?」というような主旨で伝えられたことについて、大いに疑問を抱いたものであった。

 インターネットでも話題となり、特に、「ソビエト連邦」との関係を取りざたする意見、そびえているようには見えないが「そびえる」という言葉と関係がありそうだという意見、漢字表記なら「聳え島」ではないかという意見も見られたが、「ソビエト」に気を取られる余り、「そびえる」という言葉については、ほとんど一顧だにされていないことに疑問を持つものである。

 いささかなりとも、地名の語源についての研究をしたことがあれば、日本の地名の語源は、「日本語で解釈」というのが基本中の基本である。もちろん、明らかに新しい地名の場合は由来も明確であって、その限りでないこともあるが、この「ソビエト」については、相当に古くからの日本語地名であろうから、外国の国名で解釈するのは、ほぼ100%間違いである。

 ならば、地名学の観点から、「ソビエト」を解釈すれば、どうなるか?

 「そびえる」は「他を見下ろすように高く立つ」という意味であることは言うまでもないことである。

 「と」は、地名学では、場所を示す「ところ」の意味である。日本語で「〇〇と」「〇〇ど」などは「〇〇である所」の意味である。

 難しいことは抜きにしても、
「ソビエト」が、「そびえているところ」という意味であることは素人でもわかるだろう。


それでも、この解釈が、問題とされるのは、ネットでも指摘されるように、この岩礁が、釣り人の絶好の足場であるとしても、「見た目には、ちっとも高くそびえていない」という点にあるのではないだろうか。

しかし、「高い」とか「そびえている」とかいうのは、他と比較した場合の相対的なものである。その場所に接近した人が、周辺に対して、そびえていると感じて「命名した」のであれば、それほど違和感のある命名ではないと思うのである。

仮に、地名学を無視して、この島が「ソビエト連邦」と関係するとしてみよう。しかし、通常、一般に、日本では、わざわざ「ソビエト連邦」などといちいち長い名前で呼びたがる人はいないのではないだろうか? 普通、「ソ連」と呼ぶのが当然の呼名であろう。「危険な場所」という意味を強調するつもりなのであれば、「ソ連島」と命名するのではないだろうか?そして、
地元で、命名の由来が不明になっているのは、「ソビエト連邦」が成立する1922年より遙か以前から、この小島(岩礁)が、「そびえと」と呼ばれていたことを示唆する。

たぶん、テレビ報道の前提では、「ソビエト」が日本語の「そびえる」と関係がありそうなことを感じてはいても、それでは、「ちっとも面白くもなんともないし、採り上げるような話題ではなくなってしまう」ので、「ソビエト連邦」との関連だけを報じたのだろうと推察するが、それは、やはりフェアな報道とは言いがたい。ここは、やはり、地名の語源の解釈に取り組んでいるような人のコメントを取材して、付け加えるべきではなかったのではと思う。



(2014年8月24日)
以下の記事は、AGARA紀伊民報(2014年8月20日)からの引用である。記事は一定期間後、削除されることが多いので、転載しておこう。地元で、「そびえ立っている」からだろうという説が20年前でも聞き取られていたことがわかる。もっとも、裏付けはとれず、ソビエト連邦成立以前からある地名かどうかも不明とのことである。

<AGARA紀伊民報>

なんで「ソビエト」? 無人島の名称が話題に すさみ町見老沖

http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/newsphoto/2790791.jpg

 和歌山県すさみ町見老津の沖、「沖の黒島」に隣接する無人島「ソビエト」。政府の総合海洋政策本部がこのほど、古くからの通称を正式な名称とし、公表した。ユニークな名前が「全国区」になり、話題に。しかし、名前の由来は不明。町内には同じ国名の付く島がほかにも2カ所あり、地元の人も「なぜだろう」とあらためて不思議がっている。
 日本の領海や排他的経済水域の外縁を根拠づける基点として、地図や海図に名称記載のない離島(全国で158)に名前を付けた。
 地元住民が使っている通称を採用した例が多く、見老津沖の「ソビエト」も古くから釣り人の間で言い伝えられてきた名称。「ソビエット」と発音する人もいる。
 沖の黒島の沖側に位置するため、近くの国道42号から見ることはできない。釣り人の間ではよく釣れる「1級磯」として知られ、大きさは数人上陸するだけで磯が手狭になる程度といわれる。
 見老津の東隣に位置する同町江須崎沖にも「ソビエト」「沖のソビエト」という島がある。近隣市町にはこの名の付いた島はないようだ。
 通称は島を見た感じや印象、位置関係から決められることが多い。その島でたくさん魚を釣り上げた人の名前を付けた島もあるという。
 地元の漁業、中山光治さん(82)=見老津=は「由来を長老に尋ねたことも、長老から教えられたこともない。あらためて聞かれると不思議な話だが、もともとこの名前だった」とした上で、「島や岩がそびえ立っているように見えたからではないか。それしか考えられない」と話す。
 紀南地名と風土研究会事務局の桑原康宏さん(69)=田辺市中万呂=は「変わった名称だったので気になり、20年ほど前に調べた。『そびえ立っている』という説は当時も聞いたが、調べた結果、裏付けられるようなものはなかった」と話す。
 また、ソビエト連邦が成立(1922年)する前に付けられた名前ではないかと想像もできるが、それを証明するものもないという。

【無人島「ソビエト」】
(20140820日更新)



(2014年8月31日)
<産経新聞>
 平成26年(2014年)8月30日(土)の産経新聞の3頁(総合)に、離島「ソビエト」の記事(下図)が載せられていたので紹介しよう。

・「ソビエト」の大きさは畳10畳にも満たないほどで狭い。「岩」という方がふさわしいような島である。
・「ソビエト」の近くには、東方の別の場所に「ソビエト」と「沖のソビエト」と地元で呼ばれる岩のような小島がある。
・西の「ソビエト」だけに政府が命名した理由は、「最も領海の外縁となる位置の島」だからである。
・この最も沖合の島の名前については、『すさみ町誌』(1978年<昭和53年>8月発行)の中の海図に「ソビエト」と記載されていた。
・『すさみ町誌』には、「ソビエット」との記述も見られる。
・すさみ町役場によると、長老たちに聞き取り調査をしたが、由来は今も不明という。
・地元の「酒井渡船」店主(63歳)によると、自分の子供の時から「ソビエト」と呼ばれていたという。
・上の店主の話から、「ソビエト」の名称は、50年以上の歴史があると言える(50年前=1964年)。
・地元で言われている語源説は次の3つだという。真相は不明だが、(1)が有力とされている。
 (1)島が海面に「そびえる」から転じたもの。
 (2)3つの「ソビエト」はいずれも、本土海岸から最も外側にあり、「ソトガワ」が転じたもの。
 (3)「ソビエト連邦」は日本から遠かったので、本土海岸から一番遠い”最果ての島”との意味合いで「ソビエト」と命名した。




(2014年9月21日、追加)
 『新潮45』2014年10月号(新潮社)の記事、山田吉彦『海洋資源開発は「国境離島管理」から始まる』(186~191頁)には「国境離島158島命名」の項目があり、次のような記述がある(188頁)。最初に紹介したテレビ報道での内容に相当するのだろうが、疑わしい記述だ。

「また、和歌山県の「ソビエト」という島は、地元の資料に出てきているが、その名の由来を知る者はいない。聞き取り調査では、
船の往来に危険であり注意を有する島として、東西冷戦の時代、最も危険な存在とされていた「ソビエト社会主義共和国連邦」の名をもじって付けたのではないかとの解釈もあるようだ。」


(2)イチゴ谷・ミゴ谷の語源について


『京都北山』(昭文社、山と高原地図、2014年版)(下図)を見ると、滋賀県高島市朽木と京都市左京区久多の境界に「イチゴ谷山」があり、その西側の左京区久多上の町には、山名の由来である「イチゴ谷」があり、その北に「ミゴ谷」がある。

この「イチゴ谷」と「ミゴ谷」は以前から気になる谷名で、その語源が何なのか、調べてみたいと思っていた地名である。




仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社、アルパインガイド、昭和48年版)(下図)の三国岳のコースガイド(58~61頁、執筆:坂井久光)には、上記の地名は、「市後谷山」「市後谷」「見後谷」という表記になっているが当て字と思われる。通常は、上記のようにカタカナ表記で紹介されている。



有井基『ひょうごの地名を歩く』(神戸新聞総合出版センター、1989年)の索引を見ると「イチゴ(市午) 167」とあり、167頁を開くと、兵庫県城崎郡香住町(現:美方郡香美町香住区)余部(あまるべ)の解説の中に次のように見える。

「(余部)鉄橋から「梶原(タデハラ)」を挟んで約五百㍍南に「市午(イチゴ)」という小字がある。イチは巫女(みこ)をあらわす語、コは子(古語辞典)、つまり巫女が住んでいたところを「市後」「市子」などの表記であらわした例は各地にあるが、ここも海神社の巫女がいたのだろうか。」

神戸新聞社編『神戸の町名』(神戸新聞出版センター、昭和50年)の137頁には神戸市長田区長田天神町の解説に次のようにある。

「天神山の東ふもとに「市後谷(いちごだに)」の古い小字があり『西摂大観』は、イチゴは市子のことで長田神社の神につかえた巫子が住んでいたのであろう、と記述している。西宮市塩瀬町生瀬にも覆盆子(いちご)谷がある。」

神戸史学会編『神戸の町名 改訂版』(神戸新聞総合出版センター、2007年)の200頁の長田天神町の解説では次の通りである。

「天神山の東麓に市後谷(いちごだに)という小字がある。斎王につき従う市子(いちこ)たちの居住地だったと伝える。市子とは、いちみこのことで、神の意を伝える巫カンナギをいう。」


インターネットで検索しても、「市後谷」について得られる情報はあまりないが、「地名にまつわる伝説」のサイトには次のようにある。内容から見て、『神戸の町名』(昭和50年)をもとに記述した内容のようである。「市ノ子(いちのこ)」の小字は神戸史学会編『神戸市小字名集』(昭和56年)の36頁(名谷村の小字)にある。

いちごだに
市後谷(兵庫県神戸市長田区長田天神町・
滝谷町界隈)
天神山の東麓に「字市後谷」の名があった。
『西摂大観』は市後谷の「いちご」は「市子」の事で、長田神社に仕えた巫女の居住地であったのではないかと記している。

いちごだに
覆盆子谷(兵庫県西宮市塩瀬町生瀬 覆盆子谷)
神戸市長田区の市後谷と同じく、神に仕えた巫女(市子)の居住地だったのだろうか。

いちのこ
市の子(兵庫県神戸市垂水区名谷町(旧 小字市の子))
神戸市長田区の市後谷と同じく、神に仕えた巫女(市子)の居住地だったのだろうか。
或いは、「一の講」、「一の子」などによるものか。


「市後谷」のインターネット検索で他に見つかるのは、大阪府高槻市の「林道 市後谷線」があるということぐらいである。おそらく、その林道の登り口の谷名が「市後谷」なのだろう。

「苺谷」でインターネット検索すると、宮崎県東臼杵郡椎葉村の奥地、耳川の支谷に苺谷(いちご谷)があることがわかる。

「イチゴ谷」でインターネット検索すると、兵庫県姫路市白国(広峰山の東側)にイチゴ谷(北に「上冬いちご谷」、南に「下冬いちご谷」)がある。


兵庫県地名研究会編『兵庫県小字名集』(Ⅰ東播磨編、1991;Ⅱ但馬編、1992;Ⅲ西播磨編、1994;Ⅳ丹波編、1994;Ⅴ淡路編、1996、神文書院)を見ると、丹波編を除いて、次のような「いちごたに(いちごだに)」が見つかる。ただし、東播磨編には、西脇市の町名に誤植があり、町村町→野村町という訂正が必要である。脇坂俊夫編著『西脇の地名』(西脇市教育委員会、平成2年)の201~2頁を参照して訂正した。

Ⅰ東播磨編133頁2行目:
西脇市野村町市ゴ谷(いちごたに)
Ⅱ但馬編32頁5行目:
城崎郡城崎町飯谷(はんだに)イチゴ谷(だに)  (現:豊岡市城崎町)
Ⅱ但馬編63頁3行目:
城崎郡日高町猪爪(いのつめ)苺谷(いちごたに)  (現:豊岡市日高町)
Ⅱ但馬編196頁5行目:
朝来郡和田山町竹田苺谷(いちごだに) 
Ⅲ西播磨編128頁2行目:
相生市陸(くが)市後谷(いちごだに)
Ⅴ淡路編142頁:
三原郡三原町榎列上幡多(えなみかみはだ)市後谷(いちごだに) (現:南あわじ市)
Ⅴ淡路編168頁:
三原郡西淡町松帆慶野(まつほけいの)市五谷(いちごだに) (現:南あわじ市)


以上のように、イチゴ谷、市後谷、苺谷、市ゴ谷、市五谷、覆盆子谷、と表記はさまざまであるが、市子(巫女)に由来する地名であることは、ほぼ間違いないように思われる。もちろん、「苺」は当て字であろう。

『京都北山』(山と高原地図)を見て気づくのは、イチゴ谷の北に「ミゴ谷」「岩屋谷」
「久良谷」「滝谷」など、行場と結びつくような地名が目につくことである。「ミゴ」は「ミコ」と同じで「神子」「巫女」の意味、岩屋は籠もり所、久良は倉・蔵・座で岩場、御倉、御座などと結びつく。岩屋谷の洞穴の一の窟、二の窟、三の窟には、不動尊と役行者がまつってあり、昔は行者が住んでいたという記録が残る(『近畿の山』昭和48年、58~59頁)。久多は古い習俗が残る地域で、思古淵信仰、花笠踊りなどで知られている。

前掲『西脇の地名』の241頁には野村町②の小字図があり、市ゴ谷の南隣りには
「蔵谷」が見える(下図)。




前掲のように、長田天神町の隣りには
滝谷町がある。


ミゴ谷(ミコ谷)については、みこだに(みこがたに)と読む地名が、ミコ、神子、三子の表記を用いて、ミコガ谷、神子ケ谷、三子谷など、数多く見つけることができる(神戸市小字名集、兵庫県小字名集)。

『地名用語語源辞典』(東京堂出版、昭和58年)には次のようにある。「ミゴ」は「コ」の濁音化によるもので、「ミコ」と同じであろう。

みこ〔神子〕①神に奉仕する「巫女」によるか。②ミ(水)・コ(処)で「水のある所」の意のものもあるか。③御子神信仰による地名か。


従って、京都市左京区久多上の町の「イチゴ谷」と「ミゴ谷」はどちらも、「市子(巫女)」「神子」に由来する地名であろうと思われるのである。


(3)品谷峠の位置について

 京都市右京区京北地区と南丹市美山町の境界にある品谷山の南西にある品谷峠については、その場所が、国土地理院の地形図と現地とでは鞍部一つ分ずれているという話はずいぶん古くから知られ、登山者の間では、常識になっているが、どうして、国土地理院(Web地図)では、修正しようとしないのだろうか?


25000分の1地形図「中」(昭和46年測量、昭和47年11月30日発行)より
※品谷峠の位置が北東に鞍部ひとつ分だけずれている。電子地図でも同じ位置のままである(2014年8月現在)。
 なお、この地形図では、品谷峠から南側へ下るルートはすぐに谷へ降りずに迂回しながら緩やかに下るように描かれているが、電子地図では、すぐに谷を下るように描かれている(2014年8月現在)。


 そこで、文献資料とインターネット資料を携えて、国土地理院近畿地方測量部に行って確かめてきた(2014年8月18日)。

 結論を言うと、要するに、誰一人、国土地理院に対して、品谷峠の場所がずれているので訂正してほしいという要望を出したことがなかったらしいのである。応対にあたっていただいた近畿地方測量部のY氏によれば「平成26年9月以降に現地調査を行ったうえでGPSによって場所の確認がとれたら、正しい場所に表示するようにします」とのことだった。確認が行われた暁には、品谷峠の位置は、修正されることになるだろう(電子地図においてのみ。紙の地形図はもはや印刷される可能性は薄いが、地図会社の地図には反映されるようになるだろう)。

 それにしても、25000分の1地形図「中」(昭和46年測量、昭和47年11月30日発行)の刊行以来、1972年から2014年に至るまで、42年間にわたって、地形図の品谷峠の位置が、現地の峠の位置とずれたまま持続してきているという事実は、あきれるほかはない。(間違っていても、ガイドブックが訂正しているから困らないということもあったかもしれないが。)

 ガイドブックでは、品谷峠の位置が地形図とは違うという事実は、ずいぶん昔から指摘され、インターネットでは、現在でも、そのことを注意している記述が書き込まれている現状にある。紙の地形図が修正されることは見込みが薄いが、誰かが、この状況には終止符を打たねばなるまい。なお、品谷峠を越えて、品谷側の道については分け入る人が稀でインターネットでも歩いた人の情報がなく、現在では廃道に等しい状態であろう事が予測される。

北川裕久『ワンデルングガイドⅢ 京都北山』(岳洋社、昭和60年)151頁より


『京都北山』(アルペンガイド別巻、ヤマケイ登山地図帳)(山と渓谷社、1997年) ※正しい品谷峠ルートが表示されている。


 ちなみに、5万分の1地形図「知井村」のときには、品谷峠の名前こそ見られないが、峠道は本当の品谷峠を通過している(下図)。当時は峠道は重要な往来道として機能していたであろうから、道も頻繁に使われ、明瞭な道であったことだろう。
 もちろん、道が変化して、峠の位置が変わるということは現実に起こるので、旧道のルートでもって、現在の峠の位置を云々することはできないが、品谷峠の場合は、あまりにも長い期間、違う位置に表示されてしまったのではないだろうか。



 「品谷」の語源については、『地名用語語源辞典』(東京堂出版、昭和58年)の「しな①段丘。シナ(階)の意」で充分であろう。

 品谷峠の北西側の品谷は段丘状、階段状の地形をなしており、そのまま、地形を反映した谷名としてとらえることができよう。


(2014年12月31日追加)
 その後、明治26年当時の峠道を示す2万分1地形図「黒田村」(明治26年測図、明治28年製版・印刷・発行)を入手できたので紹介する。